春の味は苦い

今年は節分の翌日が立春で、関東にはこの日「春一番」が吹いてしまった。

冬と夏のせめぎあいから、だんだんと暖かくなるのが春。
そして、田園風景には、春の芽生えがあちこちにみられるようになってきた。
子ども時分には、よもぎを摘みながらちょっと遠目の散歩に出かけたものだった。

袋一杯に摘んだよもぎをさっと洗ってから茹でて、細かく刻む。
このとき、包丁を2本使うこともあった。
それで、上新粉とこねて、よもぎ餅をつくって食べた。

ずいぶん前から和菓子屋で買うものになったけど、あの緑の「濃さ」と「苦み」のあるものはどこにも売っていない。
手作りならではの、よもぎを奮発した味だった。
いまでは年中売っている不思議があるけど、香りが薄いのは想定内だ。

べつに、よもぎ餅なんてなくてもいいような食べものだけど、一度も手作りしたことがなくて、買って食べるものになったら、なんだか人生の損をするようにおもう。
そうかんがえたら、おとなよりも子どもに食べさせて、舌の記憶に残してあげたい。

さすがに都心では無理だけど、すこし郊外なら、道端にふつうに自生しているものだ。
野菊との見分け方は、葉を裏返して「白」ならよもぎ、表とおなじ「緑」なら野菊である。

菊といえば、食用菊がある。
花を食べるのは、ブロッコリーだっておなじだから、べつに珍しくもないのに、菊は菊の花のままだから、慣れていないと違和感がある。
むかしは漢方で、昨今は、その栄養価が再評価されている。

しかし、菊はやっぱり秋の味覚のイメージだ。
愛知ではかなり一般的で、関東を飛び越えて山形や青森でもさかんに栽培されている。
菊の花を茶として淹れると、目にいいとされるのも漢方からだが、効果は証明済みである。

さて、春の味といえば、ふきのとうやたらの芽に代表される、「苦み」だ。
新鮮なタケノコも、ほんのり苦い。
もちろん、よもぎだっておなじである。
芽や葉を食べれば、それは苦いにきまっている。

五味(甘味、酸味、塩味、苦味、うま味)のうちで、苦みはかなり高度な「味」である。
なぜなら、一歩まちがうと「毒」を意味するからである。
「えぐみ」ともいえばわかるだろう。

ならば、わざわざ食べるのはなぜか?
これがあんがい、「人生経験」なのである。
最初は好みでないけれど、だんだんと経験を積むと馴染むのが「苦み」なのだ。

だから、「おとなの味」である。
経験の薄い子どもにはわからない。

変わっているのは、「うま味」だ。
日本人には「ふつう」だけれど、それは「鰹節」や「昆布の出汁」がふつうだからである。
ヨーロッパのスーパーにできた、「UMAMI」というコーナーの店内看板は、和食の広がりでそのまま現地語になっている。

日本人には痛快なのが、彼らは最近になってようやく、「うま味」をしったということだ。
すると、「五味」ならぬ「四味」で数千年から数万年を過ごしてきた、という意味になる。

苦みについても彼らは消極的なので、「三.五味」ぐらいかもしれない。

水の温みが気温の温みになって、春になる。
その象徴が、雪解けだ。
ふきのとうが雪の間から顔を出す。

そうはいっても、そのままではあんまり「苦い」ので天ぷらにする。
あぶらが膜となって、味覚の「苦み」を緩和させるのだ。
これが、「定番」となったのである。

20時までという、根拠不明の「規制」を「強制」して、東京では警察官が繁華街を「見回り」している。
根拠不明の「職質」もやっていて、まったくの「不法地帯」と化したのだ。
これをむかしは、「職権濫用」といったのだ。

だから善良なる市民は、ちゃんとした料理屋で、春の味覚をゆっくりと堪能する自由を奪われた。
この意味で、戦後初の「苦い春」となっている。

『風と共に去りぬ』の再評価

二度と作れない映画というものもある。

それは、出演者だけの組合せではない。
スポンサーである出資者はもとより、プロデューサーから監督、スタッフもふくめて、全員の一致が「その瞬間」に集約される、その場限りの「プロジェクト」だからである。

この意味で、映画作りとは、「刹那的」である。
けれども、予算も人員も期限(納期)もあるのが、「プロジェクト」だから、PM(プロジェクト・マネジャー)という職種だって、もう珍しくない。

むしろ、PMが仕切る「仕事」が、企業内の「花形」職種になっている。
「ルーチン」業務だけでは仕事にならない(=儲からない)ことになったからである。

とっくのとうに斜陽産業になった映画界と、その映画界を斜陽産業にした、テレビ業界も、とうとう斜陽産業になってきた。
どちらの共通は、「絶頂」における「あぐらをかく」という顛末があって、安易な「量産」が致命傷になっている。

「他山の石」というべき「反省」も、「自己分析」もできなかったのはなぜか?は、映画産業を衰退させたテレビ業界人に問われるものとなっている。

しかし昨今の、さまざまな政治的「妨害」があきらかになると、製作現場をこえた、「社会思想」という枠組みまでもが、映画やテレビの作品を作る原動力なのだということが、素人にも理解できるようになった。

ある特定の思想をもった作品「しか」つくられないのは、その特定の思想をもったスポンサーをはじめとしたひとたちの、「意向」を無視できないからである。
これで、すっかり視聴者が置いてきぼりを食っている。

けれども、そういった作品しか供給されなければ、視聴者はやがてその秘められた思想に共感するようにされられて、いわゆる、「洗脳」が完成する。
だから、視聴者は、ダラーっとした娯楽として、もはや映画やテレビを楽しむこともできない息苦しさがある。

さてそれで例をあげれば、栄光の「日英同盟」が、どうして「鬼畜米英」になったのか?
それからつぎに敗戦したら、「日米同盟」になって久しい。

しかし、よくよくかんがえると、学校の授業で、英国の歴史を通史として習わないし、米国の歴史も断片的なままである。
わが国の教育を、厳しく規制しているはずの文部科学省にあって、いかなる「教育方針」を「同盟」にあてているのか?

たとえば、エリザベス二世陛下(本名は、エリザベス・アレクサンドラ・メアリー・ウィンザー)の「ウィンザー朝」(1917年)に焦点をあてれば、たったの「4代」で、わが天皇家(126代)と比べようがない「浅さ」がばれてしまうし、苗字がある。

アメリカの建国が1776年7月4日の「独立宣言」をもってしたとすれば、ウィンザー朝の短い歴史は、アメリカよりもあたらしいことはいうまでもない。

現存する世界最古の「王朝」を、日本政府がいいたくないのは、革命政府としては当然だけど、日本国民としては別である。
政府と国民が分離してきたことを「分断」というのだとしたら、21世紀の潮流はこれだ。

だから、革命政府の文部科学省は、同盟国アメリカの内戦、「南北戦争」の意義を奴隷解放「だけ」にしたい。
それで、工業が進んだ北部が勝って、奴隷農業の南部が負けたのは、工業の勝利だけでなく、ヒューマニズムの勝利としたいのだ。

これが、「殖産興業」の国是と合致し、戦後の「農地解放」と合致した。

何度も書くが、「北部(ヤンキー)」とは、いまとなっては「民主党配下」の州をさす。
つまり、わが国の「農地解放」をやったのは、GHQ=アメリカ「北部」民主党なのであった。

わが国の歴史を無視しても、「農地解放」が正義だったのは、北部の勝利者の論法を押し付けただけである。
そうやって、国民を縛る「民法」もひっくり返した。
政府を規制する憲法よりも、国民生活を規定する民法の大変更こそが「革命」だったのだ。

わたしは「農地解放」を否定しているのではないので誤解なきよう。
ただ、もっと時間をかけるべきだった、といいたいのである。
わが国の戦後、「先祖代々の土地」という、農民のウソがまかり通った。
これをいうのは、まず自作農ではないし、旧地主でもない。

ウソを正義とするのは、革命だ。
それで、可哀想な農民、が逆差別の対象になって繁栄したかにみえたけど、結局無理の永遠はなく、とうとう農業が没落した。

アメリカ人への理解がすすんだ昨年の大統領選挙で、ようやく「南部気質」がみえてきた。
壊滅的な「敗戦」を経験した南部人こそ、わが国の壊滅的被害と、戦争目的に理解をしめすであろう。

しかし、あろうことか、反日思想の現・日本政府は、これをゆるさず、北部の民主党を歓迎するのだ。

あらためて、『風と共に去りぬ』を観れば、そのことがよくわかる。

北部で働いたことのある、レット・バトラーがいうセリフ(南部への憐愍と圧倒的不利での自身の志願)には、本来の資本主義の精神があって、悲惨にあってのスカーレット・オハラ(アイルランド人の象徴)の叫びとは、中世の詐欺・掠奪を是とする決心なのである。

「タラ」とは、野口悠紀雄氏のいうとおり、そのむかしケルト族がアイルランドを支配した時代の聖地「タラの丘」への望郷から名付けた土地をいう。
そのアイルランドは、19世紀ヨーロッパに広がったジャガイモの病気伝播によって、大飢饉となった。

これが、近世の貧困のアイルランドからのアメリカ移民を生んだのだ。
ケネディーやディズニーの祖先たちも、こうして移民してきたのだ。
この映画の登場人物名に注意されたい。

ラストのレットとスカーレットの別れ、とは、スカーレットの資本主義の精神への目覚め、としてみたら、かんがえすぎか?
単なる夫婦の破綻劇とはおもえない。
ただなんとなく、シェークスピアの『じゃじゃ馬ならし』がちらつくのである。

 

それにしても、南北戦争(シビル・ウォー)とは、はたして「奴隷解放」だけが目的だったのか?
その驚くほどの「複雑さ」は、あんがいと、白黒に分けたがる日本人には理解困難なのである。

トランプ氏と民主党の「死闘」によって、最近、南北戦争のよき解説書があいついで出版されているのは、結構なことではある。
ただし、名著の誉れがたかい『Battle Cry of Freedom』の翻訳がないのは残念だ。

  

大手旅行代理店の中小企業化

毎日新聞の中小企業化については書いた。

23日に、「JTB」が資本金1億円まで減資(3月31日付け)して、「中小企業になる」ことが報じられたけど、「毎日新聞」のときとおなじで、税制優遇がある中小企業化は、あたかも有利であるがごとくの「誘導」がある。

これが、わが国を代表する経済紙の報道姿勢なのだ。

かんたんにいえば、「紙クズ」である。
もっといえば、中小企業をバカにしている。
旅行業界のことでいえば、「絶望」を常識化しているのである。
だけれども、新聞業界だっておなじだから、自分たちはどの業界にいるのかさえも認識できていないという、「認知症」的態度なのだ。

なので、ぼく笑っちゃいます。

記事内には、旅行大手として「他社」の状況にも触れている。
どちらさまも、「大赤字」で、店舗や人員の削減をやっている。
それはそうだ。

それで、「観光庁」によると、として、JTBがどのくらいの「落ち込み」だったかを「取材した」ようだ。
なんでそんなことを、観光庁にお伺いをたてるのか?

観光庁をなぜ縮小しないのか?となぜか取材しない。
この役所への「忖度」こそが、報道機関の態度として諸悪の根源なのだ。

観光客がゼロになっても、なにがあっても役所は縮小なんかしないし、業界が大変だからと人員を増強したりする。

なんども紹介するけれど、1958年に発表があった『パーキンソンの法則』は、「役人・役所」の「原理」として、人類社会に共通の「真理」なので欧米では有名すぎる「常識」であるのに、なぜかわが国では常識化されない不思議がある。

そのかわり、ウソにまみれたというよりも、ウソしかない社会主義とか共産主義の「理論」が、どういうわけか「真理」とされて「常識」になっている。
もちろん、打倒すべき悪は、自由主義であり資本主義なのである。

まったくもっての「非常識」が、現代日本の精神病理なのだ。

昨年の11月21日の記事では、「デジタル化急務」という見出しが躍った。新聞社はもっともらしいウソを書く。
JTBグループで6500人の削減と115店の閉鎖が伝えられたときのものである。

もちろん、旅行会社だけでなく、運輸(陸・海・空)も宿泊も、飲食も、みんな「えらいことになった」のは、「あの病気」のせいであって、デジタル化とは関係ない。
新聞だっておなじだろうに、よくもこんな見出しをだせるものだ。

日本人は、あんがいと「過激」であったのに、戦後占領というわずかな期間に、すっかり「牙」を抜かれてしまった。
けれども、「噛みつく」という本能さえも抜かれたから、明治・大正期の日本人からしたら、「ふぬけ」になったのである。

ちなみに、昨今、噛む愛玩犬の牙を削ったり抜いたりする「治療」が流行っているという。
「本能」で噛むのが犬だから、その本能をコントロールする育て方、というものがある。

これが、わからないだけでなく、できない飼い主が、大枚払って歯を抜く対処療法しかしないから、本能がそのままの犬は、フラストレーションから精神病を発症してしまい、コントロール不能になるという報告もある。

噛んでも噛んだ感触がないから、もっと噛もうとするのである。
事実上の、虐待だ。

明治から大正期の「自由民権運動」は、かなり「過激な言動」だった。
だけれども、いうべきひと(納税者)だから、自分の権利としての我が儘を好きなだけいっていた。

当時の「納税者」とは、英国風にいえば新興の「ジェントルマン層」である。
一般人に、納税者が少なかったのは、選挙権もなかったからである。
わが国で「普通選挙法」ができたのは、大正14年(1925年)だった。

そんなわけで、昨日書いた、「スーパークレイジー君」のように、ケンカ慣れした日本人がふつうでなくなったし、彼が批判するように勉強エリートばかりの「同質なかよし」たちが仕切る世の中になったのだ。

だから、「そもそも論」としての「あの病気」を語れない。

厳しいロックダウンに対して、「異議」をとなえたひとたちが、大規模デモをやったのは、ドイツ人だった。
かつての同盟国だったのが懐かしいけど、あんがいとドイツ人と日本人は、「政府依存」で共通していたのであった。

そのドイツ人が、政府に叛旗を翻したから、「事件」なのである。
これは、ベルリンの壁「崩壊」以来のことではないか?

きっかけは、わが国とそっくりの「対策」と、「根拠」、それに「マスコミ報道」の三点セットをやっていて、テレビに出てくる「いつもの専門家」とか、政府への提言をする、「いつもの専門家」が、科学的データを示さないことへの批判を書いた、専門家の本だった。

これが、ドイツで大ベストセラーになったのだ。
著者の夫妻は、どちらも感染症と免疫、細菌学で有名な学者である。

これによって、二つの活動がはじまったと、「あとがき」にある。
・新党結成(「Wir 2020」:われわれ2020)
・弁護士有志による、国際的大規模(数百兆円)損害賠償責任訴訟

「Wir 2020」は、政府のやり方に当初から反対していた医師、ジャーナリスト、市民たちが立ち上げた政党で、コロナ関連のすべての措置の即刻中止と、徹底的な検証、市民生活の正常化を主張している。

訴訟の方は、4人の弁護士が立ち上げたという、「コロナ検証委員会」の活動で、集団代表訴訟を準備している。
相手方は、「首謀者たち」として、WHOのテドロス氏、ドイツ国内で「煽りまくった」とされる、ロベルト・コッホ研究所のヴィーラー氏、ベルリン大学のドロステン氏らである。

自らが「被害者」だとおもうなら、世界中の誰でも「原告」として訴訟に参加できるという。
なお、このことがヨーロッパに拡散して、すでに欧州で10万人の医師たちが各国政府に「異議」を唱えているけれど、既得権と結託したマスコミはやっぱりこれを報じることはない。

ここに、JTBはじめ旅行会社や航空会社の情報力の「なさ」を痛感するのだ。
どうして、これらの活動に業界あげて参加しないのか?
あるいは、「参加ツアー」の企画・募集をしないのか?

日本国内でも、提携して運動を起こさないのか?
そうしたらもしかしたら、「資本増強」に協力するひとたちが出てくるかもしれないのに。

哲学も根性もなく、座して死を待つ態度に、いまさらながら「勉強エリートの同質」に呆れるのである。

そして、生活破綻に追いやられるのは、万人単位の従業員たちである。
ならば、もう、従業員たちで「やるべきこと」があるとおもうがいかがか?

「スーパークレイジー君」の登場

昨年の都知事選で物議をかもしたけども落選したのが、歌手で「スーパークレイジー君」こと西本誠氏(34歳)である。

彼の、元暴走族だったことや、複数の逮捕歴、それに全身刺青も話題にはなったけど、都知事選以降の「スーパークレイジー君」としての活動もあって、『2021年埼玉県戸田市議会議員選挙』への立候補にあたっては、市の選挙管理委員会から、「通称」の使用が認められた。

そして、26人中25位で「初当選」(912票)したのだった。
なお、36人が立候補したので、「激戦」である。

これには、地元小学生を中心にした、熱い支持があったためともいわれ、子どもが親に投票を促すという、滅多にないことが起きたようだ。
ただし、おとなの親が子どもに従う、というのは、あんがい外国にはない、わが国独自の「伝統文化」なのである。

それが、「選挙での投票行動」にあらわれた。
そういえば、世間の「しがらみ」がまったくない子どもの方が、よほど正確に政治を観察していて、「正論」もちゃんとしっている。

高学年のとき、授業中にやってきた選挙カーの大音量での名前の連呼に、クラス中の生徒が窓から、「うるさーい!」と叫んだのを、先生はオロオロと後からみていたことを思いだす。
すると、隣のクラスも連動してこだまのようになった。

どの党の街宣車が、静かに通過したか、音量を絞ったか、無視するかをノートにつけた同級生は、「◯◯党の✕✕さん」は、教育問題をかかげているけど、小学校の生徒に気をつかわないからこいつは嘘つきだ、と結論づけたのをみんなで感心して聞いていた。

それを、家に帰って親にいったのを覚えている。
かたちは多少ちがっても、戸田市の小学生の心持ちは理解できるというものだ。

晴れて当選したのに、急速に雲行きが怪しくなって、「当選辞退」を市選管の事務局長に迫られた旨の発言を記者にした。
この様子が動画になっている。
「嫌疑」は、戸田市での3ヶ月以上の居住の事実で、これが証明できないと、立候補が無効になる。

しかし、彼は、都知事選での経験やらで、立候補資格についての法の定めをしっていたから、立候補前から居住事実について選管に相談していて、「問題ない」とのことだったから立候補できたのだ、と説明している。
つまり、本人からしたら、手のひら返しに見えると主張しているのだ。

注目なのは、彼の当選によって落選の憂き目をみて改選前から議席を減らしたのが、公明党と共産党であることだ。
選挙後、住民からの「異議申し立て」がありそうだという事態になった。
さらにこの「申し立てる」ことの事前話が、ベテラン議員から漏れて、煽っているのか?ということに発展したのである。

つまり、彼が「当選辞退」あるいは、「無資格」となれば、「次点」が繰り上がり当選する、ということになるから、異議申し立てをする住人とは何者なのか?ということで、いきなり「きな臭い」話になったのだ。
ちなみに、次点は公明党の前職であるという。

このことが今後どうなるのか?は、いったん横にして、彼の「異質さ」が、どうにも「トランプ氏」に重なって見えるのである。
すなわち、アンチ既得権だ。
さすれば、既得権の側は、全力をあげて排除の行動にでると予想がつく。

しかし、彼の「異質さ」は、確信をもった異質だから、曲げても曲がらず折れもしなかった、というのが実情だろう。
曲げる係に指名されたのは、選挙管理委員会の事務局長というのもわかりやすいし、本件で更迭されはしたけれど、「クビ」ではなくて、市民医療センター次長に異動した。

また、後任の選管事務局長には、総務部次長という、これまた議会対策としてわかりやすい、人事をしている。
市長としては、火の粉をかぶりたくない、という自身の既得権維持があると告白したも同然だから、ものすごくわかりやすい。

はからずも、昨年「民主主義の学校ではない地方自治」を書いたけど、みごとな「異質」の登場で、「もしや」と期待がふくらむ。

彼の経歴には、「ケンカ慣れ」という、わが国エリートが喪失してひさしい「異能」もある。
これぞ、政治家の資質なのだ。
政治とは、ケンカと妥協のことをいう。

政治家が死んで、有能な行政マンが仕切ったのは安定社会があったからである。
しかし、「偽病(にせやまい)」もふくめて、その安定社会を行政がみずから破壊した。

ようやく、わが国に、「政治家の需要」がでてきたのである。

彼の「敵」とは、「同質」のなかよしたちである。
学校エリートばかりの、同質集団が役所にほかならない。
自身の発言に、「国政に行った方が東大出身の政治家より政治を身近に感じられると思う」とは、同質への宣戦布告なのである。

これを、「小学生」が見抜いたのだ。
侮れないのは、これらの子どもたちだって、あと数年で18歳だから「選挙権」をえる。
地方議会4年の任期なら、あと2回の選挙で投票する側になる。

同質の既得権者たちが、どんな汚い手で「つぶし」にかかるのか?
じっと観察している子どもを忘れてはいけない。

そして、かつての西ドイツにおける大宰相、ヘルムート・シュミット氏の言葉、「政府の愚かさを決して過小評価してはいけない」が心にしみる。
地方の市だって、地方政府なのである。

公務員倫理法の「まずい倫理」

「倫理にもとる」というときの「倫理」とは、「不倫」の倫理をいう。

世間でいう「不倫」が、週刊誌ネタ的男女間のいかがわしい関係を指すようになった。
むかしは、これを「浮気」といっていたものだ。

すなわち、既婚者である男女のどちらかが浮気して、正規の相手に対しての「裏切り」だという意味である。
両方とも既婚者なら、「ダブル不倫」という言葉をつくった。
当然だけど、これは、「婚姻制度」を侵すものなので、発覚して正規の相手から訴えられれば、ちゃんと「民事事件」になる。

そこで、発覚しないような工夫をこらす、という行為も伴うから、いよいよ褒められたことではない。
つまり、「うそ」でもって「うそを固める」からである。
なるほど、「不倫」とはよくいったものだ。

「倫」の字は、「ひとのみち」という意味なので、「不」をつけて否定すれば、「ひとのみちからはずれた」=「ひとでなし」という意味である。
だから、発覚すると、おそろしく「恥ずかしい」ことになるのだけれど、おおくのひとがしでかすと、「恥も外聞もない」ことになる。

そんな社会を、「爛熟」とも「廃頽」あるいは、「背徳」ともいった。

背徳の「徳」は、「道徳」のことである。
だから、倫理と道徳の違いは、いがいと難しい。
こうしたときに外国語を引き合いにして解説すると、納得できる。
とくに、欧米の言語だと、厳密な違いがあるのは、曖昧さを嫌う文化があったからである。

「倫理(ethics)」:ひととして生きていく上での守るべき道=ひとのみち、だけども、特定の集団とか職業に適用して、「客観性」を重視する。
「道徳(morai)」:社会全体の善悪をわきまえるための守るべき規範で、「個人の内面的な自発性」を重視する。

「職業倫理」とはいうけれど、「職業道徳」とはいわない。
「公衆道徳」とか「交通道徳」とはいうけれど、「公衆倫理」とか「交通倫理」とはいわない。

「衣・食・住」がぜんぶ足りると、二手にわかれて、廃退に向かうひとと、感謝の信仰に向かうひとがでてくる。
たとえば、古代ローマ帝国の爛熟は、共和制から帝政に移行してすぐにはじまった。

バブルの時期には高級旅館や高級ホテルが不倫の舞台に利用されて、チェックイン時の「登録(レジストレーション:宿泊名簿:宿帳)」の、証拠提出命令が裁判所からやってきた。
「個人情報保護法」は、2005年に全面施行されたけど、裁判所から命令されたら、事業者は拒否できない。

「不倫」の証拠も、「客観性」が重視されるのだ。

そんなわけで、「国家公務員倫理法」という、職業倫理に関しての「法律」ができたのは、平成11年(1999年)、20世紀末のことだった。
まさに、「世紀末」、すなわち、「世の末」的な法律なのだ。
なぜか?

公務員と民間人を「完全分離」してしまった。
民間の活動が高まることが国の発展の原動力なのに、公務員からの意味不明な命令を原動力にさせることになるからである。

民間の事情にまったく「うとい」という公務員の特性に磨きをかけて、民間の事情を無視せよ、という命令の法律なのである。

どんな事情かしらないけれど、菅首相の子息が総務省の役人を接待したら、この法律に触れて、局長・審議官級が複数更迭された。
なるほど、道徳ではなくて、客観性を重視する「倫理」に抵触したというわけだ。

でも、どんな事情だったのか?
ということのほうがよほど重要なのである。

それに、NHKは情実採用をしているという「うわさ」が絶えない。
いろんな分野の実力者たちの子どもを入局させて、人事的な「人質」にする、という戦略だ。
特殊法人としてのNHKの闇は、いっさい解明されることはない。

この国はどーせ役人天国なのだ。
ならば、民間はじゃんじゃん役人を接待して、「人質」にして、自社に都合のよいことを役人にさせれば、あんがいと、閉塞感を破ることができるのではないか?

それと、民間に就職した経験者しか「キャリア採用しない」とすれば、もっとよい。
内閣法制局が機能不全になれば、国会両院の法制局が重要になる。
元来、国会が立法機関だから、こちらが「道理」にあっている。

これで、放送法の違反取締を国会にやらせれば、放送局がこわくて議論ができない、という状況もかわるだろう。

ついでに、厳しすぎる「公職選挙法」も、ゆるゆるにするとよい。
立候補者から徴集する、高額の「預託金」だってただにせよ。
だれでも日本国民なら立候補できるようにするのが、民主主義の基本だ。
そのかわり「公党」には、かならず「予備選挙」を義務づける。

もちろん、選挙管理委員会も現行の総務省が所管するのは、役人「倫理」にそぐわないから、最高裁判所に所管させるとよいだろう。
委員は全員、最高裁判事が輪番でなるとよい。
そうなれば、地方の選挙も地方裁判所が管理することになる。

ゆるゆるでも、違反者は即刻有罪(「以下」を定める「刑法」ではなくて、「選挙法」で懲役5年以上)とすればよいのだ。

『月光仮面』成功の条件

こないだの『もう一人の「森さん」』で予告した、『月光仮面』の別の角度からの話である。

「イノベーション」といえば、なんだかスゴイ「もの」や「コト」を想像するけど、当事者たちには余計なお世話なのである。
なぜなら、一心不乱に打ち込んでいて、それが、「イノベーション」であることすら意識していないものだからである。

だから、一通りの「コト」が済んで、あとから「そういえば」とじっくり気づくようなものである。
こんな状態を、「歴史になった」というのだ。

「イノベーション」の言い出しっぺは、いわずと知れたシュンペーターだ。彼はイノベーションを、「経済活動の中で生産手段や資源、労働力などをそれまでとは異なる仕方で新結合すること」と定義した。
『経済発展の理論』(1911年:明治44年)のことである。

昨年2020年に刊行されたこの書籍は、「初版」の翻訳だと明記している。
その理由は、わが国に伝わった「2版」で削除された、「国民経済の全体像」を新訳している「完全版」という意味なのである。

初版から、半世紀ほどした1958年(昭和33年)に、『経済白書』が「技術革新」と訳しているところが興味深い。

経済企画庁は、そもそも1935年(昭和10年)に発足した、内閣総理大臣直属の「内閣調査室」がはじまりで、陸軍「統制派」と呼ばれる「計画経済」を目指すひとたちの影響を強く受けていた。
統制派に対抗した「皇道派」は、2.26事件(1936年)によって自滅した。

それで、1937年には「企画院」に再編されたから、わが国の、軍を含む官僚組織は、計画経済に邁進することになった。
ちなみにわたしは、「軍」こそ、徹底した「官僚機構」だとおもっている。
職業軍人とは、軍事官僚のことをいうからである。

それで、1938年(昭和13年)に、「国家総動員法」ができて、ようやく法と官僚機構が合致する。
35年からみごとに、毎年、いじくって3年がかりで「総力戦」の準備をしている。

この大元が、1931年(昭和6年)にできた、「重要産業統制法」だということは、記憶していていい。

1939年から、開戦の年である、1941年(昭和16年)までの「企画院事件」は、とうとう企画院という役所の幹部たちが共産主義者として、特別高等警察に連続逮捕される、というすさまじさがあった。
わが国の内部における、複雑な構造が垣間見えるのだ。

この事件の間にあたる、1940年(昭和15年)12月には、「経済新体制確立要綱」が閣議決定されていて、この中には、「資本と経営の分離(所有と経営の分離)を推進」とある。

まるで、現代の企業再生手法かと思いきやさにあらず、「企業目的を利潤から生産目的に転換すべき」という倒錯が書かれているのだ。
まさに、共産主義そのものである。

それで、「敗戦」したら、アメリカ民主党政権下にある狡猾な占領軍は、この組織をして「経済安定本部」(略して「安本」)に看板をつけかえた。
それで、もう一回看板を替えて、「経済企画庁」になったのである。
すなわち、計画経済を「緩やかにする」という意味の、温存であった。

これが、先に書いた昭和33年に、イノベーションを「誤訳」した理由だろう。

ところが、このおなじ年に、とんでもないイノベーションが起きていた。

それが、『月光仮面』のテレビ放送なのである。
そして、この年が、日本映画の観客動員数で圧倒的ピークを記録(11億3千万人弱)し、二度とこの数字を超えることはなかったばかりか、わが国映画産業の衰退がおそるべきスピードではじまったのだった。

5年後の昭和38年には「半減以下の5億人」となり、さらに昭和44年にはその「半減の2億5千万人」になったのだ。
年率を計算すると、△12%という減少率である。
しかし、この間のわが国経済成長率は、なんと17.7%(4年半で2倍になる)という驚異的な数字なのである。

つまり、世間がすさまじい成長をしているなかでの体験的イメージは、ジェットコースターどころか、まさに、「自然落下」状態におもえたのではないか?
もちろん、この成長に乗ったのが、テレビだった。

国産初の「連続テレビ映画」として、月光仮面の成功は、絶頂を極めていた映画産業との「交点」にあたる。
月光仮面のスタッフは、全員、映画界での「アウトロー」(専業では生活できない)だった。既存の映画会社がいっさい無視したからである。

それに、製作予算ばかりか機材がない。

カメラは手巻きで、ワンカットは28秒までしか撮れない。
台本を5冊持ち歩き、俳優はどんな物語かを知る由もなく、与えられた箇所の演技をした。

ところが、これらの制約が、スピード感あふれる作品になったのである。
また、「一人ひとりの小さな思いが大きな塊の力になった」のも、組織論と管理論の統合としてかんがえる、バーナード経営理論の示すところと合致する。

国家が介入して、イノベーションが達成できるものではないことの証明が、『月光仮面』なのである。

マスクをすると風邪をひく

三重県という行政単位が、データをとって発表するという「偉業」を成し遂げた。
これは、わが国でのコロナ・パンデミックがはじまって、1年経っての「やっとのこと」でもある。

隣接する、奈良県も「偉業」を誇っていいのは、県内の病院(診療科)と患者(疾病)の分布を、役人が足を使って地道な調査をしたことだ。
毎年、厚労省に提出義務がある、「医療計画」立案のための実態調査ではあるけれど、全国でこうした実態を調べた上で計画を作っていたのは、「奈良県だけ」だったのだ。

では、他の都道府県はどうしていたのか?
毎年、担当する役人が、「えんぴつを舐めていた」のであった。

そして、受け取る厚労省も、どんなふうにして書いたのかを「問わない」という適当さだから、国土交通省がしでかした、自動車完成検査の不正とおなじ構造がここにもある。

役人の仕事として、住民に正しい情報を提供するべしという発想からの「正しい仕事」と、上から目線で支配するという発想からの「間違った仕事」の分岐点がみえてくる。

だから、三重県の仕事と奈良県の仕事は、本来ならふつうだけど、そんな正しい発想が全国的に堕落して珍しくなったので、残念だけど「偉業」となったのである。

「マスク着用問題」とは、罹患者が自分の病原体をまき散らかさないようにする、という意味での「有効」が、エチケットだったものを、全員に拡大するという「過剰」な同調圧力に変容した。
しかし、これとても、あんがいと、「県から」とかの「要請」が「強制」になったのである。

つまりは、現代の「悪代官」が、配下の組織を通じて命じれば、「へーっ、おでー官さま~」と土下座させるがごとくことをまだやっているという意味で、われわれはこれを「やらされている」のだから「まんが」だ。

これを、「水戸黄門効果」と呼びたい。

コロナの恐怖を煽ったのが、「初期」だった昨年の今頃にさかんに見せつけられた、現地のひとが「卒倒する」場面の映像であった。
ナレーションは、「未知のウィルス」といって映像にかぶせていた。

もしや、あれは、「アルコール性失神」ではないのか?
なんだか酔っぱらいのように千鳥足のひとが、突然バタッと路上に倒れるのだ。

飲酒をすると、喉が渇くのは、体内のアルコールを分解するのに、肝臓が大量の水をつかうからである。
それに、分解した毒素を尿として排泄もするから、よけいに体内から水が失われる。

これに、加齢などの要素が加わると、自律神経が暴走して、一瞬でも脳への血流が止まって「失神」するのだ。
ひとによっては、「一瞬」ではすまない。
だから、飲酒時の癖として、別に同量以上の水を飲む、という心掛けが予防に重要なのである。

既存メディアは、ネット情報のことを、「玉石混交」といってバカにするけど、その「石」をたれ流したのが、「地上波」だったということになるかもしれない。
「この映像は『うわさ』ですからご注意を」といわないのは、情報操作にあたらないのか?

さてそれで、三重県のデータを解析したのが、武田邦彦教授(19日の「虎ノ門ニュース」)である。

データは、「陽性者」の状況を調査したもので、ふだんマスクをしているひとと、していないひとを同数で、どのくらいの「陽性」がいたか、というものだ。

結果は約18倍、マスクを「しているひと」が陽性になっている。

しかし、この結果に驚きはない
むしろ、常識が確認されただけだろう。

罹患者が着用することで期待される「効果」とは、「飛沫防止」しかない。
それは、マスクの網の目の大きさが、飛沫(水に病原体が混じっている)の大きさより「小さい」から、飛散を防ぐのである。

一方で、健常者がマスクを着用しても、空気中に浮遊するウィルスの大きさでは、マスクの網の目の大きさが30倍以上もあるから、ほとんどが「通過」する。
二重にするとよい、という「うわさ」も、マスクの網に少しだけ引っかかることに期待するだけである。

問題なのは、マスクを着用すると、口腔内が乾燥することなのだ。
これで、嫌気性の口中菌が増殖して、口臭を感じる、のである。
しかも、口の周辺は呼気にある湿気を感じているので、口腔内の乾燥に気づきにくい。

こうして、乾燥した口腔内をウィルスは容易に通過して、ターゲットである喉の奥に付着することを助ける、というメカニズムなのだ。

そんなわけで、医療関係者は、不織布のサージカルマスクを1時間で交換・廃棄するのが常識だという。
おなじマスクを1日中とか、何日も使用するのは「危険」なのである。

しかも、「ワクチン」という名の「新薬(RNA阻害薬)」の効果についても、外国の「数字」が日本ではつかえない。
なぜなら、分母がちがうからである。
このことを解説した、既存メディアの「ニュース」がない。

「ワクチン」という名の「新薬」は、あたかも「効く」という話にしている。
副作用で亡くなったら、ずいぶんな補償金がもらえるといっても、それは死んでからの話だ。

欧州では10万人の医師たちが「異議」を申し立てているけど、ぜんぜん報道しない「自由」がある。

自分で勉強しないと、欺される。
この記事だって、自己判断、となるからくれぐれもご注意を。

なお、三重県以外のデータを出さない都道府県知事をどうしたものか?
アメリカでは、リコールがはじまっている。

創業230年柴又「川甚」の廃業

柴又といえば「フーテンの寅さん」。

帝釈天の近くにそびえて建っていた、江戸からの老舗がひそかに一月末で廃業していた。
倍賞千恵子扮する寅の妹「さくら」と、前田吟の「博」が、作中結婚披露宴をしたのもこの店だった。

HPはまだ観ることができるので、記念に保存をしておいた。
昨年の12月22日付けで、社長よりあっさりとして小さく書かれた「閉店のお知らせ」がある。
この淡泊さが、川魚料理の老舗らしいといえばそうなるが、かえって無念の心うちがにじみ出ている。

廃業の理由は、コロナ・パンデミックである。

しかし、「人為としての」という言葉を前につけたい。
すなわち、「自粛」を「強制」させた行政責任者の憲法違反をともなう、「犯罪」ではないか?と。
もちろん、「川甚」だけが被害を受けたのではなくて、無数の店も涙の廃業をしていることだろう。

経営者ばかりか従業員も、取引業者も連関するので、その被害は「甚大」なのである。
ましてや、東京では珍しいともいえる、「川魚料理専門店」だ。
漁師もふくめて、「ショック」は大きかろう。

このことは、食文化にも影響するのは必然だから、その「罪」の深さも江戸川の比ではない。

伝統文化の奥深さは、完成品とはぜんぜんちがう場面からはじまることがあって、その完成品の意味も、ふつうにかんがえる消耗品のレベルではないことがある。

たとえば、「漆工芸」といえば、英語で「japan」というほどに、わが国独特の工芸品だ。
原材料の「うるし」はもちろん、塗るための「筆」だって、いちいちこだわるのが日本人だから、完成品の技巧ばかりが「文化」なのではない。

南洋のゴムの木のように、樹皮に傷をつけて樹液を採取するけれど、うるしの場合は1回こっきり。
つねに新しい傷を、専用の道具で掻いて採取する。
欲張って、おおきな傷や、全面的に傷をつけたら木が枯れる。

おおむかしに欲張ったひとがいて、教えにある「控えめなやり方」よりもぜんぜん採れない経験をしたはずだ。
「欲を掻く」とは、うるし採取のことなのではないのか?

だから、たくさん限界まで採りたいのなら、かえって「自己抑制」しないといけない逆説がなりたつ。
これも、日本人の精神構造をつくった「japan」ならでは、なのだ。

木材は水分があれば、これを分解する「スカベンジャー」の細菌が活動して、腐敗させ土に戻す。
それを防止するために、表面に水分子すらはじくよう、カンナをかける技術がうまれた。

「樹脂」である漆を柱に塗ったのでは、あまりにも「高価」になったからである。
しかし、いつも水分にさらされる「食器」などには漆を塗った。
この樹脂は、乾燥させるのに湿気がいるという不思議な特性をもっている。

そして、いったん乾燥すれば、100年の耐久性を確保するのだ。

植物は光合成によって、空気中の二酸化炭素を体内に蓄えて、セルロースをつくる。
だから、木が腐るとは、セルロースを細菌が分解していることを指すのだけれど、このときにまた、二酸化炭素がガスになって排出される。

人間の消化器では、かたいセルロースを消化できない。
草食動物は、セルロースを分解させる細菌も消化器内で使うから、牛のゲップの成分は、ほとんどが二酸化炭素なのである。

これが、アメリカ民主党の極左というひとたちがいう、「牛」を目の敵にする「政治運動」になっていて、とうとう「人工牛肉」を食べるようにと、キャンペーンをはじめた。
味は、「慣れる」そうである。

まったくの「似非科学」を真顔でいうから、おつむの構造を疑う。
二酸化炭素は、温暖化ガスだから排出してはならないけれど、植物は光合成で二酸化炭素を蓄えるから、温暖化ガスを吸収する、という小学生ならだませても、中学生には厳しい理屈を振りかざすのだ。

答はかんたんで、変化なし、である。

問題なのは、「水素」だと前に書いた。
原子番号1番の水素は、分子が小さすぎて、あらゆる容器を通過する。

つぎに、水素ばかりの水素ガスは、空気より軽いから飛行船「ツェッペリン号」にもつかわれたけど、ずっと上昇して、宇宙にまで行く。
地球の引力では、水素を大気圏に留め置くことができないので、水素は水素単体になると、地球からなくなってしまうのだ。

つまり、二酸化炭素といい、水素といい、科学とはいえないことを「政治目標」にする、人類史上の「愚策」をやっている。
こんなことを、「愚策」とおもえないような、思慮の浅いひとたちが、コロナ・パンデミックにあわてているのである。

こうやって、「川甚」の灯も消した。

「消えた」のではなく、「消した」のである。
徐々に「正気」を取り戻しはじめたアメリカでは、「愚策」を繰り出すことに専念した、カリフォルニア州とニューヨーク州という巨大な人口をかかえるところで、州知事のリコールがはじまっている。

仲間のはずの民主党議員たちのなかでも、良識派が推進しているのだ。

わが国に、良識派は?

もう一人の「森さん」

森喜朗東京オリンピック組織委員会会長が辞任して、後任には橋本聖子五輪担当相が横滑りした。
そして、橋本氏の後任大臣には、丸川珠代参議院議員が再び就任した。
玉突きで丸川氏の後任、自民党広報本部長に有村治子氏がきまった。

一方で、森喜朗氏の発言に乗じた「自民党女性議員飛躍の会」の代表、稲田朋美元防衛大臣は、党内の要職や役員会メンバーに女性議員の登用を求める緊急提言を行ったとニュースになったから驚いた。
(ただし、上述人事はぜんぶ女性だ。)

なぜなら、このひとは2014年、党政調会長のときに、「男女共同参画社会基本法」に反対していて、「おいおい気は確かなの?と問いたくなる」とか、「女性の割合を上げるために能力が劣っていても登用するなどというのはクレージー以外の何ものでもない」と、ちゃんと発言していたからだ。

どうも、防衛大臣になってからそれまでと言説がねじれたので、なにかあったのだろうか?
どちらにせよ、元来弁護士である稲田氏が、森氏の発言内容をチェックせず、マスコミ報道だけに依ったのなら、まことにお粗末としかいいようがなく、自身の上記の発言がそのままブーメランとなるだけだ。

橋本氏の就任について、さっそくニューヨークタイムズ紙が報じているのも、表面しか観ないで評価する浅はかさの表明だから、ぜんぜん褒められた記事とはいえず、かえって橋本氏への「ほめ殺し」にもみえる。
日米共に仲良く、新聞は読むものでなくなった。

「森さん」といえば、もう一人、森進一さんがいる。
62歳の若さで亡くなった、女優大原麗子の元夫にして、その後、歌手の同姓森昌子と再婚して話題になったが、また元夫になった。

このひとの歌は、かすれた声が特徴で、ゆえに「うまい」という評価ではなく、「ゲテモノ」という評価をおとなたちがしていたと記憶している。
小学校の担任の先生も、音楽の時間に、あんな声の歌手がでてくると思わなかった、といったのがいまでも耳にのこっている。

いわゆる、「美声」が価値だったのである。
「懐メロ」が大好きだった父は、年末のテレビ放送に間に合うように大掃除をして、風呂も済ませるのが恒例だった。
健在だった東海林太郎の直立不動を、リアルに観ていた。

いまさらだけど、戦後のヒット曲ばかりでもない「歌」だって、昭和40年代ならばたかだか30年も経ってやしない。
だから、並木路子の『リンゴの唄』だって、いまからしたら山口百恵よりずっと「新しかった」のだ。

子どもながらに衝撃的だったのは、男性なら伊藤久男『イヨマンテの夜』(昭和25年:菊田一夫作詞、古関裕而作曲)で、女性歌手なら織井茂子の『黒百合の歌』(昭和29年:作詞作曲は同じ)であった。
両曲が似ているのは、詞も曲も作者がおなじだったからである。

わたしの時代よりもずっと早くに創刊されて廃刊になった雑誌、『少年倶楽部』(大日本雄弁会(講談社):1914~1962)では、当代一流作家による「冒険小説」が、子ども相手でもいっさいの手抜きがない「仕事」で、当時の少年たちを熱狂させていた。

この遺産が、戦後の「冒険アニメ」に引き継がれることになっていた。
森進一の代表曲、『おふくろさん』の作詞は、川内康範。
このひとは、『月光仮面』の作者としてしられるけれど、あの『まんが日本昔ばなし』も手がけている。

日蓮宗の寺だった実家の影響で、仏教思想に強く影響を受けたことでの『月光仮面』=「月光菩薩」からのインスパイアなのである。
それで、「印度の山奥で修行して~♪」の『レインボーマン』も、『ダイヤモンド・アイ』、『コンドールマン』も川内の原作だ。

戦没者の遺骨引上げ運動や抑留者の帰国運動にもかかわったことから、福田赳夫には秘書も務めながら「国士」と評価され、鈴木善幸、竹下登の「指南役」で、赳夫の子息、康夫には、薬害補償の決断までさせている。

晩年、森進一との「おふくろさん騒動」は、森の実母自殺の顛末から、葬儀では読経までやっているから、森側の事情には通じているし、森が渡辺プロから独立した際も、全面的に支えてきたのに「突如」起きたようだ。

では、なにが川内の琴線にふれたのか?
それは、『おふくろさん』の歌詞にこたえがあった。

森が作詞家の指定なく、歌のまえにセリフをつけたのは、森自身の母への想いであろうことはわかる。
ただし、その後に続く「歌詞」は、まったく別の世界観なのである。
作詞家がこめた「想い」とは、『月光仮面』のそれだった。

悟りを開くのに成功した「如来」ではなくて、その手前の「菩薩」がイメージさせるもの。
それは、「正義」なのである。
しかし、菩薩は正義を無理強いしない。

「導く」のだ。
相手に「気づき」をあたえ、「赦す」のである。

これを、息子に求めたのが『おふくろさん』だった。
歌詞の格調高さを確認されたい。
前ぶりの、「もう一度叱って欲しかった」ではぜんぜんないのだ。

願わくば、自民党のひとたちを今一度「導く歌」にしてほしい。

この本については、別の角度から、もう一度書こうとおもう。

赤ペンとノートアプリのさまざま

業務用ではなくて、個人用の話である。

個人用でも、遊ぶためではなく、勉強や仕事効率化のためだから、広い意味の業務用でもある。
タブレットPCは何枚か所有していたものの、本物のPCではない不満が原因で、つい「何枚も購入」ということになってしまった。

もとはPCじゃない、という感覚があるので、「安かろう悪かろう」の典型だと認識していた。
もちろん、価格的に別格の「ipad」なるタブレットPCのことはしっていたけど、こちらもついうっかり「ウィンドウズ・タブレット」という別物に手をだしてしまっていた。

昨年は、政府から10万円、おカネがもらえた。
いっそのこと、として買ったのが気になるipadであった。
これでようやく気がついたのは、ipad以外のタブレットPCとは、用途限定の「ゴミ」であることだ。

けれどもipadも種類がたくさんあって、機種選びには困った。
動画編集はしない、という一点で、「pro」ではなくて、「Air」にしたのだけれど、結局、老眼に厳しい画面の大きさから、「12.9インチ」のProを中古で買い増して、2台持ちで使っている。

中古にしたのは、アップルペンシルの第一世代が、双方で使い回しできるからである。
あんがいとこの第一世代が便利なのは、100均にある子ども用のシリコン製鉛筆グリップが書き心地をすこぶる向上させるからで、マグネット式で充電する第二世代では使えないのが最新を選ぶ気のしない原因になっている。

そんなわけで、政府からのおカネだけではぜんぜん足りなかった。
もちろん、「アプリ」にもおカネがかかる。
最近のアプリは、「サブスクリプション」といって、毎月に使用料を引き落とすものがあるから、気軽に購入のタップができない。

「ちりも積もれば」の典型で、あとから困っているひとも多いと聞く。

その意味で、「買取型」は、「良心的」といわれるようになった。
とはいえ、数千円になると、やっぱり躊躇する。
使用を重ねることでの利便性と、目のまえに提示された金額の比較判断が困難だからである。

これが、「経済人」というものだけど、年がら年中「経済人」をやっているわけではない。
それでも経済学徒必読の書といって、むかし読まされたのが、『ロビンソン・クルーソー』(経済人の物語)だった。

 

これは決して子ども用の児童文学ではない。
むしろ、むき出しの損得勘定がさせる行動が原動力の、大英帝国流の理想像なのだ。
無人島での「やるべきこと(いまなら「To-Doリスト」)」を、貸借対照表に転換して優先順位をつける。

ロビンソン・クルーソーが、とっくに身につけていたこれらの手法を、日本を代表する企業の経営者が、ほんとうに無意識レベルでやっているのか?
社長室に座っている時間、これをやらないで「経済人」を演じることが、どうしてできるのか?

ただし、上述のように、人間は24時間連続で「経済人」ではない。
人生の楽しみという個人的な世界のために、理屈では通らないことをする。
これが集まると、「経済学の根底」を揺るがすのである。
だから、生活経済が豊かになると、経済学モデルが陳腐化して、「使えなく」するのだ。

ロビンソン・クルーソーの物語は、意外な展開をみせるから、全部が教科書にはならないけど、その判断も「読んだ上で」だし、その意外性を楽しむのも人生である。

そんなわけで、「読む」という行為は、「書く」ということよりもだんだんと多くなる。
社会的立場がそうさせるのだ。
上位者は、もっぱら部下の報告を読んで判断することがふえることになっている。

すると、若いうちにちゃんと「書ける」訓練をしておかないと、「読む」立場になったとき、うんざりするような文書を読まされるはめになっても、修正指導ができなくなる。
これがどれほどの不効率を組織にもたらすか。

老眼が眼精疲労を惹起させたら、それから書いた人間に八つ当たりもしたくなろう。
つまりは、パワハラの原因になりかねないのだ。

「書く」には、画期的といわれた「アウトライン・プロセッサ」が、ワープロの普及の後にやってきた。
いまでは、もっと詳細な、「マインド・マップ」が重宝されている。
かんがえをまとめる、というまえに、思考の構造図を描くことでより鮮明になるからである。

すると、「読む」には、書き手の思考構造の「解明」をともなうのだ。
だから、略して「読・解」というのである。
そのために、むかしは「赤ペン」をつかったものだ。

ペーパーレスになったいま、やってくるのは「電子文書」である。
なので、これを読解するのには、印刷して赤ペンもいいけど、それよりも端末上で直接読み込みたい。
そこで、書くためでなくて読むためのアプリが重宝する時代になった。

『Flexcil』とか、『Liquid Text』、定番なら、『PDF Expert』や『GoodNotes5』がこれにあたる。

これらを足して割ったアプリが欲しいが、そうはいかない。
この文書なら、どのアプリが適しているのか?を判断するのが、読み手に要求される「作業能力」になったのである。
まちがえると、二度手間、三度手間になる。

赤ペン一本で解決できた時代とは、部下の文書もそれなりに「読めた」のかもしれない。

[追伸]
「書く」のには、ふつうキーボードを使うけど、「手書きキーボード」(買取型490円)を見つけてインストールしたら、これが快適だった。