「連合」は維持できるか?

【2021年メーデーにあたって】
日本労働組合総連合会を略して「連合」という。

いまさらせんないことではあるけど、わが国の労働運動には、悪い「思想」が入りすぎてしまった感がある。
もちろん、「労働組合」という組織のありようは、経営側と対峙することだから、仕方がないことではあるのだけれど。

「資本家」という概念が、新貴族的なのは、個人や特定家族による企業の所有から生まれた。
「株式」が、だれでも自由に購入できるようになると事情が変わるけど、その間の時間差があったのは、たしかなことである。

その意味で、占領軍がやった「財閥解体」の意味を、もっと日本の資本主義に応用できなかったものか?とかんがえると、ちょっと残念なのである。
当然だが、当初の狙いは「日本企業の弱体化」にあったはずではあるけれど、「合気道」のような「順手の技」をもっとくりだせば、会社と労働組合の関係も、ずいぶんちがった発展をしたのではないか?とおもうのである。

現状の連合をながめると、従来からの組織率やらの状況や、中小零細企業への普及では、残念ながら、という変わらぬ状況にあるだろう。
以前書いた、「36協定」のための「労働協約」も「従業員代表」すらない企業に、いまも依然として動きはない。

個々の企業の経営者も、「36協定」に詳しくはなく、ゆえに従業員も、従業員代表を選ぶことすら発想しないままでいられる。

これを、「日本的労働慣行」といっていいのか?

美しき伝統日本の労働慣行なら、以下の話に集約される。
幕末から明治初期にやってきた欧州人たちは、日本人女中の細やかな働きぶりに目を見張り、書斎の机に置いたままの小銭すら手をつけないことに驚愕していた。
旅先の宿では、チップを拒絶する理由が、お給金はちゃんといただいております、だったのだ。

小銭の例は、「盗まない」ということで、チップの例は経営者だって「サービス料」を請求していないときのはなしである。
この意味で、「盗まない」のは当然として、チップの例ではサービス料の「還元」が放置されている。

ところが、日本経済だけでなく世界経済が発展して、企業の事業分野がこの百年をみても専門化した。
そして、国内だけでなく国際競争にさらされるのがふつうになった分野と、国内競争だけとか、地域内競争で済んでしまう事業など、産業界はおどろくほど「まだら模様」になっている。

なので、むかしは発言に迫力があった「財界」も、いまではなんだかなぁになってしまったのだ。
なのに、「統合」すれば「強力」になると百年前の「常識」を勘違いして、財界も無理矢理統合したら、内部調整ができなくて発信力をうしなった。

これが、「連合」のカウンターパートたる「経団連」の無様だ。
いまだに「経団連」をよしとする経営者のレベルがしれるのである。
だから鏡のように写し出されて、統合された労働組合側も無様になった。

業界内の思惑が損得となってあらわれる。
ある業界にとっての得が、別の業界にとっての損になれば、働くひとたちの損得にも影響するのはとうぜんだ。

たとえば、電力業界がわかりやすい。
電気代が高くなっても構わない業界と、それではコスト増になる業界とでははなしがちがう。
産業構造がまだ単純だった百年前なら、経産省のような役所が差配できたろうけれど、もはや役所内だって担当部署間の対立をさけられない。

すなわち、ハイエクが予測したとおり、「自由主義」でしか調整ができないので、役所が変な介入(柔術的関節技)をすればするほど全体の効率は悪化する。
バブル崩壊以降、日本経済が衰退の一途を辿るのは、「反ハイエク」を一生懸命やってきた、みごとな「成果」なのである。

30年以上つづけてうまくいないのに、まだ気づかない。

これが、「教科書どおり」しかできない受験エリート集団の破滅的習性なのである。
ならば、受験エリート集団から遠いはずの労働組合がなぜ乗っかったままなのか?

ナショナル・センター(中央労働団体)をいいことに、組織指導者たちが受験エリート集団になっているにちがいない。
たとえば、連合のHPには堂々と、加盟組合員は約700万人とうたっている。

わが国の総労働人口は6000万人以上いる。
その1割しかいないのを自慢する神経。

経営者・労働組合指導部・役所が、三位一体「受験エリート集団」の、同じ発想で議論すれば、ふつうこれを「談合」というのである。
別のいいかたをすれば、「よきライバルがいない」のである。
経営者と労働者が切磋琢磨して、いかに「付加価値を増大させるか?」しか、労働条件の向上も企業の発展もないのに。

このことに最後まで気づかない習性は役人にあるのだけれど、その役人たちに労使双方が補助金をおねだりするから、これを堕落というのである。

労働者のためのちゃんとした労働運動・活動がない。
これも、わが国の不幸のひとつになっている。

連合は組織維持に汲々とせず、さっさと分裂して、組合の本分にたちもどるべきだし、政治ではなく、働くことの意味を経営者にも教育普及してほしいものだ。

「社会の許容範囲」という枠

制限速度を超えると「速度違反」になるけど、制限速度にぜんぜん達しないでいても「速度違反」になるのは、高速道路や自動車専用道のばあいである。

「例外」があって、一般道でも観光地などで、渋滞が予想されるばあいは、最低速度に制限をかけてよいと、警察庁は通達している。
しかし、最低速度制限を設定している一般道路はないから、いまのところ幻である。

あおり運転が社会問題になっているなか、「逆あおり運転」というドライバーもいる。
とにかく低速で走行(10Km/hとか)したり、カーブや交差点で極端に減速、または停車してしまう。

これはこれで、後続車には迷惑で、かつ、危険だ。

こんな運転を意識的にしているひとと、無意識でやっているひとがいる。
どちらも、「法的」には問題ない、ということになるけれど、できれば遭遇したくない。
「流れ」にあわないといけないのは、「許容範囲」の問題となる。

つまり、「安全」を最優先しているというばあいでも、そこには「社会的な許容範囲」があって、このことが「基準」になるのである。

スクールゾーンだから、制限速度30Km/hを厳守せよ、は理解できる。
しかし、スクールゾーンだから安全のためにと、だれも歩行者がいないなかで、とにかく5Km/hで走行されては困る、ということだ。

すると、弱者の側の安全教育がどうなっているのか?も気にかかる。
とくに自転車の暴走による死亡事故があることだ。
昨今、両耳にイヤホンを装着している歩行者も、自転車もよくみかける。
中学、高校における安全教育はどうしているのか?

自転車で老人を跳ねてしまった高校生や、小学生は、億円単位の賠償金を一生かけて払わなければならなくなる。
自転車に賠償保険をつけることが義務化されたからといって、事故による加害の責任は消えてなくなるものではない。

絶対安全は理想であって、手前にかならず「社会の許容範囲」がある。

そして、その手前に、「安全努力」が要求されているのだ。
この努力が、業務遂行をさまたげることもある。
ならば、業務の通常遂行にその手間分をあらかじめ含めておかなければならない。

安全努力のせいで業務が30%ダウン(1-0.3)するのが通常なら、そこがあたらしい100%達成点になる。
これを無視して、110%や120%、あるいは元の水準にもどすなら、1.43倍の効率化を、安全努力とは別の改善で達成しないといけない。

1/(1-0.3)=1/0.7≒1.43

さてそれで、鎖国しているわけではない現下の経済生活にあっては、「国際的」な「社会の許容範囲」の合意がないと、なにも「貿易」できない。
A国産のテレビは発火しないが、B国産のテレビは発火する、となったら、だれもB国産のテレビを買わない。

しかしもし、B国産のテレビとA国産のテレビとが、おなじ方法での製造や、おなじメーカーの工場のちがいだけだったらどうなるか?
このことがしれたら、どちらも買わないという選択が、世界でおきる。

こんなことを防ぐため、「製造(安全)基準」が設定されている。
この基準は、各国政府の話し合いで決まることもあれば、メーカー各社が合意づくりをして決めることもある。
各国政府の話し合いには、国連という場も含まれる。

そこで、こうした「基準」が決まる落としどころはどこかといえば、やっぱり「社会の許容範囲」なのである。
ここでいう「社会」とは、国内ではなく「各国」の社会のことである。
「国際社会」ともいうし、ばあいによっては「人類社会」ともいう。

そうやって、現在の豊かな生活が確保されている。
とくに、口に入れるもの、からだの健康に影響するものには、国際基準が適用されて、これによって貿易がおこなわれている。

リカードがいった「貿易モデル」における、「比較優位」の原則は、「経済原則」のことだけど、いま、わたしたちが生きている世界では、「国際基準」という「社会の許容範囲」を前提にした、「比較優位」による貿易で物品が動いているのである。

その恩恵の典型が、輸入食材であり、国産農産物の輸出なのだ。
つまり、わたしたちがふつうにフランスやイタリアなどから輸入した、ミネラルウォーターやワインをなにげに飲めるのも、日本の米や野菜が東南アジアで人気なのも、ぜんぶが「国際基準」をクリアしているからである。

しかし、日本国民がしらないところで、日本の「不正」が問題視されるようになってきた。
それが、とくに顕著なのが「農薬」と「放射性廃棄物」による「汚染」の問題なのである。

農薬は、欧米基準の数百倍の緩さが「国内基準内」であったりする。
国内消費だけなら基準内だけど、輸出となると不可能になる。
そこをなんとかしろ、とごねている実態がある。

これに、「放射性廃棄物」が加わることになった。
もちろん、「国内基準」では問題ない。

こうした「迷走」が、どこへ向かっていくのか?
わが国の「社会の許容範囲」が曖昧になったことに原因がある。

民主主義ならありえないけど、民主主義ではないからこうなった。
メーデーが5月1日でなくて、4月29日(昭和の日)に開催されたのも、「社会の許容範囲」が曖昧になったからであろう。

重曹水健康法で重曹生活

世の中には、さまざまな「健康法」があるし、それにともなう高価なグッズもさまざまある。
しかも、むかし習った、古代エジプト最期の女王クレオパトラ(7世)のように、あるいは、おなじく「不老不死の仙薬」を求めつづけて、水銀中毒で亡くなったという伝説がある秦の始皇帝のように、世は健康ブーム真っ盛りになって久しい。

健康のためなら死んでもいい。

これをまじめに追求すると、神経が衰弱しそうになるのは、世の中の「もの」への「安全性」が疑われるようになったからである。
食品はもちろん、住宅建材にまで「疑い」が生じて、「ホーム・シック」が「シック・ハウス症候群」にまでなった。

それと同時に、もとからあった日本人の潔癖性がより病的な心情となって、商業主義のマスコミがこれを煽ったからなおさらである。
すなわち、どれと特定できない「複合的」なことが原因になって、とにかく・なんとなく、信じるものが救われる社会になった。

これを、「宗教」といわないでなんというのかしらないけれど、日本人は「無宗教」だと、これもまた根拠なく「信じている」から、はなしがこんがらがるのである。

「重曹(じゅうそう)」は、むかしからある薬品で、「ふくらし粉」ともいっていた。
洋風にいえば、「ベーキングパウダー」だ。
料理番組が真っ盛りだったころ、「なんだふくらし粉か」と母がつぶやいたのを覚えている。

カナダの公共放送(CBC)が制作し、世界37ヵ国で放送された『世界の料理ショー』(1974年4月から79年9月まで、東京12チャンネル)は、確か土曜の夕方に放送されていて、みたこともない調理器具やら、きいたこともない「香辛料」に、最後に紹介されるレシピをみても、さっぱり味の想像すらできなかったことをおもいだす。

  

さて、重曹とは、重炭酸曹達(NaHCO3:炭酸水素ナトリウム:ナトリウムの炭酸水素塩)のこという。
水に溶かすと微アルカリ性を示し、加熱すると二酸化炭素と水を放出して炭酸ナトリウムとなる。

重曹水健康法は、重曹の水溶液を「飲む」だけという「健康法」だ。
コップ一杯、200ccの水で1gの重曹を溶かして飲む。
このとき、重曹は「食用」、「食品添加物」のをつかうこと。
洗濯用とか、清掃用だと、重曹だけでなく洗剤が混じっていることがある。

人間のからだは弱アルカリ性であるのが「平常」なのだが、からだに悪い物質を食べたりすると、「酸性に傾く」のである。
重曹は、体内にもあるふつうの成分だから、酸性になったからだを中性にもどすのではでなく、アルカリ性にまでする「効果」を期待する「健康法」なのである。

化学式にナトリウム(Na)があることからわかるように、この水溶液は「しょっぱさ」を感じるし、塩としての換算をすれば約274mg、また食塩1g中のナトリウムは393mgだから、ナトリウム量で換算(274/393)すると、1gの重曹は食塩0.7gに相当する。

もちろん、「原子量」から計算する方法がもっとも正確ではある。
100%純度の重曹の「中身」がわかる。
これは、天然温泉の脱衣所などに掲示されている「温泉成分表」から、入浴剤をつくろうとしたときの方法とおなじになる。

気に入った温泉の「温泉成分表」を撮影して、休憩所なりでその成分を計算してみると、なかなかに楽しいのである。
スマホがあれば、原子量も「モル質量」換算もすぐに検索できる。

重曹が水に溶けるのは、20度の水100gで9.6gまでだから、これを超えると熔けないという特徴もある。
それでもって、ペースト状にして、これを顔のしみ抜きにつかう。
10分もパックすればよい。

入浴剤にするなら、コップ一杯ほどの粉末量で人工アルカリ温泉になる。

微アルカリといっても、アルカリ独特のぬめりがあるから、飲むとなるとやや飲みにくいかもしれない。
それで、なぜか「クエン酸」を投入して、柑橘系炭酸水のようにして「愛飲」しているひとがいる。

どうして「炭酸水」になるかといえば、それは、「化学反応」がおきたからだ。
クエン酸の「酸」と反応して「二酸化炭素」がでてくる。
もとが、CO3なので「重」をつけて表現している。

HOOCC(OH)(CH2COOH)2 + 3NaHCO3 → C3H4(OH)(COONa)3 + 3H2CO3
クエン酸+炭酸水素ナトリウム→クエン酸ナトリウム+炭酸
炭酸 H2CO3 は不安定な物質なので、すぐに水 H2O と二酸化炭素 CO2 に分解され、このときジュワーッと「泡」がでる。

そんなわけで、からだをアルカリ性にもどすために飲むものを、飲みやすいからと中和して炭酸水にしたら、なんのための「健康法」なのかわからなくなる。
けれども、これを奨めるひとがいるのは、化学反応の意味がわからなくなっているからだろう。

またまた、中学生や高校生にバカにされることを、大のおとながやっている。

学習塾の信頼をえたいという経営者なら、おとなのための化学とか、おとなのための物理とかも、特別授業としてネットにアップさせれば、子どもに勧めてくれるかもしれない。
なにせ、おとなが月謝を払うのだから、親の攻略こそが経営に重要な要素となる。

そうやって動画を観ていくと、なるほどなぁ、をみつけることができる。

それでもって、こんなものを飲むもっとも重要なことは、健康を害する物質がふつうにあふれているからで、重曹水健康法は対処法にすぎないことだ。

「食と健康」は、現代の巨大な問題だけど、それは「化学知識」の問題なのである。

中学生学習塾のPCR

中学生向け無料学習塾動画の「スタフリ」について前に書いた。
このときは、「英語」をメインとしていたけれど、今回は「数学」である。

このブログで何度もくりかえしてきたことのひとつ、「統計」は、「ゆとりの名」のもとに、30年間もの月日において、わが国「学校教育(中学校・高等学校)」では封印されてきた分野であった。
統計を「再開」することをきめた学習指導要領は、平成24年に中学校に入学した生徒から進行することになった。

世の中は小学校で「プログラミング」がはじまることに、ちょっとだけ議論があったけど、超高齢社会の爺婆たちは孫世代の将来に関心はうすく、じぶんたちの老後(いま)生活の「楽さ」に関心がある。
これが、ほんらいの「戦後教育」の実績(わるい意味の「利己主義」)なのだ。

さて、プログラミングをするにも、そもそもデータをいじるのがプログラミングだから、「データってなんだ?」という根本をしらないといけない。
それには、「データ収集」という技術もひつようで、データはかってに都合よく集まるものではない。

「統計」も、計算方法が重要なのではなく、なにを知りたいのか?という目的と合致させる方法を、数ある方法から最適な方法を選択する、ということがないと無意味になるし、計算結果の「解釈」にあたっても、適切なセオリーをしらないと、「因果」と「果因」が逆転して、支離滅裂な「結論」を作文できる。

そんなわけで、30年間の封印が切られてから10年ほどが経過したので、若い先生ほど統計を理解している。
この「解禁」以前の30年間に教師となったベテランほど「教える力」は、かなり「やばい」のである。

そこで登場するのが、「学習塾」だ。

「英語版」では、声のみで元気な生徒役をやっていたひとが、「数学版」では主任講師である。
ここで取り上げたテーマが、「PCR検査」を簡単に受けられない理由を、数学的に説明する、というものだ。

くわしくは、検索して視聴されることをおすすめする。
なお、おなじテーマで多数の解説動画があるから、ご不審の向きは説明の工夫のバリエーションをふくめていろいろご覧になると「勉強になる」だろう。
ましてや、昨年3月には、もう動画をあげているひともいる。

タイムリーだけでなく、相手をわからせるための努力が、素晴らしいのである。

さて、「理数」とはよくいったもので、理科と数学の関係は切ってもきれない。
この「例題」による統計解説は、「ベイズ統計」の教科書では「条件付き確率」といって説明される。

さらに、このような「例題」で学ぶことが推奨されるのは、人間の「直感」と「実際」が異なることがわかるからである。
このようなことは、経験を積んだおとなによりおおくみられる「勘違い」になるから、子どものときに教えるのである。

子どもはこうした授業で習ったことに、感心すると、それを実社会に当てはめて、例題どおりおとながこぞって間違えているのをバカにして観察しているものだ。
あんがいと社会のことをクールにみている「小悪魔」なのだ。

言葉として「条件付き確率」といえば、こうして習ったことをすっかりわすれたおとなも怯むが、ぜんぜん習わなかった30年間の空白で、もっと怯むおとなたちがこの国の社会を牛耳っている。
同世代の前後をみわたしても、こんな用語すらだれもしらないので、平然と無視できる傲慢ぶりも、おとならしい事情の表現でもある。

じつは、この「例題」が、そのまま「国家資格試験」にでる分野がある。
それが、「医師国家試験」で、たとえば「がん検診の精度」に関してとかの「問題」として、「でる」こと頻出なので、医学生でしらないものはいないという。

すると、「国民全員PCR検査すべき」とテレビやマスコミで訴えた「医師」とは、「医師国家試験」でこの問題は間違えたけど、なんとか別の得点で合格したということになるか、あるいは、なんらかの「意図」があるかのどちらかとなる。

しかもまた、なんだかむずかしそうな医師国家試験ではあるけれど、じつはそのなかでも頻出するこの問題の、数学的レベル(難易度と習得範囲)は、中学生向けなのであるから、「義務教育」のいがいな有用性を確認することもできる。

さてそれで、99%の確率で病原体がいることを判定し、98%の確率で病原体がいないと判定する、という精度のもとでかんがえることとする。
そして、対象となるある集団の0.01%に実際の病原体をもっているひとがいて、そこからランダムに一人の検査をして、「病原体がいる(陽性)」と判定されたとき、実際にそのひとに病原体がいる確率はいくらか?
という問題である。

こたえは、約0.5%。(「陽性者」のうちざっと200人に一人)
おどろくべき「低さ」なのだ。
つまり、全体となる母集団に疑いのないひともいれると、検査精度が酷いことになる、数学的証明でもある。

これを、中学生はしっている。

計算方法は、どうぞお調べください。

「エビデンスはない」と迷言を明言

これはもう、「犯罪」ではないのか?

わが国は、「人治国家」を宣言したも同然で、耳にした国民は「唖然」をこえて「呆然」とするしかない。
にもかかわらず、「おとがめがない」のだから、より確信的で、政府を挙げて「法治」をやめた。

尾身茂氏が、公共放送の番組内で、政府のコロナ対策に「エビデンスはない」と言い切った。
隣席に、現職厚生労働大臣がいて、このひとはこれを「否定もしなかった」のだ。

まるで、外務大臣が「謝謝」といったかのごとく。
会見中に、わが国の領土について相手国外相が「自国の領土だ」という暴言を吐いたのに、咄嗟に横から否定しないばかりか、その会見のおしまいがこの「謝謝」だった。
まことに、学歴と政治家の資質は連動しないという典型だ。

このバカげたはなしに、厚生労働大臣もくわわったことになる。
ましてや、発言をしたのは、政府の要職にあるひとだ。

正式には、内閣の「新型インフルエンザ等対策閣僚会議」(閣僚)の下「新型インフルエンザ等対策有識者会議」(有識者)があって、さらに「基本的対処方針等諮問委員会」がある。
有識者会議の「会長」で、委員会の「委員長」も「兼務」しているのが、この「尾身」という人物だ。

上位組織をたどれば、「内閣」が最上位なのだから、内閣に責任がある。

経歴をみると、典型的「御用学者」だ。
その輝かしい「かにみえる」肩書きの数々は、ぜんぶ政府官僚が勝手に選ぶポストである。
つまり、いっとき本人も厚生官僚の経験があるから、役所の立場がわかる「事情通」としての「登用」だったにちがいないと推察する。

このひとの「ジャパニーズ貧相」はどこからやってくるのか?
「ひとの顔」は、そのひとの内面から涌き出るエネルギーが、皺をつくって、顔の「相」になるものだ。
だから、分不相応の身分を得て、自分ではどうしたらよいかが判断できず、事務官僚のいいなりになることの「不安の相」となったのではないか?

人相見の達人はどうみるのか?

それにしても、公共放送の番組内でのことだから、ネット動画に流れない。
この意味で、発言の再生ができないのだ。
わが国の公共放送は、受像機をもつすべての国民が受信料を払うことを前提としているから、ネットでの拡散を監視している。

ひろく国民に視聴されたいという原点に立ち戻れば、やっぱり「受信料制度」は、時代の要請に合致しないのである。
戦前からの「戦時体制」のひとつだ。
民放も、公共放送の番組内での不始末は、観ていなかったことにする。

「医師」として、あるいは、「感染症対策の専門家」としての立場で、役職に就任したけど、上述のように、その「専門知識」があってのことよりも、役人に忖度する態度を貫く人物という「実績」と「評価」から、その地位についているのだ、とすれば、このひとを責めても意味はない。

もちろん、最悪なのはわが国の役人(文系高級官僚)の、おそるべき「支配」の実態だけれども、とうとうだれも逆らうことができないことの実態がはっきりしたのだ。
「内閣総理大臣」すら、逆らうことはできない、と証明された。

この愚かな姿は、歴史において事例はないのか?
わたしには、「宦官政治」にみえる。

宮廷につかえる「宦官」は、国家は皇帝の所有物という概念があったので、後宮の女性たちも全員が皇帝の所有物だったから、男性をやめたひとがいないと庶務にこまるためにできた。
もちろん、後宮の女性が表の政治に触れるのは禁止されていた。

それで、男性をやめたひとが重宝されたのである。
しかし、男性を貫く武人からは卑下されたし、科挙にうかった高級官僚でも、不始末の裁定で男性をやめさせられる「刑」をうけた。
こうして、権力志向がむきだしの「集団」に「変異」すると、おそるべき厄災がやってくる。

陳舜臣『中国の歴史』は、中国人の日本小説作家が書いた大作だけれども、何度も繰り返す「おなじパターン」に、時代背景をおもわずわすれる「退屈さ」もある。
宦官によって滅んだ王朝は、後漢・唐・明と三度ある。

一回も「科挙」を採用しなかったわが国で、明治近代が「禁」を破った。
「武士」が現存した時代なら、「科挙の弊害」を避けられもしただろうけど、占領によってわが国高級官僚が男性をやめさせられた。

こうして、わが国は、後宮が存在しないのに「宦官政治」の国にさせられたのである。
そして、「中国の歴史」のように、「自浄」ができない状態に陥った。
これが、本家よりひどい「日本版DS(ディープステート)」なのである。

そんなわけで、「エビデンス」を無視した、「営業縮小命令」に逆らうものはわずかな状態になってしまったけれど、徐々に「反発」も吹き出してきたのは、幸いである。
この流れが、大河のようになって、日本政府が転覆されるかもしれない。

しかして、その転覆は、どんな方向のものなのか?

混乱に乗じることを得意とするひとたちも多数いる。

政権与党への期待値が

本日、4月28日は、わが国の重要な日。
69回目の「主権回復の日」(独立)であるけれど、これを「祝わない」不思議がある。

覚 和歌子作詞、木村弓作曲『いつも何度でも』は、あの『千と千尋の神隠し』のエンディングでしられる。

この曲のエピソードで有名なのは、宮崎駿監督の「幻の作品」となった主題歌だったけど、「次作」だった本作に採用されたというものだ。

「歌手」としてこの作品には、三人が印象に残る。
もちろん、「ゲルトナー・ライアー」(竪琴)を手に、蕩々とした歌声をオリジナルとした木村弓。
作詞家が自身で歌った、覚和歌子の意外にきれいな声。

そして、チェルノブイリで故郷を失い、自身も被ばくした、ナターシャ・グジーの透き通るような歌声にして訴求力のすごさ。
このひとは、リュートを巨大にしたようなウクライナの民族楽器「バンドゥーラ」奏者として来日し、日本人夫と暮らしている。

歌詞のわかりやすさという点で、この歌は難解である。
あたかも仏教的死生観、「輪廻転生」がイメージされているようだ。
はじめてこの歌を聴いたとき、『チベット死者の書』をおもいだした。

臨終からの47日間、チベットでは死者に向かって語りかける。
ふたたび人間として生まれ変わるための「指南」をするのだ。
まちがっても「畜生」になってはいけない、と。

じぶんたちの言葉でいうから、死者にも通じると信じる。
これが、「日本仏教」だと、漢字訳された「原典」を「お経」としてあげるので、どんなに本人が無教養でも、死んだらそのお経がぜんぶ理解できるとしていることに納得できない。

日本人の死者は、死の瞬間に森羅万象を突然理解するのか?

つまり、「お経」とは、日本では「呪文」なのだ。
それでよし、とする理由はなにか?
本人が「怨霊」にならない、させないための「お祓い」としてかんがえる。
ようは、化けて出てくるな、という生きている側の願いの儀式なのだ。

チベット仏教の「救い」は本人のためにあるけど、日本仏教は、この世の人間に「救い」がある。
これを、「現世利益」というのである。

おなじ仏教なのに、このちがい。
「仏教」と呼ぶことに、違和感すらある。
けれども、余計に日本オリジナル宗教の強烈さがわかるのだ。
古代からの八百万神への信仰を、一切曲げないことである。

政治のことを「まつりごと」といったのも、神々への「祀り」を原点にするからで、国内政治は現代でも「まつりごと」のままなのである。
外国の政治とちがう、のはここにすべての原因がある。
その外国は、とにかく「一神教」なのだ。

もうひとつ、日本人には信仰を曲げない理由に天皇の存在が欠かせない。
「天孫降臨」以来、万世一系だということの「当たり前」が、その価値の重要性を薄めているからである。
絶えることを想定しないし、絶えたらどうなるかもかんがえない。

むしろ、積極的に絶えるように仕組むのは、外国の「悪霊」に取り憑かれてしまったからだ。
「悪魔払い」をしないといけない状態になっている。

もうはるかむかしになったけど、松野頼三という政治家が、汚職でずいぶん責められていた。
それでも選挙で当選したら、「禊ぎ(みそぎ)は済んだ」と発言し、正々堂々と議員バッジをつけていた。

現代のまつりごとは、選挙という禊ぎを通過することで、本人の身も心も清浄になる。
だから、選挙で落とすということが、悪魔払いになるのである。
また、読者や視聴者をコケにするものどもには、不買という選択がこれにあたる。

そんなわけで、先週末にあった三つの補欠選挙では、与党が全敗した。

いまや、八百万神とは、有権者のことをいう。
では、忖度すべきは誰かといえば、立候補者の方なのだ。

一方で、コロナ禍対策について、国民の多数が「評価しない」という評価をしている。
八百万神が、評価しないということなのに、政治家も政府の役人も、「国民はバカだ」とおもっているのがばれた。

これが、期待値が「ゼロになるからだ」になってしまった理由だ。
あと何回かしらないけれど、選挙の禊ぎで、既存政治家と政府の安泰が危機にさらされていることは確実なのだ。
でも、永遠にこの体制が継続すると思い込んでいる。

おそるべきは、八百万神の「怒り」のベクトルが合致するときだ。
それで、政治家や政府は、「分断」をこころみて推進するはずだ。
そのための悪魔の甘言が、各種補助金のバラマキになる。

もらえるひとと、もらえないひと。
八百万神への「お賽銭」のことである。

はたして、八百万神は、お賽銭の多寡で行動をかえるのか?
それとも「悪魔の所業」と見ぬくのか?

政治への期待値ではなくて、政治からの期待値が問題なのである。

そんなわけで、既存政治家と政党の命脈が尽きようとしている。
あたらしい生命の息吹のように、あたらしい政治運動が起こるのは、もはや当然ともいえる。

体制変換は、日本でも間もなくだ。
これは、かつて「いつも何度でも」繰り返してきたことでもある。

生まれ変わりによる、再生。

「人間界」の日本人

「界」という漢字一文字で表現するとき、それが分類学での「生物分類」をさすときの概念は「最上位」という意味でつかわれてきた。
「自然界」にあっての「植物界」とか「動物界」の「界」である。
いまでは、「修正六界説」が最新だけど、学説的に統一されたまとまりがないので「諸説いろいろ状態」になっている。

「界」の上位概念に「ドメイン」ができたし、その上に「生物」がある。
これは、「博物学」でいう「鉱物界」があったからだ。
人間は、生物のなかで、二分される「真核生物」(もう一方は「原核生物」)で、「動物界」に分類される。

人類の発祥は、いまのアフリカ大陸西部であったことは、DNAが発見されてからの「大成果」になっている。
これには、遺伝子のなかの染色体の追跡からわかったことである。
なかでも、性別をきめるのは、「X」と「Y」の格好に似ていることから、それぞれ「X染色体」、「Y染色体」とよばれている。

卵子と精子にある染色体が結合することで、あたらしい生命が誕生する。
このとき、それぞれが持っている染色体の組合せで、あたらしい生命の「性」がきまる。
そして、「Y染色体」が取り込まれると、かならず「男」になる。

このことだけでも、「生命の神秘」がある。

どんなふうにして、こうなったのか?
21世紀になっても、「神の設計による」と信じるひとがいるのも理解できる。
しかしまた、「自然なのだ」という完全に受身の発想もある。

人間はかんがえることができる、いまのところ唯一の動物だ。
「記憶力」では、ぜったいに忘れないという「象」にはかなわない。
人気アプリ、「エバーノート」が採用したロゴが、象なのもこの意味の象徴だからだろう。

そこで、人間の分類には、生物としての分類のほかに、発想としての分類がでてくるのは、いかにも「人間らしい」ことだ。
他の動物界にはできないものだ。

これが、「人間界」という概念をつくった。

人間が生きる社会のことをいうけど、あんがいと「宗教的」だ。
とくに「仏教」において、「人間界」は重要だ。
また、旧約聖書でいう天界とか地獄、あるいは、キリスト教普及前のヨーロッパにあった、妖精とかもひとであってひとでない世界を意識していた。

ただし、生物としての分類があんがいと重要なのは、差別ではなくて厳然たる事実としての「人種」があって、様々な意味で特徴がことなる。
それは、もちろん見た目でわかる「肌の色」のちがいだ。
主に、太陽光線を浴びる量によって遺伝的に変化した。

大雑把にいえば、有害な紫外線量による。
光の波長で、可視光線の範囲をこえるのを「外」と書く。
短い方の「外」が紫外線で、長い方は「赤外線」という。
天然プリズムの「虹」は、半円状の外側が赤、内側が紫になる。

地球の公転と自転の傾きの関係から、それに「極」の特性で、緯度が南北に高くなると紫外線量も減る。
それでもって、アフリカからヨーロッパに移動した人類は、肌の色を白くして、目の色も薄くなった。

紫外線防禦のための、メラニン色素を節約したのである。
世界的ベストセラーになった、『鉄 銃 病原菌』でも解説された、アフリカからの人類の移動が主に「東への横移動」だったことに注目すると、中間帯に黄色人種が多数いる意味も、紫外線による。

これには、たまたま巨大に「横たわる」、ユーラシア大陸があったからで、気候がおなじ横移動が優先されて、南北への縦移動はそのあとになる。
また、太陽が昇る方向が東だから、「東」が憧れの地になったのである。
キリストの受胎告知に、「東方から賢人」がやってきたというエピソードは、この意味で納得できる。

もし、地球の陸地の形状がいまのような横長でなくて、縦長だったら、人類はどのようになっていたのか?
海の面積がおなじとしても、それがまた、海流にも影響するだろうから、魚もいまとはちがうかもしれない。

そんなわけで、おなじ人類でも、基本的な身体の構造がちがう。
これは、事実なのであって差別ではない。
メラニン色素をつくらなくて済むようになった分、我々からみたら白人は身体が巨大化した。

なので、白人とおなじ薬を服用するとき、黄色人種は少ない量で調整しないと、効き過ぎるのである。
「体格のちがい」の根源は、太陽光線を受ける量のちがいに由来する。もちろんそれが、食物にも影響して、生物学的にことなることになったのだ。

すると、人間界のなかでの発想もことなることになった。
西洋哲学と東洋哲学があるように、ぜんぜんちがう思考をするのだ。

「近代文明」は、あたかも西洋基準の世界普及であったかのようだったのに、残念ながら根本思想まで「西洋一色」になったわけではなかった。
それで、西洋人も『西洋の没落』をいいだしたけど、これも「西洋思想」のなかでの発想なので、東洋の勃興を意味するものではない。

 

東洋のなかでのユニークは、「日本文明」にある。
これを構築した日本人は、「恥の文化」をしっていた「文明人」としての日本人をさす。

恥の文化をわすれた、現代の日本列島に棲まう「自称・日本人」は、日本文明をつくった日本人ではない。
小数派になった日本人と、多数派の自称・日本人との決戦が迫っているのが、いま、なのである。

それは、あたかも多数派だった「縄文人」が、「弥生人」に取って代われたごとき状態だ。
けれども、現代日本人に縄文人のDNAは相当に継続・分布していることがわかってきた。

縄文人のルーツは不明だけれど、日本人のDNAはいつ目醒めるのか?

役立たずの議会と議員たち

いまさら、「民主主義」を漢字で書いて意味をしる。

国民が「主」だという「主義」をいう。
外国語でいう「デモクラシー:democracy」の語源は、古代ギリシア語の「デーモクラティアー」で、「人民・民衆・大衆」などを意味する 「デーモス」と、「権力・支配」などを意味する「クラトス」を組み合わせたもので、「人民権力」「民衆支配」、「国民主権」などの意味だ。

大筋として、この概念が現代でも通用するから、あんがいと現代社会は、「古代ギリシャ」の申し子になっている国が多数だ。
もちろん、わが国も「民主主義国」を標榜している。
なので、学校の「世界史」で、「古代ギリシャ・ローマ世界」をしつこく学ばされる意図はここにある。

生徒にとっては、はるか遠くのなじみのない歴史であって、やたらとカタカナで長くて似たような名前の人物名を、年代と一緒に暗記させられる。
「民主主義の歴史」というタイトルではなく、あくまでも「通史」だから、飽きてくるのだ。

アジアが重要だ。
こういいながらも、アジアを支配しヨーロッパの半分までも手中にした「モンゴル帝国」のことは、あっさりと済ますのも、学校の歴史科目としては、「時間数配分」の犠牲となっている。

ほんとうは、生徒が犠牲者なのだけど、おとなの事情はいわないのが教育界の「しきたり」なのである。

これに、戦後の絶対的国家方針、「反日」が「教育」にも貫かれているので、明治・大正期と昭和の前期には、民主主義はなかったことにする。
あたかも贋物臭でおおうのが、「大正デモクラシー」という用語の存在で、しかもこちらは「日本史」という科目分類になっている。

「民主主義こそわが国の基本的価値観」という首相がたくさんいる。
なのに、「民主主義の歴史」を教えず、その「仕組み」は、なんと「公民」という別教科にしているから、これで「三教科」にまたがる「分断」をさせている。

ようは、生徒にはわからないように仕向けているのである。

さらに、「世界史」であろうが、わが国戦後の事実上の宗主国にあたる「アメリカ合衆国」の歴史も、アメリカ合衆国の公民も教えない。
だから、アメリカの政治制度について、日本人の一般人は教わることなく社会人になるのである。

もちろん、「独立国とはなにか?」という根本も教えない。

そんなわけで、わが国の「現体制」はつくられている。
何度も書くが、わが国が「まとも」だったのは、昭和の前期(一ケタ生まれ:昭和9年)までがしっていた、一等国としての世界の常識を教えていたときまでだ。
これ以降は、「超ゆとり」の「国民学校世代」となる。

一ケタの最後、昭和9年は1934年なので、80歳になったのは2014年(平成26年)だ。
兵としての戦争経験者では、昭和2年生まれが境界にあたる。16歳で大東亜戦争が開戦となって、「幼年(少年)兵」として戦場に出た。
なので、最若年の兵隊経験者が80歳になったのは2007年(平成19年)である。

よって、わが国で「軍隊経験者」の多数は、ほぼその世代ごと世を去ったろう。

ちなみに、軍の教育制における「幼年学校」は、満13歳以上・満15歳未満の男子(主に旧制中学校2年生:いまの中2とおなじ)だったけれど、その「エリート性」は抜群で、卒業後は「陸軍士官学校(陸士)」を経て、「最上の高級軍人(旧制中学卒との別があった)」となった。

海軍においては「予科練(海軍予科飛行練習生)」がこれに近く、また、「陸軍大学校(陸大)」は陸軍省ではなくて、参謀本部が管轄していた。
陸軍省(軍政:人事、予算)と参謀本部(作戦)は別組織である(海軍も同様:海軍省と軍令部)。

陸士を出て、「参謀適格者」として推薦を得、陸大へいけたのは同期の1割程度であり、「幼年学校組」が圧倒的有利だったし、陸軍省人事課長も幼年組が歴代を独占した。
陸軍のなかの超エリート養成校なのである。

そんなわけで、戦後のわたしたち日本国民は、「民主主義の教育」も、「軍事」も体系的に受けていないという、驚愕の事実がある。
なので、なんとなく選挙にいって「投票」しているのである。
もちろん、立候補するひとはもうちょっと勉強しているはずだけど、「大差」があるはずがない。

そもそも、地方議会が、「立法府」だという意識もない。
「法律」と「条令」のちがいだって、スラスラこたえられる一般人がどれほどいるものか?
おなじ「選挙」で選ばれる、知事や首長と議員のちがいをしらないひとたちが、それぞれの「役職」についている。

だから、議員よりも知事や首長のほうが「偉い」という勘違いがふつうになる。
知事や首長は、地方「行政府」の「長」にすぎない。
民主主義なら、第1位は「議会」にある。

効果が科学的にも認められない「発令」を、何回も懲りずに出せる知事を、議会が制御できない。
「三密」という不思議を繰り返しながら、電車の本数を減らすように要求する魂胆は、ただ「命令したい」というサイコパスの欲求不満だった。

議員がなにもしない、という驚くべきことをやっている。

この議会の怠慢を、だれも報道しないし、だれも問題視していない。
わが国に民主主義はあるのか?

夢幻のなかに生きている。

「正常性バイアス」の恐怖

「思い込み」の一種である。
もっといえば、じぶんに都合の悪いことは無視するか、「なかったこと」にして、かんがえないことをいう。
いわゆる、「思考停止」なのだけど、大企業経営者に比較的よくみられる状態だ。

これを、「ゆでがえる状態」ということもある。

どうして「大企業」なのか?といえば、かんたんに「沈没しない」と、ここでも根拠なく「思い込んでいる」し、自分の治政下で「潰れる」とか、「潰した」なんてことは、「あり得ない」し、「かんがえたくない」とかんがえる傾向が強いからだ。

あの東芝が、歴代社長のもとで大赤字を計上し、事実上「解体」されて、また再び「身売り」の対象になったのは、このバイアスによって根本的対策がとれず、「先送り」の「経営努力」をした結果であったと世間が知るにいたった。

だから、中小企業にだってあり得るのはおなじだし、大企業と違って「ゆっくり」は沈まない。

したがって、「正常性バイアス」に陥っていないか?を常に自己チェックすることが重要なのだ。
しかし、これには、「恐怖」がともなう。
経営者に「勇気がいる」というのは、まずこのことをさす。

げに恐ろしきは、「正常性バイアス」によって受ける、ほんとうの「被害」なのである。

では、このバイアスを防ぐ手段はなにか?
まず、「発想法」の基本に、「科学的アプローチ」をおくことである。
しかも、発想法の基本だから、身についていないといけない。
すると、じつは、若い頃からの「強制」をともなう「訓練」がないといけない。

経営者になってから、では、完全に遅い。
大企業なら、「取締役」に昇格してから、の意味である。
だからこれを、「職場環境」とする努力がある。
新入社員がこの環境にはいれば、いやおうなしに馴染むしかない、とするのである。

トップから管理職、一般職まで、いわゆる、「全社」の「環境」にする。
「なる」ではなくて、「する」のである。
させるのはトップだ。
それで完遂できるものだ。

これには、時間がかかる。
トップ一代では完結しないかもしれないのは、歴史ある大企業ほど「意志」がいるからで、この意志の継続が、企業の継続「ゴーイング・コンサーン」を成立させる。

付け焼き刃ではなく、さいしょから鍛える、という発想の愚鈍なる繰り返しである。

それでも、トップが自身の誘惑によって、バイアスがかかってしまうこともあるだろう。
しかし、社風としての環境があれば、だれかが諫言できる。
この「諫言」ができる組織かそうでないかが、運命をきめるのだ。

それがふつう、「風通し」というのである。
人間は、信頼できる関係があれば「諫言」できる。
しかし、うわべだけの信頼関係では、「諫言」が「嫌み」になって、不信となる。

よって、科学的アプローチを基礎にしながらも、同僚や先輩・上司、後輩・部下との人間関係の構築こそが、組織運営の「肝」なのだと、科学的アプローチによって決定するのである。

べつのいい方をすれば、科学的アプローチは「表向き」であっても「裏向き」であっても、「なんにでも」通用し、人間関係の構築は、これの支柱となるから、よくいわれる「人」の字に似ている。

すると、個人の育ちにおける「教育」に、このことをあてはめないと「とんちんかん」を育成してしまうことになる。
現代は、学校が主たる教育の場になってしまったので、科目における「成績」は、テストという科学的アプローチを用いる。

しかし、これが、「過剰」になっていることは周知の通りである。
一方で、「人間関係の構築」は、生身の人間が精神的な接触をしないとできないものだ。
「コロナ禍」の学校における、リモート授業とは、人間観の構築について決定的な打撃をあたえる。

誤解をおそれずにいえば、人間関係の構築とは、仲のよい友だちが自然とできる、というレベルのことではない。
どうやったら、うまい人間関係が構築できるのか?という一種の「テクニック」もふくむのである。

そして、そこに、「伝統的価値観」というベースを求めれば、日本人としての「矜持」を持つにいたる。
これこそが、「国際」の最初の一歩である。

世界が一つの価値観で統一される「べき」、という発想は、人間の機能面だけをとらえたものにすぎない。
つまり、そこには、伝統も哲学もない。
じつは、人間を物質と同然とする「唯物論」そのものなのだ。

むしろ、それぞれの出自が尊重されて、個々がそれを誇りにし、相手との違いを理解できてこそ、国際的な人間関係の構築が可能となるのだ。
たんに、多言語を習得しただけでは国際人とは認められない理由がこれだ。

すると、学生時代はおろか、社会に出ても、「科学的アプローチ」と「人間関係の構築」は、学びつづける「べき」テーマにかわりがないのである。

こうした努力が、「正常性バイアス」の恐怖から逃れるための、唯一の方法なのである。

すると、「正常性バイアス」がかかっている、様々な組織(国家もふくむ)の昨今の世界的混乱の意味もしれてくる。

ちいさな話題だけれど、福岡市が公立の教職員の採用にあたって実施してきた、「ペーパー・テスト」と「面接試験」を廃止して、「教育実習の成果」と「大学の推薦」によると決めたことが、興味深い。

授業の目的にそった構成ができていて、生徒との人間関係が構築できないと、「授業」として成立しない。
また、これを学ぶ大学における「態度」と「成績」の合致なくして、「推薦」がえられない、としたら、なかなかに注目に値する。

ネックは二点。
教育実習の成果を評価する、学校現場の先輩教師たちに見ぬく力が養成されているのか?と、大学での推薦にいかなる評価のシステムがあるのか?だ。

評価する側の「おとなの実力」が試されることになったのだけど、「落とすため」の評価にしないことが、わたしの「注目点」なのである。
それと、採用後のいい意味での、教える技術の「標準化」をどうするのか?あるいは、本人任せで「しない」のか?

「しない」なら、生徒による教師の指名制度もあっていい。

わからないミャンマー情勢

世界を見る目を養う条件は、「情報」を「分析」できることだといえるけど、それは一般に「報道」を購入して得るものだった。
「情報収集」のなかで特殊なルートのものは、国家がもつさまざまな機関(ふつうは、軍や専門の情報機関、あるいは在外公館など)で、企業では自社の駐在員からの報告があった。

もちろん、世界をまたにかける報道機関としては、「通信社」という存在が、あらゆる分野の情報を配信して、これを販売していた。
買うのは、新聞社やテレビ局だったから、「どこそこ発ロイター」とか、「ロイターの伝えるところによりますと」と、発信元の通信社の社名を挙げたものだった。

最終的に買っているのは、末端の購読者本人だけど、購読者は通信社から自分が買った覚えがないので、そんなものか、とおもうのがせいぜいだ。
これぞ、「B To B」のビジネスだ。

わが国が元気いっぱいだった、70年代から90年代までは、七つの海を支配したかつての大英帝国を基盤とした、ロイター通信よりも、わが国の「商社」がえる情報が、最も速く最も正確と評価されていた。
ちなみに、このころまでは、「テレックス」が主流だった。

それに、世界は米ソ冷戦時代だったので、まともな国家が力をいれた情報収集とは、この二大国家にまつわる「政治・軍事情報が最優先」されていた。
そんなわけで、敗戦後、政治・軍事ともに「二流以下」であるように戦勝国(国際連合)から要求され、この要求以上に「四流以下」になろうとした、涙ぐましい「努力」をすることになったのがわが国である。

このとき、涙を呑んだのは、「第一次大戦の戦前」をしっていたひとたちだ。つまり、「戦勝国」になる意味をしっていたのだ。
「大戦」は、1914年から始まるので、1890年(明治23年)ぐらいの生まれのひとたちだろう。

すると、1945年(昭和20年)では、およそ55歳になっている。
当時の寿命としては、とっくにご隠居様なのだ。
現役ではないのだから余計に、どんなに嘆いたかは想像に難くない。

さらに、このひとたちの上の世代もふくめて、『黄禍論』の恐ろしさをしっている。
アジア人に対する白人の根本的な「恐怖」が、現在ではかんがえられない「人種差別」をうんだ。

いま、全米で荒れ狂う「BLM(ブラック・ライヴズ・マター)」のいう、「正論」だけを切り取れば、当時の大日本帝国が、「人種差別撤廃条約」を世界に提案した趣旨と通じるものがあるはずである。
そして、欧米列強諸国は、黄禍論にかこつけて、これを葬ることが高じて、日本たたきの戦争を画策したのである。

当時、アメリカの黒人協会が日本政府に信頼をおいていたのは当然で、白人社会は黒人との結託にさらに怖れをなして、日本人移民を収容所送りにしたのである。

だから、わが国側の当時の「現役世代」(終戦時の隠居世代をふくむ)は、この衝突に戦争遂行目的を明確に意識していたのである。
よって、嫌がる軍をたきつけたのは、さかんに開戦を支持するデモ行進の「輿論」であった。

戦後、「軍部の暴走」という幻想を信じたのは、敗戦のあまりの悲惨に耐えかねた人びとへの「贖罪意識への癒やし効果」と、彼ら世代の下の若い世代の「被害意識」が合成されたベクトルになったからである。
これを政治的に仕組んだのは、アメリカ社会学の「勝利」であった。

しかし、以上はわが国「本国」でのできごとであって、遠く、広く占領した「戦地」における日本人将兵の全員を「改心」させることには及ばなかった。
当然ながら、現地では「慣性の法則」がはたらいた。

その一つが、「ビルマ独立軍」における、日本人部隊の存在だ。

むしろ、イギリスを追い払った日本軍将兵からすれば、ビルマ独立の確定は戦争目的そのものだから、イギリス軍の再配置に関して闘いを挑む行為は、彼らの存在意義にも合致した。
それで、日本軍本隊から分離した部隊が「ビルマ独立軍」となったのだ。

その意味で、ビルマ独立軍の本質は日本軍であって、ビルマ軍ではなかった。
敗戦色が強まって、ビルマ軍の指導者とされたアウンサン将軍は、日本と日本軍に見切りをつけてイギリス軍と通じたかにみえたけど、その複雑性は一般論になって理解されていない。

あえていえば、ビルマの混乱はここからはじまる。
そして、この国の複雑さは、多民族国家という厄介もくわわって織りなすから、外部にはみえにくのだ。

さてそれで、国軍によるクーデターとその後の国民民衆への攻撃が国際的非難の的になっている。

しかしながら、実態がぜんぜんみえてこない。
なにがどうなっているのか?まるで、かつての中東戦争とアラブ・ゲリラによる局地的戦闘の実態がわからなかったように。
けれども、どちらもイギリスがからんで複雑化したのである。

こないだの局地戦では、国軍が民衆側の攻撃で全滅してしまった。
なにがおきて、どうやって正規軍を全滅させたのか?

マスコミ報道が役に立たないし、もはや信用できないのである。
よって、いまのミャンマー情勢は、わたしには「わからない」のである。