米国は「コウモリ君」を許さない

米中新冷戦がエスカレートして、いつ「熱戦」になっても不思議ではない状態になってきた。

香港に適用された法律について、各国政府の支持数をみたら、反対と賛成に2倍ほどの開きがあって、あたかも世界は「賛成多数」にみえたところが「ミソ」になった。

外国から多額のODA(政府開発援助)を受け取りながら、これを流用(横流し)して、より貧しい国への「援助資金」にしていた効果が現れたのだから、上の法律の適用を強行した政権党のひとたちは、これまでの流用が「正しかった」と安堵したにちがいない。

一方で、流用されているのを承知しながら、「見なかったことにする」と見てみぬ振りをしながら、多額の資金提供を続けるのは、どんな了見なのか?と疑われても、知らんぷりを貫く根性が、わが日本政府と政権与党にはある。

ふつうなら、野党が厳しく追及して、政権交代をねらうのだけれど、わが国には「もっと援助すべし」というのが野党だから、政府も安心して見てみぬ振りができるのである。

国民から集めたカネをどう分配するのか?
政治の本質はここにある。
なので、民主主義ならこれを委ねるのが選挙であるはずだけど、分配を仕切るのが国会ではなくて財務省という行政機関なので、もともとわが国には「政治の本質がない」のである。

だから、「政治不信」という言葉は間違っている。
「ないものねだり」にすぎないからだ。
本質がないのだから、不信になることはない。
むしろ、戦前のわが国の方が、よほど国会が機能していたことを羨ましく思うことしかできないことを嘆くだけである。

さて、アメリカの本気度があがってきて、過去のやり方の変更を開始している。
わが国は、政治の本質がないからこの意味が理解しにくい。
すべてを仕切る行政官僚が発想することは、古来から「有職故実」、すなわち「前例主義」になるからである。

果たして、香港の法律に反対したグループにわが国も入ってはいるけど、わが国の本気度が冷めているのは、わが国以外の積極性をみればだれにだってわかるものだ。
特に今回は、香港だからもあるけれど、「英連邦」という、かつての大英帝国が積極的で、英国が抜けたEUもこれに続いている。

それは、「感染症」の初期における「隠蔽」がまとわりついているからで、「ひと・ひと感染しない」という虚偽情報を流した責任論があるからである。
世界は、損害賠償の請求計算をしだして、その額は数百兆円規模になっている。

もちろん、「支払方法」も検討している。
請求先が拒否しても、「差し押さえ」という手法をかんがえている。
対象は、金融資産はもとより、不動産も含むけれど、個人名義でも可能とするところが過去にない方法になっている。

それが、アメリカで検討されている「党員」の入国拒否と国外退去にリンクしている。
つまり、国家が国家に請求するのではなくて、国を支配している「党」と構成員である「党員」に請求するというのである。

このニュースによって、グーグルの漢字検索で「脱党」が急速にヒット数を上げている。
党員名簿をアメリカが把握しているという情報戦も加わっている。

そんなわけで、アメリカ側の本気と苛立ちは、わが国にも飛んできて、アメリカ政府系の研究所の日本研究レポートで、「親中派」を名指しした。
現役官僚の首相補佐官と与党の幹事長、それに連立している片方の与党である。

これに対して、わが国の報道に、内閣官房と与党内の動きの情報がぜんぜんない。

しかしながら、アメリカの本気がわかるのは、与党の幹事長の前に現職官僚の名前を出したことである。
官僚国家であることを、よくしっているぞという意味だけど、占領中に官僚体制をいじらなかったことを思いだせといっているように思える。

かつてのアメリカは、こんな露骨なことはしなかった。
ロッキード事件だって、田中角栄を失脚させるための複雑な方法だった。
すなわち、「平時ではない」という意味であって、「コウモリ君」を許さないぞと平手打ちしたのである。

すでに東南アジアの海にも空母が配置されている。
これに、海上自衛隊の護衛艦も訓練に参加はしたけれど、たったの一隻だ。
しかも、わが方は、敵に向かって「撃てるのか?」という大問題がある。
さては、アメリカは日本国憲法をどういじるのか?

ありうる手は、「事情変更の原則」を使って9条を無効にするのではないのか?

その前哨戦が、「名指し」なのだろう。
「個人を狙う」というのは、わが国も彼の国と同じあつかいを受けているということでもある。
これで、内閣法制局の役人と最高裁の判事がどのくらい「怯え」ているのか。

彼の国の国民が歓喜しているように、わが国の国民にも悦ばしいことになっている哀しさがある。

アメリカ合衆国が、外国に対しても国民のためにならない「党」と「官僚」を、これからも「名指しする」というのは、個人的破滅を意味する。
すなわち、内政干渉を超えた攻撃が、わが国の支配層にもはじまったのだ。

その意味で、恐ろしい国ではある。

【訃報】30日、岩里政男(李登輝)氏が逝去された。各社の報道に、「親日家で、流ちょうな日本語」などというバカげた表記を散見するのは、「コウモリ君」を自称しているようなものだ。本人がしきりに発言していた「22歳まで日本人だった」から、「元日本人」なのではない。「ずっと日本人だ」という意味である。「旧制高校と旧帝大」で、武士としての教育を受けた最後の「哲人政治家」は、明治の元勲をも超えて、自らは長期政権を率いずに引退し、なによりも後身の育成に心血を注いだことは、簡単にできることではない。現代の偉人が歴史になった。享年97歳。ご冥福をお祈りいたします。

教育改革は「教育クーポン」から

「教育問題」が範囲を拡大して限界を超えたから、いまや「発散」してしまい、何が何だかわからなくなってきている。
風船が爆発したようなもので、収拾がつかない。

欧米では、「国家の役割」についての議論が旺盛で、とくに70年代から90年にかけて盛んだったのは、経済の悪化(不況とインフレが同時に起きる「スタグフレーション」)に悩まされ、中産階級の衰退が深刻になったからである。

当時のわが国は、こうした「先進国たち」を尻目に、成長を謳歌していたし、「世界一の教育大国」を自画自賛していた。
中曽根首相が、アメリカにおける教育の廃退的状況を笑ったことで、レーガン大統領との関係が微妙になったことも、自画自賛の結果であった。

政界でも俳優としても無名のレーガン氏が、現職のカーター大統領を破って地滑り的勝利をおさめたのは、カーター大統領が発足させた「連邦教育省」への批判だったといわれている。
日本では、テヘランの大使館占拠事件への対応のまずさということになってはいるけど。

つまり、アメリカ合衆国連邦政府には、カーター政権の前には、「教育省」という役所が「なかった」のである。

なぜに、アメリカ人は「連邦教育省」を嫌うのか?
その理由は、わが国の憲法にもコピーされていて、第89条がこれにあたる。
「公金その他の公の財産は,宗教上の組織若しくは団体の使用,便益若しくは維持のため,又は公の支配に属しない慈善,教育若しくは博愛の事業に対し,これを支出し,又はその利用に供してはならない」。

英国の清教徒(カルヴァン派プロテスタント)たちが、イングランド王兼スコットランド王ジェームズ1世による弾圧を恐れてメイフラワー号に乗り、新大陸に渡ったことを「建国」のはじまりとしているのがアメリカ合衆国の成り立ちである。

だから、「信仰の自由」について厳格なのがアメリカ人というひとたちだ。
わが国では、一向一揆の果て、徳川家康による本願寺東西分裂の画策が成功し、さらに、島原の乱を制圧してこのかた、「信仰の自由」を厳密にかんがえないようになって400年あまりが経過している。

そんなわけで、子どもでも憲法に違和感をもつのは、第18条の「奴隷」とならんで、この89条なのである。
それは、日本国の成り立ちを無視した、アメリカの事情がプンプン臭うからである。

しかし、国家として、社会として、信仰というものの自由を認めるということは、ものすごい決心なのである。
それは、知の伝統「リベラルアーツ(自由7科)」の構造をみればよくわかる。
これらをとりまとめるのがこの上の「哲学」で、さらに最上位に「神学」がある。

つまり、神への信仰あっての自由なのである。信仰の自由こそ、すべての自由の源泉なのだ。
したがって、子どもに受けさせる教育も、信仰による選択の自由が保障されなければならない、とアメリカ人はかんがえている。

だから、国家の介入を嫌うばかりか「拒否する」のである。
そうしないと、簡単に自由を失うからである。
そのために、「公金」だって受け取らないぞ、ということで、まさに悪魔のささやきを拒否するという態度を、思わず日本国憲法にも書いたのである。

しかし、こうしたアメリカ人の常識が通じないのが、日本国・日本国民なのである。
それで、私学助成という公金の支出については、内閣法制局も最高裁も、私学といえども「公の支配に属している」ということで、「合憲」としているのだ。

このときの「公の支配」とは、簡単にいえば「文部科学省の支配」ということである。
つまるところ、アメリカ人が想定した真逆の現象を、「これでよし」とし、「自由の喪失」についてはかんがえない家康以来400年の伝統が生きている。

だから、「教育の自由化」の意味が、「中高一貫」とか、私学の「学費無償化」の方向に行く。
本来あるべきはずの、質的向上すら、授業の質的向上ではなくて、あたらしい教科の導入になってしまうのだ。

それもこれも、文部科学省の支配の強化が目的で、自由のさらなる喪失をだれも気にしないことが基礎にあるのだけれども、憲法違反にならないようにするという本末転倒がまず最初にあることが重要なのだ。

どうせ私学に行かせても学費が無料になるなら、公立学校を私学化させればよい。
教育クーポンを子ども宛に発行して、好きな学校選択という手もある。
人気校は、抽選でよい。

すると、実績と気概のある私学が、高額の授業料をとって、文科省の支配から離脱するかもしれない。助成金をもらわないと、経営が成り立たないようにしたから、値上げしないといけないはずだ。
これを「格差助長」というなかれ。
いまだって、高額の授業料をとっているのだ。

それよりも、自由を取り戻す学校ができることが、よほど国民福祉に合致する。
「学歴」の意味が急速に失われている現代社会にあって、「卒」よりも「スキル」が重視されている。

学問研究のための大学と、スキル付与のための教育機関に分離するゆえんがここにある。

再度の緊急事態宣ってなんだ?

以下は、国内に限った話なのであらかじめご承知おきを。

緊急事態宣言とは、『新型インフルエンザ等対策特別措置法』の「等」にあたる「新型コロナウイルス」に対する措置として、内閣総理大臣が「宣言」すると、大幅に都道府県知事へ権限が委譲されることになるものだ。
この権限を、市町村長にもよこせと知事たちが「経済再生担当大臣」に要求している。

すっかり、この病気の「担当大臣」になった感があるけれど、緊急事態宣言を出すのは内閣総理大臣であるし、内閣は国会に報告の義務を負っている。

以上の文から、問題点が3つ出てくる。
・前回の緊急事態宣言と終息宣言の期間と終わってからの今までについて
・地方自治法における知事の権限と市町村長の権限の曖昧さについて
・そもそもの「病気蔓延の根拠」が不明なことについて放置されていること

3番目の「そもそも」が、一番の問題である。
「病気蔓延の根拠」とは、ふつうは「患者数」のことをいう。
もちろん、「患者」とは、「発症して医師から当該の感染症だと診断をうけたひと」を指す。

これが、厳密に行われなければならないのは、社会に広がる病気の蔓延について識ることができる唯一の方法だからである。

その仕組みは、従来のインフルエンザと同じで、現場の医療機関が「診断」した報告が地元保健所に届き、これを地方上部機関がとりまとめ、さらに国ベースでとりまとめるのである。
もちろん、現場の医療機関には「報告義務」があるから成立している。

今回の場合、この仕組みが無視され、なぜか「PCR検査」による、「感染者」を根拠にしてしまっている。
これが、感染症に対して、「意図的」で「悪質」な方法であるのは以下の2点がある。

・感染がはじまった初期の頃、今回のウィルスの遺伝子解析ができていないのに「PCR検査」を基準として、「陰性」と「陽性」の混乱が起きた。
・遺伝子解析ができた後の「PCR検査」の精度は向上したが、「感染」の概念が曖昧なまま放置されている。

特に後者には重要な問題があって、一般に細胞にウィルスが付着した「だけ」の状態を「感染とはいわない」のに、最新のPCR検査では「陽性」になってしまうのだ。
したがって、発症もしていないひとを「隔離する」という、過剰なことが行われている。

人間が発症に要する、ウィルスの数は10万個とも100万個ともいわれているけど、付着しただけの状態では自然免疫が働きだすので、その後の攻撃で何事もなく済む場合だってある。
もちろん、本人も自分の体内でなにが起きているのを知る由もないままだ。

これだけのウィルスが、細胞に付着したあと、細胞に侵入し増殖を開始したとき「感染」という。

しかも、PCR検査を実施するひとたちをどうやって選んでいるのか?という問題もある。
たとえば、豊島区はローラー作戦、新宿区は夜の街作戦という違いがある。
よって、感染者「数」の数字だけをみても意味はないし、検査数との比率も公表されていない。

夜の街の一部で、積極的にPCR検査を受けるひとがいるというのは、新宿区が「陽性者=感染者」と決めつけて、10万円の見舞金を支給するからである。
さらに、「陽性者=感染者」がその後どのくらいの数と比率で、「発症した」のかも発表されていないし、それから重篤化したのかもわからない。

つまり、「砂上の楼閣」、あるいは「幻(まぼろし)」なのである。

われわれの社会は、幻を見て大騒ぎしている。

今般の知事たちの要請が、さもありなんと思えるのは、冒頭の問題点の2番目、地方自治法における知事と市町村長の権限の曖昧さという点である。
法律に曖昧さがあるなら、これを放置しているのは「国会の怠慢」なのだが、三権分立をしていないわが国では、総務省の役人の怠慢となっている。

でも、ぜんぜん「怠慢」なのではなく、その方が総務省の役人にとって都合がいいからである。
そこに、介入の余地ができるからだ。
こうして、総務省の役人は、全国の「自治体」という組織から「自治」を骨抜きにして、命令できるのである。

冒頭の問題点の1番目は、緊急事態宣言発令中よりも、解除された後の方が「厳しい強制」になっていることだ。
終息解除となれば、知事に与えられた権限もなくなるはずなのに、おおくの知事はこれを返上しなかった。

少なくても、『新型インフルエンザ等対策特別措置法』に「違反」している。
ましてや、「県からの指示」と称して、店内マスク着用義務なぞは、「憲法違反」の誹りを免れない。

これを、三権分立していないわが国の「司法」は、やっぱり「無関心」を装って、なにもしないのである。
最後の砦、裁判所の無作為は、犯罪的なのである。

そんなわけで、権限を返さない知事たちを叱るでもない担当大臣は、盗人に追い銭のごとく市町村長にも権限をよこせと追求されているの「図」なのである。

「命令できる」って、こんな気持のいいことはない。
もはや、国民も市民も憲法もない。
だから、国会も「報告待ち」でぜんぜん攻めないどころか他人事だ。
司法の堕落は国会よりも悪質かもしれないのは、「国民生活の自由を奪う緊急事態宣言は憲法違反の可能性がある」とひと言いえばすむからである。

香港よりも酷い国にわれわれは住んでいる。
なるほど、香港人の移住先に選ばれない理由がこれだ。

台湾承認という踏み絵

『台湾』なのか『中華民国』なのか?というややこしい問題も内包しているのだけれども、ここにきて一斉に「国家承認」というはなしが現実味をおびてきている。

豪州や欧州の流れもあるが、なんといってもアメリカ合衆国の動向が注目される。
この国は、「わが国とちがって」三権分立が確立しているから、日本のマスコミが混同する「政権=行政権」のはなしと「議会=立法府」のはなしは、ちゃんと分けておかないとわからなくなる。

台湾承認を進めているのは、政権ではなく議会の方なのだ。
もちろん、上下両院の議会には共和党と民主党の対立があるのだが、こと「台湾」というよりも「大陸」に対しての目線では、このところ両党共に一致している。

日本的ないいかただと、「挙国一致」の状態なのである。
ただし、議会のことである。
アメリカの行政は議会の決定に従う、という順番だから念のため。
わが国だと、行政が「挙国一致」になるので「挙国一致内閣」となる。

北京政府と国交回復したのは、共和党のニクソン政権だった。
このときのスターは、キッシンジャーということになっているけど、上に書いたように議会の承認がないと、大統領だって好きにはできない。
だから、ニクソンをして、この外交上の重要決定において、「怪物を育ててしまうのではないか」という懸念をもっていたという。

半世紀が経ったいま、ニクソンの「懸念」が、それどころか歴史的まちがいだったという結論へと議会では話が進んでいる。
政権側もこの流れに反することはなさそうだから、支持率で劣る現職には決断しやすい環境ができつつある。

もともと、「一つの中国」を要求されて、これをまるまる呑んだからできた米中国交正常化だったので、アメリカの同盟国はぜんぶがこの要求を呑み込んだのだった。それで、中華民国は国連の常任理事国を追われ、一斉に「断交」の憂き目にあった。

けれども、アメリカは、すぐさま『台湾関係法』という「国内法」をつくり、事実上の関係を維持してきた経緯がある。
日本もこれにならったが、法整備をしてはいない。
ゆえに、アメリカとはちがって、大陸から文句をいわれても「民間事業です」と言い切れたことを「よし」としている。

その国内法を強化しだしたのがアメリカ議会で、アメリカ政府高官が台湾高官との直接的な交流をするように命じた『台湾旅行法』を制定したし、最新の法律は、国交がなくても高度な兵器を相手に売却できるとした、『台湾武器輸出法』もつくっている。

各役所の官僚が起草するのが「ほとんどの法案」になっているわが国民としては、アメリカ議会の活動にかえって違和感すらある。
あちらでは、議員立法「しか」なく、官僚が立法に関与すること自体がかんがえられないからである。

そんなわけで、ここまで法律ができてくると、次は「国家承認しかない」という段階しかのこっていない。

これは、アメリカの国務長官演説ではっきり強調したように、とうとう「国家」と「党」は別物という認識をしはじめたことに原因がある。
国民国家とそれを支配する党は別で、倒すべき敵は党であると明言したのだ。

大陸への認識は、自由世界の一致があるだろう。
すると、台湾に対しては、急速にわが国のいい分も生まれてくる。
それは、根本的な「台湾の帰属問題」なのである。
わが国は果たして台湾を、「独立国家」として認めていいのか?

そもそもが、日本なのではないか?

「下関条約」の有効性と、敗戦による国民党支配との流れに対する大問題なのだ。
どさくさに紛れて、マッカーサーが蒋介石の台湾占領行動を阻止しなかったので、じつは国際法的に台湾の帰属問題が宙に浮いている状態が続いている。

あたかも、日本に戦後賠償を要求しなかった蒋介石を、わが国でも「偉人」とか「恩人」あつかいにするひとたちがいるけれど、すべての日本政府と国民の資産を没収したのだから、どこが「偉いひと」で「感謝」しなければならないものか?

むしろ、日本人だった台湾島住民(「本省人」という)に対する、大量虐殺(赤ではないから「白色テロ」といわれる)を国民党独裁政権はやっている。

つまり、少なくてもわが国の立場からすれば、党と国を分けてかんがえれば、敵は国民党である、という立場を自由圏のお仲間うちに強調しないと筋が通らないのである。
そして、その国民党は『中華民国』を仮面にしているのだ。

国民党一党独裁を破壊したのは、内側から出世して国民党総統になった岩里政男(李登輝)氏である。
こうして、現政権をささえる新党ができ、民主化を成功させたのだから、現代政治における「偉人」とは、このひとをいう。

さては、日本国は岩里政男氏の顔に泥を塗るのか、はたまたこの人物のいう「主張」を実現するための行動をするのか?が問われているのである。
大陸の「赤」も、台湾島の「白」も、似たもの同士なのである。

その意味でも、わが国は、『台湾』は日本領なのである、と主張すべきなのだ。

役人歓喜の省令改正と国民奴隷化

このブログにおいて、何度も「レジ袋の有料化」について批判してきた。
法律の改正「ではなく」て、省令改正という役人の任意にちかい方法をとったことが「悪質」であるとも書いた。
国家による国民の生活経済への「脅し」という手法が、まかり通ることを意味するからである。

しかし、今回の「省令改正」には、従来にない「罰則」とリンクするという「技」が折り込まれていて、たんなる「脅し」から、完全な「脅迫」の構造になっているので書いておく。

まずは、元凶となっている「法律」から。
容器包装に係る分別収集及び再商品化の促進等に関する法律(平成七年法律第百十二号)
このときは、自民党と社会党の連立というむちゃくちゃだった、村山内閣である。
なお、経産大臣は、次の首相になった橋本龍太郎だった。

さて、罰則もいろんなことが定められているけれど、今回の「レジ袋」に関係するのは、以下に載せた条文である。
「第四十六条の二 第七条の七第三項の規定による命令に違反した者は、五十万円以下の罰金に処する。」

文中「第7条の」に続く「命令に違反した者は」と、国家が定めた国民生活に係わる「命令なのだ」ということが明記されていることに注目しよう。
そこで、対象となる「規定」は以下のとおり。

「主務大臣は、第一項に規定する勧告を受けた容器包装多量利用事業者が、前項の規定によりその勧告に従わなかった旨を公表された後において、なお、正当な理由がなくてその勧告に係る措置をとらなかった場合において、容器包装の使用の合理化による容器包装廃棄物の排出の抑制の促進を著しく害すると認めるときは、審議会等(国家行政組織法(昭和二十三年法律第百二十号)第八条に規定する機関をいう。)で政令で定めるものの意見を聴いて、当該容器包装多量利用事業者に対し、その勧告に係る措置をとるべきことを命ずることができる。」

主務大臣とは、経産大臣のことだから、念のため。
レジ袋の有料化の「プロパガンダ」には、「地球環境」とかいう用語が多用されている。
だから、あたかも「環境大臣」や「環境省」が「主務」とか「管轄」しているように誤解してしまう。

しかし、環境省っていうのは、もとが「環境庁」だった。
この役所ができた発端は、水俣病という人為による病気被害が1956年に明らかになって社会問題になったことに起因している。
しかして、15年も経った1971年に発足した「庁」である。

それから、30年後の2001年に「省」へ昇格している。
つまり、わが国官僚機構でいえば、かなり格下の役所である。
もちろん、最上位に大蔵・財務省という鉄板の予算編成権と国税徴集警察が君臨している。

これと「並んで」、日本経済の根幹を支える、という嘘にまみれた役所が通産省・経産省だ。
いまや、経済学的にも、経済史的にも、経産省が日本経済の役に立っているという議論は消極的で、むしろ邪魔をするという定評だけはある。

それでも経産省が経済界に君臨しているように見えるのは、バラマキのおかげなのである。
もちろん、かれらがばら撒くのは、国民の税金で自分のカネではない。
大蔵・財務の主計官僚を説得すればよく、国民を説得する必要などほとんどない。

でも、ただでおカネがもらえることを喜ぶ財界乞食や学者乞食がたくさんいるので、そんなやつらの権威を利用したイエスマンたちの審議会を通せば、国会審議をおそれることはない。
それで、ちゃんと「審議会等(国家行政組織法(昭和二十三年法律第百二十号)第八条に規定する機関をいう。)」と書いてある。

つまるところ、レジ袋の有料化の問題とは、地球環境でもレジ袋の削減でもなんでもなく、省令と罰則をリンクさせることに成功した「前例」という実績ができたことにある。
経産省のエリートが地球環境やレジ袋の削減に「本気」のはずがないのである。

いま大騒ぎの「GoTo」は4月7日の「補正予算」で決まったことをやっている「お役所仕事」にすぎない。
一度決めたら、なんとしても実行するのが役人の行動原理なので、「止まらない」のである。こうして、あの戦争もやっていた。

兆円単位のこれに隠れて、予算枠は地味だけど2000億円規模の補助金制度ができている。
中国・香港からの事業引き揚げ(帰国あるいは第三国への移転)に係わる補助金である。

米中の摩擦がエスカレートしているこの時期、経営判断としてどうするかを決めるのは経営者の仕事だが、これに国が関与する正当な理由はなにか?
不測の事態で最悪なのは、在住者の人命など身体にかかわる危機になったときの「脱出・救助」である。

しかし、役人は何もできない理由をならべるにちがいない。
「ほら、あの時、補助金をだしてやる、っていったのに」と。

令和2年とは、国家が国民生活に命令する年となったのである。
忘れずに、肝に銘じておきたい。

国民の祝日に関する法律の特例だってさ

7月なのに4連休になったのは、コロナのせいではなく、オリンピックのせいだったことを覚えているだろうか?
こうした、「祝日」を定めているのが、『国民の祝日に関する法律』(昭和23年法律第178号)である。

あっさり読み飛ばしてしまうのが、( )の中なのだが、わざわざ( )で括る意味もある。
昭和23年とは、いわゆる占領中にあたるので、何気ない法律だけれど
GHQの意向をたっぷり忖度している法律とも読める。

わが国の適当さ、あるいは、当時のおとなの事情があって、占領が終わって独立を回復したとき、占領下での法律の根本的見直しを「しなかった」ので、そのまま占領されっぱなし状態が続いている。
もちろん、このなかには『日本国憲法』もある。

どうして「祝日」にならないのか不思議だが、日本が「主権を回復した日」が忘れられている。
それは、1952年(昭和27年)4月28日である。
ふつうなら「独立記念日」なのだけど、自助努力で独立を勝ち取ったというよりは、なんだか「許可された」感がある。

念のためだが、安倍内閣は2013年(平成25年)に、閣議決定という形式で「主権回復の日」を定めたが、国民の祝日に至ってはいない。
主権回復=独立国、になるのが嫌なひとがたくさんいるからだろう。

ただ、日本人としての矜持をみせたのは、戦犯の身分回復であった。
これには4回も国会決議がなされていて、ぜんぶが「全会一致」であった。
昭和27年6月9日「戦犯在所者の釈放等に関する決議」
同年12月9日「戦争犯罪による受刑者の釈放等に関する決議」
昭和28年8月3日「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議」
昭和30年7月19日「戦争受刑者の即時釈放要請に関する決議」

そんなわけで、法的にわが国には「戦犯:戦争犯罪人」は存在しない。
「戦犯」についてこのような根性ある決議がなされたのに、そのほかのものが修正もされないで今日に至っているのは、これもGHQ(=アメリカ)の意向が反映されているからとかんがえるのがふつうではないのか?

裏返せば「戦犯」という概念のつくりかたに無理があったことをアメリカ側も知っていて、「やりすぎ」だと思った可能性があるし、冷戦による味方としての日本の取り込みのための方策だったのかもしれない。
戦犯の名誉回復は、あたかも主権を回復したという、本当は方便にすぎないものを信じ込ませる心理戦の一環だったとも思われる。

だから、正々堂々と今日も『国民の祝日に関する法律』なるものが存在し続けているのだろう。
戦中・戦前期にあった「祝日」と「祭日」の区分がなくなったことをかんがえてみればよくわかる。

『皇室祭祀令』廃止という前提がある。
皇室が行う神道の大事な行事(祭祀)の日を「祭日」として、それ以外の「祝日」と分けていた。
つまり、『皇室祭祀令』が廃止された理由である、「占領」ということがここでも首をもたげるのだ。

だから、接続的な意味として、「新嘗祭」を「勤労感謝の日」に言い改めためて、明治6年以来の11月23日と定めたのだ。
しかし、『国民の祝日に関する法律』では、「ハッピーマンデー」と称して連休化させるという「飴」の改正を用い、徐々に「その日」の意味を薄めることを謀っている。

すなわち、物理的な「休日」としての意味しかないような、薄っぺらな日にすることを推進しているともいえる。
たとえば、今年から「体育の日」はなくなり「スポーツの日」へと名称が変わるけど、とっくに「体育の日」は10月10日ではなくて、10月の第二月曜日になってしまった。

前回の東京オリンピックをいつ開会するのか?という問題は、「快晴の秋晴れの日にしたい」ということから、観測以来の「晴れの得意日」として、10月10日に決めたのだ。
その甲斐あって、当日は青空のキャンバスにブルーインパルスが描く五輪が映えたのだった。

開会日を自分たちで決められる。

この何気ないことが、じつは「主権回復」に対する当時の国民の喜びと合致しているのだ。

果たして、今回のオリンピックは、だれが開会日を決めたのだっけ?
延期になっても、やっぱり「酷暑」にやるという。
わが国衰退の象徴的イベントに成り下がっている。
二次関数のグラフのように、昇りと降りの局面がイメージになっている。

法律だから、国民の祝日に関する法律(昭和23年法律第178号)の特例、として、「海の日」が23日、「スポーツの日」を24日にすることで、4連休をつくったのが平成30年6月20日(施行日)である。
こんな前に決めておいて、まさかの延期に、対応できない。

この機動力のなさこそが、国家衰退の原因なのである。
これぞ、国民主権なき国家依存の強烈な副作用なのだ。

果たして、昨日、初めての「スポーツの日」を消化したから、ことしの10月に祝日はない。
だから余計に10月10日が、今年も晴れるのか?に興味がわく。

国家主権の源泉に国民主権があるものを、外出するなという為政者に、今日はなんの日?と聞く気もしないのであった。
スポーツの日に外出するなとは、ブラックジョークにもならない。

東京オリンピック開会のはずの日

わが家周辺では、昨日の21日、今夏初の蝉が鳴いた。
一匹だけのようだったから、フライングしたうっかりものだったのだろうか?

うっかりといえば、本来なら大騒ぎのはずの、今日が東京オリンピック開会のはずだった日であることをすっかり忘れて、連休中他県などに旅行にも行けないで梅雨空のごとく自宅でぐずついていることだ。

来年、オリンピックの開催がどうなるのかは予想もできないけれど、東京だけでなく北京オリンピックという冬季大会だってどうなるものか。
再来年のことだからずっと先、ではない。
冬なので、年明け早々の開催予定になっている。

「新型」の解明よりも、臨床で「風邪」だとわかったものを、相変わらず「感染者数増大」といってあおるのだから、自宅でぐずつきながら観るのはユーチューブである。

AIのおかげだか、なんの因果かしらないが、突然観たことがなくて、やや古い動画が現れることがある。
べつだんニュース・ウオッチをしているわけでもないのだが、まだ病気に無防備だった半年前の1月に、ものすごいニュースがあったことに気づかされた。

アメリカの陸軍長官が、早ければ来年、尖閣に米陸軍基地をつくって、極超音速ミサイルを配備すると発言したというものだ。
ぜんぜんしらなかった。
裏をとるために検索したら、これは、「本当」だった。

しかし、わが国政府の反応を識ろうにもどこにもないのである。
隠蔽なのかなんなのか?
やっぱり「隠蔽」しか考えられない。

100日を超えて外国の「公船」やらが領海に入ってきているのは、陸軍長官の発言の後なので、繰り返し入ってくるようになった外国の方が敏感なのだろう。
いやむしろ、わが国の「鈍感」は「無感」に近い。

アメリカの本気は、東南アジアの海にもあって、空母機動部隊が二つも同じ海域で合同訓練をしている。
これに、文官である国防長官や国務長官がそろって、珊瑚礁を勝手に埋めたてて軍事基地にしている国を、けっこうきつい言いかたで批難している。

けれども、すさまじいのは議会の方だ。
アメリカの与野党が、競うように批難しているのだから、政府はこれに従わざるを得ない。
日本の議会が、政府に従っているのと逆だから、あたかも大統領のせいにしてみたがるけれど、どう見ても鼻息の荒さは議会がうわまっている。

世界が注目するアメリカ大統領選挙の動向は、なんだか現職不利で固まってきた。
戦後、現職が二期目の選挙に敗北して一期で終えたのは、たったの3例。
フォード(共和)、カーター(民主)、父ブッシュ(共和)である。

今回の選挙の不思議は、民主党のへんな行動にある。
予備選の最中に、どうしてトランプ弾劾裁判をやったのか?である。
この「ウクライナ疑惑」で、もっとも怪しい人物とは、トランプよりもバイデン親子の方だった。

しかも、共和党が多数を占める上院で、弾劾が成立はずもなかった。
ひとりの裏切りもなく、上院は弾劾否決したけど、これで盛り上がったのは民主党の予備選だったから、なんだか党内の「バイデン降ろし」にしかおもえない。

外交的に主たる成果がなにもなかったオバマ政権の8年間で、怪しい動きをしていたのが、副大統領だったバイデンだ。
彼は、仮想敵国担当だったのに、いま大騒ぎしている珊瑚礁の埋め立てにも、「やめておくれよー」というだけでなにもしなかった。

しかし、やっぱり息子が何回も相手国に行っていて、なにをしていたのかいまだにさっぱりわからない。
巨額の不明資金を得たことだけが「うわさ」になっている。
そんなバイデンも、いまは立派な「強硬派」なのである。

そんなわけで、共和党の大統領ではあまり例がないけれど、トランプには「開戦」という奥の手がある。
従来は、民主党政権がはじめた戦争を、共和党政権が終結させるというパターンだったが、これが崩れるかもしれない。

流行病があって、巨大な水害があって、バッタの蝗害も懸念されるなか、東南アジアの海ががぜん「波高し」になっている。
かつて、初の女性総理候補といわれ「総務会長」の要職あったホテル出身の政治家が、珊瑚礁の埋めたてについて質問されて、「日本から遠すぎるので関係ない」と答えたことが印象に残る。

わが国の最重要物資である、石油がどういうルートで運ばれているかをしらなくても、与党の総務会長が務まるとは、敵対する外国勢力にとっては、笑いが止まらなかっただろう。
もし彼女が総理になったら、それは、こうした国の支配下にわが国がなったということだ。

これから秋口にかけて勃発するかもしれないのは、アメリカからの仕掛けか?それとも埋めたてた側が先手に打って出るのか?

夏・冬のオリンピック2大会を吹き飛ばすには、これ以上の理由もない。
果たして、わが国にその覚悟は?

マスクがなくなるどころの騒ぎじゃないことが起こるのである。

大雨の理由がほしい

ひとは、見えるモノをみて、見えないモノはみない。
楽だからである。
なので、見えないモノをみえるように継続的に努力すると、どんな分野でも本来の「専門家」になる。

裏返せば、見えないモノをみないままでいたら、いつまでたっても「素人」のままだから、年齢や人生経験との関係がなくなってしまう。
困った老人は、こうやってつくられるのだ。
だからこれを、「安逸な人生」ともいう。

豊かな時代には、だれでも安逸な人生を送りやすい環境が整っている、という意味もある。
それが、5歳児を前提とする「チコちゃん」が生まれた背景だろう。
安逸な人生を送ってきたひとたちが、よろこんで『チコちゃんに叱られる!』のを観るのは、安逸な人生の仲間の多さに安心するからである。

「ボーっと生きてんじゃねぇよ」

この決め言葉の汚さは、公共放送が「日本語の守護神をやめてしまった証拠」でもある。
しかし、この決め言葉に「安心する」視聴者の多さこそ、安逸な国であることの証左なのである。

そんなわけで、安逸なひとたちは、情報に対してパッシブ(積極的ではなく受動的)である。
いわゆる、「ボーっ」として情報を受けとめているだけだから、受けとめた情報について「考えない」という癖がついている。

ただし、記憶にはのこる。
それで、脳内の情報整理も整頓もできないから、支離滅裂な情報に接しても、ただ漫然と受けとめて、ただ漫然と記憶してしまうのだ。
そして、それがなんとなく「トレンド」だとすれば、よろこんで記憶する。

あたかも、時代の先端をしっている気がするし、そんなひとの数が多いので、仲間うちの話題に事欠かないという利便性すらあるのである。
果たして、その「トレンド」とは、テレビでやっていた、というだけの理由なのである。

老眼がすすんで、読書が面倒になれば、優良図書を購入もしない。
時間があるので近所の図書館にでかければ、今日の新聞をただで読める。
こうしたひとたちだからといって、若いときに本を読まなかったのではなく、むしろ積極的に勉強もした。

そうでないと、会社で「乗り遅れる」からである。
しかし、それでも「トレンド」には敏感で、この世代のひとたちは、『カモメのジョナサン』(日本語版は1974年)をぜったいに購入して読んでいる。なぜだか突然「世界的ブーム」になったと宣伝されて、それに反応したのである。

世界的に感染者が増えているという報道に、右往左往するのは、きっとこの本のヒットの理由とおなじ、おそろしく長い「延長」なのだ。

今年の九州の大雨も、「地球温暖化」が原因だといえば、なんとなく納得する。
それで、ダムを造らない政策が災害の原因だということになる。

しかし、ダムを造らない政策を掲げて選挙にでたひとが何期も知事に選ばれているから、被災者には申し訳ないが自業自得である。
残念ながら、これが民主主義なのである。

ところで、地球はほんとうに温暖化しているのだろうか?
そして、それが原因で、大雨が降って地上での災害になっているのだろうか?

科学のこたえは、「あやしい」のだ。
ほんとうに「温暖化ガス(一般に二酸化炭素)の増加」が原因なのか?
先日紹介した、『日経サイエンス8月号』に、宇宙気候学のトップランナー、宮原ひろ子武蔵野美術大学准教授の研究を紹介した記事がある。

太陽活動と地球の気候の関係には、深いものがあるのだ。
太陽の活動周期と地球の磁場の関係、放射線と地球の雲の生成の関係、もちろん、太陽活動が活発なら地球も暖かで、そうでないと氷河期になる。
いま、200年ぶりの太陽活動の異変が起きている可能性があるという。

それは、地球にどんなことをもたらすのか?
本ブログ『太陽が弱っている』で昨年書いたことだ。

お天道様を無視して、傲慢にも人間活動で惑星の環境が悪化するとかんがえて大騒ぎする。
あたかも、モーゼが十戒を賜って山をおりたら、乱痴気騒ぎをしていた人々のごとくである。

東京理科大の渡辺正教授は、これまで100兆円を投じたわが国の「温暖化対策」について、「ムダ」だったと指摘している。
このうちのわずか数パーセントでも、九州の治水に用いたらずいぶんと災害が防止できるだろうに、と。

古来からの太陽信仰や自然信仰をやめて、エセ科学に利権を見出した日本という国家の大失敗である。
しかし、いまや、大雨の理由がほしい安逸な人生を貪ったひとたちこそが、100兆円をムダだと認識せずに、かえってムダだとする正論に攻撃的になるのである。

見えるモノをみたがって、見えないモノはまじめに排除する。

これこそが、安逸な人生の秘訣なのである。

ぼーっと生きてんじゃねーよ、といいたい。

科学からの提言はシンプル

ようやく「科学」からの提言がでてきた。
発言者は、京都大学ウイルス・再生医科学研究所の宮沢孝幸准教授である。
その提言とは、「100分の一作戦」だ。
先生は3月から提唱しているというけれど、ようやくしることができたので書いておこうとおもう。

ウィルス感染の仕組みのなかで、肝心要なことは、「一個」だけではぜんぜん感染しないという事実である。
ではどくらいの数かといえば、1万個とか100万個なのである。
これだけの数のウィルスに私たちの細胞が触れることで、「感染成立する」という。

さて、ウィルスや細菌などが原因となる感染症には、「再生産数」という「感染力」を示す数値がある。
面倒なのが、二種類の「再生産数」があって、省略して使われると、素人には混乱が生じやすい。

経済でいわれる「生産性」は、「労働生産性」とも「付加価値生産性」ともいうけれど、略して「生産性」といっても混乱が少ないのは、意味が同じだからだ。
しかし、感染症の「再生産数」はそうはいかない。

「基本再生産数(R0)」と「実効再生産数(Rt)」の二種類である。
基本再生産数は、「感染者が、まだその感染症の免疫を1人も持っていない集団に混じったときに生み出す新規感染者数の平均値」のことで、その病原体が持つ「素」の感染力に相当する。

「実効再生産数」は、「現実に起きている再生産数」のことだから、「対策」の効果によっても変化するし、そもそも全員の感染状況の把握も難しい。
なので、感染力をみるには「基本再生産数」が重視されるのである。

また、感染には三系統がある。
・空気感染
・飛沫感染
・接触感染 である。

空気感染と飛沫感染の区別はあんがいと困難なので、専門家でも厳密な区分をしないことがある。
空気中に浮遊している病原体から感染するのが「空気感染」なのだけど、空気中にある「飛沫」で感染したら「飛沫感染」になるからである。

今回のウィルスは、「飛沫」という意味の空気感染に意味があって、さらに、物に付着したのを手で触って自分の目や口などをこすることで感染するのが「接触感染」である。

はしかウィルスの空気感染力は12~16というほどの威力がある。
しかし、今回のウィルスの基本再生産数は、1.4~2.5という値で、はるかに低いし、法律にもなった新型インフルエンザウィルス(およそ2.0~2.4)よりも小さいといえる。

そんなわけで、今回のウィルスは、「数で勝負」することが、生き残り戦略になっているといえそうだ。
特徴的な疫学データも揃ってきていて、ウィルス数は、発症前1日~2日から他人に感染させる能力を持ち、発症後10日でウィルス数は100分の一になって感染力がなくなることがわかってきている。

ところが、発症前でも発症後10日の感染力を消失した状態ても、PCR検査をすれば「すべて陽性になる」から、ただ「陽性だから」ということだけでは、過剰な=ムダな心配なのである。
すると、ピーク時の10分の一程度でも、他人に感染させる能力を失っている可能性がある。

石鹸で手を洗うのは、100万個をゼロにするやり方だけれど、1万個にするだけでも感染は防止できる。
それは、流水だけで15秒の手洗いですむし、接触感染の危険部位は特に「指先」なので、ここを重点的に洗えばよい。

飛沫感染からは、本来、咳やクシャミをしている発症者がマスクをすれば防止できる。
それに、電車などの公共交通機関で感染したという事例はない。
無言でいれば、飛沫も飛ばない。

その意味でいえば、居酒屋などで感染するのは大声による飛沫もあるが、手洗い後にトイレのドアを触ってしまうことの方が可能性としては大きいだろう。

また、重要な知識のなかに、「免疫」があることも忘れてはならない。
われわれ人間には、三重の免疫システムが用意されている。
先天性の免疫として、「自然免疫」がある。
異物を検知したら、自動的に発動するかわりに、その異物に対しての「記憶」はしない。

二つ目が「抗体」をつくる能力。三つ目が「細胞性免疫」である。
あわせて「獲得免疫」という。これらは、生後に獲得する。
たとえば、ワクチンはわざと低毒化させた病原体を注射して、むりやり体内に抗体をつくらせるしくみである。

第一段階の自然免疫は、あらゆるウィルスなどに対応して、体内で攻撃してやっつける仕事をするから、自然に治ってしまう。
そのかわり、抗体も細胞性免疫もつくらないので、いつでも何度でも登場している。

この自然免疫という防御システムを突破されてできるのが、第二段階の「獲得免疫」である。敵にあわせて抗体をつくったり、細胞までもあらたにつくりだして攻撃し、ときには食べてしまう。

今回のウィルスに対応する抗体や免疫細胞がつくられるスピードが遅いのは、おそらく、「弱毒」だから、とかんがえられているのだ。

「頭で考えることによる感染防止」こそが重要である。
100%を目指す必要がない、ということが精神を安定させるのだ。

心の健康=レジリエンスの科学

刺激であるストレッサーが原因となって、ストレスがうまれる。
身体的な痛みもストレッサーだから、連続して受ければストレスになる。
けれども、あんがい人に影響があるストレッサーとは、社会だったりするのである。

人は一人では生きていけない。
つまり、人間社会、という集団のなかでしか生きられず、組織という特定集団こそが自分の居場所になるから、それ自体がストレッサーになってしまうことがあるのだ。

その最小単位が、家族だったり職場だったりする。
しかし、これらの身近な人たちから受けるのは、なにも悪いことばかりではなく、むしろ「幸福感」だってある。
すなわち、「相互作用」なのだ。

さまざまなストレッサーからうまれたストレスに、対処できる能力を「レジリエンス」という。
はね返す能力のことだ。
だから、レジリエンスがある人を、ストレスに強いとか、タフという。

世の中の全員にレジリエンスがあればよいが、そうはいかないのも人間であって、あえていえば、「個体差」がある。
生まれつきか、育ちによるか、それとも性格か?あるいは、社会経験も影響するので、おとなになっても変化する。

たとえば、この流行病では、意外と高齢者に強いストレスとなって、著しい行動変化をみることができた。
ふつう、人生経験豊富な高齢者は、社会的なストレッサーには対処能力が高いと考えられてきたからである。

しかし、高齢者ほど重症化する、という情報によってまったくちがう様相を示したのである。
あれだけいわれた、病院通いがパタッと止まった。
待合室における三密のリスクを避ける行動が、自身の病気リスクを上回ると判断したからである。

これによって、医療機関が受け取る報酬がどのくらい減ったのか?
もしや、わが国における「医療崩壊」とは、医療機関の経営難から発生するかもしれない。
近所のクリニックが倒産して、かかりつけ医がいなくなる意味での「崩壊」だ。

すると、こうした目にあった医師や看護師などに、かつてないストレスがかかることになるから、その精神的な影響はいかなるもので、さらにまた、こうしたことが社会へフィードバックされていくと覚悟しないといけない可能性もある。

もちろん、問題は医療機関だけではなく、これからはじまる「不況」における被害予測というストレッサーがある。
悪いことが予測されるだけで、人はストレスになるのである。
これは、人に思考能力があるからで、負の思考を繰り返すと病的な状態に陥ってしまうのだ。

レジリエンスの科学でいう、楽観的な人ほどレジリエンスがあるのは、楽観的な思考をするからである。
正負を決める恐るべき違いは「自身の思考」による。
だから、他人の思考にあわせる必要もない。

なにがサバイバルになるのか?

自分でかんがえ、行動するしかないという、「当たり前」が、ほんとうに当たり前になる時代がやってきた。
これは、歴史の変わり目なのである。

過去の歴史を振り返って、その時代に生きていた人々は歴史的大転換の時代をどう思って生きていたのか?と問えば、大多数はあんがいと気がついていないのである。
気がついた小数が、その時代をけん引してきた。

これだけ「情報社会」といわれても、現代人の大多数はまだ気がついていないのではないか?
その原因の一つに、マスコミの不安誘導がある。
視聴者の視聴率を高めることだけが、収入源になっているからだ。

つまり、テレビや新聞といったマスコミに接しないことが、心の健康につながるのである。
さらにいえば、正しい情報を自分で探すという手間をかけなければならない時代になった。

「情報社会」とは、正しい情報が向こうから自然にやってくる社会ではなかったのだ。
そして、これが情報格差をつくる。
格差社会の本質がこれである。

テレワークが人々の心の健康にどのような影響を及ぼすのか?
レジリエンスの科学における、長年のテーマが、いま現実として研究対象になっている。
想像で語っていた状態が、現実になったのである。

社会実験が実社会で行われている。

果たして、人が他人と分断されたとき、つながりがないというストレッサーにどう対処して心の健康に役立つのか?
それが「テレワーク」や「リモート」でカバーできるものなのか?
カバーできないとしたら、それはどんなことなのか?

レジリエンスの科学の進展に注目したい。

詳細は、『日経サイエンス8月号』をご覧あれ。