アラブ人がもとめているもの

わたしがはじめて海外旅行をした先は、エジプトであった。
帰国後、ゆえあってそのエジプトで二年間ほど暮らすことになったのも、さいしょの旅行経験があってのことだったとおもう。
当時のカイロの喧噪が、急に懐かしくなった。

ときは、サダト大統領暗殺のあとで、ムバラク政権初期の「安定」した時代だった。

いまからすれば「観光立国」として絶対的人気がそれを裏づけていたから、外国人観光客が巻きこまれる「事件」といえば、スリか置き引きがほとんどだったが、たまに肌を露出した女性が襲われた。
しかし、「テロ」の恐怖は、この時期にはなかった。

日本をはじめとした「先進国」が、極度の「管理社会」ではないかとうたがうほどの「無秩序」にみえる「テキトーさ」がどこからくるのか?と問えば、かならずイスラム教のおしえにいきつくから、それはそれで筋がとおっていた。

なにしろ、憲法第一条でイスラム教を「国教」にさだめている国だ。
なので、役所の役人もイスラム教にしたがうのは当然だから、アラブの「I、B、M」の実用例をもっとも見聞きすることができるのが役所の窓口だった。

I:インシャラー:アッラーのおぼしめし⇒人間のせいではない
B:ボクラ:また明日⇒明日になればなんとかなる
M:マレーシュ:マ・アッラーフ・シュ⇒マ+~+シュで否定⇒ここにアッラーがいない⇒気にするな

外国人登録を自分でしに役所にいった。
職場ではエジプト人ボーイに代行させたらいいといわれたが、なにごとも経験が大切だ。

整列することができない国民性なので、窓口の人だかりが解消されることがない。
これは、映画にもなった1980年の大ベストセラー・サスペンス小説『針の目』で、作者の英国人ケン・フォレットが物語中「英国が支配したのにバスに乗るのにも列べない」と嘆いている。

 

待っていてもなんにもならないから、ひとを押しのけて役人に書類を提出し、受け取ればこっちのものである。どんなに時間がかかっても、順番どおりに処理してくれるはずだ。

ところが、3時の閉庁時間間近になっても呼ばれない。
どうしたかと、やっと人だかりが解消された窓口にいけば、「ボクラ」といわれた。ああそうですかとはいかないのは、ほんとうに明日の処理に回されるのではなく、「完全リセット」で申請からはじめないといけないからだ。

今日の未処理分の申請書類は廃棄される。
その理由は、「インシャラー」であり「マレーシュ」なのだ。
まことに便利な概念で、当人だけに都合がいいが、全員がこれをやるから「混沌」となる。
とはいえ、「郷に入っては郷に従う」のがルールだ。

しかたがないので、大声でさけびながら身もだえしたら、なんとかなった。こんなこと、日本の小劇団だってやらない演技だ。
まったくもって、「インシャラー」なのだ。
登録ができたと職場に帰って報告したら「まさか?たいしたもんだ」と、同僚のエジプト人にほめられた。

サダト暗殺の理由は、急速な「親米政策」だといわれている。
けれども、あとをついだムバラク政権も「親米」を貫いたのは、「親ソ」では国民が食えないからである。いま「親中」が進化しているのはこの点だからあなどれない。
それで、宿敵イスラエルと和平を結んだのが、のどに刺さった魚の骨のようなものだった。

ポーランドといえば「アウシュビッツ」が日本人観光客には目玉といわれていて、「人気」どころか「目的地」にもなっている。
ポーランド航空は、ワルシャワ=テルアビブ便をはじめとするイスラエル線を、地方空港からも飛ばしているのは、いまでもユダヤ人つながりが太いからである。

アウシュビッツに涙する日本人だが、これが「イスラエル」となると突如と無関心になる不思議があって、パレスチナの悲惨には反応しないのはどうしたわけか。

もしかしたら「複雑」をかんがえたくない、ということなのか?

あいかわらずアラブ人は「反米」をつらぬいているし、アラブと対峙するイランだって「反米」の権化となっている。
これに、敵の敵は味方という原理が作用するけど、「反米」で結束することがないのは、決定的に「宗教がちがう」からだ。

「スンニ派」と「シーア派」は、別の宗教だ。
日本の仏教における「派」とは、存立のレベルがことなる。

そんなわけで、われわれとも価値観がちがうのである。

戦後の日本人は、人類普遍の価値観を喪失し、経済的価値観だけで生きてきた。
アラブ人は、いまだに経済的価値観は二の次三の次なのである。

では、第一はなにかといえば、「自尊心」だ。
アラブ人の「自尊心」に、アメリカは無神経なちょっかいを出すからきらわれるのである。
それは、アメリカにも「自尊心」があるからである。

前にも書いた、アラブ人の自尊心がわかる映画『砂漠のライオン』の精神は、「実話」だからというだけでなく、本来は普遍的なものなのだ。

自尊心をなくせば、自由と民主主義も価値がなくなる。
自由と民主主義がなければ、経済的繁栄の価値どころか意味もなくなるのである。

こういう哲学を、アラブ人は一般人でももっていることを、われわれ日本人はしっていていい。

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