社会の複雑さがわからない

クラッシック音楽の世界では、ブラームスこそ一音一音を大切にした作曲家である、と評されることがあった。
発表済みの曲を、なんども手直ししたことがふつうにあったからだろうが,「鳴る音」と「鳴らない音」を彼は区別する、というはなしに感心したものだ。

鳴らない音を選び出す。
彼の手直しとは、そういう作業だったという。
ブラームスといえば、「重厚長大」なドイツ音楽の代名詞で、宿命のライバルはワーグナーだった。
まさに「重厚にして長大なる音楽」の競合だったのだ。

むかし、十代で読むべき図書として、フランソワーズ・サガンの『ブラームスはお好き』があった。
日本人の十代にはちょっと早すぎた感があるし、当時の時代としてもかなり早っかったかもしれない。

ませた中学の同級生の女の子が読んでいた。
ヘルマン・ヘッセの『車輪の下』を十代で読みそこなうと、もうチャンスはないだろうが、いまなら、サガンを男性管理職が読んでいいのかもしれない。
日本人の洋風化は、なにも食文化だけではない。

 

英米に対するアンチテーゼとしてのフランスは、どうにも遠い国である。
バタ臭いフレンチに「食傷気味」になったら、消化剤として小津映画を観れば、ポップな現代日本はどこからきたのか?と、かんがえることになる。
その「かんがえること」が、解毒剤だ。

日本で、ドイツ音楽がクラッシックの中心にあるのは、輸入した「いきさつ」からだ。
フランスの音楽や、イタリア音楽がほとんど紹介されていないから、その他は推して知るべしで、ヨーロッパの多様性について、われわれは無頓着なことがある。

そのフランスで、大規模デモが暴動化し、マクロン政権を窮地においこんでいる。
歴史上まさかの相棒になったドイツでも、メルケル首相の任期がきまって、EUを引っぱった独仏が、フラフラしはじめた。
ヨーロッパ中央銀行が、ヨーロッパの多様性を無視したところに原因があるが、その銀行の統制を強化したのが独仏だったから、これを嫌った英国が離脱する。

ウクライナにちょっかいをだすロシアと、迷走のトルコが、東ヨーロッパに、むかしの緊張をつくっている。
かつてスターリンに好きにされた東ヨーロッパは、プーチンをスターリンの再来とおそれている。

ブルガリアの首都、ソフィアの空港は、半分がルフトハンザ、半分がターキッシュ・エアーのターミナルになっていて、まるで「てんびん」のようなバランスがみてとれる。
オスマントルコの残虐と、ナチスドイツの残虐に、ソ連圏の悲惨が3重唱をかなでる地域であった。
自国、ブルガリア航空の飛行機すら、身を縮めているようだ。

ことしは第一次大戦終結100年の式典まであったが、生活感からも、バルカン半島のぐちゃぐちゃは、よくぞソ連が力でまとめた、ということか、隣国同士はあいかわらず親密ではない。

この複雑なヨーロッパのなかで、いまでも「ロマ」(かつて「ジプシー」と呼ばれた)のひとたちが暮らしている。
これに難民と移民がくわわって、なんだかわからなくなった。

ふだんは「反グローバル」なのに、「ふつうの国になりたい」とおもったのか、すでに問題が顕在化していることを無視して、わが国も「正式」に移民を受け入れることに決めた。

独身で十年したら帰国させるから、移民ではない、という詭弁をいってはばからないのは、かつての高貴な日本人ではなくなった証拠である。
ほんとうに「帰れ」とやったら、移民の外国人たちが大規模デモを繰り広げるにちがいなく、特定の「本国」は、「奴隷化」していると反日キャンペーンをこれみよがしに大宣伝するだろう。

アメリカ南北戦争で、奴隷労働をさきにやめた北部が、経済力で南部を圧倒したのは、高い賃金の労働力にみあった価値を生み出す努力をしたからだ。
わが国は卑しい国柄になって、安い賃金でしか生き残れない経済を、なんとか維持しようと努力する国になってしまった。

目標が小さすぎるのではなくて、目的とする方向がまちがっている。
ついでに、安倍政権に反対する元全共闘世代のひとたちも、あいかわらず批判する方向がまちがっているから、結局は政権を擁護する役をはたしている。

まさに「55年体制」を変えられないでいるから、若者は愚か者たちと評価し尊敬しないのだ。
団塊世代がいなくなって、選挙で老人優先をいわなくてよくなれば、「敬老の日」が廃止になるのではないかとおもうが、原因はこうしたことだ。
このひとたちは、じぶんがいなくなった世界のことに責任をもつかんがえを微塵ももっておらず、とにかくじぶんさえよければそれでいいのである。

ヨーロッパでは、恐怖のロシア(おそろしあ)がいるから、EUよりも頼りはNATOである。
日本周辺の国々が、へんな行動をいろいろするから、かえって日米同盟が強固になるのに似ている。なぜかロシアは日本周辺であばれていない。
北半球の北極を中心にした地図が日常遣いならいいのだが、そんなものはめったにないから「地球儀」をみてかんがえるのがもっともよい。

話題のおおい国と、そうでない国を区別してみるようにすると、情報のバラツキもみえてくるだろう。
多様な場所に多様なひとたちが生きていることがわかればよい。

そうかんがえると、日本はちいさい国だとおもったらぜんぜんちがう。
ずいぶん前に話題になった世界地図のサイト は、やはり有用だ。
これで、日本列島をドラッグしてさまざまな場所に移動させれば、ただしい縮尺で日本のおおきさがわかる。
ヨーロッパ大陸に移動させると、じつは日本列島はばかでかい。

残念なのは、経済水域の表示機能がないことだ。
わが国は、海をふくめると世界6位の面積の国になる。

このあんがい大きな面積の島に、1億人をこえる人間がすんでいる。
あたりまえだが、この瞬間瞬間を、1億とおりの人生の時間がすぎているのだ。
生まれてこの方、このことをちゃんと意識しない幸福なひとが高級役人にたくさんいる。
小説以上に複雑な人生は、現実にはいくらでもあるのにだ。

その高級役人のやりたいことを、審議会というなかば買収された「学識経験者」がアリバイづくりに加担して、多方面から検討したことにする。
このパターンをかんがえだした役人は、かなり優秀だ。

そして、法律の下位にある施行令や施行規則、それに省令など、国会の承認を要しない命令がたくさんあって、「通達」という書類でも命令できるようになっている。
国会議員の数がおおければ民主主義が機能するというのは間違いである。

議員活動を支援する、国会職員の職務がないことが、行政側の役人天国をつくっている。
おどろくことに、国会事務局の専門的な職務には、行政官である官僚が各省庁から国会に「出向」しているから、「お里」に忠実な立法府になっている。
つまり、立法府の機能不全は、議員の質だけではなく、事務局にもおよんでいるのだ。

なるほど、分立しているはずの立法府と行政府だが、優秀な学生が国会職員になったというはなしを寡聞にして聴かない。
「国家公務員」といういいかたをやめて、「国家行政府職員」とすれば、「国会職員」とちゃんと区別できる。

国会側も「立法府職員」として「衆議院事務局」「参議院事務局」としたほうがいい。
裁判所は、とっくに「裁判所職員」とか「裁判所事務官」といって「お里」を特定している。
来年の参議院選挙で、だれかいわないものか?

消費税が3%から5%になる前に、適用する基準売上高を役人の通達でかってに「下げた」。
事実上の「大増税」であったが、あれだけ「反対」した当時の野党は、無反応というおどろくべき「なにもしない」をやりとげた。
ブラームスの意図的な「無音」は、意志の表明であることがわかる事例だ。

これは、マスコミ大新聞もおなじである。
新聞社は消費税の適用除外という特権をあたえられているから、本気でお国にさからえない。
日本の大新聞社は、特権的に国有地の払い下げをうけているのに、大阪の小学校は「不審」としつこく言い張るのは、じぶんたちのことを隠蔽しようという活動ではないのか?

まことに世の中は複雑である。
これを単純化するのは学問ではゆるされても、政策ではこまる。
来年のイベントカレンダーはもうできている。
これが、「ニュースになる」ので、新聞がおもしろくない。

フランス革命では、フランス人は「フリジア帽」という赤い帽子をかぶっていた。
ドラクロワが「自由の女神」(マリアンヌ)を描いた絵画が有名だ。
いまのデモ隊は、「イエローベスト」を着ている。
フリジア帽もイエローベストも、日本では入手困難である。
どちらか流行にならないかと期待しているのだが。

さてさて、さまざまなひとのさまざまな大晦日が、全員にきっちりあたえられて、確実にあしたは新年になる。
ことしもお疲れさまでした。

「会社法」には目的の明記がない

社外取締役を「義務」化する、という会社法改正案が発表された。

その会社法にも、前身の商法にも、法の目的の記述がなく、第1条に「趣旨」、とある。
念のため、下記がその条文である。

「会社の設立、組織、運営及び管理については、他の法律に特別の定めがある場合を除くほか、この法律の定めるところによる。」

だから、会社のことは「会社法」でただしい。
しかし、会社にはいわゆる「ステークホルダー」と呼ぶ「関係者」が多数いて、その立場はそれぞれことなる。

所有者であって投資家でもある株主、経営者である取締役や執行役員、それを監査する監査役や監査人、社内ではたらく従業員も正社員や非正規のひとがいて、仕入れの取引先、そして、唯一利用してお金を支払ってくれる購買客などのことをいう。
それぞれの立場がちがうから、それぞれの「利害」がちがうのは当然でもある。

今回の「改正」の主旨はなにか?
たびかさなる企業不祥事、ということだろう。
しかしこれは、前回平成26年の改正(施行は翌年)で「監査役会」の設置がされたから、さらなる積み重ねになる。
すなわち、「屋上屋を架す」になっている。

監査役会と監査役が、不正をただす監視ができないのはなぜか?
頻繁には開催されない取締役会に「しか」出席しない、社外取締役に、いったいなにができるのか?
「社外」ではない、社内の取締役の立場からすれば、いかに「通す」か?だけに興味がうつらないのか?

数々の基本的な疑問に、法制審議会の会社法制部会はこたえているとはおもえない。
部会メンバーは、ぱっと見ご立派な肩書きがならんでいるが、ビジネス経験者が少数派になっていることが注目にあたいするし、行政官僚自身がメンバーになっている。

おそらく、深遠なる「法学論」が語られたことだろう。
社外取締役が義務化されたり、人数がふえると、不祥事は減る、という法則は成り立つのか?
これは、因果関係のことである。
監査役をふやせば不祥事は減る、という法則が法理論的に当然とかんがえたのが、おおハズレした。

原「因」から結「果」になるから、「因果」関係というのは、小学校の国語で「5」を当然とした彼らにはあたりまえすぎるのだろうが、知識としてしっているだけで、実務としてしっているわけではない。

学校を卒業して、大学院から大学教授になったひとも、もっと優秀な成績で官僚になったひとも、傲慢こそが売りだから、職場で「因果関係」をかんがえる経験はないだろう。
その反省が微塵もないのが、学識経験者の学識であるし、無能な官僚の思考パターンである。

たとえば、文部科学省という学校の成績と国家公務員試験の成績が一番悪いほうからかぞえるひとが入省するということが慣例になっている役所が、小学生にむかって「あさごはんを食べると成績がよくなる」から、「あさごはんを食べよう」というキャンペーンをやった。
統計をとったら、成績のよい子はあさごはんを食べていたからである。

これはふつう「相関関係」といって、成績のよい子の特性を説明するのにはよいが、けっして「因果関係」ではないから、統計学の教科書ではやってはいけないと特筆注意されることである。
成績が悪かった官僚だから間違えたのではなく、成績のもっとよい官僚は、よりもっともらしい「相関関係」を「因果関係」と強弁してはばからない。

それが、本件の会社法改正案になっている。

目的のない法律が、目的が不明の条文をかんがえだす。
ステークホルダーという主語をわすれて、会社のことをぜんぶ決めようとするからこうなる。
たくさんの「主語」があるから、その主語ごとに決めごとをつくらなければ、誰のなにが対象なのかわからなくなる。

それで、監査役がダメなら社外取締役ということになったのだろう。
すると、この法律は、論理的に破たんしている。
小学生の作文なら、先生に主語をちゃんとかきなさない、と添削されることまちがいない。
「法律」のまえに、「文学」としても成立していない。

ダメな取締役を選んで、その結果、会社がダメになったら損は株主が負うことになっている。
このひとなら大丈夫、という情報を、株主はどうやって得ることができるのか?
残念だが、そんなものはないだろう。

であれば、取締役には、在任中と退任後も何年間か、大量の自社株式を購入・保持させればよい。
売買禁止期間は、新入社員にも責任をある意味で退任後30年ほどが望ましい。
それが、経営者の経営責任なのだ。

これが、因果応報をもって縛る方法である。
かつて社長として東芝再建にあたった土光敏夫氏は、紙切れ同然にまでなった東芝株を大量定期購入していた。
みずからの決心と覚悟である。

それで、退任後、株価は数倍の価値をつけたから、はからずも大資産を保有した。
さいきんの自動車会社や官製ファンドの高額報酬が、世間のやっかみを受けているが、土光氏はやっかまれたどころか尊敬された。

経済にはちゃんと「経済原則」がはたらくようにする。
これこそが、要諦なのである。

さて、本日、2018年12月30日0時から、「TPP」が発効した。
あたらしい経済の時代のお正月である。

「産業優先」が国是の国柄

こういう国なのだから、しかたがない。
だったらちゃんと、「産業優先」であるといってほしいものだが、それも「あうん」の呼吸でわかるだろう?とにやついた笑顔で返されそうだ。
「空気を読め」と。

しかし、そうはいっても、いわれてみないと気がつかないひとはおおい。
「産業優先」のなにがわるい?と開きなおるひともいるだろう。
自分たちが食べていけるのも、会社あってこそのこと。
だから、会社が優先されるのは、当然だし、それこそが効率のよい経済をつくるのだ、と。

昭和の時代はそうだった。
平成の時代は、なんか変だ?と気がついたが、なにが変だかわからずに終わろうとしている。
つぎの時代の、どのへんで気づくのか?あるいは気づかないまま、またつぎの時代を迎えるのか?

「産業優先」が国是の国だから、国家行政の官庁も、「ほぼ」産業優先をむねとしている。
「ほぼ」というのは、消費者庁という「異端」が存在するからである。
これに、資本主義の擁護者「公正取引委員会」がある。
消費者庁ができたのは、2009年のことだから、まだ十年たっていない。

その消費者庁が、日産の燃料不正表示を「景表法」で取り締まり、課徴金をとろうとしたら、産業優先の「総務省」の第三者機関「行政不服審査会」が、厳しすぎるといいだした。
それで、消費者庁が折れた、というはなしである。

「行政不服審査会」の発想は、企業への「公平さ」重視だ。
なんのための、誰のための「不正」だったかにさかのぼれば、自分たちのためであって、消費者のために不正をしたのではない。
その「不正」を「公平さ」で審査する、というから、どうかしている。

企業論理が優先されると、消費者がきらって買わなくなることもある。
産業泰明期のむかしや、ソ連圏なら、一品種一社しかないので、消費者は選択ができなかった。
それで、競争がうまれるか、競争を否定した経済圏では、物がなくなった。
だから、公正取引委員会が、資本主義の擁護者となる。

それを、商品「表示」という分野で見張っているのが消費者庁だ。
どんな事情が企業側にあっても、消費者が「不正な表示」をみて購入したなら、それは「不公正」なことである。
「行政不服審査会」のメンバーは、自分で買い物をしたことがないひとたちではないか?

企業には「厳しすぎる」けれども、それを克服してこその企業活動であって、それこそが「競争」に勝つための原動力ではないか?
もはやとっくに、外国企業との競争をしているのに、国内だけで解決できるとかんがえるのは噴飯物である。
これを「時代錯誤」というのだ。

さいきんのホリエモンこと堀江貴文氏の発言に、「日本政府に税金払うよりアマゾンに払ったほうが生活豊かになる」とあったが、まさにそのとおり。
日本国政府の税収と、日本国民の生活感が乖離している。

政府の税収がふえても、日本国民が豊かさを実感することができないのは、すべてに「公平さ」を追求しようとする、官僚の思考、そのものが原因だ。
ソ連の官僚の努力が、そのまま日本官僚の努力になっている。
「平成時代」とは、ソ連型経済を維持し、崩壊へとすすむ道筋を確固とさせた時代である。

アマゾンが日本国に税金を支払わないことは、もはや国民にとって重要ではなくなった。
むしろ、アマゾンが米国本国や日本以外の国でおこなっているサービスが、わが国のさまざまな規制(もちろん既得権益)にさまたげられて、実行されないことが、日本人を不幸にしている。

たとえば、書籍販売というかれらの「本業」から派生した、電子書籍のダウンロードに「家族登録」が日本ではできない。
実物の書籍であれば、一家で回し読み、はあたりまえなのに、電子媒体となるとそれが規制されるのは、まったく消費者の事情からは不公平である。

友人との本の貸し借りも電子書籍ではできない。
しかし、期限を設けるとか、貸し出したらデータも移転するなりして、貸した側の閲覧ができなくなるなどの「電子的処置」が可能であれば、本物の本なら返却されないというリスクも、電子版ならないだろうから、便利このうえないはずだ。

出版不況の深刻さは、著作権が保護されすぎている、ということにも原因があるのではないか?
「本を読む習慣」すらうしなえば、販売という問題だけではすまされない。
その道の利権擁護に官僚ががんばると、きしんでしまう典型だ。
著作権益はちいさなお金ではないが、もっと大きなお金をうむはなしを自ら放棄していないか?

口では「電子立国」とか、「観光立国」とか、かっこいいことをいうが、実態は「既得権益『保護』」ということしかしないから、いつまでたっても経済はよくならない。
データをはやく転送できる技術「だけ」をもって「電子立国」というから、メモリー事業で失敗するのだ。

この国からデータのつかいかた、利用方法に画期がうせたのは、消費者優先という思想の欠如があまりにもおおきい。
すべての産品は、最終的に消費者が消費する、というあたりまえを忘れたすがただ。

「産業優先」こそが元凶であると、野党に期待したいが、かれらの面々を想像するだに希望がなくなる。
あと数日の今年にはムリでも、せめて来年は話題にだけでもなってほしいものである。

年末の山梨県で世の末をみる

「停滞から前進」と大書してある幟旗が、県境をこえてから目についた。
場所によっては、お祭りの「祭礼」のちょうちんのようにバタバタと連続してならんではためいているから、何事かとおもった。
とうとうやるべき公共事業のアイデアがつきて、旗屋に大量の注文がはいったのかといぶかった。
産業連関的に、いかなる経済効果が計算できるのだろうか?と。

調べてみたら、山梨県知事選が来年1月に告示されるので、すでに事実上の選挙戦に突入しているのだという。
わたしの住む神奈川県は、太陽光発電を一大推進すると公約して当選した知事が、選挙中にも指摘されていた「財源は?」の問いに、当選後「無い袖は振れぬ」とあっさり撤回して呆れたものだったが、なんと「再選」もされたから、一般市民の感覚とはちがうひとたちがたくさんいるとしかおもえない。

他県のことだから、どうぞお好きなひとをお選びください、というのが筋ではあろうが、便利なネットでの記事で、あんがい他県だから関係ないとはいえないことを主張されている。
それは、元職の衆議院議員であった与党の候補者が、まさに人脈を駆使して、我こそが国の予算を県に引っ張る、と意気込んでいるのである。

国の予算は、枠が決まっている。
だから、これは「ゼロサム」であるから、だれかが多くを得れば、だれかの分がすくなくなる。
「分捕り合戦」といえばそのとおり。
さすがは戦国武将を産んだ土地柄だ。
つまり、他県のわたしにも影響する「公約」なのである。

このような主張が、新しいのか古いのかは別にして、頼るべきは国家のカネしかない、と思い詰めているところに何ともいえない悲壮感が、武田家滅亡とかさなる。
「国家依存」を前面に政策公約としているから、より悲劇的である。

政権が鳴り物入りではじめた各種「官民ファンド」のおおくが行き詰まっていて、ついこのあいだも「2兆円の巨大資金をもつ」組織が、空中分解してしまったのは、まさに、国家や官僚という役人には「不適」ということの、教科書通りの事例になったのだが、そんなことは「関係なく」、自分が国のカネを持ち込んで、県庁の役人による「公平」な分配をすれば、山梨県はうまくいく、と発想している。

人口で島根県にまさる山梨県が、金額で50億円もすくないカネしか国からもらっていないから、山梨県民は「損をしている」というのは、神奈川県民のわたしには、失礼だが盗賊以下の「乞食」にみえる。
聴衆に卑しい感情をうめこんで、島根を恨めとせまる、たんなる「アジ演説」ではないか?

「甲州商人」といえば、近代日本の産業界にあっては「重鎮」としての位置にあった。
鉄道や百貨店などの創業者に名を残している。
しかし、不思議と彼らは、地元に産業を産まなかった。
それは、なぜかの探求が、山梨の貧しさ、だけに終始した、浅い認識ではないのか?

明治の甲州商人の成功は、明治という時代が背景にあることが軽視されているとかんがえるからだ。
とてつもなく貧しかった時代に、とてつもない成功をおさめた理由だ。
それは、本人の商才だけでなく、自由な活動を基盤としているのである。
だから、いまの甲州商人は、いまという時代から活動そのものを再構築しなければならない。
これは、場所をとわない、どこでもおなじことだ。

すると、国のカネを得ればうまくいく、という「官」の発想ではけっしてうまくいかないことがわかる。
むしろ、ヒントは「制度」にこそあるのではないか?

この国の不思議な制度に「経済特区」というものがある。
言い出しっぺは、「トウ小平」すなわち、中国共産党のトップがやった方策を、日本に輸入したものだ。
つまり、この国の統制は、共産政権下のものとおなじだから、改革の手段として「全国均一な統制の『例外』」である「特区」が有効になる。

なんのことはない、我が国の制度から独立した「自由『圏』」を「自由『県』」にすればよい。
霞ヶ関からの統制をはずせば、たちまちに「前進」するにちがいない。
ここに発想がいかないことが、与党をして悲壮感をまき散らす原因だ。

まずは、金融。
首都圏からすら東京23区周辺に流入している若者を、逆流させるには、起業のための資金提供がなければならない。
カネを持っているはずのない若い起業家に、不動産担保をもとめる金融庁から切り離す。
誘致すべきは、「事業の目利き」ができる人材で、日本の銀行では育成の方法がないから、外国の銀行家である。

しかし、金融庁の支配がなくなれば、山梨県内の金融機関が、わざわざ県庁の役人に命じられることもなく、外国の銀行家(日本人でも)を雇用すれば儲かることに気づくから、心配しなくてよい。
おとなりの静岡でやった銀行の不祥事など、起こりようがないのだ。

「停滞から前進」したいなら、このくらいのことをいってほしいものだ。
このままなら、「停滞から衰退」するのは確実であろう。
それは、もうとっくに全国の自治体が国のカネを狙っているからで、なにもこの人物「だけ」の特殊能力ではあるまい。
それを「特殊能力」だと、与党が挙げて主張するから、「世の末」なのである。

かつて、地方交付税を「受け取らない」ことが、地域の自慢であった。
もはや、乞食の精神が国民精神になってしまった。

飢えたタコはおのれの脚を喰らって生きのびようとするが、そうなったら「おしまい」なのである。

そもそもの原因が変だ

他人を悪い結果の原因に仕立てあげれば、ほんとうの原因が隠されるから、それにかかわる責任が回避できる。
うまくいけば、原因とされた本人までが自分が原因だったと思い込んでくれるので、一種の「完全犯罪」ができあがる。

これは、企業組織での「問題解決」の基本的な訓練の有無による結果でもある。
すなわち、「なぜ?」を繰り返すことができるか?ということだ。
「問題解決」の組織的名人たちは、トヨタ生産方式によって訓練されている。
「トヨタ式」では、「なぜ?」を「五回」繰り返すようにしている.

一般的にベストセラーになったのは、ポリア『いかにして問題をとくか』(1975年)だろう。

だから、ニュースにおいても、読んだり聴いたりしたことを鵜呑みにするのではなくて、興味のある話題のひとつでもいいから、「なぜ?」を繰り返してみるようにすると、あんがい「ニュース」での解説や説明が、いい加減だったり、めちゃくちゃ加減に気づくようになる。

これが、自分でかんがえる、という人間がほんらい持っている能力であって、この能力者があつまってはじめて「民主主義」というものが成立する。
そうではなくて、楽ちんな鵜呑みばかりで事足りるとするひとがたちが多数を占めれば、民主主義の名の下に「全体主義」がうまれることは、たかだが100年前の歴史が証明済みだ。

そんなことをかんがえながら、さいきんのニュースをいくつか拾うと、完全犯罪がみえてくる事例がある。
札幌でのガス爆発事故だ。

不動産屋が管理する部屋に、入退去の際に消臭剤を撒くことをしないでいた。
それでも消臭剤の購入だけはやっていた。
買って納品された消臭剤をつかわないのだから、在庫はふえる。
それで、じぶんの店舗改装で、店内にある大量の消臭剤の在庫を処分しようと、これを散布したら、爆発した、という事件である。

悪いのは誰だ?
消臭剤を撒くはずが、それをやっていなかったのが、問題なのだ。
しかも、不動産屋は撒いたことにして、顧客からその料金をせしめていた。
だから、物件を吹き飛ばしてしまった不動産屋が謝罪した。

一見して、だれがみても悪いのは不動産屋である。
しかし、ほんとうにそうなのか?
物理的な原因である「スプレー缶」に注目すると、「可燃性ガス」と表示はされていただろう。
2002年に、わが国では「フロン回収・破壊法」ができてから、スプレー缶に不燃性だったフロンガスは使用できなくなっている。

オゾン層破壊と温暖化防止が、法の趣旨で、2015年に「フロン排出抑制法」ができた。

ここで重要なのは、スプレー缶のガスが「可燃性」で、しかも、おおくは「LPガス」がつかわれていることにかんする「啓蒙活動」がないことだ。
啓蒙の方向が、オゾン層破壊と地球温暖化防止になっていて、利用者にとっての危険性の啓蒙はしていない。

「環境保護」という政治目的を司る環境省、「業界保護」という産業優先目的を司る経産省のそれぞれの「立場」から、国民生活を見る目は、まったくない、のは趣旨に忠実なら非難されることではない。
縦割りの常識からすれば、国民生活センターや総務省消防庁が「やるべき」ことなのだろう。
だから、環境省の役人も経産省の役人も、なにもしない、ということが「正義」になる。

そういうわけで、国民のための政府が国民から乖離すると、こうなる、という典型事例なのである。
被害者は常に国民であって、加害者は「存在しない」という建て付けになっている。

それで、室内に大量にスプレーを放出することは、消臭剤の散布という意味のほかに「LPガス」の散布ということだということが、おそらくやった本人が意識していなかったこと、になる。

警察は、どうしてかくも大量のスプレー缶が在庫されたかを調べているという。
それは、爆発させるためではなく、インチキをしていたからだが、危険性の認知という点ではたして立件できるのか?
けが人が出ているから、過失傷害しか問えないのではないかと想像する。

「過失」とは、「LPガス」だということをしらなかったという意味だ。
国民に啓蒙しなかった、という国家の役所による未必の故意を、国家権力である警察が問うことをするはずがない。
悪いのは、「可燃性」と赤い文字で大書してある注意書きを読まなかった、というわけだ。

もう一つの事件は、韓国艦艇による自衛隊機への火器レーダー照射だ。
報道では、米軍なら、といういいかたで、ふつうの軍隊なら即座に照射された側からも反射的に攻撃するのが常識だから、韓国艦艇は撃沈されても文句はいえない、と解説している。

だから、自衛隊機は被害者ではあるが、攻撃をとどめてあげたのだから、ありがたいとおもえ、という意味になる。
このさい、相手がどの国かは関係なく、自衛隊機がどんな理由であれ攻撃として実弾を撃てるのか?という問題がかくされている。

つまり、この問題の本質は、日本国憲法にある。
それで、憲法改正というはなしがかならずでてくる。
わたしはむしろ、憲法第十三条と、憲法制定時と国際的な環境がかわったことを現実として、「事情変更の原則」をもって、第九条の無効、がもっとも合理的とかんがえる。

拉致事件しかり。

国民が憲法によって殺されたり、棄民の対象にされることを黙殺する政府こそ、不道徳のきわみである。

わが国の閉塞感の正体とは、このような「不道徳」が常識とされるようになったことだとだれもいわなくなったことだ、とおもう。

冬至祭りのクリスマスと第九

気の早い商店街だと、10月のおわり頃からジングルベルが放送されている。
11月でも早いから、どうしたのだろうとおもうことがある。

星や太陽の運行について、大むかしから観察しているひとがいるとはいうものの、冬至と夏至、春分と秋分によく気がついたものだ。
それに星座の不思議は格別で、どうしてオリオン座がオリオンの姿にみえたのか、まったくわからない。

子どものころ、プラネタリウムで、古代ギリシャ風の絵を重ねる説明があったが、ぜんぜん納得できなかった。
「何万光年」という単位をおそわって、頭の中が混乱するのは、立体的理解ではなく、平面的に終始するからで、オリオン座も立体的に星を配置してみたら、どんな格好をしているものなのだろうか?

向かって左上の赤色巨星、オリオンの絵図にしたら右肩にあたる一等星「ベテルギウス」が、いつ超新星爆発をしてもおかしくないという。
この星と地球の距離は、642光年というから、もしも今日、その爆発を観察できても、それは642年前の出来事である。

そういう意味で,タイムマシンとはこのような「物と事」ではないかとおもう。

星座占いでつかわれる、黄道十二宮の星座も、「むかしから」ということだけしかいまだにわかっておらず、いったい誰がいつからいいだしたのか、さっぱりわかっていない。
わからないから、神秘なのだといわれれば、そのとおりというしかない。

「神秘」とは、わからない「物や事」だといいきれば、世の中は神秘に満ちている。
地震や雷だって、いつ何処で発生するかといわれても、わからない。
そもそも、手にした一枚の紙を手放すと、どこに落ちるのかを予測することすら不可能である。
ひらひらと飛んでみせたり、そのまま落下したりするのをみることができるだけだ。

みることができない音楽も、「神秘」とされる曲はたくさんある。
世界の習慣にない日本独自の習慣になった、暮れの「第九演奏会」は、ベートーヴェンの最後の交響曲を指すが、一年のアカ落しのような感覚で演奏を聴けば、会場をあとにキンとした冬の空気と夜空の星で、「宇宙」を意識してしまう。

ベートーヴェンの物語では、個人的に傑作だとおもっているのは、ゲイリー・オールドマンがみごとに主演した「ベートーヴェン 不滅の恋」(1994年)がある。
このなかで、酔った父からの虐待をのがれる少年が、星空の夏の野を走り、沼に浸かって身をゆだねるシーンが、第九第Ⅳ楽章の有名な器楽フーガにのせてすばらしい映像美をみせてくれた。

 

左は復刻版DVD,右はVHS版である。
ちなみにこの映画のサントラ盤は、クラッシックのジャンルとして、当時の日本で異例のヒットになって、調子にのったレコード会社が「続」まで発売し、これも売れた。
ベートーヴェンの生涯作品の「入門に最適」との評価は当然で、サー・ゲオルク・ショルティ=ロンドン交響楽団による、オリジナル録音だった。

「第九と宇宙」は、「神秘」をつくりだしている。
ヨーロッパなら新年の祝賀とか、春から夏にかけての演奏が主流というが、近年、日本の風習である「年末」に演奏されて、好評だと聞く。

しかし、いわゆる欧米の「年末」といえば、クリスマスがドカンと存在している。
クリスマスがなかった日本では、新たな年を迎えることがなによりも重要だったが、それは、太陽信仰からやってきた。
元旦のご来光こそが、「神秘」だった。

ところで、第九の歌詞はシラー作である。
この歌詞にある、「神」とは「どの」神なのか?をかんがえたくなる。
ふつうは、キリスト教の「神」をいうのだろが、どうなのか?
シラーは、そんな「単純」な人物なのか?

ヨーロッパ近代は、キリスト教否定の歴史でもある。
その代表はニーチェ『アンチクリスト』だ。
キリスト教による「支配」とはなにか?
弱者と強者の関係は?

金融資本主義という意味不明な用語は横にしても、虚業の金融業が実業の産業界を支配し、自己崩壊した象徴がリーマンショック(2008年9月15日)だった。
この時代の「支配の構造」として、『マトリックス』が、1999年に第一作、『ダビンチコード』が小説として2003年、映画として2006年に世にでている。

 

2003年の『マトリックス リローデッド』で破壊された友軍「グノーシス号」のみじかいエピソードが、『ダビンチコード』で一体となった。
初期キリスト教「グノーシス派」のはなしである。

皆殺しになったから、実際のところがほとんど不明なままの「グノーシス派」の神とは、天地創造の神ではなく、その上に位置する「最上の神」だという。
「一神教」に対して、神が複数いて、しかも階層があるとは、たいへんな概念だ。

しかし、シラーの詩でいう「神」とは、もしやこちらの「最上位」の神のことではないか?
すると,第九が「人類」を歌いあげるとは、キリスト教徒だけが人間である、という支配の構造の否定を宣言している意味になる。

歴史的に存在が確認されていない「イエス・キリスト」という人物の実在は、たしかに信じるしかない。
その誕生日が、なぜかくも「冬至」に近いのか?
秋分いらい弱まった太陽のちからが復活をはじめる「冬至」は、きわめて重要な分岐点だ。

第九がこの時期に演奏されるのは、既存の「支配からの脱却」という意味もあるとおもう。
そうかんがえると、シラーもベートーヴェンも、じつは「革命歌」をつくっていた。
それは、フランス革命などという「ちっぽけな」ものではない、人類・宇宙の壮大なはなしなのだ。

格別な夜に格別な「第九」を、じっくり聴いて、来年こそはいい年になりますように。

難問は先送りする

受験問題のテクニックではなく、現実社会のことになると、みごとに社会「停滞」の原因となってくる。
ただし、その難問を誰が解くべきか?というべつの難問も用意されるものだから、二重にからみあった難問になるという特徴もある。

国が解決すべき難問なのか?、自分たちが解決すべき難問なのか?
民主的な社会では、まずは自分たちが解決すべきことという認識が、社会の共通かつ基盤の認識になっている。
だから、自分たちで積極的な議論をおこなうのが常である。

そうでない社会では、自分たちには関係なく、解くべきは国(他人)であると思考する。
旧ソ連がその典型で、それはまた支配者(党)がかんがえて命じる、という体制であったから、個人がなにかをかんがえて行動することは、逆に許されなかった。
結局のところ、これが原因でソ連は消滅したが、その後のロシアの停滞も、国民が自分たちで解決するという認識をもちにくい、こんどはマフィア社会におちてしまったことにある。

ソ連崩壊の10年前に、なぜ、どのようにしてソ連が崩壊するかを、論理で預言し、じっさいの歴史がその論理のとおりになった、おそるべき分析が、天才小室直樹の『ソビエト帝国の崩壊』であった。

それで、どんな想いでロシアのひとが生きているかを描いた、といったほうがよさそうな映画『オーケストラ』での「生活」表現が興味をひく。

そんなロシアでは、国を崩壊にみちびいたとして、ゴルバチョフ元共産党書記長・初代にして最後のソ連大統領の人気はいまだに最低で、東京にくれば地下鉄を愛用するほどの「凋落」ともいわれているが、真の共産主義者ならそれこそが理想的なのかもしれない。

じっさいに、かれに書記長の「順番」がまわってきたとき、いったいどうやればうまくいったのか?
残念だが、だれもこたえをしらない難問だ。

直接選挙でえらばれた最初の大統領、エリツィンは、自由化さえすればうまくいくと信じたし、アメリカから大挙してやってきた経済顧問団が「指導」したが、ぜんぜんうまくいかず、国営企業の私物化からはじまるマフィア経済が主流の国になった。
国民がなんと、「自由」をしらなかったし、自由があたりまえのアメリカ人たちも、「自由化」の方法をしらなかった。

日露戦争でロシア革命をてつだったわが国は、情報戦のはずだったが、大正デモクラシーで、革命思想がたっぷり流入し、世界大恐慌とそれにつづく昭和恐慌で、スターリンの五ヵ年計画の成功(ほんとうはウソだった)に刺戟され、これをまねればうまくいくと信じた。
市井の社会主義・共産主義者は弾圧されたが、国家中枢の社会主義は推進された。
それがとうとう、「企画院事件」として世人を驚嘆させたのだった。

そんなわけで、わが国は「世界でもっとも成功した社会主義・統制経済体制モデル」になった。
わが国官僚を育てるための教育は、小学校からはじまり、大学受験でピークをむかえる。
だから、官吏養成校としての「大学」(旧帝大)には予算がつくが、それ以外の大学は重視されない。
「緻密」な日本官僚は世界最強で、荒っぽいロシア人や中国人にはまねができない。

しかし、官僚体制の弱点は、組織防衛、という一点にある。
とにかくいつまでも、いい子でいたい。
それで、外部からの批判に敏感になって、組織を維持するためなら、なりふり構わない。
こうして、国民のために存在するという目的合理性を完全喪失しても、痛くもかゆくもない精神がきたえられるのだ。

それが官民ファンドの不祥事になったりするのだが、これは被害がみえにくい。
これから、民間企業がひどいめにあうだろうと想像できるのは、障がい者雇用にかんする「官」の「不正批判」からみをまもるため、自分たちがよければそれでよい、とする軽度障がい者の争奪だろう。
正確とはおもえないが、その数、8,000人という。

すなわち、民間企業に勤めるひとをその会社から剥がして、「公務員」という身分をあたえる。
こうして、官がインチキした「雇用義務」を糊塗するにちがいない。
たとえ「軽度」でも、障がい者を雇用したことがない「官」は、厚顔無恥にも「民間の知恵」と称して、子飼いのボランティア団体とかに、はたらきやすい職場づくりのアドバイスをもとめるだろう。

引き剥がされた民間企業には、「雇用義務」が達成されていないとして、罰則のムチがやってくる。
「軽度」のひとで、職をもとめる数がどのくらいなのか?なんて関係ない。
とにかく、役所勤務にさせればよい。

こうして、触手の対象にならないひとたちが、置いてきぼりをくわされながら、民間の責任に追い込むことになるはずだ。

おそロシヤ、おそロシヤ。

愛社精神はあるのだけれど

ひとの精神がおちつくのは,「帰属意識」があるときで,なかでも自分が「役に立っている」と自覚できると,おおきな満足感をえるようになっている.
これは、太古のむかしからの集団生活で,狩猟であろうが農耕であろうが,グループで行動しないと収穫がすくないことからのDNAがあるのではないか.

それは,犬もおなじで,グループで狩りをして,そのための役割分担がきまっている.
それが,集団内の順位にもなっている.
グループから追放された犬には,死がまっている.
一匹では,狩りができないからだ.

犬と人間の良好な関係は,このあたりの類似にもあるのだとかんがえられている.
ただし,犬には人間にない能力が幸いし,人間は犬以上に高度な能力がそなわっているために,かえって不幸になることがある.
それは,順位にかんする「意識」だ.

犬の世界は,一度順位がきまると一生かわらないほどに厳格なぶん,最下位になっても「精神的負担がない」,つまり,自分のひくい順位をなげくための脳細胞がない.
それに,人間ならピラミッド状の組織をつくるが,犬のばあいは一匹ずつの順位になるから,「同格」という概念がない.すなわち,同じ位置でのライバル意識も出世競争もない.だから,社会的に自分の位置を「恥じる」こともない.

ちなみに,自分の体型としてのおおきさを認識できていないから,小型犬が大型犬にまじってグループを形成しても,それだけで順位がきまることはない.
だから,チワワがセントバーナードの上位になることもありえる.
しつけができていない犬が,自動車やバイクに飛びかかろうとするのは,うごくモノに反応する狩猟本能だというが,自分のおおきさを認識できていない証拠でもある.

そういうわけで,ある意味,犬社会のほうが人間社会より安定していることもある.
しかし,どちらの社会にも共通するのは,トップにいるリーダー次第で,決まる,ということである.
リーダーに不向きな,犬やひとが,リーダーになってしまうと,集団全体が不幸になるのである.

犬と人間のながいつき合いで,「家庭犬=愛玩犬」というジャンルがうまれたのは最近のことで,犬は人間にとっての「使役犬」であった.
猟犬はもちろん,それから派生したのが軍用犬や警察犬,そして,番犬である.
なので,動物行動学における「犬」の研究とその成果は,いかに使役犬として「使える」犬にするか?であって,「愛玩」目的ではなかった.

それで,愛玩目的のしつけ方法をどうすればいいのか?という問題解決には,犬とは何者なのか?をあらためてかんがえる必要がでてきた.
つまり,犬の習性をしらずして,犬を愛玩犬に仕立てることはできないというわけだ.

「日本人は総じて貧しい.だが彼らは高貴である」といったのは,日露戦争前に東京に駐在したフランス人外交官のことばである.
それから百年あまりが経過して,「日本人は総じて豊かである.だが彼らは卑しい」になったいま,わたしたちは何者なのか?をかんがえるひつようにせまられた.

それで,百田尚樹『日本国紀』が大ヒットしているのだろう.

すこし前には,西尾幹二『国民の歴史』が,百田氏の執筆動機と似て書かれている.

対して,左派からは,アンチ本が出版された.
左派ががんばった時代があった.
しかし,彼らこそ「戦後的『保守』」なのだ.
執筆陣の名前は,ちゃんと覚えておきたい.

対して,もう一冊,解説がでている.

そこで,皇国史観の大権威,平泉澄『物語日本史』は,ちょっとまえの近代日本人が常識としてしっていた「日本史」として一読の価値があるし,「戦後的保守」がなにを問題として主張したいのか?の原点にもなる.
皇国史観をしらずに,皇国史観を批判してもはじまらない.

  

これらをふまえての「議論」として,本ブログでも紹介した,小室直樹・山本七平の傑作対談『日本教の社会学』は,その奥深さをもって,いまではかなうはずもない続編を読みたかったものである.

るる書籍の紹介をしたが,せめてこれらの図書をベースに,日本人をかんがえないと,何者かをイメージするのは,犬が自分のからだのおおきさを意識できないと同様に,知っているつもりに落ちてしまう.

「うちの従業員はつかえない」という経営者は,従業員からみたら,絶望的な結末にみちびくリーダーと認識されている可能性が高い.
それで,有能で自信がある従業員から退社する.
グループから追放された犬は,生きる術をうしなうが,人間はそうとはかぎらない.

「うちの従業員はつかえない」という経営者のもとではたらく従業員が,愛社精神すらない,と決めつけることもまちがっている.
「愛社精神はあるのだけれど」,に,「社長がね」や経営幹部がつくことがおおい.

それは,従業員が会社になにをしにきているのか?の本質,すなわち「稼ぎにきている」ことを意味する.
従業員は,社長がいう「効率的に」,「稼ぎたい」のだ.

「この会社は『効率的に稼げない』」という理由を,ちゃんとリーダーへの不安と不信として意識しているのである.
「働きかた」よりも,「働かせかた」が下手すぎる.

そういうわけで,日本人従業員の理解とて,一律でかんたんなことではない時代に,「安価」に期待しただけで,どこの国かを意識もせずに外国人労働者を雇用するのは「安易」だと気がつかないと,リーダーの資質を日本人以上に冷静に評価して,これをもって「要求行動」にでるのを弾圧すれば,いったいどういうことになるかを想像すればよい.

国際的なため息の国になる.
けれども,それが,ため息だけですめばラッキーだろう.
あたらしい「打ち壊し」という暴動が頻発するようになるともかぎらない.

いい会社をつくりましょう!

さくら・開花の準備中

すっかり葉が落ちて、枝と幹だけになってそびえる桜だが、よくみると、花芽はもうとっくにつけている。

よくみる、という行為をしないとわからない。

ぼんやりと眺めることは、全体をつかむときに有効で、景色の写真を撮るときには、カメラを無限大にしたものだ。
だから、ある対象を際立たせたいときは、それにピントをあわせて周辺をボカすと、いっそう目立たせるごとができる。

これは、遠景でも超近接のばあいでもおなじだ。
人間の情報処理能力にかかわるのだろう。

対象がたくさんあると、ひとは選択できなくなる。
マーケティングでも、有名な理論だ。
だから、おなじような商品をばく然と並べてはいけない。
消費者は選択できなくなって、しまいに購買行為そのものをやめてしまうのだ。

これは「売れない」理由のひとつだが,べつの理由をかんがえる店主がいる.
それは,「商品に魅力がない」のだときめつけるのである.
陳列方法がわるい=じぶんがわるい,とはかんがえない.
だから,いつまでも「売れない」のだ.

さて、ビジネスの世界では、「なにがあっても結果がすべて」とよくいわれている。
経営トップのよくある従業員を整列させての挨拶で、どの会社でもあるから定番になっているほどだ。
しかし、このことばには、どこかいかがわしい匂いを感じる。

ひょっとして、こういうことをわかったような顔をして演説できるひとは、それまでのビジネス人生でほんとうに「結果」を出した経験があるのだろうか?と。

もちろん、なんらかの評価が同期入社のなかですぐれていると、その上の世代のトップが判断しないと、昇進できないのが日本の会社ではある。
しかし,それがなんだかはよくわからない.
本人もよくわからないだろうけど,昇進するのだから自分に問題ないとかんがえるのはふつうだ.

だから、それがなんだったのかは、ある意味公表されていい。
そうでもしないと、とんでもない人物が、とんでもない理由で選ばれてしまうかもしれないとおもうほど、この国のあらゆる組織におけるガバナンスがゆるんでいるようにおもえる。

実務で、結果を出すためのしくみづくりに苦労したひとなら、いきなり「結果がすべて」とはいえない。
むしろ、準備こそ重要だとかんがるはずである。
この「準備」のことをふつう「プロセス」という。

いい結果を出しつづけるには、ちゃんとした準備が不可欠なのだ。

そのことを、真冬の桜が教えてくれている。

「信頼」を生産する

10年前に購入した,フランスの自動車会社製の「光る電動ソルト・ミル」が,電池の液漏れで動かなくなった.
購入したのは,東京日本橋にある老舗の刃物店である.
それで,修理を依頼した.

できたと連絡があって,引き取りにいくと,あたらしい電池だけでなく岩塩もたっぷりはいって返納された.
修理代金は,無料だった.

店は輸入代理店のはずだが,「これだ!」とおもう.
じぶんたちが目利きしたものに,徹底的な責任を負う.
だれがつくったものであるとか,どこから仕入れたかは関係ない.
目利きの結果で販売したら,その商品のその後はじぶんの店の沽券にかかわることになる.

たんに「アフターサービス」とか「アフターケア」といいたくない.
店の存在理由にまでいたる「かんがえ方」をしっかりと感じるからだ.
こんな店は,むかしならふつうだったのだろう.
だから消費者は,ふつうが失われているのに,便利になった,と勘違いしている.

それは,使い捨ての正当化にはじまる.
けれども,金額にすれば数百円のものならまだしも,万円単位となればそうもいかない.
ましてや,たかがソルトミルなのだが,これに万円単位を払ってしまったら,やっぱりすぐに棄てる気にならない.

そもそも,万円単位のソルトミルを売っていることからはなしがはじまる.
それを,老舗がしっかり品質保証しているのだ.
だから,刃物でちゃんとしたものが欲しかったら,かならずこの店ときめている.
たかだか千円の爪切りだって,ここで買う.
なんと,切れなくなったら,ちゃんと研ぎなおしをしてくれる.

そうすると,研ぐことを仕事にしている職人の仕事になる.
だから,ちゃんとした職人を残したいなら,ちゃんとした製品をつかわなければならない.
ちゃんとした職人がつくった,ちゃんとした製品は,ちゃんと修理をしてもらえるからだ.

そんなことがあったら,やはり10年ほど前に買ったツイードのジャケットがほつれてしまった.
これは,亡くなった伯母から,「あんたも不惑を越えて横浜にくらしているなら,元町の◯◯のジャケットぐらい着なさい」といわれて買いにいったものだ.

その日は珍しく小雪が舞うほどの雲行きだったから,商店街を行き来するひと影もまばらだったが,目的の店にはいるなりいきなり,「いらっしゃいませ,ジャケットですね」といわれた.
店主がジャケットのコーナーに行くのと,わたしが上着を脱ぎながらそちらにむかうのと,ほぼ同時に,店主がわたしの体型を一瞥して,一着をとりだした.

そして,上着を脱いだばかりのわたしに,それを着せてくれると,ぴったりだった.
「お似合いですよ」
この一言で,「これください」.
ものの一分もしない買い物だった.値段はみていない.

それで,精算しながら手入れ方法も説明してくれた.
「わたしどものオリジナルですから,一生ものです」

この言葉をおもいだして,お店に持ちこむと,「かけはぎ屋さん」を紹介してくれたのだが,近所だからとご主人が同行してくれた.
それは,県内でも有名な職人の店で,おおくのクリーニング店や洋服リペアの専門店も,じつはここに依頼しているという.

「うちの店でお預かりしてもいいのですが,手数料がバカバカしいですよ.こんなに近所なので」と.
できあがりは,どこがほつれていたのかわからないものだった.

この洋服屋さんも老舗の刃物屋さんとおなじなのだ.
じぶんの店は,ただものを売っている「だけ」ではない.
商品を生産せずに,右から左へうごかせば売上にはなる.
そんな店ばかりがふえたように感じるが,かれらはものはつくらないが,じつは「信頼を生産」しているのだ.

それは,外国車の輸入専門会社とおなじではないか.
「クルマはつくらない,クルマのある人生をつくっている」

旅館やホテルは,なにをつくっているのか?
しみじみかんがえる年末閑散期である.

お正月準備の,ことしさいごのチャンスの時期ではなかろうか?