ホースの巻き取りとハイビーム

師走に突入して,そろそろ大掃除のシーズンである.
わたしの住む集合住宅では,自治会総出による共用部の清掃という行事がある.
半年に一回,住民みんなで掃除をする.
ついでに,来年度の自治会役員候補の選出もするから,欠席裁判がいやなら参加する必要もある.

ここでみられる光景は,だれも指示するひとがいないから,人員のムダな動きと配置である.
各自おもいおもいに敷地内に散って,適当なエリアを担当することになる.
それで,しっかり手を動かすひとと,口ばかりが動くひとにわかれる.

しかし,直前に造園業者がはいって手入れした場所にも入り込むから,作業する意味が不明な場所もある.
そんなわけで,ムダに手間をかけるのもよしとされるのは,烏合の衆ならではでもある.
どのエリアを,誰がどうやって担当するかが事前情報として与えられないと,こうなる,わけだ.

水まき用のホースの片づけにみられる光景は,もっと愉快だ.
10mほどあるホースを器具に巻き取るのだが,かならず先端を持つものがいる.
ホース内部に水が残ると,保管倉庫にまで持っていくのにも重くなるが,倉庫で半年間の眠りにつくのだから,なかで水が腐ってホース内側を痛める.

だから,収納するときには内部の排水をしながら巻き取るのが,一般常識であろう.
ところが,手持ち無沙汰のひとが,なにかをしているふりをしようとして,余計な行動をする.
ホースの水を抜くための先端を,わざわざ持ち上げるのだ.
どうしたことか,中の水を巻き取られる側に追いやるのだ.

冗談かというとそうではなくて,本人はいたってまじめである.
それでも,巻き取っているひとは無言で,二度三度と手間をかけて水を出している.
すると,またまた別のひとたちがやってきて,何カ所もホースを持って,しかも高く,それで手伝っているとおもっている.

もしこれが夫婦のことなら,どちらかが一方をどなりつけるところだろうが,他人に優しい日本人はムダな手間を惜しまない根気ももっている.

水は高いところから低いところへ流れる.

この重力をもとにした大原則をしってか知らずか,おとながこぞってホースを持ち上げるのは,一体何故なのだろうか?
しかも,半年に一回のことで,かならず繰り返される光景だから,そもそも疑問におもっていないのだろう.

これを「無知」と断言していいのだろうか?
それともなんなのか?
透明なホースで,水のありかが見えればよいのか?ならば想像できないのか?
とにかく毎回,かならずお約束のこの光景を見るたびに,わたしの疑問も復活するのだ.

さいきんは,神奈川県公安委員会が,運転免許証の更新講習で,自動車のヘッドライトのハイビーム利用をさかんに指導している.
もちろん,講師は「対向車や先行車がいるときはつかわない」と言い添えているのだが,あくまでも「添え」ているから,本筋は「ハイビームの使用」である.

これで,擦り込まれてしまったひとは,なにがなんでもハイビームにしなければならない,と思い込むようだ.
それで,一瞬だが目がくらむことがずいぶんとある.

さらに,さいきんの新型車は,自動ビームになっているから,センサーまかせだ.
しかし,やはり,センサー技術の完成度をかんがえれば,人間の操作によるハイビームの方がはるかにおおいとかんがえる.

それに,新型車のライトにLEDがつかわれるようになって,まぶしさは過去のライトの比ではない.
しかし,自分がハイビームで,対向車もハイビームだと,光が交わってまぶしさが軽減されたようになるから,いっそう迷惑なハイビームに気がつかない可能性もある.

いったいどうして,公安委員会(=警察)がハイビームの使用を言い出したのかしらないが,余計なお世話である.
まさか,おおむかしの街灯もままならない時代につくった法律の条文をたてに,いまさら東京都の次の人口900万人越の神奈川県で,交代した自分で運転する必要のない警察官僚が命じたのではないか?

それにしても,ホースの排水ができないひとが,きっと常時ハイビームを使用しているのだろうとおもうと,妙に納得できるような気がする.

これも,人間の劣化なのかもしれない,とすると,怖いはなしである.
もちろん,ハイビームの使用を命じた警察官僚は,頭脳明晰で人間の劣化なんか想像もできないという貧弱な発想の持主のはずだ.

老齢化したから「劣化」なのだ,ということもかんがえられるが,はたしてそうなのか?
かんがえて行動してこなかった,という「習慣」ではないかとおもえば,ホースのはなしもハイビームの使用のはなしも,両者はつながる.
そして,かんがえて行動してこなかった一般人を,こころから軽蔑している警察官僚ともつながる.

そういう意味で,指示者がいなくて烏合の衆のようでも,各自がそれぞれかんがえて行動せざるをえない清掃は,きっと頭の体操にもなるのだろう.

すると,かならず週末に実施するこの行事に,親子で参加する姿をあまりみないことも,それなりの意味を感じる.
少数派とはいえ,生活空間の清掃を,子どもにも手伝わせるようにしているのは,立派な家庭教育である.

しかし,烏合の衆のようなおとなを見せるのは,もしかしたら世代間ギャップの拡大につながるかもしれない.
人類史上例をみない「『超』高齢化」社会に突入したわが国の「おとな」は,はたして子どもの手本になるという意識をもっているのか?と問えば,下を向くしかないか,子どものまま,ということを理想とする社会になったのだろうか?

ここに,高級官僚による支配の正当化の根拠がある.

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