先進的でなければならないことはない

コンピューターが普及していなかったむかし、先進的であろうとした企業が導入を急いで、大失敗したことがある。

たとえば、パンナム(Pan American Airways)。
商業航空航路の総距離で、ソ連のアエロフロートには及ばなかったが、いわゆる「西側」世界では、圧倒的な航空会社であったし、サービス水準の高さは、「東側」と比べることこそはばかれるから、名実ともに世界一だった。

そのパンナムが、座席予約システムにコンピューターを導入した。
今でこそあたりまえではあるけど、この失敗が、現在パンナムという航空会社が存在しないおおきな理由になったのだからおそろしい。

先だって亡くなった、兼高かおるさんの「世界の旅」は、まったくもって当時の日本での生活からかけ離れた番組だった。
円の持ち出し規制ではなく、そもそも、外国に個人が旅行できるなんてかんがえられない時代であった。

その遠い世界の番組のスポンサーが、パンナムだった。
それに、大相撲の幕内優勝での表彰式では、極東地区広報支配人のデビッド・ジョーンズ氏が土俵にあがって読み上げる「ひょーしょーじょー」が毎回のおたのしみでもあった。

当時のコンピューターは、100人ほどが机をならべられるようなスペースに鎮座していたが、メモリーはたったの2メガか4メガだった。
データを保存するためのフロッピーディスクとはちがうが、すでに入手困難なフロッピーディスク2枚か4枚分しかないメモリーで、よくも全世界の座席予約業務をやろうと決断したものだ。

メモリー不足は、パンチカードという、カード型のボール紙に穴をあけることでデータを保存し、これを読み込んで「処理」させた。
だから、コンピューターがうごくために、人間がパンチカードの穴をあけてやらなければならない。

それで、キーパンチャーという職業がうまれた。
きめられたデータを、キーボードから入力すると、穴があいたカードがでてくる。
そんなわけで、キーパンチャーがやたら必要になったから、会社はぜんぜん効率化しなかったどころか、かえって人件費がふえてしまった。

当時の先進的な企業は、「宇宙時代」に夢をはせて、こぞってコンピューターの万能性を信じてキーパンチャーを雇用し、そして、まもなく「損」に気がついてコンピューターを「廃棄」したのである。
同時に、キーパンチャーという職業人も、職場だけでなく職そのものの転換を余儀なくされた。

あの名作、『2001年宇宙の旅』では、「HAL9000」という人工頭脳よって宇宙飛行士が排除される。
パンナムの経営陣は、自社のコンピューターがそのうち「HAL」になると、一字違いの「IBM」に説明されたのだろうか?

ちなみに、アーサー・C・クラークの原作はシリーズ4冊あって、後半2作は映画化されていない。
最後の作品は、さいきんの量子論における「意識」と「生命」をほうふつとさせるから、クラークの先見性におどろくのである。

 
   

この「失敗の記憶」こそが、経営者に「コンピューターは使い物にならない」という信念に変換された。
これが、第一世代といわれる実用コンピューターのはかなくも悲しい物語であった。
すなわち、あんまり「実用」的ではなかった。

ところが,技術革新はとまらない。
しばらくして、第二世代コンピューターが登場する。
すでに、大きさも価格も第一世代の何分の一になった。しかし、メモリーは格段におおきくなっていた。
この世代のコンピューターが、業界地図をかえる起爆剤になったのだ。

第一世代で失敗した企業は、第二世代導入に慎重になったのはいうまでもないが、「使い物にならない」という「信念」になった「記憶」が、他社の様子をみる、という結論をみちびいてしまった。
この「他社」とは、ライバル企業のことを指す。

簡単にいえば、導入をきめたライバルが、過去の自社のようにコケることを「見たかった」のである。

残念だが、この「希望」はかなわなかった。
それどころか、あれよあれよと、自社の有利性が失われていく。
あわてて自社もコンピューターの導入をきめたが、おもうようにうごかない。

こうして、貧すれば鈍する、のとおり、資金が枯渇して、とうとう切り売りがはじまって、最後をむかえるのに、時間はそんなにかからない。

なにをしたいのか?という目的と、手段の選択を間違えたのが最初の失敗の原因だったが、これをコンピューターのせいにしたのだ。
だから、次世代のとき、他社がなにをしたいのか?という目的と手段の吟味の結果からコンピューターを導入したのに、このことにすら気づかずに、自社の業務の単純なる自動化をはかったからいけなかったのだ。

いまは、コンピューターの能力が人間を凌駕しつつあるから、コンピューターをつかうことが「先進的」とかんがえられがちなのは、じつは第一次世代の時代感覚である「宇宙時代」だからに、似ている。

なにをしたいのか?という目的と、手段の吟味ということの重要性が増しているだけなのだが、なんだか「先進的」なマシンをいれたら自社が先進企業になったような気がしてしまう。

ほんとうの先進企業は、そんな先進性に興味はない。
むしろ、愚直に自社の製品やサービスの価値を高める方法を吟味しつづけているものだ。

パンナムは、重要な教訓をおしえてくれた。

もっとうまくなりたいのに

オペラをしらないひとでも、「マリア・カラス」の名前だけはしっているということもあるだろう。
20世紀最大のソプラノ歌手のひとりであって、名声と栄光をてにしながらも悲劇的な生涯を送ったひとであった。

ドキュメンタリー映画『私は、マリア・カラス』(2017年、フランス)を観てきた。

彼女の私生活における葛藤が悲劇的なのだが、それを、本人が認識していて告白する映像が冒頭にある。
『わたしは「マリア」なのか「カラス」なのか?』
素顔と職業人としての人格がぶつかり合う。
その両方の人格でなりたっているのが、「マリア・カラス」なのだと。

マリア・カラスにおける数々の「事件」は、その突出したスター性の裏にある「素顔」があってのはなしだから、この映画は表面的な「事件」の詳細ではなく、「素顔」のほうに重きをおく。
これは、当然としても、彼女の表面的な事件をよくしらないひとには、やさしい映画ではない。

観客は、「しっている」ということを前提にしているのだ。
それでも「映画」としてあらたにつくられたのは、プライベート映像の発掘など、新資料がでてきたからである。

「しっている」ひとたちが「納得する」内容だから、「しっている」ひとたちが生きているうちにつくる意義があったのだろう。
彼女が53歳という若さで亡くなったのは、1977年のことである。

映画ではたんに、「パリの自宅で」「心臓発作」というが、その原因がなんだったのかを「しっている」ひとはしっているから、余計なことはいわない。

本編中にも、スキャンダルにまみれたとき、街を散歩できるパリを『余計なことには関心がないフランス人は「マナーの心得」がある。』として親和性を述べているが、これがラストの表現にも掛けてあるのだろう。
いまは、パパラッチの天下であろうが。

美空ひばりは享年52歳、アラブの歌姫ダリダは54歳にして世を去っている。
一世を風靡するような女性歌手は、なぜか50代前半があぶない。

もっともダリダは、エジプトからフランスに国籍をかえてしまってずっとパリ在住だったけれど、和平後の80年代にはパリのスタジオからカイロ放送に出演しても、圧倒的人気と存在感であった。

神経が繊細なマリア・カラスは、家庭への憧れがあって、これが世紀の大歌手にして最大の悩みとなる。
他人からすれば、「ないものねだり」だったのだろうが、本人にはあきらめきれないものだった。
そこに、「人間」をみるのだ。

だからこそ、オペラという非現実のなかに、現実をみたのだろう。
歌唱力だけではなく、役になりきる圧倒的演技は、本人にとって演技をこえた現実の自分だったにちがいない。

かくも、芸術とはおそろしいちからがある。
それはときに「破滅的」なのだ。
どういうわけか、山本周五郎の『虚空遍歴』をおもいだしてしまった。

 

齢をかさねて、若いころの歌い方ではつづかないと、歌唱法の変更をともなう訓練をうける。
長く現役でいたいのと、もっとうまくなりたい、という気持が突き動かしたが、これが困難をきわめたようだ。

「これ以上できない。もっとうまくなりたいのに、なれない。」
それが、一般人に理解できないレベルであっても、本人にとてつもない挫折感をあたえたと想像できる。
「極み」とは、こういうものなのだろう。

あのメトロポリタン歌劇場でさえも、体調によってキャンセルをするマリア・カラスとの契約を打ち切るということをした。
7年後、メトロポリタンオペラ復活公演は大成功をおさめるが、そのチケットを手に入れるために徹夜して並ぶひとたちへのインタビューが、まったくもって「日本的ではない」おどろきがあった。

まずは年齢である。
若い。十代か二十代の若者たちが、他人のためではなく自分のために並んでいる。
そして、公演の目当ては彼女だと明言し、「30分のスタンディングオベーションをやる」と意気込んでいるのだ。
じっさいは、10分間だった。

このワールドツアーは、日本での公演が最後だった。
東京NHKホールで、舞台に寄って握手をもとめるひとびとの熱狂もあった。
70年代までの日本人は、国際的な反応と態度とをしていたのだ。

映画での説明はないが、このあと、札幌公演が途中キャンセルになって、これをもって「引退」したのだった。

逝去後40年以上が経過しても、あたらしいドキュメンタリーがつくられるのは、「個人情報」のかんがえ方がちがうからでもある。

キリスト教社会は、旧約聖書をおなじくするユダヤ教もイスラム教も、いつからいつまで、という区切りの概念がある。
だから、婚礼でも、「死が二人を分かつ『まで』」という「誓い」をたてる。

この「誓い」こそが、結婚契約なのである。
配偶者のどちらかが亡くなった時点で、結婚契約も解消されるというかんがえかたである。
「あの世をふくめた未来永劫」という「誓い」をするわが国とは、ぜんぜんちがう。

婚礼ビジネスは、これを説明しない。
主導権をにぎる新婦も、衣装に興味があって「誓い」の内容には無頓着なのは、子どもの国ならではである。

さいきん、外国人が神前式をもとめて日本での挙式をするのは、ちゃんとそこをしっていての確信犯である。
「犯」というのは,「反キリスト教」という意味である。

それで、守るべき個人情報も、本人が亡くなれば「公開」の対象になる。
生きていてこその個人情報保護であって、亡くなれば制約が解けるのだ。

「偉人」のはなしがなくなった日本に、偉人がでないのは、偉人であっても「もっとうまくなりたい」とおもっていたことをしらないからである。

失敗はゆるされない

失敗をゆるさない土壌がある。
「失敗はゆるされない」ということを気楽に口にするトップがいるから、そうなる。
そして、残念ながらこういうトップは「まじめ一筋」であることがおおい。

だから、ほんとうに「失敗する」と、その失敗をした本人を責め立てる。
これが、「部下のせい」にしていることを、このひとは気がつかない。
それに、「失敗したこと」を責め立てるから、失敗の「原因」追求をしているわけでもない。

なんのことはない、自分の責任にならないように演じているだけなのだ。
これを、「無責任」というが、こうしたひとをさらに上の立場のひとが、「ごもっとも」といって納得して、「失敗はいけない」といいだすことがある。

部下からすれば、「絶望の連鎖」である。
それは、個人の資質が責められるからだが、ことが「原因」に向かないから、その部下も、「表面をつくろう」ことがよいことだと学ぶのである。
だから、本人が「絶望」を感じなくてもいい。

感じようが感じまいが、その組織は「絶望の連鎖」をうむようになる。
こうして、やがて組織全体が「腐る」のである。
「腐った組織」には、「腐臭」を感じないひとがトップに君臨する。
そして、「失敗はゆるされない」をあいかわらず、「まじめ」にかつ「気軽に」口にするのである.

ところで、そんな腐った組織でも、「原因追及」にはなしが向かうことがある。
ようやく目が覚めたのか思いきや、けっしてそんなことはなく、「悪夢のループ」におちこんでいく。

原因の「評価」と、「改善方法」が、非合理の方向へと邁進するからである。
すなわち、「過剰」な「心配」が、「過剰」な「対策」を要求するようになるのである。

そこには、「科学」がない。
畑村洋太郎著『失敗学のすすめ』をみれば、その深さもわかろうというもの。

理系組織なら心得があるだろうと思いきや、じつはそんなこともないから、組織とはおそろしい。

しかし、それをするのは、えらい文系であることがおおいとこのブログでも何度か指摘した。

なぜそうなるのか?
「余計な」ことまで「原因」とするからである。
これに、組織の「管轄」もからみつくと、もうにっちもさっちもいかない。

たとえば、「津波観測」の技術で、水面の波の高さをはかるレーダー開発は、「電波法」における「免許」が取得できずにお蔵入りしたというし、海底に沈めた重力センサーで、水面の重さを測って津波の動きをとらえることも完成していた。

ところが,津波警報を発するための「観測網」の取り決めのなかに、この重力センサーをくわえることをしていなかったから、「予報」にもちいることができない。

それでも、このセンサーからのデータはモニターしていて、あきらかに大津波が発生して、海岸に向かっていることがわかっていても、他の「観測網」の反応がないから結果的に放置された。

すなわち、「法治国家」とは、法によってひとが殺されることを許容する国家のことをいうようだ。
けれども、日本国憲法第十三条には、

「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」

とあるから、これらの技術をはねのける「法」こそが、憲法違反である。

結局のところ、「優先順位」の問題なのだ。
行政官に、この判断ができない。
くわえて、この国の司法も、おそろしく「憲法判断をしない」最高裁判所が君臨している。

立法における最終チェックは、内閣法制局になってしまった。
この部局にいるひとたちは、法学部をでた上級職の行政官たちで、各省庁から「出向」して勤務している。

法律をつくるときに、過去からある法律との「整合性」をチェックする部署ということになっているから、内閣法制局を通過しないと、国会に提出されない。

そんなわけで、各省庁のえらいお役人が、内閣法制局参事官以上の役職を「五年間以上連続」で務めると、定年退官後、弁護士資格があたえられる特権をゆうしている。
だから、みなさま5年以上の勤務を「希望」することになっている。

司法試験を受けなくても、弁護士になれるのは、「老後」を保障するから、そのへんの「天下り」よりえらいのだ。
だからこそ、失敗はゆるされない。

こうして、つくるときのチェックがきびしいから、つくった後の矛盾を「最高裁判所」が指摘しすることはむずかしい。
それで、最高裁判所は居眠りできるようになっていて、おかしな法律があっても見て見ぬ振りをすれば丸くおさまるようになっている。

どちらにしても、国民は命がけだが、そんなことはどうでもよいようにできている。

官民そろって、失敗はゆるされない、という組織文化土壌には、本末転倒という倒錯があるものだ。

こうして時代は変化する

自動車はどちらさまにも、ふつうの乗り物である。
運転ができるひとも、とっくにふつうになっている。
だから、どうということもないのだが、そこに時代の変化がかくれている。

たとえば、夜間の信号待ちのときにヘッドライトは点灯したままにするか、それとも消灯するかということがある。
たとえ消灯しても、車幅灯は点灯のままにするのがふつうだ。
あんがい、どちらかが「習慣」になっている。

点灯のままのひとは、なにか気になることがなければ消灯しないし、消灯するひとは、なにかに気をとられて消し忘れるくらいだろう。
だから、両派はそれぞれが「習慣」なのだ。

消灯派のひとは、高齢者におおいという。
むかしの自動車は、当然だがいまよりも性能におとる。
とくに、バッテリーの性能がわるかったことから、停車時のアイドリング中にヘッドライトをつけたままだと、バッテリーが劣化して寿命が縮むといわれていた。

それに、点灯したままだと対向車の運転手がまぶしかろうという「思いやり」がくわわって、信号待ちで消灯するのが「習慣」になったとかんがえられている。
まぶしいのはむかしのヘッドランプではなくて、さいきんのLEDランプの方がよほどまぶしい。

しかし、いまでも主流のHIDランプは、黄色みがあるハロゲンランプに取って代わったものだが、つけたり消したりすると寿命が縮むということから、点灯したままということが推奨された。
もちろん、すでにバッテリー性能は気にしなくてよい状態だ。

こうして、バッテリー性能から「消灯」していたものが、ランプの寿命による「点灯」に変化したが、バッテリーの問題とランプのはなしがいれかわっていることがポイントになっている。
まさに、ここに「変化の潮目」があるのだが、どちらも「寿命」をながくしたいという共通点で、この変化をかくしている。

こうして、LEDランプが登場して、圧倒的な寿命のながさがうたわれるようになった。
LEDは、消費電力もすくなくてすむから、いよいよバッテリーの劣化を気にしなくてよい。

だからといって、対向車にまぶしいだろうから「消してあげよう」になっていない。
むしろ、さいきんの機能は、光源をシェードで自動的にかくして、相手がまぶしくないように調整するようになっている。

つまり、運転手がする「思いやり」を、自動車の機能としてするようになったという大変化がおきている。
それで、わが国には2020年の新車から、ヘッドライトの自動点灯機能「義務化」がきまっている。

「義務化」なので、こんどは「点灯」も「消灯」も、運転手がえらべないという意味に変化する。
これも、自動運転化の一部になるのだろう。

だから、2020年をさかいに、すくなくても「消灯派」は駆逐されることがきまった。
運転手の意志とは関係なくなるのだが、それは、スイッチがなくなるということでもあるから、消したくてもできない。

ここから想像できるのは、相手がまぶしかろう、という意識も消えることだ。
だって、自分じゃなにもできないからしょうがない。
そういうことで、まぶしくこちらを照らす相手に「敵意」をおぼえるようになるだろう。

おなじような変化が、かつて、ペットボトル普及時にもおきている。
たった一回の飲み物のために、プラスチックをこんなにつかっていいものか?という「おもい」がじゃまして、ペットボトルの購入には「ためらい」があったのだが、「リサイクルする」ということで爆発的に利用がふえたのだ。

ほんとうに「リサイクル」しているのか?
どうやって「リサイクル」するのか?
ということは、専門家にまかせて、だれも不思議におもわなかった。
じっさいは、中国に輸出したのにだ。

しかし、いちど破れた傘をだれも修理しなくなったように、もどることはできない。
それは、物質的に、物理的なことではなく、ひとの精神がもどれないのである。

たかが、自動車のヘッドライトのはなしだが、価値感はこうやって変化して、それがやがて「時代」をつくる。

それにしても、なぜ「ライトの自動化」が「義務化」されるのだろうか?
またまた、国家による命令である。

車好きから反対の声がきこえない。
たかが、自動車のヘッドライトのはなしだが、自分でライトのスイッチぐらい操作させろというひとはいないのか?

選択の自由がうしなわれる。
これは、けっして大げさなはなしではない。

信じる「理論」があるなら

子どもは自分が好きなはなしを、何度でもききたがる。
物語の読み手である親が飽きてしまうが、そこは親心でグッとがまんして何度もおなじはなしをしてあげるものだ。

おとなになると、いろんな本や情報をえて、それぞれに好みができあがる。
それで、自分が好きなかんがえ方がだんだんと自覚できるようになる。
だからこそ、若いうちにいろいろな方向のものをそれこそランダムに経験することが重要になる。

ただし、これには「育ち」という基盤があって、両親や親戚、ご近所などとの生活のなかで、価値感というものが埋めこまれていくのが最初の経験になる。
英国では「保守」の思想、米国では「自由」の思想がそれだ。

わが国ではどうなのか?
「他人に迷惑をかけない」思想になったとおもう。

これは、英国の「保守」でもなく、米国の「自由」でもない。
「他人に迷惑をかけなければなにをしてもいい」という思想は、けっして米国の「自由」思想ではない。
米国の「自由」には、他人から命令されない、つまり、自分のことは自分できめる、という意味があるからだ。

いま、職場での不適切な動画が問題になっているが、不適切なことをしでかした彼らは、とうとうなにが「他人の迷惑になるのか?」という基準まで喪失してしまった。

彼らの「育ち」が、どうやらまちがっていたのだろう。
つまり、彼らの周辺にいたおとなたちの「育て方」のまちがいがあらわれたのである。

だから、本人たちには刑事罰が、周囲のおとな、端的には両親に損害賠償請求がされるのは、しごく当然ということになる。

ところが、これらの事象には、わが国の価値感がとっくに溶け出したことが「育ち」の問題になったのだとかんがえられるから、けっして特異な事件ではない。

つまり、職場にスマホなどの持ち込みを禁止する規則をつくったところで、防止策にはならないのである。
べつに、影像をネットにアップしなくてもよい。

もちろん、しかけた影像をアップすることが目的だともいえるのだが、価値感が溶け出したのだから、愉快なおもいはそこで終了してもよい。
行為自体の発散か収束かのちがいだけになる。

とうとう、会社が従業員の仕事ぶりを撮影して監視しないと、なにをしでかすかわからない状況になった。

これを、「サボタージュ」といわずしてなんというのか?
日本語の「サボる」ではなく、原義の「Sabotage」のことである。
むかしは、労働争議での戦術だった。
いまこの国では、価値感の崩壊から自然発生しているのだ。

一時代を区切るとき、だいたい30年を単位とする。
ちょうどよいことに、平成時代が一時代にあたる。
その30年前は、昭和34年で、さらにその30年前は昭和4年。

不適切なことをしでかしているのが、だいたいいま18歳くらいだから、この子たちがうまれたのは平成12年(2000年)だ。
そのとき親が30歳なら、昭和45年(1970年)うまれ。
そのまた親も30歳で親になったなら、昭和15年(1940年)うまれである。

典型的「戦後」がみえてくる。
この祖父・祖母が30歳のときまでが高度成長期で、40歳から50歳という時期が、バブル経済の絶頂だ。
その子の世代は、バブル入社期にあたる。

なんという時代の移り変わりだろうか。
そして、いま、平成がおわるとき、私たちは平成という時代をきちんと説明できるのか?
そうしたなか、野口悠紀夫『平成はなぜ失敗したのか』(幻冬舎)がでた。

野口先生は政権の御用学者ではなく、むしろ正反対の批判をしているが、しごくまっとうな説明を展開しているこの国では数少ない論客のひとりだ。

平成が終わってしまう前に、なにが問題なのか?という根本に気づけなければ、つぎの時代を生き抜けやしない。

世界も、周辺各国も、じつにドラスティックな変化をとげているのに、わが国だけが、30年以上前の「戦後昭和の栄光」にすがりついて、かたくなに変化を拒否している。
しかも、政府に依存して、という条件までもくっついた。

なにをもって根幹の価値とするのか?
という、おそろしく深い問いのこたえが求められているのに、目先の「利益」ばかりを気にするのはどうかしている。

「価値」がきまらなければ、実務はうごかない。
「価値」をきめないで、実務をうごかすから生産性があがらない。

ソ連末期、投入より産出される価値の方がすくなくなった。
ありえないことが起きたのである。
信じる理論がまちがっていた。

しかし、平成時代をつうじてわが国は、とうとう信じる理論すらみつけられずにおわろうとしている。
これが、個別企業にまで、もとめられることになっている。

今日は、建国記念の日。
あらためて、厳しい現実をしる。

末端をいじって元を正さず

問題解決にあたっての「そもそも論」が嫌われている。
目先の「問題」をなんとかすれば、仕事をしているようにみえるのかもしれないし、仕事をしていると評価する上司がいるからでもあるのだろう。

しかし、問題の根源を解決しないと、末端をいくらいじっても底から油が湧いてくるように、またつぎの「問題」がでてきて、ぜんぜん解決されないばかりか、深刻度が時間とともにひどくなるのは、ちょっとかんがえれば誰にもわかる。

だから、ちょっとかんがえることもしない、という思考の手抜きが、実は問題を複雑怪奇な状態に育てているともいえる。

たとえば、犬や猫に代表されるいわゆるペットの殺処分問題がある。
さいきんでは、収容された個体を「ボランティア団体」がひきとったり、「引き取り業者」というひとたちがいて、自治体の施設に持ちこまないでそちらに引き渡すことをしている。

これは、民主党政権下、ペットショップ等の事業者が売れ残った生体を、公共団体の施設が「受け付けなくてよい」とした法改正をしたからである。それで、「受け付けない」ことになった。
子犬や子猫も、ペットショップの在庫中に成長する。そして、本当に売れ残るのである。

これで、「統計的」には、公共団体に収容された個体の殺処分数がなくなるようになっている。
けれども、別にボランティア団体の資金問題や、引取業者による劣悪な環境下での「飼育」が問題になるということがうまれている。
そういうことで、わが国にどれほど飼い主がいないペットが存在するのかぜんぜんわからなくなった。

これとそっくりな事態になっているのが、「プラゴミ」問題である。
「分別ゴミ」というやりかたで、生ゴミ(燃えるゴミ)とプラゴミ(燃えないゴミ)に分けさせられてひさしい。

あらかじめいえば、科学的な発想をする自治体は、分別収集を廃止しているが、科学的でない日本最大自治体の横浜市は強化しようとして、さらなる余計なおカネをかけようとしている。

プラゴミにはペットボトルもふくまれる。
それで、これらは「資源」だからと、わざわざ「資源ゴミ」と名前をつけた。
なぜ「資源」というかは、リサイクルする「材料」になるからだという。

ところが,国内でリサイクルするとコストが新品の4倍以上もかかるから、中国に輸出していた。
「輸出」するのは、「買ってくれる」からである。

輸入した中国では、一部をぬいぐるみの綿とかにして、あとは燃料として燃やしていた。日本で「燃えないゴミ」は燃えるのだ。
日本のゴミ焼却炉は排煙対策もバッチリしているが、あちらはただの煙突だから、それがPM2.5になって日本にも飛んできた。
これを漢字で「自業自得」と書く。

つまり、家庭からなら無料であつめた「資源ゴミ」は、リサイクルのために「輸出」すれば、おカネになる「資源」だった。

状況がかわったのは、その中国が突如、「輸入禁止」にしたからだ。
それでいま、処理できない資源ゴミがあふれ出して、どうにもならない状況になっている。
あっという間に、「資源」からただの「ゴミ」になったのは、カボチャが馬車になった魔法のごとくである。

つまり、ペットの殺処分が減った問題と、プラゴミを輸出していた問題は、構造的によく似ているのだ。
もし、ゴミの輸出に相当する引取業者がいなくなれば、行き場をうしなった個体はどうなるのか?

すなわち、元をたどれば、「過剰製造」に問題がある。
ペットなら、過剰に産ませる、ということだ。
ついに無理やり交配させて、遺伝病まで蔓延することにもなっている。
なにより、そんなふうに生をうけた個体が不憫だが、知らずに飼い主になったひとには多大なる負担をかかえることになる。

生きものとプラゴミの問題が、それぞれに分かれるのは、「生産」の場面である。
その後の流れは上述のとおり酷似している。

生きものの方は「五年に一回」の法の見直しがある。
法改正されても、不備があれば次回の5年後にどうするかが議論になっている。
だれが「五年」ときめたのかはしらないが、ここに立法の不備までがみえてくる。

役所の事務を優先させれば、5年に一回、になるのだろうが、相手は物質ではなく「生きもの」なのだから、不備を承知で放置してよいのか?
これを正そうにも正せない、わが国立法府の弱さが露呈するのだ。

議員を補助して立法化するための要員が、国会にいないから、行政府の役人に頼るしかない。
だから、行政府とは切り離された立法府の第一種(上級)級職員が必要になる。
これが、国会改革の本質である。

資源ゴミのほうは、厄介なことに「地球環境」というもっともらしい理屈がはいりこむ。
「温暖化防止」のはなしと「土壌や海洋汚染」とが主たる課題だろう。
しかし、この議論に欠けているのが「科学知識」だから、どうにもならない。

かってに埋めたり投棄してはならないのは当然として、取り締まりをどうするかも問題になる。
すでにあるゴミも、回収する努力がいるのだろうが、ちゃんと科学知識をもってやってほしい。

一方で、輸出できなくなって、もともとあった焼却工場もパンクしているという。
なんのことはない、分別させておいて実態は一部焼却していたのだが、これがほぼ全量になってきた。

ダイオキシンが猛毒として騒然とした話題になったが、人類史上、ダイオキシンが原因とみられる健康被害は確認されていない。
東大医学部での実験では、「ニキビができた」というから、「猛毒」をあおったあれはなんだったのか?

科学をないがしろにした「報道」と、テレビを信じる悪い習慣がつくったものだが、これは「国民の劣化」という社会に毒がまわったことの証拠になった。

この「事件」で、各自治体の焼却炉が大改修されて、ダイオキシンが発生しない高温で焼いても炉が傷むことはなくなった。
ところが、水分たっぷりの生ゴミは、そのままで燃えるはずがない。
そのままで燃えるはずがないゴミを、「燃えるゴミ」と呼んでいる。
それで、重油などの燃料をかけて焼いている。

資源として使い途のある「重油」を燃やして、資源として使い途のすくないプラゴミを別の炉で燃やすのは愚かではないか?
科学がつうじない横浜市は、わざわざ「資源ゴミを生ゴミと一緒に燃やしていない」と自慢している。

これは、レジ袋もおなじだ。
資源として使い途がない材料でつくったレジ袋をなくしても、その材料は別に燃やさなけれな世の中からなくならない。
生ゴミを燃やすときにこれをつかうのかといえば、そうではなくてやっぱり重油だ。

これこそ資源のムダではないか?

生産性の低さというよりも、日本社会の高コスト体質は、こうやってつくられている。

「効率」をかんがえる

世の中は人手不足である。
景気がとりわけいいわけではないのに、こんな人手不足はかつてなかった。
むかしは、景気がいいと人手がたらなくなるから、むやみに新入社員も採用した。

新卒の就職・採用も、景気に左右された。
これを不思議におもうひとがいないのが不思議だった。

「景気」とは、「フロー」の出来事である。
「浮いている」のだから、いつどうなるかわからない。
しかし、採用する社員は、フローではなく「ストック」(資産)である。
すくなくても、定年までは景気がどうなろうと在籍するとかんがえるからだ。

だから、自社にどんな仕事があって、それが将来どんなふうになると予想するからここで採用して補充や育成しようとかんがえることが、本来の企業側の「需要」である。

「景気」によって、採用数を増減させるというやりかたは、いわば「需要」を無視した方法であった。
もっといえば、自社内の人材需要予測をしないで採用活動をすることであった。

自社内の人材需要予測とは、経営計画における「人事計画」の骨格である。
これをしなくてよかったのは、「骨」がない。
つまり、軟体動物的な企業であるとの告白でもある。

現代の「経営の神様」的存在のひとりである、稲盛和夫氏は「アメーバ経営」を標榜されているが、上述の「軟体動物」とはいみがぜんぜんちがう。

だから、あんがい社内でつかわれる言葉に、深い意味がないことがある。
「効率」もそのうちのひとつだ。

「効率」をかんがえろ、とか、「効率」をよくしろというけれど、「現状の定義」があいまいなままだったり、「効果を測る方法」をかんがえずに実施することに上層部がなんの抵抗をしめさないことがままある。

これをふつう「文学」という。

製造業を中心にした、「理系」のひとたちの集団では、会社の決定をするにあたって、「文学」ではなく「事実」を重要視するから、そのようなひとにはバカげたことを書いているようにみえるだろうが、理系人がたくさんいる企業だからといって、社長や経営陣が「文系」であることはたくさんある。

それで、現場レベルでは「理系」の発想をしているけれども、だんだん上層に書類がはこばれていくうちに「文学」の視点からの添削がはいって、当初の提案がめちゃくちゃになるようなマンガ話は、どちらさまにも日常化している可能性がある。

これに、「絶対安全」の四文字がはいると絶望的で、その提案はしないほうがましになるが、いったんやった提案が添削されてかえってきたら、どうにもならない事態を覚悟しなければならない。

提案書を放置するというやり方も、すこしは効果があるが、不思議とそうしたばあいは「うえから」督促されるもので、なにか適当に書きたして「再提案」したことにしなければならない。

これ自体が「効率」の逆をいく「ムダ」なのだが、「文学」がすきなひとには、「ムダ」が「効率」にみえるという共通の特徴がみられる。

季節ものの「牡蠣」が原因の食中毒が発生したというニュースをうけて、むかしからシーズンになればレストランの目玉メニューにしていたある高級ホテルで、「安全性」が議論になったことがある。

それで、「生」の取り扱いの全面中止がきまったが、余計なことをいうひとはいるもので、「加熱」ならいいのか?となった。
「絶対安全」をトップが口にしたからである。
結局、なんであろうが「貝類」の提供を全部やめたことがある。

たしかに、仕入れもしないし提供しないのだから事故はぜったいに発生しない。
だから、事故対策という仕事のムダがなくなって、「効率」がよくなった。

ところが、毎年たのしみにしている顧客が置いていかれた。
「本年は『貝類』のご提供はございません」
から、すぐに主語が「当レストラン」になって、やがて「当ホテルは」に変わった。

これいらい、斬新な食材も御法度になったから、「効率」は確保されたが、魅力がなくなる、という問題が放置された。

しかし、その「効率」をはかる方法が用意されていない。
各部署の人員数はかわらないから、事故対応という発生ベースの部分が削除されただけである。

以上の例は、リスクのかんがえ方にかかわるものだが、景気がいいと新規採用をふやす話と構造がよく似ていることがわかるだろう。

メーカーならば、仕入れた牡蠣の安全性をいかに担保し、自社検査体制の確立をはかるだろう。
しかし、それが「ムダ」にみえる経営陣なら、商品ごと「廃番」にするのも経営判断ではある。

ところが,この論法が確立すると、「廃番」が拡大する。

「効率」の追求とは、広い視野をもたないと自分を痛めつけることにもなる。

企業博物館の価値

名古屋は「産業の街」といわれる.
日本というよりも「世界のトヨタ」があるから,だれにも文句はいわれない.
そのトヨタ発祥の地に,トヨタグループが集結してつくる「豊田産業記念館」がある.
さらに、ほぼ隣接してやはり発祥の地である則武に「ノリタケの森」がある.

臨海部には,JR東海の「鉄道リニア博物館」があって,真北の県立名古屋空港には,隣接して「航空博物館」もある.
世界最大のプラネタリウムでしられる名古屋市立科学館は,科学体験のための装置がならんでいて,子どもからおとなが楽しめるようになっている.

似たような科学施設は横浜にもあるが,名古屋は市立美術館とおなじ公園内にあるから,分散している横浜よりも便利さにおいていさぎよい.
こういうばあいの「集中」ということができるのはちゃんとした「計画」があるからで,「分散」には「迎合」の香りがするものだ.この点で,横浜市は落ちぶれている.

産業をないがしろにして,開港以来本社をおいていた企業をいじめて,大挙して東京に本社を移転されてから,きがつけば人口は巨大化したが,たんなる東京のベッドタウンになりさがったのが横浜市である.
それでも選挙では圧倒的に強かったのは,増大する市職員のおかげで,のちに社会党の党首になったが,全国では通用しなかった.

横浜が「おおいなる田舎」といわれるゆえんである.
すったもんだで,東京の銀座から「日産グローバル本社」を誘致して,ようやく上場企業が数社,横浜に本社をかまえるようになったのは,三菱重工横浜ドック跡地の「みなとみらい」再開発がきっかけであるから,移転に特典をあたえないときてはくれないふつうの街だとわかる.

上場企業を追い出したのだから,良くも悪くも市の「産業政策」は,中小企業むけになるから,港湾の運営を国土交通省に横取りされたのよりもずいぶん早く,中小企業庁の下請けになった.
それで,対策を立てればたてるほど産業は衰退し,役人が栄えるようになった.
JR桜木町駅前に建設中の超高層「新・市庁舎」を見上げれば.その栄耀栄華にため息しかでない.

そうかんがえると,じつに名古屋がうらやましくみえる.
豊田産業記念館も,そのとなりの「ノリタケの森」にも,創業者の「自主独立の精神」が展示物のテーマとして貫かれているという共通が確認できて,感動的である.

しかし,残念ながらどれもが「完璧」ということはないのが人間のやらかすことで,JR東海の「鉄道リニア博物館」には,微妙な影がおちている.
国鉄というお荷物が,JRになって「民営化」されたとはいうものの,国民資産で大儲けしているのが実態だから,国鉄清算事業にどれほどの貢献をしているのかの展示がない不満がある.

また,新幹線は「エコ」である,と胸を張るが,電気自動車や水素自動車とおなじで,まさか「有害な排気ガスを出さない」などという子どもだましの主張ではないと信じたい.
その証拠に,保守点検だけでもたいへんと詳細な自慢をしていて,これで「エコ」だとはとうていいえまい.
すると,この「エコ」とは,「エコノミー」のことかとおもうが,LCCなら余裕で外国にいける料金を徴収していて,それはないだろう.

新幹線は便利な乗り物にちがいないが,あんまり自慢の度がすぎて,胸がそりかえって後ろに倒れるようなマンガ状態がみられるのが残念である.
高い料金なのは,便利さの素直な代償であるといえてこその「正直」であろう.
それで儲けた分が,すっかりリニア投資になるといえば,もっとよい.

県立名古屋空港の「航空博物館」は,話題の「MRJ」開発拠点の横にある.
「YS11」以来の国産旅客機だから,期待もふくらんだものだが,いっこうに納品されない.
うわさによると,三菱重工の「根回し」が下手すぎて,もはや絶望的だという.
この「根回し」とは,援助交際相手の経産省のことで,その向こうには米国の許認可がある.

邪推をすれば,三菱の技術者が経産省の文系に説明して,これを米国の技術者ばかりの役人に説明しているのではないか?
まん中にいる,日本のえらいお役人が文系法学部だから,英語とはちがって日本語での技術の翻訳に手間取っているのではないかとうたがうのだ.

「YS11」(モックの展示公開日「横浜杉田で11日」というキャッチフレーズが機種名の由来)のときは,やはり通産省のお役人が中心になっていた.
「製造」までこぎ着けたが,大誤算が「販売」だった.
つくることにエネルギーをかけて,売ることをないがしろにしたら,世界で売れなかった.

今回は,「製造」にすらこぎ着けていないから,「予約販売」をしたけれど,すでに納期遅れをもって「キャンセル」が発生している.

まさか,MRJで天下の三菱重工が倒れるということはなかろうが,東芝とおなじで原発でも大損している.
しかし,なにも悪いことだけでなく,「経産省」と組むと潰される,が日本企業の常識になって,「自主独立の精神」を取りもどす契機となれば,それはそれで「よかった」になる.

企業博物館をめぐると以上のようなものがみえてくるから,たいへん有意義である.

やっぱり名古屋はうらやましい.

伝統がないから春節

今年は旧暦の正月が、今日、2月5日にあたる。
3日が「節分」,4日が「立春」,そして5日が「元旦」である.

わが国では旧暦の元旦を「旧正月」といって、いちおう天気予報とかでは話題にするが、生活文化の面では、立春の前日である「節分」が豆まきの習慣としてのこっている。
じぶんの歳の数に、豆をひとつ足してたべて「数え年」としたから、節分・立春・旧正月のどれもがみんな「年越し」だった。

今日一日しかない、というおもいこみがない。
おおらかがふつうだったのだ。
毎日があんまりかわらない生活であったのだろう。

そのわりに、人生五十年だったから、豆の数をかぞえると、お迎えの時期の早さに気がついて、年越しを3日くらいやってちょうどよかった。
このうちに立春もふくまれるから、正月は「初春」になるわけだ。
いまの年賀状は、その意味でもめちゃくちゃになっている。

北陸地方では4日未明の強風が「春一番」に確認されたというから、「立春」にほんとうに春がやってきた。
暦は旧暦でみると、やっぱり正確さがある。

明治5年以前の日本人は、ずっと旧暦で生活していたから、太陽暦の新暦になってまだたかだか150年しかたっていない。
それで、旧習と旧暦が現代にも入りこんで、結果的にずいぶんとややこしくなっている。

食品廃棄が懸念された「恵方巻き」は、関東の風習ではなかったが1990年代に全国チェーンのコンビニが仕掛けてひろまった。
「洋物」のバレンタインデーやホワイトデーも、普及したのはお菓子屋さんのおかげだし、さいきんではハロウィーンも「商魂」による。

宗教的な物語はヨコに置いて、とにかく楽しむという日本人の特性は、たくましくもあり浅はかでもある。
カトリックのさかんな国には、ハロウィーンはないから、近年ヨーロッパに逆輸入されているのは、「ご立派」なクールジャパンの例になっている。

旅行業界は,「春節」の休暇をターゲットに,日本への旅行販売に余念がない.
中華帝国の影響を受けて,「春節」を国民の祝日にしている国は10カ国をこえる.
それで,国内の春の旅行ニーズを先取りするのは,このひとたちなのだ.

戦後のあたらしい中国は,わが国の「進歩的文化人」と呼ばれるひとたちが「絶賛」した,文化大革命という名の破壊活動によって,伝統文化や風習を徹底的にこわしてしてまった.
2000万人ともそれ以上ともいわれる犠牲者がいるから,この破壊には生存がかかっていた.

いわゆる農村からの旅行者を中心とした層の「マナー」が問題視されるのは,文化大革命の結果の申し子たちだとかんがえると,残念ながら彼らは,文化的な教育,をうけてはおらず,ぎゃくに文化的でないことをしないと身の安全がはかれないという体験をしたはずだ.

都会と農村とでは,国内パスポートで優遇のある都市住民なら,自国の歴史的遺物がほとんどのこっていないので,外国の歴史遺物を観光することは,「観たい」という要求と「ない不満」が交差するだろう.
それで,たとえば日本軍が破壊したのだ,という物語をつくって外国のせいに転換するのは,国内的には有効かもしれないが,責任転嫁される外国には迷惑になる.

日本に住んでいると,歴史を感じるモノや文化が日常にあるから,あまり気にしないものだが,たとえば,わが国最大の地方自治体になった横浜市中心部には,開港以来の明治期に建てた「歴史的建造物」はいくつか現存するが,それ「だけ」しかないのである.

「ハイカラ」が売り物だった街の,新しさが陳腐化すると,のこりは無残である.
しかし,「新しさ」は,できた瞬間から劣化がはじまる.
「みなとみらい」にはじまる一連の開発が,すでに珍しくないのは,以上の理由による.
文化大革命と同様に,新しさだけではいけないということなのだが,幸いにも横浜にはちかくに鎌倉があるので,陳腐な街の埋め合わせが容易にできるようになっている.

東京と大阪のまん中にある名古屋にやってきた.
何回も出張で訪れた街だが,まともに観光したことがない.
それで,名古屋人が口にしない「名古屋城」にもいったことがなかったから,せっかくなのでいってきた.

愛知県庁の建物がずいぶんグロテスクにみえたのはおいておいても,かつての城郭に県庁が鎮座しているのは,福井もそうだが,一種の文化大革命が日本にもあったことがわかる.
封建時代がおわって,役所が支配する時代になったことを,わかりやすく表現したのだろう.
だから,ふるい城には用がない,という強い意志をかんじる.

それは,近代役所建築がならんでいる光景で,その合理的で無機質な建物群は,どこかで観たと記憶のページがうごきだした.
「ワルシャワ」である.
名古屋の官庁とお城の付近は,社会主義国のすがたにみえた.

広大な名古屋城の場内は,ワルシャワ市民のいこいの場である「ワジェンキ公園」に似ている.
この公園は大統領府のとなりにあって,かつての宮殿があった場所で広大な庭がひろがる.毎週末には,ショパンのピアノコンサートが無料開催されているけど,演者は世界的なピアニストばかりだ.

名古屋城大手門の前にひろがる大駐車場も,スターリンが衛星各国にプレゼントした「文化科学宮殿」前の広場を彷彿とさせたのにはちょっと驚いた.

横浜にはないものを名古屋で観ることができた.

どんな理由でタブレット禁止?

なにかと話題の玉木雄一郎議員だが、先日はじまった通常国会で各党代表質問に、タブレットPCをつかって原稿を読むことを与党の反対で認められなかったという「事件」が報道された。

タブレットであろうが、携帯電話であろうが、国会内には持ち込み禁止なっている。

ほぼ5年前の2014年3月25日には、参議院の外交防衛委員会で、内閣法制局長官が携帯電話の画面をみながら答弁したことが、謝罪と答弁の撤回という「事件」になっている。
なぜ端末画面をみたのかは、質問についてのデータ確認するためだった。

同月31日の参議院決算委員会で、安倍首相はこの件についての質問に、電子端末の使用についてのルール見直しに肯定の答弁をしている。

それから「3年後」の2017年3月28日には、衆議院運営委員会理事会で、野党委員からの提案にたいして、自民党の委員長が国会規則を改定して、議員全員にタブレット端末を配布することを検討するかんがえをしめしている。

さらに、昨年10月25日には、おなじく自民党の衆議院運営委員会委員長がタブレットの配付についての議論をすすめるかんがえをしめしている。

ということで、今回の「事件」は、5年越しの議論だということがはっきりわかる。

今回認められなかった理由は、報道では、「前例がない」ということになっているが、ほんとうにそれだけなのか?それとも、5年をかけてなにが問題なのかがわからない。

長老議員たちが反対している、という「うわさ」があるが、本当なのだろうか?

タブレットがつかえないから紙の資料をみている場面を報道されるのが恥ずかしいので、従来どおりぜんぶ紙にしろという主張でゆずらない大物議員がいる、という「うわさ」である。
なるほど、説得力がある「うわさ」だ。

ようは「恥をかきたくない」という理由は、人間ならだれにでもある。
まして、国会議員で影響力がある「大物」のつもりなら、孫でもあつかえるタブレットを操作できないなんて、恥ずかしくて耐えられない。

なにもいまさら、そんな恥をわざわざかかずとも、これまでどおり事務局は「紙」をくばればなにも問題はない。
紙でほしいひとには紙、そうでないひとにはタブレットでは、タブレットがつかえないことがバレるから、全員に紙をくばればすむことだ。

それに、若い議員が用意したタブレット導入の「理由」もいただけない。
紙をやめてタブレットにすれば、印刷費が数億円浮くというのだ。
たかが数億円のために、自分が恥をかくのはありえない。
だいたい、重要な資料なら、紙に印刷してチェックを入れたくなるのが「仕事」というものだ。

野党のいう「代表質問」だけでも許せ、に合意したら、そのうちなし崩しになるにちがいない。

本会議での首相による施政方針演説も、そのほかの演説も、みんなタブレットを読むことになれば、議事録の速記者がいらなくなるだけでなく、「自動読み上げ」ともなれば、本人の演説である必要もないではないか?
「紙」だからこそ、本人が読み上げる必要がある。

えっ?
それじゃ「演説」じゃない?
そんなこといったって、もうとっくに紙を読み上げるのが「演説」になっているわい。

いまどきどこに、「メモ」だけで何時間も「演説」をぶてる政治家がいるものか?
戦前の大政治家ならまだしも、だいたいゴーストライターが原稿をかいて、本人がちょこっとチェックすればそれでいい。

総理の施政方針演説すら、全文を確認する国民なんかいないだろうよ。
えっ?確認したい国民はどうすればいいかって?
そんなもの、「国会のHP」をみればすむ。

いえいえ、ご長老、総理の施政方針演説なら、「首相官邸のHP」のほうですよ。
ご覧になったことがない?

三権分立とはいうけれど、どうもあやしいのがわが国なのだ。
お隣の悪口をいってもはじまらない。
それに、国会のHPには、衆参両院とも「著作権」が明記されている。
驚くほど国民を愚弄しているのだ。

このひとたちは、民主主義国の「著作権」をなんだとおもっているのか?
政府が政府の著作物に著作権を設定する。

ましてや、「国会」である。
だれのおカネでだれのために議論して、その議事録をだれにみせるのかを忘却した病的な姿だ。

アメリカ政府のばあい、政府の公開書類に著作権は一切設定されていない。
ひろく国民に開放されているのだ。
民主主義国として、当然ではないか。

だから、外国人がアメリカ政府の書類を引用するときには国民とは別のルールになっている。

日本政府は、あろうことか、この区別ができていないのだ。
国民に向けて著作権を設定する馬鹿者たちを、われわれは雇っている。

なるほど、タブレットなどの電子機器には、長老の反対だけでなく、著作権の問題があった。

これを報道しないのも、報道の自由なのか?