観光産業は基幹産業にならない

世の中にはこまったひとたちがいて,「幻想」をあたかも「現実」のようにかたることがある.
それが業界人であれば,「アドバルーン」だと聞き手が認識すれば問題にならないが,専門家とか有識者と称するひとのはなしだと,それは「うそ」にもなるから社会には害悪である.
どんなものかといえば,以下のとおりである.

「観光産業を(わが国の)基幹産業にしていくのが目標である.」

これは,不可能でもあるし,そうなっては困る.

結論から先にいえば,政府の訪日外国人旅行者による国内消費の目標が,2030年で15兆円でしかないからだ.
2016年の消費額が3.7兆円だったから,これは年率に換算すると10.5%という昭和の高度成長期に匹敵する伸び率になっているのにだ.

わが国のGDPは,内閣府発表の2017年度,名目548.6兆円,実質533.0兆円である.
インフレを考慮したのが実質額なので,16年の消費額で実質を比較すれば,0.69%にすぎず,30年の目標値で比較しても,2.81%である.
もちろん,GDPは「付加価値」だから,外国人の消費額という「売上」で比較するのはまちがっているのだが,より外国人の影響が強くなるこの方法でみてもこの数字にしかならない.

この産業だけで,国民は食ってはいけない.

つまり,「観光業」としてありえないほどの大成長をとげても,国民経済にとって3%にも満たないのが,外国人依存の結果なのだ.
これが,どうしてわが国の「基幹産業」になるのか?
まさに,顔を洗って目を覚ませといいたい.

さらに,この議論には,観光業をバカにしているのではないかと疑いたくもなるニュアンスがふくまれている.
「観光業」とは,総合芸術的な産業なのだ,ということを忘れているのではないか?ということだ.
単純に規模を追っている印象が「基幹産業」といういい方にあるようにおもわれるからだ.しかし,そのわりに,数字を無視しているのは意図的にか?それともファンタジー文学か?

自然をあいてにしながら,食料生産に関係する一次産業と,二次産業たる鉱工業からうまれる文明の利器の積極的投入による利便性の追求と環境保護,それに人的なさまざまなサービス,という産業分類のすべての知見を統合してはじめて成り立つのが「総合産業」であるはずの「観光業」ではないか.

それは,バレエやオペラに代表される「総合芸術」に似ている.
しかして,バレエやオペラを芸術界の基幹産業と呼ぶものなどいない.
ましてや,バレエやオペラの売上高が,他の演奏会のシェアで比較しても,巨大とはいえないだろう.

わが国観光業が外国人市場で発展するためには,わが国独自の一次産業があって,わが国の二次産業が利便性を提供しつづけ,これを人間がプロデュースしなければならないのだ.
それを,最後の観光業従事者というひとたちだけで,なし得るものだ,というのは,「夢」を通り越した「誇大妄想」ではないか?
あるいは,「自信過剰」の鼻持ちならぬはなしである.

たとえば,自然の景観という観光資源も,外国の僻地にあるような「放置された自然の美しさ」をわが国に探せば,じつは本当に放置された場所か,交通機関の整備がないまさに「僻地」しかない.
便利な交通がある場所は,人工的な建造物にあふれていて,かぎられたお決まりの撮影スポットしかないから,現地にいくより映像でみたほうが美しいかもしれない.

ふるい伝統的な日本を感じる地方都市も,東京のようになりたい,東京のようなガラスとコンクリートがほしい,と全国一律にカネをばらまいたから,駅舎すら撮影意欲をなくすポスト・モダン建築ばかりで,情緒などどこにもない.
これは,旧市街・新市街という都市計画の常識が,経済の貧困と貧困なる発想が掛け算になって,市中でもほんの一角が「観光地」で残るばかりである.

戦後のまちづくりにみられる混沌こそは,敗戦の貧しさの象徴で,それを近代というおしろいで化粧はしたものの,にじみ出る貧しさは消しようがない.
これが,欧米以外の,たとえばアジアからの観光客に受けているのかもしれない.
かつての支配者たちがつくったまちとはぜんぜんちがう混沌をみて,安心と自信を得るのではなかろうか?しかし,これは自慢できない.

東京の焼け野原に匹敵する破壊を,執念と自助で復活させたワルシャワ市に代表されるポーランド人の精神は,日本人にはつゆほどもなく,ただひたすら近代をもとめたのは,いまさらながらに貧困なる精神だったのだとおもう.

いまだにこの精神のままでいるから,この国が観光立国になどなれないし,なったところで本当の貧困がまっている.

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