奇跡的に無能な経営者

デービッド・アトキンソンさんの単刀直入ないいかたは,もしかしたら日本人だったら「毒舌」でもすまされないかもしれない.
しかし,事実は事実としてみとめることも「大人」のうちである.
または,それが的を射るにあまりにも適切だから,ショックでぐうの音もでないが,しばらくすると怒りがこみあげてくる,というのも「無能」ゆえなのかもしれない.

経営者が無能でも業績がよい,なんてことはあるのか?
こたえは,ある,だ.

単純モデルでかんがえるのは,経済学の基本だ.
たとえば,リカードの比較優位説は,りんごとミカンの貿易モデルで証明できる.
だから,単純モデルで経営をかんがえたとき,経営者が無能なら,業績は悪化するのは当然だ.
しかし,単純モデルのまちがいも経済学はみつけだした.
これを,「合成の誤謬」という.

本来は,たとえば,インフレが多額のローンを持つ個人にはありがたい意味をあたえるが,社会全体では困りもの,というように説明されるものだ.
一企業として,経営者が無能でも,その社会や国がおかれた条件によって,経済成長することはありえる.

もちろん,ここに「優秀な官僚」もひつようない.むしろ,「官僚は無能」なのがふつうだから,このモデルに官僚のでばんは最初からないのだが,経済成長が官僚のおかげであるように仕向けた城山三郎のような作家が,「国家依存」というおそるべき勘違いを社会に埋め込んだ.この罪は相当に重い.

明治以来の日本経済は,資本蓄積がほとんどない状態からの出発をよぎなくされたから,世界を相手にした日本側の努力は,低賃金と長時間労働しかなかった.
つまり,低賃金で長時間労働をさせることが「経営」であったから,「経営者」は自社においていかに低賃金で長時間労働をさせることができるかをかんがえ,実行すればよかった.そして,いまとちがって,この時代は資本蓄積がないから,経営者は資本家たりえた.つまり,オーナー経営者の時代で,サラリーマン経営者の現代とはちがうことも注意したい.

「女工哀史」という有名な本がある.
おおくのひとが勘違いしている本でもある.それは,生糸の生産における女工たちが,いかに搾り取られたという酷い話だと思い込んでいるからだ.
たしかに,おおきなテーマはその通りなのだが,個別のはなしになると映画やテレビドラマのような「プロレタリア文学」の世界ではない.

世界遺産の「富岡製糸場」にも説明があるが,工場内には最新の医務室があり,そこには国籍をとわず,当時としては一流の医師や看護体制があった.
女工が病気になっては,生産量が減るからである.だから,健康管理にはたいへんな気をつかった.つくられた映像の強制労働的な表現は,作りばなしである.

また,近隣の村々から,女工を募集しなければならないから,強制労働のうわさがたてば,とたんに応募がなくなる.すくなくても,初期の製糸場では,後世の常識ではないことが常識だった.
成績優秀な女工には特別手当が支払われたから,ひとりの優秀な女工が成績をあげると,実家にはいまでいう「御殿」が建った.それほどの報酬が支給された.
これは,品質とスピードという競争の結果である.

しかし,これらの努力よりも,おおきな効果をかんたんに生むことが遙か遠い欧州で起きた.
それが,第一次大戦だった.
「大戦景気」という「努力」とは別の次元でおきたことで,奇跡的にうまくいく.
つくればその場から売れていく.夢のような事態であった.すなわち,バブルである.

このときの「景気」による資本蓄積が,重化学工業化を促進させ,「列強」としての格付けに貢献することになる.
大戦中の四年間で,わが国貿易額は4倍になった.年率にすれば,40%以上の成長率である.昭和の高度成長期でさえ10%超までだったのだから,その迫力はいまでは想像も困難だ.
都市労働者が吉原の郭から工場へかよった,という逸話は真実だった.

これを支えたのが,女工であった.
景気に目がくらんだ愚かな資本家=経営者は,とうとう女工を奴隷のように扱って,国内に結核蔓延の下地をつくった.農村の疲弊で,娘の口減らし先を選べなくなってもいた.

大正から昭和の初めは,大戦の終了と,関東大震災,それに,天保以来の大飢饉という「自助」ではどうにもならない三段波状攻撃を受けて,わが国は別の国になる.

「持たざる国」が,「持てる国」たちと同格の競争に負けまいと,「持てる国」を真似た国策を追求した.
このあたりの事情は,戦後GHQでわが国労働法の基礎をつくりにやってきた,ヘレン・ミアーズが書いた『アメリカの鏡 日本』にくわしい.また,本書の冒頭にあるように,マッカーサーが日本語版を「発禁」にしたことでも有名になった本である.なぜに,発禁とされたのか?は読み進むとわかるだろう.

ちなみに,マッカーサーの副官でもあったウェデマイヤー将軍の,『第二次大戦に勝者なし』は,「勝者の目線」での分析でありながら,じつにむなしくせつないことが,淡々と綴られている.この本の出版が,原著の出版からいかほど「遅く」日本語となったのか?をかんがえることも,戦後日本の言語空間についてのひとつの思考実験になるだろう.

 

敗戦で丸裸になっても,朝鮮戦争と,東西冷戦という世界構造,それに安い石油がくわわった,三段波状の奇跡的ラッキーで,わが国経済は拡大の一途を辿る.これに,西ドイツ経済もおなじくするところが,「戦後世界経済」の肝ではないか?全体主義的敗戦国が,西側の「優等生」になる.
日独ともに,空襲で焼け野原になった工業地帯の復興は,最新設備の導入というラッキーをもたらし,空襲で焼けなかった戦勝国の設備より必然的に有利になってしまったのだ.

もちろん国がすすめた「傾斜生産方式」が,民間設備投資の自由を奪うじゃまをしたが,戦後の混乱が行政機能もマヒさせたから,傾斜生産方式が「打ち出される前」に,奇跡の準備はできていた.
このラッキーをいう専門家がすくないのは,商工省から通産省になった役所からの「配分」が減らされる恐怖からではないかと疑う.
戦後復興の栄光ある経済政策,傾斜生産方式をやりとげた通産省・経済官僚の勝利,とは,たんなる「神話」=「ファンタジー」である.

まさに,「奇跡」は,戦前という時代にも,戦後という時代にもやってきた.
その戦後の奇跡をつくった,東西冷戦も,安い石油もいまはない.のこるは,朝鮮戦争の残滓である.
西ドイツは「東」の負担を背負ってなお欧州をけん引しているから,なにごともなかったわが国の凋落こそが,真の「実力」となってあらわれている.

平成不況の真因は,バブル崩壊でもなんでもなく,「奇跡の時代のおわり」に対応できなかったことであろう.
しかし,いまだにおおくのひとが,あれは「奇跡」だったとおもっていない.
「勤勉」はなにも日本人の特許ではないが,世界で一番働いたのは日本人「だけ」だとうぬぼれた.この勘違いこそが現代の「奇跡」であり,「無能」の証拠である.

労働生産性が先進国でビリなのは,今に始まったことではなく,高度成長期すら,である.
たしかに当時の日本人もよく働いた.しかし,その働き方は,いまと同様「能」がなかったということだ.ムダによく働いた.
すなわち,これは「働かせ方」の無能がさせたのだ.

それを隠そうと厚化粧で誤魔化したのが,官僚の「優秀」さと勤労者の「勤勉」というからくり方便で,数えるほどしかいない「名経営者」が華を添えた.
そうやって,勤労者は,よいしょされてコロッとだまされて久しい.

実力をとわれる時代になったがゆえに,低賃金で長時間労働という,この国のなりわいである本当の顔がおもてにでてきた.
それを,「優秀な政府・官僚」が法律でなんとかしようとするのは愚かであるとだれもいわない.
そこで,英国人のアトキンソンさんが登場した.

これは「奇跡」なのだろうか?

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