グラフ電卓の教科書がない

「学び」の世界は一生である。
つまり、「生涯教育」がうたわれてひさしいが、それに耐える教材の空白がある。

このブログでは、ずいぶん電卓をテーマにしてきた。
なかでも、日本の電卓で国内では見あたらない「教育用関数(グラフ)電卓」という分野では、アメリカ製にかなわない。
学校の授業で、電卓を使うか使わないかが分岐点だが、先進国で電卓を使わないのはわが国「だけ」だからだ。

なぜ使わないのか?
関係者にはさまざまな議論がある。
その関係者とは、「教育」があたまにつく。
お仲間うちでの「議論」になっていると、わたしのような「部外者」からはみえる。

その部外者からいわせれば、学校で電卓を使わないのは「予算」がつかないからだと以前書いた。
たくさん予算を要する「パソコン」なら予算がついて、しかも「プログラミング」が小学校で「必修」に決まった。

教育が「利権」になってしまったのだ。
ちなみに、もはや「日本製」のパソコンは存在しない。
だから、韓国で不買運動の対象になりえない。
そして、役人からみえる地味な電卓に、予算がつかない。

一方で、算数や数学の教育者たちの問題がある。
「おしえ方」というもっとも重要なノウハウが、ぜんぜん確立されていない。

「教育学部」という名称だけでは小学校の先生になれないから、文科省のHPで「教員免許がとれる大学」を検索しないといけないし、「専門」にわかれる中学・高校だって、教員の授業法についての詳細な指導はないから、なんと個人の資質として放置されている。

つまり、教師の「虎の巻」である「指導要領」が実行されればいい、という「雑さ」がある。
教育という「サービス産業分野」において、ここでも「品質管理」や「品質保証」という概念が希薄なのだ。

だから、自動的に「被害者」は児童・生徒になる。
あたりまえである。
「指導要領」が実行されればいい、というのは教師に対してのことであって、「顧客」である児童・生徒の「理解」を無視しているからである。

この「思想のちがい」が、「成果のちがい」をうみだすのは必然である。
「成果」については、もはや公教育に期待はできず、「学習塾」や「予備校」の専門分野になってしまった。

ところが、目立たないように日本にも天才教育機関があって、それが「高等専門学校(高専)」や、さいきんでは「バカロレア認定校」である。

バカロレア認定校では、国際バカロレアのカリキュラムと日本の学習指導要領の双方が「(生徒にとって)無理なく履修できる」ようになっている。
これは、教育界における「特区制度」である。

こうした学校で教育用電卓がつかわれるのは、「国際」というキーワードが実行されるからだし、「(生徒にとって)無理なく履修できる」ためである。

つまるところ、バカロレア認定校以外の「日本のふつうの学校」は、ぜんぜん国際水準になく、「(生徒に)無理『させて』履修『させている』」ことを自白しているのである。
だから、塾と予備校の需要が発生するのだ。

学校教育で、理系の教育が「技術立国」を支えることを否定するひとはいない。
ところが、その学校教育の水準が最初から国際水準になっていないのだ。

むかしの子どもはできたのに、いまはできないのは、日本人の子どもが退化したのか?
そうではなく、社会が進化して、学ぶことが増えたのである。
だからこそ、児童や生徒が「効率的」に吸収できる「工夫」が、教える側に要求されているだけなのだ。

その道具のひとつが教育用電卓なのである。

この道具をつかうメリットは、なんのための計算か?ということを先に識る(教える)ことができることだ。
説得ではなく、納得をうながすことは、学習意欲ということに多大な影響をおよぼすものだ。

さて、そんなわけで、文系のおやじが閑にかこつけて独自に数学の勉強でもやり直そうかと思いついたら、教育用電卓を購入するのも「おとな買い」の一種になる。

上記は正規輸入元の信頼できるルートで入手可能だが、ことしの夏に新製品が発売されているから、そちらを問い合わせるといいだろう。
ちなみに、機種名に「CAS(数式どおり)」が付いているものとそうでないものがあるのは、ついて「いない」ものを「試験持ち込み可」として区別したいからである。なので、おとなが個人購入するなら「CAS付」がいい。

これが電卓か?というほどのボタン数に一瞬ひるむが、世界最新かつアメリカでは「定番」の教育用電卓なのである。なお、上述のように本体下にある細かなボタンは文字入力用アルファベットなのだが、タイプライターのような配列にすると各種資格試験に持ち込み禁止となるため、わざと不便なABC順にするという「設計努力」がされている。アメリカにも「石頭」がいるということだ。

ようするに、アメリカ人の中高生は、これで理系の授業をうけている。
各種定理の計算結果が、たちまちグラフ表示されるだけでなく、グラフをつまんで動かすと数式が変化するのを見て確認できるのは、楽しいし「なぜ?」がうまれ、それを教師がフォローしている。

正規代理店から購入すれば、ちゃんとした日本語説明書はあるものの、操作方法に徹しているから、やり直し勉強しよう、と意気込んだものの、肝心の数学は、なにが説明されているかもわからない。
電卓としてこんな計算やグラフ化ができる、というのは、その計算をしたいひとには重要だが、これから学びたいひとにはレベルが高すぎる。

取扱説明書ではなく教科書がほしい。
アメリカは教科書検定制度がないので、教科書だってふつうの書籍同様の競争にさらされる。

選ぶのは読者(生徒)の評価であるから、わかりやすい、が最重要なのはいうまでもないが、先輩が後輩に勧める教科書がランキング発表されるのだ。
日本の学校で、先輩が後輩に勧める教科書ランキングなんてみたことがない。

教科書を執筆する先生も、生徒の理解しやすさを優先させるのは教育の目的に合致する。
それで、どの教科も、ぶ厚くなるのは説明に手抜きがない「懇切丁寧」をモットーとしているからである。

しらべたら、

 

をみつけた。
評価が高いのもうらやましい。
日本の受験参考書とはまったくちがうことに悔しさをおぼえるし、わが国にこのような教科書は存在しない。

わたしが興味深い国際バカロレア(IB)の「統計」なら、

があって、「紙」版もある。
生徒たちはこの教科書でどんなふうに「統計」を学ぶのだろう?

さては、日本語の教科書がほしいのだが、ないものねだりになっている。

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