日本の「魚食」の危機と黒船

この国では体積の単位「リットル」が,国際ルールの「L」ではなく「ℓ」か「l」がつかわれているのが不思議だと先日書いた.
はたして,日本国憲法98条は「日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。」とあるから,いかがなものか?と突っかかりたくなる.

しかし,たとえば1949年のジュネーブ4条約では,条約条文に国民への教育・普及義務が課せられているが,わが国では防衛省のHPに掲載あるのみである.
この一連の条約の3つめは「捕虜」に関するルールだから,「知らないまま」だと本人の命にかかわる.

HPに掲載していることをもって,教育・普及義務を果たしている,というのは強弁にならないか?
スイスの教育・普及の実態は,以前も書いたが邦訳されている.

このように,あんがい日本政府は国際的な取り決めを守っていない.
これが,「ブラック・ジャパン」のすがたなのだ.
これをマスコミも報道しないから,国民は蚊帳の外にいる.だから,われわれは,知らないうちにかごの鳥になっている.

「優しい政府」が守ってやるから,「余計なことは,国民に知らせる必要はない」という時代錯誤のパターナリズムが,「ブラック・ジャパン」をつくっている.
「わたしたちは平和国家で,なにも悪いことはしていません」と,メフィスト・フェレスは叫ぶ.
そして,日本人は政府から保護される「羊の群れ」に落ちぶれて,目が覚めない.

いよいよ開催まで2年を切った東京オリンピックだが,この大イベントにも引き継がれているルールがある.それが「持続可能」というキーワードに象徴される「食」にまつわるかんがえ方である.
東京オリンピック組織委員会は,国際基準から「実質離脱」した内容の「食糧調達基準」を発表した。

とくに顕著なのが,水産物資源の漁業分野,つまりは「魚」である.
ずいぶん前から指摘されていて,このブログでも書いたが,略奪的な漁業からぜんぜん卒業できていないわが国は,とっくに水産資源の「持続『不』可能」な状況におちいっているのだ.

喫煙状況を「オリンピックで来日する外国人に恥ずかしくない」ようにと,禁煙が叫ばれていながら,島国の海洋国家である日本が,漁業では掠奪国家だと自白せざるをえなくなってしまった.
おなじ島国の英国は,ロンドンオリンピックで100%の達成をやりとげている.

その英国はEUからの離脱をはかり,日本は「持続性」から離脱する.
英国は国民の意志として離脱をきめた.
日本の離脱は,国民の意志なのだろうか?政府依存で,とんでもないことになったのではないか?

日本以外の「先進国」では,消費者をして「持続可能」が強く支持されているから,乱獲はもはやありえず,科学的な管理漁業が常識として推進されている.
わが国の消費者が,「いいものを安く」と要求するのとは一線も二線もことなる.これはもはや70年代の価値観であろう.

ところが,よくよくかんがえると,「持続可能」ということの背景には,「子孫への確実な継続」という思想があるのだ.
いま,この時代を生きるものだけがいい思いをして,それを子孫に引き継ぐことができなくても別にいいではないか,という刹那主義ではない.

わたしたちがふつうに食べている食料を,末永く未来にも引き継ぎたい.
未来のひとたちにも,ふつうに食べることができるようにしておきたい.
そのために,今できることを確実に実行しておく.
これは,「保守主義」の真髄思想である.

「保守主義」とは,駅伝競走のように,過去から現代がバトンを預かり,預かった現代人がそれを磨いてよりよいものにして未来に引き渡す,これを,永遠に繰り返すことを信条とする.
ただ,かたくなに「保守」するだけなら,それは「伝統主義」として区別しなければならない.
「伝統工芸品」が,その時代ごとにアバンギャルドであったからいまに生き残り,さらに現代生活にマッチングさせようと努力する姿も「保守主義」を追求しているのだ.

北欧からはじまった漁業先進国は,漁業における「オリンピック方式」という,早い者勝ちの漁獲方法をやめて,「個別割当方式」を苦労して採用した.
苦労したのは,北欧だって,だれもが割当をおおく欲しがったからである.
済んでみれば,漁業者も納得の方式におちついた.自分の割当量が決まっているから,無理して漁にでなくてよいし,漁船のシェアまでできるから生産性まで向上した.それで,漁業が成長産業になったのである.

最初の取り組みは,水産資源をしらべる機関を政府から独立させて,なお,研究成果を第三者が監視できるようにしたことだったという.そして,この費用を消費者が負担している.
なるほど,日本の研究機構は水産庁の予算に完全依存しているから,政府の好む数字をつくる機関になった.
科学が政府に依存するとでてくる,ルイセンコ化という悪夢である.

このまま放置すれば,いまの少年少女たちが中年になるころには,国内で獲れた魚を口にできなくなっているかもしれない.
すでに,サンマが,イワシが,そしてサバがあやしくなっているし,居酒屋で定番だったホッケ焼きをみなくなった.

もう忘却のかなたになったのが,ニシンだろう.
なかにし礼の傑作,「石狩挽歌」は1975年.
この唄の光景だけでなく,唄自体が風化の危機にある.若いひとにはわかるまい.

獲れるだけ獲る.その野蛮さがダイナミックな曲とマッチした.
そして,無計画の無残をなにもかんがえずくり返した結果の荒涼と脱力.
いま,地元は観光資源「ニシン御殿」の保存に汲汲としていることだろう.
観光地としての掠奪もくわわって,みごとな「挽歌」ができた.

この「挽歌」は全国の漁村に響き渡って,日本の漁業は典型的な衰退産業になっている.
おなじ地球で,かくも真逆な現象があらわれた.
絶好調の北欧諸国は,日本漁業を反面教師にしたと公言してはばからない.
「日本すごいだろ!」と外国人に自慢するのはやめた方がいい.

東京オリンピックにおける「日本の食」が,どのように外国から糾弾されるのか?
この「糾弾」こそが,黒船である.

黒船なくして改革なし.
日本人とは,かくも自己改革ができない民族である.
しかし,このさい黒船に依存するしかない.
さもなくば,ほんとうに将来,日本人は日本の魚を食べることが不可能になる.

少子化で人口減少の国は,とうとう,子孫への引き継ぎという思想まで減少させてしまった.
「そのうちなんとかなるだう♪」
絶望的な無責任を,先進国からの批難というお叱りでただしてもらいたい.

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