バブルの犯人は日銀

昨日の、『謎解き!平成大不況-誰も語らなかった「危機」の本質』の話題の続きである。

誰が犯人だかわからない、ふつうの「サスペンス・ドラマ」なら、たいがいの犯人は善良な人物を演じることになる。

これがふつうでなかったのは、『刑事コロンボ』だった。
なにしろ、番組のはじまりが、殺人の現場だったから、視聴者は誰が犯人かを最初からしらされている。
それを、あたかもズボラでみすぼらしい中年の刑事が、頭脳でもって追い詰めていく。

視聴者は、犯人の立場で楽しむこともできるし、コロンボ刑事になったつもりで楽しむことができた。
ただ、ひとの死が伴う話なのに、その死がなんだが軽かったのである。
被害者の影が薄かったからである。

もちろん、日本の「刑事モノ」も、犯人逮捕で終わるけど、きっとそのまま起訴されて有罪になることに誰も疑問を挟まない構成になっているし、犯人のその後の人生に誰も興味を払わない。
ましてや、「検察官モノ」なら、もっとはっきりしていて、刑事裁判の有罪率99%以上という国柄に合致している。

どうせ娯楽番組だから、「社会派」というドラマにも、リアルな表現をみない。
それが理由かしらないが、「行政訴訟モノ」にあたるドラマは皆無だ。
じっさいに、我が国の行政訴訟は、よほどのことがない限り行政側が勝訴することになっている。

それゆえに、滅多にないことはニュースのネタになるので、行政側が敗訴したらニュースになる。
けれども、負けた行政側の責任者が何らかの処分を受けることはニュースにならない。
こうして、責任が有耶無耶の仕組みから、無責任がはびこるのである。

高度成長期、クレイジー・キャッツが演じた、「無責任モノ」が人気を博したのも、終戦後に源氏鶏太が書いた読み切りの人気連載小説、『三等重役』があったように、いつしか日本文化の裏には、無責任がしっかり根付いているのである。

戦前に計画経済を強力に推進した、岸信介を筆頭にした「革新官僚」の集団は、「敵性たる資本主義」をいまの日本人より深く理解していた。
それで、財閥から財閥の所有者たる創業一族を排除して、株式を持ち合い、社内昇格によって従業員を経営者にまつりあげ、労働者も企業組合に押し込めたのだった。

財閥の所有者を追い出す手段が、保有株式の強制的な企業への販売で、これによって、持ち合い、としたのは、それでもって、株の配当金を少なくして、拡大総生産に邁進させるためだったのである。

ゆえに日本企業は、欧米企業経営者から見たら奇妙にも、シェア獲得に邁進して業界内の地位確立にこだわり、あろうことか利益を後回しにする行動が、「体質」にまでなって、ついに欧米企業を圧倒して、破綻に追い込んだのだ。

これにはちゃんと成功事例としての前例があった。
それが、スターリンの五カ年計画だし、ヒトラーのドイツが成し遂げた、驚異的な経済成長だった。

戦後の発展には、戦前の「総動員体制」という仕込みがあってのことという理由がある。

これが、人間の成長にもいえるのは、若いときにどんな経験を積むのかによるからだ。
一国の経済運営の要となる国家機構に、財務(大蔵)と産業政策がとにかく目立つ。

しかし、これらは、「目くらまし」に過ぎず、本丸は中央銀行の「信用創造」にある。
満州で成功体験を積んだ岸信介は、近衛内閣で商工次官から商工大臣になっていて、戦後は首相になった。

阪急をつくった小林一三商工大臣を辞任に追い込むことをした次官だったのは、有名な話だ。
近衛内閣と刺し違える覚悟の小林に肩透かしを喰らわせて、岸自身が改造内閣で商工大臣に就任した。

それで彼は、財務と産業政策を掌握したかに見えるが、じつは中央銀行の「遣い手」だった。

中央銀行は、ナチス・ドイツのシャハト博士(ライヒスバンク:当時のドイツ中央銀行総裁)の薫陶をドイツ留学で直接受けた一万田尚登(いちまだ・ひさと)が、「法王」といわれるまでに、戦後の日銀総裁として君臨できたのも、GHQとそのエージェント岸と吉田の後ろ盾あっての話だ。

そうやって一万田は、日本のおカネを支配したのである。

さて、ここでいう「おカネ」とは、経済の血液にあたるモノ、という意味である。
なので、心臓や肺、あるいは肝臓のように、目立つものではないけど、血液がない動物は生存ができないので、重要度でいえば比較にならない。

問題は、日銀がコントロールする対象が、一般人にはわかりにくいから、話題になりにくいことだ。

それがまた、彼らには都合がいいし、財務や産業政策の派手さが、カモフラージュしてくれる。
なお、あたかも意味があるごとく見せる、「公定歩合:金利の設定」とか「通貨流通量の加減:金融緩和・金融引き締め」も、「お札の印刷」さえカモフラージュなのである。

日銀がこっそりやる、一国経済への最大の影響力発揮の手段は、「窓口指導」なのだ。

これは、市中の銀行一行ずつ、すべてに対して毎月行うもので、その内容は、「誰に:どの業界のどの企業」、「どのくらい:貸出量」をせよ、という事実上の命令だ。
各行は、これに従わないと、資金割り当てが減らされるから、頭取の使命は日銀窓口指導の完全なる履行にある。

いまは、金融庁の「検査マニュアル」も加わって、銀行は股裂刑にさらされている。

そこで、指導先が、GDPに含まれる業界なのか?含まれない業界なのか?は、各行の判断を超える。
各行は日銀の指導(=命令)の通り、GDPに含まれない、不動産や株・証券への融資に邁進して、予定通り資産すなわち土地や有価証券の値上がりバブルになったのだった。

含み資産価値が上がることで、財布が緩んで消費も旺盛になって、これが史上空前の好景気となった。
しかし、誰にでもわかるように、値が上がったのは、「含み資産」だったから、土地や有価証券の「含み」が減少したらどうなるのか?

あの時代を思いだせば、一般生活物資の値上がりは「なかった」のだ。

そうやって、含み益があっという間に「含み損」に転じて、信用創造で貸し出していた銀行は、軒並み「不良債権」の山を抱えるようになったのである。

「信用創造」は、GDPに含まれるものだけに有効なのだ。

けれども、こんな単純なメカニズムを日銀のエリートが知らないはずはない。
にもかかわらず、知らなかったことにして、30年以上が経ったのである。

黒田元財務官の総裁就任で10年もやった、異次元の金融緩和がスカったのは、はじめから有効なはずのない、日本経済沈没のための欺瞞であり、やっている感だけのパフォーマンスであった。

GDPを信じてはいけない?

主たる経済指標の中で、誰もがもっとも重視しているのが、「(名目)GDP」である。
「名目」と「実質」の区別があるのは、インフレを考慮するかしないかのちがいで、「名目」の値をインフレ率で割ったものを「実質」とよんでいる。

こうした調整をする前の、むき出しの数字が、「名目」なのだ。

むかしは、「GNP(Gross National Product:国民総生産)」が主たる経済指標だった。
それが「GDP(Gross Domestic Product:国内総生産)」になったのは、統計数値の取得が困難になったからだった。

GNPの「N:国民」とは、日本をみるなら「日本人(国籍)の総生産」のことであるから、外国で日本人が生産した分を足さないといけないし、日本国内で外国人が生産した分は引かないといけない。
むかしは海外での分や、国内でも外国人の比重が軽かったから、「国籍別」でよかったけれど、だんだんとそれぞれの区別が困難になったのだ。

それで、「D:国内」という、国境の内側での「総生産」にした。

以来、我が国では、「アメリカに追いつけ、追い越せ!」という、誰が言い出しのかよくわからないスローガンが、あたかも全国民の目標のような扱いを受けたのである。
「軍事費を軽くして、国力を経済成長に特化する」という、吉田ドクトリンが戦後の「平和国家ニッポン」の国是として語られる。

しかしながら、「吉田ドクトリン」という言葉を、当の吉田茂は生前に述べたことはない。

まったくもって、後付けの作られた政治用語であるのに、その政治的な価値から、あたかも「あったこと」のような扱いをして、ヒトラーがいった、「嘘も100回いえば真実になる」のごとく、もう吉田ドクトリンを否定するものがいない。

漫画しか読まない、孫の麻生太郎も、『ゴルゴ13』で、さいとうたかを先生が描いてくれないものは、頭の中に入ることはない。

ヨーロッパが第一次大戦で疲弊したからいい出した、海軍軍縮会議に、日露戦争の借金返済がのしかかる我が国には「渡りに船」だったけど、「総トン数」という指標をもって、国論は二分した。
けだし、当時の世界は、相変わらず「弱肉強食の帝国主義」の常識があったから、貪欲な白人国家群を相手にせざるを得ない我が国の国防は、恐怖によって「カネの問題じゃない」になっていく。

かくも、「独立」とは、いまも大変なことなのだ。

サンフランシスコ講和会議を経て、平和条約を結び、日本相手の第二次世界大戦の終結になったけど、同時に結んだ、「日米安全保障条約」と、この条約第6条に基づく、「日米地位協定」という盤石なる、「不平等条約」で、ペリーと結んだ「日米和親条約」すら平等に見える、実質植民地としてわが国は規定された。

アメリカ人には、ハワイ王国を簒奪した実績があるから、かならずやハワイの事例を我が国に当てはめているはずだ。
なので、戦後の我が国の学校教育で、ハワイ王国滅亡の歴史は絶対に教えない代わりに、正月に芸能人たちをハワイに行かせて「憧れ」だけを煽るのである。

占領中の昭和23年、岡晴夫の明るい美声でヒットした、『憧れのハワイ航路』(作詞:石本美由紀、作曲:江口夜詩)とは、真珠湾攻撃を日本人の記憶から消し込んで上書きするための、プロパガンダであった。
もちろん、アメリカ人に真珠湾攻撃を忘れさせるようなことはしていない。

そんなわけで、アメリカの植民地になったのを、みごとに隠蔽したのが、高度成長期という欺瞞だった。
アメリカは、本気で日本を不沈空母にして、ソ連と対抗するための資金を日本人につくらせたから、稼いだドルは全部アメリカ国債にして貢がせ、「おこぼれ」を日本人の生活向上にあてたのである。

働いても働いても、その割には暮らしはよくならなっかたのは、おおかたの富がアメリカに吸い取られたからだ。
しかし、吉田ドクトリンというありもしない幻想に取り憑かれ、あたかも日本は独立国だと、外国に防衛を任せていながら信じるのは、知能を疑われても仕方がない。

征服者マッカーサーが、「日本人は12歳の少年」と上院公聴会で証言したのは、「白痴」だという意味だ。
なお、彼は、日本の戦争目的は、「完全なる自衛だった」と正しく証言もしているから、上の言葉も耄碌してのことではない。

精魂尽きたところへ、20万人も公職追放したのは、実質的な指導層の断頭刑に等しく、分断工作は、敗戦利得者を優遇することで完成し、日本人を家畜化した。
それを、「エコノミック・アニマル」と呼んだのである。
だが、残念なことに白痴化した日本人は、これを褒められたとして、あろうことか自慢するに至る。

こうしてできあがったのが、「G N P ➡︎ GDP神話」だ。

しかし、GDPには重大な欠陥があるのに、経済学でいう古典派も、新古典派も、あるいはケインズ派からマルクス派も、この欠陥を指摘して、修正させることをしないで放置している不思議(わざと)がある。
その欠陥とは、金融サービスとか、不動産取引(建設業も含む)といった、高度なサービスが、GDPの計算式に「含まれない」のだ。

バブル崩壊後すぐに、公共事業に150兆円を注ぎ込んでも、GDPがまったく増えなかったのは、計算式にない分野への重点投資だったから当然だ。

わが国も含めた、いわゆる先進国の先進たるゆえんは、その時々の一国経済が、相対的に先進的産業によって
国民が豊かな暮らしをしていることにある。
70年頃から、先進国経済は、これらGDPの計算に含まない産業が、一気に高度化をはじめたけど、その原因は、実用化が始まったコンピュータの利用が影響したのであった。

世の中は、半世紀前からとっくに、「デジタルトランスフォーメーション」している。

特に金融サービスの核をなすのは、むかしから銀行業による「信用創造」にある。
じっさいに世の中のおカネが増えるのは、製造物=製品がたくさんできて販売するからでも、中央銀行(日銀)がおカネを印刷するからでもない。

世の中の「おカネ」とは、通帳に書き込まれる「数字」でしかないから、現物のお札はわずかしかないのだ。

江戸時代から明治に銀行ができるまで、日本人は「宵越しのカネは持たない」のではなく、預けるところがなかったので、大商人が扱った「為替」以外は、おカネとはほぼ現金のことだった。
それが、通帳に載る「数字」になったのだ。

銀行が、預金の数十倍〜数百倍を貸し出すことでしか、世の中にあるおカネは増えない。

預金をそのまま横滑りさせているのが銀行だというのは、勘違いも甚だしい。
その貸し出したおカネが有効利用されて、GDPの計算式にある産業が栄えて、国民の口座にもおカネが増えるのだ。

GDPの計算式にない分野へいくらおカネを配分しても、GDPは増えない。

80年から90年に、エコノミック・アニマルが、本気でアメリカを追い抜いて上から目線になった身の程知らずに、宗主国アメリカがやった、「構造改革」で壊滅されたのが、アメリカのマジックハンド・金融庁をつかったわが国銀行業界の弱体化・無力化だった。

信用創造ができなくなった、我が国経済の衰退は、こうして終わりがないままなのである。

詳しくは、リチャード・A・ヴェルナー『謎解き!平成大不況-誰も語らなかった「危機」の本質』(2002年、PHP研究所)をご覧あれ。

クレディ・スイスは習体制への武器

1999年に『超限戦』を発表して、世界に衝撃を与えたのは、この発表を許可した側の意図もかんがえないといけない。

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戦争や戦略に関しての名著は、古今東西にあるけれど、この一冊は、現代の戦争を理解する上で、必読といっていい。

とくに我われ日本人は、いまも第二次大戦のトラウマに悩まされているから、戦争=戦闘行為=武力=最新兵器という一連が、すぐさま頭に浮かぶように訓練されていて、戦争反対の4文字が絶対正義となって信仰させられているから、他国民よりよほど重要なのである。

人生を生き抜くための教育としてかんがえれば、高校の授業に採用して当然ともいえるのだけど、特定政治勢力からの絶対反対の声が絶対に起きるので、面倒臭い議論をして、あたかも悪人になるのが嫌な、いつでも「よいこ」でいたい政治家は、放置して「読むのは自由」などといって逃げるのである。

そうやって、自分では間違いなく読むことはしない。

もちろん、「全方位」の役人集団である教育委員会が、そんな授業を要求するはずがない。
だから、ちゃんとした「親」が、読むように促して、教育するしかないのだ。
教育の基本は、家庭にある、というのは真理である。

そんなわけで、あらゆる場面や場所を利用した、「戦争」が行われている。

戦争の定義とは、自己の主張を無理やり相手に呑ませるための、非合法的方法も含めた「強制」のことをいう。
非合法的方法の第一は、殺人だけれど、ヨーロッパではこれが日常茶飯事だったために、戦争のルール化を図って、戦争における敵兵殺人を、「合法化」したのであった。

それで、「一人を殺せば殺人犯だが、百人を殺したら英雄になる」といったのだ。

現代の戦争は、情報戦とか経済戦が、見えないところで行われていて、じっさいの戦闘は少なくなった。
しかし、情報を操作して、自己の主張を強制することもできるし、経済的な困難、たとえば相手の金銭を強制的に奪うなどといった行為も、立派な戦争の定義に当てはまる。

前にhttps://omotenasi-izon.net/keiei/%e3%82%b9%e3%82%a4%e3%82%b9%e5%9b%bd%e6%b0%91%e6%8a%95%e7%a5%a8%e3%81%ae%e5%90%a6%e6%b1%ba/で、スイス企業が人権侵害を常習の国家・政府に協力することを禁止する案が、僅差で否決されたことを書いた。

グローバル全体主義を推進する、秘密の「ビルダーバーグ倶楽部」傘下にある、世界経済フォーラム(ダボス会議)は、その思想の根本に、共産主義があるから、本来ならば世界最大の共産主義国家とは親密性があっていい。
それが、鄧小平から江沢民、胡錦濤まではその通りであった。
これら指導者たち、なかんづく江派は世界経済フォーラムと共に、その巨大利権をほしいままにした。

こうした腐敗の状況を、忸怩たる思いで過ごしてきたのが、習近平氏たちだった。
習派が、毛沢東(主義)を崇拝するのは、毛沢東を排除した鄧小平からの改革開放の流れへの反発として捉えれば、あんがいと単純なのだ。

したがって、世界経済フォーラムのグローバリストたちから見たら、習近平こそは「諸悪の根源」になる。
その習近平は、トップに就任するやいなや、「腐敗撲滅キャンペーン」という名の、江派排除を徹底して、江沢民の死去に伴って、完全制圧したかに見える。

党総書記と軍事委主席、それに国家主席に10年間も君臨した人物の公式葬儀もしない決定も、わかりやすいメッセージなのである。

力には力、目には目を、歯には歯を、というハムラビ法典に記載の通り、現代社会もハムラビ法典は有効だから、世界経済フォーラムのメンバーたちは、結託して習近平一派の追い落としに懸命なのである。
幸か不幸か、長い歴史に培われた、それが彼の国のひとたちの「習性」とまでなっているのが、「自己中心主義」なのである。

すなわち、本来、貧しい農民党だった中共の構成員とは、識字もままならないひとたちで、そんな下層民が自己中のうねりでなした革命だった。
おそらく、革命で早くから豊かになった、近平坊っちゃまには理解が苦しいほどに、反腐敗で炙り出されるおびただしいひとの中に、自派の幹部もあまた存在したにちがいない。

とにかく私有財産を形成したい、というのが、彼の国の共産主義をいうひとたちの「当然」なのである。

利用すべきはなんでもやるのが、世界経済フォーラムの邪悪だから、秘密保持で最も信用おける私財の保管先が、「スイスの銀行」になるのは、世界を知らない共産主義だからの行動になって、悪名高いクレディ・スイスは、そんな自己中のひとたちの隠し金庫になっていた。

スイス中央銀行は、あたかもクレディ・スイスを救済するような素振りをしながら、じっさいは口を出している。
それが、「AT1債の無価値化」という、爆弾テロのような破壊力で実行された。

AT1債とは、「準株式」のことで、株式ならその企業が破綻したら無価値になるのは誰でもわかる。
けれども、株式は無傷のまま、準株式がチャラになったのだ。

こんな手があったとは!

これが意味するところは、ガンガン購入していた習派への攻撃に等しい、ということなのである。

超限戦のやり方で、習近平が痛めつけられている。

裁判官もアリバイづくりに奔走する?

民主党バイデン政権の命運がまもなく尽きそうだとして、さまざまな役所の超高級官僚たちが、逃亡に走っていると前に書いた。

改めていうまでもなく、アメリカの超高級官僚(SES:カーター政権時に日本の官僚制をまねて、さらに終身制に格上げして導入したから「超」がつくものを、オバマ政権時に大量採用した)たちが、あの巨大な国家機構を牛耳っている。

ふつうなら大統領制の国なら大統領が、議院内閣制の国なら首相が、最高権力者だとかんがえるけど、それらの前に「官僚制国家」となると、彼らが集団で政府を盗むのである。
このことは、ガルブレイスが日本企業を分析した、『新しい産業国家』(1972年、河出書房新社)で説明された、企業内官僚(テクノストラクチャー)によって、経営が盗まれる構造とおなじなのである。

テクノストラクチャーたちは、社内(組織内)の、フォーマルなつながり(組織図に従う)だけでなく、インフォーマルなつながり(たとえば、近い職場同士の飲み会メンバーや職場を超えた仲良しグループ)が、自分たちの都合のいいやり方を経営層に押し付けることで、居心地のいい会社(組織)へと変えてしまう行動原理を持っているのだ。

ガルブレイスが指摘したこの、テクノストラクチャーのもう一つの特徴に、身分を問わない、がある。
つまり、現実の企業内でもそうであるように、飲み会仲間や仲良しグループは、特定身分の者たちの集まり(たとえば、部長級だけとか課長級だけ)ではなく、むしろ、年齢や職務資格すら問わない、開かれているけどあくまで仲間内、といった様相を示すものだ。

かんたんにいえば、キャリアとノンキャリを問わない集団なのである。
そして、この場では、ノンキャリがキャリアを指導することもある。
現場の本音の声(情報)が、キャリアのフォーマルな場での重要な自己アッピール材料にも活用されて、そのまた上司たちからの評価になってあらわれるのである。

ゆえに、このインフォーマルな集まりは、徐々に組織図の上にも拡大して、行き着く先の究極が「派閥」となる。

派閥が一つの利益誘導体となって、全員がこの利益の享受者となり、これから外れた者たちを排除するようにまで「発展」すると、かならずや対抗する派閥が形成されるのは、以上のような力学的原理が働くからである。
しかして、トップはこうした派閥を制御できず、逆に「お人形」として制御される側に回る。

なぜなら、こうした派閥からトップが選出されて、その人物がトップになった途端に、派閥のテクノストラクチャーたちは、トップへのあらゆる情報を遮断し、派閥に都合がいい情報しか提供しなくなるのである。
なので、トップに選出される人物とは、テクノストラクチャーたちにとって都合がいい人物しか選ばれない。

これを、かつて自民党幹事長として辣腕を振るった、小沢一郎氏は、「シャッポは軽くてバカがいい」といって、その本質を見事に表現したのであった。

大国の国家組織はどんな大企業よりも巨大なので、テクノストラクチャーたる官僚が跋扈するのは当然である。
アメリカの失敗(お人好しのカーター氏を選んだ邪悪な民主党の意図通りなら「成功」)は、中華歴代王朝よりも強力な「官僚制」を作り出し、これらがまた、軍産複合体に買収されて、人類の厄災になったのである。

それが、連邦下院を支配する共和党によって、この数年の「犯罪」が暴かれている。
バイデン一家の、おそらく「国家反逆罪」が適用されるだろう、見事な「売国」の実態も、とうとう下院の捜査権がこの一家の銀行口座の入出金記録にまで及んで、もはや万事休すの瀬戸際にある。

「Twitter File」の暴露と議会証言から、司法省とその配下にある連邦捜査機関たるFBIすら、逃げ道を失いつつあるし、21年の連邦議会襲撃事件の真相(じつは民主党ペロシ議長の策略だった)も解明されつつある。
こうした状況をみた、州レベルの裁判官も、いまや逃げ道を探している。

昨年の中間選挙で、激戦だった、アリゾナ州知事選挙における、投票日当日の大規模な投票システムのダウンが怪しまれる中、この選挙管理の責任者だった人物が、その職のまま立候補して辛勝したが、対抗する共和党候補は、裁判に訴えて連続敗訴していた。

22日、州最高裁が州高裁に差し戻しの判決を出す画期があり、これまで却下され続けていた「署名確認作業」を命じたのである。
もしや、「投票用紙の監査をする」となれば、すでに知事職にある人物の当選無効・解職が起こり得るし、この人物がやったとしたら、20年の大統領選挙にも影響があるかもしれない。

なんだか、潮目、が変わってきたのである。

邪悪なエリートたちの逃げ足が早い、のは、古今東西の歴史にもある。
自分だけの利益を追求する行動の、合理的な帰結だからである。
次に起きるのは、こうしたひとたちの保身から出る、免責を条件にした裏切りの証言なのである。

これを、同じく逃げたい裁判官たちがやらせることになるだろう。

ウエラブルなスマートウォッチ

健康状態を見る指標として、さまざまな数値があるけれど、まずは基本となるのが「血圧」だろう。

人間という動物は、いつの時代でもおなじタイプの動物なのだ、とかんがえるのはあんがいと浅はかのそしりを免れない。
人種によるちがいは明白だし、おなじ人種でも生活領域(ふつうは「国」や「民族」)によって、先祖を辿っても、その時々の「現代人」が、むかしから変わらない動物だとはいえないのである。

なぜなら、少しずつでも「進化」あるいは「退化」しているからである。

「進化」と「退化」のちがいがややこしいのは、たとえば、「尾があった」ものが、「尾てい骨」しかないようになったのを、「進化」とも「退化」ともいうからである。
進化して尾がなくなったのか?尾が退化してなくなったのか?

わたしの時代では、中学校の数学で、「相似」という概念を学んだ。
戦後学校教育の批判はたくさんあるけど、カリキュラムの連携がほとんどない、というのもきっとその悪い意味の特性のひとつだろう。
ならば、戦前だとどうだったのか?もあんがいと不明なのだけど。

ドーナツ状の穴が空いた形を、筒状に引き伸ばしても、「相似形」である。
原生動物には、腸管しかないものがあるけど、結局のところ我々人間も、口から肛門までの形状は、原生動物と変わらない「チューブ型の相似形」なのである。
よって、「原生」の意味が理解できる。

すると、消化管の役割とは、取り入れる食物によって大きく変化することは、当然なのだ。
もちろん、「消化」とは、分子レベルでの化学反応であるから、消化器の機能は、摂り入れる食物と、その分解をどこまでするか?できるか?によって、生物としてのちがいが生じる。

それで、おなじ人種・民族でも、その時代によってちがいができて、体型にも影響するのだ。

堅くて難消化性の食生活なら、口を支える「あご」が発達して、がっしりとしたゴツい顔になるし、腸管が長くなるから、寸胴短足な体型になる。
逆に、柔らかくて消化が早い食生活なら、「あご」が退化して、腸管は短くていいから、足が長くて8頭身とかになるのである。

たった150年前の、幕末に撮影された写真にみる日本人の姿が、到底現代人と似つかないのは、このためだ。

ならば、当時の日本人の血圧はいかほどであったのか?
世界初の血圧計が発明されたのは、1896年(明治29年)のイタリアだった。
なので、これ以前の人々の血圧は推定の域となっている。

いろいろなセンサーが開発されて、それがまた小型化したら、腕時計の機能にまでなった。

それが、ウエラブルなスマートウォッチになって販売されている。
それでも、血圧を測定するには、空気圧をかけて計測する方法が原理にあっているのでこれを採用したものと、正確性には欠けるけど簡易な方法で、目安とするものとに大別できる。

ときに、正確性が欠けることの正確性が、どんなものかも吟味しないといけないのだけれども、これを説明しているレビュー記事もないのは不思議だ。
第一の正確性とは、空気圧をかけて測る方法との誤差における正確性をいうが、もう一つは、その誤差の範囲における正確性のことをいう。

たとえば、正確に測ったら、120=70が、簡易式でなら、130=80だという誤差があっても、これが何回計測しても似たような誤差ならば、その誤差分を考慮することでの正確さがあるということになる。
つまり、目安としては、使える、のだ。
実用に耐えないのは、誤差自体ではなくて、いつも計測結果がバラけてしまう方のことをいう。

だから、簡易式のウエラブルなスマートウォッチを購入したら、どの程度の正確さで誤差を生じるのか?を別の正確な計測器を併用して、しばらく確かめないといけない。

最新のウエラブルなスマートウォッチには、なんと無痛・無傷で血糖値を計測する機能がついている。

血糖値には、随時変化するいわゆる血糖値と、血中のヘモグロビンが新規に生成されるのと、糖によって破壊されるのとの時間的経過をしるための、ヘモグロビンA1Cという指標の2種類がある。
ヘモグロビンA1Cは、およそ2〜3ヶ月間の血中糖濃度の平均値となるので、糖尿病の診断に使われている。
6.2%以上が、糖尿病となる。

なので、いまや国民病となっている糖尿病患者にとっての、血糖コントロールの目標は、6%台前半であって、もちろん望ましいのは6を切って5台を目指すことになっている。
飲み薬もインシュリン注射も、おなじ数値目標のためにやっている。

つまり、これらの「治療」とは、じつは「病気の治療」ではなくて、とにかくヘモグロビンA1Cの数値を下げるための「対処療法」なのだ。

すると、ウエラブルなスマートウォッチが、たとえ血糖値計測の専門機より正確性を欠いても、誤差の範囲における正確性があるなら、十分に実用性があるのは、随時変化する血糖値の推移をしれば、食事や運動の影響がどうなのかをかなり直接的に本人が把握できるからであるし、それによるヘモグロビンA1Cの予測値の正確性も、誤差を見越して参考になるからだ。

興味がなかった、スマートウォッチが、欲しくなったのである。

北方領土の放棄を決断した

岸田首相のウクライナ電撃訪問について、前回触れたとおり、国家元首の外国訪問には、周辺国への事前通知が欠かせない。
ましてや、ウクライナはロシアと戦争状態にあるから、第三国の元首の身体的安全を確保するための通知は、「もしも」を防止するための重要な手続きなのである。

だから、こないだのバイデン氏の同国電撃訪問でも、アメリカ政府はロシアに事前通告して、まちがってアメリカの国家元首たるバイデン氏を傷つけないように、戦闘行為中なのに配慮するのが「国際儀礼」でもある。

そうやって、他国を戦争に巻きこまないようにするのは、これまでの戦争の歴史からの「智恵」なのである。
だから、今回の岸田氏の訪問でも、日本側からロシアに事前通告したのは当然なのだ。

日本のマスコミは、「敵国情報の報道管制」をしているので、ロシア側の反応がぜんぜん日本国民に伝わらない。
これも、ロシアは承知の助だから、長距離戦略爆撃機「ツポレフ95MS」2機を7時間以上も日本海に飛ばして、その「返礼」としたのである。

外交の世界は、「相互主義」という原則がある。
ゆえに、日本国首相の身の安全と引換に、爆撃機で威嚇するのは、相互主義の原則に基づいている。
もちろん、どんな返礼をするかは、独立国たる相手国の判断による。

あたかも、平和ボケの日本人には、核搭載できる大型爆撃機を2機も出動させることの危険な威嚇行為は、首相の身の安全よりも重いとかんがえるかもしれない。
しかし、ロシアからしたら、今回岸田氏が表明した「戦費を5億ドル」も追加供出することの「返礼」としては、よほど「軽い」とかんがえているにちがいない。

これは、プーチン氏の「日本愛」なのかもしれないのだ。

じっさいに、北方領土返還に関しても、プーチン氏は積極的だった。
しかし、彼が出した唯一の条件、返還後に米軍基地はつくらない、ことの確約が日本にできないことで、頓挫したのだった。

このことは、日本側に、米軍基地をつくることがとうに「前提」になっていることを示すし、日本の領土にいまでもアメリカは軍事基地を新たにつくれることを意味する。
そしてこれを、アメリカに拒否できない日本政府があるのだ。

すなわち、わが国の周辺国ばかりでなく、世界各国は、「日・露の北方領土返還交渉」を観察すれば、わが国の立ち位置が、「非独立国=アメリカの保護国=植民地」であることが論理的明確に理解できることだろう。

この意味で、岸田氏の今回のウクライナ電撃訪問は、歴史的意味をもった。

それは、あからさまにロシアに敵対することを世界に示しただけでなく、北方領土の放棄を決断したも同然だからである。
昨年のロシア軍によるウクライナ侵攻以来、わが国はずっとウクライナ支援をしていたけれど、直接訪問という一線は超えていなかった。

これが今回破られたのである。

岸田氏のような優柔不断で平和主義をいう政治家が、なぜにかくも重要な政治決定ができたのか?は、かんがえるまでもなく、普段からなにもかんがえていないから、アメリカの命令に従っていることに、ストレスさえも感じないだけなのである。

外務省も、面倒くさいことはいやだから、シラッと岸田氏の決めたことにすれば誰も責任をとる必要もないし、国民で気づくものはごく僅かだろう。

それでも、「毎年2月7日は北方領土の日」ですと、マスコミに巨額の宣伝費を渡せば、アリバイ工作としては十分なのである。

すると、これからロシア側は、これ見よがしのイベントを北方領土でやることで、「相互主義」を壊すのではなく、今回の日本の決定通りのことを粛々と推進するだけだ。
これをもって、右翼とかが騒ぐのなら、本来ならそれはまさに「いま」でないといけない。

つまり、よってたかって、もう日本人には、北方領土が領土だという気が失せたのを、世界に宣伝しているのである。
だから、竹島も返らないし、尖閣も盗られるのだろう。

そんなわけで、沖縄も危ないし、北海道も危ない。
もう、沖縄には、最新鋭戦闘機F22も配備されていない。
なんと、アラスカからのローテーションなのだ。

一体全体、アメリカ軍のフォーメーションは、どうなっているのか?

残念ながら、在日アメリカ軍の存在理由とは、日本の永久占領であるから、日本防衛の目的はうわべだけの方便なのである。
ならば、どうして北方領土に米軍基地をつくれるようにしておくのか?もかんたんな理屈で解ける。

日・露の分断のためである。
ヨーロッパで、ノルドストリーム破壊で独・露の分断を図ったように、北方領土の返還による日・露関係の濃密化は、アメリカのロシア封じ込め政策に合致しないからである。

こうして、岸田氏というよりも自公政権は、あからさまに売国をしたのであった。

にもかかわらず、わが国国会は、行政文書のなんたるかで、「もりかけ」のごとく、時間を浪費しているのだ。

政治家たちがこぞって、亡国の輩になっているのを、国民は他人事として生きている。
まもなく、生存が危険になっても気づかないのだった。

DXはセキュリティなしに構築できない

昨今、江戸幕府より強圧に国民に君臨するようになった日本政府が、何かに取り憑かれたように、カタカナあるいは英語らしき用語をもって、政策プランを表現している。
その典型が、「DX(デジタル・トランスフォーメーション)」とか、「GX(グリーン・トランスフォーメーション)」なのである。

冒頭、江戸幕府より強圧と書いたのは、江戸幕府や各藩のひとたちの身分が、武士であったことでの矜持があって、これをヨーロッパの騎士に例えたら、「ノーブレスオブリージュ」があったことを前提にしているためだ。

日本語でなら、「武士道」だけれども、中身はぜんぜん別物である。

本物の武士が新政府の官吏となったものの、その後の世代の官吏養成を、昌平坂学問所の跡地につくった、総合大学としての「東京大学」のエリート育成が、全国規模での需要から、「帝国大学」に変更したことが、悪い意味の平準化となったのでる。

さらに戦後の、「新制大学(制度)」は、これを「大学」と称してよいものか?
「university:ユニバーシティ」を、単に「大学」と翻訳して違和感があるのは、その根本的ちがいを本能的に感じるからだ。

ネット情報の玉石混交には、誰もが頼りにしている、『ウィッキペディア』にもあって、あんがと信用おけない。
なので、面倒でも他の情報源も探ることが望ましい。

それで、「東京大学」を検索すれば、東京大学のHPとウィッキペディアの二つが現れるけれど、残念ながらどちらも正確な解説表記をしていない。
その共通に、あたかも歴史的な継続性があるという「誤解」を読者に与えるからである。

じつは、東京大学の歴史は、断絶と分断の歴史なのである。
たまたま、場所がおなじ、ということだけだったものだから、あたかも「名称変更」という軽い解釈が一般になされてしまっている。

東大ファンの皆様にはお気の毒だが、組織について見識があるひとならすぐさま理解できる。
明治政府がやった、この場所にあった学校の「廃止」と「新設」こそ、「別物」としての事実を隠せない。

そんなわけで、官吏養成という、あたかもフランスの「国立行政学院(ENA:エナ)」の機能が中心にあるようで、そうでもない、中途半端な「学術」の殿堂が東大なのだ。
なお、「エナ」は、日本でいう大学院大学だから、東大の学部ともちがう。

ちなみに、「エナ」は、この卒業生マクロン氏への批判がこうじて、彼が廃止(=廃校)を決定し、2022年に、「国立公務学院」が新設される茶番があった。

どちらさまも所詮は、この程度、なのである。

我が国に話を戻せば、国家公務員として国家を仕切るためには、キャリア資格を得ないといけないけれど、20代前半の一回だけの試験に合格すれば、その後の一生を国家組織が面倒を見てくれる構造になっている。
子供時分から、受験戦争にさらされて、いい学校=いい会社、という安定収入を目指すことの原点に、国家公務員のキャリア職が君臨している。

現実の競争にさらされる、民間企業では、とっくに偏差値エリートに関しては、疑いの目で見ることができているから、旧態依然というのは、もう公務員の世界だけになっている。

しかし、我が国の「国のかたち」が、どんどんと共産主義に向かって、公務員天国を当然とする社会になった。
これを推進する力学とは、自民党や公明党をはじめとする、既存政党に投票する国民の意向がそうさせている。
補助金が欲しい、とか、保護が欲しい、あれもこれもおカネをもらえることをよしとする、乞食根性の刷り込みが、国家公務員と為政者の都合にいいのだ。

アベノミクスとは、国家が「分配」する、まさに共産主義・計画経済の集大成で、岸田氏はより強力な共産化(これを「新しい資本主義」とダブスタ表現する)を目指す急先鋒なのだ。

そんなふうに、公僕たる公務員をまちがった方向へ育てて、深刻な勘違いをさせたのは、飼い主たる国民の失敗なのである。
まったくもって、ペットの犬に生活の主導権を握られた飼い主の多さと一致しているのではないか?

残念ながら、殺処分がゼロにならないのは、そんな情けない飼い主がとる、最後の手段だからである。
しかして、人間界では、公僕たちに国民が殺処分されている。

ロボットが人間を支配する、伝統的SFの世界とは、公僕に支配されることで、すでに片足は達成しているのである。
それで、これを両足にして完成させよう、というのが、DX狙いなのである。

ところが、デジタルの世界には、二つの脆弱性がある。

一つは、SFならたいがいのヒーローが見つけ出して滅ぼすのが、ロボットを作った邪悪な存在にある。
DXなら、プログラミングをした人間がこれにあたる。
もう一つは、ネット上でのセキュリティに脆弱性があることだ。

前者は、構造物にあたるし、後者は、土地にあたる。

だれだって、軟弱な土地に家を建てたくないように、ネット・セキュリティの脆弱性とは、致命的なのである。
つまり、DXは、この脆弱性を無視して、超高層ビルを杭もなしで建てようという無謀なのだ。

見えない杭を多数打ち込むことは、基礎工事として最重要だけれども、もちろん建築コストになって跳ね返る。
ネット・セキュリティの脆弱性を阻止するためのセキュリティ投資は、一体全体いくら必要なのか?

この費用も、全額が国民(企業負担分は結果的に価格転嫁される)負担になることは、国民としてしっていていい。

政府を無視してマスクを強要する医療機関

「免疫力が落ちているひとがいる可能性があるので、引き続きマスクの着用をお願いします」という、医院長名での張り紙があって、受付でのマスク着用を強要された。
もし、所持していない場合は、「一枚10円」で販売し、その収益は全額寄付するともあった。

「医院長名」の意味とは、医師会からの通達なのだろうか?と疑うのは、この医療機関の医院長が、単独の判断でやっているとは、とうていおもえないからである。

それにしても、意味不明なことを三年前のはじめからやったので、やめるにも意味不明があって、なにがなんだかわからない社会になってしまった。

もちろん、社会を構成しているのは日本社会なら日本人だ。

つまり、日本人の愚かさが、まさに国をあげて「劣化」を招いたのであるが、これを「医師たち」が先導するから、話にならない。

一体全体、10円のマスクでなにを予防しようというのか?の意図さえもわからないのに、言われたままに従うことの訓練だけはできている。

これを、古くは古代ギリシャの都市国家、スパルタ式の「軍事国家」というのである。

わたしは、「周辺各国」という特定のアジアの国(これを略して、「特亜」ともいう)から、「80年前の戦争の反省が足りない」と嫌がらせのように執拗にいわれ続けていることに、反発する気持があったけど、彼らの懸念は、コロナ禍によって、「言い得て妙」だとおもうようになった。

けれども、彼らの主張を受けて、「戦争反対」とか「9条を守れ」と街頭でも繰り返す高齢日本人を軽蔑していることにかわりはない。

それは、あたかも、この期に及んで、まだ10円のマスクを着けろといっているに等しいからである。

「特亜」の国々が、日本を軍事国家だと非難することの正統性とは、10円のマスクを着けろと強要する側のことではなくて、強要されたひとたちがきちんと従うことの、気持ち悪さなのである。

もちろんこれら「特亜」の国にも、政府の意向にきっちり従う、気持ち悪いひとたちはたくさんいる。
けれども、それが日本人ほどではない、まだ部分的小数派なのである。

その「特亜」の国のひとつは、共産主義・全体主義を標榜しているので、従わない意思表明をすること自体が、命がけのことになる。
それが、香港での「雨傘革命」だったり、こないだの「白紙革命(運動)」だった。

だまって白紙を掲げた学生達の顔写真が世界を駆け巡ったけれど、その後彼らがどうなったのかを報道するものはいない。
ニュースにならない事象は、なかったことになる、恐ろしい社会が国際的に広がっている。

妙なことに、こうした抵抗が、わが国では見事に「皆無」だから、よほど世界的に気持の悪い、全体主義の訓練が完成の領域にある、「軍事国家」だといわれても、弁解の余地がないのである。

さてそれで、かつて、「喧嘩太郎」と異名をとった、泣く子も黙る「日本医師会長」に、武見太郎(在任は、1957年~1982年の25年間)というひとがいた。
歴代の厚生大臣を尻目に、徹底的に「開業医の利益」を追及したのである。

なので、武見氏の意見にそぐわない厚生大臣の方が先に任期がきて、歴代の大臣が束になっても歯が立たなかった。

ならば、武見氏に挑んで敗退した歴代の大臣は、誰の代弁者だったのか?

もちろん、国民からの選挙で選ばれた代議士が、国会議員としての当選回数を重ねてキャリアを積んだうえで就任したから、基本的には「国民の代議員」でないといけない。

ところが、武見氏が声高に叫んでも、国民がこれに反発しなかったし、大臣が国民に向けて訴えることもしなかった。
そうやって、開業医の権利(レ点をつけて、「利権」)がどんどんと拡大して、大病院と国民は、「疎外された」のである。

ちなみに、わたしは、「疎外」という概念を完成させたカール・マルクスは、この一点だけ正しいとかんがえている。
逆に、マルクスの「理論」で、残りの全部はゴミである。

そんなわけで、医師から医師だとみなされない、歯科医師たちがやった、「虫歯撲滅運動」が本気であったために、わが国から虫歯が激減して、歯科医師たちの収入も激減した。
けれども、本物の医師の方は、医師会という業界団体が医薬品業界と結託して、経済力(財力)で厚労省を圧倒したのである。

これに、カネの匂いに敏感な代議士たちが、ハイエナもおどろく貪欲さで群がった。

いまや独立系ジャーナリストとして、世界的な有名人になった、我那覇真子女史が、スイスに単独乗り込んで、あの世界経済フォーラムを主宰する、シュワブ氏への突撃取材を試みた。
これがまた、トランプ政権でホワイトハウス首席戦略官だったスティーブ・バノン氏の目にとまり、彼の人気番組への出演ともなったのである。

その我那覇真子女史が、再びスイスで単独インタビューしたのは、スイス大統領をスイス検事総長を介して刑事告発した、パスカル・ナジャディ氏であった。
告発理由は、「コロナ関連」だ。

アメリカでは、アイダホ州議会に、「mRNAワクチン接種禁止法案」が提出されたと、接種を推進する立場から『フォーブス誌』(2月23日)が、嘲笑をこめて報じている。

しかしながら、我が国でもあまりの超過死亡数の多さ(14万人以上)に、「原因不明」とし、その理由の詳細も調べないといっている厚労省に、医師である福島雅典京都大学名誉教授は、「医薬品会社との契約開示」を求めて提訴もしている。

徐々にではあるけれど、秘密のベールが世界で開かれつつあるのである。

日本の開業医は、自滅してしまうのか?どうなのか?が問われ出しているのだ。

哀しきWBCの盛り上がり

21日、メキシコを、劇的「サヨナラ」でくだした、「侍ジャパン」の活躍は、閉塞感が充満するいまの世相を明るくする、「よいニュース」であることは否定しないし、久々に、「溜飲を下げる」おもいができて、気分が晴れることも、結構なことなのである。

しかし、だ。

「決勝」を前に、ここで冷静を取り戻しておきたい、とかんがえるのである。
いまは、「巨人・大鵬・玉子焼き」の昭和ではない。

年寄りの冷や水になんぞにつきあいたくない、という方にはつまらない話になるので、ここで退場頂いても致し方ない。

お彼岸の墓参を終えてから、テレビがある友人宅に集まって、ニュース番組の特集で観戦することになった。
野球を観るのは何年ぶりだかすらも忘れていたので、そのチーム・メンバーの名前を詳しく語る友人たちが、なんだか珍しくもあった。

すでに侍ジャパンが勝利したことをしっている皆さんとしては、「安心して観られるね」といいつつも、まるでリアルで観戦しているような雰囲気になるのは、「心理」を理解した、テレビ側の演出の巧みさがある。

有名選手たちの「地元」で、少年野球のチームがユニフォーム姿で熱心に観戦している光景も織り交ぜていることの効果なのだとおもう。
高校野球のスタンドで、必死に自校の勝利を祈る女子高生の姿とかさなる。

この子供たちの姿を観ていて、「3S政策」の威力に、わたしは独り勝手にしらけていた。

日本人はいつまで、原爆投下を指示し、あくまでも日本人を猿扱いしたトルーマンが仕掛けた、心理戦の餌食になっているのだ?
このことを自覚もできずに、あるいは、こんな話を聴きたくないと拒否しているのだ。

こうしたひとたちの末裔が、いまのアメリカ民主党であって、「LGBTQ」を推進している張本人たちなのである。
つまり、どこにも「差別解消」の意図はなく、「差別推進」のための、「差別撤廃」をいっている。

なんのことだといえば、社会のあらゆる場面に、「差別がある」ということで、「差別の生産」をやっているのだ。
そうやって、社会を分断するのは、常識人たちの結束を解いて、個々人を「アトム化:原子化」するためである。

哲人、ハンナ・アーレントは、大著『全体主義の起源』で、アトム化こそが全体主義を目指す者たちの有効手段なのだと結論づけた。

これは逆説的ではあるけれど、日本人ならわかる「人」という字が意味する、「支え合う」ことに象徴される人間の本質に、独りでは生きていけない、ことがあるからだ。

つまり、人間はかならず社会を形成する動物なのである。

それで、その既存社会=自然形成された伝統社会ともいう、を破壊して、金属臭のある機械的な全体主義社会に再構築するには、既存社会に住まう個人をバラバラな「個=本当の歯車のような人間の部品化」にすることが必要なのだ。
夫婦しかり、家族しかり、地域、から国家へと、あらゆる場面でバラバラに分解するのだ。

だから全員がただの「個」となって、どうしようもない「孤独」にさいなまれる。

この孤独に、まともな人間は耐えられないので、必ずなんらかのコミュニティに参加するか、自らあたらしいコミュニティを創設する。
そのコミュニティが、意図的に全体主義を目指していれば、いったんアトム化した個人を無意識のうちに全体主義者にさせることができるのである。

これをヒトラー率いるナチスがやってドイツ人を改造したし、ずっとアメリカ民主党がやっている。
日本では、自・公も含め、ほぼ全部の政党がやっている。

それでまっ先に狙われるのが、子供なのである。

幼児期も含めて、早い時期からやる、「英才教育」の有効性は、アトム化にも有効だからである。
「個」が確立している成人とは、ちゃんと社会の構成員として存在するので、あらためてアトム化をするには、それなりの手間と時間と理屈がいる。

けれども、それが発達期の子供を相手にしたら、だんぜん容易なのだ。

しかも、子供に、「三つ子の魂百まで」という、刷りこみが成功すれば、少なくともその人物の一生に影響を与えることができる。

そんなふうに、WBCを熱烈応援している少年野球というコミュニティを観察すれば、全くもって、アトム化と全体主義的再構築の現場だと認識できるのである。
これがまた、「昭和」に子供だった、いまの高齢世代にも完全に一致して観察できることなのである。

知らぬ間に、恐るべき教育を子供時分に受けている。

日本のプロ野球を観戦しにスタジアムに足を運ぶのが鬱陶しくなったのは、まだ原辰徳が現役であった頃の東京ドーム一塁内野席でも、巨人への応援を強要されたからであった。
赤の他人が集まって、同一チームを熱烈応援して一体感を得ることの満足とは、それを目論む者たちの舌なめずりを想像して気持が悪い。

この点で、アメリカ人たちが特定チームへの応援強要をしないで、それぞれがゲームと選手たちのプレイそのものを楽しんでいることに、敬意を表したい。

サッカーが嫌なのも、その応援の全体主義的野蛮にあるのだ。

すると、べつに穿った見方ではなくて、どうして岸田首相が、電撃的にこの時期にウクライナを訪問したのか?ということの、隠れ蓑が、WBCなのだと理解できる。

戦争当事国の一方だけの国家元首たる大統領と会って更なる支援を表明することの、危険な意味だけではなくて、どのようにロシア側に通告したのか?の報道もない。
岸田氏一行の身の安全をロシア側に事前通告するのも、戦争拡大を防止するための世界の常識なのだ。

ならばなぜに、岸田氏はプーチン氏との会談をして、戦争終結を訴えないのか?

全くもって、民主党バイデンの後追いをしているだけで、そのバイデンも民主党も、いまや窮鼠状態なのに、である。
安倍政権を今さら批判したくなるのは、ほんとうに、こんな人物が、戦後の外務大臣として第二位の任期の長さ(在任日数1682日:最長は首相を兼ねた吉田茂)なのか?と、任命責任を問いたくなるのである。

そんなわけで、愚民化の道具の一つがWBCなのであって、大相撲もしかり、なのだとしった上で、存分に楽しみたいのである。

祝!世界一!

「財閥解体」という大ウソ

日本の戦争責任を誰に、どうやっておっかぶせるのか?

この命題を解決しないと、戦勝国として自国民への説明責任が果たせない、と殊勝なことをかんがえたのも、ウソである。
どうせ薄い理解しかできない一般国民だから、「敵」をつくってみせてやれば、「そいつらを縛り上げろ」という声になって、かしこまりました縛り上げます、と政府がいえばおさまるのである。

この意味で、ヒトラーやスターリンがやったことと、米・英・仏の西側がやったことは、おなじなのだ。

英国は、清教徒革命(1640~60年)とか、名誉革命(1688~89年)とかがあったし、アメリカは独立革命(1775~83年でパリ条約により独立、別に「独立戦争」ともいう)があって、それからいうまでなくフランスはフランス革命(1789~99年)があった。

これにロシア革命(1905~17年)と、辛亥革命(1911~12年)を経ての共産革命があったので、なんのことはない、国連安全保障理事会の常任理事国は、ぜんぶが「革命経験」をしているのである。

これら革命の、「順番」に注目してほしい。

それで、欧米かぶれした日本人も、幕末動乱から明治維新と戊辰戦争(1868~69年)に、西南戦争(1877年)までの一連をセットにして、革命にしたがるのである。
この「かぶれ」が、極左も極右もおなじなので、また始末に負えない。

明治維新とは、わたしからいわせれば、極左なのに「国民作家」とされた、司馬遼太郎が描いて国民を洗脳したような物語ではぜんぜんない。

将来ある若いひとには、司馬遼太郎作品をみない方が、脳のためになるといいたい。

戦後でいえば、似たような「毒作家」に、たとえば、城山三郎とか、山崎豊子がいるけれど、たくさんいすぎて特定するのも困難だ。
こないだ物故した、大江健三郎は、この意味で「毒が薄い」のは、最初から「猛毒」だとしられているので、まともなひとなら近づかないからである。

もちろん、こんなことになったのは、言論統制の成果であって、自ら率先垂範したマスコミの罪は重すぎる。
すると、有名作家とか人気作家というのも、「作られたもの」で、売れるためには言論統制の意図に従うことが近道となる。

これを、「売文」そして、「売文家」というのである。

江戸期には、幕府による言論統制があって、明治から敗戦までは内務省と陸軍(憲兵隊)が担当し、戦後はGHQ民政局がとってかわった。

戦時中の「伏せ字」にみる検閲の痕跡は、GHQの巧妙さで戦後にはわからなくなる。

それがすなわち、いまもある「放送コード」なのだった。
田中角栄がやった、民放テレビ局を戦前の統制下で各県1紙とした地方新聞社の子会社にしたのは、「放送コード」を新聞にも適用させる方便だった。

角栄の「出世」は、アメリカのポチを演じることで達成され、叛旗を翻した途端に失脚させられたのだった。

つまり、アメリカ人は、報道をプロパガンダに変換させる方法を熟知し、応用していたのである。

人間とは「媚びる能力開発」も自らに課すことができるので、戦前・戦中にも、政府や軍に媚びる記事を書くことで、社内の内部検閲をクリアした。
この「社内検閲」が、内務省や陸軍憲兵隊の「検閲担当官」よりも厳しくなるのは、現代の「教科書検定」とおなじ構造なのである。

そうやって、検閲官がおもわず「やり過ぎ」と感じるような激烈になって、より極端な世論が誘導される。

これこそが、検閲官の上司が意図する、「自主管理」なのだ。

そんなわけで、学校で習うことの「ウソ」は、かなり悪質に変容するようになっている。
しかして、ヒトラーがいった有名な一言、「ウソも100回いえば真実になる」が、現実になる。

一口に「戦前」とはいつのことなのか?
第一次大戦後の不景気(作りすぎて売れない)に、関東大震災が国家予算を吹き飛ばして、その後の天候不順がトリガーの昭和恐慌となって、すぐさま世界恐慌が津波のようにわが国経済を破壊した。

赤い事務官僚と赤い軍事官僚が結託し、阿片で稼ぐ民間人を引き入れて成功させた、満州国の経営を本国で本格実施したのが岸信介をブレーンにした、近衛文麿内閣だった。
彼らは、資本家を追い出して、資本家のいない株式持ち合いによる企業経営を実現し、同様に、大地主を農業生産から追い出して、名誉と地代収入だけの生活を強要した。

なので、GHQがやったという、財閥解体も、農地解放も、戦前・戦中でやっていたことの、用語の切替にすぎない。
財閥から、オーナー一家の株式を奪って、これを一般販売したことだけで「財閥解体」といったのだ。

「企業群」としての財閥は手つかずで残ったし、かえって官民あげて、GHQを利用したのである。
まるで、タヌキとキツネの化かし合いなのだった。

絶対権力だったGHQが、タヌキに欺されたふりをしたのは、高度な目的達成と合致したからである。
これを、無邪気にも「日本人の優秀性」というのは、いい加減やめた方がいい。

それよりもなによりも、20万人も対象になった、公職追放で、ふつうに偉かったひとたちが強制隠居させられて、GHQのポチになった偉いひとたちは、敗戦利得者として社会的にも経済的にも地位を得たのだった。

平成の停滞を超えて、令和のいま、叩き売りとして、本当の財閥解体が行われている。

日本経済の「強み」だった、安定の制度、大企業の株式持ち合いが解消された結果なのである。
この方式をかんがえついた赤い官僚たちの優秀さを自慢する歪みと、新自由主義の思想を歪めた、「自由放任」を主張した歪みが、いまの衰退をつくっている。

歪みの二重らせん構造が、日本を蝕んでいるのである。