なつかしい「メカ」の時代

いまはしらないが、むかしの自動車学校では「構造」という課目があった。
これに、「学科」と「技能」があったから、おおきく三課目あったのだ。

「構造」は、エンジンの構造からシャフトの構造、それから駆動の構造が基本で、これに電気系統の説明をうけた。
電気プラグが発火しなければ、ガソリンエンジンは動かない。
それで、冬場の朝の始動時に活躍する「チョーク」の操作方法もならった。

技能でとにかく慣れる必要があるのが、クラッチペダルの操作で、坂道発進の「半クラッチ」ができなくて、教習車を空ぶかししたり、エンストさせた経験はどなたにもあったはずだ。

いまはクラッチ操作を要するマニュアル車には、マニアしか乗らないだろうが、ヨーロッパでレンタカーを申し込むと、オートマ車のはずがマニュアル車しかないので難儀する。
慣れたころに返すことになるのが、やや心残りではある。

ディーゼルエンジンの乗用車はめずらしかったけど、ガソリンエンジンとのちがいぐらいはおしえてくれた。
電気プラグを必要とせず、燃料の圧縮によって自然発火させるディーゼルエンジンの構造の単純さは、それゆえ、より頑強さを要求するのだと。

まだまだ女性ドライバーがめずらしく、「構造」を苦手とする女性がおおかったのも、学校での「家庭科」が、男女別だったこともあるだろう。
男子は木工やら花壇やらラジオ製作やらと、いまでいう「DIY」を授業でやって、おなじ時間に女子は裁縫や料理をしていた。

「中卒」で就職するなごりもあったけれど、高校に進学しないで、裁縫学校にいった女子もいた。
当時、横浜には有名は洋裁学校があって、校名に「洋裁」とあったけど、校内には「和裁科」もあったのをしっている。

近所のおばさんがこの学校をでていて、「ほんとうは和裁のほうが専門なんだけど」といいながら、洋裁もずいぶんな数の主婦たちにおしえていた。そのなかのひとりが、わたしの母だった。
母はいつも「あのひとはあそこの洋裁学校出だからすごい腕前で、わたしなんかぜんぜんかなわない」といっていたから覚えている。

それでかとおもうが、小学生のとき、浴衣をつくってくれたのは、この「専門」の先生にならったにちがいない。
母親同士も仲がいい同級生たちと、浴衣で盆踊りや夏祭りの夜店にでかけたのは、きっと「集団指導」があったのだ。

だから、中学の同学年の女の子が数名、この学校にいくことが、なんだかうらやましくもあった。
きっと「すごい」着物やら洋服を、じぶんでつくれるようになるのだろう。

男子であるわたしのほうは、物好きなともだちと、彼の家の近所にあったちいさな材料屋さんで基盤のかけらと溶剤を買って、電気屋さんにもらったトランジスタや抵抗、コンデンサをハンダ付けして、ラジオをつくっていた。

自作のお風呂の水張りブザーは、それなりに便利だったのが自慢だ。

部品が「エレクトロニクス」でも、組立だから「メカ」同然。
小型の万力もあった自室が実験室になっていた。

生活のまわりに、メカがたくさんあったから、なにしろこれを「分解」するのがたのしいのである。
しかし、かならずもとに戻せない。
なので、商店街の電気屋さんにはずいぶんかよった。

大学にはいったころに、電気屋さんのおじさんが、うちの従業員になってくれるかと期待していたといわれたことがある。
冗談のようないいかただったが、もう、本心をたしかめるすべをうしなってしまった。

エレクトロニクスとメカニクスを合体させたのが「メカトロニクス」だけれども、このことばもあまり聴かなくなったのはどうしたことだろう。

工業のひとたちのなかにおさまっていて、そとに出てこなくなったのか?
サービス業のひとたちが、とてつもない恩恵をうけているのに、ぜんぜん他人事のままなのも解せない。

口ではじぶんたちが「最先端」をいくとはいうけれど、サービス業のひとたちは、そのどこが「最先端」なのかをいわない。
まさか「接客」という「接頭辞」を略しているだけではあるまい。

「接客最先端」に「最先端」をどうしたいのか?どうあってほしいのか?

ほんとうにかんがえているのだろうか?

宿の経営者が、「なぜか」をつけていうのが、客室のテレビやエアコンが同じ時期に一斉にこわれるから、出費がかさんでこまるという。
けれども、それが「日本品質」なのだ。

「品質」が「一定」でブレやバラツキがないから、一斉にあたらしく入れ替えたものが一斉に寿命をむかえる。
だから、経営として「予定」しなければならないのに、それをただ怠っているだけである。

「メカ」の時代からのメーカー努力が、いまだに理解できないのは、いったいどういう経営をしているのか?以前に、ユーザーとしておかしくないか?

どうして「年末」に、家庭の蛍光灯をぜんぶ交換するのか?
メーカーが、だいたい「一年」をもって寿命としているからである。
けれど、これをムリに伸ばすと「経済性が落ちる」ことも理由である。
それは、メーカーの手間という意味だけでなく、その分を負担するユーザーの「経済性」を考慮しているのだ。

切れるまで交換しないというのでは「目にわるい」。ひかりの波長に目に見えないノイズがはいるからだ。
いまどき、直管なら100均で買えるから、ちゃんと交換するのがユーザーにも合理的だ。

30年前の「餅つき器」が現役なのは、毎年末だけしかつかわないので、稼働したのがたったの30回だからではない。
空気には「酸素」という「酸」がふくまれていて、これが樹脂などの酸に弱い材料をかならず劣化させる。

それでも動いているのは、いまよりはるかに「良質」な材料をつかって、わざと「長持ち」という「品質」をつくっていたのである。
日本メーカーだとしても、中国工場だからわるいのではない。
むかしが、よすぎたのでもあり、いまは、「良質」より「コスト」を重視してつくっているから、やっぱり「わざと」である。

中国の安い人件費をもとめて工場移転したが、材料も安くした。
人件費が高くなった中国から別の国に移転するなら、こんどは浮いた分で高い材料をまかなえば、おどろきの「品質」で提供できることになるから、世界の消費者によいことだ。

はたして、ことしもサービス業界は、ほんとうにユーザーのことを第一としてかんがえ、行動することができるのか?
どんなサービスをつくるのか?

なんだか「オリンピック」「パラリンピック」がうらめしい。

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