「愛校精神がない国」がある

どこの学校を出たのか?を気にするのは,いがいと万国共通ではない.
ましてや「出たのか?」に,「中退」も含まれるのがわが国の特徴でもある.
だから,初対面で出身校の名前をきいても失礼なことだという認識がうすいひとがいる.
また,企業内でも,出身校ごとにまとまって,「派」をつくることもある.

以上は,「愛校精神」の表面上のあらわれでしかない.
しかし,たとえば,東京にある「学士会館」にいくと,学士とは旧帝大卒業者のことである,という定義に触れることができるから,なかなかの「選民(エリート)」意識にあふれている.

わたしは,「選民(エリート)」を否定しない.
しかし,「選民(エリート)」には,かならず「ノブレス・オブリージュ」がなければならない,と前に書いたとおりである.
また,学歴による身分社会をあたらしくつくったことも,前に書いたから,ここではくり返さないが,「学士会館」は,明治の価値観が戦後も残ったことのひとつであるにちがいない.

「価値観」となると,どちらが正しいのか?という選択は,たいへん難しい.
良い面もあるし,悪い面もあるだろうから,決めがたいのだ.
ただ,「価値観」をつくった「背景」をしることは大変重要なことだとおもう.
そういう意味で,日本における「愛校精神」の形成に,「身分」という要素があることをしっておきたい.それが,「学歴社会」の基礎をなしているからである.

注意したいのは,このときの「身分」が意味するものは,「大卒」という「学歴」を示すものではなく,まさに「社会的階級」を指すことだ.
華族も武士も,とっくに存在しない「平等社会」であるようにみえる日本だが,じつは深いところに「階級」としての「身分」がある.

だから,わが国は,最先端の近代資本主義社会のようでありながら,ほんとうは封建時代の価値観を色濃く残している国である.
近年激増した外国人観光客のおおくは,その構成をみればわかるように,アジア圏からの人びとで,ある意味ありがたいことに,表面ずらの(近代)日本,でいまは満足してくれている.

一方,そんなに構成上はおおくはない,欧米からの人びとは,深層の日本(文化),を識りたがっている.こちらも,伝統文化という側面での表面を識って満足しているようだが,ほんとうの「深層」に気がつくひとも,そろそろ現れることだろう.

もう30年以上前になるが,ホテルのフロントマンをしていたときで,築地市場の見学が外国人にブームになりかけていたころの話だ.
まだ暗い早朝にわざわざ出かけるひとが,ポツリポツリといた.ホテルのスタッフは皆,マグロの解体が珍しいからだと思っていた.

そこで,あるお客様に質問してみた.
築地市場のなにがそんなに興味があるのですか?
当然,マグロの解体,というこたえが返ってくとおもっていたら,「西側自由主義経済の国で,『公設市場』があるのが珍しいだけでなく,それが世界最大級であるから興味があるんだ」と.

ソ連・東欧圏は,まだ崩壊していない時代のはなしだ.
その,ソ連・東欧圏の社会主義体制が崩壊してなお,日本には「公設市場」があって,移転ばなしがかまびすしい.築地であろうが豊洲であろうが,職員は東京都の公務員である.
どこに移転するか?ではなく,公設市場がなぜ存在するのか?の議論がないことの不思議に,外国人観光客はとっくに気づいている.

社会主義の「平等原則」は,決定的な物資の不足を招いた.
国民に「平等」に「配分」するために,国家が「計画」しなければならないが,そんな計画はだれにも作れないからだ.その理由の大半は,「価格がない」ことにある.

「価格」というかたちで,需要と供給の均衡「情報」が伝わるから,「価格」を政府が決めたら,需要と供給の状態がわからなくなるのだ.
中学校でならう,こんな単純な「経済原則」を,70年も無視したら,貧困化するに決まっている.

東欧圏だったポーランドの大学は,いまだにすべて国立で授業料は無料である.
大学入学資格試験に合格すると,どこの大学にも無料で入学できる.
どこの大学も,基本的におなじカリキュラムでおなじレベルが原則だから,「大学を卒業する」ということの難易度も「平等」になっている.だから,だれも「どこの大学を出たか?」に興味がない.

これには,もう一つの条件がある.
それは,授業料が無料であるかわりに,一単位でも「不可」をとれば,即「放校処分」になることだ.それで,「卒業レベル」が「平等」になっているから,「どこの大学を出たか?」ではなく,「大学を出た」だけに絞られる.だから,「愛校精神」というウェットな感覚は育ちようがない.

入学者の20%ほどしか卒業できない.5人に1人である.
大学が「レジャーランド化」して久しい,わが国で,ポーランド式を実行するのはまず不可能だろう.

社会主義をやめたポーランドは,支配層以外,全国民の垂涎のまとだった「自由」を重視している.
だから,大学には「校章」はあっても,「校歌」などない.
入学式もない.スポーツや愛好会・同好会それに軍隊以外で,おなじ服を着ることもないし,昼食すらおなじ時間がない.
小学校だって,昼食のための休み時間がないから,給食もない.

「同じ釜の飯」という意味の「仲間意識」もない.
徹底的に「個人の自由」が優先されるのだ.
「学士会館」さえもないのは,かえって潔すぎるようにもおもえる.

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