税の使い方を指定したい

確定申告・納税の季節である.
自分が納めた税の使い道にたいして,政治家が議会で議論して決めるのは伝統的なやりかただが,それが信用できないとなれば,税の使い方を指定したくなるのも人情というものだ.

会社法改正の議論では,社外取締役の割合をふやして,コンプライアンスを強化することが検討されているときく.
どうしてそんな議論をしているのかわからない.
わるい経営者が,かよわな従業員を痛めつけて利益をむさぼる,という19世紀的資本主義しか想像できないからだろうか?

おもえば,国家も地方も,公務員という従業員が専門家集団を形成し,選挙で選ばれたひとたちを事実上コントロールしている.
選挙で選ばれたひとたちは,議員といわれるけれど,国はこの議員から内閣ができる.内閣は,会社でいえば役員会だから,社外取締役の割合を増やすのは議員いがいから入閣させるようなものだ.元官僚が議員になって,入閣すると,民間であたかも社内昇格して役員になったようなものだ.
地方は,首長というひとが選挙で選ばれるだけなので,従業員が圧倒的ななかにひとりで乗り込むことになっている.

AI(人工知能)が発達すると,公務員という行政にたずさわる人びとのおおくの仕事がAI化して,人間がやらなくてもよくなる,といわれている.
「行政」というのは,「法令」や「条例」で決まっているから,というのが理由だが,それは欧米的民主主義の国に通用することではないか?

日本のように,「行政」が肥大化して,「裁量」が広範囲でおこなわれると,AIでほんとうにうまくいくのだろうか?と疑問がのこる,という議論がおきるにちがいない.
そもそも,役人の裁量が広範囲であることが問題なのだが,そのおかげでうまくいっている,と信じれば,AI化に反対するはなしになるだろう.

「役人の仕事はだれにでもできる」として,高官の政治任用をしている国がアメリカだ.
いろいろ話題がある第七代ジャクソン大統領のきめごとが,いまも「伝統」になっている.
政権がかわると,政府省庁の幹部たちの半分がいれかわる.

アメリカは法制度が,上書き式だから、幹部の役人を素人にしても行政がうごくのだろうし,日本の役所のようになんにでも口をはさむことはしない.
日本は,法制度の整合性をきちんととるから,新しいはずの法律も古い法律との「整合性」で主旨とはちがうことになったりする.
立法府の法制局は目立たず,内閣法制局が整合性をとる仕事をするから,行政が立法の上をいくのが日本のすがただ.

つまり,とっくに国会は眠っている.
その国会で,決めることになっている予算は,一般会計であって,特別会計は別物である.
こうして,特別会計は従業員である役人のすきにできるお金になった.
これが,役人天国の裏付けである.
中央のコピーが地方だから,全国津々浦々で,議会は惰眠をむさぼり役人がはりきっている.

役人がはりきると,それはかならず民間への命令になるから,ろくなことにならない.
わかっちゃいるけどやめられない♫
こうして,いつまでつづくぬかるみぞ.

だったら,自分の税金のつかいみちを指定したくなるではないか.
すくなくとも,年金など社会保障費にはつかってほしくない.
はやく,いまの社会保障制度をやめないと,社会保障のために社会が崩壊してしまう愚をおかすだろう.

国家を絶体に信用しない,ということだけは,お隣の中国人からまなべることである.

どこまでがアジアなのか

1993年,サッカー・アジア大会の「ドーハの悲劇」で,おおくの日本人が「アジア」をしった.
会場は,カタールの首都ドーハで,試合の相手はイラクだっだ.
ボスポラス海峡でヨーロッパとアジアにまたがるトルコは,ヨーロッパ・サッカー連盟所属,アラブ諸国との政治的な問題でアジア連盟から除名されたイスラエルも,ヨーロッパ・サッカー連盟に所属している.

シリアとレバノンもアジア・サッカー連盟加盟国だから,西は地中海に面しでいる.
東の端は,日本とオーストラリアになる.
あまりにも広大だから,分割案があるそうだが,いわゆる「豪州」をのぞけば,これが「アジア」という地域である.

梅棹忠夫先生は,アジアを「中洋」と呼称するように提案していた.
じっさい,「アジアはない」といい切っていた.
あまりにも文化・風俗がバラバラにみえるが,そこには「距離」があるだけ,という指摘だ.
かつてのシルクロードをたどると,たしかに,アラブの羊料理の味は,中国内陸部の味とおなじである.つまり,「距離」はあるが,中身がないから突如つながる.

第一次大戦,旧日本海軍の作戦海域は,地中海に及んでいた.
マルタ島には日本軍戦死者の墓地があるが,いまではだれも訪問せず,ただ維持費を送金している.
そのマルタ島の映画祭で,樹木希林主演の映画「あん」が,主演女優賞と作品賞にかがやいた.

島,といえばひとをどこかほっとさせる魅力がある.
アジアのど真ん中の「島」なら,スリランカだろう.

大陸に近い島国は,ほうっておくと大陸に呑み込まれるかもしれないという恐怖心から,たいがい大陸国家と仲がわるい.
英国とフランス,台湾や日本と中国,スリランカの近くにはインド亜大陸がドデンとすわっている.

スリランカは,人口が2,000万人ほどの小さな国だが,人口の8割が仏教徒である.その他は,ヒンズーとイスラムである.キリスト教徒はすくない.
インドでは3%しかいないといわれる仏教徒だが,人数にするとスリランカの仏教徒よりおおい.

大陸にはたくさんのひとがいる分,きめが荒いところがある一方,こうした島国の民度はたかい.
スリランカ人の気質はまじめで,勤勉である.
それで,いまでは大消費地となったインドへ進出するなら,スリランカを経由すべし,とスリランカ人がいう.

いきなりインドに進出しても,したたかなインド人にしてやられるのが関の山ということだ.
自動車のスズキが,いきなりインドへ行ったが,やはりスリランカ人のいうとおりになった.
スリランカ人の中間管理職をつくってからいけば,スリランカ人がインド人をさばくという構図だ.

かずかずの日本企業がインドで挫折する姿をみて,親日のスリランカ人が忸怩たるおもいをするという.それがあんまりくり返されるから,とうとうスリランカ人が,「日本人はちゃんとインドを勉強しているのか?」という懐疑がうまれるという.

英国とオランダのそれぞれが,「東インド会社」をつうじてなにをしていたのか,すらしらない日本人を,民度のたかいスリランカ人がみつめているのだ.
もちろん,援助と称した公共工事に自国民をつれてきて,現地の労働者をつかわない中国式は,完成すると自国の労働者を棄民するのが常だから,たいへんな迷惑を輸入したということもしっている.これら「棄民」の民度は,当然にひくいから,スリランカ人の不満はたかまるばかりだ.

そういえば,エジプトでも似たような経験をした.
エジプトは,あの有名なクレオパトラ七世が自殺してローマに支配されてから,「次の独立」の1952年まで,ほぼ二千年を要した国だ.
こうした国のひとと,おなじ過去ほぼ二千年のあいだ独立していた日本人との気質のちがいはすさまじいものがある.それは,「奴隷根性」である.

支配者から生きのびるために,みずからの「奴隷根性」をもって防衛する.
それが2,000年つづくと,なかなか治癒しないほどにDNAに組みこまれるのだろうか.
その一方で,支配していた側の「根性」も,おそらくなかなか治癒しないのだろう.

日本における「アジア主義」という病気は,国号を「大日本帝国」としながらも,「帝国」の定義である「他国」を支配するまでに時間を要し,本当の「帝国」になったつかの間にすべてをうしなった,線香花火を夢見るようなものだろう.なお,この「他国」とは「満州国」のことである.

すると,現代も「アジア」といえば,かつて支配したエリアのことを指すことに気づく.
親日のスリランカが目に入らないのは,その証拠だ.

アメリカ製の経済学がつかえない

翻訳をするために学者になるのか?学者になったから翻訳するのか?はさておき,日本の学者は翻訳本をだすと学者として認知されるという伝統がある.
これは,論文が圧倒的に「英語」で発表されるということから,言語上の必要があるのは否めないことだ.

たとえば,「脚気(かっけ)」について,病原菌説をとった森鴎外と,臨床結果から白米をうたがった高木兼寛のはなしは有名だ.それは,陸軍軍医総監(ドイツ式医学)対海軍軍医総監(英国式医学)という二重の対立構図でもあった.結果的に,両者とも生前に「脚気」の原因についての解明はできず,1910年に鈴木梅太郎によってビタミンBが発見されたとはいうものの,論文が日本語だったために世界で認知されず,1911年にポーランド人によって「発見」されたことになった.

 

われわれ日本人が,世界情報を日本語で得ることができるのは,たしかに膨大な「翻訳」のおかげである.台湾の李登輝元総統も,日本語で世界をしることができる,と書いている.

それで,われわれ日本人は,日本語に依存することにもなっている.
今後,AIによって翻訳されるのだろうから,言語についての壁は,たしかに低くなるかも知れない.

しかし,「言語のちがい」という問題以前に,社会のちがい,ということもあるのではないか?
たとえば,経済学である.

経済学の,というよりも,「経済(Economy)」の大原則は,だれでもしっている「需要(Demand)」と「供給(Supply)」である.この二つを橋渡しする役割をはたす情報が,「価格(Price)」である.
これは,おおくのひとが「あたりまえ」におもっているから,あたりまえすぎてあまり話題にならない.

ところが,ついこないだまで,「あたりまえではない」社会があった.それが,旧ソ連である.
「社会主義経済体制」と,わざわざ「経済体制」をくっつける用法もあるようだが,そもそも社会主義は経済体制がふくまれる思想だから,たんに「社会主義」でよいとおもう.さらに,そのさきをいく,「共産主義」を標榜していたことをしらないひとはいない.

この「思想」には,需要と供給という概念がない.だから、価格がない.
あるのは,「計画」である.それで,社会主義を「計画経済」と呼ぶことがある.
価格がないのに,貨幣がある.みんな「ルーブル紙幣」をにぎりしめて,買いものの列に並んだ.
この国では,価格を決めるのは政府だから,これはお買い物ごっこである.
子どもでもすぐに飽きてしまうかも知れない,つまらないルールの「ごっこ」だ.

なぜつまらないのか?
需要と供給によって価格が決まるのではなく,政府が決めるから,すべての製品に対する需要量と供給量を完璧に計画どおりとしなければ成立しない.そんなことは,人間にできるはずがないから,需要のほうがおおくなったり,供給のほうがおおくなったりする.需要が多くなったら,それは,供給がすくないとも表現できるから,ふつうなら価格が上昇する.しかし,その価格は政府が動かさないから,結果的に物不足となって,行列に並ぶしかない.

1976年に最新鋭戦闘機で函館空港に着陸した,ベレンコ中尉亡命事件がおきた.
ベレンコ氏の手記によると,亡命の理由は,故郷のりんご畑でとれたりんごが山積みになって廃棄・腐敗したのをみたことで,ソ連に絶望したという.
これは,供給のほうがおおくなった,という事例ではない.運送計画が破綻していたのだ.

そのソ連が,ミハイル・ゴルバチョフの登場によって大転換することになった.これも周知のことだ.
国名が「ロシア」になったばかりの国に,「経済顧問団」を送り込んだのは米国だ.
社会主義から資本主義への転換は,簡単だとかんがえていたふしがある.

アメリカ人にとって,自由主義経済は建国の最初から「あたりまえ」なのだが,ロシア人にとっては,ほとんどしらない世界だった.
結果的に,ロシア経済が自由主義経済への移行に失敗してしまったのは,現代のアメリカ人が,自由主義経済の哲学的意義からロシア人におしえることができなかったから,ともいわれている.

これは,ゴルバチョフ自身が,「西側諸国がたすけてくれるどころか,笑いながらわが国の崩壊をただみていた」というはなしと一致する.

東欧圏で,もっとも安定した経済体制をうみだしたのはポーランドだった.
かれらは,アメリカの経済学を採用せず,オーストリア学派の経済学を採用した.オーストリア学派の経済学には,哲学思想がある.自由主義経済は,あたりまえではないから追求すべきもの,という思想であるから,より確信犯的なのだ.

混迷する日本経済に,役に立つのは,オーストリア学派ではなかろうか.

テキトーな日本人

わたしのように平凡なコンサルタントが言うよりも,おなじことばでも有名な経営者の発言のほうが説得力があることは承知している.
ふしぎなもので,なにを言ったのか,よりも,だれが言ったのか,のほうがひとは重要だとおもうものだ.

若いサラリーマン時代,他部署の部課長のところへ仕事上の質問をしてこいと上司にいわれて,きいてきたことを上司に報告すると,「で,その理由は?」と質問された.「部課長から直接きいてきた」は通用しないから,ふたたびききに行く.
「また,おまえか,なんの用だ?」と邪険にされても,直属の上司のオーダーだから仕方がない.
「先ほどのお話の『理由』をおしえてください」と頼むしかない.
すると,おおきく分けて二つの反応がある.

「なんだそんなことか」といって丁寧におしえてくれる場合と,「そんなものむかしからだ」といって「理由」にならない場合だ.上司に小僧あつかいされたくないので,「むかしからでは説明できないので,詳しくおねがいします」と食い下がる.
それで,けっこう担当部署の責任者が「理由をしらない」ということがわかった.

ところが,それではわたしの質問にたいする答をえた,ということにはならないから,だれにきけば「理由」がわかるのかを聞き出した.
思わぬ部署にくわしいひとはいるのもので,そのひと自身もいまいる部署が思わぬところなのか,懇切丁寧な回答をえることができるものだった.

それで,一見面倒な手続きの合理的な意味をしることができた.
この時点で,「むかしから」という説明しかできなかった現状の責任者より,わたしのほうが詳しくなったことになる.それで,上司に説明すると,「改善策を策定しろ」と当然に指示された.
つまり,「面倒さ」を改善しながら,現状が面倒になった「合理性」を維持せよ,というオーダーということになる.

面倒な仕事なのだ.
これをほぼ20年やっていた.
10年を超えるころから,自社の仕組みがだいたい把握できた.
すると,不思議なことに,いろいろな部署から「お助け電話」がはいるようになった.

「ちょっと相談があるから来てほしい」
いけば,会議室に部署のご重鎮たちが座っている.わたしの顔を確認してから,いちばんえらい人がコーヒーを淹れてくれたりした.
そんなときは,かならずやっかいな問題の相談だった.

やっかいな問題の原因は,「『理由』を放置した『ルール』」が,いよいよ廻らなくなった,ということがおおかった.これは,特定の部署,ということではなく,全社共通なのだ.
ところが,その後投資銀行で企業再生を担当したら,まずまちがいなく組織的にはこの問題が蔓延しているとわかった.

日本ではたらくことになったアメリカ人の20代の女性が,来日してわかった意外なことに,「テキトー」なひとが多いことに気がついたこと,とこたえていたのが印象的だ.
彼女の日本人のイメージは,「つねにきちんとしている」はずだった.
それが,「むかしから」とか「よくわからない」というルールに,とにかくかんがえずに従っていること,が「テキトー」にみえるという.

「ルール」は理由をしっているから守るべきもの.
理由に興味なく,ただ従うのは,「ルール」ではない.
前者は近代的個人,後者は奴隷の態度である.

日本人は,奴隷の発想をしだしている.

変えない、変えたい,変えられない

なにを変えずに維持し、なにを変えるかを、きめる。

「経営」の仕事の中でも,難易度が高いもののひとつである.

「本業」のなかで,なにが「コア(核)」なのかを経営者が識っていないと,きめろといわれてもきめられない.
ドラッカーがいうように,じつは自社の「コア」を特定するのはむずかしい.
だから、しょうがないじゃないか,にはならない.
なんとか見つける努力をして,ほんとうに見つけださなければならない.
でないと,なにを変えずに維持し、なにを変えるかを、きめることができないからだ.
外目には,なにも変えない,変えられない,という評価になる.

なにを変えずに維持し、なにを変えるかを、きめることができないままで,「経営」ができるか?
こたえは,だれにでもわかる.
それは,「経営」ではなく,「運営」にすぎない.
ところが,消費者の価値が流動化する時代には,昔からやっている,という理由だけでは「運営」すら困難だ.

デジタルトランスフォーメーション(DX)

東京ビッグサイトにおける「ホテレスショー」が開催中である.
訪ねてみると,神奈川県を代表する高級温泉旅館「陣屋」さんの展示が目立った.
売上の1/3がデジタル関連で占める企業を「リーダー企業」,それ以外を「フォロワー(従属)企業」という区分がある.
「陣屋」は,旅館という本業では一時困窮化してしまった歴史がある.
それを,いまとなっては「DX」によってウルトラV字復活させた.

困窮化は,KPI(Key Performance Indicator:重要業績評価指標)をもたず,KGI(Key Goal Indicator:重要目標達成指標)だけにたよった「経営」が原因だろう.
これらを,システム(仕組み)として,構築し,そのシステム(仕組み)を,「本業」でつかうことで,実用に耐えるものにした.
そして,これを「パッケージ化」して他社に販売して成功した.

だから,「本業」である高級旅館は,パッケージシステムの開発にあたっての実験台である.
そこで,他店舗展開ではなく,つねにブラッシュアップの対象施設にした.
まさに,「クルマの両輪」である.
ご母堂から経営を引き継いだ,現社長は,大手自動車メーカーのエンジン開発エンジニアだった.

かつて,こんな「宿」はない.
デジタルトランスフォーメーションでの成功は,「なにを変えずに維持し,なにを変えるのかを,きめた」からできた成功だということに注目したい.

さて,その本業の旅館は,完全週休二日を実現している.
「完全」だから、チェックアウト日とチェックイン日をかんがえると,実動週四日しかない旅館である.
これで,従業員の働きかたが変わらないはずがない.
この人手不足があたりまえの時代に,募集すれば応募がたえない旅館になった.

まねのできないビジネスモデルである.

院内感染

純粋無垢なものやことを求めるのを「純化」という.
こうした発想は,儒教の影響をつよく受けているのではないか,という気がしてならない.
ほんらい儒教は,大陸発祥だが,モンゴルからの元,満州からの清といった外国人政権があいついで,共産革命がとどめを刺した.いま大陸にのこるのは,チョンシーで有名になった民間土俗信仰の「道教」ぐらいではないか?

もっとも,この間に,朝鮮や日本では,「小中華思想」によって,本国にかわって自分たちこそ「儒教」の本家と思い込んだ.
日韓問題の根幹に,両国共通の小中華思想による「本家争い」があるのではないか?
とくに韓国では,いまだに儒教は「宗教」としていきている.

ところが,日本は,聖徳太子のむかしから,宗教を「為にする方法」としてとらえる伝統がある.
つまり,怨霊や怨霊による病気などに「効く」か「効かないか」におもきがあって,外国からの「知識」とする傾向がつよい.

裏返せば、神話にさかのぼる「怨霊」は、神道の本筋になるから、日本人はとてつもない宗教民族である。これを日常生活でほとんど「無宗教」と思っている。それが、強さの証拠でもある。
世界の宗教は、毎日「神」を唱えるが、日本人はその必要すらない、という意味だ。

天台・真言の護摩壇供養はその典型だし,禅がもたらした「茶」は,まさに「薬」だった.

「儒教」のなかの「朱子学」を,江戸幕府が推奨したのは,「統治」のための処方があったからだという.「儒教」は,皇帝をささえる文武百官のための教えで,これに「皇帝」はふくまれない.
つまり,将軍を皇帝にみたてれば,家臣のための教えなのである.だから,日本で儒教を「宗教」として扱いはしない.

平面的には,小中華思想における「本家争い」なのだが,一方は「宗教」として,一方は「官僚統治の人心把握術」として,という途方もないギャップがあることを知らない振りをして,「与える側はどちらなのか?」を争うのだ.

いまさら,この現代において「儒教」なんてとおもうだろうが,あんがいわれわれのDNAにすり込まれている.
冒頭の「純化」が一例だ.

「用途純化」ということばがある.土地の用途を,かつてのニュータウンのように,住宅だけに純化させたら,かえって不便で住みにくくなった.
これは,立派な学者があつまっても,失敗してしまう事例になった.
表面的には「規制」の失敗にみえる.しかし,思考の視野狭窄という「純化」が真の原因である.

思考の視野狭窄という「純化」は,ふつうのひとでもおこる.
なかでも,ある特定の組織のなかにいると,その組織の意志にしたがうようになる.
これは,ウィルスのように増殖する.
韓ドラに,「ベートーヴェン・ウィルス」という作品があった.日本だと,「のだめカンタービレ」がそうだろう.
「のだめ」のばあい,「Sオケ」という圧倒的な成功体験が,ウィルスである.

  

成功体験が「ほとんどない」ほどすくないと,「疑心暗鬼」が空気中を舞っているので,良い意味での「感染」は,なかなかない.

「おもてなし」にも,視野狭窄という「純化」がつきものだ.

たとえば,有名百貨店や大手ホームセンターでよくあるのが,「店内改装」という気分転換である.
このときの主役は,ほとんどが「従業員」である.
つまり,何年もおなじ売り場であることに,従業員が飽きてくるのだ.
それで,誰が買っていたのか?という超重要な情報をなかったことにして,つまり,おざなりなABC分析をやって,とにかく「C」ランク商品を棚からなくすか,わかりにくいコーナーに配置換えをする.
こうして,新鮮な気分で開店をむかえるのは,じつは従業員だけだった,ということはしばしばある.

だから、めったに売れなくても,その商品があるからと指名入店するお客は,商品探しに辟易し,ついには,その店から姿を消すのだ.
ここで,店側には,店員に質問して欲しい,といういい分もあろう.
これぞ「純化」である.
悪いのは店ではなく,自分でみつけることにこだわるお客の方だと.

ショッピングの楽しさをしらないひとが,視野狭窄という「純化」をすると,たいがいこうなる.
そして,これが社内感染して,従業員の脳がおかされ,「脳症」的なまでにだれも気がつかなくなる.
では,その感染源はだれだったかといえば,「数字の表」だけをみている経営者である.

だから,消毒すべきは従業員ではなく経営者の方である.経営者の病気が治癒すれば,従業員側は自然治癒する.

政府の「働きかた改革」がいよいよ混乱してきた.
その原因は,消毒すべきが経営者であることに気づかないばかりか,それを命令する政府自身も,消毒の対象であると,つゆほどもおもわない傲慢さである.

与党内でも,ましてや野党も,以上のような反論ができない.
19世紀型の,低劣な環境で酷使される「あわれでかわいそうな労働者たち」を助けてあげなければならない,と信じているからだ.これは,政府のいう土俵である.
衆議院も参議院もしかり.これを「院内感染」と呼びたい.
議員たちには強力な消毒が必要だ.

21世紀の日本における労働問題は,19世紀的視野狭窄という「純化」の感染がとまらない.
ああ,国民はなんて不幸なのでしょう.

ああ,こんな人間になりたい

あなたの尊敬する人物はだれですか?

むかし,学校でクラス替えがあると,学年最初の時間は,自己紹介だった.
これは,「趣味」についでかならずあった質問項目だった.
おもいかえせば,するどい質問である.
そのひとの幅と深さが示唆される.

「個人情報」になるからと,学校から卒業名簿がなくなって,クラス会や同窓会が開けなくなった.
こどもにとって,身近な尊敬の対象は,両親か先生だった.
だから、先生出席のクラス会では,いい大人たちが生徒にもどって時間がまきもどされるひとときの非日常をたのしんだ.

いい学校

いつの間にかに「偏差値」がたかい学校を指すようになった.
ふりかえると,いい友といい教師との出会いがある学校を,本来はいい学校というのではないか?
すると,すくなくても学校側は,こんな教師がいる,という情報を発信すべきだ.
日本の学校は,情報産業になっていない.
むしろ,予備校がそれを実行している.

人生における出会い

組織という人間集団に,どのくらい質の高い人物が混じっているのかも,あらかじめわからない.
趣味の世界では,名人がかならずいるから,あんがいわかりやすい.

企業もふくめ,人口減少社会を前提にしなければならないから,質の高い人物を育てることは,将来の組織存続にも影響する重大事になった.
ところが,そんな人物は簡単に「育てる」ことはできない.
「環境」からの整備が必要になる.

尊敬の対象になりえるのはどんな人物像か?

これから,ロジックツリーをかんがえる.
そして,どうしたらそのような人物に自分がなれるか?をかんがえさせる.
そのためには,どんな職場環境や支援が必要なのかは,トップがかんがえることだ.
これを,いかなるスケジュールで実行するのか?

放っておいても,組織の人間が勝手に育つ,ということは困難になった.
その理由は,分業がすすんだからである.
ある仕事を,企画段階から完結させる経験は,めったにできなくなった.
だから,仕事の全体像がみえなくなった.

ああ,こんな人間になりたい

という人物に,ほんとうに出会えるのか?
出会えたひとは幸せである.

では,自分が,ああ,こんな人間になりたい,と言われるようになれるのか?
ぜひとも言われるようになりたいものだ.

切れないラップ

「韓流ドラマ」がはやっていたころの作品で,「チャン・ヒビン」という全100話にもなる大河ドラマがあった.このなかで,主人公につぎのような台詞がある.

「身分が低くて卑しい者ほど命を惜しむ」

これは,大義なき現代に対するなかなかするどい批判だ.
日本なら「武士道」,ヨーロッパなら,「ノブレス・オブリージュ」を裏側から表現している.

それでか,「安全」の概念が近年は,「『絶体』安全」に変化している.
「命の大切さ」から,「命を惜しむ」へとなって,予防的見地から,「アンチエージング」が注目されている.
あたかも,「命あるものはかならず滅ぶ」という大原則をわすれてしまったかのようである.
「平家物語」の重要なテーマなのに.

「食品偽装」事件があいついで,その無責任さに唖然としながら,「異物混入」が「大事件」になる世の中になった.
「白」か「黒」か,「善」か「悪」か,の二元論は,わかりやすい分注意しないと窮屈になる.
切り干し大根に藁くずが入っているのが「異物混入」になる社会では,伝統食品から「伝統」を排除するようなものだ.

一方で,研究成果として「好ましくない食品」がでてきた.
その典型が,「マーガリン」だろう.
生乳の生産と,政府がさだめた生乳の買い取り価格制度が一致しないために,慢性的なバター不足になやまされるこの国で,むかし「人造バター」と呼んでいたマーガリンの需要は安定している.
そのマーガリンは,「トランス(型)脂肪酸」という分子構造で,これが人体でよからぬ働きをするから,米国などでは販売禁止の処置がとられている.
厚労省によると,日本人のマーガリン摂取量は,欧米人よりもすくないから「安全」なのだそうだ.「『絶体』安全」のキャンペーンをはるマスコミも,この件は沈黙している.

同じような事例があった.
それが,食品「ラップ」である.
ヨーロッパに行くと,おどろくべき品質のラップしかない.
日本製の有名ブランドは,パっと引いてピタッとくっつき,チャッと切れる.
ヨーロッパのラップは,ズルズルと引きだして,ほとんどくっつかず,ぜんぜん切れないからハサミをつかう.

それで,ヨーロッパ暮らしが長いわが同胞は,日本製のラップホルダー(カッター付)が必需品だという.友人知人には,日本からのお土産としてラップを依頼する.
これは,日本にやってくるヨーロッパからの観光客もしっていて,100円ショップやドラッグストアでの定番のお買い物アイテムになっている.それで,「日本のラップは進んでいる!」と書き込むひとがおおぜいいる.

どうなっているのだ?と,ヨーロッパのラップの箱をみてみると,なんと「電子レンジでの使用禁止」という表示があったりする.
意外なのはそれだけではない.「添加物:なし」とある.
ラップに「添加物」?

日本製の有名ブランドの箱を確認したら,「添加物」が「ある!」のだ.

つまり,日本製とヨーロッパ製のつかい勝手という品質のちがいは,材料がちがっていたのが原因だ.
しかも,ヨーロッパ(EU)は,食品ラップの材料に「添加物」をゆるしていない.
「安全」が「つかい勝手」のうえをいく.

そういえば,発がん物質の「タール」がいぶし工程で付着するからと,日本の「鰹節」を輸入禁止にしているのがEUだ.
ところが,EU内で製造すれば「通る」ので,フランスに鰹節工場ができる.
EUの官僚主義はこんなものか.

離脱を果たしたイギリス人は,日本品質のラップをこれ見よがしに使うかもしれない.

それにしても,ラップの添加物の「安全性」.
マーガリンをゆるす日本,鰹節輸入を禁じても域内製造をゆるすEU.
どちらがリスクとして「正解」なのだろうか?
食品専門家の「大義」をしりたい.

2月16日太陰暦

「滞在」という経験は,「時間」と「空間」を基本にして構成される.
「時間」の単位で,みじかいものは「秒」,ながいと「年」になる.
日本人がながいことつかっていたのは,月の運行にもとづく「陰暦」であった.正確をきせば,太陰太陽暦であって,天保歴ともいう.
明治5年の12月は2日でおわり,明治6年1月1日となった.明治5年は322日しかない.この年の「師走」はたったの二日だから,さぞや忙しかったろう.それとはべつに,明治6年といえば,征韓論で西郷が政府から下野する政変の年だから,これはこよみとは関係なくせわしない.

なにげなく日付や季節をかたっているが,明治5年までの日本人と,それ以降ではちがうものになる.
平安のむかしから明治5年までは,今日の日付をしるのに月をみあげれば,おおよその見当はついた.太陽暦では,そうはいかない.
しかし,太陰太陽暦だから,太陽暦もふくんでいる.それが二十四節季をとりいれた智恵だろう.例えば春分・秋分,夏至・冬至は太陽の運行そのものである.

西洋で冬至のまつりといえば,クリスマス.ゆず湯とジングルベルを一緒に楽しむ日本人は,こよみを楽しむのに天才的才能を発揮する.
ほぼ一ヶ月も,正月がはやくやってくるようになったから,七草粥をつくろうにもまだ芽が出ていない.それで,ハウスものの七草を,ずいぶんな高値で買うことになった.
こよみと生活が分裂した結果である.

「こよみのうえで今日はなんの日?」とは,「旧暦」をさすから,「新暦」である太陽暦のカレンダーとは一致しない.それで,「こよみ」なんて信用できない,という早とちりのひとがいる.
新暦の日付で旧暦の「なんの日」をかたるから生活感と一致しない.旧暦の日付で「なんの日」をいえば,こよみどおりになるのだ.あたりまえだが.

ところが,ふつうのカレンダーには,旧暦の日付がかいていない.それで,「今日はなんの日?」が混乱する.それを,テレビのお天気キャスターが何年も新暦でいいつづけているから,旧暦をつかっていた世代がいなくなると,たんなる風物詩にかわってしまった.
日本における,「文化大革命」のひとつである.

夏目漱石は,
「人は日本を目して未練なき国民といふ数百年来の風俗習慣を朝食前に打破して亳も遺憾と思はざるは成程未練なき国民なるべし去れども善き意味にて未練なきか悪しき意味に於て未練なきかは疑問に属す」(明治34年 断片,『漱石全集』第19巻)
と残している.なるほど,深い.

ちなみに,「空間」のほうでは,尺貫法が禁止されたのは1966年3月末日のことだから,たかが半世紀前のことである.これで日本の度量衡はすべてメートル法に転換された.ところが,あいかわらず英米は,ポンドやフィート,ヤードにマイル,ガロンといった伝統が健在だ.これを「未練」というのだろうかは疑問である.

国立天文台のHPに,こよみの計算がでている.わがくにでは,法律で太陽暦ときめたから,太陰太陽暦を計算する公的機関はない.それでも,天文台は2033年問題があると書いている.それは,めったにおこらない太陰太陽暦での「うるう」表記の問題だという.きっと,国立天文台も,太陰太陽暦の有用性をしっているのだろう.

国に依存するのはさけたいが,太陰太陽暦の歴史的文化的価値は,日本人共有のものである.天文台も文化行政も,どちらも文科省の管轄である.
大学設置にかんする権限ばかりふりまわさないで,百年に一回ぐらい国民がおもわずうなるような,こよみのサービスをはじめたらいかがかとおもう.

地方にはいろんなものがある

なんでも東京や都会のまねをしたがるひとは,「なにもない」とかならずいうが,ほんとうに「なにもない」ところには,たいてい伝統文化がのこっている.おおくは幕藩体制のおかげである.
その土地にながくすむひとほど,その土地の文化がふかくはいっているから,日常ごとである.これが,地域をあげてひとりのもれなく日常ごとだから、それをとくだん区別することができない.だから,「よそもの」から指摘されてはじめて気がつくことがある.
「よそもの」がめったにこない地域では,今日も気づかないで暮らしていることだろう.

こよみは,暮らしと密着していた.
古今東西,暮らしと密着しないこよみをつくるなど,ひとは暇ではない.
日本列島の地域区分であった「藩」は律令のむかしからの「くに」がもとで,地形とも連動した区分だから、いまの「都道府県」も,「くに」と「藩」の合成であることがふつうである.
それで各地の伝統文化は,ふるくは「風土記」からつづいて,こよみに書かれた.

土地土地の「祭り」が典型例だ.毎年,日付が決まっている祭りがある.これを,陰暦にしてみると,太陽暦のカレンダーではわからない意味がうかびあがるだろう.

歴史と文化を売る

むかしは日常のなかにも祭りがあった.なにも,「祭礼」だけが祭りではない.
地方文化が色濃くのこる,「なにもない」土地であれば,旅行者にその土地の祭りを体験できるような工夫をすれば,いやがるひとはすくないだろう.

「郷土」を売る,というのは,日本旅館だからの商品になる.
その元ネタに,こよみがあるはずである.

今日,2018年2月16日が,旧暦の1月1日である.
明けましておめでとうございます.

七草は,2月22日.
その辺に生えていませんか?

グリーン車にのりたい

東京近郊区間における普通列車グリーン車は,東海道・横須賀線,総武線快速にくわえ,2001年から運転がはじまった「湘南新宿ライン」によって,高崎線と宇都宮線に登場した.2007年から常磐線にも採用されたのは,高崎線と宇都宮線のグリーン車乗車率が高かったためという.

これで,主要路線で,普通列車グリーン車が走っていないのは中央線だけになっている.
関西では,優秀な私鉄との競争に負けて,1980年に廃止されているので,「普通列車」にかぎると,グリーン車があるのは首都圏だけ,ということになる.

日本の鉄道において,かつては一等,二等,三等の三ランクがあったが,「一等」が廃止されて,二等が新一等に,三等が新二等になって,さらに新一等が「グリーン車」になった.
だから,グリーン車はかつての二等であって,東北新幹線に登場した「グランクラス」が,かつての一等にあたるのだろう.

しかし,かつての一等は,二等料金の二倍という料金差だった.
黒澤明監督の「まあだだよ」の主人公である内田百閒の作品に,「阿房列車」シリーズがある.
「なんにも用事がないけれど、汽車に乗つて大阪へ行つて来ようと思ふ」
という有名な書き出し.そして,借金までして「一等」に乗り込む.「二等は中途半端で嫌だ」とある.時代は,戦後の昭和20年代半ばあたりからである.

  

「なんにも用事がないけれど」というのは本当で,目的地とはたんなる「終着駅」のことだから,そこへ着いたらなんの興味もない.だから、その土地の「観光」は一切しない.
つまり,「列車に乗ること」が目的という旅を綴った作品なのだ.
しかも,一等で.

ヨーロッパの鉄道では,中距離以上になると,かなりの列車に「一等」が連結されている.
乗ればわかるが,たいていガラガラである.
「一等」料金は,日本のグリーン料金よりも安いのではないかとおもうが,二等がどんなに混雑していても,みなさん「一等」には乗らない.

ユーレイルパスという外国人観光客用の「定期券」は,一ヶ月用が「二等」,二週間用が「一等」になっている.それで,短期滞在のひとは二週間用で期間がちょうどよいから,「一等」に乗れる.しかし,「通」は一等に乗れる権利を放棄して,二等に乗るそうだ.

なぜか?
ヨーロッパは,貴族が現存する身分社会である.だから,「平民」はお金があっても「一等」に行ってはいけないのだ.
内田百閒が,借金しても一等に乗ったのは,日本の身分社会が崩壊したことの証明でもある.
陸軍士官学校と海軍機関学校でドイツ語教授をつとめたひとが,ヨーロッパの身分社会をしらなかったはずがない.

なんにもしらない外国人に,一等を売りつけて,連結費用をまかなおうという発想ではないかとうたがっている.
一等は,指定席があたりまえだから,パスをもっていてもそのままでは乗車できない.駅の窓口で,指定席券をもらう必要がある.
このときの駅係員の態度と,車内の雰囲気で「気がつかない」なら,それなりの神経の持主だろう.
それでも,一等に乗る,というのが,「確信犯として」どうやら正しいらしい.厚顔無恥な外国人をよそおうことで,快適な移動ができる?というわけだ.

ヨーロッパの複雑な事情からすると,日本の「平等」はまさに「真っ平ら」だ.
これを「薄っぺら」というかどうかは別にして,お金さえ出せば,誰でも「グリーン車」に乗れる.
ここで,「グリーン車」に乗るひとはお金持ちだ,という刷りこみができる.

「消費」のなかに,「みせびらかしの消費」というジャンルがある.
消費活動そのものを「みせびらかし」て,自分の立ち位置をあげようという,社会的な行動心理である.
この心理を応用すると,一人単価が上がる.

「奥に特別室がある」という構造がそれだ.