世の中の厚みを無視する勝ち組論

世の中にはいろんなひとが生きていて,それでまた世の中ができている.
各界で頂点をきわめるひともいれば,底辺をさまようひともいる.
底辺にはさらに底なしの地下構造もあるから,すさまじくぶ厚い構造をしているのが世の中である.
そのぶ厚さのところどころに,チーズの穴のような空間が無数にあって,それぞれがそれぞれにその穴に巣くって生きている.

義務教育期間は,おとな(=社会人みんな)の義務で教育をほどこし,子どもは教育を受ける権利を行使する.
だから,義務教育期間をおえると,あとは任意=自由である.
高校に行くのも任意だから,授業料はふつうは親が負担(社会人みんなではなく)して,子どもは毎日授業を買いに行く.

このように,小学校や中学校と高校とでは,決定的に「登校」の意味が変わるのだが,「登校する」という行為自体はあまり変わらないから,このちがいに気づきにくい.
さらに気づかない理由のもう一つは,義務教育期間でも,高校生になって授業の購買顧客になったとしても,子どものやる気や成績が芳しくなければ,一貫して本人が悪いといわれる業界だからである.
この点で,すでに「一貫教育」は達成されている.

そんなふうになっているから,子どもからおとなになって,就職しようというときに,そうした倒錯の訓練結果で,自分が会社を選ぶのではなく,会社から自分が選ばれるのだと勘違いする.
その勘違いは,「勝ち組」といって重ねられるが,気が利くひとは,それが勘違いだと気がついて早々に退社する.鈍感なひとは30年ほどしがみついたあげくに肩を叩かれてしることになる.

はなしを中学卒業時にもどせば,ここから先は「任意」だということを本人にも気づかせないから,早熟の子どもは方向を見失って,持てるエネルギーをあらぬ方向に発散させる.
外向的なら夜な夜な爆音とどろかせ,内向的なら引きこもる.これには,尊敬に値する身近なおとなの存在がうすいことと,ミネラル不足が原因にくわわるのだろう.

ほんとうは「任意」なのに,「高校ぐらいは出ていないと」という「常識」が,鉄板となって押さえつけている.それで,「高校・学校に行かない」=「負け組」だと,本人を追いつめるのだ.
この常識は,戦後日本経済のわずかな成功期間であった,高度成長期の「名残り」にすぎないのだが,まだかつての成功体験におおくのおとなが依存しているのである.

だから,安易な「勝ち組論」は,薄っぺらい世の中の表層しかみていない.
なにをもって「勝ち」と「負け」を定義するのかもあいまいであるから,おそろしく無責任なその場限りの都合の良い言い方にすぎない.
しかし,残念なことにこれがいまの日本の世論になる.

大学生がガレージに閉じこもって,就職活動もせずに得体の知れない部品をいじくってばかりいたら,この時点では「負け組」だと,だれでもが思ったろう.
それが,いつしか「マイクロソフト」になったり「アップル」になったら,こんどは全員がうらやむほどの「勝ち組」だといってはばからない.

こんな愚かな論を,国家が率先しているのがいまの日本である.
義務教育期間での目標と,その後の任意を,一貫させようと無理強いするのは,とにかく高校へ行け,というよりたちが悪い.
ひとの人生を国家が決める,という態度である.

もうおとなになった世代には,「任意」が意味する重さと軽さの両方をじっくりかんがえさせる材料を,国家はあたえるだけでよい.そうでなければ,おとなになれない.
義務教育の完成ポイントはここにある.

ここから先は任意だよ.
えっ!そんな.どうしよう?
あなたはどうしたいの?もっと勉強して知識をえたいならあっち,若い感覚が鋭いうちに体得したいならこっち.

過酷にみえるかもしれないが,中学三年生の本人が決めるべきことなのだ.
つまり,いまの義務教育では,中学三年生が自分の人生の進路を決められないようにしているともいえる.
途中での方向転換が容易ではない硬直的な高等教育制度も,選択にあたっての障害だろう.
まさに,高度成長期を支えた「均質的労働者」の大量生産を目的にしたことが,そのままなのだ.

生まれてきたすべてのひとには,完全に平等に,時間が刻まれている.
そして,生まれてきたすべてのひとは,完全に平等に,いつかはかならず死がやってくる.
人生は,ひとりに一回だけ死があり,その直前までの時間はぜったいに任意なのである.
そのときの満足感も,頂点にいようが底辺にいようが,本人にしかわからない.

ただし,他人に決められた人生ほどつまらないものはない.
だから,生き生きとした組織には,生き生きとした人生の実感があるひとたちがいる.
リーダーの役割の,もっとも重要なことがここにある.
「どうせ自分は歯車にすぎない」のではなく,「自分も歯車を動かしているなかのひとりだ」.

こんな組織が,少なくなったような気がする.

コーヒーはインスタントがいい

鉄のカーテンの向こう側は,われわれ西側の価値観とはちがうことがおきていた.
それが,コーヒーに象徴される.

ソ連の衛星国たちは,南米の社会主義政権とも「兄弟」だった.
だから,上質なレギュラーコーヒーが入手できた.
いまさらに,旧東側のひとたちのコーヒーに関する「味覚」は,一日の長があるとおもわれる.

ところが,このひとたちには,西側のインスタントコーヒーが入手できない.
なかでも,フリーズドライ製法のインスタントコーヒーは,「不正」でもしなければ手にすることは不可能だった.
なにしろ,まずは「ドル」がなければならない.

旧東側の住人が,どうやったら「ドル」を持てるのか?
特別な許可を受けた人しか行くことのできない,西側への「出張」しかなかった.
出張許可を得た人が,制限付きで自国通貨をドルに交換できたのだ.
だから,一般庶民には,一生ありえないようなことだった.

いったん西側へ出張したひとのおおくは,スーツケースにインスタントコヒーを詰め込んで帰国したという.
重量の軽さと,かさばりかたがちょうど良かったらしい.
一本ずつが,たいそうなお土産になった.

お湯を注ぐだけで,豊かな味と香りのコーヒーができあがる.
まさに,CMどおりのはなしなのだが,これがおそろしく高度な技術にみえたという.
「さすが西側はちがう」
「コーヒーをいちいち落として淹れている我々は原始人だ」

このときの記憶が,いまだに重要なプレゼントでインスタントコーヒーが高級品として認識されている理由だという.
ふつうの生活では入手できっこない「外貨でしか買えない」という思いである.
だから,ギフトショップにインスタントコーヒーは欠かせない.

ところが,自由化後に生まれた世代には通じない.
鼻で笑われるという.
これが,社会主義時代を生きたひとたちにはしゃくに障るというから,みごとな世代間ギャップをつくっている.

東ヨーロッパの広くは,かつてオスマントルコの支配下だった.
このひとたちの記憶には,トルコへの恐怖ともいえる複雑なおもいが混じっている.
だが,ヨーロッパにコーヒーを伝えたのも,そのトルコである.
大バッハは,コーヒーカンタータを書いた.
モーツァルトも,ベートーベンも,トルコ行進曲を書いた.

当時のトルコは,世界帝国だった.
コーヒーはみな,トルココーヒーだったろう.
細かく挽いた豆をちいさなカップに入れ,そこに湯を注いで上澄み液をのむ.
欲張ると,口の中にコーヒーが侵入してきて気持ち悪い.

いまでは,トルコとアラブ世界での飲み方である.
日本人にはできないが,飲み終えたコーヒーカップはシガレットの火消しにする.
西側資本がしっかりはいった東側は,さいきんの英国発祥のコーヒーショップチェーンで席巻されている.
日本人の目からは,まるで日本の全国的コーヒーショップチェーンにそっくりだから,おそらく地球を半周以上してパクられたのだろう.

そのうち,日本が真似ていると思われるかもしれない.
日本の店舗経営は,国内にいつまで閉じこもっているのだろうか?

ホテルシップという貧困

「東京オリンピックのために」といえばなんでも通る.
わが国最大の旅行会社,JTBの発表である.
それは「切り札の『エース』」ではなく,もはや「ジョーカー」のことだろう.

どういう計算で「ホテルが足らない」のかはしらないが,とうとう接岸した客船をつかうことが決まった.
気は確かか?
と問いたい.そのまえに,どういう計算なのかも教えてほしい.

どうしてこのような発想の「貧困」が現実になるのかわからないが,民泊制度に失敗した政府に媚びて「緊急事態」をアッピールしたいのだろうか?
「ハイテク国家」を「おもてなしの基本スタンス」として,接客ロボットを開発して外客を驚かそう!という子どもだましに,何億円をつかいながらの体たらくである.

緊急時に,客船をホテルにする,という発想の原点には,「病院船」がある.
これは,まともな軍隊を保有している,わが国以外の国にとっては常識である.
つまり,どこにも「豪華さ」などというイメージはない.
そもそも客船の客室面積が,どれほどなのか?

対象となる船は,「サン・プリンセス」号である.
運航するプリンセスクルーズのHPによると,スイートルームで50から60㎡.
海側バルコニーの部屋で17㎡,窓がない内側ツインで14~15㎡.
すなわち,陸上ならビジネスホテル並みの面積である.

「窓がない」のは,改正旅館業法でクリアできる.
この事業を認可した国土交通省は「やってやった感に満ちていて」例によっての上から目線で鼻が高いらしいが,サン・プリンセス号の船籍は「バミューダ諸島」である.すなわち,英国領である.外国船籍の船を誘致できて自慢するのがわが国の国土交通省なのだ.

ところで,魔の海のミステリーの方が有名なバミューダ諸島であるが,おもな産業は金融業と観光である.金融は,あの「タックスヘイヴン」の地域である.これと「船籍」は無縁ではない.
イギリスのシンクタンクが毎年発表する金融世界ランキングの,2018年版では東京が5位.バミューダ諸島は36位.
37位がバンコク,40位がクアラルンプールだから,けっしてあなどれない.

しかも,バミューダ諸島は,2005年に一人あたりGDPで,世界最高を記録している.
海洋国家の日本に,日本船籍の船舶はすくない.
日本に本社がある船会社も,おおくは外国船籍で登録し,日本を避ける.
理由は,「規制」である.パナマやリベリアが好まれる理由である.

上記ランキングの,トップ5は,ロンドン,ニューヨーク,香港,シンガポールの順になっていて,東京のつぎの6位は上海である.ちなみに,日本でランクインしたもう一カ所の大阪は23位に位置している.
なお,政府が特別になにかを腰を入れてやりますよとアッピールする,「国家戦略特区」というのは,もともとは鄧小平のアイデアである.共産中国とおなじやり方が通じる国になっている.

彼らは,観光業よりもはるかに大きな稼ぎを金融で得ている.英国は,こういうやり方がうまい.
つまり,観光業「だけ」で国家経済を潤わせることは不可能なのだと教えてくれる.
クルーズ船一隻だけで,さもホテル不足が解消できるというのも幻想だろうし,国家が介入するはなしとしても小さすぎる.
「日本船籍を増やす!」ことでもやってみなはれ,といいたくなる.

それで気になるのが,船内「カジノ」の営業である.
これまでは,カジノが禁止の日本から公海上にでれば,外国船籍の船ならカジノ営業ができた.
日本船籍の船が,公海上にあっても日本の法律が適用されるから,現金に交換できないカジノもどきしかできなかった.

こんどは,日本でもカジノができるようになったから,横浜港に接岸中のどの船舶でもカジノ営業ができるのだろうか?
ニュースには,カジノ営業もない,という.外国に行かないから免税ショップも開店しない.
いったい国土交通省は,なにに関与してなにに自慢したのか?

しかし,発表された宿泊料金が,おひとりさま2泊3日で7万円(窓なし14~15㎡)で食事付きだというから,いいお値段だ.カジノができたら半値以下になってもおかしくない.
これでは単純に,動かない,というだけの値付けだ.

横浜港に停泊して,オリンピックのどの競技をみに毎日移動するのかしらないが,2000人の移動はどうするのか?
大桟橋からの公共交通は,みなとみらい線をつかいなさい,と.
あとは,臨時バスで対応すればいいだろう,ぐらいしかないのだろう.

なんとも,悲しくなるほどの貧困なる発想である.
利用者目線,客目線の完全なる欠如.
結局のところ,天下のJTBが確保する,「オリンピックのチケット」にプレミアムがつくだけの,抱き合わせ商法ではないか?

それ以外なら,期待して泊まったひとたちががっかりして,結局は「嫌われる努力」をしたことにならなければいいがとおもう.
横浜市長は民間会社の役員を経験されたという経歴が光っていたが,まさか「女性枠」でなっちゃったということなのかを疑いたくなる「おそ松さん」である.

既存のホテルには目もくれない.
話題性の追求で,なにか仕事をしているふりができるし,チヤホヤもされて気持ちいい.
東京都知事にまねっこしたのかしらないが,目線が小さすぎるのは国家の役人以上である.

大桟橋に,かっこいい船がなんでもいいから停泊してくれれば,部外者という観光客が,インスタ映えの写真をもとめてやってくる.そのひとたちが,すこしでもお金を使えば,横浜の役に立つではないか.
これは,昭和30年代の温泉街における誘致の手法・発想である.

バミューダの人口は6万5千人あまり.ここに上下二院の議会がある.
彼らの知恵が,我らにないことを残念におもう.

ロイヤルミルクティーの発明

歴史的にも日本人というのは,じつは地球上でもっとも快楽主義の民族なのではないかとおもうことがある.
宗教すら,人間のためにあるものというかんがえだから,この世に悪い神様は存在しない.
人間に悪いのは,「悪霊」という「霊」であって,「神」ではない.

だから,神社だろうがお寺だろうが,「霊」を払ってもらえればよい.
神社が効きそうならミソギをし,お寺が効きそうなら護摩を焚いてもらう.
まるで,よさげな病院をえらぶような感覚で二千年を過ごしてきたのが日本人だ.
神仏には,自分にとっての都合の良いことを頼むのである.

さいきん,イスラム教徒が日本を意識している.
イスラム教の教えは,神の御意思にしたがえば,「天国」に行けるというものだ.
ところが,彼らが想像する「天国」とは,じつは「酒池肉林」の世界である.
だから,現世では酒も飲んではいけない.天国でのおたのしみなのだ.

これは,日本人がイメージする「極楽浄土」の清涼なる世界とはまったくちがう.
しかも,その天国へ行くことを決めるのは全知全能の「神」であって,自分ではない.
それで,生きているうちに神に気に入られる行動をすればよいとかんがえるようになった.
これは,本来の最後の審判を経ての「復活」とはまったくちがうかんがえかたなのだが,人間のかんがえかたも「神」が決めるとするから,これはループする.

本来のかんがえ方は,たとえ極悪人でも,最後の審判で神が「よし」とすれば,天国に行くし,どんなに善行をつもうが「ダメ」とすれば地獄に行く.
それが,人間にとっていかに理不尽でも,絶対神の「絶対」とはそういうものだから,人間のために神があると信じる日本人には理解できない.

生きているうちに修行や善行をすることで,魂を清浄にすれば極楽浄土に行ける,というのは仏教の思想だ.
だから,最近のイスラム教徒は仏教化している.
それで,ワールドカップで清掃をする日本人を,イスラムの本来の姿だとみるようになった.

世の中,適当なものである.
オリジナルなものを,自分たちの都合でかえてしまって,それを「高級」とみなす行為は,オリジナルの方からみたら,たいへん不遜にみえるだろう.
仏教から,浄土思想を生んだのも,そうやってみると不遜である.
フランスの仏教研究では,正式に浄土真宗を仏教と認めていないのは,修行すら必要なしとした教えに対しての,オリジナル目線からの結論なのだろう.

仏教の誕生地といえば,インドだ.
いまではヒンズー教が大半で,仏教徒は3%程度にすぎない.
アラビア語でインドは,「アル・ヒンドゥ」.つまり,「ヒンズーの国」.
その国で紅茶畑の従業員が,一大ストライキを実行して,紅茶が世界的に不足したから高騰している.茶の木の手入れができないから,ストライキがおわっても,しばらく不足はつづくだろう.

茶葉栽培の適地は,高山の寒暖差があるところといわれている.
それで,ヒマラヤのあたりでは,ミルクを沸かしていれた「チャイ」が一般の飲み物である.
これを,日本人が「ロイヤルミルクティー」といって売り出した.
「ミルクティー」に「ロイヤル」がつくから,高級感いっぱいである.

水と安全はただ,というかんがえの国だし,牛乳を飲む習慣が長くなかったから,消化できずにおなかを下す人がたくさんいるのも日本である.
逆に,日本人は欧米人とちがって海苔などの海藻を消化できる能力をもっている.だから,欧米人が海藻を食べ過ぎるとお腹を下す.

紅茶に牛乳を入れるのは,英国式のアフタヌーンティーでの飲み方だが,このとき,牛乳は冷たくなければならない.
日本では,温かいものには温かくと気を利かせて,温めた牛乳をわざわざ出す店があるが,これは,牛乳に無頓着な日本式である.

牛という獣の乳であるから,牛乳を温めるともとの獣の臭いがしておいしくない.
それで,高級かつ繊細な香りの紅茶に入れたら,とたんに獣臭がしたお茶になる.
だから,レモンティーも好まれない.レモンの酸が紅茶のタンニンと反応して澱をつくるし,せっかくの紅茶の色も香りも消えてしまうからだ.

ところが,ミルクティーを注文する日本人のおおくが,温かい飲み物には温かいものを入れるのがよいと思い込んでいるから,冷たい牛乳をサービスすると文句をいうひとがたくさんいる.
それで,いちいち説明がめんどくさくなった日本のとある高級ホテルは,日本人なら温かい牛乳,欧米人なら冷たい牛乳を出すこととした.
どちらもおなじポットでサービスされるから,隣のテーブル同士でもちがいには気がつかないだろう.

だから,牛乳を沸かして作る紅茶は,水の質(硬水か軟水か)はヨコに置いても,水が楽に手にはいる欧米では「ありえない」飲み物である.
谷まで水くみが必要なヒマラヤの山奥なら,水より牛乳の方が楽に手にはいるだろう.
それでも,牛乳だけからいれた紅茶は,それなりにまったりした味があるから,選択の自由を否定はしない.

しかし,これに王室を意味する「ロイヤル」をつけたのは,言い過ぎだ.
かつてインドを支配した英国王室ファミリーが,インドの庶民が好む方法でのお茶をわざわざ飲まないし,これに「ロイヤル」をつけたら,英連邦の人びとまで「???」にさせてしまう.

外国人観光客が少なかったころなら,極東の島国のローカルで済んでいたが,いまだと悪いイメージになりかねない.
インド料理店では「チャイ」といい,高級な喫茶店では「ロイヤルミルクティー」と言い張るなら,人種差別ともいわれかねないからだ.

もちろん人種差別を好んでしているはずもない.
しかし,ではなんと反論するのか?
適当によかれとつけたものの,本物目線から逃れることはできない.
快楽主義だと開き直るなら,それはそれで立派ではある.
けれども,たんなる無知では,美味しい紅茶もまずくなる.

インスタントラーメンの意味

日本人の発明品で,かくも世界の食文化に影響をあたえたものはないだろう.
良くも悪くも,偉大な功績である.
手軽にいつでも食べられること,人工調味料と添加物をジャングルやサバンナの奥地にまで広めたことである.

日本人には,「主食」の概念がある.
「米信仰」ともいえる,稲の栽培にまつわる節目節目に「祭り」があるのが証拠だ.
しかし,米を口にできたひとはわずかだった.
おおくのひと,なかでも米を栽培するひとのほとんどは,日常的に米を食べることはなかった.

古くから「税」の対象だったからだ.
それで,おなじイネ科の植物,ヒエや粟に野菜を混ぜて食べるのが日常だったという.
だから,江戸時代の人口構成でいえば,大多数だった米を食べることが日常ではなかった農民に,糖尿病もなかった.

むしろ,慢性的なカロリーと栄養不足で,過酷な農作業をしていたから,ふつうは骨と皮のやせこけた体型ではなかったか.
「ジャパニーズ・貧相」の象徴として,左卜全,藤原釜足らの俳優は,そこにいるだけで伝統的な「貧困」を感じさせた.

いま,時代劇からリアルが消えたのは,「時代」を感じさせるロケ地がなくなったこと,画像解像度が増して俳優の毛穴までみえること,そして,「貧相」な俳優の絶滅だろう.
これに,現代的価値感のホームドラマが展開するから,「リアル」であるはずがない.
ほんとうは,理不尽の連続が人生であったろう.「おしん」が国内だけでなく,アラブ諸国やイランで日本以上に共感された理由である.

生産者である農民が米を食べることができない,ということから理不尽である.
農民が自分がつくった米を食べることができるようになったのは,戦後の農地解放からであろう.
「先祖代々」というのは,地主としてではなく,水呑百姓として「先祖代々」ゆえの,土地へのこだわりであるから,別の意味の理不尽が乗っかっている.

だから,とにかく「主食」にはこだわるという価値観が,民族の価値観として常識になった.
ところが,米だけではたべにくい.それで,高等技能の「口内調味」として「副食」というおかずが必須になる.
こうして,ラーメン・ライスという食べ方が生まれた.
主食になりえるラーメンを副食にしているのか,ラーメンを主食としてライスを副食にしているのか微妙な表現だが,栄養士がぜったいに勧めないこの組合せは,おそらく日本の庶民の貧相な食文化の中で「贅沢」の象徴なのだ.

東西冷戦がおわって,世界の構造が大変化した.時を同じくして,お隣の大国が改革開放政策をとったから,世界の工場だった日本の立場が根底から揺らいだのが80年代のおわりから90年代の最初の出来事だった.
つまり,日本では「バブル期」とその「崩壊」の時期にあたる.

不幸にも,日本人は,不況の原因を「バブル後の不良債権」に求めた.
これは,原因ではなく結果なのだ.
「平成不況」の超巨大な原因は,「冷戦の終結」であったのに,平和ボケして気がつかなかった.
歴史的「愚鈍」であろう.いまだに気がついていない.

それで,鉄のカーテンの向こう側がぱっくりと,まるでタイムマシンが稼働したように,時代錯誤な生活を強いられてきた人たちが一気に現代にやってきた.
購買力に乏しいから,西側の高度な加工品はすぐには買えない.
しかし,インスタントラーメンなら,彼らにも購入できる.

こうして,日本製のインスタントラーメンが,あっという間に日常食になった.
「売れる」となれば,9,000キロのかなたまで運送するのが面倒だし,安い人件費という条件も,穀倉地帯という条件もあって,現地生産が選択される.

ところで,スープにはいっている麺を,彼らは「主食」と認識しない.
「主食」という概念がない食文化にあって,インスタントラーメンは,「スープ」扱いなのだ.
スープは,食前にいただくものである.
それで,袋から取りだす前に,よく揉んで麺を粉々にする.「スープ」だから,スプーンで食べやすくするためである.

ぞんざいな扱いをして,インスタントラーメンを出荷した箱がつぶれても,どうせ砕いて食べるから気にしない.
むしろ,適度につぶれているものが好まれる.
こうして,インスタントラーメンは,麺ではなく具材になった.

所変われば品変わる.
それは,意味までも変わるからである.

カレーはフォークで食べる

「箸」のつかいかたが下手なのは,いまどきの外国人ではなく日本人という時代になった.
中学のころ,弁当に「箸」ではなく,スプーンをもってきている友人がいた.
なぜスプーンなのかをきいてみると,箸がつかえないから,というので仰天したことがある.
こども心にも,「どんな親なのかみてみたい」とおもったものだ.

親が箸をつかえなければ,その子どもにつかわせることはないから,「箸がつかえない」は,かならず連鎖する.
「個性」の誤解で,箸がつかえないことも個性にされる時代だから,不幸にも箸が使えない大人に育つ.

日本において,外国人とのフォーマルな食事にはたいがい会席料理が一度はある.
そこで,日本人として箸がつかえない,ことをさらすことがどのくらいの「恥」になるかということすら考慮されないなら,それは単なる「無智」ではすまされないほど,大人の無責任である.
きちんとした食べ方ができない,という人物は,彼ら外国人のなかでは軽蔑の対象になるだけだ.

だから,子どものときからの「躾」は,その子の人生を左右するほど重要なのだ.
できないことを「親のせい」にしても,自分が大人になっていれば,相手には恥の上塗りでしかない.であれば,自分たち外国人のように,大人でも練習すればよい,と発想されてしまう.

恥ずかしながら,そうはいっても,「箸」のつかいかたを極めているものではない.
あくまでも日常で「つかえる」という程度だ.
日本の礼法といえば,「小笠原流」.
見事な箸さばきで,公家を驚嘆させたはなしは有名である.

日本好きの外国人を招待する番組が人気だ.
このひとたちが,その道で一流の職人一家に招かれて,食事をする場面がある.
そこで,孫や子どもたちが驚いた顔をするのは,これら外国人の箸遣いと日本語能力だろう.

放送されない,「子どもたちも勉強の意味がわかるな」と,招待した家でのその後の会話が想像できる.きっとこの番組は,その部分において,とても「教育的」な番組なのだ.
子どもにとってのモチベーションアップは,かならずあるとおもう.
だから,お別れのシーンで,子どもたちの目が輝いている.

ひるがえって,洋食といえば,フォーク・ナイフ,それにスプーン(カトラリーという)が道具である.
「箸」に比べれば合理的な形をしているから,簡単につかえる,とだれでもおもう.
しかし,これがあんがいそうではない.
また,マナーとして勘違いしている日本人はおおい.

西洋料理の発祥のひとつは,イタリアンである.
そもそも,フランス料理があたりまえのように手づかみであったころ,イタリアではカトラリーが発明されていた.
それがフランスに伝わるのは16世紀に,フィレンツェのメディチ家からフランス王に輿入れしたカトリーヌの嫁入り道具であった.

ああ,なんという彼我の差.
おそるべし,「箸」文化の歴史の古さよ.
ついこの前まで手づかみだった我々は,文明人だったのか?
これが(珍しくも)東洋に憧れる西洋人からの発想だ.

イタリアンといえば,パスタ.パスタといえばスパゲッティ.
スパゲッティは,フォークに巻き取って食べる.これが難しい.
20代はじめの頃,ミラノ近郊の家庭に招待されたことがある.そこでいただいたスパゲッティの味は,いまだに忘れられないが,家族のみなさんの見事なフォークさばきは,なかなか真似できなかった.

ヒョイと皿の上の頂点付近の麺をすくい,フォークにからませると,そのまま空中で巻き取る.
このとき,親指の動きが重要なのだ.
やってみると,うまくいかない.そこで,皿のヘリにフォークを当ててクルクル巻き取った.
どうやら,この方法は,マナーとして幸いにも「許容範囲」であった.

お箸の日本のマナーで,口に運ぶとき落ちないように箸を持たない手を添えるのはタブーであるが,これが丁寧だと勘違いしている日本人はおおい.
その延長か,日本女性のおおくが,スパゲッティをたべるとき,巻き取るための補助としてスプーンをつかうのだが,これは,イタリアでは子どもの食べ方として認識されているようだ.

スプーンは,液体をすくうものという概念が強いからである.
自転車に乗れるようになるまでの補助輪とおなじだから,正餐のときにはやらないほうがいい.
しかし,人間には「行為スキーマ」という,自然に体がいつもの動きをしてしまう特性がある.
だから,いつもから注意していないと,本番だけでは失敗する.

ほぼ和食になった西洋料理のなかでも,国民食といって反対意見がないのはカレーだろう.
インドを支配した英国人が,本国に持ち帰った料理を,英海軍を手本とした日本海軍が輸入したのがはじまりだから,日本のカレーのルーツは英国である.
それで,英国のスパイス専門会社「C&B」と,日本のスパイス専門会社の名前までそっくりになっている.

いったん洋上に出ると曜日がわからなくなるので,いまでも海上自衛隊は,組織全体で金曜日はカレーの日と定めている.これで,隊員たちは「もう一週間たったのか」となる.
事前に申し込んで横須賀などの「母港」に行けば,停泊中の船でオリジナルカレーがいただける.
全艦船,それぞれ味つけが違うというけど,一般人で制覇したひとはいないだろう.

日本のカレーは,小麦粉で粘度をましてジャポニカ米のご飯と馴染むようにできている.
しかし,西洋の発想には「主食」という概念がないから,カレーライスは微妙な食べ物である.
日本人は,パンを主食とかんがえるが,あちらはちがう.

カレーをご飯なしで食べるならスープ扱いになるが,肉や野菜はフォークで食べることになっている.
ましてや,あちらで「米」は,野菜扱いなのだ.
つまり,日本式カレーライスは,フォークで食べるもの,となる.
これを,スプーンで食べるのは,離乳食的でまさに子どもの食べ方になるのだ.

でも,子どもの食べ方でもスプーンのほうが食べやすい.
だから,「日本式」にカレーライスはスプーンで食べるのだ.
いや待て,それでは「箸がつかえない」で押し通すようなものではないか?

なるべく,フォークで食べる練習をしておいたほうがよさそうだ.
しかし,たくさんの外国人が来日して,カレーはスプーンで食べるもの,と知らずに教育しているから,あんがいそのうち,あちらの常識がかわるかもしれない.

本来はフォーク.
確信犯としてスプーンをつかう.
とりあえず,このくらいで勘弁してもらうのがいいのだろう.

ニュースがない日のニュース

メディアと呼ばれているものの特徴に,「枠」がある.
放送時間「枠」に記事の「枠」.
テレビであろうがラジオであろうが,新聞であろうが,かならず「枠」がある.
それで,この「枠」をどう埋めて売るのか?が,各社の競争になる.

ニュースらしいニュースがあれば,しかもたくさんあれば,「選択」が重要になって,なにを報じてなにを削るかが「判断」のしどころである.
ところが,億人単位のひとが暮らしていても,たまには平穏な日もある.
すると,たちどころにニュースがない,という事態になる.

そこで登場するのが,溜めてあった記事である.
「今日はロクなニュースがないな」
という日は,このような記事のことを「ロク」という.
じつは,「ロク」には本格的という意味がある.つまり,受け手の期待値がこれでわかるというものだ.

ついつい大きなニュース,つまりは自分が関わらない「大事件」を読者は要求している.
それで,「事件記者」は飛び回って取材する.
一般に,これらのことを「フロー」という.
浮き沈みのあるものだからだ.

たとえ連日連夜でも,フローな記事ばかりを読んだり聴かされたりしていると,「だからなんだったのか?」と,ふとわからなくなることがある.
これを,「本質を見失う」という.
「表層の事象」が「フロー」でもあるから,そればかりの報道だけに接していると,わからなくなるのは当然である.

「売上」も「利益」も「フロー」である.
一般に,「売上」-「経費」=「利益」だから,「売上」と「利益」が「フロー」なら,「経費」はなんだっけ?とかんがえると,「フロー」でも「フローでなくても」,こたえの「利益」は「フロー」になる.

実務では,ほとんど役に立たない「損益分岐点」を算出するには,「経費」=「費用」を,売上に連動する「変動費」と,売上とは連動しない「固定費」に分解すること,と教科書にはかいてある.
つまり,「変動費」が「フロー」で,「固定費」は「フローではない」.

このかんがえ方が,ナンセンスなのは,「材料費」を「フロー」だといっていることにある.
ある商品がどのくらい売れるか?がわからないから「売上」は「フロー」なのだ.
それで,その商品をつくるときに必要な「材料費」は,売上に連動するから「フロー」の「変動費」であるという.

ところが,商品ぜんぶを予約注文で販売していて,注文が入ってから材料を発注してつくるならいいが,さいしょに商品を製造してから店頭で展示して売るならどうか?
そもそも,その商品が今日,何個売れるかわからないのである.
だから,一見もっともらしいが,後出しじゃんけんでしかない.

ニュースとおなじように,「フロー」ばかりを観ていると,本質がわからなくなるということになっている.
もうお気づきだろう.
重要なのは,溜めこんだ「ストック」のほうである.

企業の「決算書」のさいしょに「貸借対照表」がある理由である.
しかし,ほんとうに必要な情報は,ここにもない.
あるのは,従業員の頭と体のなかである.
それをどうやって「見える化」するのか?
これが,経営である.

鎌倉時代の暇人,兼好法師が書いた「徒然草」には,ニュースなんてものはないということがある.
人間がやってきたことは,いつでも似たようなもので,大事件にみえるようなことでも,たいがい過去にしでかしている.
だから,ニュースなんてない,という.

なるほど,ニュースを1,000年分ほどストックすると,おおかたの事件も初めてではないだろう.
ニュースがない日のニュースほど,新聞社のふだんのストックがわかるというものだが,「ロクなニュース」がない,のが現状だ.
すると,1,000年分ほどのニュースを電子ストックして,AIが適確な解説を今日のニュースに与えてくれるかもしれない.

社内行政マンの出世

昨日は,本当の行政と政治の関係をかいたから,その延長にある民間の社内について書いておこうとおもう.これは,以前このブログで書いた,ガルブレイスの話の別角度からの解説にもなろう.

明治維新の不思議に,明治政府の編成がある.
江戸幕府をたおした,薩長政権であった明治新政府が,すばやくその組織体制を整えることができたのはなぜなのだろう?
「欧米への視察」ということだけの経験で,はたして政府組織を構築できるものか.
もちろん,外国人顧問団の存在もあっただろうが,「政府機構全体」のことである.

政府もさることながら,民間も,どうやって「会社組織」を構築したのか?
しかも,おおいに資本主義を基礎にした,「会社」のことである.
これは,政府に依存しながら,民間が真似た,といっていいのではないか.
初期の産業振興とは,政府主導の典型的開発独裁体制であった.

これに,「学制」がペアになって支えたとおもう.
政府だけに人材をおくるのではなく,民間にも人材が必要である.
それで,帝大と私学という棲み分けになったのだろう.
どちらも,当時の学校制度からすれば,「エリート」の育成機関にほかならない.

これらは,江戸時代からある身分制度とも連携したとかんがえるのがふつうだ.
「工商」の身分なら,そのまま家業を継ぐ.
「士農」もおなじだが,豪農なら子息を大学に進学させることができたろう.
それが後に,軍のエリートにもなって,歴史をうごかすことになる.

だから,当時の「サラリーマン」はエリート層だっただろう.
工員や職人は,転職があたりまえだった.
当時から,腕のある職人を御すのはたいへんだったというはなしはおおくある.

今では,大学卒業者のことを「大卒」というが,むかしの「学制」だと「学士」である.
いまだって「学士」なのだが,恥ずかしくて自ら名乗れなくなった.大学をでると,学位をえるという感覚はほとんどないだろう.
むかしの「学士」には,やっぱり「学」があったから,いまとはちがう「エリート」である.
つまり,民間でも高級事務職には,「学士」がなった.

これは,いまでいう「MBA」に匹敵しただろう.
だから,若くして相当の権限をもって経営に参画していたはずである.
軍でいえば,「主計将校」か「作戦参謀」ということになるだろう.

尋常小学校卒業者,中学から師範学校,高等学校に分岐して,大学に進学するという各コースは,人数の構成がピラミッド状になっていたことでもわかる.
そもそも,旧学制では,中学に進学することじたいが珍しかったから,ほとんどは義務教育の小学校卒業者で社会が構成されていた.

これが,戦後になって大きくかわる.
「公職追放」というイベントで,戦争中の経営者が追放されてしまって,「敗戦利得者」が代わって経営を引き継いだ.
政府で,公職追放になったのは,解体された軍人と政治家だったから,高級官僚は生きのこる.これが,政府と民間の関係を決定づけたのではないか?

しかし,民間でも戦後体制は,旧制大学出のひとたちの時代がつづく.
明治のおわりから,大正時代に生まれたひとたちだ.
昭和生まれの新制大学卒業者がサラリーマンで現役だったころ,会社の幹部はまだ旧制大学出に占められていたはずである.

だから,高度成長時代とは,じつは旧制大学出のひとたちの時代だった.
それで,ノー天気な状態でもなんとかなったから,「無責任男」がやってくる.
裏から観れば,重圧な蓋にとざされた閉塞状態の社内にあって,新制大学卒業者たちの悲哀の物語ではないのかともおもう.
救いは,経済成長で,会社がおおきくなれば,ポストも用意されたからだ.

そうこうしているうちに,時間という残酷な現象が世代交代をうながす.
旧制大学出のひとたちの時代がしずかにおわった.
それで,「無責任」を旨としたひとたちに順番がまわってきた.

もちろん,以上のストーリーは大きな物語であって,個別にどうかということではない.
しかし,この話には「無責任」でもなんとかなるという「行政」の本質がかくれている.
旧制大学出のひとたちからの下命を,上手にこなせばよいのだ.
かんがえるのは旧制大学出のひとたちの頭脳であった.

こうして,役所には「行政」をはるかに超える業務範囲がのこり,民間には「行政」だけがのこった.

社会の基礎をつくるのは,教育である.
「大卒」という「高学歴」にすれば,生産性が高まる,と旧制大学出のひとたちはかんがえなかった.
彼らはむしろ,「適性」と「専門」を重視した.

経営に関していえば,「MBA」批判はあるものの,とにかく「経営の専門家」が重要なのだ.
経営学者が重要なのではない.
そういう意味で,「エリート」すなわち「専門のリーダー」教育が欠如している.
決められた枠からはみ出さない,正しき行政マンを出世させて,リーダーにするしかない,という状況をいかに変えるのか?

政治の状況と同様に,厳しい課題がこの国にはある.

期待はずれの期待感の顛末

任期切れ間近の,金融庁の森長官に対する評価と批難が交差している.
歴代で,もっとも果敢に金融行政をけん引したその根拠は本人いわく,「顧客本位の業務運営」.
行政の長として,これにはいささか違和感をかんじるが,規制官庁にして,顧客本位の業務運営を「やれ」といわしめる日本の金融機関のお粗末な実態だとおもえば,納得もできた.

しかし,これは、金融監督庁時代からの「検査機関」から,日本の金融の「ありかたを定める機関」という,旧大蔵省銀行局・証券局の本来の役目が復活したにすぎないともとれる.
それで,森長官は,数々の商品を開発したスルガ銀行を「地銀の雄」として肝いりをしたが,いまとなっては,「スルガ銀行事件」にまでなってしまってずっこけたようにもみえる.

そんなことから,冒頭のように,長官への評価と批難が交差しているわけだ.
以上が,ふつうの感覚なのだろう.
長官の手腕に期待したが,期待通りにはいかなかった.いや,いった.と.
けれども,相手は「行政」なのだ.

行政が勝手に絵を描いて,それを実行してよいものか?
ましてや,たまたま(順番で)長になったひとが,過度の期待を組織外から受けるのはどうしたものか?
戸籍係のひとには例にして悪いが,行政とは戸籍係のようなものだ.
あたかも,フリーハンドでの勝手な振る舞いがゆるされるものではなく,国民がゆるしたこともない.

アメリカには「ジャクソン・ルール」が存在している.
第七代大統領が定めたルールが,良くも悪くも今につづいている.
その根拠は,「行政は誰にでもできる」し,誰にでもできる範囲「しか」行政にやらせてはならない,というかんがえ方である.

つまり,「判断」は選挙で選ばれた「政治家」の仕事であるから,行政は誰でもできる.
問題の「提案」は,民主主義だから,市民ならだれでもできるから,行政の範囲には「提案」もない.
粛々と,決まったことをするのが「行政」なのだ.

これに対して,わが国は,行政がほとんど全てを仕切っているけど,これに違和感をもつひとが少ない.
それで,行政に過大なる期待をいだくのである.
その,過大なる期待が,行政のあるべき範囲をとうに超えているから,行政も勘違いして本来ならやってはいけないことにまで関与する.

これが,世の中の構造が単純なら効果があった.
しかし,民主主義をすこしでもやれば,すぐに世の中の構造は複雑になるから,行政の能力をかんたんに「無能化」する.
こうして,行政は意味のないムダか,さらなる余計なお世話をもとめて肥大化するしかなくなるのである.

政治がさらに上をいく無能だから,現状のままで仕方がないではないか.
経済も,人口も拡大するのなら,仕方がないですますことができた.
しかし,残念ながらこの国に,その余裕はもうない.
だから,行政ではなく,政治が決めなければならない.

こうした目線で見ると,モリ・カケ問題とは,行政が決めることを支持することと,政治が決めることを支持することとのせめぎ合いにもみえる.
つまり,「問題」にしているひとたちは,これまでどおりだから「保守」で,「問題はない」というひとたちは,これまでとはちがっていいということだから「革新」となる.

まさに,「保革」の概念の逆転である.
こうして,戦後体制を保守しようとするひとたちを「革新」とよび,それに疑問をていするひとたちを「保守」と呼んできたことの滑稽があぶり出されてきた.

いったい,占領軍は日本にどんな「改造」をしたのか?ということの本質が,メッキがようやく剥がれるように見えてきたのが,「衰退のはじまり」というタイミングだったことになる.
いいもわるいもなく,とにかく政治には決めてもらわなければならない.
それが,国民に支持されなければ落選し,支持されれば推進する.

こうした決定で,国民には痛いこともあるだろうが,それが民主主義というものだ.
その「痛さ」をもって,厳しい判断をするのが人間の学習能力なのである.
「巧言令色鮮し仁」
この名言を生んだ国では,この言葉の意味が今ではわからなくなっているだろうが,あんがい日本の漢文教育は一線でもちこたえているかもしれない.

期待すべきは政治であって,行政ではない.
現状をみれば,文字にして恥ずかしさすらあるが,これが本質なのである.

持ち回りをやめられるのか?

「昭和」の終わりかた,という本があったら読んでみたいものだ.
奇しくも,昭和63年から昭和64年の年越しで,民放連による「ゆく年くる年」が終了した.
大晦日の新聞テレビ欄は,NHKの「ゆく年くる年」と,民放の「ゆく年くる年」が,30分ほどではあるが,一本の帯をつくっていた.
これをしっているのは,もう40代以上のひとたちになる.

ふだんは視聴率をあらそう民放各局が,年に一回,休戦協定のようにぜんぶがおなじ放送をした.
そして,各局の持ち回りで「担当局」を決めていたから,じつは「一大看板番組」だった.
「局の総力」といってもいい.
人間がきめた,暦による「年末と年始」という1/365の珍しさが強調されたのだ.

しかし,引いてかんがえれば,毎日が1/365なのであるから,年越しが特別だというのは,あんがい意味はうすい.
このブログでも書いた,明治5年の年越しは伝統ある「太陽太陰暦」から「太陽暦」への転換だっから,それはもう特別だったろうが,おそらく人びとは「へーっ」といって日常を過ごしただろう.

各局同時放送が終わりになったのは,休戦協定の意味が薄れたからであった.
すなわち,視聴者の価値の多様化である.
それで,各局が独自に放送することになった.
まさか,昭和の終わりと時を同じくしたのは偶然だったにせよ,「価値の多様化」は偶然ではない.

大イベントで,会場を持ち回りにしているのは,スポーツの世界が好むことだ.
いま開催中のサッカーもしかり,オリンピックが集大成である.
それで,あまりにも「金銭」が動くから,これらを仕切る団体には,巨大な利権がまとわりつくのは自然なできごとだ.

その利権の誘惑に,「勝つ」か「負ける」かの神経戦が,団体理事たちに課せられる.
なるほど,スポーツとは,まさに「心技体」の心得がみがかれるものである.
一方では,否定的な見解もある.
それで,オリンピックという祭典をやめるべきだという論も聞くようになった.

そうしてかんがえると,政治の世界の「サミット」を筆頭に,持ち回りで開催されているものがある.
いつもおなじ場所だと,いけないわけは「気分」にちがいない.
首脳たちも人間だから,「気分」はたいせつなのだ.
それに,警備や宿泊先などは,一生に一度の経験を強いられるから,実力の「底上げ」にもなる.

外資系の会社に働いた経験で,「なるほど」とおもったことに,ふだんから贅沢なオフィス環境にいながら,なぜに外部の贅沢な会議室を借りてまでの会議をしたがるのか?という不思議のこたえがある.
それは,ここ一番の会議でほしいのが「アイデア」だったからである.
そのためには,環境をかえることが有用だということが心理学でわかっている.

「今日ほしいのは,アイデアだ」そして、「これにかかる経費は,株主も納得するだろう」がつづく.
ふだんの贅沢なオフィス環境も,「高いパフォーマンスを得るには,オフィス環境は大事だ」だから,「株主も納得するだろう」となる.

典型的な日本企業は真逆である.
占領軍が持ち込んだ,前線基地用のスチール机と椅子でよい.
せまい事務所に,人を押し込んで,なんとかする.
これが,経費削減というものだ.

アクション映画,「ランボー」で,主役のスタローンを上司が説得する基地のセットには,日本のオフィスで定番のスチール机と椅子があったのが印象的だ.
それは,急ごしらえでも機能だけがあればよい,という「軍」の備品としての完成度を意味する.
なるほど,耐久性はハンパないわけだ.

重要な会議のために,重要な立場の人物のスケジュールがかんたんに調整できる,ということはほとんどない.重要な立場の人物ほど,日程が込み入っているからである.だから,秘書がつく.
それで,「持ち回り会議」が発明された.
すなわち,書類を回覧してサイン(印鑑)をもらう.

国家であれば,「持回り閣議」という.
企業であれば,「稟議」というものだ.
「印鑑」の文化がある日本には,役所が認める「印鑑証明」という制度がある.
それで,日本企業で「役員」になると,会社に「印鑑証明」も提出する.

「稟議」は,「持回り役員会」だから,この書類への押印は法的行為となる.
それで,印鑑証明の印鑑,すなわち「実印」をつかう.
相続に失敗して,親の借金まで相続したひとが自己破産したら,管理職として会社での「押印」という法律行為ができなくなるから,業務遂行に支障をきたし,「合法的に」解雇された事例がある.

電子決裁時代になって,「稟議」をはじめとした各種書類が,いまだに「紙」という会社は少ないだろう,ということはない.
日本のばあい,役所もふくめ,まだまだ「紙」の時代である.

ビットコインと呼ばれる仮想通貨には,「ブロックチェーン」という技術がつかわれている.
この技術は,書き換えの記録が必ず残る,という仕組みである.
この技術をつかった,社内決裁がもっとも実用的であろう.

電子決裁の利点は,スピードにある.
「紙」の持ち回り決裁をしている,日本のおおくの企業で,どのくらい「スピード」が重視されるのか?が,最大の難所である.

持ち回りはやめられないが,経営陣のなかでの決裁スピードも求めない.
それで,従業員の生産性を疑うのなら,笑止というべきか.