英語力がないからリベラル

「リベラル」は,「Liberal」であって,「Liberty」に通じる.
いくつかの英和辞典で,「自由主義の」の後ろに「進歩的」という訳をつけているのは,戦後日本の事情を介したものか,それとも「第一次」(二次ではない)大戦後の英国の事情を介したものか?の説明はないから,あんがい不親切である.

ハイエクの名著「隷従への道」の新訳が日経BPクラシックスから出ているが,そのはじめにハイエク全集の編集者ゴールドウェル教授の序文がある。
「左派は第3章を、(中略)右派はアメリカペーパーバック版序文(本書に訳文掲載)を読むといい。そこではリベラルと保守のちがいが述べられていて興味深い。実際に読んでみたら、右も左も驚くことだろう。」

  

この序文には,出版当時(第二次世界大戦中)の英国で,著名な書評家が「読んでいない」(と告白している)のに,この本を酷評したエピソードも綴っているから,どちらさまも「そんなもの」なのかもしれない.
しかし,正反対の意味をもつ言葉をつかいわけるのは大変だ.
日本で「リベラル=進歩派」を自称するひとが,アメリカにいって自分は「Liberal」だと演説したら,けっこうブーイングの嵐に巻き込まれるだろう.

そういう意味で,日本語の「リベラル」は,「和製英語」になっている.
つまり,ネイティブに通じない「英語のようなもの」,なのであるが,通じないから「英語」ではない.
だから,「リベラル」というとちょっとかっこいい,気取った感じで言いきりながら,言葉の内容が「Liberal=自由主義」とは正反対の「進歩主義=社会主義」であっても,聴衆に英語力がないから,ぜんぜん問題にならない.

日本には,「和製英語」を研究している「英語圏」のひとがいる.


「バリバリウケる!ジャパングリッシュ」は,あたらしい「日本文化論」だろう.(残念ながら,本書は「Kindle版」だけの電子出版物である.)
ことばは文化そのもので,思考までも左右するからだ.
日本語しかできない日本人は,日本語でしかかんがえることができない.逆に,英語しかできない英米人は,英語でしかかんがえることができない.
ここに,決定的な文化の差がうまれる.

「ネイティブ」と呼ばれるひとたち,(日本人だって日本語ネイティブである)からすれば,和製英語はいけないもの,間違ったもの,と指摘するのは「親切心」からである.
むかし,わたしがエジプトにいたころ,日本人が大挙訪れていた時代で,観光客の外貨が欲しいエジプト政府から手始めにカイロ空港内での「日本語案内表記」についてアドバイスを求められたことがある.「手始め」というのは,街中でも「日本語案内」を計画していたからである.

当時,すでにいくつかの日本語案内表記があったが,だれが監修したのか不明の,どちらかというと「中国風」だった.郵便局には,「郵便」.トイレには,「便所」とおおきな案内看板があったが,文字が楷書でも行書でもなく,たいへん不思議なかたちをしていたのに,しっかり電飾看板だったから違和感もひとしおだった.

「表記内容」と「文字フォント」という問題よりも,きちんと届く郵便制度や,清潔なトイレが優先ではないか?というのが本音であった.
市内ですら郵便は届かないのが常識だったから,観光ガイドブックにも「注意書き」があったくらいで,だれも郵便物を利用しない.
国際空港としてあるまじき状態のトイレは,あしを踏み入れただけで我慢をしたくなったし,靴の裏さえ汚れた感じがしたものだ.だから,とにかく「清潔なトイレ」を主張した記憶がある.エジプト人の担当者は,それがいちばん難しいと言っていた.

さて,この「ジャパングリッシュ」で素晴らしいのが,和製英語のなかに英語として,「これはいけるかも」とおもえるものがある,という指摘である.
この発想はこれまでなかった.
「いけないもの」「恥ずかしいもの」としてしかの価値観だったのが,そうではないかも,というだけで変わる.

つまり,「日本の暮らし」のなかにあって,外国にないものが「輸出できる」ということだ.
これは,いままでもあったというが,あんがい「輸出」などしていない.
せいぜい,「お土産」の範囲をこえないものがおおい.
外国における,需要のリサーチというビジネスが,もっとあっていいだろう.

大企業向けでない,中小零細向けで,かつ,信用できるパートナーを探すことができれば,事業承継のおおきな助けになるはずだ.
縮む国内だけをみていたら,廃業したくなるだろうし,息子に強制もできない.
しかし,「売れる」となれば話は別である.

こうした点での,ネットワークづくりが,日本の弱みになっている.
個々の英語力よりも,ネットワークでなんとかする.
「リベラル」のひとたちに,がんばってもらいたい.

「机上の空論」のうそ

江戸末期,黒船以降のニッポンを観察した外国人が書き残したものは,いま読んでも価値があるものがたくさんある.
「日本文化」を売り物にしたい旅館や観光業のひとたちは,これらの本とともに,研究成果をよく識っておくと,売れる「商品開発」ができるはずである.

にもかかわらず,不思議と再生の現場では,先月や昨年の「損益計算書」の分析にいそがしく,過去からの延長線上の方策に磨きをかける,という絶望的な努力がまじめにおこなわれている.
それで,とうとう力尽きると,二束三文で売却されるか,地元民が眉をしかめる廃墟になる.
いまどきの買い手は,そういった施設の栄光の過去をあっさり否定して,少ない投資でかつ短期間で,ぜんぜんちがう施設へと変貌させてしまう.

どちらに知恵があるのかは,いまさらいうまでもないが,なにが過剰でなにが足らなかったのか?が,さいごまで理解できなかったひとたちが,経営権を失うのは,ある意味従業員にとっては幸いである.
しかし,だからといってあたらしい買い手のビジネスが,どれほど素晴らしいか?についてもたっぷり議論の余地はある.

こうした問題の本質に,金融があることがあまり議論されていない.
金融機関が決めることだから,「仕方がない」といってあきらめているのだろう.
ところが,いま,その金融機関が存続をかけた危機に直面している.
従来どおりのビジネス・モデルがほとんど通用しなくなってきているからだ.

借り手にとって重要なのは,自社のビジネス・モデルが世間に通じるか?であって,これが支持されるなら,商売でつまずくことはない.
つまり,商売でつまずいてしまっているなら,それは、自社のビジネス・モデルが世間に通じていない,というメッセージを世間からもらっていると理解すればよい.

残念なことに,金融機関は国からの監視がきびしいから,なかなか独自経営が難しい.それで,全国津々浦々の金融機関が困っている.
おなじ土俵で競争せよ,というのはいいが,おなじ土俵の意味がおなじサービスだから,本来の競争にならないことに,ビジネスで競争したことがない役人は気がつかない.

それにくらべて宿や観光事業は,よほど自由がきくから,かんがえるのに規制官庁からの難癖はあまりない.
だから,どうしたいかをジックリかんがえて,あたらしいビジネス・モデルを最低でも机上でつくることか大切だ.

よく,「机上の空論」といってバカにする人がいるが,自社のビジネス・モデルを机上で紙に描けないなら,じっさいにそれがうまく動くことはない.
正反対の軍事だとて,机上演習,が重要な訓練なのは,じっさいを想定してサイコロという偶然からの判断ができなければ,本番で部下を死なせてしまうからだ.

だから,「机上の空論」はたっぷりやったほうがいい.
そのとき,江戸時代の生活をどこまでも研究するのが望ましい.

たとえば,当時の日本人の生活には「食卓テーブル」はなく,「お膳」だった.このお膳が簡略化されて,「お盆」になって,食堂の「トレイ」に変化したのではないか?
西洋にはテーブルがあって給仕されたから,「トレイ」を自分でつかうのは,学生食堂のイメージだろう.

だから,それなりのグレードのホテルや日本旅館の朝食ブフェで,プラスチックの「トレイ」を最初に渡され,これを使うのをなかば強制されることに抵抗があるようにみえる.
たしかに,外国のちゃんとしたホテルの朝食ブフェで,トレイが用意されているところをみたことがない.みなさん,「皿」を複数手に持って,何回も取りにいくことに抵抗はなさそうだ.

さて,この「トレイ文化=略式お膳文化」について,高単価外国人客をターゲットにしたとき,サービス方式としてどうするか?あるいは,あなたの宿としてどうあるべきであろうか?
あくまで,日本方式を貫くのか?それとも?

わたしのイメージは,ブフェ式なら必要ない.
定食式なら,「お膳文化」がわかるような形状のトレイを選びたい,といったところだ.
なお,ブフェ式でトレイをやめて,皿にいくつかのくぼみがついている食器が用意されていることもある.これこそ,外国の学食のようだから,個人的には余計なお世話=過剰サービスだと感じる.

ほらほら,異論がありそうだ.
そのとおり,正解はないからかんがえ方次第でいくらでもバリエーションがあるのだ.
日本のお膳文化と,外国のテーブル給仕文化のちがいが発端だからだ.

さて,この議論,机上の空論なのだが,サービス・スタンダードとして現場要員数まで決まることになるから,どうでもよい話ではない.

「机上の空論」を従業員とたっぷりできる企業文化あってこそ,自社のビジネス・モデルを他人に説明できる素地ができるのである.
この,自社のビジネス・モデルに,本来は融資という信用がつくのだ.

バンカーは,顧客のビジネス・モデルを読み解きそれに価値を見いだせるかが問われるはずが,相変わらず不動産担保が融資根拠なのだから,AIに追い込まれるのは当然である.
しかし,「机上の空論」ができない企業は,実業として追い込まれてしまう.
ムダの代名詞としての「机上の空論」は,うそである.

「愛校精神がない国」がある

どこの学校を出たのか?を気にするのは,いがいと万国共通ではない.
ましてや「出たのか?」に,「中退」も含まれるのがわが国の特徴でもある.
だから,初対面で出身校の名前をきいても失礼なことだという認識がうすいひとがいる.
また,企業内でも,出身校ごとにまとまって,「派」をつくることもある.

以上は,「愛校精神」の表面上のあらわれでしかない.
しかし,たとえば,東京にある「学士会館」にいくと,学士とは旧帝大卒業者のことである,という定義に触れることができるから,なかなかの「選民(エリート)」意識にあふれている.

わたしは,「選民(エリート)」を否定しない.
しかし,「選民(エリート)」には,かならず「ノブレス・オブリージュ」がなければならない,と前に書いたとおりである.
また,学歴による身分社会をあたらしくつくったことも,前に書いたから,ここではくり返さないが,「学士会館」は,明治の価値観が戦後も残ったことのひとつであるにちがいない.

「価値観」となると,どちらが正しいのか?という選択は,たいへん難しい.
良い面もあるし,悪い面もあるだろうから,決めがたいのだ.
ただ,「価値観」をつくった「背景」をしることは大変重要なことだとおもう.
そういう意味で,日本における「愛校精神」の形成に,「身分」という要素があることをしっておきたい.それが,「学歴社会」の基礎をなしているからである.

注意したいのは,このときの「身分」が意味するものは,「大卒」という「学歴」を示すものではなく,まさに「社会的階級」を指すことだ.
華族も武士も,とっくに存在しない「平等社会」であるようにみえる日本だが,じつは深いところに「階級」としての「身分」がある.

だから,わが国は,最先端の近代資本主義社会のようでありながら,ほんとうは封建時代の価値観を色濃く残している国である.
近年激増した外国人観光客のおおくは,その構成をみればわかるように,アジア圏からの人びとで,ある意味ありがたいことに,表面ずらの(近代)日本,でいまは満足してくれている.

一方,そんなに構成上はおおくはない,欧米からの人びとは,深層の日本(文化),を識りたがっている.こちらも,伝統文化という側面での表面を識って満足しているようだが,ほんとうの「深層」に気がつくひとも,そろそろ現れることだろう.

もう30年以上前になるが,ホテルのフロントマンをしていたときで,築地市場の見学が外国人にブームになりかけていたころの話だ.
まだ暗い早朝にわざわざ出かけるひとが,ポツリポツリといた.ホテルのスタッフは皆,マグロの解体が珍しいからだと思っていた.

そこで,あるお客様に質問してみた.
築地市場のなにがそんなに興味があるのですか?
当然,マグロの解体,というこたえが返ってくとおもっていたら,「西側自由主義経済の国で,『公設市場』があるのが珍しいだけでなく,それが世界最大級であるから興味があるんだ」と.

ソ連・東欧圏は,まだ崩壊していない時代のはなしだ.
その,ソ連・東欧圏の社会主義体制が崩壊してなお,日本には「公設市場」があって,移転ばなしがかまびすしい.築地であろうが豊洲であろうが,職員は東京都の公務員である.
どこに移転するか?ではなく,公設市場がなぜ存在するのか?の議論がないことの不思議に,外国人観光客はとっくに気づいている.

社会主義の「平等原則」は,決定的な物資の不足を招いた.
国民に「平等」に「配分」するために,国家が「計画」しなければならないが,そんな計画はだれにも作れないからだ.その理由の大半は,「価格がない」ことにある.

「価格」というかたちで,需要と供給の均衡「情報」が伝わるから,「価格」を政府が決めたら,需要と供給の状態がわからなくなるのだ.
中学校でならう,こんな単純な「経済原則」を,70年も無視したら,貧困化するに決まっている.

東欧圏だったポーランドの大学は,いまだにすべて国立で授業料は無料である.
大学入学資格試験に合格すると,どこの大学にも無料で入学できる.
どこの大学も,基本的におなじカリキュラムでおなじレベルが原則だから,「大学を卒業する」ということの難易度も「平等」になっている.だから,だれも「どこの大学を出たか?」に興味がない.

これには,もう一つの条件がある.
それは,授業料が無料であるかわりに,一単位でも「不可」をとれば,即「放校処分」になることだ.それで,「卒業レベル」が「平等」になっているから,「どこの大学を出たか?」ではなく,「大学を出た」だけに絞られる.だから,「愛校精神」というウェットな感覚は育ちようがない.

入学者の20%ほどしか卒業できない.5人に1人である.
大学が「レジャーランド化」して久しい,わが国で,ポーランド式を実行するのはまず不可能だろう.

社会主義をやめたポーランドは,支配層以外,全国民の垂涎のまとだった「自由」を重視している.
だから,大学には「校章」はあっても,「校歌」などない.
入学式もない.スポーツや愛好会・同好会それに軍隊以外で,おなじ服を着ることもないし,昼食すらおなじ時間がない.
小学校だって,昼食のための休み時間がないから,給食もない.

「同じ釜の飯」という意味の「仲間意識」もない.
徹底的に「個人の自由」が優先されるのだ.
「学士会館」さえもないのは,かえって潔すぎるようにもおもえる.

常識やぶれの目標達成方法

ダイエット食品の宣伝に,「今のままなら今のまんま♪」という文句があった.
言い得て妙である.
なにか変化させなければならない.
そのために,これを食べてみましょう,というわけだ.

ダイエットであれ,企業経営であれ,これまでとちがう成果を期待するなら,これまでとちがうことをしなければならないのは,別に他人から言われるまでもないことだ.
しかし,あらためて言われて,はじめて「その気になる」ことがないと,じっさいの行動にならないのも確かなのである.

そこで,問題になるのは,「ゴール」である.
どんなゴール・イメージを描くのか?あるいは,どんなゴール・イメージが描けるのか?ということが,いきなり問われることになる.

じつは,問題をかかえたままでもがいている企業のおおくが,ゴール・イメージを「描けない」という状態になっている.
かんたんにいえば,どうしたらよいかがわからない,のである.
ところが,ここに重要な錯綜があって,どうしたらよいかがわからない,ということの意味には,日常活動も混じってしまっている.

つまり,ゴール・イメージと日常活動がかさなることで,はなしが「こんがらがる」のである.
この「こんがらがった」状態から抜けるには,こんがらがった糸を一本一本きれいになおすことが必要なように,はなしの筋を一本一本なおす作業がいる.
ふだん,丁寧な仕事をしている企業ほど,この作業を面倒がる.
それは,現状でも仕事がまわるからである.

ほんとうは,いまのままではいけない,とおもいつつ,現状はまわっている.
すると,余計なことをすれば,現状がまわらなくなるかもしれないし,たいがい,現場はいやがる.まわっている現状を変えるのは,現場にとっては余計なことだからである.

そこで,仕事の棚卸し,という作業が必要になる.
その仕事の名前と,その仕事が存在する理由すなわち目的と,今のやり方との整合性の確認だ.
これで現状が肯定されれば,その仕事は「変えてはならない」と決められる.
「もっとこうしたら」があれば,検討すべきだから「変えなくてはならない」仕事となる.

並行して,それで,なにがわれわれのゴールだったっけ?をかんがえる.
もちろん「利益を出すこと」がでてきてもかまわない.
とにかくたくさん,なんだっけ?を出すことだ.
ここで,「常識」にとらわれてはならないのが「コツ」である.

だから,複数の人間で,なんだっけ?をかんがえるなら,他人がだしたことに反論してはならないのだ.
むしろ,そんな突飛なことなら,こんな突飛なことでどうだ!でよい.
すると,「夢が膨らむ,あなたの胸に」という具合で,これまでかんがえたことがないゴールが見えてくるだろう.

さて,でてきたゴール・イメージを,端的にまとめてみる.
すると,たいがいのひとが,「えーっ!」と思うようなことになる.
ここで,一息.冷静になる.「こんなのできっこない」を鎮めるのだ.
そして,「どうしたらできるのだ?」に話題を集中する.

たとえば,何年かかる?
百年か?千年か?
十年ならどうだ?

もし,十年もあれば,ということなら,ここで紙に十年間の空白年表をつくる.
そして、十年後からこちらに向かって,この年になにをどうする?を書いていく.
一回できれいに年表ができるはずがないから,書き直しはいとわないことだ.

ここで,重要な発想法がある.
そのゴールが常識やぶれであれば,やり方もおのずと常識やぶれになる,ということを識っておくことだ.

すると,これができる企業とできない企業のちがいがみえてくる.
自由にものが言えるか言えないか?というちがいなのだ.
それで,自由にものが言えない企業こそ,現場から以上のやり方でやってみるとよいのだ.

わたしは,これぞ労働組合のあたらしい常識ではないかとおもっている.
働くひとが,みずから働き方をかんがえなくて,なにが働きかた改革なのか?
かつての組合員が,いまは経営者という企業は,大企業ほどあてはまるのが日本企業の典型だろう.

「安全地帯」にいる企業内昇格した経営者が,不思議と上から目線で,しかも,人件費は抑制されるべき,という「常識」に凝り固まっているのだ.この理由はかんたんで,そういう「常識」を言っていれば自身の身が「安全」だからである.
ここには,「いかに自社の付加価値を増やすか?」という経営者の役割に対する責任は微塵もない.

ならば,労働組合が,「いかに自社の付加価値を増やすか?」をかんがえなければ,誰がかんがえるのか?だれもいなくなってしまうのが,悲しいかな日本企業なのだ.
ところが,所詮,組合員から昇格して経営者になるのだから,時間の経過とともに,「いかに自社の付加価値を増やすか?」をかんがえる経営者になる可能性がいまよりも高くなる.

「ただしき」人民管理のチャンスである.

組織崩壊はめずらしくない

人間は理性的であると同時に感情的な動物であるから,その行動には,これらをみなもとにする「動機」がある.
マスコミがある意味どーでもいいことばかり意図的に連日報道しているうちに,興味深い事態が発生していた.ちなみにわたしは,この意図的に連日報道することを,「二分間憎悪」と呼んでいる.

さいきんの「組織崩壊」のひとつが,JR東日本労組の崩壊,である.
今年の2月1日には組織率80%だったものが,5月1日には25%になった.たった3ヶ月での55ポイントもの減少は,「崩壊」といっていいだろう.
こうした事態をまねいた執行部を,まるごと解任して新体制でのぞむことが決まったというが,誰のための労働組合か?からつくりなおすのは,容易ではなかろう.

ことのきっかけは,「春闘」における「賃上げ要求」闘争に,国鉄分割民営化以来封印していた「スト権」をもちだしたので,会社は「JR発足時」に締結した,「労使共同宣言」の破棄を通告したことだ.
むしろ,不思議なのは,スト権行使を嫌うおおくの組合員の声が,事前の決定要件になっていないことだ.つまり,「民主的ではない」という事実だ.

国鉄時代といえば,「国労」と「動労」という労働組合が,政治闘争に明け暮れていて,あまりの傍若無人ぶりに,国民の目線は冷たかったことをおもいだす.
これらには,「セクト」と呼ばれる政治的な活動集団が入り込んでいて,それが「労働組合」の本来あるべき姿から乖離してしまったことが当時も報じられた.
今回の大量脱退に,このあたりが臭うが,詳しい報道がないのは先に書いたとおりである.

一般に,日本の企業労働組合は,「ユニオンショップ」であることがおおいのだが,この事例では,労働組合を労働者の意志で脱退しても「解雇」にならないから,JR労組はユニオンショップ制ではないことがわかった.

会社側の労務政策も,「労使共同宣言」を廃棄したところまでしかわからないから,これからどうするのか?不明である.
そもそも,労働者がひとりだけでは,会社という組織に立ち向かえないから,不利益をこうむることになってはいけない.それで,労働組合法によって,組織とすることが認められている.

だから,このまま脱退した労働者を放置することも望ましくないだろう.
すると,またまた複数の労組ができるのか?
破たんしたJALには,労組が8つもあって,経営再建の妨げになっていた.
毎日乗る電車の会社が,これからどうなるのか?興味深いことである.

つぎの「組織崩壊」は,またまた,あの「雪印」である.
雪印メグミルクの子会社,「雪印種苗」が,牧草などの種子の品種を偽装販売していた.
これは,一気に組織崩壊したあとも,壊れつくしてしまったのではなく,ところどころでいまだ「崩落」が続いている事例だ.

このグループの不祥事の特徴は,あの「雪印(牛乳)事件」もそうだったが,死人がでないどころか,軽い下痢と異臭だったから,なんとなく「軽い」のだが,連山のように連なって不祥事を引き起こすまれな事例だ.
わたしが,この「雪印種苗」が気になる理由は,「雪印」というブランド以外に,「種苗」会社が種子の品種を偽装したこと,つまり「本業」でインチキしたからである.

つまり,これは,製造業でいったら,完全に製品偽装であって,安全基準を満たすみたさない,JIS基準を満たすみたさないという次元の問題ではないことだ.
タネ屋が売ったタネが,別の品種だった.しかも,インチキして,となれば,これを「偽装」と言っていいのか?きちんと,「詐欺」と言うべきで,刑事事件ではないのか?

捜査当局の裁量によって,これが立件されないなら,とうとう,刑事事件までもが「偽装」されていないか?と疑うのだ.
まじめなタネ屋からしたら,おとがめなし,では納得できないだろう.
すると,わが国は法治国家なのだろうか?という疑問すらうまれるから,注目したい「事件」だ.

最後は,連日報道の日大である.
これは,現在進行形だから,これからどうなるかわからない.
しかし,登場人物の意外さもふくめて,いよいよ「劇場化」してきた.
元えらい記者のありえない高圧的な司会ぶりは,ある意味,特攻精神にあふれていて,みごとな「二分間憎悪」を自ら演じた.

これで,大マスコミにとっての「スポンサーとしての日本大学」から,記事にして「売れる」日本大学に昇格したのは間違いない.拮抗していたであろう,マスコミ各社の広告営業の声が小さくなって,編集のイケイケの声がきこえる.
それを,大学広報部の人間という立場で,内部からやりのけたのだからたいしたものだ.

終わってみれば,日大改革の最大の貢献者は,このご老体だった,ということになるのではないか.すると,彼に依頼した広報部も,けっしてマヌケではなく,確信犯的である.
これが,「危機管理学部」の凄みだとしたら,こちらもそうとうな逆転劇になりそうだ.

たしかに,大学のあるべき姿,からすれば,「膿」をぜんぶ出す組織の大掃除が必要だ.
しかし,内部を知ればしるほど,「闇」は深かろう.
まともなやり方では,とても「闇」を追放することはできない.
そのための,近年稀な捨て身の大作戦が,あの記者会見だとすれば,司会者の言説もつじつまがあうから,驚くべき「役者」がいたものだ.

これで,翌日,とうとう「学長」が表に立たざるをえなくなった.
それで,記者から「理事長が出てこない」,という核心がはじめて飛び出したが,これは「編集」からの宣戦布告の号砲であろう.

学生が決死の記者会見をしているときに,理事長がパチンコに興じている姿はYouTubeにある.
各種「闇団体」とのおつき合いもチラホラ言われる「理事長」こそ,本命中の本命である.
内部からの包囲網構築に,この理事長はぜんぜん気づいていない様子だから,劇的な展開が期待できるというものだ.

しかし,まさかこれに水を差すかもしれないのが,「国家」である.
すでに「議員連盟」が,文科省と子会社のスポーツ庁に圧力をかけている.
かれらは誰のために行動するのか?理事長や「闇団体」側に有利なことにならないか心配だ.
今すぐにではなく,大学運営の「正常化後」を見すえて,私学助成金の減額をする,という嫌がらせの有無が,ひとつのバロメーターになるだろう.

盤石にみえる組織も,人間の集団にすぎない.
その人間は,理性と感情の動物であることを忘れると,ある日,突然の崩壊がやってくる.
しかし,ほんとうは突然でもなんでもなく,必然なのである.
人間の理性と感情は,化学反応でもあり,物理法則でもある.

だからこそ,「育ち」が重要なのだ.

自治会と自治体

むかしながらの「町内会」のことを,あたらしく開発された住宅地だと「自治会」という.もちろん,現代的立体長屋である団地やマンションも,「自治会」がある.
「自治会」は,「任意団体」だから,入会も任意だし,規約も任意である.
それで,入会したくない,といったらご近所からゴミ出し禁止や回覧板からはずされたりしていじめられる.

たまらんと訴えたら,最高裁が「任意」だと決めてくれた.
だから,自治会に入らなくてもいいし,いじめはいけないということになった.
それでは,会費だけ取られてバカバカしいから自治会になんか入らない,というひとも確実にふえているらしい.

ところが,定年して自治会なんてぜんぜん興味なかったひとが,あんまりヒマでやることなくて,自治会に集まってくる,という現象もある.
それで,むかしからの面倒なしきたりが改善されることもあるから,あんがい結構なことである.
じっさいに,自治会の役員というボランティアをやると,役所がぐっと近くなる.

もちろん,役所から近づいてくるのではない.
動くのは自治会の役員の方である.
こまごまとしたことが,とにかくたくさんあるものだ.
どうしてここまで住民のボランティアがいるのか?とさえ思うことがある.

もっといえば,自治会がないと暮らしにくい.
さすれば,自治会活動こそが自治体の重要な活動だとわかる.
ところが,すでに役員が高齢化しているから,回覧板のデジタル化なんてできっこない.
会費の徴収も,自動引落ができないから,相変わらず各戸をまわって現金で集金する.
それで,金銭トラブルになる自治会があとを絶たない.

これらの困ったをどうやって解決しようかとかんがえれば,役所の仕事が肥大化して,自治会を支えることとは別のしごとにずいぶんな資源が使われていると気づく.
あきらかに,パーキンソンの法則が有効になってしまっている.

これからの人口減少で,いかに役所のしごとを減らすか?ではなく,役所のしごととはなにか?から見直さないと,通常生活が厳しくなるだろう.
まっさきに,産業政策にかかわる部署は廃止して,資源の組換えにつかうとよいだろう.
商工会があれば十分.経済活動にとって,役所のからみこそ,邪魔でこそあれ役に立たないものはない.

ちなみに,商工会に農業者をいれないのは,幕府による「士農工商」の伝統でもあるのか?
「農商工会」にすればスッキリするのではないか?
そうすれば,日本型「コルホーズ」である「農協」から逃げてこられる可能性もある.
農業と商業・工業のつながりが,ないことのほうがおかしい.

住民は生活者であるのだから,地元の「農商工会」の活動が,自治会の活動とリンクすることで,より「地元」を理解できるようになる.
組合員に逃げられてはたまらんと,「農協」もなにかをはじめるだろうから,役所が余計な介入をしなければ,いいことずくめだ.

70年代に,東京の中野区役所が当時として画期的なシステムを運用した.
戸籍係の窓口番号が,ぜんぶ「1」番になった.
戸籍にかかわる手続きなら,どの窓口でも全部できるようにした.
これで,謄本も,印鑑証明も,転入も転出も,学校の転入学も転退学も,一箇所に一回並べばすむようになった.

これらの手続きが,番号で振り分けられていて,それぞれに並ばなければならなかった当時,全国の自治体から見学にやってきたというはなしがある.
住民からすれば,下手をすると,半日しごとになっていた.最悪なのは,順番待ちでお昼になると,容赦なく一斉に昼休みになったから,追加で一時間のムダもうまれた.それで食堂にいけば,フライングの職員の最後尾に並んでまた待たされた.

このときのシステム設計思想は,「なぜ住民は役所にやってくるのか?」ということからかんがえたのだった.
もちろん,この問いのこたえは,「そこに住人がいるから」である.

つまり,住人からの目線でシステム設計をしたら,ぜんぶ「1」番窓口になったのだ.
すると,全国の役所が見学にきたのは,それまでが,「役所の効率」という目線でシステム設計されていた,ということの証左でもある.
さらに,大挙して見学にはきたものの,中野区のシステムを真似た自治体は,しばらくの間この国のどこにもなかったのである.

住みやすい町は,自治会が最小単位になるから,自治会にとってのハッピーという目線がなければ,じつは自治体が自治体である必要をうしなう.
すると,おどろくほどのムダが見えててくる.

ヨーロッパの地方議会には,議員は無報酬,議会の開催は金曜夜8時からというところがふつうにある.
これは,そのへんのどこにでもある町内会・自治会の役員会に似ているではないか.
原点回帰という問題が,突きつけられている.

経営も,原点回帰レベルでの見直し作業が,おもわぬ発見をみちびくことがある.
数年に一回つくる,経営ビジョンなどは,まさにそのための手法である.
成功と失敗の分岐点に,誰のため?という自問があるのだ.

あやしい「正義」

大学世界ランキングでトップ5から漏れたことがない,アメリカの有名大学教授が書いた,「これから正義の話をしよう」が6年程前に大ベストセラーになった.

 

わたしが学生時代だったころは,「選択の自由」(1980年)と「第三の波」(1980年)が印象的だ.

 

「選択の自由」は,いまでいうバリバリの「新自由主義」というよりももっと過激な「自由放任主義」のほうだが,1976年のノーベル賞受賞時のさわぎが嘘のような売れ方だったとおもう.「売れた」から,その本の主張に「正義」があるとはいえないが,「共感」ぐらいはあったろうから,まさにいまからすれば隔世の感がある本である.

わたしには,鉛筆がどうやってできるかを知っているものはだれもいない,という「鉛筆の話」が印象的だった.これは,大変長い引用であったが,リアリティある話だった.
そのフリードマンのマネタリズムは,「スタグフレーション」に苦しむレーガノミックスに採用され,「ケインズは死んだ」と言われだしたのがこの時代だった.

30年後,ずっと黒田日銀は,金融緩和でのインフレ誘導をしている.「緩和」の意味は,貨幣供給量を増やす,という意味だから,フリードマンは日本では生きている,といえるのだろう.
ここにきて,原油高と円安の「効果」で,ガソリン価格が高騰している.
コントロールできるインフレではない,「悪性インフレ」が心配だが,えらいひとで言うひとはわずかだ.日本で,「スタグフレーション」が発生しないか心配だ.

「これから正義の話をしよう」のよい読者ではないが,「正義」の概念は「思想」によって変わるから,「絶体」ではないことがわかる.
その点,「善の研究」の「善」は,あんがい「絶体」なのである.

世の中でおきる「結果悪」という,わるいことの原因のほとんどが,「善意」からうまれる.
悪意をもってなにかすれば,それはたいがいわるいことになるのだが,「塞翁が馬」ということもあれば,「シンデレラ」のようなこともある.ところが,ふつうは,さいしょから悪意をもってなにかすることはすくなかった.

だから,よかれとおもってしたことが,結果的に取り返しがつかないわざわいになると,深く記憶にきざまれる.
それが,さいきん「いじめ」という悪意が世の中にあらわれて,救いようがないわざわいを他人にあたえている.

「いじめ」はいけない,といって「撲滅運動」をする.
このての社会「運動」が加害者や被害者本人に役に立つことはほとんどないが,「何かやっている」ということでの「安心感」が与えられるから,「正義」を実感できる.

不思議なもので,こうしたことに熱心なひとたちは,あんがい学校教育での「道徳」に反対する.
「家庭や地域での活動が重要なのだ」というのだが,その家庭や地域での活動が現実にできなくなっているから困っている.

じつは,「いじめる側」には「快感」がある.他人をいじめると「気分が晴れる」.
だからやめられない.
これは,「道徳」の問題だろうか?

さいきんの脳科学では,脳内物質の研究が進んできて,精神と脳内物質の関連性がだんだん見えてきたようだ.
脳内物質をつくる(合成する)材料が,腸でつくられることが証明されたから,「腸内フローラ」の重要性は高まるばかりである.

しかし,誰でもしっている「腸」の機能は,「消化」である.
つまり,脳内物質をつくる材料の材料,すなわちおおもとは,「食べ物」だということがわかる.
そこで,精神活動の異常で疑うべきものは,本人の「食生活」なのではないか?

「栄養バランス」を欠いた食生活が,いじめの加害者をつくる,という可能性は,専門家にぜひ研究してもらいたい.
それは,成長期の子どもにとってと,成人にとってどのような「ちがい」あるいは「共通点」があるのか?も興味深いことだ.

おとなの世界の「理不尽」も,もしかしたら?と思いあたるふしがないでもない.
「正義」のみなもとに,「食」がある可能性がでてきた.

「コンテナ」はシステムである

港湾の「荷役」というと,どうしても肉体労働のイメージがつきまとう.
建設工事現場ではたらくのと同様か,それ以上の過酷さが連想された.
作詞家,なかにし礼氏をして,戦後日本歌謡の最高傑作といわしめたのは,美輪明宏の「ヨイトマケの唄」であった.「とうちゃんのためならエンヤコラ」と,うたで拍子をとりながら力作業をしていたリアルな光景があった.

トヨタ生産方式による「七つのムダ」のひとつに「運搬のムダ」がある.
材料部品が工場から運搬されて,それを一時保管し,ひつようなときにまた運搬する.
あるいは,完成品を一時保管し,出荷を待って,また運搬する.
これらの「運搬」に,付加価値はない,と定義したことから,あの「ジャスト・イン・タイム」がはじまる.

その運搬の世界で,「コンテナ」が発明され最初に使われたのは1956年だから,意外とあたらしい.
発明者は,当時20代の若い長距離トラックドライバーだった,マルコム・マクリーン氏である.氏が設立した海運会社,「マースク」社は世界最大の海運会社として有名だ.

発明のきっかけは,長旅でたどりついた港湾で,トラックの荷物を船に「積みかえる」作業が過酷で,かつ,不効率におもえたからだという.
「だったら荷台ごと船に積めないか?」
さすがのアメリカでも,このかんがえは大胆すぎた.

本人は,丈夫だが簡単な構造の「箱」をつくって,強度をためすこともしている.
ところが,たちはだかったのは,「港湾の輸送システム」そのものだった.
どうやって,その「箱」を船に積み,どうやって行き先の港で降ろすのか?
専用のクレーンと,専用の船がいる.

専用のクレーンは,行き先のすべての港になければならないから,驚くほどの投資が必要になる.
アメリカには殊勝なお役人がいて,「これはつかえる」とのってきた.
それで,最初はおっかなびっくりの実験がおこなわれたという.

このはなし,いまのわが国に置き換えるとどうなるだろうか?
おそらく,まずまちがいなく「ありえない」だろう.
既得権にまみれた「業界」と,その既得権益の維持をはかることしかしらない「監督官庁」によって,アイデアそのものが葬られると想像できる.

それで,外国で発明された便利な仕組みに呑み込まれることになった.
「コンテナ」は,「箱」を製造すれば実現できる運送方法ではない.「箱」がどこにあって,どこに行くのかを管理し,行き先と重さをコントロールした積み方を決め,それを最終的には陸上輸送しなければならない.つまり,「システム」なのだ.

コンテナは地球規模の巨大な運送システム,である.
現状に満足する業界と,それを支える役所のシステムは,一時的には効率よくみえた.だが,それはみごとな錯覚であって,わが国は,「箱」を効率よくつくることはできても,運送システムをつくることはできなかった.

このことから,役所の限界がみえてくるのだが,懲りないどころか,エリートを気取って民間をバカにする役人が,たかだかサブカルだとたかをくくって「やっちまった」のが,「クールジャパン戦略」の大失敗である.
ズルズル・ガボガボの会計検査院をして,「ムダ」と決めつけられた失敗のツケは,国民が負担する.

民間ならば,「失敗のツケ」という借金は,自分で清算しなければならないが,このひとたちがお金を負担するはなしを寡聞にしてきかない.
つまり,最初から「責任」がない.
ふつう「有限責任」をもって会社というが,社長一家の個人資産も根抵当にして会社に供出するから,ぜんぜん「有限」ではないのがむかしからの「問題」なのに,役人のやる「事業」は,責任がないから「無責任」である.

その「無責任」な状態の組織が,あたかも責任があるように振る舞う.
これは,「イリュージョン」である.
本物の「イリュージョン」には,驚くほど単純な「タネ」がある.
しかし,この「無責任」な状態の組織には,なんと「タネ」がない.あるのは,「仕掛け」だけだから,これをふつうは,「詐欺」という.

しかし,民主主義のしくみは,これを「詐欺」とはいわない.
「無責任」を承知でカネを出すのは役所だが,その役所にカネをださせる命令は議会がする.その議員は住民である国民が選ぶから,「無責任」の失敗の「責任」は国民がかぶるのは,当然なのだ.

こうして,愚かな国民の国は,自業自得というブーメランばかりが飛び交って,ズタズタになる.
かくして,「国家依存」はかならず「国家の衰退」を約束することになっている.
それではいけないと,ふつうは,これに真っ向反対する「野党」があって,自業自得のブーメランを回収したり,あたらしく飛ばさないようにすることを主張して,政権奪取をはかるのだが,なんとわが国には,もっとブーメランを飛ばして,国家依存せよという野党しかいない.

これに気づいて,あきれ果ててしまった人たちが外国に「移住」しだしている.
それで,外国で優雅に暮らす人たちを憎むように仕向けると,あたらしい「税」にも愚かな国民は賛成する.
そのはじまりが,「出国税」である.そうして,「帰国税」が準備されるにちがいない.

コンテナ・システムをつくれなかった「国」は,「国民統制」という別の巨大システムを生み出そうとしている.

採算がわからないけど投資してきた

「採算」というのはどうやったらわかるものなのか?
ある商品を一個売ったら,いくら儲かるのか?がわかれば,こんなに簡単なはなしはない.
ところが,ほんとうにわかるものなのか?
とあらためられると,とたんに不安になったりする.

究極的には,「データ」を活用しないとわからない.
データの「活用」には,データの「収集」が必要で,なにが集めるべきデータなのかを決めることをしなければならない.

ところが,自社の範囲をこえて,他社のデータも必要なことがある.
たとえば,伝統的なデパートが仕入れにつかっている商習慣に「消化仕入れ」がある.
これは,納入者の商品がデパートに納品されると,所有権が一時的にデパートに移転して,デパートにきたお客が購入すると,その分の売上金を納入者の指定口座に振り込むことで決済するという仕組みである.

所有権が移転してしまうから,デパート内部でどういう記録を残すのかに運命がゆだねられる.
納入者が納入する商品が一種類しかなければまだしも,実務では複数の種類があたりまえだろうから,何が何個売れたのか?という基本情報すら納入者にはわからない.
全部がまとめて振り込まれるわけだから,デパートさんを信じるしかない.

ところが,納入者にとっては,入金があったからそれでよし,になるはずがない.
何が何個売れたのかがわからなければ,在庫がどのくらいかもわからない.
仕方がないから,だいたいこのくらいのはずだと見当をつけて,また納品する.
これが延々とくり返される.所有権が動くから,文句もいえない.

小売業の覇者だったデパートの凋落はいちじるしいが,まともな業者なら取り引きしたくないのが本音だろうから,多様化する消費者の選択から外れてしまったのは,こうした一方的な体制の維持に原因がもとめられる説もあってよかろう.ネットで売れるトレンド商品を扱う業者が,わざわざデパートに納品する理由がないから,消費者には,デパートに行っても欲しいものがない,になるのだ.

以上のような取り引きがあるから,売上=在庫=現金,という黄金律は,他社の都合でかんたんに破られる.
自社の管理体制を強化したところで,まったくの筋違いになるからだ.

では,自己完結型のばあいならどうか?
自社内での取り引きがあるような企業だと,こちらも意識して手間をかけないとわからなくなった.決算と納税事務を主とする経理部は,その手間をムダだとしていやがるからだ.

しかし,時代はデジタルだから,いまどき社内伝票が電子決済をともなわない企業以外は,かなりの確度で把握可能になったろう.
すると,いまどき社内伝票が電子決済でない企業があやしくなる.

企業情報の開示義務が,会社法と企業会計原則によってあらぬ方向へいっている.
「規制当局」は,株主利益のため,という大義名分を掲げているが,開示のためのコストがかさむ.そのコストは,株主負担であることは言うまでもない.
それで,上場を辞退する企業がでてくるから,なにごとも中庸が大切なのだ.

だったら,株主から委嘱される経営者には,「経営会計を活用しなければならない」という一文によって規制されたほうが,よほどの利益貢献になる.

しかし,突き詰めると,この問題は,経営者も,従業員も,規制当局の役人も,はたまた政治家も,この国には,資本主義の根本原則がわかっていないひとばかりではないかと思えてしまうのだ.

そもそも,資本は誰のものか?という問いに,株主のもの,とちゃんと全員が即答できるのだろうか?
「だから資本主義は問題なのだ」という,トンチンカンな回答は,もちろん問いに対するこたえになっていないから,論外なのだが,平気でこのようなことを言うひとがエライひとほどおおい.

アメリカンフットボールで,こうした時代を象徴するような事件があった.
問題の核心は,監督が危険なラフプレーを命じたのか命じなかったのか?である.
状況は灰色だが,もしも「黒」なら,まさに「採算」がわからないのに投資してしまった,ということだ.
企業に置き換えれば,違法な残業をさせてなお,残業代を支払わないのは,社長が命じたのか命じなかったのか?になる.

じっさいに被害者側が,警察に訴えたから,捜査,という段階になった.
こちらのほうは,前監督がすでに「二分間憎悪」の対象になったから,どんな事実がでてこようと,もはやより残酷な制裁から逃れようがないだろう.国民は他人の不幸を望んでいる.
くわえて,大学のトップも間もなく「二分間憎悪」の対象になるはずだが,大手広告代理店はどう動くのか?に興味がうつる.わが国最大規模の大学がもつ,広告予算の破壊力はいかほどであろうか?マスコミの健全性の試金石にもなるだろう.

これを企業に置き換えれば,監督官庁である労基署がうごくはなしだ.そこで,問題になるのは,もし労基署が「黒」としたばあい,株主は社長解任をふくめた処置をしないのはどういうことか?になるはずだが,この視点でマスコミは報道しないばかりか,「ブラック」だのなんだのと言ってお茶を濁すばかりだ.立派な経済犯罪なのにである.

まさか,残業代は社長のポケットマネーから支払われるものだとでもおもっているのか?
企業のお金は株主のもの.それを経営者が「運用」しているだけなのである.

これらの事例からもわかるように,この国の組織は,だれのものかがわからなくなって,責任者が私物化できるようになっているという特徴がある.
長期の「占有」が「所有」への錯覚を誘導するのは,日本人のDNAに組みこまれているのだろう.
それで,採算がわからないけど投資することもできたのだ.

デジタルデータの時代には,そうはいかない.

地銀統合と無関心

「人事」のことを「ヒトゴト」と言って,「他人事」と掛けることがあるが,このテーマは「他人事」の「ヒトゴト」ではない重要さをもっているはずなのに,あんがい「ヒトゴト」だとおもっている経営者はおおい.
政府部内で真っ向対立しているから,成り行きをながめているのかもしれないが,自社は「どうしたい」というアンカー(錨)をうっていないと,激流にながされてしまう危険すらある.

「競争」についての専門部隊が「公正取引委員会」であって,おもな法律は「独占禁止法」である.
一方,地銀は金融機関なので,規制当局といえば言わずと知れた「金融庁」である.
先月,金融庁の有識者会議「金融仲介の改善に向けた検討会議」というひとたちが,「地域金融の課題と競争のあり方」と題する報告書(官庁文学)を発表した.
例によっての「官庁文学」だから,誰に対して読んで欲しいのか?という根本的な観点が欠如しているが,これは「有識者」のみなさんの識ったことではないのだろう.

金融庁のお節介は,ノーパンしゃぶしゃぶ問題発覚で分離された,大蔵省銀行局時代からの伝統で,民間人には銀行経営はできない,という前提がある.
その証拠が,「はじめに」の最後に,「なお、本報告の取りまとめにあたっては、日本銀行より多大なるご協力をいただいた。」という一文である.

つまり,あの城山三郎をして「御殿女中」「小説日本銀行」と言わしめた,日銀という組織は,とっくにその独立性を失って,政府の御殿女中に変容している.

ちなみに,政府からの独立をうたった新日銀法ができたのは,なんと1998年(平成10年)のことであって,第二次安倍内閣は「アベノミクス」において,この法律を「改正」して,日銀を政府に従属させようとした.それで組織防衛のために,みずからの首を差し出したのが白川総裁で,「大蔵省」財務官だった黒田氏によって無血開城させていまにいたる.ここに,武士の情けはひとつもない.

公取委と金融庁の正面衝突は,長崎県の地銀統合問題から発する.
「人口減少」は地域経済の縮小も意味するから,県単位での地銀,という配置では経営が成り立たないから,県をこえて広域金融にしないと生きのびることはできない,という金融庁の主張に対して,そんなことしたら地域独占になって利用者の選択がなくなるからダメ,と言っているのが公取委の主張である.

要は,市町村でやった「平成の大合併」とおなじ発想なのが金融庁なのだ.
その市町村は,「人口減少対策」と称して,他地域からの「移住」にやたら熱心である.これは,完全ゼロサム・ゲームなので,一方が増えれば一方が減る.国全体としての人口が増えるはなしではないから,「事業」としてマクロでみればムダそのものである.

そもそも,地銀が一県一行というのも,地方紙が一県一紙なのも,国家総動員法による戦時体制がはじまりである.
金融庁は,この体制を維持することに汲汲としているから,だれのための合併(経営統合)推進なのか?といえば,業界優先,という鉄板ルールはかわらない.
つまり,民間人に金融機関の経営はできない,からお国が面倒をみてやるよ,というはなしである.
しかし,これは裏を返せば自らの権限を手放したくない,ということそのものだ.

すでにメガバンク三行は,個人の買いもの等の決済手段を統合したシステムを開発済みで,また,通信会社によるスマホを決済端末としたサービスもはじまった.
これが普及するとどうなるか?

キャッシュレス社会が日本より先行する中国では,個人の買いもの決済情報と企業の売上情報がリンクしていて,これに企業のキャッシュレスな仕入れ取り引き情報を組合せ,「信用情報」を構築している.
つまり,少額の運転資金の融資なら,経営者がスマホ・アプリをつうじて瞬時に実行されるサービスが実現してしまっている.

当然,これからの進化は,融資枠の拡大と,融資内容の自動化になるだろう.
つまり,これが意味することは,金融機関が貸出に応じる根拠が,企業活動情報,であることであって,日本の金融機関がいまだに不動産担保から抜け出せないのとは次元がことなるのだ.

これは大変なことになる.
キャッシュレス社会は,金融機関の店舗縮小だけでなく,融資審査をも自動化させる.すると,利用者側は,納税も自動化となれば,担保設定のための登記もいらない.
これだけでも,税理士と司法書士の苦悩の時代がはじまりそうだ.
すると,会社経理はどうなる?
商業高校や経理学校での簿記の授業は必要か?

宿の予約サイトのように,金融機関の融資サイトが林立し,これらサイトをひとまとめにした,もっとも有利な融資先が選択できるサイトもうまれるにちがいない.
すると,利子率は?
中央銀行の役割は?
ましてや,金融庁の存在意義は?

わたしたちの生活や職業までもがまちがいなく一変する.
もう間もなく,確実にやってくるから,無関心ではすまされない.