憲法違反の財務省設置法

藤井聡京都大学教授は、内閣参与としてもマスコミに登場していた有名人である。
そのひとが、内閣参与時代にも内閣に対してこの発言をしていたというから、ちょっとおどろいた。

このブログでも、ずいぶん憲法についてかたってきている。
一介のコンサルタントが、大仰なはなしをするのは、それがわたしたちと「つながっている」からである。
だから、じつは、たいそう身近なはなしなのであって、とおい別世界のはなしなどではないからだ。

「日本国憲法」というものを、ちゃんと学習することなくおとなになるのが、日本国民の特性で、ゆいいつ「変えてはならないすばらしいもの」としか教えられていない。

それは、「国民主権」や「基本的人権」、それに「平和主義」という「用語」を暗記させられるだけであって、とくに「平和主義」を強調しておそわることになるから、「先生のいうことを『正しい』と信じるまじめな子ども」ほど、「そっち方面」にいってしまう。

「憲法」という「法」を、なぜ人類がもつようになったのか?とか、そもそも「憲法」とはなにか?とか、あるいは、「主体」である「国民」とはどういうもので、「主権」とはなにか?
こうした、前提になるはなしがなくて、いきなり「中身」をいうから、自分たちの生活に直接影響しない「別物」あつかいになるのである。

だから、国民必須の知識(あえて「教養」とはいわない)として、憲法のことをしっていなければ、それは、現代の地球に住む「国民として中途半端」だといえる。

これは、もう「おそろしいこと」で、なんだかわからないけど選挙で投票したり、じぶんの権利を主張してはばからないことがまかり通るようになって、結局、さいごは社会自体がこわれてしまって、人災としての厄災を全員がこうむることになってしまう。

ならば、どんな教科書がいいかをおもうと、やはり安心して読めるのは、前にも紹介した、小室直樹『日本人のための憲法原論』(集英社インターナショナル、2006年)しか浮かばない。この本は『痛快!憲法学』の復刻版であるから、小室氏亡きいま、これを凌駕する解説が「ない」ことも、わたしのおどろきのひとつとなっている。

 

名著とは、難しいことをやさしくだれにでもわかるように解説した本である、とわたしは定義している。
その意味で、日本人にむけて書かれたこの本は、まちがいなく「名著」である。

小室氏は、日本国憲法の大黒柱を「第十三条にあり」と喝破している。
この条文は、以下のとおり。

「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」

なお、「幸福追求」には、「財産」がふくまれるとかんがえられ、憲法二十九条に、

「財産権は、これを侵してはならない。
財産権の内容は、公共の福祉に適合するやうに、法律でこれを定める。
私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用ひることができる。」

とあるのは、蛇足ではないか?ともおもわれる。

十三条にもどると、「生命、自由」について、「立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」とあるから、憲法九条のために拉致被害者を救出できない、とする論も、憲法違反である。つまり、憲法九条すら、十三条にしたがうべきなのである、という主張がほどんどないことも不思議なのだ。

また、欽定だったゆえに明治憲法を「不磨の大典」として、一言一字といえども一切変えてはならぬ、という主張から、どうにもならない事象にたいして対処できなくて、とうとう滅亡の大戦争をはじめたことは、「反省」の対象になってはいるが、おなじような理由で「変えてはならぬ」という主張がいまでもあるのは注目にあたいする。

さて、そんな「憲法」の「大黒柱」をたてに、藤井教授は財務省の「存在」について異議をとなえた。
財務官僚がわるいのではない。
「財務省設置法」という、法律がわるいから、財務省は国民の幸福を無視して、「国家財政」だけをまもればよいことになっているのだ、と。

たしかに、大蔵省から看板を書きかえた財務省は、「設置法」はむかしのままでていて、そこには「国民経済」ではなく、国家財政だけしかない。
なるほど、これほどの「視野狭窄」もないというのはもっともである。

しからば、「法」を変えるのは国会のやくわりだ。
しかし、先般しでかした内閣法制局長官のもとにある「官僚機構」が、「法の番人」だと報道されている国である。
おっと、「法の番人」は最高裁判所ではなかったか?

内閣法制局を「法の番人」というのは、「立」の「脱字」だろう。
「立法」のときの「法案」を吟味して、過去のあらゆる法律との「整合性」をとるのが「日本式」なのだから、それをチェックするのは、国会提出前の「門番」のやくわりである。

ちなみに、アメリカではあたらしい法律がむかしの法律に「上書き」されるから、事前の「立法の番人」など必要なく、議会に提出されたり決議された法律に、憲法との整合性でいちゃもんをつけるのは、最高裁判所のやくわりになっている。

もちろん、各議員は、「立法のため」に選挙で当選したのだから、両院議会には手厚い法制局スタッフがいて、それぞれの議員の法案作成をてつだっている。
これらのスタッフは、議会事務局の採用で、省庁採用ではない。

日本では、しかし、前に書いたように、内閣法制局も各省庁からの「出向者」でなっている。
「国会軽視」をいうなら、ここが「肝」のひとつではないか?

そして、ほんらいは国会にある両院の「法制局」が、大車輪でうごくべきなのに、これが脳死状態だから国民がこまるのだ。
なぜ脳死状態なのか?は、内閣法制局が法案を一元管理していることに、両院とも国会側が「依存」しているからである。

藤井聡先生には、次にこのあたりをつついてほしい。

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