「ゆでがえる」状態からの脱出はできるか?

こどもは残酷なことをして,学習することもある.こどもが「自然とたわむれる」というのは,だいたい昆虫や小動物を捕獲して,最後は殺してしまうことをいう.カブトムシ,クワガタ,セミ,バッタ,コオロギ,スズムシを捕獲しても,幼虫から育て成虫までにすることはほとんどない.これらの昆虫は,標本キットでピン留めし,保存するのがせいぜいだろう.コンクリートばかりの都会では,ずいぶん前から珍しくなったのはカエルだ.アマガエルやトノサマガエルは,昔のこどもの身近にいた小動物のひとつだ.

カエルにたばこを吸わせると,息を吐くことをせずにどんどんお腹がふくらんでいき,最後は破裂してしまう.そして,煙がもっこり立ち上がるのがおもしろいと,つぎつぎにカエルを捕まえては「実験」する.これが高じると,つぎは「ゆでがえる」実験となる.熱湯の鍋にカエルを放り込むと,ものすごい筋力で飛び上がって逃げてゆく.ところが,水の状態から鍋に入れて火をつけると,途中,じつに心地よさそうに顔も手足も弛緩するのだ.まるで笑顔で,「いい湯だな」を彷彿とさせるほどの無気力状態になる.そして,このままの姿でゆであがってしまう.ちなみに,以上の実験はすべて屋外でのことだ.

企業組織のゆでがえる状態とは

いわゆる弛緩した組織を指す.そして,こうした組織は居心地がいい.なんとなく仕事をしているから,残業がおおい.けれど,残業代がもらえるから,はやく帰るよりずっといい.弛緩しているのは筋肉だけでなく精神もだから,自己研鑽のための勉強をする気もない.では,管理職はどうかというと,職場間のすりあわせに時間がそがれる.「調整」することが仕事であって,「新しいこと」はできるだけやらない.「調整」がよりハードになるから,それはとにかく面倒くさい.仕事のやり方や人員に関することになると,労働組合との交渉まである.一番お気軽なのは役員である.誰もいない執務室で,たとえマンガをながめていても,もはや誰からもおとがめはない.部長職以下の部下が面倒な相談を持ち込んでも,それっぽいことを言えばそれですむ.プロジェクト会議の席で「失敗は許されない」とむずかしい顔をしてすごみを効かせれば,全員がごもっともとうなずくばかりである.そして,上級職の役員にだけ気をつかえばよい.自分の「上」にはあと何人いる,と指折り勘定する毎日だ.

社内でなにが起きているかに興味がない

組織の中枢がそんなわけだから,末梢は退化する.それはまるで糖尿病の合併症のように,毒によって組織の末端神経が消滅するにひとしい.だから,「現場」では,ときに通常ではあり得ないようなトラブルが発生する.それは,企業の命運を左右するような事態にまで発展することがある.

報告を受けた中枢部は,きっと「何をやっているんだ!」と叫ぶだろう.そして,その事象が発生した部署の担当役員以下による「犯人捜し」がはじまるのだ.「原因」追求ではないことに注意したい.あくまでも,特定人物を探索するのである.もし末端の犯人が特定できなければ,その上司が処分の対象になるから,必ず犯人をみつけだす.そして,その人物は組織から追放され,一件落着である.すなわち,本質的になにが問題なのか?ということに最初から興味がないのだ.あるのは,「秩序の維持」という名分にかくされた「支配の維持」である.

以上は,かつてソ連・東欧圏で日常的に起きていたことだ.まさか,読者は,最近の「日本企業のことかな?」と感じたかも知れない.そう,日本企業は企業ごと社会主義国化しているのだ.すると,これら企業を「指導・監督」する役所は,差し詰め「コミンテルン」ということになる.

第三者委員会とは,経営の放棄である

不祥事が発生すると,いつの頃からか日本企業は「第三者委員会」という組織を立ち上げて,「原因調査」することになった.よくこんなことで株主が納得するものかと,そちらにも呆れる.「第三者委員会」に招集される,全国的知名度の有名弁護士や,経済学者,評論家は,無料で調査してくれるのだろうか?この委員会の活動そのものが,経営ではないか?すると,株主は二重にコスト負担しているのだ.すでに株主は企業のオーナーではなく,単なる株価相場の変動による利益を得るだけの存在になった.「経営責任」を追求する振りをしているのは,その企業とは関係のない,まさに「第三者」であるマスコミである.ただし,このときの「第三者」とは権限のない「外野」のことである.

だれが経営しているのか?

日本の大企業を経営しているのは,「廊下トンビ」をしている中間管理職である.彼らが決裁書を作成して,ハンコをもらってあるく.国の官僚機構とそっくりなのだ.大企業では,「決裁書」がなければ意志決定ができない.すべては「決裁書」に集約されるから,どんな内容を書くのかで決まってしまう.役員会はとっくに「閣議」とおなじく形骸化してしまった.それで,「社外役員」というアイデアをおもいついた.社内昇格者ばかりだから,外の風にも触れようという魂胆だった.しかし,企業を実質的に経営しているのは,中間管理職だから,外部から数人を呼んだところで何も変わらない.

「規制強化」の意味

日本国を実質的に経営しているのは官僚という役人だ.不祥事を起こした企業にはそれなりの危機感はあろうが,役人に危機感を期待すること自体がムリというものだ.古今東西,役人が危機感をもつと,国民には悲劇的な結末が待っている.役人の危機感とは,現状がこわれることのみである.つまり,役人が言う「改革」とは,現状強化の意味であるから,民間人がかんがえる「改革」の意味とは真逆だということを意識的に覚えなくてはならない.そこで,不祥事が発生した場合の予防対応として役人がでてくると,かならず「火事場ぶとり」となって,負担するのは国民になる.すこし前なら,汚染米偽装事件がそうだった.流通する米の伝票をチェックする,という壮大な予防策に,いったいいくらの予算と人員がついたことか.このとき増員された人員は,潜在的失業者とかんがえてよい.このコストを,国民は米価で負担させられている.しかし,役人は「受益者負担」とうそぶくのだ.

自動車会社によるひと世代以上前からの,「完成検査の不正問題」は,輸出において問題になっていない.欧米諸国が訴追を含めて制裁しようとしているのは,素材メーカーによる製品品質データの改ざん問題の方である.かくも長期にわたって,自動車の完成検査「不正」に気づかなかった役所の怠慢をほおかぶりして,これ見よがしに騒ぎ立て,リコールまでさせたのだ.このリコールによる数百億円にわたる損害も,最終的には消費者が負担するしかないものだ.それなのに,今後の対応としてきちんと検査をさせるための方策を実行するとは,狂気の沙汰だ.国内の消費者だけが,ムダな費用を永久に負担させられる.輸出向けは,相手国が完成検査など要求しないのでその分安くなるだろう.これで「ダンピング」呼ばわりされたら,メーカーは立つ瀬ない.国交省は検査をさせて,経産省がやめさせるのか?マッチ・ポンプとはこのことだ.いったい,誰のための役所なのか?まさに,役人の都合でいかようにもなる事例である.こんなはなしを,「大臣」が胸を張って発表するさまは,愚かさを絵に描いたような姿である.自分がこないだの選挙で当選したことも忘れてしまっているのだろう.有権者は,次回の選挙での投票行動を考えなおさなければならないが,どうも怪しい.こうして,ゆでがえるの有権者がゆでがえるの代議士を産む.

国も,企業も,中間管理職に犯されている.それを阻止する,政治家も経営者もいない.

国民も,自分がゆでがえる状態であることに気づいていない.

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