円満ではない円満家庭

「ポスト『団塊の世代』」である、さいきんの家庭の特徴を「円満家庭」という。
べつのいいかたをすれば、「ゆるい家庭」のことである。
よくいわれる、「理想の親子関係は友達のような関係」に象徴されている。

ことし2月に亡くなった、堺屋太一氏の通産官僚時代の作品が、『油断』と『団塊の世代』の二作に代表される。
なぜか時代のおわりには、時代を作ってきたひとが世を去る。

『油断』には、通産官僚の通産官僚たる感覚が充満していたが、『団塊の世代』を打ちだしてから、急速に官僚臭が抜けていったのはなぜだろう?
『知価革命』にいたっては、とうとう官僚批判に転じた。
「知価」を発揮するべきは民間であって官界ではないから、当然の帰結でもある。

元官僚にして、その後官僚を敵にまわす戦後の嚆矢となるのは、経団連を経団連たらしめた石坂泰三である。
このことは、別稿にて論じたい。

さて、「団塊の世代」という世代のこまったことは、とにかくその巨大なボリュームにある。
60年代のおわりから70年代初頭にかけての「若者文化」とは、この大量に存在するひとたちの、ある種ステレオタイプ的な「文化」をいった。

いまの「若者文化」とぜんぜんちがう。
いまは、価値感の「発散」で、それぞれが好きなようにすることになって、進化ならぬ深化している。
しかし、当時は、画一的で巨大だったのだ。

しかし、人口に見られるこの巨大なかたまりは、毎年、年齢をかさねるから、その都度、巨大な市場として、つねに購買予定者の中心だった。
30代の子育て世代になれば、開発されたばかりの「紙おむつ」が、発達心理学からの批判のまとになったし、40代のマイホーム購入世代になれば、住宅展示場にひとがあふれた。

そうやって、いまや後期高齢者世代という仮面にかわって、最後の影響力を巨大なボリュームがあいかわらず発揮している。

じつは、この世代のもうひとつの特徴は、父権の喪失なのである。
世の中から、「父」の存在がうすれていく。
それは、「ジェンダー」ということばすらなく「ウーマンリブ」がさかんにいわれた世代でもあった。

そして、これに、もうひとつ上、以上の中高年世代を中心とした「主婦連」が、眉をひそめて対抗した時期でもあった。
彼女らは、主婦として主人をささえる存在であったし、「地震雷火事親父」が、当然だったのである。
その象徴が、「サザエさん」の「磯野波平」というキャラクターだ。

ヨーロッパにおける「父権の喪失」とは、キリスト教の影響力衰退を意味した。
「天にまします我らの『父』」が、軽視されるということだ。
ニーチェの『アンチクリスト』が、いかに衝撃だったことか。

わが国では、とくに「70年安保」の盛り上がりをうけて、左翼がファッション性をおびた。
そこで、わが国の「父」にあたる「天皇」が、「天皇『制』」という左翼用語にそまって、「アンチ天皇」もファッションになった。

そうなると、家庭から「父」の居場所がなくなる。
その「父」とは、「地震雷火事親父」の「親父」のことだから、「父」は急速に「やさしい『パパ』」に変容しなければ、あいてにされないのである。

もちろん、これには、女性の高学歴化と社会進出がセットになった背景にある。
高校、あるいは短大をでて、就職しても数年で「結婚退社」し、あとは専業主婦としてすごす、という人生が「典型的」でなくなったとき、「主人」という概念もきえた。

主婦を低単価の労働力として「活用」する、というのも政府の戦略だったしいまでもそうだから、年収に事実上の制限をもうけた税法をつくって、「産業優先」の体制維持をはかった。
いまは、これに高齢者がくわわって、賃金単価の低減に貢献している。

当初は主婦の短時間労働だった「パートタイム」が、正社員とかわらない時間数と業務における「低単価」だけがのこった。
それで、用語も「パート労働」となって、本来の意味に気づかないようにしている。

CMが世相を反映するのは、CMが訴求したい層が「世相」をつくるからだ。
さいきんのCMにおける家族に、ほぼ「父」はでてこない。
もし「父役」の俳優が起用されていても、家事をする姿が印象づけられるようになっている。

これが、「円満家庭」なのだ。

しかし、この「ゆるい環境」では、秩序形成が困難になる。
「規範者」としての「権威」の喪失は、規範そのものの喪失を意味するからだ。
誤解のないように念のためくわえると、男が家事をしてはいけないといいたいのではない。

往年のアメリカNBCとCBSが放送していた『パパはなんでも知っている』が、「父」としてのギリギリの姿だったのは、ただしく「なんでも知っている」という「規範」があったからだ。

「規範を喪失した家庭」とは、いかなるものか?
円満になる基本要素を喪失したのだから、「不和」になることまちがいない。

これを政府が「家庭不和」の撲滅を命令したいからと、まさかの「令和」ではあるまいが、ことごとく個人の生活に介入したがる政府(地方自治体もふくむ)には、注意がひつようだ。

現代という時代はあたらしい「規範」を要求している。
伝統的な社会規範だった、「教育勅語」の完全否定を表明しているのは、現政権もおなじだ。
念のため現代語訳をネットで検索すれば、そこになにが書かれているかより、なにが完全否定の対象なのか?をかんがえさせられるにちがいない。

「狆惟ウニ」と、当時の国家元首にして大元帥のことばとしての「命令」だからいけない、というなら、おなじくその解答を現代の政府にもとめてはならない。

ちなみに、わが国の教育機関で教育勅語を設立理念や教育方針にしている学校は一校もないが、台湾にはある。

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