日本の中華思想

江戸時代初期の天才的大学者として有名な、山鹿素行の代表作『中朝事実』こそが、わが国を本物の「中華」だと論じた力作だ。

「中朝」とは、「中華」の「中」で、「朝」とは、「本朝」つまりわが国の「朝廷」の「朝」を指す。
つまり、本朝こそが世界の中心であることの「事実」を、「中華」を自認する国の歴史事実と比較して淡々と論じているのである。

すなわち、神々を祖先にする「すめらみこと」の家系による、一貫した権威と民のためという思想の優位性の主張であった。
これが後の本居宣長らによる、「国学」への影響となって、明治を迎えることになる。

よって、「中華」の国との思想的な「違い」にも触れざるを得なくなって、幕府が推奨した、天子を補佐するための「朱子学」を否定するに至る。
これを、「江戸市中」で主張したのだから、ご公儀の摘発から免れることはなく、「江戸所払い」の処置を受けることになった。

山鹿素行といえば、もう一方の「専門」に、「軍学」がある。
よって、軍学指南という名目で、播州赤穂浅野家(5万石)に「お預かり」となった。
このときの藩主は、あの浅野内匠頭の父親である。

それで、浅野家は「家老待遇」という破格の条件で山鹿を迎えた。
こうして、浅野家の家の学問が、「山鹿流」となったのである。
「人材」を求めるのは、特に江戸初期の「藩」の経営には必須とされた。
なにしろ、戦国が終わって幕府体制になったのである。

だから、幕府には従順を示さないと、どんな理由(いちゃもんでも)で、「お取り潰し」の憂き目をみるかわからない。
だからといって、全部を受け入れては「家の経営」が成りたたない。
武士にとって、最大の危機は、「浪人」になってしまうことだった。

そんなわけで、浪人の身で他家に「再任」することは、超難関大学に合格するより困難だったが、「超優秀」となれば、引っ張りだこになったのである。

なお、全国の武士は、『武鑑』という本に登録記載されていて、その「家」がどんな由来かも一目でわかった。
すなわち、『武鑑』から家の名が削除されたら、「武士」ではなくなったのである。

いまでいう、「公務員名簿」で、各藩毎に整理されていたのである。

それで、「山鹿流」は、各藩に重用されて、特に津軽家の本家・傍流では家老職が当然となった。
また、山鹿素行自身の交遊も広く、高家筆頭吉良上野介とは、昵懇の間柄ともなっていた。

その「昵懇」ぶりは、吉良家伝来の当主にだけ伝わる「プロトコール」の秘伝書を、上野介は素行に直接見せて、これの書写を許したことで証明されている。

すると、吉良家と浅野家は、山鹿素行を通じても、悪い関係とはいえなかったはずである。
これを、小名木善行氏は、「忠臣蔵の真実」として解説している。
これまで数々ある「解釈」で、もっとも納得のいくリアルな感じがする。

いまでいう、「儀典官」の長が吉良上野介ではあったけど、おそらく教養に長けていた本人には、山鹿素行の学問は「私的」な趣味の世界であったことだろう。
対する、浅野家は、藩内で「公的」な学問になっていた。

これが、「すれ違い」の決定的要素となって、勅使饗応役での「プロトコール」上の解釈が、トリガーとなったという説である。

「高家」とは、室町幕府以来の伝統と格式をいう。
問題となるのは、三代将軍足利義満が明(みん)から得た、「日本国王」の称号にさかのぼる。

これ以来、足利幕府に勅使が訪問した際の「席次」が、将軍が上、勅使が下になってしまったのである。
よって、徳川になっても、高家としては「伝統」として、この席次を踏襲してきた。

しかしながら、山鹿素行の学問はこれを到底許すものではない。
天皇の名代たる勅使が上、将軍が下になる「当然」がある。

浅野内匠頭は、幼少時に初の「勅使饗応役」を務め、このときは吉良からお褒めの言葉を得ているから、「伝統」を踏襲したのであろう。
しかし、成人してからの二度目では、「藩内世論」もあって、いかにしてこの「ゆがみ」をなくするかが最大の関心になっていた。

つまり、「席次」という、いまでも外交の場では重要な問題が、国内での「権威」を示す重大事であり、さらに、私的には吉良氏も賛同していたはずで、おそらくは浅野内匠頭とのプライベートな場では、双方の意見の一致があったにちがいない。

しかして、ご公儀の儀典長としての立場になれば、そうはいかないのが「しきたり」というものの面倒だ。
おそらく、浅野内匠頭は、饗応当日、独断で席次を変えてしまったものを、吉良がとがめたにちがいないとの説にも説得力がある。

さらに、「藩内世論」が浅野内匠頭の行動を支えたし、「松の廊下」での刃傷も、吉良の怪我の度合いから、「峰打ち」が妥当だろうという説に、説得力が加わる。
真剣を殺意あって振れば、「軽い傷」で済むはずがないし、鎌倉以来の「ケンカ両成敗」の原則があるから、一方的処断はあり得ないと考えた浅野内匠頭の発想は、あくまでも「常識的」なのだ。

しかし、幕府はそうしなかった。

しかして、「討ち入り」とは、「藩内世論」の言った側の責任として、さらには、『中朝事実』の実現だったのである。

「最終的」に、幕府は「将軍綱吉の遺言」として、100年後に「席次」を「正す」ことを約し、大石内蔵助以下は「満足」をもって散っていった。
これがとうとう、「大政奉還」にまで至るのであった。

残念ながら、吉良邸で大石内蔵助が叩いたという「山鹿流陣太鼓」はフィクションだという。
確かに、歌舞伎演劇としての効果は抜群だが、攻め手としては余計な仕事ではある。

さて明日は、12月14日ではあるけれど、旧暦ならば来年1月16日がこれにあたるので、念のため。

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