「とんとん積み木」はどこへ?

おなじ手法で何度も欺されるのならば、ふつうに「知能を疑われ」ても文句はいえない。
本当に「知能が低い」なら、それは改善の期待ができないので、キッパリ諦めた方がいい。

こんな「状態」にあるのが、わが国における「保守(層)」になった。
成長時の食べ物がいけないのか?
もしや子供が好きな「ジャンク・フード」が、脳の発達を阻害するように作られているかもしれない。

伝統的な「煎餅」とか「団子」ではなく、様々な化学調味料からなる、「スナック菓子」とか、あの「ファストフード」が疑わしい。
もはや、過剰なカロリー摂取ではなく、ミネラル不足が深刻になったのは、『食品成分表』の過去とを比較すれば一目瞭然だ。

ちなみに、『日本食品標準成分表』は5年に一度、文部科学省科学技術・学術審議会資源調査分科会で作っている。
食べ物を司る「農林水産省」が自画自賛しないように、わざと別の省庁に作らせているのだろうか。

ならば、厚生労働省が「国民の健康」ということで浮かぶけど、どういうわけか「最下位の三流役所」である、文部科学省が作っている。
もしやこの作成以外に、国民の役に立つ仕事がないからかもしれない。
いざとなれば、審議会ごと他省庁に移管できるようにも見える。

それはそうと、「保守」である。
「保守」には、「保守思想」というものがあった。
発祥は、フランス革命を大批判した、エドマンド・バークで、その著『フランス革命の省察』は、歴史的名著とされている。

この理由も明確で、いわゆる、「啓蒙主義」によって生まれた「社会契約」という概念を、歴史的な観点(保守の目線)で「否定」したからである。
なお、西暦2000年に初めて「岩波文庫」になったけど、なんと「抄訳」という技で、全文完訳ではないのは、やっぱりこの本屋が「(人為による)社会契約」の側にいるからだろう。

しかしながら、岩波文庫をしてこれだから、わが国最高峰といわれる「学府」においてさえ、バークの思想を教えたという記録がないのは、正統に教えることができる教師がいないからである。
つまりわが国の国立有名学府で、社会科学系の学者は、みんな「社会契約」の側にいることを示している。

この偏りを、「偏食より悪い」として、文部科学省が是正することはない。

そんなわけだから、「保守」が「なんとなく」になるようにしかならない。
威勢がいいことを言ったりやったりすれば、こうした「保守」たちの「ガス抜き」ができるのである。

むかしは、ちゃんとした「保守論壇」があって、そこにはちゃんとした「論客」たちが、ちゃんとした「論陣」を張っていた。
それが、月刊誌で読めたものだった。
しかしながら、先に、出版社が社会契約派に攻略されてしまって、ちゃんとした論客たちが書いた原稿を発表する機会がなくなった。

わかりやすい例が、『諸君!』という雑誌で、かつては、「反体制」というほどに「右」だったのである。
しかし、廃刊になる随分前から、内容が変容し、読む価値を自ら捨てたのだった。

これは、「リーマン・ショック」にも似ていて、この会社が倒産する1年半以上も前から、「サブプライム問題」は業界内を震撼させていた。
はじめは「さざ波」だったものが、だんだんと業界人の「疑心暗鬼」を醸成して、「ポン」と跳ねたのが「あの日」になっただけである。

現代金融の同じ理論を学んで、同じ専門雑誌を読んで、同じ金融業界の仲間とだけつき合っているから、本当に優秀な一部のひとは、同じ手法で何度も騙せて稼いでいるのである。
これを、「知能のないひとたち」が、「新自由主義」とか「資本主義の終わり」とかという世迷い言をいって溜飲を下げているのである。

ところが、言葉が概念をうみだすので、もっと知能のないひとたちが真に受けてしまう。
そうやって、「あたかも」全体主義を望むようになるのだ。

自民党という「かつての保守政党」も、結党以来一回も「保守主義」を理論化してこなかった。
「イデオロギー政党ではない」という、およそ政党としてあり得ないことを「党是」とできたのは、支持する国民の知能が低いからだ。

悔しかったら勉強しなさい、と言ったのはサッチャー女史の言葉であった。
今さらだけど、日本で保守をいうならば、ちゃんと勉強して知能の低さを補わないといけない。

そういえば、「知育玩具」の典型だった、ブロック系のおもちゃも、今ではプラモデルのように「完成形」をもって、「部品化」させてしまった。
いろんな形のブロックをつないで、自分なりの形を作ることが「知育」だとしたら、ここにも「知能発達を貶める」ことがおこなわれている。

わが家にあった、「とんとん積み木」は、穴が開いている積み木に軸棒を小槌で叩いて入れて組み上げる、単純なおもちゃだったけど、軸棒より大きい穴があるものでは、貫通させて車輪にすることもできた。
抜けなくなった軸棒は、緑色の細い棒を入れて叩けば抜けたのだ。

三角からいろんな形の穴の開いたブロックを、そのまま積んでもいいけれど、軸棒で結合させたら、おいそれと倒れないし、倒れても形を維持していたものだ。

懐かしくなってネットで検索したら出てこない。
木材を扱うひとたちに、ぜひ復活させて作って欲しい。

これですこしは知能が上がれば、わが国の将来のためになるのである。

ウィルス退治の祈祷

必ず宗教には、「神秘性」があるものだ。
「神秘」とは、「人智を超えたところにあるもの」だから、「信じる」ということになる。
だから、宗教から神秘性がなくなれば、ただの「理屈」になってしまう。

古来、日本人が持っていた宗教には、「自然崇拝」になった「自然の神秘」があった。
このときいう、「自然」とは、「人智を超えたところにある」脅威をももたらすもので、いまある都会の「自然公園」の「自然」ではない。

「自然公園」の「自然」には、「放置」という意味が強いけど、ちゃんと人間が「整備」もしていて、歩きやすくなっている。
その人工的な道を歩いて、自然を観察する、ことが公園としての「設計」なのである。

それゆえに、日本庭園の「自然」は、完全に「人工」なのである。
例えば、ディズニー・シーのシンボル『プロメテウス火山』を観て、日本庭園とおなじ「自然」を感じるひとはいないだろう。
これを、「センスのちがい」というだけでいいのか?

センスではなく、「設計思想」がちがうのである。

最近になって、ヨーロッパでも個人宅に「日本庭園」を造園するひとが増えているのは、何故か?
単なる「日本趣味」なのか?
おそらく、「癒し」を求めるからである。

アルプスとスペインとか、あるいはバルカン半島の山地を除くと、ヨーロッパ大陸は概ね「平ら」なのである。
「平ら」なのに「森が深い」のだ。

例えば、アルデンヌの森とか、シュバルツバルトの森も、あるいは現存するヨーロッパ最大の原生林であるビャウォヴィエジャの森も、「平ら」なのである。
ビャウォヴィエジャの森には、ヨーロッパ・バイソンも棲息している。

ポーランド(ポーラ・ランドの「ポーラ」とは、「平ら」)の、いたるところにある「森」も、深いのに平らだから、たいへん危険な場所である。
迷い込むと出てこられない。
どこもかしこも、おなじ風景に見えるから記憶に頼れないのである。

『赤ずきんちゃん』とか、『ヘンゼルとグレーテル』の話の前提が、地面が平らなのに深い森があることだ。
これは、必ず「山」である日本人の感覚とは「真逆」である。
深い森に迷ったら、まずは「登る」原則が通じないのだ。

そんなわけで、「御山」という山岳信仰ができたのは頷ける。
いまでも、山には修験者たちがいる。
暖をとるためだったはずの「火」が、信仰と結びついたのが「お焚き上げ」の原点だろう。

これが、後にペルシャから伝来した人類最古の経典宗教「ゾロアスター教」と結合して、いよいよ「霊験あらたかな」ことになった。
そして、「祈祷」のための「行事」にもなった。
「火」が、「邪」を燃やして「清める」という信仰になったのである。

修験者たちが行う、お焚き上げでできた「炭」の上を、裸足になって踏みつけて「渡る」のも、「清め」られた場所に自らを投じて、自身の身体を清めているのである。

ふつうのひとがやったら、足の裏に大火傷する。
けれども、修験者たちがやればなんでもない。
これが、「信仰」がつくる「精神統一の霊験」なのだ。

伝教大師が伝えた「日本・天台宗」は、仏教諸派の「総合」であったから、「なんでもあり」なのである。
いわゆる、「鎌倉仏教」が比叡山発祥であるのはこのためだ。
だから、大元の天台宗から見たら、ぜんぶが「諸派」になる。

天台宗の住職の「お勤め」は、朝題目(「南無妙法蓮華経」)の夕念仏(「南無阿弥陀仏」)なのだ。

奈良の「南都六宗」がダメになったのは、政権による「保護」が、やっぱりいけなかった。
それでも、聖武天皇の「大仏建立」は、そもそもが「天然痘」流行による「社会不安」の対策だったのだ。

もちろん、当時は「疫病=邪気」であって、それが、「天然痘」だと知っていたわけでもない。
加えて、干ばつによって「飢饉」も発生していた。
だから、全国に国分寺と国分尼寺を造営して、大仏も、となれば、今様の「財政出動」をしたのである。

当然に、「大仏開眼供養」の大法要だって、「邪気」を取り除く目途があってのことである。
この「明快さ」が、今にない。
天平時代のひとたちを笑えないどころか、天平時代のひとたちから笑われることをやっている。

政府も然り、宗教界も然りなのだ。

もちろん、「マスコミ」も然りだが、昨日は産経新聞が、「コロナのデマ」を書いた特集記事を出していた。
「科学」からしたらあり得ない、といいたいのだろうけど、おそらく「歴史的笑止」となる記事だ。

「感染症」なら、その対策の最優先されるべき重要情報は、「感染経路遮断の方法」なのである。
しかし、これがいまだに「ない」から、「ワクチンが対策のすべて」になっている。

ところが、そのワクチンが効かないばかりか「毒らしい」のだ。
これを、「変異」というけど、「オリジナルの確定」がないままだ。

すなわち「邪気」なのである。
大々的な「法要」のチャンスだった、オリンピックをムダにしてしまったのも、科学的根拠なき無能の産物だ。

今日は、「国家の祈りの日」でもあるけれど、巷では「旧盆」の「施餓鬼法要」の日でもある。
年中行事で最大級の「法要」すら、「密になる」として二年連続中止の決定がされている。

ならば、天台宗も真言宗も、「密教」のカンバンを降ろしたがよかろう。

社内調査をしても不正が発見できない

日本を代表する有名企業の「不正」が絶えないばかりか、相次いで「発覚」している。
最近では、三菱電機の鉄道車両用エアコンの不正があたる。
こちらは、35年以上にわたっての不正で、専用の「検査済み」プログラムも開発していた。

また、サイバー攻撃による社員情報流出問題で、昨年には社長直轄の「情報セキュリティ統括室」を設置して一元的に対策を実施したという。
自動車大手による「完成検査不正」が相次いだのと同様に、「社内調査」を何度やっても「発覚しなかった」という症状が共通にある。

今回の三菱電機のケースでは、社内で不正が発覚した後に開催された「株主総会」でも、なんらの説明も「なく」、社長は取締役会でも報告しなかったが、「翌日」に発表して、社長を「辞任」している。

再任された翌日の辞任だから、このひとは社内で発覚してから株主総会までの間に、なにを決断したのか?と問えば、自身が「スケープゴート」になるということだったのだろう。
そうしなければならなかったのは、取締役に、元検事総長や元外務次官、元メガバンク頭取が顔を連ねているからでもあると妄想する。

つまり、「会社を守るため」という発想だ。

これは、どこかで「観た記憶がある論理」だ。
池井戸潤原作の『空飛ぶタイヤ』を思い出した。
名優、 國村隼が演じるところの「企業の責任者」が独白する「論理」が、同じなのである。

もちろん、このドラマの「元ネタ」は、三菱重工から分かれた三菱自動車が製造したトラックが脱輪して起きた、「横浜母子死傷事故」であって、「リコール隠し」という企業犯罪が背景にある。
ドラマと実話が食い違うのは、大団円となるドラマとはちがって、実話は「やりきれない」ことになっていることだ。

被害者の母子が生き返ることはないし、運送会社も廃業した。
それでも、三菱自動車は存在している。
三菱重工もジェット旅客機の開発に失敗して屋台骨が傾いたけど、そこから分かれた「三菱電機よお前もか」すら、もはや二番三番煎じになってしまった。

だから、「どうした三菱財閥」ということになっている。
もちろん、日本の製造業にわたっての「不祥事」なので、もっと広くて深いのである。

すると、本ブログ的解釈をすれば、「経営が下手」なひとたちが、「経営している」としか結論できない。
では、どうして経営が下手なのか?を問えば、「思想がちがう」からである。

その思想とはなにか?
「権威主義」で発想するからである。
では、どうして権威主義で「発想してしまう」のか?
そうやって、「育った」からだ。

それはいったい「いつから」なのか?
わたしは、「70年代の絶頂」にあるとかんがえている。
80年代はこれを維持できたけど、背骨が歪んでしまった症状が、90年代にバブルとして発症してからとうとう慢性化した。

例えば、どういうわけか「松下政経塾」出身の「政治家」で、まともな人材がひとりもいないから、このところ、「松下幸之助の失敗」とも陰口を叩かれている。
それなら、「本体」の松下電器改め、「パナソニック」はどうなのか?

とっくに、「幸之助」氏は「神棚」に祀られる「だけ」になっている。
この「だけ」には、「形式的」という意味しかない。
つまるところ、「幸之助氏の精神」が祀られているのでは「ない」のだ。

それで、この「だけ」を社員に強要するなら、即座に「権威主義」だといえる。
この環境に、勉学優等生たちが大挙して採用されるから、とうとう「権威主義」が「社是」になるのである。

そして、「社是」を社是として具現化した「テクニシャン」が、社内昇格して、「経営者」になる。
よって、歴代の経営者が、社是による経営を押し進めるほどに、権威主義「しか」ない組織になるのである。

このようなトップは、新入社員の「採用」にも、育成のための「研修」にも興味はない。
なぜなら、「テクニシャン」を採用、養成すれば、「自動的」に社業は発展すると発想するからである。

これを、「否定できない」のは、自身の社歴がその通りだからだ。

こうやって、わが国は「経済・幕藩体制」となった。
各企業が「藩・化」して、中央政府が「幕府・化」したからだ。
武士には、「家格と家禄」の二重相続が適用されたけど、「一代限り」というのがいまのルールである。

「日吉丸」からスタートして、「豊臣秀吉」になった人物のごとく、各藩では藩内競争を、職業人生をかけて強いられて「育つ」のだ。
これに、織田信長のごとき「御屋形さま」が、幕府のように存在して各藩にミッションを命じるのである。

しかして、藩化した企業も、幕府化した政府も、身分は入社・採用時の学歴と試験(科挙)で決まる。
よって、「中級以下」の藩士たちは、自分たちの「居心地の良い(安定した)世界」を企業内に作り出す。

だから、上級身分から命じられた「調査」を何度もやっても、「発覚」しないのだ。
すなわち、「横流し」が「組織のサブカルチャー」になって「定着・固定化」するのである。

企業人に、「哲学」が最優先かつ必須の理由なのである。
創業者が「儲け主義」の「財閥企業」には、なかなか「創業の精神」に戻れない、「弱点」があるのだけれど、「創業者」の立派な「創業の精神」を忘れる努力に勤しむの愚は「歴史なきアメリカのMBA」が蝕んでいるともいえる。

次は、どの業界のどの企業の不正が発覚するのだろうか?
他人事ではない、のである。

日本も訴訟社会になった

訴訟社会といえば、アメリカの文化である。
これは、建国の理由を含めて、あちらの国では「常識」になる必然である。
「権利」の主張こそが、「個人」の存在を際立てさせるからである。
逆にいえば、主張しない個人は埋もれてしまうか、隠棲しないといけない。

実に、野蛮な文化性であると見たのがわが国伝統価値からの常識だった。

ただし、すぐに「和を以て貴しとなす」を思い浮かべるけれども、ある意味で「泣き寝入り」も常識だったのである。
しかし、泣き寝入りができたのも、生まれ変わるという「輪廻転生」の仏教思想が常識だったからだ。

ところが、仏教思想を信じる日本人が小数派になって、「現世利益」を求めるのが多数派になったから、もう「泣き寝入り」が「正直者が馬鹿を見る」だけになって、ついでに「正直さ」という美徳をも「損」だとして一つも「利益」にならなくなった。

「嘘も方便」が、とうとう美徳にさえなったのは、バブル期の「拝金主義=金儲けしたが勝ち組」が生きているばかりか、社会に「蔓延」したからである。
ありもしない「ウィルスの蔓延」とは、このこと「だけ」を指している。

では、いつから「現世利益」の日本人になったかといえば、実は徳川家康が仕組んだ「仏教骨抜き政策」の、「檀家制度」にみられる、わざと仏教界を堕落させる方策だった。

要は、「保護」と称して、ひとの心をあやつる宗教の「棘と骨を抜く」ことで、政権維持を最高の目的としたのである。
東ローマ(ビザンツ)帝国の東方教会保護は、西ローマ帝国が滅亡してなお組織化で生き抜いたローマ・カトリック教会とは真逆の「堕落」をさせたのと同様だ。

坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、とか、坊主丸儲け、とかを江戸の庶民が言って、これが今も残るのは、「堕落が日本仏教の文化」にさえなったからである。
こうして、明治近代が用意されたとしたら、わが国がアジアで唯一近代化に成功した要因に、徳川家康の功績を認めなくてはならない。

これが、端から見たら「アメリカナイズ」された姿の原点なのである。
だから、表見的にも、アメリカ人のように野蛮になったのであって、そんな野蛮なアメリカに憧れるように仕向けられて育ったのが、戦後の日本人なのである。

これに、テレビや新聞・雑誌がおおいに貢献した。
わが国に「ドレス・コード」は絶滅したが、「プレス・コード」はいまでもあって、後生大事にされている。
NHKが国民の敵になった原因に、プレス・コードが憲法よりも上位に置かれていることがある。

しかして、このことが日本社会に深刻なのは、元から野蛮だったアメリカとはちがって、高き精神のところから低きところへ「墜ちた」ので、そのショックが、じっくりと社会に衝撃を与え、ついには破壊することになるのも必然なのである。

それが、「正義の相対化」である。

かつての日本人には、「正義は絶対」だったのだ。
堕落させられて自浄作用も失った仏教に変わって、近代化を目指す明治の元勲が発明したのが、「日本教」だった。
天皇をキリストにすり替えて、「絶対正義」を構築したのである。

これが、「廃仏毀釈」運動であり、「四民平等」の絶対的根拠だった。
天皇以外は、博士だろうが大臣だろうが、はたまた極貧であろうが、全員が同じ身分ということの論理なくして、対等な取り引きはできないから、資本主義になり得ない。

ゆえに、戦後の天皇への攻撃・否定論とは、正義の相対化による資本主義への攻撃にほかならない。
こうして、わが国の国力たる経済力が衰退してとどまるところを知らないのである。

よって、貧困化する国民の不満を醸成した「革命の下準備」が着々と進行しているのだ。
むやみやたらの「緊急事態宣言」による経済破壊工作とは、このことを指す。

正義が「崩れた」ゆえの、訴訟社会になったから、最初から訴訟社会の国と比べても、その害が大きくなるのは、振り幅が大きいからだ。
つまり、高き所から墜ちてマイナス側に「めり込んで」しまった。

いかに野蛮と言えども、アメリカ人の半分は「保守派」と日本語で表現される、「厳粛なプロテスタント(英国から逃避してきたひとたち)」である。
このひとたちが、「共和党・保守派」を形成していて、「RINO(Republican in name only:ライノ:名ばかり共和党員)」とは区別する。

ちなみに、RINOは、かつての「共和党・主流派」を指すようになった。これは、敬虔すぎるプロテスタントのトランプ氏による区別のおかげである。
最近では、「ネオコン」のブッシュ親子大統領を指すのだ。

戦争をビジネスと捉える、民主党とネオコン(新・保守)は、産軍複合体と合体している。

トランプ氏が各方面から嫌われ貶められる原因は、産軍複合体を「悪」として、この破壊を目論んだからだった。
なので、産軍複合体からタップリと現世利益を得てきたひとたちには、許しがたい存在となるのは当然なのだ。

また、国際的に見れば、産軍複合体の「完成形」が、共産主義国家なのである。
これが、トランプ時代の米中対立の思想的原因であって、トランプ氏が徹底的破壊を目指した原動力である。

そんなわけで、わが国を俯瞰すれば、「保守党」のはずだった自民党の堕落は、共和党・主流派=RINOに、日本的変容をした結果なのである。
そして、日本的・産軍複合体を「保守」することに重きをなす勢力と、アメリカ民主党的勢力の複合政党になってしまった。

だから、アメリカ共和党保守派が政権を奪取した折には、わが国にカウンターパートたる相手の不在に気がつくことになる。
この意味で、日本的RINOの安倍政権は、見事「欺瞞」に成功したといえる。

ところが、菅政権にそんな「欺瞞」ができる演技力もないから、アメリカ民主党政権の言いなりをやっていて、とうとう「自分を見失う」ところまでになってしまった。
「番頭」が主人になれなかった、現代の例となった。

国民=民間は、追いつめられてしまってたまらず、国家を相手に訴訟をするしかない状態になったのである。
「行政訴訟は勝てない」という過去の常識が、これからも保守されるのかどうなのか?

政治家を選ぶ愚民の堕落が裁判所にも伝染・影響しているなら、やっぱり「勝てない」から、もはや現代の「踏み絵」となっている。
これからの三連発の選挙(横浜市長選挙、自民党総裁選、衆議院議員選挙)が、未来の「分水嶺」となる。

そこで、ドラッカーの二冊。

 

「時間厳守」の老人たち

三つ子の魂百まで。

子供の時分から身体にたたき込まれると、すっかり老人になってもやめられない。
これをふつう、「習慣」という。
だから、幼少期から「習慣化させる」ことを、親なりが「習慣づける」という「訓練」をその子にするのである。

これを称して「躾(しつけ)」といったりもする。

その「習慣化」のあり方が、「民族文化」の源泉にもなる。
他民族にない独特の習慣は、そのまま「文化」と看做されるからである。
こうしたことは、なにも人間だけに限らない。
各種の動物も、「種」特有の習慣を持っている。

ただし、先天的なものは、「習性」とか「本能」といって、あとづけの習慣とは区別する。
この意味で、人間という動物にも「本能」はあるけれど、かなりの部分が生後からの訓練による習慣で一般生活をしているのだ。

「時間厳守」という習慣が我々日本人にいつからはじまったのか?
それには、「刻限」の共通認知が土台になる。
簡単に言えば、「お寺の鐘」だ。

今どきのハイテク寺院の「自動鐘つき機」が、電波時計とかクオーツ時計と連携しているようなことは、あり得ないから、やっぱり「だいたい」という共通の感性を土台にしていたはずである。

それもそのはずで、一日を24時間に等分した、明治6年からいまにつづく「定時法」ができるまでのわが国の時間の概念は、「一時(一刻)」の長さが、季節によって昼と夜とで異なっていたからである。
朝は日の出からではなく、白々とした頃からで、夜は他人の顔が見えなくなる「たそがれ(誰そ彼)」からだったのだ。

これは、いまだにイスラム世界にあって、「ラマダン(断食)」の時期には、日が明るいうちには「飲食」を禁じたけれど、「日が沈んでからは飲食できる」というルールになっている。
けれども、飲食開始の実際は、薄暗くて針に糸を通すことができなくなった瞬間をもってスタートするのである。

そんなわけだから、日本人がいまのような「時計」を見るようになったのは、明治6年をはじまりとする。
つまるところ、太陽太陰暦が明治5年で「終わった」のと、話は同じなのである。

ときに、「文明開化」の真っ盛りだ。
明治5年9月12日に、最初の鉄道(新橋・横浜)が正式開業した。
このときは、まだ現代の「定時法」による時間ではなかった。
なので「時刻表」は、いまと同じに読んではいけないはずである。

一気に産業も「富国強兵」の一環としての「殖産興業」が叫ばれたから、家内工業から大規模工場へと移行するにあたって、労働者を一律に訓練すべくできたのが、「学校制度」における「義務教育」だったのである。
ここで、「始業時刻」が「遅刻制」とともに全国にやってきた。

さらに、成績優秀者へは、「恩賜の時計」やら「金・銀」の時計を褒美とした渡したのは、集団をリードする上で欠かせないのが、「時計」だったからであろう。
成績が芳しくない凡人にも、「時間を計る」ことの重要さが印象づけされたともいえる。

こうして、幼少のみぎりから(学校に)遅刻したらバケツの水を持たされて廊下に立たされる、という「罰」が「教育」とされたのだった。
何故なら、社会に出て遅刻をしたら、もっとひどい目にあうこと確実だったからである。

すると、このときの「教育」とは、「習慣化」のことであるとわかる。

それが嵩じて、両親や教師からの命令に従う、ということも「習慣化」の対象になったのである。
これが、「従順なる労働者育成」という国家目的と合致した。
もちろん、「産業界」も支持するのは当然だ。

ときに、「タイムイズマネー」と言ったのは、伝統的アメリカ人がいまでも尊敬してやまない、建国の父のひとりでもある、「ベンジャミン・フランクリン」の名言だ。
夏休みの読書課題で、『フランクリン自伝』を読まされた記憶があるむきも多かろう。

フランクリンがいう「時は金なり」と、わが国伝統の「時間厳守」は、ニュアンスが大分異なる。
誤解をおそれずにいえば、フランクリンの発想は「経営者=事業主」のもので、わが国の方は「労働者=隷従すべきもの」なのである。

ちなみに、フランクリンの発想だと、労働者にも「時は金なり」は当てはまるから注意がいる。
彼からしたら、「労働者=個人事業主」といった発想があるからだ。
いかに効率よく自分の職場で稼ぐか?というかんがえだ。

すると、わが国の経営者がいう「時間厳守」は、およそフランクリンとはかけ離れた概念なのだ。
とにかく、決まった時間より「前」にいけばいい。
理由はかんがえない。

スーパーであろうが病院であろうが、時間厳守なのである。

ホテルでも、チェックアウト時間ピッタリに精算のためカウンターにやってくるのは、まず日本人ばかりなのだ。
外国人は、ホテルから連絡があるまで「粘る」か、超過料金を支払うことをためらわない。

骨髄反射の「時間厳守」とは、貧乏性の証なのであった。

嘘をついた国家の始末は?

「国家的犯罪」というのは、国家自体が反社会的組織になった、ということである。
では、その国家的犯罪の最たるものは何か?と問えば、「国民に向けて嘘をつくことだ」といえる。

この嘘も、国内だけのものと、国際的なものとに分けられる。
ヒトラーかナチスのヨーゼフ・ゲッベルスは、「嘘も百回いえば真実になる」とうそぶいた。

チャップリンが『殺人狂時代』で言ったのは、「一人を殺せば殺人だが、100万人を殺せば英雄になる」との名セリフだ。
これには「原典」があって、英国国教会のベイルビー・ポーテューズの言葉という。

もっと凄まじいことを実際に言ったのは、スターリンとナチス親衛隊の中佐で「ホロコースト」の責任者だったアイヒマンだ。
スターリンは、「ひとりの死は悲劇であるが、万人の死は統計でしかない」と言い、アイヒマンは、「百人の死は悲劇だが百万人の死は統計だ」と。

ナチスとソ連共産党の思想の類似性がハッキリわかる。
彼らが「やったこと」は、映画でのことではなく、現実のことだった。
おそらく、本気で「統計」でしかないと思っていたのだろう。
けれども、ほぼ同時期に、同じ思想で同じことをやっていたけど、決して「連携」はしていなかった。

いま、「グローバリズム」という同じ思想で、国際「連携」して、「統計」をもてあそんでいる。
それが、「PCR検査陽性=感染」という科学を装った非科学の「嘘」だ。
もちろん、「グローバリズム」とは、「(国際)共産主義」のことである。

共産主義者は、図らずも「科学的社会主義」とかという「嘘」を、「空想的社会主義」から「発展」させた。
なんの事はない、科学的社会主義とは、「空想の産物」なのである。
「科学的」とは、欺瞞の枕詞だということだ。

最近の人類史で、最初にして最大の「嘘」は、アメリカ合衆国民主党政権による。
「戦中」なら、彼らは、戦争を早期に終わらせるため、という嘘で、「ウラン型」と「プルトニウム型」の「型が異なる原爆」をわが国に投下して、本当は「最終実験」だったのに、「嘘の理由」を平気で言いふらす習性がある。

「戦後」になったら、「人道に対する罪」という新しい「罪」を作って、敵国の指導者を「リンチ」にかけたのを「裁判」と言った。
非戦闘員を大量虐殺した「人道に対する罪」を、自らかぶることは絶対にしない「罪」がある。

この「上塗り」が、『国際連合憲章』にまだある、「敵国条項」だ。
わが国も、統一ドイツも、どうしてこんな「欺瞞の組織」にくみしているのか?
早急に「脱退」すべきなのである。

図太く腹黒い白人国家たちが、東洋を貶め支配するために、国際連携をするはずだと、「国際連盟」ができる半世紀も前に「予想」したのは、幕末の英才「橋本左内」だった。

国連からの脱退は、WHOからの脱退にもなるから、わが国は「欺瞞製造機」である「PCR検査キット」から逃れることができる。
さすれば、「病気が雲散霧消する」のは確実だ。
「無症状感染者」という「欺瞞」がなくなるし、だれもメカニズムを確認していない「無症状感染者からの他人への感染」という「欺瞞」も消えるからである。

しかしながら、国家が一度国民についた嘘を、嘘と認めることができるのか?
この意味で、菅直人氏の「唯一無二の功績」は、薬害エイズ問題の謝罪と救済であった。

ただし、この人の発想と行動は、すべてが薄っぺらの「パフォーマンス」にすぎないから、「カイワレ問題」を作って、「いつものように土下座」するはめになったのである。
その「土下座」もパフォーマンスだから、日本人には珍しい「厚顔無恥」ではある。

「世界的」だと、やっぱり「アポロ計画」の嘘がある。

ソ連が「嘘だ」と国際的キャンペーンをやらなかったのは何故か?
アメリカに「無駄カネ」をたっぷり使わせて、疲弊させようという魂胆だったかもしれない。
それに、ケネディ暗殺がからむ可能性だってある。

圧倒的な科学技術力をもって、自由世界を支配するアメリカの目論見こそがアポロ計画の真髄だから、ケネディが本気で指令したのもわかるけど、もしや大統領にしてその「計画の欺瞞」をしらなかったかもしれない。
それで、これを、「曝露する」と大統領が言い出したら?

さてそれで、最近中国が月探査をやっているのは、アポロの痕跡が「ない」ことを調べに行っているのではないのか?
ただし、中国も「同じ轍」を踏んでいるのが、将来「有人計画」としているからである。

主に太陽風という「強烈な放射線」を、地磁気がつくる「バンアレン帯」によって地上に住む我々「生命」を防御している。
これを有人船が防いで「抜け」ても、こんどは空気のない月面にも容赦なく降り注いでいるから、「宇宙服」など役にはたたない。

あたかも、「放射線防護服」が、ぜんぜん放射線を防護なんてできないごとくだ。

そんなわけで、アメリカは中国に「嘘つき脅迫」される前に、「嘘だった」と言えるのか?が問われている。

でも民主党政権には、できっこない。

続きは「ニコニコ」で

アメリカで起業して、巨大企業に成長した「ビッグテック」とよばれるのは、「GAFA」に代表される4社をいう。
G:Google(企業名は「Alphabet Inc.」)
A:Amazon
F:Facebook
A:APPLE

そして、これら企業が「つるんで」言論統制に走ったから、アメリカ合衆国連邦法における特例措置の「通信品位法230条」が問題視されてきた。
すなわち、この条文によって、SNSが「プラットフォーム」として認定されたため、そこでの「投稿掲載に免責を与えた」ということだ。

これは、元々米軍が開発したインターネットの民間普及と活用における重要な優遇措置としてできたものだった。
1996年に成立した、という年代に注目すれば「思い出す」こともあるだろう。

雑誌『PCウォッチ』による、この年の「読者が選ぶ10大ニュース」では、2位に「インターネットブーム」がランクインしている。
1位は、「SIMMメモリの大暴落」であった。今主流のDIMMからすると、もはや中古市場で調達するしかない代物だけど。

なお、5位に「ニフティサーブがISDN同期64kbpsサービスを開始」があるから、当時の通信事情もわかる。
光通信が主流のいまどき、ISDNといわれても、マニアの中学生からバカにされそうだ。

このめまぐるしい動きの中で、巨大化し、デファクトスタンダード化した企業群が、同じ目的のために「言論統制」をやることの意味は、国家を超えた脅威を人類にもたらすこと、それはSF小説よりも確実で、とうとう現実になった。

これまで人類は、国家権力をいかにコントロールするかという問題に、「憲法」という概念をもって制御することにしていた。
憲法とは国民から国家・政府への命令書だから、民主国家であれば必然的に「最高法規」になった。

従って、憲法を守る義務があるのは国家・政府だけであるから、国民・民間企業には憲法を守る必然性はない。
つまり、例えば、「言論の自由を保障する」のは、国家・政府の仕事であって、民間には関係が無い。

つまり、「GAFA」の存在は、憲法すら「想定外」のことなのである。

そこで、これらの企業が政府と結託してサービスを提供する場合、それらの企業も「政府とみなす」という解釈でしか、「言論の自由の保障」を要求することができない。

例えば、わが国でいえば、韓国企業の「LINE」を多数の国民が利用していて、メールが廃れるほどにもなっているけど、これを理由に行政府が災害情報などをLINEを通じて住民に告知するなら、LINE側は利用者の投稿情報を勝手にイジってはならない、ということの根拠になる。

ちなみに、今、LINEが問題になっているのは、これとは別の利用者情報の吸い取りという「情報漏洩の疑い」のことである。

そんなわけで、「プラットフォーム」のはずが、実は「パブリッシャー(編集者)」だったし、もはや、これらの企業は「利用規約」という一方的なルールによって、正々堂々と情報統制をやってはばからなくなった。
それで、アメリカ本国の議会で問題になっている。

ところが、わが国の国会ではあまり問題になっていない。
アメリカという外国の既存ルールが、そのまま適応されているのである。
日本の政治家が口を揃えていう、「自由な言論の保障が民主主義の根幹である」がうそであることの証明になった。

しかし、バン(削除)されたひとたちは、別のプラットフォームへの移転を開始している。
アメリカの動画サイトであれば、「Rumble」ができたし、SNSであれば、「GETTR」だ。

日本では、「ニコニコ動画」へのシフトが盛んになってきている。
その意味で、既存の(エセ)プラットフォームは、単なる入口(ポータルサイト)になりはじめた。
「ここから先のつづきはニコニコで」ということで、勝手にバンされることもない。

さてそれで、先月30日、新型コロナワクチン特例承認取消を求め、大橋眞徳島大学名誉教授、中村篤史医師、本城隆志城陽市議会議員の三人が、国に対して、コロナワクチン特例承認の取消を求める訴えを東京地裁に起こした。

この中には、コロナウィルスの指定感染症の取り消しも含まれている。

もちろん、(エセ)プラットフォームでは当日の記者会見のもようもバンされる可能性があるから、こちらも「ニコニコ動画」にある。
それに、東京地裁記者クラブでの会見が妨害されたため、別会場になった経緯もある。

こうした妨害を実行したのが、記者クラブであるから、世界的に稀有な「記者クラブ制度」というものも、(エセ)ジャーナリストたちの利権団体だと白状した。

大橋眞名誉教授については、このブログでも何度か書いてきたが、この裁判については元衆議院議員の松田学氏の『松田政策研究所』動画で対談をやっている。

検索すればわかる、つづきはニコニコで。

「シン・ガリレオ裁判」が始まった

それでも地球は回っている。
「有罪判決」後にこう言い残したガリレオ・ガリレイは、カソリック教会の定める「天動説」を否定し、自らの観測による「地動説」を捨てはしなかった。

ガリレオの死後、350年後にあたる1992年に、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世は、ガリレオ裁判が誤りであったことを認め、ガリレオに謝罪した。

しかし、2003年には、かつての「異端審問官」にあたる大司教が、ガリレオを裁いた時の教皇は、ガリレオを迫害はしなかったと発言して物議を醸した。
ベネディクト16世が改めて「地動説を公式に認めた」のは2008年のことである。

92年の「謝罪」から16年の時間を経て、「地動説」が落ち着いたのではなくて、1633年の有罪判決から、375年かかっているのである。

これを、ふつう「宗教裁判」として評価して、「現代の裁判とは別」という見かたをするのは安易だといいたい。
何故なら、法の根拠となる「法理」そのものが、その時代の社会の常識を基に形成されるものだからである。

当時のローマ・カトリック教会が示したのは、社会の常識として捉えられたのである。
だから、現代法が教会にとり替わったからといって、その法理が社会の常識とかけ離れたものであれば、そもそも法として存在できないのは、民主主義であればなおさらである。

「民選」を経て議員となった者たちでつくる立法府の立法であることが、最大の法的根拠となる源泉だからである。
すなわち、「政府」という「行政府」が、勝手に立法してはならないことの根拠でもある。

また、立法府が立法した法についての厳密なる運用(行政)を監視するのが「司法府」の役割だから、もちろん、「司法府」が勝手に立法してはならない。
ただし、司法府の解釈は法についての意味合いを決定するから、立法府を牽制することになるのだ。

こうしたことを「三権分立」というけれど、なぜにこのようなまどろっこしいことをするのかといえば、それぞれの暴走を防止するためである。
つまり、「国家権力は性悪だ」という本質的な前提があるのだ。

ことに、民主主義は「ポピュリズム」に汚染される危険性がはじめから想定されている。
そのために、「三権分立」をさせておく。
要するに、面倒だけど「安全装置」をはじめから用意してあるということだ。

さて、7月30日に東京地裁に提訴された、「コロナワクチン特例承認取消」は、構造がガリレオ裁判に酷似しているのである。
原告は、科学的知見に基づいているのは当然で、被告の国は、法的には科学的知見に基づいた立法をしたけれど、行政は法の執行に瑕疵がある、と主張しているのである。

具体的には、流行している病気を「新型コロナウィルス感染症」と命名しながらも、予防接種法における「病原体を特定していない」ことを挙げている。

これは、「正しい法理」だ。
何故なら、新型コロナウィルスを「特定した」り、「分離した」事例が、いまだに世界でひとつも「確認されていない」からである。
つまり、「病原体を確認できていない」という科学的知見に基づいた、法になっている。

ここで注意したいのは、外国の事例と異なることだ。
欧米諸国をはじめ、多くの国は、WHOが示した病原体名「COVID-19」をそのまま適用しているのである。
しかし、わが国の科学的知見に基づく法理では、だれも特定も分離もしていない「COVID-19」を病原体として認めていないのである。

文明国家として、当然すぎることではあるが、ようやく気がついた外国人は「大規模デモ」で抗議している。

ちなみに、「COVID-19」の由来は、昨年1月に上海の研究グループがWHOに提出した1本の論文によっている。
世界は、この1本の論文しか根拠にないものを、科学的知見に基づく法理としたのであった。

もちろん、この論文の再現実験もできないのは、論文紙上にある「COVID-19」の情報は、すべて「ゲノム情報」として記述されている「だけ」だからである。つまり、「現物」がない。
すると、通常の論文のように「査読」に耐えられるのか?といえば、そうはいくまい。

となると、「COVID-19」とは何か?
「現物」がどこにもないのだから、今言われている「中国起源」とは、論文起源のことでしかない。
よって、ただの「幻」になってしまうのである。

「幻」を見つけたと騒ぐのが「PCR検査陽性」という、なにを検査しているのかわからない欺瞞だし、ましてや病原体が確認されていないのに「ワクチン」とは。

こんな「与太話」を、わが国は拒否して立法しているのだ。
にもかかわらず、国民の健康を司る政府は、法で拒否した「COVID-19=幻」をターゲットとした「ワクチン」を国民に接種するという。
これは、せっかく拒否した「予防接種法」の法理を超えた「暴走」である。

大筋では、以上のような主張で提訴された。

さて、それでは現代の「教会」は何者がこれにあたるのか?
第一に、このような重大な提訴を一切報道しない(世界の)マスコミだ。
少なくとも、外電が報道したという記事をわたしはまだ見ていない。

第二に、ワクチン大臣だ。
接種後の副反応で苦しむひとたちを、どうやって救済するのか?
死亡者がいる現実を「デマ」と言い放ったこの人は、議員引退では済まない責任をどうするのか?私財をもって、でも足りない。

そして、世界がまるごとひっくり返るような判決を出す勇気と根性が、わが国裁判官に残っているのか?
あたかも、「大津事件」の大審院のごとく。

最後に、もしや原告が敗訴したとき、どのくらいの年月で真実の謝罪が国家からあるものか?
100年後?200年後?はたまた500年後?

「シン・ガリレオ裁判」にならないことを、まずは祈念するばかりである。

大阪堂島コメ先物市場の終焉

大阪堂島のコメ先物市場とは、江戸時代の日本人が発明した世界初の「商品先物取引」の「場」であった。
この市場が最初に閉鎖されたのは、戦時中の統制経済下でのことであった。
それから、戦後になっても「食糧管理法」によって統制が続いた。

試験的に「復活」を認可したのは、民主党政権でのことだった。
現物を主体とする「農協(JA)」の反対がその背景にあるから、自民党政権に復活しても、「本格稼働」にはならず、この度「最後のチャンス」であった「申請」が認可されず、試験の「終焉」が決定した。

わが国の主食にあたる「コメ」が、統制経済下にいまだにある、ということがハッキリしただけでなく、それが「永遠につづく」ことが決定したのである。

この「決定」の主体は農林水産省である。
しかしながら、さしもの農林水産省をして、役所単独で「行政権」を行使したわけではない。
自民党の農林族が仕切る部会にて決定されたことに、農林水産省が「従った」ことになっている。

このあたりが、自民党という政党の非近代的な意思決定システムなのである。
部会⇒政調会⇒総務会、というはずの党の意志決定システムがどのようになっているのか?が不明確なのだ。

また、これをマスコミも報じない。

すると、あたかも民主党政権が正しかった、ということになるから、当時の民主党のひとたちはどんな「反発」をしているのかに興味が涌くが、これも伝わっていない。

もちろん、民主党政権のときの党内意思決定がどんな仕組みだったのか?はいまだによくわからない。
「アンチ自民」だけが理由だったのかもしれない。
さすれば、「ひょうたんから駒」である。

この件の一方で、大阪府と大阪市は、関西圏を「国際金融市場のセンター」にしようと画策している。
府と市の「アドバイザー」となった、SBIグループの北尾氏は、この決定に「無知蒙昧」といった強い表現で、自民党族議員たちを批判した。

話が複雑になるのは、大阪府も大阪市も、行政のトップは「維新の会」という全体主義政党の現党首と前党首だからだ。
現党首の吉村知事は、政治家になる前に「武富士盗聴事件」の弁護士だった。

それも、被告で有罪となった武井保雄前会長らの側の弁護士で、最初の当選時の記者会見で、勝訴した被害者への謝罪を問われ、これを拒否した「たま」である。
弁護士を続けるならまだしも、政治家となったらそうはいくまい。

これ以来、わたしは個人的にこの人を信用しない。

そんなわけだから、北尾氏の発言には棘があって、依頼主の側の府知事と市長にも「無知蒙昧」といったのではないかと妄想している。
全体主義政党が仕切っている、大阪が「国際金融市場」で成功するはずがないからだ。

ならば、どうしてこんな仕事を引き受けたのか?
それこそ、北尾氏本人が「無知蒙昧」といわれそうだが、おそらくその心は二つある。

一つは、どうせ誰かが就任するなら、自分がやって、そのまま自社のビジネスを拡大するチャンスとなす。
一つは、どうせ相手は「無知蒙昧」なのだから、うまいこと丸め込んで、適当に自民党の「無知蒙昧」と空中戦をやらせれば、もしや「経済特区」を認定するやもしれぬ。

そうしたら、返す刀で「堂島」も復活させることができるかもしれない。

日本の農業関係者は、ほとんどが「国内市場」しか見ていない。
ようやく「輸出」を意識しだしてはいるけれど、発想が「現物」なのは、JAと同じなのである。

なんのための「先物」か?と問えば、長期的な需要と供給の調整が、価格という情報を通じてできるからである。
今回、農水省はこれを、「投機」と認定したようである。
もちろん、その側面は否定できない。

しかし、先物市場がぜんぶ投機にはならないのは、あらゆる商品取引がこれを証明している。
大豆も小豆もトウモロコシも小麦も、みんな先物市場が存在している。
もっといえば、石油だってそうだ。

すると、どうして「コメ」はいけないのか?
いや、「コメだけ」がいけない理由は、主食の安定供給のためと、御用学者がどんなに詭弁を弄しようとも、パンと麺の材料の小麦の方がよほどの主食になっている。

単純に、農協を助けてこの秋の「票が欲しい」というだけなのだ。

ならば、消費者は、票を票で返してやればよい。
全国の農家より、消費者の数の方がはるかに多いのに、投票行動が変だから、「族議員たち」に白昼堂々裏切られても気づかない。
この間抜け具合が、「無知蒙昧」なのである。

東京が国際金融市場に「なれなかった」のは、潔癖症的な透明性確保という大義名分の規制と、これに連なる税制であった。
これは、「国」が定めたものだ。
だから、大阪がこのまま成功できる理由はどこにもない。

国際金融市場を知らない税務当局は、濡れ手に粟の税収を業腹に期待して、大コケしたことに反省などしてはいない「無知蒙昧」がある。
これを、大阪府と市の職員が、北尾氏から学ぶというのもなんだか「無知蒙昧」なのである。

ロンドンの「シティ」ですら、簡単に真似っこできないのは「文化」の分厚さが土台にあるからだ。

大やけどをする前に、せいぜい、二度目の万博でよしとしないか?

自由経済を停止させる自由政党

「日本的システム」とか、「日本版」とかという場合、比較対象になる「オリジナルと違う」ので、こうして区別する。
例えば、サッチャー時代の英国で行った、「金融ビッグバン」も、わが国では、しっかり「日本版ビッグバン」と呼んでいた。

あたかも、オリジナルからさらに「改良」されているように見せてはいるけど、そのほとんどが「エセ(偽物)」なのである。
これは、どうしてこういうことをやるのか?という目的や理念ではなくて、形式上(見た目)の体裁を整えることに主眼を置くからである。

しかも、「改良」してしまうのは、関係者である中での最大の当事者(=国民)を差し置いて、役所や役人に有利に改変する、という意味において「良し」とするから、どんどん歪む。
だから、「利権」だけはちゃんと確保した「改良型」になるのである。

この「露骨」ができるのは、議会(国会や地方議会)が死んでいるからである。
あるいは、国会や地方議会の「有力」議員たちが、しっかりとその「うまみ」の分け前を確保するから、役所や役人も悪びれることはない。

ここで重要なのは、目的合理性の目的が「利権確保」であるからで、世にいう「欧米に比べて遅れている」ということをいいたいのではないことだ。
むしろ、こうした「利権確保」の隠れ蓑として、「欧米に比べて遅れている」と、専門家にいわせる技をつかうのが常套手段となっている。

どうして専門家が「御用学者」になるかといえば、研究費を官僚が支配しているからである。
あたかも、個々の大学の学術的な、例えば教授会が仕切っているように見せても、また、大学(経営)当局の方でも、「国からの補助金」がなくては経営そのものが成りたたない。

研究費については、学術会議を含めた「権威あるひとたち」が、国家からの研究費の配分を牛耳っているから、そのひとたちに忖度しないと、研究室のやりくりができなくなるのだ。
つまりは、カネで支配されているのである。

このことは、国公立も私学も、ぜんぶまとめて「同じ構造」になっているし、理系・文系を問わない。
それゆえに、心と勇気ある研究者たちは、「文部科学省の廃止」を訴えている。

しかし、ここでも「自由経済」を標榜してきた政権政党が、その「利権」を優先させる誘惑に負けたのだった。
その意味で、「御用学者であらずば学者にあらず」という、まるで平家のような状態になっている。

研究職に進むというのは、ふつうの優秀さではない逸材を育てる、という意味もあったけど、学部在学中のなるべく早い時期に、『平家物語』を読んでおくことに意義が生まれた。

誰が「源氏の統領」で、誰が「後白河法皇」なのかを想像しながら読む、という「読み方」をしないといけないのだが、指導教授は決して指導してくれない分野だろう。
それが、指導教授の支配の構造に抵触するからである。

さてそれで、「この秋」には、二つの重要政治イベントが用意されている。
一つは、衆議院議員の任期切れにともなう選挙が、「確実」にあることだ。
もう一つが、おそらくその「前」となる、自民党の総裁選である。
こちらは、安倍晋三氏の残存任期を引き継いだことの任期切れなのである。

わが国戦後政治の「常軌」でいえば、自民党総裁=首相という「なんとなく」があったけど、河野洋平氏と谷垣禎一氏の二人は、「野党」という期間の総裁であったため、首相に就任せずに役割を終えたから、自民党総裁=首相というのは「幻想」になっている。

さらに源流をたどれば、吉田茂の自由党の系統を「保守本流」とし、鳩山一郎、岸信介、それに河野一郎の旧改進党・日本民主党の系統を「保守傍流」としたことが、「ねじれ」のはじまりであった。

にもかかわらず、この「ねじれた概念」を基盤にした、日本政界の話題が事欠かなかったのは、「文屋ジャーナリストたち」を「日本版ジャーナリズム」と自画自賛したからである。

もはや、「保守本流」も「保守傍流」も、「死語」となったのは、吉田をはじめたとした彼らの「孫たち」をみれば、まさに「一目瞭然」だ。
吉田茂⇒麻生太郎、鳩山一郎⇒鳩山由紀夫・邦夫、岸信介⇒安倍晋三、岸信夫、河野一郎⇒河野太郎。

このひとたちをみれば、「保守本流」さえ、「エセ」であることがわかるし、最初から「左派」を「保守合同」とした「うその言い回し」を基盤としている。
もはや、「保守」に頼ることは、ナンセンスだし、わが国における「保守派」なるものも「幻想」にすぎなかったのである。

「自由主義」と「全体主義」という構図こそが正確な区分なのである。

このことからすれば、自由民主党には自由主義が欠如しているので、自由がとれて「民主党」の文字しか残らない。
立憲民主党も、「立憲主義」の欠片もないから、「民主党」しか残らない。
こうして、どちらも民主党とくくれば、単なる「派閥」なのである。

すると、わが国に自由主義の国政政党は皆無となって、ぜんぶが「全体主義」の政党なのだとわかる。
これが、自由経済を停止させる自由政党の「素顔」なのであった。

「立秋」の今日から「秋」。
わが国の未来を位置づける、大選択の選挙がはじまる。
大看板の国政政党に投票しない、という勇気が国民に求められている。