「段取り」が業務になる理由

職人の世界では「段取り」が大変重視されることは、よくしられている。
「準備」とか「始業前点検」とかともいわれるこがあるけれど、やはり「段取り」がもっともしっくりくることばである。

たとえば、なにかの材料を加工するとき、それが金属であろうと木材であろうと、加工するのだから「刃物」がひつようになる。
この刃物をつかって、切ったり削ったりして加工することが、製品作りでいうメインの仕事になるのだが、刃物の切れ味がなまってしまっては「仕事にならない」ことになる。

それで、名人は研ぎの時間を重視して、場合によっては日がな一日刃物を研いでいる。
使う時間よりも研ぎにかける時間のほうが長いかもしれない。
けれども、そこまでしないと「仕事にならない」のである。

いっけん、「刃物研ぎ」のほうが本業にもみえるがそうではない。
あくまでも、切れ味のさきにある「仕上がり」がほしいのである。
つまり、仕事の完成度を高めるためには、道具を整えることをしないとできないからやるのだ。

これを「目的合理性」という。

製品の完成イメージから逆引きして、なにをするかが決まる。
工程どおりに、なにをしたから、製品が完成するというレベルなのではないことに注意がいる。

これは、あんがい「武道」にもいえる。
初心者は、基本どおりの動きの訓練をひたすらくり返して、その「動き」をからだにおぼえさせる。

あんまり「ひたすらくり返す」から、飽きてくる。
それでも「ひたすらくり返す」ように、無理やり仕向けられるのでこれを「鍛錬」というのである。
「身体と心」の両方にストレスをかけさせるのは、これに耐えた先に開ける世界があることを指導者はしっているからである。

さいきんは、子どもが嫌がるからという理由で、ひたすらくり返さなくてもよくなった。
その先にある世界を、おとながしらないからだ。

武道の名人の、すごい演武をみれば、中級者なら「ひたすらくり返す」ことの意味を自分で習得する。
だから、自分から積極的に「ひたすらくり返す」ので、これを初心者が真似るようにできている。

人生が50年しかない時代にできたシステムである。

ところが、人生が100年の時代になったら、「ひたすらくり返す」ことが「無駄」におもえてきたから不思議である。

これは、ゴールがたくさんあって、どれをめざせばいいかがわからなくなったからである。
そんなわけで、「自分探し」を50歳になってもできるのである。

これは、企業だっておなじだ。
そんなゴールがわからないおとなたちの集団が、企業組織をつくっているからである。

それで、「定年」をすぎても「雇用延長」という不可思議な「制度」で、年金をもらえるまでの時間を、半減された年収でもガマンできるのは、「年金受給」が人生のゴールになった悲喜劇である。
だから、公的年金だけでは生活できない、というまっとうな情報に「耐性」がない。

おどろくべき「なまくら人生」ではなかったか?
いったいどんな「鍛錬」を社会生活でしてきたのかと聴いてみたい。
だから、「みなさまの」が枕詞だった公共放送が、幼児のようなキャラクターに「ぼーっと生きてんじゃねーよー」といわれても、ヘラヘラ笑っていられるのだろう。

もちろん、全部ではないだろうけれど、「なまくら人生」のひとたちは、職業人としても「なまくら」だったと想像できるのは、事務職にだって「段取り」はひつようだから、そうした「段取り」をしなくてよい業務経験とはなにか?が気になるのである。

「整理整頓」ができない。
家庭内のことではなく、業務でのことである。

整理とはなにか?
整理の「理」は、理科の理で、理屈の理だ。
つまり、目的合理性の「理」なのである。
したがって、目的に合致して「整える」ことになるので、かならず余分なものは「捨てる」ひつようが発生する。

業務で「整理」するとは、モノなら捨てることが起きるのだが、この対象は「社物」になる。
だから、捨てるための廃棄料金も予算化しておかないと、お金がなくて捨てられないことになるので、結局「整理」がいつまでたってもできない現象となる。

整頓とはなにか?
整頓の「頓」も、整えるという意味だから、「整整」ということになる。
これは、あらかじめ決めた場所に「整えて置く」ということになっている。

以上から、整理整頓は、あらかじめ「段取り」しておかないと、ぜったいにできない。
これには、宇宙の法則でもある「エントロピー」がはたらくからである。

なまくら人生を反省して、段取りをちゃんとしたいものである。
どちらさまも、まだ間に合う。

教育勅語を否定したら

否定するだけ否定したのはいいけれど、それに代わる「柱」をかんがえられなかったら、とうとう本体の「教育」が溶け出した。

予定どおりである。

みごとな「腐食」。
これまでいろいろペンキを塗ってはきたが、もう間に合わない。
そろそろ建て替えをしないといけないけれど、こんどは「国家百年の計」がわからなくなっていたことに気がついた。

これを「末期症状」という。

お正月、初詣でもっとも参拝客が賑わうのは「明治神宮」である。
もちろん、明治天皇と昭憲皇太后(~大正3年)をお祀りしているのだから、できたのは明治ではなく大正9年11月1日である。
ちょうどいまから99年前のことで、来年は百周年だ。

神社としては、あたらしい。
いまはファッションの街となった「表参道」だって、読んで字のごとく明治神宮参拝のための参道だ。

「天皇制」なることばも、あたらしくできた「左翼用語」だったものがふつうに浸透して、一般国民の脳を腐食させている。
「立憲」をなのる政党が野党第一党ということになってはいるが、このひとたちも「天皇制」といい、「立憲君主制」とは口が裂けてもいわないのである。

わざと「ねじれ」をつくっている。

「保守」を標榜していたはずの政権第一党も、いつのまにか左傾してしまったから、教育勅語にだって厳しい態度をとるのが「正式」になっている。

圧倒的多数で、なにを畏れているのか?
ひょっとして、政権第二党のことなのか?

明治神宮HPにある『教育勅語現代語訳』を以下に転載する。

私は、私達の祖先が、遠大な理想のもとに、道義国家の実現をめざして、日本の国をおはじめになったものと信じます。そして、国民は忠孝両全の道を全うして、全国民が心を合わせて努力した結果、今日に至るまで、見事な成果をあげて参りましたことは、もとより日本のすぐれた国柄の賜物といわねばなりませんが、私は教育の根本もまた、道義立国の達成にあると信じます。

 国民の皆さんは、子は親に孝養を尽くし、兄弟・姉妹は互いに力を合わせて助け合い、夫婦は仲睦まじく解け合い、友人は胸襟を開いて信じ合い、そして自分の言動を慎み、全ての人々に愛の手を差し伸べ、学問を怠らず、職業に専念し、知識を養い、人格を磨き、さらに進んで、社会公共のために貢献し、また、法律や、秩序を守ることは勿論のこと、非常事態の発生の場合は、真心を捧げて、国の平和と安全に奉仕しなければなりません。そして、これらのことは、善良な国民としての当然の努めであるばかりでなく、また、私達の祖先が、今日まで身をもって示し残された伝統的美風を、さらにいっそう明らかにすることでもあります。

 このような国民の歩むべき道は、祖先の教訓として、私達子孫の守らなければならないところであると共に、この教えは、昔も今も変わらぬ正しい道であり、また日本ばかりでなく、外国で行っても、間違いのない道でありますから、私もまた国民の皆さんと共に、祖父の教えを胸に抱いて、立派な日本人となるように、心から念願するものであります。

~国民道徳協会訳文による~

これが、いま、日本国民がその題名「教育勅語」と聴いただけで拒絶反応し、忌み嫌うようになっている文章の全文である。

おそるべき「パブロフの犬」状態ではないか?

しかして、だれも『五箇条の御誓文』は批判しない。
いうとすれば、『御誓文』なのか『誓文』なのかの議論があって、後者を正規とする主張が、教育関係者のなかでは通っているらしい。

なにがあっても、皇室や天皇を見下したい。
それこそが、主権在民だということなのだろう。
そして、こんな程度の議論を延々とやるひとたちが「護憲」を叫びながら、第一条を無視して恥じないのである。

つまり、論理をよそおった「情緒の発散」であって、まさにひとつの「宗教」をなしている。

学校の不祥事はたいがいが生徒の非行だったものが、とうとう教師たちの不祥事となりはてた。
成長期の子どもたちの価値観を溶解する役目を、学校がおこなう倒錯が現実となった。

これは、「革命」である。

一昨日、27日投票の参議院埼玉補選の投票率は「20.81%」。
有権者の5人にひとりしか投票しないで、選挙が成立していいものか?「主権」を放棄しておいて何様か?
すくなくても、埼玉県人は、参議院での議論に文句をいってはならない。

さまざまな議論はあるものの、本来ならば「罰則つき義務投票制」を導入してもいいくらいだ。
これをやらない理由とはなにか?

適切な候補者がいないこと。
適切な政党が存在しないこと。

どうしてこうなったのか?をかんがえれば、国民の共通基盤をなす価値観が、教育勅語の否定によってなくなってしまったからである。
けっして、価値の多様化ではすまされない、ひととしての根幹が問われているのだ。

いまさら教育勅語を復活させることもできないのは、革命勢力の間違いない「成果」である。

わが国は左旋回しながら、落ちるところまで落ちるしかなく、とうとうそのルートにのって、落ちだしたのである。
この国は、物理法則が効く体制となった。

オオカミ少年ではないけれど

『イソップ物語』というのは、ヘロトドスの『歴史』にも登場する。
紀元前6世紀に、「奴隷」ではあったが、アイソーポスという物語(寓話)の名人がいて、その物語を記録したとある。
いまに伝わるイソップ物語が、ぜんぶアイソーポスが話したものではないというが、はっきりとした全貌はわかっていない。

アラビアンナイト『千夜一夜物語』では、物語のなかで物語を語る「シェヘラザード」が登場する。
彼女はどうして、かくも膨大な物語を語れたのか?をかんがえると、千夜では足りなくなりそうだ。

「奴隷」が主人よりも優秀で、愚鈍な主人の危機を機転やトンチでたすけだす話は、外国にはたくさんある。
戦争によって敗北すれば、異民族の王族すら「奴隷」になったから、あんがいふつうに起こりうる物語である。

古代エジプトを舞台にした名作『アイーダ』も、エチオピアとエジプトとの戦役をベースにして物語が展開する。
アイーダは敗北したエチオピアの王女であって、世界に君臨するエジプト王女の侍女になった。

島国のわが国には、キリシタンによって伝わっている。

そんなわけで、「オオカミ少年」の話は、うそをいう子どもの話として有名だ。
子どもは純真だからうそなどつかない、といううそをいうおとながいるけど、あんがいずる賢いのが子どもである。

ヒマにかこつけて、「オオカミが来た」とさけんでみたら、まわりのおとなたちが右往左往するのが面白い。それで味をしめて、なんどかやるうちに、本物のオオカミが来た、というおはなしだ。
村の羊がぜんぶ食べられたというから、この少年の運命もどうなったことか?は書いていない。

くるぞ、くるぞ、「不況がくるぞ」。

バブル景気以前をしっているおとなには、バブル景気後のこの30年で、いつ景気がよかったのかさえもピンと来ない。
なんだかずいぶん前の「いざなぎ景気をこえた」という長い景気拡大期が、平成時代にもあっというが実感がない。

本物の景気がいいときは、街全体が浮かれていた。
だから、平成生まれのひとたちは、景気がいいときをしらない。
これが幸福なのか不幸なのかはわからないけど、安易に「浮かれない」ことはいいことかもしれない。

ふつうに生活していると、「大ニュース」もふつうにやってくる。
新聞の大見出しだろうが、小見出しだろうが、あるいはネット配信のニュースだって、どれもこれも「おなじようにやってくる」から、どれがほんとうの「大ニュース」なのかに気づくのに時間がかかる。

おなじネットでも、動画のほうではずいぶん前から「ある特定大企業」がとりざたされていて、その企業の「倒産の危機」がまことしやかにかたられている。

しかし、つい先日、ブルームバーグという、その筋では信用できる市場情報専門の報道会社が、その「ある特定大企業」のオーナー経営者が、アメリカにあるグループ会社に日本円で「約1兆円」の支援をした旨のニュースがあった。

支援対象の会社の事業とは、かんたんにいえば「かっこいい共用オフィスの貸出事業」をしている「だけ」だ。
これまで、市場ではこの会社の価値が「数兆円」にもなったことがあった。

どうしてそんな高額な価値があるのか?
ある意味、だれにもわからないけど、「あった」ことは事実である。
すると、なにか計算方法がまちがっていないか?ということになってから、下がりっぱなし、という状況になっているのは、まるで『裸の王様』状態だ。

日本における事業は手堅く、一代でわが国有数の企業グループをつくりあげた英雄でもあるそのひとが、どうしてこんな「追い銭」を拠出するのか?
投資家の鉄則「サンクコストは忘れろ」がやぶられているようにみえる。

あまりにも、これまでの出資が大きくかつ、外国人の富豪をふくめた投資家にも参加させた経緯があるからだともいう「うわさ」がたっている。
じっさいに、「国王」クラスが出資したこともニュースになったことがある。

当然だが、国内では「超」がつく優良企業として、メガバンクからの融資もたくさんうけている。
金融庁だって、「OK」をだした証拠である。
そうでなければ、こうも巨額な融資の実行に日本の金融機関は自社決済ができないからだ。

構造は、「ズブズブ」になっている。
もし、この巨額「追い銭」が紙くずになったら、グループの崩壊どころか、わが国メガバンクの崩壊にもなりかねない。

あぶない金額では、はるかドイツ銀行にかなわないが、「持ちこたえられるのか?」という点では、わが国のこの「ある特定大企業」は、時限爆弾化している。

念のため、預金保険機構が保証してくれるように預金額を調整するとかしておいたほうがいい。
もっとも、爆発すれば焼け石に水だけど。

オリンピックのマラソンや競歩を、北海道でやるというニュースだってかすむ。

だって、オリンピックの開催など、できるはずがないほどのショックがおきるだろうから。

オオカミ少年ではないけれど、うそみたいに軟弱な経済地盤のうえに、われわれは立っていることだけは、どうやら事実なのである。

へんてこのミクス

「アベノミクス」といわれる経済政策が、いつからいわれたのかを問えば、すでに諸説あるから、現代における「歴史」にもなってきている。

もっとも古いのは、2006年の第一次安倍内閣だった。
けれども、いわゆる「流行語」としては、2012年暮れに発足した第二次安倍内閣における「インフレターゲット」、いわゆる「デフレからの脱却」としての「三本の矢」をもってつかわれて、2013年の流行語大賞にトップテン入りした。

明治以来の伝統だった政府と一体の中央銀行を、バブル後、政府からの独立をきめた改正日銀法があるのに、なんだかんだといいながら、日銀を脅かして政権のいうことをきかない白川総裁を事実上更迭し、ポチ的な元財務官を配置した強引さは、安倍政権の「力業」だった。

それで、就任時には、「3年もすれば2%のインフレを達成する」として、白川氏をのぞくそれまでの歴代総裁が実施した「金融緩和」を「異次元」という表現でやったみせたのが、日本企業の株式を日銀が買って、とうとう大株主になってしまったことだった。

アベノミクス初期のころ、大規模な金融緩和したからと、すぐに円がドルに対しておおきく安くなったようにみえた。
これをもって「すばらしい成果」とはやし立てたマスコミは、月次統計資料をみずに書いてしまった。

第二次安倍内閣の発足前に円安になっていたものを、どんな御用学者がいったのか、大誤報だった。
ギリシャ発のユーロ危機で円にやってきていた世界のマネーが、ユーロに回帰して円を売ったための円安で、アベノミクスとは関係ない。

そんなわけで、株高になったのもマネーの動きによるから、政府の経済政策はぜんぜん関係ないのだが、「効いた、効いた」とよろこんだのは、「株式」を持っている個人投資家たちへのサービスだった。

しかし、かんじんのデフレはいっこうにおさまらず、とうとう6年以上が経過して、黒田氏の目の下のクマは濃くなるばかりである。

そんななか、「年金のために」という理由で消費税が増税された。

このブログでも書いたが、まだ年金をもらっていない世代で、公的年金だけで老後が心配なくすごせて死ねると本気でかんがえているひとは本当にいるのだろうか?

もしいたら「重大な誤解」だから、ご親切に千万円単位で「足りない」と政府がいったら、こんどはちょっと前に政権にいた、いまは野党のひとたちが「詐欺だ」といいだした。

主語が政府だからややこしいが、自分たちも政府だったことを忘れてしまったようだ。
ところが、こんどはいまの政権のえらいひとが、そのレポートを「なかったことにした」から、えらく国民は絶句した。

こんな政権党ではダメだ、といって政権交代したけれど、もっとひどかったから、もとの政権にもどったが、やっぱりダメは変わっていない。

外国は電子決済で、あたりまえのように買い物ができるのに、日本は現金主義で「不便だ」と、一見先行されてしまったようにみえるから、なにがなんでも「先進国のふりをしたい」という、見栄っ張りの役人が、消費増税にかこつけて電子決済すれば割引になるという、信じられない「経済政策」をうちだした。

この原資が消費税なのだから、いまこの国でなにが起きているか?といえば、おどろくほどの「モラル・ハザード」である。

レジを通過した食品をどこで食べようが飲もうが、マナーをまもれば個人の自由なのは、購入者に所有権が移転しているからである。
しかし、購入前に「申告」したとおりにしないと、なんと善良な市民が「軽減税の詐欺師」よばわりされる国になったのだ。

絶対的な所有権にたいして、こんな不道徳なことがあるものか。
まったく、日本国政府は「不道徳」である。
消費の現場では、たいそうな「混乱」がおきているというのは、政府が作った混乱であって、市民のせいではない。

そんなわけで、日本経済の6割から7割をしめる「消費の場」で、電子決済の「割引」による「デフレ誘導」が、政府によっておこなわれている。

もはや意味不明の「へんてこのミクス」という、おそるべき場当たり主義になって、与党にも野党にも「筋」をとおす政治家が皆無になった。

世界の趨勢は、増税ではなく「減税」だ。
これによって「消費を刺激」すると、景気がよくなるからである。

日本政府は、政府の数字が最優先で、国民経済はどうでもいいと決め込んだにちがいない。

さいきん発表の大減税をはかるのは「インド」だ。
トランプ政権は、発足時に大減税を実施した。

あゝ、アメリカがうらやましい。

われわれは、世界最低の与野党の国に生きている。

観光協会を株式会社にして上場したい

先日、スイスの話を書いた。
かれらが、行政組織に「観光課」を持たないのは「ムダ」だと承知しているからだ。
それは、住民たちの出資よる「観光会社」を持っているので、組織がダブルからである。

もちろん、この住人たちの組織だって「行政」とはさいしょから縁がなく、自発的に設立された歴史経緯がある。
それは、町や村の住人たちが、自分たちで出資した会社を自分たちで運営し、自分たちでリスクを背負っているのである。

これが「戦後の日本方式」とまったくことなる点なのだ。

わが国だったら、資本金を注入するのが政府か自治体の補助金になってしまうから、拒否しようにも役人が役員(経営者)で送り込まれる。
これは、「観光協会」やひいては「農協」の構造とおなじである。

あの阿波おどりでもめた徳島県の徳島市は、累積赤字を理由に観光協会を破産させたが、去年と今年でその額を超える赤字をだした。
市長が実行委員長だったので、この赤字は結局税金で補填されることにになるのだろう。

徳島市で住民監査請求がされたことを寡聞にして聞かないのは、愛知県における美術展とそっくりだ。
元の木阿弥どころか、なにをしたいのか?混迷は深まるばかりである。

ところが、全国をみわたせば、このような「赤字問題」はいたるところに存在する。
青森の「ねぷた」しかり。仙台の七夕しかり。
万人単位の観客動員をしているから、さぞやとおもえば、だれも資金の提供などしていない。
さいきんでは、花火大会が資金不足で中止になるというブームになっている。

地元の祭りだって、金の切れ目が縁の切れ目。なのである。

「住民のため」と理由をつけたり、他県からの観光客が見込めることを「地域おこし」といったりして、甘い言葉で自己弁護しながら役所しか資金を提供しない。
だから、地元の住民だって、じぶんのお金が使われているという感覚がマヒするのだ。

こうして赤字が「ふつう」になるのである。
だって、行政の事業なら、基本的に利益をだしてはならない、ということになっているではないか。

けれども、行政の収益事業が収益事業にならないのは、「収益」をあげるまえに「平等」を追究する「原理」がはたらくからである。
これは、「四民平等」ではなくて「市民平等」のことで、関連する「業界」を平等にあつかおうと努力することが、「収益」を無視する結果につながるのである。

「協賛金」をちょっとでも提供すれば、「協賛企業」としての扱いをうける。
住民の町内会が供出するのは「寄付金」なので、意見をいえないのに現場での下働きはさせられる。

ところが、わが国は資本主義の理解ができていないので、「出資」という概念が薄く、金額の多寡において平等でなければならないのに、いくらでもいいから出資さえすれば「平等」になる。
これは、多額の出資者からしたら、「不平等」きわまりない。

オーナー経営者なら、自分で経営判断ができるけど、地元にある大手企業の判断は、かならず「横並び」になるのも日本的特徴だ。
突出した額の提供を「社内決済」では提案すらできないのは、提案するのがサラリーマンだからだ。

こうして、「創業の地」とか「創業者の生地」なのに、どうでもいいような扱いになるのは、企業が成長して大企業になると、経営の「判断能力」が低下するようになっていることに理由がある。
トップダウンではなく、ボトムアップを「是」とするためだ。

もちろん、株主のお金をかってに使っていいということは「資本主義」の本義に反するが、横並びでないと株主の理解が得られないという理由もない。
絶対値でみて判断できないということほど、株主利益を毀損する。

その「株主が住民である」のがスイスの事例である。
資本主義だから、住民は株主として振る舞うのが「正義」なので、組合員が自分たちの出資金でつくったはずの農協組織から疎外されても文句が言えないわが国とは「真逆」ができるのだ。

たとえ、素人の住人がつくったとはいえ、ちゃんと収益があがる事業なら、その事業を評価して、スイスの地元銀行は融資するばかりか出資もする。

日本の地元銀行は、資金管理と称して「預金通帳」をだすだけで、一般の預金者とおなじあつかいだ。
これは、事業評価が「できない」というよりも「してはいけない」という重い理由がある。

私企業であるはずの銀行が、バブル崩壊以来30年かけて、国家管理されるようになった。
むかしの「頭取」は自分で判断したが、いまの「頭取」は金融庁にお伺いをたてるのだ。

そんななか、ロンドン証券取引所と東京証券取引所が共同出資してできた『東京証券取引所プロ市場』という「市場」がある。
これは、「一部」「二部」「マザーズ」「ジャスダック」につづく5番目の市場で、「上場基準のハードルが低い」ことが特徴だ。

とはいえ、「東証上場」ということになる。

各地の観光協会は、ここに上場して、資本主義で「儲ける」ことを決心したらいかがかと、おもうのである。

地域振興は、国のアリバイ的政策である「地方創生」などという子どもだましでできるはずもなく、その補助金目当ての自治体にも能力はない。

結局、住民が自分たちでリスクを背負う方法が、もっともうまいやり方で、ほかにないのである、と世界一の観光事業国「スイス」がおしえてくれている。

大津に行ってきた

琵琶湖の周りをぐるりと支配しているのが滋賀県で、その県庁所在地が大津である。
湖の左手にあるもっこりした山が比叡山で北方に比良山地がつづき、山頂から向こう側は京都だ。

JR湖西線が日本海の敦賀にむけて走っているのは、琵琶湖西岸断層帯をいく。
そんなわけで、湖西には100以上の地滑りによる「湖底遺跡」がある。

県の中心は日本一の湖だから、ひとが住みようもない。
けれども大津からは、ようやく向こうに琵琶湖大橋がみえるくらいで、手前の広大にみえる湖(南湖)は、地図で確認すれば全体のほんの一部でしかないのである。

琵琶湖自体は世界的にめずらしい「古代湖」で、北湖にある竹生島にちかいあたりでは水深が100m以上もある。
「湖」ではあるが、出口が「瀬田川」一本ということから、法的にはなんと「川」としての扱いになっている。

わたしが滋賀県に宿泊した経験は、長浜と彦根しかなく、しかも自動車移動だったので、このたびの大津駅での下車は、日帰りで栗東に出張して以来である。
京都から電車で9分。途中駅は山科ひとつだ。

距離にすると10Km。
これは、横浜-川崎間とか、東京-新宿間とほぼおなじである。
県庁所在地どうしが隣接しているのは、ほかに仙台市と山形市、
福岡市と佐賀市があるけど、庁舎間でもっとも近接しているほどに「近い」。

どうして、京都に近すぎる大津が県庁所在地になったのか?
それは、江戸時代、大津が天領で「代官所」があったからである。
他の候補地は、みな「藩」の城下町だったし、最大の彦根藩は徳川譜代だから、明治政府にきらわれた。

過去150年で、彦根に県庁を移転させる議論が10回以上もあるというから、10年に1回ぐらいの根深さである。
天領であった街の格式と、人口集積や経済集積との綱引きだろう。
けれども、藩をひきいる一国の大名よりも、お代官様のほうが「格上」とは、明治の役人根性はさすがに下級武士政権ならではと感心もするが、やっぱり違和感たっぷりである。

じっさい、大津駅で下車したみたが、平日とはいえたいへん静かで、県庁までの道のりは閑散としていた。
もっとも、大津駅前に商業集積はほとんどなく、京都からたった10分でかくも雰囲気が激変するものか。

ほんのすこしだけ「東海道」をあるいてみた。
道幅の狭さはおそらく当時とおなじで、数軒の家が往年の街道筋らしい構造のまま残っていたが、おおきなビル建設現場に「NHK大津放送局建替え工事」とあったのがより印象的だ。「東海道」が裏道になるのだろう。

つい先日、「西武百貨店大津店」の閉店が発表され、地元にショックがはしったとのこと。県庁所在地から百貨店が消える。
けれども、京阪電車で30分も乗れば京都の繁華街、四条河原町にいけるから、閉店後のビルのつかいみちをどうするかである。

ほぼ隣接する旧パルコ(現「Oh!Me大津テラス」)は、2017年に閉店後、昨年あらたに開業した複合施設である。
ただし、入店している店舗のおおくが「全国区」なので、わたしのような他県からの者にはほとんど魅力に薄い。

JRの駅では、大津の次、膳所(「ぜぜ」と読む)のほうが近く、またこちらは駅までの道が狭いが、個人商店などの集積もあって大津よりも賑やかだ。
さすが本多6万石のご城下なのだ。

自家用車での利用をかんがえると、さらに周辺にあるショッピングセンターが「便利」になっているのは、このエリアの「駐車場」が琵琶湖ホールの立体駐車場になることなども影響しているはずだ。

ふるい街の街づくりの難しさをみることができるのは全国共通で、江戸時代からの変化にまにあっていない。
それで、江戸時代につかわれなかった場所が、大型開発に向いていることになる。

地元のひとに、大津の魅力を質問したら、黙ってしまった。
ならば、おすすめの土産物はなにかと話題を振ってみたが、これも黙ってしまった。
すすめられる名物は「特にない」というこたえだった。

あんがいこれはわらえない。
わたしだって、いまどき横浜の魅力はなにかと質問されたら黙ってしまうだろうし、おすすめの土産物はなにかときかれたら、「シウマイ」ぐらいしか浮かばない。

これは、「全国一律」という中央集権思想による予算投下がおこした現象で、「全国一律」の金融政策を強制することで、地元企業に「融資がつかない」からである。
それで、地元のレアなお店や商品は、よそ者の目にふれることがない。

だれがわるいかではなくて、そういう仕組みの国になったのである。

たった10分で、京都駅の喧噪にもどってみれば、その京都すら「全国一律」から逃れることができないのだとかんじる。

いったい自分たちは何者なのか?

この問いの意味が、ますます重くなっている。

客数が減る

自社の客数が減っている。
第一に、この状況に気がつかない企業がある。
第二に、気がついてもどうしたらいいのかわからいから放置している企業がある。
本当は「放置」ではなく、悶々としているのだけれども、なにもしないから他人からは放置にみえるだけだ。
第三に、すぐに手を打つ企業があるのは、まともな企業だ。

第一のタイプと第二のタイプはふたごの兄弟のようなもので、なにもしない・なにもできないという点で共通している。

だれにだって、お金は大切である。
「放蕩」ができるのもどこかにお金があるからだし、放蕩しているひとは、そもそもそれが「放蕩」だとは気づいていない。
名作といわれている『夫婦善哉』における、主演のご両人・森繁久彌と淡島千景は、みごとな「放蕩」ぶりを演じたものだ。

この映画の「欠点」は、とうとう生活経済が破たんしても、なんだか幸せな二人を描いたからで、これは現実を無視したファンタジーだったが、もちろん当時の観客はファンタジーだと承知で観ていた。
いまなら、壮絶なバトルになるはずなのは、それはそれで現実がファンタジーを超えている。

だから、経済破綻には悲劇がやってくる。
そのはじまりが、客数減少という現象なのである。
すると、これを「放置」できる神経とはなにか?というはなしになる。

圧倒的な「そのうちなんとかなるさ」という甘い見通しを信じるこころなのか?
いや、それならこころが悶々とするはずがない。
たんなる「現実逃避」であって、根本には「無責任」がある。
くわえて、企業一丸となって「現実逃避」していることで、あえて「かんがえない」すなわち組織をあげて「思考停止」しているのだ。

けれども、不思議なのは経営者ではなく従業員である。
従業員もいっしょになって「思考停止」しているからだ。
じぶんはどうなるのだろう?と不安はないのか?
ここに、決定的な「他人依存」がある。

職場の仲間は、しぜんと友人になる。
その友人が不安そうではない、と思いこむことでじぶんも安心し、かんがえないことにする。
一方で、その友人もおなじことをかんがえている。
これは、自立心の欠如だ。

自立心の欠如を推進しているのは、とうとう文部科学省という役所になった。
だからか、自立心を高めるような映画がつくられなくなった。
補助金も出ず、「文部省推薦」もえられない。
しかし、これらは国民がもとめている結果なのだ。

自立心といえばわが国ではアメリカ合衆国を例にするが、強烈なのはスイスである。
観光カリスマの称号をもつ、山田圭一郎氏のはなしを聴いてきた。

「永世中立国」だからさぞや軍隊なんて、ということとは真逆に、「永世中立国」だから国民皆兵・徴兵制の独自軍をもっている。
それに、スイスの主たる産業は、精密機械や金融で、その精密技術をいかした兵器の一大輸出国である。
こうした産業基盤の上に観光産業がある。

誰がいったのか「観光立国」なんてことはあり得ないのだ。

しかし、スイスの歴史をみればわかるが、ふるくはたいへんな貧乏国だった。
山国の典型でもあるが、その山々が「アルプス」なのである。
険しさは一等だから、ちいさな国でいて山の反対側の村との交流すら困難だった。

美しい山々をわざわざ観に来る物好きは、すくなくてもスイス人ではなかった。
美しい山々から、お金が稼げるとはだれもおもわなかった。
けれども、産業革命でヨーロッパの列強には、たくさんのお金持ちが発生して、様相が変わった。

険しい山の中の村に、観光客がやってきたのである。

そして、このひとたちが「わがまま」だったのである。
その「わがまま」を実現してあげると、たいそうなお金をくれた。
こうして、村人たちは知らず知らずと「マーケティング」を体験で学んだのである。

あるときに、客の「わがまま」を実現する努力をするのではなくて、自分たちで要望を先回りして「提案」するようになった。
こうして、「スタイル」をつくったのだ。

全世界共通で、全産業で共通なのが「売上の公式」である。

客数(数量)× 単価 = 売上

険しい山に平たい土地はすくないし、まわりに住んでいる住人もすくないから、巨大なホテルをつくらなかった。
それだから、受け入れられる客数には上限がある。
ならばと、単価をあげる方法に智恵をしぼった。

すると、低単価客は断ればいいことにも気がついたのである。

こうして、客数を減らす取り組みと同時に稼ぐ方法を考案した。
それが高額運賃の登山電車であり、自家用車の交通規制をして、馬車か電気自動車に強制的に乗り換えさせて料金を取り、さらに村人に仕事をつくったのである。

ところが、これが観光として受けた。
環境保護は、あとからやってきた理屈である。

いま、スイスの山中で、観光客をあいてにはたらくひとたちは、典型的な宿の従業員で時給で円換算すると、3000円をとっくに超えている。

客数が減ったら、単価をさげるわが国とは、どこまでもことなっている。
そして、こまったら役所からもらえる補助金を頼りにするのとは、発想自体が真逆なのだ。

もっともスイスには、連邦政府に文科省にあたる役所もないし、村役場にだって観光課はない。

住民が自分たちでやることをしっていて、それをほんとうに自分たちでやっている。

その意味で、国や自治体という「行政府」に、おいしいところはやらせないのである。

ホワイトハウス標準装備

公開情報だけでなく非公開情報があるのは「セキュリティ」を対象にした場合は、しかたがない。
全部公開してしまったら、みずからの手の内を明かすことになるからムリはしないものだ。

一般人もふつうにつかう通信機器は、スマートフォンの登場であたらしい時代になった。
いままで以上に、さまざまなことができる機器なのだから、いままで以上にデータを蓄積しているのは自明で、ゆえに「セキュリティ」対策も従来とはちがった気をつかう必要がある。

ネット上にはいろんな「罠」が仕掛けられているのは有名だ。
しかし、さいきんは、駅や空港、それに気の利いたカフェなどに設置されている「充電機器」に罠があるというから気が置けない。
それは、USB型の給電器だ。

スマートフォンと充電器とをUSBケーブルで接続して充電するのだが、このときにスマートフォンの内部データを吸い取られる危険があるという指摘がある。

安全なのは、「電源コンセント」からじぶんで携行している充電器をつかっての充電だというが、公共の場所で自由につかえるコンセントはなかなかない。
そこで登場するのが、USB給電器から安全に充電ができる機器である。

アメリカでは、「ホワイトハウス標準装備」に指定されているという安全器具を介せば、セキュリティ保持は万全だという。
日本のアマゾンでしらべたら、4500円で販売していた。向こうでは$30ぐらいだろう。

だったら、そもそも「充電専用ケーブル」ではだめなのか?
いまどきのスマートフォンはUSBタイプCの形状をしているから、それでいろいろ検索すれど、余計な「高速転送」なるデータ転送が可能なものしかでてこない。

ならばと100均でみたら、あった。

どうしたら「充電専用ケーブル」だとわかるようにするのか?
これがつぎの問題だ。
きっと、100均のアイデアグッズに、この手のフラッグがかんたんにケーブルにつけられるおしゃれなデザインで発売されることだろう。

なので、それまで、二本ケーブルの変わり種をつかっていればいいと、ちょっと変態な充電専用ケーブルを購入した。
パッケージの袋がチャックつきなので、ふだんはカバンにほうりこんでおけば、いざというときに役立つだろう。

しかし、気になるのは「ホワイトハウス標準装備」だ。
ほんとうに、充電するときにあそこで働いているひとたちは使っているのだろうか?
それに、このほかにはどんなモノが標準装備なのかを知りたい。

ついでなので日本の首相官邸HPにアクセスしたら、「水素自動車」が装備されているからたまげた。
この「日米差」はなんだ?

一方はセキュリティの安全性を手軽に確保できるグッズが「標準装備」されていて、一方は「やたら高額な自動車」である。
しかも、環境にいいのは「走っているときだけ」という、世の中のなんの役に立つかが不明の代物だ。

千葉県の市原市で騒動になった「高級電気自動車」は、積極導入したかった市長からすれば、首相官邸をまねっこしたにすぎなかったろう。
マスコミも市議会も反対したけど、官邸の自動車には、おなじマスコミや国会が反対しない理由はなにか?

市原市はテスラというアメリカ企業の自動車だったが、官邸のはトヨタ自動車だ。
電気自動車だって、環境にいいのは「走っているときだけ」で、もともとの電気はどこでどんなふうに発電されているものか?
なんだかいやな匂いがただようようにおもうのは、わたしだけか?

いまは数千万円もするけれど、きっと量産されれば安くなるにちがいなとかんがえるのは、20世紀の発想だ。
原子番号1番の水素を保管したり運搬するのはたいへんで、いかなる容器でも「最小原子」の水素はその分子のすき間をすり抜けるし、水素は水素としてこの地上に存在していない。

典型的なのは「水」で、酸素と水素が結合しているごくふつうに地上にある物質だから、水素をつかうなら水から作るのが妥当だ。
すると、これを「電気分解」しなければならないが、その電気はどうするのか?

何のことはない、「水素社会」なぞは世迷い言にすぎない。
だから、水素社会実現のための「投資」は、民間企業に政府がやらせているから「やらせ」である。

とうぜん、原資は税金だし、できあがった水素自動車を購入できるのは資金豊富な政府しかない。
市原市は、電気自動車じゃなくて水素自動車にすればよかった。
自動車会社は、一般にぜんぜん売れないものを「補助金」でつくらされている。

こんなムダをしているから、生産性があがらない。
政府や学者は粗い「統計資料」だけをもってして、サービス業の生産性が低いと嘆くが、じぶんたちで世界トップクラスの製造業の生産性を下げている。

これは、経済発展に対する妨害工作である。

USBケーブルで充電するときに、データを盗まれるのだから、データ転送ができないケーブルならよかろうというのは上に述べた。
政府のムダを100円グッズが取り返しているさまなのだが、これらをつくっているのはもはや国内の工場ではない。

なんだ、国内の工場を無理やりに政府が稼働させている。
これが「持続可能社会実現のために」というから、ますます世迷い言になるのである。
政府の予算にふりまわされるものが、持続可能とは笑止である。

お願いだから何もしないでほしい。

土瓶のお茶が飲みたい

改装されたJR桜木町駅には、鉄道発祥の「旧横浜駅」だったことにちなんで、構内に「むかしの横浜駅」の写真が展示されている。
料金選択ボタンがない初乗り「30円」と大書された切符の自動販売機は、わたしの世代でも記憶にあるところだ。

そんな展示のなか、小学生がふたり列車の窓から顔を出しているところのショットがパネルになっている。
髪型が「坊ちゃん刈り」で、笑っている表情の雰囲気はわたしの世代に似ているのだが、すこし上の先輩世代だとおもうのは、乗っている列車が電車ではない旧型の客車だからだ。

むかしの電車には冷房がなく、天井に360度回転する扇風機があった。
冷房車が普及したのは、40年ほどまえからだった。
夏の日、やってくる電車が冷房車だとうれしかった。

その10年まえには、まだ立ち売りの駅弁屋さんがホームにたくさんいたことを記憶している。
さいきん「べんとー、べんとー」という掛け声を聴いたのは、台湾の観光地「九分」の最寄り駅ホームだった。「弁當」と書いていた。

都市近郊中距離の花形は、「湘南電車」と呼んでいて、いまのように「東海道線」とはいわなかったし、学校では「東海道本線」といって「本」をきちんといれておぼえさせられた。
だから、たんに「東海道線」というのは、安易でしかないとかんじるのだ。

はたして、会社は「湘南電車」の呼称を復活させる気もないのだろうが、「湘南新宿ライン」とか「湘南ライナー」といってお茶をにごしている。

これは、「東京行き」がめずらしくなったからで、「東海道線」すら、いまは東京駅をこえて遠い先まで行くようになったのは、便利だけれどなんだかなぁなのである。
それは、私鉄も同様で、いまも工事中の渋谷駅は、かえって不便になった感がある。

新幹線はさいしょから窓があかない設計なので、「駅弁が買えない」という不満を社内販売がカバーしたのは「ニュース」にもなった。
むかしは、駅の売店でもなく、すわった座席から窓をあけてホームの駅弁屋さんから窓越しに購入するのがあたりまえで、発車して動きだしたときのスリルすらあった。

列車をけん引する電気機関車は、おどろくほどゆっくりと動きだしたし、電車だっていまのようにせっかちな加速をしないから、駅弁屋さんが小走りに商品とおつりをくれた。走るスピードよりも、手さばきのスピードがすごかった。

国鉄が大赤字だから『ディスカバー・ジャパン』というキャンペーンをしていて、とくだん理由がなくても鉄道に乗せようとたくらんだのは、『阿房列車』の影響か。
これにウィスキー会社のテレビCMで夜行列車の窓横にビンが置かれていた映像が記憶にあるのは、こんな旅をおとなになったらやりたいとおもっていたからである。

旅に情緒があったのだ。

いまだって旅には情緒があるというひとはいるだろうけど、むかしはいろいろと仕掛けもあった。
国鉄が「JR」になったら、駅舎がどこもかしこも「近代化」されて、旅先の駅舎を背景に記念写真を撮る気がうせたことは前にも書いた。

ガラスと鉄骨でできた近代建築がだいすきなJRとは、何者なのか?
さいきんは、採算のために「社内販売」まで縮小している。
旅の演出を放棄する鉄道会社とは、ひとの移動の価値をたんなる「運送」とかんがえているにちがいない。

それは、乗客が人間であることをわすれたということだから、まさに「唯物論」を地でおこなっているとんでもない企業体ではないか?

けっきょく、夜行列車をほとんど廃止して、とおい先に朝に着くことが鉄道ではできなくなった。
鉄道会社がバスや飛行機をつかえと本気でいっているのか?それとも鉄道会社を管轄する役所の意向なのか?

それはさておき、駅弁のお供はいつだって日本茶である。
車窓から買えた時代の末期、そのお茶の容器が土瓶からプラスチックにかわった。
けれども、これは一口飲めばわかる「プラスチックの味」がした。

「匂い」ではないのは、なかみが熱い湯にティーバックが一個入っているだけだから、熱で容器が溶け出したのだと感じたからだ。
だから、ものすごく「不味かった」。
いまのように、ペットボトルなんかないから、おとなはすまし顔で「お茶」として飲んでいた。

容器のデザインは土瓶とおなじで、急須型。
ふたがおちょこのようになっていて、これに注いで飲んだのは、ペットボトルに直接口をつけるより、よほど行儀がいい。
だから、行儀を重視する「良家」では、ペットボトルの飲料だってかならずコップに注いで飲むのである。

土瓶でなくなったのは、重量による販売員の負担をへらすため、という大義名分があったけど、けっきょくはいまでいう「コスト削減」だった。もちろん、お客には「使い捨ての利便性」が訴求されていた。

けれども、当時は飲み終わった土瓶の始末に、だれもがこまったというよりも、弁当の空箱といっしょにゴミ箱に捨てていたから、「使い捨ての利便性」はウソだとおもった。

いまなら「回収箱」でも用意すればよいはなしである。

東海道新幹線には、静岡と京都というお茶の名産地があるし、九州新幹線なら鹿児島がこれにあたる。

土瓶で味比べをすることが、移動中の楽しみになる可能性だってあるのだ。
むしろ、全国どこでも手に入るペットボトルのお茶との差別化は、もはや土瓶なら「区別」の域にはいるはずだ。

外国人観光客なら、記念に持ち帰りたくもなるだろう。

すなわち、持ち帰りたくなるような土瓶に価値があるようにみえるのだが、それは「おいしいお茶をのんでほしい」という愛情があって実現する。
乗客に対する愛情がなくなったから、プラスチックになったし、土瓶の復活をかんがえるひともいない。

ビジネスは「愛情だ」という感覚をうしなえば、ビジネスもうしなうのである。

天然物にかなわない人工物

古今東西、人間は天然物のおかげで栄耀栄華を飾ってきた。
20世紀から、なんだか人間は傲慢になって、天然を人工が凌駕すると信じだしたが、根拠を問えば乏しき発想しかない。

いくつかしかない成功をもって、ぜんぶに拡げるのはやっぱり傲慢である。
その成功のひとつが「ダイヤモンド」だ。
いま、「偽ダイヤ」といえば、歴戦の鑑定士すら震えるほどの出来映えだから、人工物のすごさだといえばその通りである。

しかし、どうしても人工的に作れないものがたくさんある。
千年以上、連続して今につづく文化を保持しているのは、地球上に日本しかないのは本当で、それを支える「伝統工芸」の「技」は有名だが、その「技」をささえる「道具」が注目されることはなぜかすくない。

しかも、それが「天然材料」だとなると、なおさら道具作りの人間の「業」が地味にみえるものだ。
「獲ってくれば」だれにだってできると、これもまた浅はかなかんがえをするからだろう。

千年の技として、日本独自の工芸品といえば「Japan」と呼ばれる漆器が筆頭だろう。

漆には困った性質があって、樹齢10年以上の漆の木から天然ゴムをとるように樹皮を削って傷をつけてにじみ出た液を採取するのだが、削る道具の「刃」をもってすくい取ったら、もうそこからはとれない。
それで、樹液をとった木はすぐに伐採されるのだ。

漆の木を畑のように人工栽培することはできても、最低植林してから10年は育てるだけだから、毎年採取分の伐採と植林とをくり返すしかない。
つまり、まったく即席の大量生産に向かないのである。

さらに採取した原液をそのままつかうことはできないから、漉してゴミを取り除き、またまた直射日光に混ぜながら晒して粘度をたかめる作業まで要する。

木地に塗っても、乾燥させるのになんと「湿度が必要」という性質ゆえに、乾かすだけで日数を要するという、徹底的に手間がかかるのである。
しかし、完成品は丁寧にあつかえば数百年つかえる耐久力だし、職人に出せば修理もできる。

漆の芸術品といえば「蒔絵」だ。
繊細な線を引くための「筆」には、琵琶湖にしか生息しない鼠の首筋に数本しかない毛をつかう。だから、一筆にずいぶんな数の鼠が必要なのだが、これが「絶滅危機」となってしまったし、生態が不明のため人工飼育の方法がわからない。

この貴重な毛を、電子顕微鏡でしらべると、人工ではけっして加工できない微細な「溝」があって、この溝による毛細管現象で漆を蓄えるから、長い線が一筆で描けるのである。

なぜに千年以上前の人はこの鼠の数本の毛を発見したのかは不明だが、現代の技術で制作不可能を、鼠はじぶんのからだに持っている。

この筆が、過去の在庫分しかなくなったから、新作どころか世界の博物館や美術館に所蔵されている作品が、修復できなくなっている。

過去の在庫分しかないのは、日本刀をはじめとする刃物を研ぐための「砥石」もそうで、仕上げ用の微細な研磨剤のかたまりとして、天然物しかありえず、人工物では「研げない」のである。

日本刀をつくるための原材料も、特殊な鋼(はがね)を必要とするだけでなく、純度のたかい「鉄」が必要なのだが、現代にあって純度のたかい「鉄」が製造されていないために、明治期以前の古い農具という在庫分しかないという意外がある。

錆びさせず、ながもちさせるために、現代技術は「合金技術」が主流となったから、いっきに「鉄だけ」という材料が貴重品になってしまった。

日本の刃物は家庭の台所でつかう包丁だって、日本刀とおなじ技術がつかわれているから、外国人観光客の日本土産で人気なのだが、日本の主婦一般に人気なのは、ステンレスやセラミックスの包丁になっている。
錆びないだけでなく、セラミックスの包丁なら研がなくてもよいからだ。

だから、日本の伝統的かつ本物の刃物を購入した外国人は、錆びもしかりで研ぐ必要にかられて困っている。
ところが、肝心の「砥石」が外国ではめったに手に入らない。

ヤスリでこすって「研いだ」ことにするわけにはいかないのは、刃物全体が錆びてしまうからである。
日本刀がむかしから好まれた「切れ味」を担保したのは「砥石」の品質と「研ぎの技」だった。

おそらく、砥石が産出しなければ、日本刀ははるか昔に廃れていただろう。
しかし、さいわいかな、日本列島の地質構造が大陸のそれとはちがい、おそろしく複雑なので、人力だけで得らるほどの地層に良質の砥石があったのだ。

これをみつけて「砥石」とした、どのくらい前かわからないくらいのむかしのひととは、いったい何者なのか?

しかして、その砥石の坑道もほとんどが廃鉱されて、もはや「極上品」の入手は困難になっている。
千年単位で「あるのが当たり前」だったものが、在庫限りになってきた。

はたして、わが国伝統工芸における、わが国伝統の刃物をつかってつくる品物全体の危機がここにある。