CDCのPCR検査中止 

CDC(アメリカ疾病対策センター)が21日、PCR検査の年内中止を発表した。
理由は、PCR法に代わる新しい検査方法にする、ということもあるものの、「PCR法では、インフルエンザと区別できない」という、重大なこともサラッと述べている。

それなら、世の中からインフルエンザがなくなった、ということではなくて、多くの患者(発症者)が、インフルエンザではなかったのか?という「疑問」の解答にもなるし、いよいよ無症状の「陽性者」を「感染者」ときめつける愚の告白でもある。

わが国では、29日、政府が首都圏三県(埼玉県、千葉県、神奈川県)と大阪府、それに沖縄県を「緊急事態宣言」の追加として、8月31日までの発令を決めた。
これは、政府による「経済破壊工作」であるということの意味を深めている。

例えば、沖縄県は、知事が「まんぼう」への格下げを要望した矢先であった。
沖縄経済を支える「夏の観光」が、壊滅的となることが自動的に決定した。
それは、基地問題等で政府に従わない、沖縄県(庁=知事)への、「経済制裁」ではないのか?という疑いを濃くする。

対する沖縄県議会や県内各自治体が、どのような反応なのか?
本土に住む我々には知る由もないのは、報道機関が死滅したからだ。

逆に、県独自の緊急事態宣言をすると宣言した神奈川県の場合は、法的根拠を得て、胸をなで下ろしていることだろう。
これで、県内の納涼に関する営業を正々堂々と規制できて、営業だけでなく経営をあきらめた店舗を、外国人が購入しやすくなった。

住宅業界では、新規のマンション建設が活況だけど、「外国人仕様」というトレンドになっていて、街の中心部の想定客はすでに日本人ではない。
こうした建物の、維持管理に係わる業務は、ビル管理上も生活上も重要事だけど、「管理費」を負担しないひとたちが続出して、事実上のジャングル化が最初から懸念される。

そもそも、どういう事情で購入可能なのかもわからない。
つまりは、住宅ローンの出所のことだ。
もしや「ただ」で入手しているかもしれない。
それが、外国の「政策」の可能性だってある。

であれば、毎月の管理費を負担しないで、マンションビルそのものを劣化させる意味も見えてくる。
日本人住民を追い出して、価値が下がったところで全部を建て替えてしまえばよい。

そうすれば、土地ごと「領土」になる。

現実に、営業自粛に応じない飲食店は、概ね外国人オーナーの店になっていて、当局の取締もない。
日本人オーナーの店には、警察官が訪問して、営業許可証の提示その他の「嫌がらせ」を行っている。

まさかと思われる、外国人優遇と日本人いじめの実態は、この国が誰によって牛耳られているかを明らかにしてきている。
国会議員を輩出している公党の多くには、外国につながる「バックドア」があるとみてよい。

そうなると、年内に予定されている衆議院議員選挙での投票には、おそらく乱立するであろう弱小政党をせめてもの希望にするしか手がないのである。

ときに、CDCがPCR検査中止を発表した2日前の19日には、投資家のジョージ・ソロスとビル・ゲイツの二人が、英国の民間医療検査会社を買収すると発表している。
この会社の新しい検査法が、次の世界的コロナ検査になるのではないか?とすぐさま「うわさ」がたっている。

これが本当になったら、我々は、正々堂々と支配されていることに気づくのだけれど、こうした買収をすでに正々堂々とやっていることが、もう支配されていることになっているのである。

つまるところ、「二元論」の世界が織りなす絨毯の模様のようになっているのである。
「善と悪」が入り交じって「糸」を作っている。
これらの糸が、複雑に絡み合っていた世界が、突如、整列をはじめて、縦糸と横糸になりだしたようである。

これは一体何を意味しているのか?を考えると、ソ連崩壊がもたらした衝撃に生きのこった「共産主義思想」が、かえって万遍なく世界を凌駕し、それぞれの独自文化を侵蝕したということだろう。
これらの人々が「敵」とした、共通点が「新自由主義」だった。

ところが、彼らの言う「新自由主義」とは、「グローバリズム」のことであって、その権化が「共産主義」だから、自分で自分を貶める用語を用いて、ついにホンモノの「新自由主義」を葬ろうとしているのである。
まさに、肉を斬らせて骨を斬る方法を見出した。

これの道具に、PCR検査も使ったのだ。

インフルエンザと区別できない、という決定的なことを平気で言える神経こそ、二元論における悪魔の一言である。

日本人もかつての日本人でなくなって、こうした世界的二元論に巻きこまれ、なお、新自由主義を憎むように仕込まれたのは、恐るべき企みであることに気づくひとが出てきている。

もはや悪と結託したのが日本政府になったのだ、と。

7月27日東京地検前

「ITビジネス・アナリスト」という肩書きを名乗る、深田萌絵氏という若き女性ファイターがいる。
彼女の「業界分析」は、裏話の深部にも及んでいた。
もちろん、本人からすればそれでも「さわり」にすぎなかっただろう。

起業家として、IT系、特に半導体の設計を行う会社も立ち上げていたから、”その筋”、の情報には豊富にアクセスできたにちがいない。
書籍もずいぶん出版していて、ある意味、業界の内幕曝露を一般人に伝える、メッセンジャーである。

とかく「IT」というと、ソフトウェアとか、運用技術をイメージするけど、このひとの得意分野は、大元の「ハードウェア」に由来する。
また、探究心が旺盛なので、「うわさ話」も掘り下げて、自分で納得を試みたことの一端を紹介してくれていた。

しかし、知っていても誰もいわないから「業界の内幕曝露」になる。
ここに、都合の悪い人たちもいることは容易に想像できる。
それでも、彼女の好奇心は「正義」と結合して、さらなる「闇」に光をあててしまった。

それが、「保守論客」としての、本人が望んだわけでもない顔である。
わが国の国益の核心たる半導体技術の外国への「漏洩」という問題を追及したら、「漏れている」という自然現象ではなくて、「漏らしている」という人為なのではないのか?

それをまた掘り下げて、次の地層では、国際的な「うごめき」が発見できて、そのまた下の地層には、とんでもない「欺瞞」があった。
これを、おもわず「暴いて」、「公表」してしまったのだ。
まさに、本来はマスコミがやるべき「調査報道」の手本だ。

そうやって、「まぶしい」と迷惑をいうならまだしも、静かに「排除」をはじめたから、ことが大きくなって、とうとう「東京地検からの任意での事情聴取」ということになったのである。

彼女が気づいてしまった「闇」は、とんでもなく深くて広い。

「漏らしている」ひとには、個人と国家があった。
その水脈のつながり(ネットワーク)の、驚嘆すべき手法とは、「背乗り」という日本国籍の取得方法にまで及ぶ。

何度も当局に訴えたものの、「証拠」がない、というので彼女は、外国に赴いて、本人の「出生記録」を入手した。
とうとう、当局の担当者が、「証拠を持ってきたら捜査してやる」と、にわかに信じがたいことを言ったからだと。

そして、その「証拠」を見せたら、当該人物から「名誉毀損」の訴えがあるとして、今度は彼女が「捜査対象」になってしまった、という顛末なのである。

そうやって、東京地検に呼び出された彼女を応援しようと駆けつけた多くのひとたちが、歩道を埋めつくした。
それが、「7月27日」の出来事だった。
しばらく「泊まり込み?」になるやもしれぬと、覚悟をしていたが、当日に聴取は終了した。

彼女を応援するひとたちは、帰らずに歩道で待機していた。
そして、彼女は、事情聴取の様子を短く語り出した。
弁護士の同席も許されず、名誉毀損をいうひとの「証拠」を出したも「受理しない」という。

担当検事に、「あなたはわが国の半導体技術情報が外国に抜き取られてもいいのか?」と言ったら、職務にないので「興味ない」との返答だったとも。

これは半導体をめぐる「闇」どころの話ではない。
わが国の「闇」なのだ。
巨悪を扱った、過去のどんな「小説」や「映画」よりも、空恐ろしい。
なにしろ、「現実」だからである。

一方で、東京オリンピックでは、日本人選手たちの「活躍」が、「メダルの色と数」になって、「盛り上がり」を見せている。
オリンピック開催反対キャンペーンをやっていた、マスコミ(テレビと新聞)は、手のひらを返して、こんどは「素晴らしい感動をありがとう」と、毎度のごとく言い出した。

しかし、深田萌絵氏のことは、1秒も1字も伝えない。

おもわず「パンとサーカス」という言葉を思いだした。
古代ローマ時代の詩人が残した言葉である。
愚民政策を警告する、古代からの名言なのだ。
政府が、国民に気前よく食物と娯楽を与えれば、国民は喜んで政府に従うようになる。

別に外国人を排斥しようとは思わないが、世界で唯一わが国がとっている「不法滞在外国人への生活保護」も、とうとうアメリカ民主党がこれを真似て政策にして、将来の民主党への投票を目論んでいる。
わが国の場合は、これに反対する国政政党がないので、まさに日本国政府は「パンとサーカス」を基本政策にしているのである。

これを、現職の国会議員が、かつて「おかしい」と警告していた。
『「パンとサーカス」の時代』(1998年)は、農水大臣を務めた大原一三(おおはら いちぞう)氏の著作である。

氏が没したのは2015年。
もはや「警告」ではなくて現実になってしまった。

山梨県立富士山世界遺産センター

一口に「世界遺産」といっても「世界文化遺産」として、「信仰の対象と芸術の源泉」をもって登録された。
その登録をしたのは、「悪名高きユネスコ(国際連合教育科学文化機関)」で、2013年のことであった。
ちなみに、「世界遺産」には、このほか「自然遺産」と「複合遺産」の、全部で3種類がある。
すると、どうして富士山は、複合遺産に「ならなかったのか?」が気になるところだ。

「ゴミ問題」での指摘を受けて、「自然遺産」にならないからだった。
つまり、「汚い」と。
それで、この「汚名」を晴らすための努力がどんなふうにされているのか?
もちろん、「関係者」の努力はあるだろうけど、そうしたアッピールがされているかがわからない。

「富士山世界遺産センター」は、山梨県立と静岡県立の二箇所ある。
本記事は、山梨県の話に限定するのでご注意願いたい。
なお、富士山にまつわる博物館や資料館は、それぞれの自治体がそれぞれに開館している。
なので、一カ所では完結しない。

だから、富士山をグルリと一周する「ツアー」でないと、これら施設をなかなか制覇できない。
「富士山ミュージアム観光」というジャンルがあってもいい。

さてそれで、ここには「二つ」の施設がある。
一つが、「センター」としての「北館」と「南館」と名付けられた、「本体」だ。
北館が展示館、南館が売店と情報センター、それにレストランと展望台がある。
どちらも、入館料は「無料」である。

もう一つが、駐車場に入口・出口がある、「富士山自然観察園」で、こちらは短い「散策」をしながら、溶岩流のど真ん中を体験できるようになっている。
案内板にある所要時間は、15分(「じっくり観察30分」)とある。
ほとんど誰も行かないので、ためしに行ってみた。

駐車場の歩道から、けものみちに入るような風情であるけれど、「総合案内板」の横に、「入口・出口」というちいさな看板があるので、そこから森に分け入るようになっている。
1分もせず、あっという間に「別世界」となるけれど、この「放置感」は「自然」とはちがう。
ところどころにあるのは、「溶岩の種類」を示して、コース確認の掲示板と溶岩の解説がある。

それらの「汚れた感じ」は、「自然放置」の賜で、肝心の溶岩も「苔むした」なかにあるので、よくわからない。
これは、「センター北館」にあった、噴火直後から苔や草が生えて、それが「土」になり、さらに木が生えて葉が腐葉土になり、といった人の一生を何回やったのか気の遠くなる時間をかけて、森ができたことの「追体験」ではある。
だけども、ここで何を「自然観察」してほしいのかということがピンとこない。

しかも、「城の展示」で書いたように、ここも全部日本語解説のみなのだ。
この「おざなり感」は、地方自治体の施設に共通する。

駐車場にあるクルマのナンバープレートを観れば、関東近郊どころではない「滋賀」とか「平泉」とかという、富士山が見えない地域からの訪問客が、ここぞとばかりの熱心さで展示をつぶさに見学していた。
しかし、自治体の役人の習性ともいえる「総合」という言葉に象徴される、「ピンボケ」が、おそらく億円単位の「センター」にも注ぎ込まれて、地域住民の富が収奪されている無様を観察することを強要される。

前述した、富士山の「自然のなり立ち」と、世界遺産の「文化」を混在させてしまうので、なにが言いたいのかわからないのだ。
このあたり、クリエーターと役人の「つばぜり合い」を感じてしまう。
あるいは、クリエーターによる言いなりで、しこたまデザイン料を請求されたか?

「映像もの」も、制作のミクロにおける「こだわり」が、全体としての主張と合致しないので、「飽き」を誘発する。
15分間隔で放映される「8分」の映像は、巨大模型と連動させているつもりだろうけど、最長で7分待って観るべき価値があるか?

むしろ、火山灰の種類毎に、ちいさなサンプル瓶を持ち上げてその「重さのちがい」を体験させたり、溶岩に方位磁石をあてがって、針が回転する「磁性」を確認させる、「自然体験」のほうが、よほど印象に残る。
それに、前述した「富士山自然観察園」の案内板にある、溶岩流(剣丸尾(けんまるび)溶岩流;最も新しくて千年前)は、この場所を通過して、国道139号線の地形を形成した。

それは、中央道にも被っていて、河口湖インターと富士吉田インターは、この溶岩流を横断しているのだ。
河口湖インターより大月方面へは、この溶岩流の真上を走る。
溶岩の厚さは、3〜6メートル。全長20㎞。
今なら、富士急ハイランドも富士吉田市の中心部を溶岩流が流れたことになる。

園内を散策中に聞こえる「絶叫」は、富士急ハイランドのジェットコースターからである。

そんなわけで、いつぞや「静岡県」のセンターも期待値を低くして訪問しようと思う。

核先制攻撃を明言しても友好国か

例によっての「報道しない自由」が発動されて、国民を蚊帳の外に置いたつもりかもしれないけれど、やっぱり「ネット」から漏れてくる。
しかしながら、今回の「ニュース」は、日本向けの発信なのだから、日本国民が「当事者」になる、大ニュースなのである。

それは、「人民解放軍」が製作したビデオであって、当初は国内向けと思われるけど、英語字幕がついて世界に拡散されている。
その衝撃的な内容は、わが国が台湾に軍事介入するなら、わが国が二度目の「無条件降伏」をするまで核攻撃を続ける、ということと、わが国をロシアと分割統治することも発信している。

尖閣諸島はもとより、沖縄を独立させる、ともある。
なぜなら、尖閣も沖縄も、もちろん台湾も、元来は大陸国家の領土だったから、という(厚顔無恥の)主張だ。
これを、「人民解放軍」が言っている。

念のため加えれば、この「軍」は、近代国家に一般的な「国軍」ではない。
「党」の軍隊なのである。
ナチスには、国軍としてのドイツ軍と、党機構としての親衛隊があった。
これを日本にあてはめると、与党・自民党の軍隊という意味である。

だから、政府には従わない。
あくまでも、「党」であって、なかでも党内にある「軍事委員会」が仕切っている。
この意味で、シビリアンコントロールという建前が成りたつ。

その委員会の主席は、国家主席とか、党総書記といったひとが兼務していた。
けれども、本当は、武力を統括する軍事委員会主席が国家主席とか、党総書記になるのである。

なので、このビデオを軍が勝手に作った、と言い訳しても、そうはいかない。
かならず、軍事委員会主席の裁可がないといけないのは、国民向けのプロパガンダであるとしてもである。

すなわち、この国の最高権力者が言っているのと同じなのである。

前回の東京オリンピックのタイミングで、この国は最初の核実験を成功させた。
それで、わが国の左翼の皆さんは、アメリカの核は汚いけれど、こちらの核はキレイだといったのだった。

なぜなら、当時の最高指導者が、核を持たない国へは、決して核による先制攻撃はしない、と国際約束をしたからでもある。
今回、党設立100周年の時期に、「事情変更」を唱えて、日本だけは別とする、という宣言を発した。

わが国にとっては、重大すぎる約束の反故である。

相手が共産主義者という、本当のならず者だから、約束を反故にしたといってみても、はなから相手にされる訳もない。
だから、この約束を反故にする、とわざわざ世界に発信した「愚直さ」が事件なのである。

無観客でも、オリンピック・ゲームにテレビで興じる国民は多い。
しかし、そのテレビが、国民の生死に関わる重大事を報じないのだ。
まさに「犯罪的」であって、「パンとサーカス」さえ与えれば、愚民は黙る、というセオリーの典型となっている。

積極的に強いものに巻かれたい者どもは、こないだの「麻生発言」のせいにするであろう。
台湾有事ともなれば、日米で集団的自衛を行使するといった、あれ、である。

しかし、台湾海峡の重要性は、台湾有事だからということで変化するものではない。
わが国の海上輸送ルートをかんがえれば、この海峡の通航がままならなくなったとき、わが国はたちまち困窮するのだ。

すなわち、台湾があちらのものとなった暁には、わが国の切磋与奪の権利をあちらが握り続けることとなるからである。
簡単に言えば、彼らが言うとおりのシナリオのうち、最低でもわが国の「独立」は困難となって、従属地域になることを意味する。

ここに2700年あまりの国の歴史が終焉のときを迎えるのだ。
彼らの言う「核心的利益」とは、歴史的に初ともなる「日本を手中に収める」という意味である。

独立の気概をなくしてしまった国民の、哀れな最期なのだ。
ときに、他力本願としても、頼りになるのはアメリカだけだ。
そのアメリカは、わが国と因縁が深い民主党政権なのである。
トランプ氏の共和党政権だったら、こうはならなかったろうけど、どうにもならない。

ここに、千載一遇のチャンスをあちらの国の指導者が見出すのは、ふつうのことではある。
日本人が、トランプ氏を小馬鹿にして嫌うように仕向けたのも、マスコミのなせるわざだった。

財界人は、どうせ属国になるのなら、撤退などせずに金儲けを続けたい、という腹黒さに満ちているにちがいない。
しかし、彼らの中での起業者の扱いがどうであったかを忘れてはいけない。
「人治」による相手を間違えると、どうなるかを見せつけられているのに。

そんなわけで、勝負どころは、「デジタル円の普及」ということになってきた。
デジタル元との普及競争である。

通貨を制するものが国家を制するのである。
軍事力を持っていても使えないわが国の武器は、やっぱり経済分野での覇権=国際基軸通貨としての生き残りなのである。

背に腹はかえられぬ。
日銀はどうしているのか?

ペインクリニックに行ってきた

「痛み」を緩和する医師がいる診療所である。
本当の専門は、整形とかということもあるけれど、「麻酔」の専門家がやっているのを見つけることができる。

西洋医学は、基本的に全部が「対処療法」だ。
むかし流行った韓ドラのうち、『チャングムの誓い』は、DVDボックスを購入して、何度も観ていたので、「セリフ」を暗記してしまった。

医女になったチャングムが、主治医として王様に向かって言うのが、「病を治すのは医師ではなくて本人の身体だ」というセリフが繰り返しでてくる。
まことにもっともなことを言うものだけど、このドラマは全部がフィクションである。

この意味で、およそ「ファンタジー」にかけては、韓国人の想像力の豊かさは特筆に値する。
なお、儒教と事大主義の威力を学べる、という点でも「傑作」なのではなかろうか。

他に、キム・ヘス主演の『張禧嬪(チャン・ヒビン)』が双璧だ。
こちらは、歴史的に有名な「悪女」の物語で、何作かあるなかで主演の(狂気じみた)熱演が光る。
夏の夜の怪談に匹敵する。

 

さて、ペインクリニックに行くわたしの場合は、先月のiPadでの読書に集中したことで発症した、眼精疲労と肩こりである。
整体マッサージに通い、眼科も受診したけど、とにかく頭痛までしてくる「重症」と、自己診断している。

目の奥が痛いのである。
それが、首筋から肩にかけての「コリ」になって、頭痛を引き起こしているようだ。

整体師の話によれば、筋肉の緊張が著しいと。
もちろん、これをほぐすことは重要だ。
実際に、これでも当初よりは良くなってきていると自覚もしている。
しかし、やっぱり辛いのである。

そんなわけで、ペインクリニックに行こうと決心したものの、どこがいいのかわからない。
ネット検索してみたら、なんと自宅より数百メートル先にあるではないか。
さっそく電話してみたら、「完全予約制」という。

最短で、今週末。
待ち時間が長すぎる。

何回か別件でお世話になったクリニックにも電話をしたら、「ペインクリニック部門」はやめたという。
理由をきいてもせんないので、そのまま電話を切った。
それで、3軒目は、カレンダーで当日予約可、ただし受付はネットのみ、とあったのでここにした。

行ってみたら、何に驚いたかといえば、その「ボロボロ感」であった。
およそ今どきの「クリニック」とは縁遠い、老朽ぶりで、鄙びた待合室にもポツポツと数人の老人しかいなかった。
そして、受付の女性も、おなじく鄙びていた。

一瞬、どうしようかと思ったけれど、この鄙びたひとが手にしていたのは、さっきネットで申し込んだわたしの予約票であった。
早い。
のか、初診予約がいないのか。たぶん後者だろう。
あとは、初診の問診票への記入だ。

待合の大型テレビでは、朝のワイドショーをやっていた。
これを、数人の老人たちが黙って無表情で観ている。
ついうっかり観ていると、噴飯物のコメントが繰り広げられている。
それでも無表情で観ている老人たちを観ていた。

診察室では、あんがいと若い(同年代か?)医師が笑顔で迎えてくれた。
肩を揉んでくれながら、おもむろに「レーザー照射」をするという。
これは、「注射」よりは効きが悪いけど、安全性には定評がある血行促進法だと説明してくれた。

それで、一回330円。
老人だと、110円。
「そりゃあ、ブロック注射とかね、きれいなビルを借りて、きれいな看護師さんを数人雇ったら、すぐに注射を打っちゃいますよ」とはじまった。

「でもね、リスクがないとはいえない。こんなに筋肉が硬かったら肩こり、辛いでしょうが、これも加齢でね。だからといって、チマチマこうやって110円とか330円をやっている自分も、若いときとは違って、注射打っちゃおうか、とも思うんだけどね。こればっかだと食べていけないから、こんなボロボロでさ」

「まあ、何回か通ってもらって、330円で。今日は初診料とかいろいろだけどね。それで、レーザーじゃダメだとなったら、いよいよ注射をかんがえましょ。ときに痛み止めとかの薬、とりあえず一週間分出しとくから」

「それとね、診療時間の始まりから遅めに来ると待ち時間が少なくて済むよ。なにせ老人たちは早く来るから。一巡するころを見計らうといいですよ、夕方だと5時半頃ね」

もしや「当たり」の医院かもしれない。

対処療法の注射をして症状が消えたとしても、「治った」にはならないよ。
自然治癒の血行促進がなによりだからね。

なんだか「チャングム」のようなのである。

「夏休み価格」の宿泊施設

今年の夏は暑い。
梅雨明け宣言が出たとたんに、猛暑がやってきた。
家にいると暑いので、ショッピングセンターのフードコートにある電源席にたたずむことにした。

近所ばかりでは飽きるので、いろんな「センター」に行ってみたら、「系統」によるそれぞれの特徴がみえてきた。
ショボいところから、贅沢なところと、バリエーションも豊富だけれど、利用者数のバラツキも観られるので、「地域特性」と客からの「選択」があるように感じる。

近隣に学校がある場合は、当然に生徒・学生が放課後にやってくるから混雑して、皆さんそれなりに「勉強」している。
このとき、電源をひつようとしない傾向があるパターンと、電源席から埋まるパターンがある。

いまどきは中学生も、iPadとiPhpneを駆使して各科目の勉強に勤しんでいるのを見かけるけど、一発で「眼精疲労」に苦しむことになったおじさんとしては、「若い」と感心しながら、「目を大切に」と思ってしまう。
あの姿勢で、数時間もやっていてよく肩こりにならないものだ。

もう自分にはできない、と思う侘しさもある。

いくらショッピングセンターに隠って、涼しい環境に身を置いても、帰宅すればタップリ蓄熱したコンクリートのわが家は、即座に冷房を稼働させないといけない。
夕方のそよ風を感じる外の涼しさとは無縁なのだ。

皆さんどうしているのか?
この団地に越してきてから、毎夏の疑問だ。
昨夜はとうとう、隣の棟に救急車がやってきた。
「室内熱中症」を即座に疑ったのだった。

数年前の猛暑では、あんまり暑くて耐えられないので、横浜中心街のビジネスホテルに避難したことがあった。
横浜公園で友人にバッタリ会って、「避暑にきた」と言ったら笑われた。
冗談だと思ったらしい。

まだ7月なのに、もう耐えられなくなってきたから、やっぱり「避暑」をしたい。
そこで、宿を探すことにしたら、目を疑う「夏休み価格」になっている。

まあ、コロナにやられて大変だったろうから、ここで取り返さないと、という事情もあるだろう。
一応、旅行やら移動制限による宿泊施設の「倒産」や「廃業」は、数百軒といわれている。

それに、東京を中心にすれば、まさかの「無観客」となったから、どういうわけか「オリンピックのために」ということで建てたホテルも当てが外れたことだろう。
ただし、たった二週間あまりの「大会需要」を見込んで、ホテルを建てる、という理由が信じられない。

一度建てたら、耐用年数は半世紀はある。
そんな長期的な営業をする宿泊施設が、オリンピックの「特需」だけの理由で建つものか?
デリバティブの対象としての、「紙の上の案件」になっているとしか思えない。

さすれば、これを、「転売」するのも「紙の上」になる。
そうやって、利用客や従業員は「二の次」にされるから、転売価格の査定が怪しくなるのだ。
なので、こだわった建築になることはなく、内装デザインがものをいう。

いつだって、文字どおりのスクラップ・アンド・ビルドの対象になる。
これが、街に与える影響も大きく、「エリア」という発想がない、わが国の都市計画とマッチして、遂にただのオフィスビルに建て替わったりするのだ。

そんなわけで、警備だけが厳しく、高速道路も割高(「来るな」というメッセージ)な都心には行きたくないから、どこか別の場所を探すことにした。

さてそれで、今度は古い避暑地のホテルである。
こちらはこちらで、「メンテナンス」という発想がなく経年劣化してきた「典型」と思われるところを発見した。
周辺の価格帯とはちがって、ずいぶん「安い」のだ。

一般に、宿泊施設は、目に見えない「サービス」に重点をおいた議論が盛んだけれど、それは、「ちゃんとした建物」があってのことである。
この「前提」を議論しないのは、「建築」とか「設備」とかの「理系」の話になるからである。

しかし、「経営」の話になれば、全部をひっくるめることが当たり前なので、なんだか偏った感じになってしまう。
それでか、なんでか、新築したホテルのオーナーは、メンテナンス予算とか、長期あるいは超長期の維持計画を作らないでいたりする。

今どきに「老朽化した宿」は、わが国が「工業大国」だった頃に建てられたものだ。
工業大国の工業大国たるゆえんは、「品質」にあったとはよくしられることである。

すなわち、新品ピカピカの建物に付随する「設備」は、たいがいが「工業製品」なので、その「品質管理」の徹底から、一斉に壊れるという傾向を最初からもっている。
例えばテレビとか、蛍光灯など、同時期に壊れたり切れたりするのは、稼働時間が同じなら、同じ品質なので壊れる時期も同じになる。

その巨大なシステムが、たとえば「空調」と「水回り」なのだ。

はてさて、「避暑地」なのだから、「空調」の不安はどうかはわからないけど、どんな「設備」が傷んでいて、これが資金不足という無計画のためになったのかを観察に行こうかと思う。

嫌な客である。

『自発的隷従論』を読む

人間がかんがえることは、かなりのことが昔にかんがえられていることがある。
どうやら人間は、衣食足りるとかんがえだす傾向があるのだけれど、果たして現在はいかがか?

「ギリシャ哲学」という古代ギリシャでの哲学は、「市民」という閑人たちが日がな一日広場に集まってそこでの議論で生まれたと習う。このひとたちはどうやって生計を立てていたのかといえば、奴隷制があったからだった。
戦争による掠奪には、敗者を奴隷にして当然という合意が人間にあった。

イタリアオペラの傑作のひとつ、『アイーダ』は、古代エジプトを舞台にした、若きエリート将軍と元エチオピア王女で奴隷にされたアイーダとの悲恋物語である。
そうかんがえると、奴隷というのは歴史が古く長いものだ。

政府や為政者(ときに「独裁者」)に従属するひとたちを蔑んで「奴隷根性」ということがある。
こうした「根性」がどこからやってくるのか?を「解読」したのが、16世紀半ばで夭折した法務官、エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ(1530年~1563年)であった。

彼が残した『自発的隷従論』は、なぜに人間は政府や為政者に隷従するのか?という問題に、「隷従はいけないこと」という観点ではなく、ただまっしぐらに、「構造」を解明したことが「新しい」のである。

それは、為政者の「取り巻き」たちが、権力の恩恵にあずかろうとするからであって、これが、「ピラミッド型社会組織」として入れ子型に成りたっていると分析した。
つまるところ、支配と利権の構造なのである。

トップの取り巻きだけでなく、その取り巻きをトップにした、下の階層にも取り巻きがいて、さらにまた、、、、、と続く構造だ。
これを、「自発的隷従」と定義した。

改めて読んでみれば、いま、彼の住んだフランスはもとより、世界同時に起きた「コロナ・パンデミック」で、それがどんなに「茶番劇」であっても、ひとびとは「自分の生き残り」を信じて、政府が言う「ワクチン」を接種し、また、政府がこれを「強制」していることの「本質」がみえてくる。

もちろん、政府は「安全策」として、決して「安全」とは言わず、むしろHPや「官報」における「告知」では、「緊急性」を前面に出して「治験中」とか「承認薬ではない」ことをちゃんと書いている。
それでもって、自己判断としながらも、あたかも接種しないのは「悪」だと誘導しているのである。

これは、業界にも適用されて、政府専門家会議を代表するひとが、公共放送を通じて「エビデンスはない」と明言しながら、「飲食店の営業時間短縮」とか「酒類提供の禁止」を助言し、政府高官が推進していることに「隷従」することでも現れている。

言い過ぎたとして、前言を撤回した、とはいっても、ぜんぜん撤回などしていなくて、事実上の「禁酒」が実行されている。
飲食店で飲めない、という事情から、「家飲み」というふつうができて、「ビン・カンもの」のゴミが急増している。

これらは、国連・各国政府が推進する「SDGs」の流れに逆行するから、そのうちまた国民を痛めつける、レジ袋有料化などの「政策」をかんがえだすだろう。

それにしても、飲食店やら宿泊・旅行業界が「黙っている」のはどういう「利権」があるのかと疑えば、積極的利権ではなくて、消極的利権の存在が見えてくる。
それは、政府による「いじめ」が怖いからである。

先進国の先進国たるゆえんは、政府機構や機能も先進的だからである。
つまり、あらゆる分野を法で支配していて漏れがない。
だから、政府に逆らうということの「報復」が、どの方面の法律執行からやってくるのかわからないという「恐怖」が「経営リスク」となるのである。

「法」ならば、立法府と司法府の出番、ということに「ならない」のは、法の下にある「政令」、「省令」、「規則」に「通達」といった、「行政」からの各種命令が、行政官によって発令されるからである。

これが、「業界」をがんじがらめに縛っているのだ。

さらに、「縦割り行政」が、面倒を生む。
もちろん、面倒なのは政府の側ではなくて、支配される業界の側である。
ある意味、どこから弾が飛んで来るのか、わからないからである。
それで、担当部署の責任の大元を見つけだすこと自体が、面倒を生む。

「雲隠れ」するという、忍法までも駆使してくるのだ。

個人の世界では、エーリッヒ・フロムの名著『自由からの逃走』がある。
このような外国の「解説」が、わが国でも「有用」になったのは、わが国がわが国「らしさ」を失った証拠でもある。
これが、「グローバル化」ということなのだ。

外国旅行に一回も行ったことがないからといって、グローバル化とは関係ない、にはならない。
むしろ、外国がすすめる「ワクチン・パスポート」がなくては、外国旅行に行けないとなれば、ワクチン接種をしたくなくともしないといけない。

フランスや英国では、飲み屋にも提示がないと入店できないと提案されて、大規模デモになっている。

これを、直接的な「強制」とは言わせない努力も政府は仕掛けるのだ。
これこそが、「同調圧力」の応用なのであって、個人の精神を痛めつける社会的恐怖なのである。

ならば、「夏休み」に、遠藤周作の代表作『海と毒薬』でも読んでみるのがいいだろう。
この「実話」が、これからの「実話」になる努力が政府によってされている。

 

大相撲とオリンピック

【東京2020開催記念】

どちらも「神事」としての「興行」である。

大相撲は神社の境内で八百万神を、オリンピックはオリンポスの山々におわす神々を祀って「奉納」したものだ。
大相撲では、塩で清め、オリンピックは火で清める。
火をもってするのは、ゾロアスター教の影響だと前に書いた。

その大相撲が、戦後になって、「スポーツ競技」だと定義された。
この定義を促したのは、公共放送の意向もあったろう。
国民資産の電波を使って、受信料をとる公共放送が「国技」といいながら、「興行」を放送するのはいかがなものか?と。

その一方で、おなじ国民資産の電波をつかって、「興行」のプロレスを中継したのは民放だ。
「興行」だから、シナリオがあって、「競技」とみせかけて盛り上げる。

その第一が、あくどい白人レスラーたちが繰り出す「反則技」をものともせずに、正々堂々と勝利する日本人レスラー、という構図をつくったことだった。
これが、「敗戦」の意趣返しとなって、国民を熱狂させた。

つまりは、ガス抜きである。

GHQが仕組んだのか、どうなのかは知らないけれど、まんまと作戦どおりに、プロレスに熱狂させることに成功させたら、翌日は気分良く働いたのが日本人だった。
「アメリカ何するものぞ」とアメリカにやらされた。

これぞ、アングロサクソンの腹黒さなのである。

大相撲を廃止させようとしている、という「噂」は、「皇国史観」と「神道」の「罪」と解釈された。
もちろん、「昭和天皇の退位」という現実の大問題もあったからである。
日本から皇室を奪うこともできるのが、戦勝者たるGHQの絶対権力だった。

困ったことに、日本人は「(欧米的)絶対権力」に馴染みがない。
あたかも、徳川将軍家がそれにあたる、とプロパガンダしたのは、国民的ドラマ『水戸黄門』が作ったフィクションである。
絶対権力に正義が結合したら、歯向かうものを皆殺しに切り捨てて良い、というのは、欧米的革命思想なのだ。

すると、絶対に間違っている、と戦後定義されてしまった「皇国史観」と「神道」の「正統性」がみえてくる。
少なくとも、いまやタブーとされた「神話」だって、本当は日本人には重要すぎるから学校教育で禁止の扱いがされているのだ。

いまはとっくに「死語」となった、「大和民族」は、一体いつから言わなくなったのか?
なお、大和民族は、アイヌも琉球も含まれる一般用法だから注意がいる。
「分断」を画策する政治的活動を第一とする学者が、これら民族を分けている。

そもそも、日本人はどこからきたのか?は、いまだにわかっていない。
ルーツとされる、縄文人がどこからきたのかわからないのだ。
そして、琉球人もアイヌも縄文人の系統にあるのはわかっているから、大和民族の血が濃い部類に逆になるのだ。

そんなわけで、大相撲がスポーツ競技になったから、八百長が「いけないこと」になった。
スポーツは、実力の差だという「新しい神話」をつくった。
神様を楽しませるために「奉納」していたオリジナルからの裏切りである。

もう一つ、八百長がいけないというのは、「賭け事」をしている人からの意見だということに注目すれば、大相撲は、その筋で「大相撲賭博」をしていれば、たしかに掛金を差し出す側は、「八百長」は困るのだけど、胴元が仕掛けているのだろうか?という疑問もある。

八百長が相撲取りの世界の内輪での単なる「星取り」のため、ならば、賭博参加者は、そのことも含めた「予想」が必要になる。
すると、どこが問題なのか?
「興行」だから、その「場所」が盛り上がって盛況ならそれでよい。

一番の問題は、大相撲を管理する「相撲協会」という団体が、なにをとち狂ったか、「公益財団法人」になっていることだ。
それなのに、この財団を仕切るには、歴史的「親方株」という、お金と人脈で得る権利証がないといけない。

プロレスのように、株式会社にするか、神社としての宗教法人になればよかった。
それもこれも、興行収入に対する「免税」を最優先にさせて、監督官庁の文部科学省(公営ギャンブルのサッカーくじをやっている)に媚びへつらったからだろう。

結局のところ、近代オリンピックも、国際オリンピック委員会という世界最強の民間団体が、ヨーロッパ貴族のための「興行」として立ち上げたものを、絶対権力化させることに成功した。

オリンピックの収益にまつわる税金は、国際的にどのように扱われるのか?
先に決した、国際課税における「ビッグテック企業」の扱いが、オリンピックの収益とは関係なく議論されたのである。

この特別扱い。
開催するかしないか、という「浅い」議論ではなく、この委員会の不思議が議論されることがない不思議がある。

開催国には開催中止の権限がなく、これが決定権は国際オリンピック委員会にあるとされ、多額の違約金を払う羽目になるのが嫌だ(損だ)という、「損切り」の発想もないままに、「無観客興行」となったのは、テレビ放映権のおかげであった。

大相撲もオリンピックも、テレビあっての「興行」なのだ。
開催国であろうが、世界同時テレビ中継を観る、という「平等」が、コロナ禍のごとく実現した。
これで、「復興記念」が「祈念」になるなら、それはそれで、「神事」だ。

すると、テレビが廃れたら、これからは一体どうなるのか?が興味深い。

トヨタ労組の立憲切り

全トヨタ労働組合連合会(全ト、35万7千人:トヨタ自動車、デンソー、アイシンなど関連314労組で構成)は、「連合」傘下の巨大労組である。
ここが、立憲民主党議員との連携を「見直す」と発表して、大きな話題となった。
いわゆる、「左翼」界隈からは、「裏切り」ともとれる恨み節が流れた。

こういった事態にどうしてなるのか?を調べるには、「歴史」を見るのが一番いい。
トヨタ自動車の歴史は、トヨタ労組の歴史でもある。
労働組合とは、本来そういうものである。
何故なら、自動車を作って売るには、絶対に労働者(従業員)がいなければならないからである。

作る人だけでも、売る人だけでもいけない。
もちろん、「製造業」に限ったことではなく、全産業でいえるのである。

残念なことに、左翼思想(社会主義や共産主義)が先行して流行ってしまったのも歴史だ。
そんなわけで、「不幸にも」労働者のための労働運動が「思想汚染」されて、これら「主義」のひとたちのための「手段・道具」になってしまった。
まことに左翼思想の「非生産的」かつ「破壊的」無意味のなしてきた「罪」は重い。

世界のトヨタの「前身」は、豊田佐吉翁がなした「豊田式織機」である。
これは、母が夜な夜なしていた「機織り仕事」を、なんとか楽にできないものかと思案して作り上げたものだ。
つまり、「母のため」という気持がこもっている。
それが、「ひとのため」になって、豊田自動織機が会社となる。

この会社から派生したのが、トヨタ自動車なのだから、「従業員のため」という思想が欠如しているはずがない。
よって、そもそもがトヨタ労組とは、「労使協調」を旨としていた。
これが崩れたのは、戦後の資金不足という混乱期だった。
本所次郎『小説日銀管理』に詳しい経緯が書いてある。

さらに、外国人がトヨタ自動車を研究したのが『トヨタ経営大全』だ。
この「人材開発」を見れば、その「合理性」がよくわかる。
トヨタはクルマだけでなくひとも作っている、といわれる所以である。
しかし、トヨタの内部からしたら順番が逆だろう。

人を作らなければクルマは作れない、と。

乗用車はふつう、約3万点の部品からなっているといわれる。
3万点のすべての部品が、設計どおりの機能を有さなければ「商品」にならないばかりか、一歩まちがえば人命を奪う凶器にもなりかねない。
これを用意し、間違いなく組み立てる。

これだけでも、大変なことなのだ。
そして、これを世界販売している。

もう、世界の自動車メーカーは、トヨタに適わないことを知った。
それで、もっと簡単な「電気自動車」にルール変更を画策している。
つまるところ、よってたかっての「トヨタ潰し」なのである。
その大義名分に設定したのが、ありもしない「地球温暖化対策」という欺瞞である。

これに、あろうことか日本政府与党・野党が「加担」して、日本政府ぐるみ、という格好ができてきた。
まさに「存亡の危機」なのだ。
だから、与党でもより「保守」と組まざるを得なくなったとかんがえる。
本来に「回帰」しているといえるのだ。

すると、会社側が、オリンピックにおける「広告の停止」を発表した意味も見えてくる。
そして、これがどうやら、「日本国内だけ」ということらしい。
つまり、海外では、「オリンピックとセットに」広告展開するということだ。
日本のマスメディアが、オリンピックへのネガティブ・キャンペーンをやった成果となったから「皮肉」なものだ。

「広告」を出す意義は何か?という原点に「回帰」したのである。

しかして、いまやわが国経済を支えるトヨタ自動車の広告撤退は、横並びがだいすきな財界のみなさんに波及してしまうという「効果」まで生んだ。
それでトヨタ社長が「開会式欠席」を表明したら、こぞって「欠席」を告げている。
これはこれで、「無観客」を主張したひとへの当てつけにちがいない。

クルマを買ってくれるお客様たる一般人が入場拒否される開会式に、どうして自分たちが出席できるものか。
これぞ、「商魂」というものだ。
願わくば、国民統合の象徴の御方にも欠席を願いたいものである。
国民がいない場に、出る筋合いはございません、と。

そんなわけで、トヨタ自動車が、日本的精神の最後の砦にもなっている。
この際だから、次の選挙では、トヨタ労使がそれぞれに支社と支部から立候補してくれないものか。
日本に必要のなくなった、自民党をはじめとした政党からの立候補者を「掃討」するのに相応しい。

人格破綻者へのイジメのこれから

「ミュージシャン」で人格破綻者といえば、リヒャルト・ワーグナーを第一人者と呼ぶべきだろう。
しかし、彼の天才は、「作曲」に発揮されて、ピアノが弾けなくとも「絶対音感」によって数々の大曲をつくるばかりか、その多くが「傑作」なのであった。

劇場から劇団・オーケストラに入れあげた皇帝が、とうとう国家財政を破綻させるに至ったのも、ワーグナーの「魔性」がそうさせたにちがいない。
いまにつづく、夏の風物詩「バイロイト音楽祭」こそが、その名残である。

音楽界を支配したワーグナーとその一派は、反対派への攻撃に勤しんだけど、それはなにも「音楽界」に留めていたわけでもないのは、国家の破綻が示すとおりだ。
とりあえず、音楽界における「被害者」の筆頭は、グスタフ・マーラーだろう。

ユダヤを毛嫌いしていたワーグナー夫妻は、ユダヤ人青年の才能を知っていながらも、いじめ抜いて、悩んだ挙げ句にとうとうキリスト教(カソリック)へ改宗したけど、まだ許さなかった。
「元ユダヤ野郎」というわけだ。

それ故に、マーラーの壮大な交響曲が奏でる「厭世観」の起源を探りたくなるのは、当然だろう。

ワーグナーが亡くなってから生まれた、アドルフ・ヒトラーは、はなからワーグナーの楽曲が大好きだった。
それで、自ら皇帝を気取ってもいた。

おなじ「アドルフ」のフルトヴェングラーは、プロパガンダの天才ゲッペルスが企画した、ヒトラー誕生日演奏会で、ベートーヴェンの『第九』をベルリンフィルで演奏し、音楽に陶酔した指揮者の才能は、「歴史的名演」という「不名誉」を演じてしまった。

この模様は、ネット動画にあるから、ご覧になった方もいるだろう。
どうして、ヒトラー誕生日演奏会で、こんな名演奏をしちゃったの?
このひとは、「舞台」だけが「世界」だったからだろう。
世俗の余計なことを全部放棄して、没頭してしまう。

やっぱり一種の「人格破綻者」だったのかもしれない。
それで、フルトヴェングラーの『第九』といえば、「バイロイト」での「名演」も語り草になっている。
こちらは「録音」が、動画サイトにある。

四楽章最後のコーダの振りが速すぎて、名人ばかりの「バイロイト記念・オーケストラ」の弦があれよと「滑って」しまう。
けれども、終わってみれば野外会場にあって割れんばかりの拍手が記録されていて、その「ノリ」の興奮は現場にいないと経験できないものだったろう。

ナチスの政治宣伝に関与したとして、戦後のフルトヴェングラーの立ち位置は、「社会的制裁」となって返ってきたが、彼の「音楽家」の才能がやっぱり人々の心を癒やしたのであった。
それでもって、「ドイツの良心」ともいわれた。

指揮者という職業に「だけ」徹底的に忠実であったことが、理解を得たのである。
依頼者が誰であろうが、やるからには最高を目指し、それを観客に提供すると決心しているのは、職業倫理の理想であると。

こないだ発覚した、オリンピックの開会式における「楽曲」をつくったひとのスキャンダルの「数々」は、自らが蒔いた種を自ら刈り取った形になった。
10代やら20代でやったことが、時間をかけて返ってきたが、悪びれずに語ってしまった(雑誌記事にもなった)のは、まさに傲慢から生まれる「心の隙間」であろう。

わたしは、このひとの名前も楽曲も聴いたことがないけれど、才能あってのことだろうから、それだけは惜しいと思う。

こんどは、社会的制裁を受ける立場になったのは、やったことの裏返しだから仕方がない。
それが、「倍返し」以上になるのは、本人の知名度に比例する。
さすれば、知名度が上がった本人には、過去の「些事」であったにちがいないのだ。

でも、ワーグナーやヒトラーに到底及ばない「支配度」だから、こんどは遠慮も忖度もない、「完膚なきイジメ」が社会的にやってくる。
「ホリエモン」がツイートしたように、もう二度と彼や彼の曲が世間に出て来ることはないだろう。

その意味で、このひとは、社会的に抹殺された。
そして、社会的に抹殺することを「正義」とするのが日本社会なのである。

さてそこで、わたしが気になることが一つある。
それは、抹殺のやり方が「組織的」だということだ。
このことは、組織的に不買運動が起きるという意味ではなく、放送や音楽業界のなかの企業組織が率先して抹殺するという意味をいいたい。

つまり、「それでも」才能を認めているひとたちが「欲しい」と思っても、市場にない、ということを指摘したいのだ。
「選択の自由を許さない」という対応が気になるのである。

そうかと思えば、今度は「いとこ」が出した「擁護らしき」ツイッターが炎上し、よせばいいのに「謝罪」して「削除」したら「アカウント閉鎖」までした。ネットで「やってはいけないこと」を連発したから、その無知か慌てぶりが「凄い」という評価になった。

おそらく、上述のような「正義」についての疑問を言いたかったのだろう。

こちらさまは誰かといえば、やっぱり「音楽プロデューサー」というけど、わたしの世代なら『コメットさん』の九重佑三子と歌手の田辺靖雄の長男だった。
お父さんにそっくりなのでピンときた。

彼は、肉料理のアドバイザーもやっていて、なんとコラボで製品を出した老舗の醤油メーカーが、サッサと「謝罪」を表明して、まっ先に逃げた。
いとこまで巻きこんだのは、単なるおまけか?それとも?
こちらも、今後「社会的制裁」が起きるだろうから、一族の問題に発展しそうだ。

話を戻す。
本人がやった許しがたいことと、同じ本人がやった作曲とがぶつかり合ったとき、発信媒体がこれを元から差し止めるやり方は「正義」なのか?
そんな問題があるのではないか。
でなければ、ワーグナーはおろか、フルトヴェングラーすら聴くことができなくなる。

本人はこれから何をもって生きていくのか?
国内ではおそらく、別の仕事をするしかない。
ならば、海外ならありか?
ワーグナーもフルトヴェングラーも認める世界である。

これから、が興味深い。