冬至祭りのクリスマスと第九

気の早い商店街だと、10月のおわり頃からジングルベルが放送されている。
11月でも早いから、どうしたのだろうとおもうことがある。

星や太陽の運行について、大むかしから観察しているひとがいるとはいうものの、冬至と夏至、春分と秋分によく気がついたものだ。
それに星座の不思議は格別で、どうしてオリオン座がオリオンの姿にみえたのか、まったくわからない。

子どものころ、プラネタリウムで、古代ギリシャ風の絵を重ねる説明があったが、ぜんぜん納得できなかった。
「何万光年」という単位をおそわって、頭の中が混乱するのは、立体的理解ではなく、平面的に終始するからで、オリオン座も立体的に星を配置してみたら、どんな格好をしているものなのだろうか?

向かって左上の赤色巨星、オリオンの絵図にしたら右肩にあたる一等星「ベテルギウス」が、いつ超新星爆発をしてもおかしくないという。
この星と地球の距離は、642光年というから、もしも今日、その爆発を観察できても、それは642年前の出来事である。

そういう意味で,タイムマシンとはこのような「物と事」ではないかとおもう。

星座占いでつかわれる、黄道十二宮の星座も、「むかしから」ということだけしかいまだにわかっておらず、いったい誰がいつからいいだしたのか、さっぱりわかっていない。
わからないから、神秘なのだといわれれば、そのとおりというしかない。

「神秘」とは、わからない「物や事」だといいきれば、世の中は神秘に満ちている。
地震や雷だって、いつ何処で発生するかといわれても、わからない。
そもそも、手にした一枚の紙を手放すと、どこに落ちるのかを予測することすら不可能である。
ひらひらと飛んでみせたり、そのまま落下したりするのをみることができるだけだ。

みることができない音楽も、「神秘」とされる曲はたくさんある。
世界の習慣にない日本独自の習慣になった、暮れの「第九演奏会」は、ベートーヴェンの最後の交響曲を指すが、一年のアカ落しのような感覚で演奏を聴けば、会場をあとにキンとした冬の空気と夜空の星で、「宇宙」を意識してしまう。

ベートーヴェンの物語では、個人的に傑作だとおもっているのは、ゲイリー・オールドマンがみごとに主演した「ベートーヴェン 不滅の恋」(1994年)がある。
このなかで、酔った父からの虐待をのがれる少年が、星空の夏の野を走り、沼に浸かって身をゆだねるシーンが、第九第Ⅳ楽章の有名な器楽フーガにのせてすばらしい映像美をみせてくれた。

 

左は復刻版DVD,右はVHS版である。
ちなみにこの映画のサントラ盤は、クラッシックのジャンルとして、当時の日本で異例のヒットになって、調子にのったレコード会社が「続」まで発売し、これも売れた。
ベートーヴェンの生涯作品の「入門に最適」との評価は当然で、サー・ゲオルク・ショルティ=ロンドン交響楽団による、オリジナル録音だった。

「第九と宇宙」は、「神秘」をつくりだしている。
ヨーロッパなら新年の祝賀とか、春から夏にかけての演奏が主流というが、近年、日本の風習である「年末」に演奏されて、好評だと聞く。

しかし、いわゆる欧米の「年末」といえば、クリスマスがドカンと存在している。
クリスマスがなかった日本では、新たな年を迎えることがなによりも重要だったが、それは、太陽信仰からやってきた。
元旦のご来光こそが、「神秘」だった。

ところで、第九の歌詞はシラー作である。
この歌詞にある、「神」とは「どの」神なのか?をかんがえたくなる。
ふつうは、キリスト教の「神」をいうのだろが、どうなのか?
シラーは、そんな「単純」な人物なのか?

ヨーロッパ近代は、キリスト教否定の歴史でもある。
その代表はニーチェ『アンチクリスト』だ。
キリスト教による「支配」とはなにか?
弱者と強者の関係は?

金融資本主義という意味不明な用語は横にしても、虚業の金融業が実業の産業界を支配し、自己崩壊した象徴がリーマンショック(2008年9月15日)だった。
この時代の「支配の構造」として、『マトリックス』が、1999年に第一作、『ダビンチコード』が小説として2003年、映画として2006年に世にでている。

 

2003年の『マトリックス リローデッド』で破壊された友軍「グノーシス号」のみじかいエピソードが、『ダビンチコード』で一体となった。
初期キリスト教「グノーシス派」のはなしである。

皆殺しになったから、実際のところがほとんど不明なままの「グノーシス派」の神とは、天地創造の神ではなく、その上に位置する「最上の神」だという。
「一神教」に対して、神が複数いて、しかも階層があるとは、たいへんな概念だ。

しかし、シラーの詩でいう「神」とは、もしやこちらの「最上位」の神のことではないか?
すると,第九が「人類」を歌いあげるとは、キリスト教徒だけが人間である、という支配の構造の否定を宣言している意味になる。

歴史的に存在が確認されていない「イエス・キリスト」という人物の実在は、たしかに信じるしかない。
その誕生日が、なぜかくも「冬至」に近いのか?
秋分いらい弱まった太陽のちからが復活をはじめる「冬至」は、きわめて重要な分岐点だ。

第九がこの時期に演奏されるのは、既存の「支配からの脱却」という意味もあるとおもう。
そうかんがえると、シラーもベートーヴェンも、じつは「革命歌」をつくっていた。
それは、フランス革命などという「ちっぽけな」ものではない、人類・宇宙の壮大なはなしなのだ。

格別な夜に格別な「第九」を、じっくり聴いて、来年こそはいい年になりますように。

難問は先送りする

受験問題のテクニックではなく、現実社会のことになると、みごとに社会「停滞」の原因となってくる。
ただし、その難問を誰が解くべきか?というべつの難問も用意されるものだから、二重にからみあった難問になるという特徴もある。

国が解決すべき難問なのか?、自分たちが解決すべき難問なのか?
民主的な社会では、まずは自分たちが解決すべきことという認識が、社会の共通かつ基盤の認識になっている。
だから、自分たちで積極的な議論をおこなうのが常である。

そうでない社会では、自分たちには関係なく、解くべきは国(他人)であると思考する。
旧ソ連がその典型で、それはまた支配者(党)がかんがえて命じる、という体制であったから、個人がなにかをかんがえて行動することは、逆に許されなかった。
結局のところ、これが原因でソ連は消滅したが、その後のロシアの停滞も、国民が自分たちで解決するという認識をもちにくい、こんどはマフィア社会におちてしまったことにある。

ソ連崩壊の10年前に、なぜ、どのようにしてソ連が崩壊するかを、論理で預言し、じっさいの歴史がその論理のとおりになった、おそるべき分析が、天才小室直樹の『ソビエト帝国の崩壊』であった。

それで、どんな想いでロシアのひとが生きているかを描いた、といったほうがよさそうな映画『オーケストラ』での「生活」表現が興味をひく。

そんなロシアでは、国を崩壊にみちびいたとして、ゴルバチョフ元共産党書記長・初代にして最後のソ連大統領の人気はいまだに最低で、東京にくれば地下鉄を愛用するほどの「凋落」ともいわれているが、真の共産主義者ならそれこそが理想的なのかもしれない。

じっさいに、かれに書記長の「順番」がまわってきたとき、いったいどうやればうまくいったのか?
残念だが、だれもこたえをしらない難問だ。

直接選挙でえらばれた最初の大統領、エリツィンは、自由化さえすればうまくいくと信じたし、アメリカから大挙してやってきた経済顧問団が「指導」したが、ぜんぜんうまくいかず、国営企業の私物化からはじまるマフィア経済が主流の国になった。
国民がなんと、「自由」をしらなかったし、自由があたりまえのアメリカ人たちも、「自由化」の方法をしらなかった。

日露戦争でロシア革命をてつだったわが国は、情報戦のはずだったが、大正デモクラシーで、革命思想がたっぷり流入し、世界大恐慌とそれにつづく昭和恐慌で、スターリンの五ヵ年計画の成功(ほんとうはウソだった)に刺戟され、これをまねればうまくいくと信じた。
市井の社会主義・共産主義者は弾圧されたが、国家中枢の社会主義は推進された。
それがとうとう、「企画院事件」として世人を驚嘆させたのだった。

そんなわけで、わが国は「世界でもっとも成功した社会主義・統制経済体制モデル」になった。
わが国官僚を育てるための教育は、小学校からはじまり、大学受験でピークをむかえる。
だから、官吏養成校としての「大学」(旧帝大)には予算がつくが、それ以外の大学は重視されない。
「緻密」な日本官僚は世界最強で、荒っぽいロシア人や中国人にはまねができない。

しかし、官僚体制の弱点は、組織防衛、という一点にある。
とにかくいつまでも、いい子でいたい。
それで、外部からの批判に敏感になって、組織を維持するためなら、なりふり構わない。
こうして、国民のために存在するという目的合理性を完全喪失しても、痛くもかゆくもない精神がきたえられるのだ。

それが官民ファンドの不祥事になったりするのだが、これは被害がみえにくい。
これから、民間企業がひどいめにあうだろうと想像できるのは、障がい者雇用にかんする「官」の「不正批判」からみをまもるため、自分たちがよければそれでよい、とする軽度障がい者の争奪だろう。
正確とはおもえないが、その数、8,000人という。

すなわち、民間企業に勤めるひとをその会社から剥がして、「公務員」という身分をあたえる。
こうして、官がインチキした「雇用義務」を糊塗するにちがいない。
たとえ「軽度」でも、障がい者を雇用したことがない「官」は、厚顔無恥にも「民間の知恵」と称して、子飼いのボランティア団体とかに、はたらきやすい職場づくりのアドバイスをもとめるだろう。

引き剥がされた民間企業には、「雇用義務」が達成されていないとして、罰則のムチがやってくる。
「軽度」のひとで、職をもとめる数がどのくらいなのか?なんて関係ない。
とにかく、役所勤務にさせればよい。

こうして、触手の対象にならないひとたちが、置いてきぼりをくわされながら、民間の責任に追い込むことになるはずだ。

おそロシヤ、おそロシヤ。

愛社精神はあるのだけれど

ひとの精神がおちつくのは,「帰属意識」があるときで,なかでも自分が「役に立っている」と自覚できると,おおきな満足感をえるようになっている.
これは、太古のむかしからの集団生活で,狩猟であろうが農耕であろうが,グループで行動しないと収穫がすくないことからのDNAがあるのではないか.

それは,犬もおなじで,グループで狩りをして,そのための役割分担がきまっている.
それが,集団内の順位にもなっている.
グループから追放された犬には,死がまっている.
一匹では,狩りができないからだ.

犬と人間の良好な関係は,このあたりの類似にもあるのだとかんがえられている.
ただし,犬には人間にない能力が幸いし,人間は犬以上に高度な能力がそなわっているために,かえって不幸になることがある.
それは,順位にかんする「意識」だ.

犬の世界は,一度順位がきまると一生かわらないほどに厳格なぶん,最下位になっても「精神的負担がない」,つまり,自分のひくい順位をなげくための脳細胞がない.
それに,人間ならピラミッド状の組織をつくるが,犬のばあいは一匹ずつの順位になるから,「同格」という概念がない.すなわち,同じ位置でのライバル意識も出世競争もない.だから,社会的に自分の位置を「恥じる」こともない.

ちなみに,自分の体型としてのおおきさを認識できていないから,小型犬が大型犬にまじってグループを形成しても,それだけで順位がきまることはない.
だから,チワワがセントバーナードの上位になることもありえる.
しつけができていない犬が,自動車やバイクに飛びかかろうとするのは,うごくモノに反応する狩猟本能だというが,自分のおおきさを認識できていない証拠でもある.

そういうわけで,ある意味,犬社会のほうが人間社会より安定していることもある.
しかし,どちらの社会にも共通するのは,トップにいるリーダー次第で,決まる,ということである.
リーダーに不向きな,犬やひとが,リーダーになってしまうと,集団全体が不幸になるのである.

犬と人間のながいつき合いで,「家庭犬=愛玩犬」というジャンルがうまれたのは最近のことで,犬は人間にとっての「使役犬」であった.
猟犬はもちろん,それから派生したのが軍用犬や警察犬,そして,番犬である.
なので,動物行動学における「犬」の研究とその成果は,いかに使役犬として「使える」犬にするか?であって,「愛玩」目的ではなかった.

それで,愛玩目的のしつけ方法をどうすればいいのか?という問題解決には,犬とは何者なのか?をあらためてかんがえる必要がでてきた.
つまり,犬の習性をしらずして,犬を愛玩犬に仕立てることはできないというわけだ.

「日本人は総じて貧しい.だが彼らは高貴である」といったのは,日露戦争前に東京に駐在したフランス人外交官のことばである.
それから百年あまりが経過して,「日本人は総じて豊かである.だが彼らは卑しい」になったいま,わたしたちは何者なのか?をかんがえるひつようにせまられた.

それで,百田尚樹『日本国紀』が大ヒットしているのだろう.

すこし前には,西尾幹二『国民の歴史』が,百田氏の執筆動機と似て書かれている.

対して,左派からは,アンチ本が出版された.
左派ががんばった時代があった.
しかし,彼らこそ「戦後的『保守』」なのだ.
執筆陣の名前は,ちゃんと覚えておきたい.

対して,もう一冊,解説がでている.

そこで,皇国史観の大権威,平泉澄『物語日本史』は,ちょっとまえの近代日本人が常識としてしっていた「日本史」として一読の価値があるし,「戦後的保守」がなにを問題として主張したいのか?の原点にもなる.
皇国史観をしらずに,皇国史観を批判してもはじまらない.

  

これらをふまえての「議論」として,本ブログでも紹介した,小室直樹・山本七平の傑作対談『日本教の社会学』は,その奥深さをもって,いまではかなうはずもない続編を読みたかったものである.

るる書籍の紹介をしたが,せめてこれらの図書をベースに,日本人をかんがえないと,何者かをイメージするのは,犬が自分のからだのおおきさを意識できないと同様に,知っているつもりに落ちてしまう.

「うちの従業員はつかえない」という経営者は,従業員からみたら,絶望的な結末にみちびくリーダーと認識されている可能性が高い.
それで,有能で自信がある従業員から退社する.
グループから追放された犬は,生きる術をうしなうが,人間はそうとはかぎらない.

「うちの従業員はつかえない」という経営者のもとではたらく従業員が,愛社精神すらない,と決めつけることもまちがっている.
「愛社精神はあるのだけれど」,に,「社長がね」や経営幹部がつくことがおおい.

それは,従業員が会社になにをしにきているのか?の本質,すなわち「稼ぎにきている」ことを意味する.
従業員は,社長がいう「効率的に」,「稼ぎたい」のだ.

「この会社は『効率的に稼げない』」という理由を,ちゃんとリーダーへの不安と不信として意識しているのである.
「働きかた」よりも,「働かせかた」が下手すぎる.

そういうわけで,日本人従業員の理解とて,一律でかんたんなことではない時代に,「安価」に期待しただけで,どこの国かを意識もせずに外国人労働者を雇用するのは「安易」だと気がつかないと,リーダーの資質を日本人以上に冷静に評価して,これをもって「要求行動」にでるのを弾圧すれば,いったいどういうことになるかを想像すればよい.

国際的なため息の国になる.
けれども,それが,ため息だけですめばラッキーだろう.
あたらしい「打ち壊し」という暴動が頻発するようになるともかぎらない.

いい会社をつくりましょう!

さくら・開花の準備中

すっかり葉が落ちて、枝と幹だけになってそびえる桜だが、よくみると、花芽はもうとっくにつけている。

よくみる、という行為をしないとわからない。

ぼんやりと眺めることは、全体をつかむときに有効で、景色の写真を撮るときには、カメラを無限大にしたものだ。
だから、ある対象を際立たせたいときは、それにピントをあわせて周辺をボカすと、いっそう目立たせるごとができる。

これは、遠景でも超近接のばあいでもおなじだ。
人間の情報処理能力にかかわるのだろう。

対象がたくさんあると、ひとは選択できなくなる。
マーケティングでも、有名な理論だ。
だから、おなじような商品をばく然と並べてはいけない。
消費者は選択できなくなって、しまいに購買行為そのものをやめてしまうのだ。

これは「売れない」理由のひとつだが,べつの理由をかんがえる店主がいる.
それは,「商品に魅力がない」のだときめつけるのである.
陳列方法がわるい=じぶんがわるい,とはかんがえない.
だから,いつまでも「売れない」のだ.

さて、ビジネスの世界では、「なにがあっても結果がすべて」とよくいわれている。
経営トップのよくある従業員を整列させての挨拶で、どの会社でもあるから定番になっているほどだ。
しかし、このことばには、どこかいかがわしい匂いを感じる。

ひょっとして、こういうことをわかったような顔をして演説できるひとは、それまでのビジネス人生でほんとうに「結果」を出した経験があるのだろうか?と。

もちろん、なんらかの評価が同期入社のなかですぐれていると、その上の世代のトップが判断しないと、昇進できないのが日本の会社ではある。
しかし,それがなんだかはよくわからない.
本人もよくわからないだろうけど,昇進するのだから自分に問題ないとかんがえるのはふつうだ.

だから、それがなんだったのかは、ある意味公表されていい。
そうでもしないと、とんでもない人物が、とんでもない理由で選ばれてしまうかもしれないとおもうほど、この国のあらゆる組織におけるガバナンスがゆるんでいるようにおもえる。

実務で、結果を出すためのしくみづくりに苦労したひとなら、いきなり「結果がすべて」とはいえない。
むしろ、準備こそ重要だとかんがるはずである。
この「準備」のことをふつう「プロセス」という。

いい結果を出しつづけるには、ちゃんとした準備が不可欠なのだ。

そのことを、真冬の桜が教えてくれている。

「信頼」を生産する

10年前に購入した,フランスの自動車会社製の「光る電動ソルト・ミル」が,電池の液漏れで動かなくなった.
購入したのは,東京日本橋にある老舗の刃物店である.
それで,修理を依頼した.

できたと連絡があって,引き取りにいくと,あたらしい電池だけでなく岩塩もたっぷりはいって返納された.
修理代金は,無料だった.

店は輸入代理店のはずだが,「これだ!」とおもう.
じぶんたちが目利きしたものに,徹底的な責任を負う.
だれがつくったものであるとか,どこから仕入れたかは関係ない.
目利きの結果で販売したら,その商品のその後はじぶんの店の沽券にかかわることになる.

たんに「アフターサービス」とか「アフターケア」といいたくない.
店の存在理由にまでいたる「かんがえ方」をしっかりと感じるからだ.
こんな店は,むかしならふつうだったのだろう.
だから消費者は,ふつうが失われているのに,便利になった,と勘違いしている.

それは,使い捨ての正当化にはじまる.
けれども,金額にすれば数百円のものならまだしも,万円単位となればそうもいかない.
ましてや,たかがソルトミルなのだが,これに万円単位を払ってしまったら,やっぱりすぐに棄てる気にならない.

そもそも,万円単位のソルトミルを売っていることからはなしがはじまる.
それを,老舗がしっかり品質保証しているのだ.
だから,刃物でちゃんとしたものが欲しかったら,かならずこの店ときめている.
たかだか千円の爪切りだって,ここで買う.
なんと,切れなくなったら,ちゃんと研ぎなおしをしてくれる.

そうすると,研ぐことを仕事にしている職人の仕事になる.
だから,ちゃんとした職人を残したいなら,ちゃんとした製品をつかわなければならない.
ちゃんとした職人がつくった,ちゃんとした製品は,ちゃんと修理をしてもらえるからだ.

そんなことがあったら,やはり10年ほど前に買ったツイードのジャケットがほつれてしまった.
これは,亡くなった伯母から,「あんたも不惑を越えて横浜にくらしているなら,元町の◯◯のジャケットぐらい着なさい」といわれて買いにいったものだ.

その日は珍しく小雪が舞うほどの雲行きだったから,商店街を行き来するひと影もまばらだったが,目的の店にはいるなりいきなり,「いらっしゃいませ,ジャケットですね」といわれた.
店主がジャケットのコーナーに行くのと,わたしが上着を脱ぎながらそちらにむかうのと,ほぼ同時に,店主がわたしの体型を一瞥して,一着をとりだした.

そして,上着を脱いだばかりのわたしに,それを着せてくれると,ぴったりだった.
「お似合いですよ」
この一言で,「これください」.
ものの一分もしない買い物だった.値段はみていない.

それで,精算しながら手入れ方法も説明してくれた.
「わたしどものオリジナルですから,一生ものです」

この言葉をおもいだして,お店に持ちこむと,「かけはぎ屋さん」を紹介してくれたのだが,近所だからとご主人が同行してくれた.
それは,県内でも有名な職人の店で,おおくのクリーニング店や洋服リペアの専門店も,じつはここに依頼しているという.

「うちの店でお預かりしてもいいのですが,手数料がバカバカしいですよ.こんなに近所なので」と.
できあがりは,どこがほつれていたのかわからないものだった.

この洋服屋さんも老舗の刃物屋さんとおなじなのだ.
じぶんの店は,ただものを売っている「だけ」ではない.
商品を生産せずに,右から左へうごかせば売上にはなる.
そんな店ばかりがふえたように感じるが,かれらはものはつくらないが,じつは「信頼を生産」しているのだ.

それは,外国車の輸入専門会社とおなじではないか.
「クルマはつくらない,クルマのある人生をつくっている」

旅館やホテルは,なにをつくっているのか?
しみじみかんがえる年末閑散期である.

お正月準備の,ことしさいごのチャンスの時期ではなかろうか?

「技術の日産」と「技術の東芝」

どちらも経営が傾いてしまったが,どちらもそのむかしに経営が傾いたことがある.

日産は,プリンス自動車とダットサンが合併してできた会社で,トヨタとのライバル関係でしられているが,一方がなんとなく「阪神球団」,もう一方が「巨人軍」にみえてしまうのは,わたしだけだろうか?
その天下のトヨタ自動車の経営が傾いたときのはなしに,本所次郎の『小説日銀管理』がある.

この「小説」のラストがただしければ,日産には陰影的なDNAが最初から埋めこまれていたのかもしれない.
しかし,さいきん日産OBからきいて驚いたのが,このブログで紹介した,トヨタが世界的権威にまでなっている「TWI研修」を,日産が導入したのがこの15年だということだ.

つまり,今世紀に入ってからであって,いま話題のゴーン氏が社長に就任したのが1999年だから,ゴーン体制下における「研修開始」になることは注目にあたいする.
いったい,それまでどうやって現場責任者を育成してきたのだろうか?
しかしそれよりも,日産が事実上の倒産状態でルノーと提携したのだから,推して知るべしだ.

すると,一番若くてこの研修を受けたのは,大学を卒業してすぐのひとで30代後半,高校卒業のひとなら30代半ばになるから,ほんとうはもうちょっと年配者であるのが実態だろう.
そうなると,企業として現在の幹部が,現場管理者時代に現役として「TWI研修」を受けていないことになる.

それは、これも以前書いたが,ガルブレイスの『新しい産業国家』(1968年)にある,企業内「テクノストラクチャー」と名づけている,社員たちによる経営の簒奪メカニズムがうかぶ.

 

上記,文庫版は斎藤誠一郎教授による新訳だ.
河出書房の邦語訳初版は,ガルブレイスとハーバードで同級生だった都留重人訳である.
社会主義に傾倒していたこのふたりは,主流派からズレていたから仲がよかった.
バリバリ資本主義のアメリカで,ガルブレイスは「異端」だったが,都留は日本経済学界の大御所になった.その理由も,推して知るべし,である.

なんとなく,日産の「連続不正事件」の根っこがわかるではないか?

かつて経営が傾いたときの東芝には,土光敏夫という救世主が出現した.
もともと土光は大正9年に石川島造船所に就職したひとだ.それで,戦後,昭和29年には「造船疑獄」で逮捕・拘留されたが,けっきょくは不起訴になった.

逮捕されようが起訴されようが,「無罪」が確定するまでは「容疑者」であって,それには「推定無罪」という法理がある.
ゴーン氏の一件で,これを公に発言したのは,堀江貴文氏のツイッターしかみていない.
本件に関しては,かれのいうとおりだとおもう.

土光社長時代,東芝幹部は「怒号さん」というほどに怒鳴られたというが,こぞって「信奉者」になった.
第二次臨調会長になったとき,NHKが放送した「めざしの土光さん」が,あまりにも衝撃的だった.

ひとびとは財界トップのあまりも質素な暮らしぶりに,驚愕したが,一方で「じぶんにはできない」と,他人事でもあった.
国家財政の均衡をなんとか達成しようと老骨に鞭打つ奮闘をしたが,国民は政府の肥大化を許容した.それは,「年金よこせ」の声でもある「国家依存」の姿だ.

臨調で最後の御奉公をしたとき,土光敏夫氏は東芝「会長」になっていて,現役の経営から引いていた.いや,「臨調」の多忙がそうさせたというべきか.
残念だが,さいきんの「東芝事件」に関係したとされる歴代トップたちは,土光氏引退後の入社組なのだ.
かくも,企業DNAとは脆弱なものなのだ.

かつて東芝が倒産寸前になったのは,世界最高峰の真空管「技術」にこだわって,トランジスター時代に遅れたことが指摘されている.
はじめてカラーテレビをつくったとき,カラー放送でのCMを社内プレゼンしたら,土光氏は例の怒号で,白黒テレビで観たひとがカラーテレビをほしくなるCMにしろ,といったという.
当時は,新聞のテレビ欄でも,カラー放送は特別に「カラー」とか総天然色を略して「総色」などと表記していた.

顧客はなにを買っているのか?
組織が自己満足にはしると,自分たちの「自慢」をしたがる.
しかし,顧客はそんな「自慢」を買っているのではない.
その後のトヨタや,土光氏のエピソードはそれをおしえてくれる.

しかし,テクノストラクチャーたちはがまんできなくなるのだろう.
つい,うっかり,じぶんたちの宣伝をすれば,顧客は納得すると勘違いする.
それがこのばあい「技術」である.
それは,上から目線で顧客を見下す,という意味でもある.

かつてのソニーは,「It’s a SONY」とはいったが,技術のソニー,とはいわなかった.
「マネした電器」と揶揄されようが,松下電器は「あかるいナショナル」で一貫していた.
東芝も「ひかる東芝」だったのだ.

90年代,経営が苦しいときに「技術の日産」といっていた.それで,ルノー傘下になったらこれを変えたが,さいきん復活した.
それをどうしたことかとブログに書いたのは,昨年の10月30日,このブログの最初の記事だった.

顧客目線を失うと,企業は傾く,という法則がある.

「国民運動」が大好きです

国民運動会ではない.
「会」をとった,国民運動である.
英語なら,「National campaign」だ.

わが国における「国民運動」をまとめた書籍がなかなかみあたらない.
明治・戦前からいまをつらぬいて「運動」が,あまたありすぎてまとめようがないのかもしれない.
さほどに,大好き,なのだ.

みんな大好きだから,いわゆる「右」も「左」もない.
まんべんなく,どちらさまも,なにか事あるごとに「国民運動」にしたがるのは,「民族」としての習性なのだろうか?
だとすれば,「民族」ではなく「民俗」である.

民間による「国民運動」もあるから,とめどもない.
それで,現行,政府主導の国民運動をしらべると,いろいろ出てきてなかなか楽しい.

食品ロス削減国民運動(農林水産省)

世界に恥ずかしい状態の食品ロスを削減しようと頑張りながら,

ごはんを食べよう国民運動フード・アクション・ニッポン(農林水産省)

国産にこだわって,食料自給「率」をあげたい.
国産にこだわるから,「世界標準」の安全システムを採り入れていない.
この「世界標準」には,対テロリズム対策もあるから,日本では大袈裟とかんがえられている.
しかし,そのほかの項目でも,世界の安全性確保とは別世界なのが日本の食品である.

東京オリンピックで,どういう安全食材を提供するのかが問題になるが,「世界標準」を国産で用意するのはもう間に合わないだろうから,トップアスリートの食事には輸入食材をつかうしかないだろう.
日本の「食」で,ほとんど報道されないことがある.

早寝早起き朝ごはん(文部科学省)

さてそれで,子どもにもちゃんと朝ごはんをとるように,というのだが,いまや家庭の事情から,あったかいご飯と鍋でつくったみそ汁なんて,贅沢のきわみかもしれない.これがイジメの原因にならなければいいが,なんと朝食を食べると成績がよくなる,ということまで文部科学省がいいだした.

これは,統計的相関関係はあるものの,それをもって「因果関係」にしてはならない,という教科書的説明のわかりやすい事例になった.
文部科学省として,みずからその悪例を提示したことに敬意を表したい.

でもやっぱり,そんな統計の「いろは」を勘違いするような文部科学省にまかせたら,貧困の子どもをすくえないと判断したのか?子どもの未来応援国民運動(内閣府)がある.

貧困は親に仕事がないからで,将来自分も所得が高くなる職業につかなければならないから,働きかた改革が必要だし,なにせ目先の東京オリンピックでは,都内は観光客でごった返すことになっている,と決めつけて,テレワーク・ディズ(総務省,厚生労働省,経済産業省,国土交通省,内閣,内閣府それに東京都)という国民運動がある.

そんなにたくさんの観光客がくるなら,美しい景観がなければ恥ずかしいと,恥の文化全開で,日本の景観をよくする国民運動(国土交通省,農林水産省,環境省)もある.

歴史的景観を保存すべき「旧市街」と,そうでなくモダンな地域としての「新市街」といった,エリアわけの都市計画がない,ただ自由に建てるという日本的混沌をつくったのは誰だったのか?をおもいだす運動ではないことは確かだ.

ところが,さいきん外国人観光客をよそおって,不健康なひとも多く来日している.もちろん,医療ツーリズムで入国するならいいが,そうでないひともいる.
日本人でも働きすぎたりすると発症の危険があるのが肝炎である.
そこで,肝炎総合対策推進国民運動(厚生労働省)があって,有名俳優などが「ご挨拶」してくれている.
「薬害」という問題を隠蔽するためのものでないことを祈る.

安全という面で身近なのは,交通安全国民運動(警察庁)である.
かつては,「交通戦争」といわれるほどに,死亡者・負傷者の数がおおかった.

そして,やっぱり,地球温暖化防止国民運動「COOL CHOICE」(環境省)がお約束どおり,やってくれている.

「知っていましたか?これ以上温度が上がると,地球はもう回復できない傷を負う可能性があることを.」
それで,「賛同」にクリックせよという.
もはや踏み絵だ.

まだたくさんの「国民運動」があるけれど,こうしてみると,どれもあやしい.
一定の価値感の押しつけにもなるから,個人主義の外国ならすぐさま反対デモになりそうだ.
みごとな共通点は,かならず事務局は「なんとか協会」になっていて,役人の一部が予算とともにそこへ行くから,役所本体は丸投げであそんでいればいいような建てつけになっている.

ハンナ・アレントは,代表的著作で,大著としても有名な『全体主義の起源』に,ファシズムにおける「運動」は,かならず「永久運動」になる,と分析した.
国家のそこかしこで「運動」がおこなわれ,次第にその責任者も目的も不明になるが,サメやマグロのように,泳ぎつづけなければ息ができないのとおなじで,とにかく「運動」するしかない.

ほんとうは原著の邦訳をおすすめするが,要約としての以下の二冊も力作である.
「ヨーロッパ」を舞台にしているが,「人間のしわざ」であるとおもえば,われわれにも他人事ではない.むしろ,無垢な日本人こそ読んで免疫をつくっておいたほうがよい.

 

おおくの日本人は,中国のひとびとを嗤うことがあっても尊敬することがなくなった.
なにも,党や政府高官のことではない.
庶民のことである.

日本の進歩派が絶賛した文化大革命で,伝統文化がみごとに破壊された.その文化には,人間としてのマナーもあったが,これも破壊の対象だった.その世代はまだ生きている.
このひとたちは,日本人には野蛮にみえるが,それで生きのこったひとたちなのだ.
しかし,彼らには,数千年の歴史のなかで「政府だけは信用しない」という信念がある.

日本人は,政府だから信じてしまう,という特性があって,じつは酷い目にあってきているのだが,なんだかわすれてしまう.
そろそろ,この点にかんしては,中国の庶民を見習ったほうがいいのではないか?

そんな国民運動をやるひとが,でてくるのかもしれない.

「安全」はリスクである

学問的成果の有無という観点でいえば,「地震予知」における成果はほとんどない.
けれども,わが国は世界有数の地震国である,という不思議な「自負」もあって,「地震」にかんする研究には多額の予算が投じられている.

なかでも,「予知」に関しては,ずば抜けた「投資」をしている.
文部科学省のHPに,いちおうの資料がある.
自分たちで管轄していることに変わりはなく,つねに御殿女中のような細やかさでイビりを趣味嗜好とする役所が,国立大学が独立行政法人になったからといって,資料がない,と主張する神経に自ら異常をかんじない異常に,かえって「感心」すらしてしまう.
この資料は,何のために誰のために,という目的すらマヒしたことを国民にしめしたいのだろう.

そんな日本政府における権力構造を支えるのは,なんといってもカネ=予算だから,旧大蔵省=現財務省の主計局が最強といわれている.
しかし,予算を使うにあたっての最強の役所は,あんがい目立たない「内閣府」である.
「縦割り行政」を横につなぐのがここだからだ.

小松左京の傑作『日本沈没』では,「スーパー官僚」の主人公が所属するのは総理府だったが,『シン・ゴジラ』では,内閣府に看板をかえている.
ただし,この役所も,各省庁出身者からの寄せ集め的性格も内包している.
就職して最初に配属になった省庁が,各個の「本籍」になる.これは,一生かわらない.
それで,本籍とは別の役所に勤務することを「出向」とよんでいる.
だから,内閣府に本籍がある役人は,すごい,のだ.

 

そんなすごい役所が取り仕切るなかに,「中央防災会議」がある.
ここが,昨日「南海トラフ地震」における住民・企業・自治体がとる「べき」対応を発表した.
情報の中身は,それぞれが確認されたい.

この報道のなかで,中部地方の地図がしめされて,海ではなく内陸部の境界線に注目すると,それが「中央構造線」であることに気づくだろう.
本州を東西に分断するのが静岡・糸魚川線上の「フォッサマグナ」がしられているが,サカナの背骨のように,本州から四国・九州の地面を分断しているのが中央構造線である.

山梨県から愛知県にいたるラインは,ほぼ「中央高速道路」がこの線の真上に建設されている.
だから,理論どおりなら,「中央高速道路」はかなりあぶない.
なぜそんなところに道路をつくったのかの理由はかんたんで,「谷」をなしているからだ.
あとは,山ばかり.
人間が移動につかうための路は,太古から地形に支配されている.

さて,中央防災会議の議論も,地震予知の研究に多額の予算がつくのも,地震がおきたときの被害が大きいからである.
この発生するだろう被害を想定することは,リスク評価,といいかえることができる.
それで,地震は避けられないリスクであるから,予知できたら発生前に逃げることでリスクを減らそうという発想がある.

だから,予知できないとなんにもならない.

これが,地震予知にかんする批判の根っこで,困ったことに,その予知ができたためしがない.
東日本大震災の余震では,数秒前に携帯が警報ブザー音をだしたが,それでどうしろというのか?
家庭犬がこの音に反応して,恐怖するようにはなった.
犬の記憶力はせいぜい5分ばかりだから,音がして数秒後にくる揺れ,ということが学習できた.
だから,しつけにこまっている飼い主は,このことを応用すれば,犬のしつけができる.

こうして,できない予知に予算を投じるのはおかしい,という議論になるのは,費用対効果,ということになる.
ここでいう「効果」とは,「効用」ということだが,ひらたくいえば「メリット」すなわち「得」である.

つまり,費用という「損」と,メリットという「得」を天秤にかけることとおなじだ.
いつくるかわからない地震というリスクで,得になる,とはどういうことか?
第一には,生存,であろう.
すると,生存のためには,どんな準備が必要なのか?になるから,そのための準備が費用(コスト)になる.

裏返せば,費用をかけないことは準備をしないことだから,生存しなくてもいい,という意味にもなる.
これが,個人の生活なら,各人の判断があるけれど,近所に迷惑がかかる.

商売人なら,近所迷惑だけではすまない,賠償問題までかんがえられる.
だから,最低でもお客様の安全,従業員の安全は,コストをかけなければならないのだが,これは,「得」のためである.
すると,リスクには,得がひそんでいることがわかる.

宿泊業のリスクは,地震で建物が崩壊することからはじまって,火災,食中毒,温泉ガス,などなど,たくさんあるのだが,これらの対応準備にひつようなコストをかけることが,得になるのだ.
つまり,利益をかんがえたとき,利益率とはリスクを飲み込んだうえでの数字という意味になる.

だから,利益計画とは,リスクの評価を必須にするのだ.

産業革新投資機構という虚構

「日本は法治国家ではない」という発言を,ニュースとして初めて聞いた.

どういうわけか,政府に気をつかっているのかしらないが,「報酬」をめぐる経産省との争いが前面にでて報じられているのは,自動車会社の外国人役員による「100億円になる巨額報酬問題」とが,かさなったからなのだろうか?

しかし,役所の中で「高い」といわれたのは,投資が成功したばあいで最高1億円という額だというから,その「少なさ」に逆におどろいてしまう.
この機構の運用資金は2兆円なのだから,2万分の1の報酬でしかない.
たった0.1%の運用益でも,20億円になるから,1億円ではたったの5%だ.

いったいいくらの運用益を目標としていたのだろうか?

このしみったれた役人根性が,「旧産業革新機構」をみごとに失敗させたのではなかったか?
それで,経営陣を民間から募って「再出発」したはずの機構だ.
ただし,役人はけっして責任をとらないから,「旧産業革新機構」の負の遺産である,ジャパンディスプレイとか,ルネサスエレクトロニクスを,そのまま抱えさせられている.

マックス・ウェーバーは,『職業としての政治』に,「倫理的に最高の官僚は倫理的に最低の政治家になる」と書いた.

けっきょくのところ,「一流大学」といえども,卒業してそのまま役所勤務なった「キャリア官僚」は,もれなく民間企業で働いた経験がない.
つまり,じぶんでお金を稼ぐビジネスをやったことがない.

このひとたちは,官尊民卑の役所文化にどっぷりつかって,命令すれば現実になると錯覚しているかなりあぶないひとたちだ.
ついでに,なんのため,誰のため,という基本もわすれて,自分たちの組織のために走るから,まったく始末が悪いのが役人と役所という組織である.

ほんらい,こうしたひとしかいないのが役所だから,政治家はそれを修正させる役割をになう.
不思議なことに,いまの経産大臣は,政治学士でもあるから,上記ウェーバーの著作は学生時代に読破しているはずだが,輪をかけたトンチンカンぶりを発揮している.
「政府として決定したわけでもない『報酬額』を紙に書いて本人にわたしてしまった事務のミスだ」.

株式会社として,役員報酬の決定が正式になされた後の騒動だが,それをあろうことか大臣がこの程度の認識なら,それはそれは役人から重宝がられるだろう.

むしろ,世耕氏の本業はボストン大学の「企業広報論」修士という学位にみることができるのであって,あの小泉郵政選挙での歴史的大勝を自民党広報でとりしきった実績こそが,いまの「大臣」につながるのだろう.

彼が「セオリーどおり」といいきった「選挙必勝の理論」は,このブログですでに紹介済みの摘菜収『日本をダメにしたB層の研究』(講談社+α文庫)に解説がある.

つまるところ,プロパガンダの専門家が経済産業大臣をやっているのだ.
だから,なかみなんか関係ない.
それで,この機構がどんな分野に投資しようが,ほんとうはどうでもいいのだろう.
だから,辞表をだした経営幹部が交渉相手として,信頼をなくしたと評価した経産省官房長に,そのまま今後も機構対策の指揮をとらせると,平気の平左で命じている.

なんだこりゃ?

集団辞職におよんだ面々は,子どもではない.
大臣自ら,彼らを子どもあつかいしている姿しかでてこない.

そもそも,なんでこんな「機構」が存在しているのか?
民間金融機関がリスクマネー投資をしないからである,とマスコミは説明するが,では,なぜに民間金融機関がリスクマネー投資をしないのか?は,だれもいわない.

辞任する田中社長は,三菱UFJファイナンシャル・グループの副社長経験者だ.
そのひとが,たった二ヶ月半前の就任時には,きっちり抱負をかたっている.
トップ・バンカーとして,「やってみたい」という気持に嘘はないと信じるのは,民間金融機関がリスクマネー投資をしてはいけないと,金融庁が命じるからだ.

すなわち,わが国官僚機構の「マッチポンプ」,「ダブルスタンダード」があらわになって「虚構」だけがみえてきたのだ.
一方で民間金融機関にやるなと命じ,一方で政府系の機構がやる,という.
政府なら損をしていいからなのか?いや,政府だからこそ損をだせない,という議論など最初からなく,あるのは,「政府・官僚は間違えない」という妄想だけだと証明された.

それで静岡県の銀行は,不動産投資に走って,いまでは,不動産投資向けの融資をしてはいけないと,これまた金融庁が全国の金融機関に命令している.

ところが,数字のケタの感覚がズレてただ妄想に耽る役人と,ビジネスモード全開の民間人では,そもそも価値観がちがう.

米国仕込みのビジネスマンは,リスクはコントロールするものという価値感がある.
しかし,ガチガチの日本型組織に住む官僚には,リスクは避けるもの,でしかない.
それが,たった1億円の報酬に対する「報道リスク」で,官僚は腰が砕けたのだ.

なんども官が投資ファンドをつくってうまくいかない原理がこれだ.
マスコミは「ガバナンスの問題」というけれど,それ以前の価値感のちがいこそが決定的なのだ.
どうやっても混ざらない,まさに水と油である.

経産省も,金融庁も,これに財務省を加えれば,「経済官僚」3トップである.
もうわかったろう.
「経済官僚」こそ,わが国で最低の経済音痴なのだ.
それを政治家が正当化する「愚」.

あたらしいビジネスを民間から生もうとしないで,国家がつくって民へ払い下げればよい,というのは,明治の泰明期の発想だ.
こんなことも,わからない連中が,2兆円の資金をもてあそんでいる.

なさけないったらありゃしない!

この「投資機構」のつぎのひとの大仕事は,ゾンビのままのジャパンディスプレイとか,ルネサスエレクトロニクスとかを,あとかたもなくきれいに倒産させることである.
このための「投資」こそが看板に偽りがない,わが国「産業革新」の第一歩になるだろう.

そうして,つぎは,みずからの機構そのものの店じまいである.
じつはこれが,いちばん難しいのだ.

ペルシャ料理店の夜逃げ

「イラン料理」でもいいのだろうが,「ペルシャ料理」のほうが雰囲気がでる.
そのむかしの「ペルシャ帝国」を彷彿とさせるからである.
「アジア」というと,東アジアをまずは想像し,やっとこ東南アジアまでしかイメージできないひとが,サッカーの「ドーハの悲劇」以来,トルコからこっちが「アジア」だと気がついた.

東西に広大に広がるエリアが「アジア」であるけれど,中間の内陸のほとんどが砂漠地帯になっている.
かの『文明の生態史観』の著作でしられる梅棹忠夫先生が,「アジアはない」といいきったのにはおどろいたものだ.

ずいぶんまえの文藝春秋に,著名人100人に執筆依頼した「人生を変えた書物」とかいう特集があって,その第一位が『文明の生態史観』だった.
日本人が書いた日本論の嚆矢である.

むしろ先生は,アジアという区分ではなく,西洋と東洋のあいだだから「中洋」と位置づけようとして,さまざまな説明をしている.

その中洋にあたるいまのイランという国は,「イラン・イスラム共和国」という名称だが,イスラム教がうまれる前には,ゾロアスター教がさかんな地域であった.
いまも,小数のゾロアスター教徒がいるという.
人類最古の経典宗教はゾロアスター教といわれているから,その影響は目立たなくても深いところにあるとかんがえていい.

いわゆる「拝火教」といわれる宗教だが,「明」と「暗」から転じた「善」と「悪」の二元論が思想的な柱になっている.
西に伝わって,古代ギリシャの神話にも混ざっている.
オリンピックの「聖火」は,まさにゾロアスター教のなごりだし,東に伝わって,仏教と合体したのが「密教」におけるお炊き上げともいわれているから,天台宗,真言宗には,ゾロアスター教のエッセンスがある.

古代ギリシャ哲学の影響を,ユダヤ・キリスト教もおおいに受けているから,その根にはまちがいなくゾロアスター教がある.
歴史的実在が証明されていないイエス・キリストの誕生日とされるクリスマスも,「冬至の祭り」が発祥といわれる.昼(明)が夜(暗)のながさにまさる分岐点が冬至だからである.

そんなことから,ミステリー小説に仕立てたのが,推理小説の大家,松本清張だった.
日本の古代史の不思議から,殺人事件にまでふくらませることができるのは,めったな知識ではできない.

 

じっさい,この『火の路』という小説内における研究がきっかけとなって,古代日本とペルシャの関係が学術的に証明される,という「事件」にもなっている.

そうかんがえると,いまでもめったに移動できない距離を,古代だからといって無視できるものではなく,かえって古代人の方がいまよりも国際的だったようにもおもえる.
ついさきごろは,平城京の遺跡から,ペルシャ人の名前が書かれた大量の木簡が発見され,朝廷の役人に万人単位でペルシャ系のひとがいたと推定されている.
ここから,平家ペルシャ人説まで出てくるのだから,ロマンはつきない.

すると,宮廷人が高級食材として食していた,「醍醐」や「酪」といわれる,おそらくチーズのたぐいも,もしかしたら蒙古ではなくて,その先のペルシャからの伝播だったのかもしれない.

香辛料を高度につかうインドより西にあって,インドとはことなる組合せの香辛料を多用するアラブ世界の東にあるペルシャだから,さぞやたっぷり香辛料をつかうのだろうとおもったら,あっさり肩すかしをくう.
ペルシャ料理には,ほとんど香辛料をつかわないのだ.

いまようにいえば,「やさしい味」なのである.
それは、素材の味を引き立てる調理法でもあるから,これだけ読めばまるで「日本料理」になる.
じっさいに,ペルシャ料理店は数少ないから,あまりなじみはないかもしれないが,食べてみればその美味しさは格別だ.

なるほど,イスラム教といっても,アラブとペルシャでは,ほとんど別の宗教のようなちがいだけど,その根底には「味覚」のちがいが決定的にあるかもしれないとおもえるほどに,まったくちがう.
羊肉を焼いたケバーブや,挽肉を焼き鳥のつくね状にしたコフタも,見た目はおなじだが,塩味あっさりのペルシャ式は,日本人の味覚に適合するだろう.

そんなペルシャ料理店が,横浜のド真ん中,伊勢佐木町商店街から路地をはいった,いわゆるヤバそうな場所にあった.
およそ,女性がひとりで歩いていたら,職業を間違えられそうな場所であった.
それで,家内とはいつも一緒に行ったものだが,われわれ以外の他の客にであったことがなかった.

イラン人の主人が一人で切り盛りしていたが,日本語がなんとか通じたから,客として困ることはなかったし,常連になったら,イランへの里帰りツアーへの同行も誘われた.
それですっかりその気になって,松本清張になった気分でゾロアスター教の村を訪ねてみたいとかんがえていたら,あるとき「夜逃げ」してしまった.

アメリカはイラン革命のときの大使館占拠事件から,レーガン時代のイラン・コントラ事件など,イランにまつわるいい話はないばかりか,核開発問題でも頭痛のタネだろう.
そのアメリカに絶対服従するはずの日本外交が,なぜか「独自外交」で唯一がんばるのがイランなのである.

これも,平城京以来,役人のペルシャの血との関係があるのだろうか?

それにしても,腕のよい料理人が,店の場所をまちがえたのはまちがいない.
それに,横浜で開催した世界の料理イベントで彼が優勝した,という情報も,イランだけでなくヨーロッパでの調理師免許があるなど,差別化要因となるはなしがしっかり提供できていなかった.
そして,もうひとつ,日本は個人への開業資金を提供するシステムが貧弱であることだ.

日本人向けにもないのだから,外国人の専門職が独立開業するのは至難の業だろう.
外国からひとを受け入れたら,国内の人手不足が解消する,というはなしは,すでにファンタジーである.
彼のような腕ききがやってきて,ちゃんとした立地(保証金や家賃が高い)で日本人に美味しい料理を提供し,大繁盛できるような,そんな仕組みがあることは,日本人を幸せにする.

金融が機能しない国は,衰退することがよくわかる.
本来,金融は世の中を明るくするためのものだが,バブルの大間違い以来,この国の金融は生き返らずゾンビ化して,悪の権化になってしまった.
その司祭は金融庁だが,それを正す政治もまたゾンビ化した.

まるでゾロアスター教でいう暗黒が,この国をおおっている.