漁業従事者は15万人

150万人の間違いではないか?
そうではない.
農林水産省の「漁業労働力に関する統計」にある平成29年の数字である.

このうち,65歳以上は約6万人で,水産高校教員の減少からも若者の新規就業がほとんどないらしいから,あと10年もすると全部で10万人を割り込む可能性がある.
漁港の数は,ことしの4月1日現在で2,823あるので,単純に平均すれば漁港あたり53人の漁師しかいない.近い将来,立派な漁港があちこちで放置されることになるだろう.

農業はどうか?
おなじく,「農業労働力に関する統計」では,175万人である.
漁業従事者の12倍ほどになる.しかし,ぜんぜん安心できないのは,このうち65歳以上は120万人とあるから,あと10年もしたらとんでもないことになりそうだ.
新規就農者が毎年6万人ほどいるので,いくぶんマイルドではあるが減少は確実である.

このふたつの「統計」をみると,様式は似ているものの,漁業のほうには「新規就業者」欄がない.
これはまさしく仕事の「ムラ」である.
「農」にあつく「漁」に冷たいのが見てとれるが,行政サービスとしていかがなものか.

どちらにしても,食料生産の原材料を供給する分野での「衰退」が,もはや「危機」領域にあることを示しているが,はたして一般国民に危機感があるとはおもえない.
これもひとつの「国家依存」の結果ではないか.しかも,思考力をうしなった国民は,丸投げの政府依存をしているから,問題意識すらうすい.

農・漁業について簡単にいえば,「保護」の方法をまちがえた.これは、林業の悲惨もおなじだ.
例によって「日本式」というガラパゴス化が,補助金の分野にもあって,世界の潮流とは反対のことにこだわるのが日本政府なのだ.
つまり,時代の変化に適応できないままで,70年一日のごとく,戦後の食糧難時代への対応,が延々とつづいている.

これは,残念ながら事業に行き詰まった企業が辿った道とそっくりであるから,政府は政府の経営に失敗している.
漁業にしぼりこんでも,「日本人は日本近海の魚が食べられなくなる」という警告は,昭和時代というむかしにずいぶんと指摘されていた.

その警告が,ほとんどそのまま「的中」して,いよいよ滅亡の淵にまで追いつめられている.
証拠は,本稿タイトルのとおり漁業従事者の数にあらわれている.
北欧では漁業が成長産業だから,新規就労希望者がおおぜいいるのは,所得が高いからである.
日本では漁業が衰退産業だから,新規就労希望者がほとんどいないのは,所得が低いからである.

この違いの発生原因はなにか?
それは、水産資源についての思想の違いにある.
70年代(日本の昭和元禄時代),北欧で漁業にかかわる人たちだけでなく消費者も,水産物の捕獲と消費について危機感があったのは,日本で問題指摘された時期とおなじであった.

違うのは,「日本式」では将来たち行かなくなる,という認識を北欧のひとびとが結論づけたことである.漁業における「日本式」とは,漁場開発をしたら獲り尽くすという意味で,「掠奪式」ともいう.
そこで,「資源保護」という概念に,「持続可能」ということばも付けた.
北欧の消費者がこれに賛同したのは,未来の子孫にも資源をつなぎたいという想い(思想)からであった.

残念ながら日本の場合は,この「分岐点」をいまだに迎えておらず,消費者は強欲にもあいかわらず「安くて美味くて安心安全」をもとめてやまない.だから,獲れるだけ獲らないと間に合わない,ということになる.

すると,この連鎖を断ち切るための方策は「教育」であることがわかる.
世界のなかの「文明人」として,「持続可能」ということの意味をしらなければならない.
ところが,貧乏が蔓延すると,これをしったところで関係ない,とにかく安くて美味くて安心安全をよこせになってしまうはずだから,「教育」のチャンスにも時間がすくない.
旧約聖書の出エジプト記にあるようなはなしだから,キリスト教の北欧人には理解できたのだろう.

日本の漁業は,まさに自滅のシステムになっているのである.
「前資本」における「掠奪」が,どっしりと居座って日本国をおおっている.
野蛮な中国人ではなく,とっくに世界は野蛮な日本人を意識した.
「野蛮」とは,自分のことしかかんがえない態度をいう.堺屋太一の出世小説「油断」にでてくる,「消費者団体」の主張がこれだ.

排他的経済水域の「200海里」とは,日本の略奪的漁船を自国海域から追い出すためのルールであった.それで,当時は大騒ぎになったけど,これは掠奪ができなくなるという騒ぎだったのだ.
ところが,このルールのおかげで,日本は世界で6番目に広大な領域をもつ国になった.
「排他的」が許されるのは,自分の水域での資源保護が義務化されているからで,そのかわり他国を排除できるという理屈である.問題は,「資源保護」という概念が日本になかったことである.

なんと,いまでも日本は,国際ルールでの資源保護を事実上「やっていない」から,またまた国際ルールを無視している.
中国や韓国の「漁船」が,政治的行動ではなく,純粋に「漁」として日本の排他的経済水域に入らないのは,とっくにわが国漁師が「獲り尽くした」ので,なにもなく燃料代もでないからである.

資本主義の発想は,まさに「持続的」にいつまでも「儲ける」ことで,そのためにはいかに「付加価値」を高めるか?を労使ともに協働しておこなうことである.
日本人は,その「資本主義」を嫌うが,それはいつまでも「前資本」という「掠奪」や「詐欺」,それに「冒険」が前提の体制を好むからだろう.

こういう国に生きている,という自覚ぐらいは持っていい.

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