官営カジノ失敗の予感

どこにつくるのかまだ決まっていないが、「制度」だけは先行している。
1日、カジノで儲けたひとの課税逃れをさけるため、事業者に外国人客にも「源泉徴収」をさせるというニュースがきた。

日本の「官僚」が、かくも劣化してとはおどろきだ。
いまになって競馬などの「官営ギャンブル」と、すりあわせをしたのだろう。

入場に身分証の提示をもとめるのだから、カジノの敷地内は関(イミグレーション)外の「租界」であるとすれば、「免税地域」という「特区」になぜしないのか?しかも、入場料も徴収する。

もっとも近い「マカオ」とどう競合するのかをかんがえないのは、マーケット意識ゼロの「徴税役人」こそである。
わが国でもっとも「優秀」とされる法学部出が、こぞってなるのが「徴税役人」だから、かれらからみたら、一兆円もの大金を外国から投じる者が「バカ」にみえることだろう。

ましてや、そのうち社会問題になること必至の、大負けしたひとからの容赦ない「取り立て」も、人生をたかだか博打で棒に振る「愚か者」の自己責任にしかみえないはずだ。

大学で、じぶんより成績がわるかった同級生たちがなる「弁護士」に、「金利過払い金問題」でビジネスをつくってあげたが、まもなく時間切れになるから、カジノの取り立てというあたらしいビジネスをつくってあげるのは「友情」だけではない「憐愍」だろう。

それでいて、国と立地のある自治体とで、収益の3割を折半して、濡れ手に粟の不労所得をえようという魂胆で、カネの行き先は、国会に報告義務のない「特別会計」になっている。
どんな「豪遊」を目論んでいるのだろうか?

もちろん、カジノ会社の法人税だって、ふつうに徴収することになるのは「事業会社」として当然だ。
これが「二重課税」にならないのは、ヤクザも青くなる「ショバ代」徴収を合法として「着服」するからである。

どの自治体も、住民の「反対」を無視して誘致に走るのは、こんな天からお金が降ってくる「事業」は、かつてなかったからである。
それで、住民がどうなろうが、役所の予算が潤沢なら「ばら撒いてやる」からありがたくおもえ、と幕藩体制でもかんがえなかった発想をしている。

そもそも「経済特区(略して「特区」)」とは、中国の改革開放政策にあたって、ときの最高指導者、鄧小平が推進したものだ。
つまり、国中が「共産体制下」にあってにっちもさっちもいかない、ガチガチの統治制度だらけだから、特別に風穴をあけて、自由経済地域として「指定」したのである。

これはうまいやりかただと、日本でもまねっこしてはじめたのは、日本もおなじ「共産体制下」になっていたからである。
べつのいい方で「官僚社会主義体制」とマイルドにいいかえているのは「文学」センスである。

きっと、政府の「カジノ調査団」は、世界各地のカジノをあるいて、じっさいにいくらすったのかしらないが、大勝ちしなかったもんだから、大勝ちしたひとから「徴税する」と発想できるのだろう。

すると、カジノでのチップ代は領収書がもらえないので、官房機密費があてられたことだろう。
ならば、少額でも勝ったなら国庫に返還すべきだが、そんな細かいことをされたらこんどは「入金」が面倒だから、じぶんの財布にいれたはずでもある。

豪勢な建物や奇抜な運送手段(候補地の横浜では、港にロープウェイをかけるそうである)などを用意して、キラキラなエリアを演出したい。
そのために、はたまた税金を投入するというのは、カジノ投資者からしたら、笑っちゃうほどに脳が溶けているとおもうだろうから、きっとじぶんの脚をつねってこらえているはずである。

国民資産をひろく吸い取るためにやってくるひとたちを、国民資産をつかって歓迎するとは、ほとんど「原始人」である。

そんななか、先月29日(一昨日)、北海道知事が候補地で初の誘致断念を決めたのは、理由はどうあれ「まずまず」であろう。

さいきんはやりの野崎まど作『バビロン』には、神奈川県に第二の首都になる「地域」という意味で、「新域」というエリアがでてくる。
相模原市、八王子市、町田市などの、「神奈川県内」にまっさらな「特区」ができて、そこに日本国内のさらなる「国内」ができたという想定だ。

  

コミック版、さらに、現在放送中のアニメ版がある。
作品自体「有害小説」という分野になるとの評価があるのは、子どもには刺激が強すぎるし、大人にもあわないひとがいるからだろう。
ましてや、どうやら「3巻」で完結しないらしい。

ちなみに、八王子市、町田市をふくむ「三多摩(北多摩郡、南多摩郡、西多摩郡)」は、1893(明治26)年3月31日まで「神奈川県」だった。

注目の一点は「新域」という発想である。
従来からの規制のなにもかもを取り除いてしまう。
選挙制度も、選挙権、被選挙権ともに「規制」がないから、小学生だって投票も立候補もできる。
乳幼児がいれば、親が二票以上を握っていることを「許す」のである。

ほんらい、カジノという「悪所」は、江戸の吉原がそうだったように、大門をくぐれば身分がひらたくなる特別な空間ですらあったのだから、幕府権力も及ばない場所だった。
それは、高度な「自治」があったからであったものを、1957(昭和32)年4月1日の「売春防止法」施行によって、1612年以来の灯が消えた。

約350年もつづいた「吉原」の最後の夜も、だれもが翌日に「廃止」されるとはおもえない盛況だったという。
しかし、翌晩は、全店閉店のあっとおどろく「消沈」だった。
かくも国家権力がおよぶと、「自由」がなくなるのである。

新吉原女子保険組合が編纂した『明るい谷間』(1973年、土曜美術社)は、1952(昭和27)年刊の翻刻で、当時の「遊女」たちによる「文集」である。
その中身の「文学性」の高さには、おどろくばかりである。
永井荷風を代表するように、「客」に「教養」があったからである。

現代のカジノは、開業する前から役人たちが「消沈」させているのは、はたしてなんのためなのか?
当の本人も気づいていないことだろう。

もちろん、「客」に「教養」も必要ない。
ただ、客のカネを吸い取るマシンなのである。

政治が死ぬと、こうなる。

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