ACPG 2018

「才能に関するアジア太平洋会議 2018」という.

わが国では,大正14年からはじまったNHKラジオ「子供の時間」が,才能あふれる子供を紹介した嚆矢であろう.国家が才能を宣伝し,国民が称えた時代だった.
「平等」が大好きな戦後の日本でも「天才」を紹介する番組はあったが,いまはみあたらくなったのは,みんな「平等」でなければならないからか.

「才能」が世の中をうごかす時代になって久しい.
わかりやすい例では,ビル・ゲイツやスティーブ・ジョブズがいて,なぜかアメリカ人がおおい.
これは,才能に「投資」する仕組みがあるからで,あいかわらずベンチャー企業に「実績」と「不動産担保」しか要求しない日本では,才能が学校で育っても社会が枯らしてしまう仕組みになっている.

日本で「才能」といえば,まっさきに芸術分野があげられる.子供からバイオリンやピアノなどの楽器演奏を中心にとらえる傾向があるが,科学技術分野においては希薄なのが不思議である.
その芸術分野でさえ,才能が海外流出してしまう.若き芸術家は,外国でキャリアをつんで有名にならないと日本でありがたがられないからだ.育てるコストを負担しないのは見る目がないからだろうから,ベンチャー企業に「実績」を要求する姿勢ににている.

表題のACPGは,ことしタイで開催された.
国際数学オリンピックで,タイはすでに日本の上位国になっている.
どの親も,自分の子どもの才能を伸ばす努力をするだろうが,日本の親がもつ熱意とはちがうレベルの熱意があるのだろう.それは,世界が才能によって動かされる時代だと識っているか識らないかのちがいにもみえる.

開催日程は1週間で,参加する各国の子どもたちは,この間,才能教育専門施設で「合宿」することになる.
この施設自体,宿泊棟は日本のビジネスホテル以上のスペックで,日中はワークショップが開催できる会場があるから,その規模は大きなものだ.

ここまでの施設と設備を整えているのは,「才能」の掘り起こしこそ,国家の繁栄につながるというかんがえがあるからだ.
これは、ふるい国家主義ではない.
才能の自由さを保障することが,才能の流出を阻止し,その才能が生みだす「価値」を,国民が享受できるという発想だ.だから,才能を国家が独占して囲い込むという発想とは真逆なのだ.

とにかく,多数の才能を育てることが重要になる.
わずかな天才だけを保護しようということではない.
社会のおおくの分野に才能が行き渡る.
これが現代の富の源泉なのである.

そのために,いかに難しいことをやさしく教えるか?
難しいことを平易な言葉に置き換えただけでは,やさしくなったとはいえない.
難しいことを興味と関心をもって,あいてに理解させる技術が必要なのだ.
だから,教える側の理解度が深く広くないと才能をのばす実践ができない.

たとえば,「スチュワート微分積分学」という教科書がある.日本語版は全部で三巻の大分冊だが,三巻目は未刊である.

監訳者の秋山仁先生によると,この本の執筆は「スチュワート教授」ひとりではなく,なんと各分野(医学,建築,経済...)の専門家が三百人も結集したという.
「謝辞」には,一貫性をもたせるための「査読者」が第8版だけで7人いるが,補助教材の査読者は39人もいる.第7版までの査読者として,173人の名前が掲載されている.
「査読」とは,内容の不備を指摘するためにある.それで,査読者と執筆者は激論をかわすという.

さらに,「補助教材の査読者」とあるように,この本には本文説明と連動したオンライン教材もあって,「紙」だけの情報でなり立ってはいない.
オンライン教材といっても,ウエッブ上のアドレスが変わってしまっては印刷教材として困るので,これを確定する作業もやっている.

日本における「◯◯学」の教科書が,本当にひとりか数人の共著であることをおもいだすとこれだけで執筆陣の規模がちがうが,ふつう教科書でオンライン補助教材など皆無であるから,それはまさに「雲泥の差」である.

このスチュワート教授の教科書は,世界のベストセラーというが,その理由は原著が「英語」であることのみならず,なによりも「わかりやすさ」にある.
つまり,執筆動機が「学生の理解ため」であって,これを愚直に追求している.

その動機=目的からみちびかれる,執筆戦略が,学生読者の脱落をふせぐために題材の「絞り込み」が意図されて,理解の発散をさせず,むしろ豊富な現実世界での「微分積分」の応用例を解説して,興味を枯らせない.これこそ、「選択と集中」である.
そのために,いろんな分野の専門家が参加しているから,この本自体が「大型プロジェクト」になっている.

つまり,執筆動機=目的=理念 ⇒ 執筆戦略 ⇒ 執筆陣の選定 ⇒ 執筆実務 ⇒ 査読 ⇒ 激論 ⇒ 修正 ⇒ 完成 ⇒ あるべき姿との比較 ⇒ 次版のコンセプト策定 というサイクルを繰り返して,いま「第8版」になったのだ.
スチュワート教授はすでにこの世にないが,この教科書は,これからも進化をつづけるのだろう.

これも,日本における「◯◯学」の教科書が陥りがちな,「いちどにたくさんの定義や概念の一方的説明」があったり,現代のテクノロジーをみとめない態度とは逆である.
すなわち,学生のための教科書ではなく,教科書「執筆者」であることの重視ともいえるのではないか.
主筆が亡くなってなお,新版がつづいてでるのは広辞苑や新明解といった辞書にみられるが,日本の「教科書」ではめったにないのではないかとおもう.

秋山仁先生によると,数学の能力は高校生までは日本人が上をいくが,大学卒業時にはアメリカの学生にはるか先まで追い越されるのが実態だ,という.
わかりやすく教える技術の差なのだろう.

書店の理系コーナーには,数学以外にもアメリカ人学者が書いた有名な「教科書」が,いずれも大分冊なボリュームで棚を飾っている.
日本人の大権威が書いた本は,薄くて難解な傾向があるのとはちがう.
上述した,執筆動機 ⇒ からはじまるサイクルの有無のちがいとしかおもえない.

ことしのACPGには,日本から「数名」の生徒が参加したという.
いずれもお茶の水女子大付属校の生徒だったらしい.
おおくのひとが隔離されて知らないうちに,区別された一部のひとたちの才能が伸びる夏休みを過ごしている.

それにしても「数名」とは.

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