「昭和」は遠くなりにけりとはいかない

とうとう「令和」がはじまった。
これでわたしも、昭和・平成・令和の三時代を生きたことになる。
記念なので、当ブログでも「時代」について書いておく。

タイトルはもちろん、「明治は遠くなりにけり」のいいかえである。
オリジナルは、昭和6年(1931年)に中村草田男が詠んだ句「降る雪や明治は遠くなりにけり」で、下の「明治は遠くなりにけり」が、ひとり歩きして有名になった。

中村草田男というひとの生まれは、明治34年(1901年)のアモイ(厦門:福建省)である。父は清国領事の外交官であった。
日清戦争が明治27年(1894年)、日露戦争が明治37年(1904年)だから、時代のスローガン「臥薪嘗胆」の最中のことである。

三歳になった日露戦争の年に、母方の祖父が松山藩重臣でもあった愛媛県に帰国しているから、厦門での記憶はあまりなかったことだろう。
しかし、30歳になったときに、母校での雪景色にて詠んだという句ができた。

時代は明治・大正・昭和とうつっているから、明治のころの学校生活の記憶とかさなると解説されているが、むしろ、記憶のうすい日露戦争前の厦門時代もふくまれているのではないかとわたしにはおもえる。

それにしても、30歳の作とおもうと、じつに「しぶい」。
いまの30歳とはいわない、じぶんが30歳のときに、こんな心境になりえたかとかんがえると、おそらくではなく確実にちがう。

「寿命」がムダに伸びているのかもしれない。

東京の谷中霊園にいくと、往時の価値感がわかる墓石が豊富にあるから興味深い。
「叙位叙勲」にくわえ「軍人」の誉れがよくわかる。

素直に「名誉」を「名誉」として遺族が石に彫り込んだのは、わるいことだと決めつけるわけにはいかない。
むしろ、誤解をおそれずにいえば、軍人の誉れがちゃんとしているのは、健全な社会である。

不思議とだれだかわからないひとの墓石の前に、背筋が伸びるのである。
そこに、凛とした「責任」を感じるからだ。

ましてや、たまにある事務的な看板に、管理費を滞納しないようにという注意書きをみるから、ここに残る立派な墓石は、「家」の子孫である関係者が、ちゃんとつづいていて管理費を納めている証拠でもある。

お墓参りのたびに、ご先祖のといってもたった数世代前の価値感にふれて、やはり背筋が伸びているはずである。

ただ、じぶんの家の苗字しか彫れない現代人の社会的名誉のなさが、あんがいうらまれる。
じぶんが生きた証拠を後世に残すというのが、墓石なら、谷中のひとたちのような彫りかたが、素直に目的合理性に合致している。

昭和時代はながかったから、戦後だけをもって「昭和」とはいえない。
むしろ、価値感がひっくり返ったのだから、すくなくても「前期」と「後期」にわけられるだろうが、戦争準備期間と戦争の時期もわければ、これを「中期」とすることもできるだろう。

「中期」は、国家総動員体制がととのう昭和15年あたりから終戦までをいうのがよいとおもう。
ただし、国家総動員体制じたいは、現在もつづいていいるから、令和になってもまだ「昭和中期のまま」でいるのだろう。

だから、「昭和」は遠くなりにけり、とはいかないのである。

むしろ、「昭和」がだいすきで、しがみついてでも放したくない。
けれども、その「昭和」とは、前期・中期・後期のどこなのかをわざわざいうひとはいない。

あえていえば、『三丁目の夕日』の時期か?
いやちがう。
テーマによって変化するから、あんがいご都合主義である。

むかしの「名誉」が大っぴらにいえなくなって、偉人が偉人としてあつかってもらえない。
そういう意味で、ヒーローがいない時代になった。
だから、ヒロインもいない。

これも「規範」の欠如のあらわれか?

ながい連休に時間をもてあそばせるなら、せっかくの時代の変わり目の記念に、名著『日本教の社会学』の復刻版でも読んでみてはいかがだろうか?
オリジナル版は、古書で一万円をかるく超えて、しかも市場に出ず入手困難だったから、図書館で借りた思い出がある。

ここに、令和となっても現代がかかえる根本問題が解説されている。
その「深さ」を味わってもらいたい。
しかして、その問題をとくのは、もう私たちから若い世代になっている。
せめて、問題の解きかたぐらいはアドバイスしておきたいものだ。

この本も、碩学二人の著者はどちらも平成にて物故している。
けれども、まったく「昭和」は遠くになりにけり、とはいかないのである。

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