自由に考えろと自由にいうけれど

「自由勝手」を略して「自由」というから,「自由だけ」の「自由」がなんだかわからなくなる.
このブログで何度もふれているけれど,資本主義社会の「自由」とは,「自由放任」の自由ではなく,「他人から強制されない」自由をいう.つまり,「自己決定権」のことをさす.

だれにも強制されず自分で決めたのなら,その「結果責任」は自分にあるのは当然だ.
だれかに強制されて決めざるをえなかったのなら,その「結果責任」は「無効」判断されて消滅するのも当然だ.これをふつう「脅迫」や「詐欺」というからだ.
自分で決めた「結果」が,よくなかったから「結果責任」をとりたくないというのはわがままである.カジノのルーレットで負けたのに,チップを取られるのが嫌だというのにひとしい.

とにかく資本主義とは「悪いもの」と決めつけて信じているひとは,もはや「世界の常識」になった「新自由主義」を批判して,「自由放任」の「強欲資本主義」だと攻撃する.
これに日本国内ではだれも反論しないから,新自由主義は「いけないもの」と一般人は擦り込まれるが,自由放任を「明確に批判」しているのが「新自由主義」の立場であるから,大嘘もはなはだしい.これを「デマ」という.

こうした「デマ」を平然といってはばからないひとが,「結果責任」にも攻撃して,「冷酷だ」という.それで,発言者の自分は「心温かい善良な人間」だとうそぶくのは,悪魔の所業ではないか?
ほんとうの善良な人間なら,「決める前によくかんがえろ」と相手に注意するものだ.

いま,おおくの企業のトップは「自由にかんがえろ」と組織に「命令」している.
それで,うまくいかない理由がわからないから,「うちの社員の頭はかたい」と嘆くのだ.
こうした経営者は,創業者ではなく,新入社員から社内昇格してなったサラリーマン経営者におおくみられる.
つまり,「自社しか」しらないひとである.

その「自社」のもつ「文化性」が,はたらく人々を支配する.
だから,新入社員からその文化に「漫然」と浸ると,しらないうちにその文化に染まるのが人間である.
社会をしらない新卒新入社員に,企業ごとの独自文化にたいする免疫なぞあるはずもない.だから,しっかり心の奥まで染まってしまう.

よい文化ならそれでよいが,よくない文化なら変えなくてはならない.
しかし,サラリーマン経営者の心の奥まで染まってしまっているものを,なにがよくてなにがよくないかというのはすぐには区別することすらできない.
結局,面倒だから放置する.
こうして,めにはみえない「社内文化」の支配は温存され,新しく入社するひとびとの心を染める.

銀行支配の時代,銀行幹部が取引先企業の経営者に天下って,傾いた会社をみごと復活させ,「名経営者」ともてはやされたことがずいぶんあった.
彼らは,たいがいこの「企業文化」から手をつけて成果をだしたものだ.
外部からやってきたからこそ,よい文化とおかしな文化のちがいに気づいた.
そして、人間は心を持っていると識っていた.

これをみて安易な役人は,外部なら誰でもよいとして,社外取締役「制度」をつくった.
それより前に,金融検査マニュアルで「担保価値」の確保を命令された銀行経営者は,金融業とはいえ「質屋」になったから,以前とちがって「企業文化」の重要性をしらないひとでも銀行幹部になれた.

むしろ,検査マニュアルに「したがうだけでよい」とする目先の「合理主義者」しか高級幹部になれない.
そんな「質屋」が天下って,いまはやりの「経費削減」をやっている.
銀行出身「名経営者」絶滅の理由である.
「経費削減」で復活をとげた企業など存在しない.

これを,池井戸潤氏が「半沢直樹」シリーズに書いた.
「半沢直樹は実在しないが,彼と内部で敵対する人間ならいくらでも実在する」とは現職メガバンカーの本音である.
もちろん,そういう本人も自分が「半沢直樹」になれないと識っている.
企業文化がゆるさないからである.

人間心理の集合体が「文化」を形成するから,「企業文化」は怪物にも変身できる.
社会契約論で有名なジャン・ジャック・ルソーは,人間を「原子」の「アトム」として位置づけた.
社会のあらゆる関係から断ち切られた人間は,「アトム」になる.
手塚治虫の「鉄腕アトム」こそ,ルソーの理想的境地だろう.
つまり,人間のロボット化である.
手塚は共産党員だったから,わかりやすい.

これを,ヒトラーとスターリン,毛沢東が実践したのは偶然ではない.
この三人も,じゃんけんの「グー・チョキ・パー」のようで,バラバラな対立関係であった.
ほとんどおなじ思想背景だから,近親憎悪だったのだろう.

つまり,人間には「拡散」と「集約」という心の運動があって,アトムを拡散すればバラバラになるし,集約させれば一点集中になる.宇宙のビッグバンの前後のようなものだ.
上記の三人が意図した,アトムを拡散してバラバラにさせ,人間をロボット化したからこそ,全体主義が完成した.ハンナ・アレントの「全体主義の起源」に詳しい.
「総統」「書記長」「主席」以外,家族も友人もだれも信用できない社会にすればよい.

だから,社内文化のベクトルを「集約」方向に修正するのがただしい経営者の役割なのだが,これを「拡散」させる手もあることに注意が必要だ.
あんがいさいきんの大企業のオフィスでは,「拡散」があるのではないか?

東京丸の内の文化をあつかったCMで,飲み会に呼んでいない上司がやってきて「呼ばれてないけど(参加していい?)」に対して「呼んでいません」と手で制止する場面をどうかんがえるか?
部下がするから意味が深いが,不快になる心理もある.
これをCMとした制作意図は,「自由が主張できる文化の街」かもしれないが,それはルソーの「自由放任」の自由ではないか?

底知れぬ人間関係の断絶にともなう冷たさが,最新の都市の価値感だとすれば,無機質な新築ビルの街並みとあわせて,とうとうひとの心まで無機質をよしとするというのは,やはり不気味である.
日本を代表する不動産事業者のこうした価値感の表明は,日本という文明の終わりの始まりの絶望的な合図なのかもしれないとおもう.
これがわたしの「不快」の原因だろう.

自由に考えろと自由にいう経営者が,どちらを向いて言っているのか?
自由に考えた結果を,採用するかしないかにある.

はじめから採用する気がないなら,「文化」への意識がない.そんな思考の程度だから,本人は無責任ともおもっていないはずだ.
こんな企業は,将来経営問題が噴き出す可能性がある.

でてきた提案にいちゃもんを付けるだけも同様だが,あきらかに不信を組織に蔓延させるなら,「拡散」方向である.
もし,これに「恐怖」も付随させるなら,「君臨」を意図していることになるから,早期の転職を検討したい.かならず「破滅」が待っている泥船である.
長居は無用,逃げるが勝ち.

げに文化とはおそろしい.

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