嘘ばかりで選挙分析ができない

「世論調査に嘘をつく」話については、ずいぶん前に書いた。

このところ、わが家の固定電話にもしつこく「調査」やら「詐欺」やらの録音があるし、自動音声でかかってきた場合には、そのまま受話器を置いている。

選挙の投票所におけるマスコミの「出口調査」では、なるべく応じることにして、絶対に本当のことを話さない、と決めている。
質問する側が記事にする内容が、嘘ばかり、なのに対抗したくなるからである。

それでも、「調査」だから、有権者は本音で語る、という建て付けはかわらないので、そのまま素直に統計的な処理をするならまだしも、調査方法や有効回答率などの基本データを表記しない、「エセ統計」で記事にする悪辣に反省がない。

よって、この手の調査には、積極的に協力する嘘の姿勢をみせて、外れ値、をつくりたくなるのである。

そんなわけで、先進国のアメリカでは、左派マスコミの「調査」には、嘘の回答しか集まらない状況ができてひさしい。
だから、パラマウントに買収されて、「編集方針」が変わること確実な、全米ネットワークのニュースメディア2社(CBS、CNN)の「調査」にも変化がおきることだろう。

買収手続き完了の6日、CNNは、FOXニュースが来月から、前ホワイトハウス報道官のキャロライン・レヴィット女史を迎え入れる、と報じた。
もはや、「次の一手」がはじまっている。

そんなこんなで、アメリカのアンケート回答者は、CBSとCNNの調査には「嘘をつかない」で応じるとみられるので、これら以外の全米ネットワーク3社とは、ぜんぜんちがう調査結果となることが期待されている。

しかして、合併手続きが完了するのは、上にも書いた現地時間の6日なので、それから組織改編やらそれにともなう人員の入れ替え(解雇と採用)には時間がかかる。

よって、来月の中間選挙には間に合わない、とかんがえるのが妥当だろう。

けれども、レヴィット女史の「滑り込み」は、異例だしどこまで計画的はしらないが、全米が注目することの影響は大きいから、彼女はかなり過激な発言をして共和党に貢献するのであろう。

その意味で、彼女はトランプ政権2.0の「隠し球」である。

なお、彼女の後任たる、ホワイトハウス報道官はまだ決まっておらず、空席のままである。

つまり、2026年アメリカ合衆国中間選挙は、「嘘ばかりの世論調査」の情報嵐のなかで実施される最後の、歴史的な国政選挙、となることが確実なのである。

そこで、各種世論調査をみれば明らかなように、共和党の不利、が喧伝されていることの実態からおもうに、現実はかなり民主党の敗北、が濃厚なのではないか?とみることができる。

むろん、蓋を開けてみなければわからないのが選挙である。

しかし、世論調査の嘘がそこまで深刻なのが、アメリカ社会の実態だ。

そんなわけで、困ったひとたちとは、「予想」を業とする者であって、それはマスコミ関係者のなかに含まれる「有名教授たち」も同様であろう。
これら「研究者」の肩書きをもつひとのコメント発言と、論文とのギャップがどれほどの開きかしらないが、論文ならば査読に耐えられないので別のことを書いているにちがいない。

つまり、「嘘をいう」しかないのが、学者コメンテーターの悲哀、となっている。

公共の電波に乗せてなお、カネを受け取っての発言は、査読ならぬデジタル・タトゥーに晒される。
カネを受け取っていれば、しっかり「業」とみなされるからである。

そんなひとが、「本業」としての「論文」になにを書いているのか?はじつに興味深い。
少子の時代、学生(受験生)に選ばれないといけない大学経営として、大学名を背負った「(正)教授職」の言動が、学内評価基準に抵触するか?しないか?という問題も、今後顕在化するであろう。

苦しいいい訳として、「世論調査」の嘘を見抜けなかった、が共通になるのだろうけれど、それで「教授」がつとまるのなら、素人とどこがちがうのか?

つまるところ、選挙分析ができない、と認めることが、現代の「誠意」なのである。

世界は荒れている

「ターニングポイント」とか「分水嶺」とかという、分岐点にあたっているようだ。

まずは、「選挙」という選択で、ブラジル大統領、イスラエル国会の選挙が注目されているが、これに続いてアメリカでは中間選挙があるし、スペインも解散総選挙となった。
なお、フランスでは上院の一部改選があって、マリーヌ・ル・ペンの国民連合が躍進し、はじめて「会派」となる変化があった。

そのフランスでは、大規模デモが暴動化していまや全土で革命的な破壊行為となっている。

はじめは、労働者の「賃金上げろデモ」で、これとは関係なく高校生による「学校改善デモ」が重なり、どうやら極左政党が高校生たちを煽動しているようで大拡大した。

これに、マクロン政権が無能ぶりを発揮しているのである。

なぜならば、マリーヌ・ル・ペンの国民連合による組閣をつぶすための「左派連合」という烏合の衆に組閣させるしかなかったために、肝心の首相も教育相も、左派、だから、煽動をしている極左に親派性をもっているからである。

しかしながら、わたしが注目したいのは、おとなのデモ、すなわち労働者による「賃金上げろデモ」の方である。
これは、左・右の対立問題ではなく、なぜに経営陣が賃上げしない・できないのか?という問題を含むからである。

マクロンのモットーは、EUの主流、「中道」なのである。

それで、2017年の大統領選挙よりも前の初期に唱えていたのが、「アン・マルシュ!(En Marche ! :前進!)」であった。
大統領選挙一回目投票では、「フランスはすべての人にとってのチャンスでなければならない」となり、二回目の決選投票では、「共に、フランスを!(Ensemble, la France !)」だ。

「中道」は、かならず社会主義化することの典型例である。

こうした、「ふわっとした」文句は、2022年の大統領再選のときにも発揮されて「あなたと共に(Avec vous)」 だったが、その後 「私たち全員(Nous tous)」 へと変更されている。
それで、政権のイメージ・キャッチが「左でも右でもなく、左でもあり右でもある(Ni droite, ni gauche : en même temps)」なのである。

この頓知のような、あるいは「禅問答」のようなフレーズが、フランス人に刺さることが興味深い。
それでいて、ナポレオンの名言から「フランス人に不可能なことはない(Impossible n’est pas français)」ともいうのは、オバマを彷彿とさせるのである。

本来ならば、労働者は社会主義的な傾向を支持すると信じられてきた。

しかし、世界史は労働者の政党が政権を得ると、労働者を見棄てることを「原理」のごとく記録している。

それでも、労働者が社会主義的な傾向を好むのはなぜか?たんに学習能力がないからか?

おそらく、そこには絶望的な資本主義への怨嗟があるのだろうし、経営者は資本主義者だとの盲信が拭えないからであろう。

すると、資本主義とはなにか?とか、資本主義のあるべき姿はなにか?とかが、追及されないといけないのだが、まったくボンヤリとした概念的なものしか浮かばないのが実情なのである。

このブログでは、アインランドの「資本主義は未来のシステム」を支持している。

つまり、人類は本来的な資本主義を経験したことがない、という立場だ。

そこで、「株主資本主義」なる現代の状況をあらわす用語に注目すれば、絶対的な株式保有数と率の大株主(自国民とはかぎらない)が、自己の最大利益を追及するあまり、経営者を意に添った者だけに絞り込んで、とくに賃金(人件費)を上げないようにすることの合理性が認められることになっている。

しかし、企業活動の要諦は、付加価値の創出にあるから、付加価値に含まれる人件費を削減することの効果は、付加価値計算式内での増減となる。
かんたんにいえば、経常利益あるいは営業利益が増えるのだが、付加価値は変わらないようにみえる。

「みえる」というのは、人間だけが価値創造の原点なので、長期的に企業から人材が去れば、この計算式通りとはならず、企業活動そのものが停滞するのは道理である。
A.I.すら、人間がプログラムしたにすぎない。

すなわち、マクロン政権に叛旗を翻すこととなった労働者たちは、かつてのスローガンの無意味をかみ締めていることだろう。
それがまた、高校という教育現場にもあらわれ、子供たちが全土で暴れているのである。

しかして、そこに、大量移入した移民(現代の奴隷)の影響があることも事実であろう。

つまり、世界を席巻した「株主資本主義」なるエセ資本主義に対する、大反動、が世界を荒らす原動力なのである。

国連「剥がし」がはじまった

トランプ大統領は、正式手続きで1年かかるWHOからの脱退をほんとうに実行したが、先月の国連総会での「有言実行」として、国連関連の約70の国際機関からの脱退を指示した、と「X」で6日、「Wiki Leaks」が伝えている。

トランプ政権2.0には、キッチリした用意周到の手順があるので、問題は「いつトリガーを引くのか?」だけになる。
おおきな「仕込み」として、二次政権のはじめから活動を開始した「DOGE」による、USAIDの事実上の解体が効いているのである。

ようは、国家予算のたれ流しを止めただけでなく、「活動家」への資金提供を断ったのである。
その「活動家」集団のとりまとめ役が、「国際機関」だという仕組みは、もはや隠しようがない。

ここでいう「国際機関」とは、国連本部の「出城」のことをさす。

つまり、「兵糧攻め」をDOGEすなわち、イーロン・マスク氏を大将に据えてやらせたのは、本丸(国連)よりもはるかに遠い、国内機関だとおもわせて、まったく真田家の居城だった上田城の井戸が秘密のトンネルの役目もあったがごとく、「金脈」の把握をもって攻め入っているのである。

これだけ時間がかかったのは、その金脈の確かさを証拠にするレベルとする調査に手間取ったからであろう。
なにせ、この政権は、キッチリ「情報公開する」ことを愚直に守っているからだ。

まったく、わが国の政権・政府が、守る気もなくしたことをやっているのと正反対なのである。

そういえば、自民党幹事長でこの世の栄華を極めてからの没落が悲惨な、小沢一郎が、「国連優先主義」を唱えていたことがおもいだされる。
このお花畑の人物が、一生お花畑を貫くのは個人の勝手だが、政治家ともなるとそうはいかないのである。

残念ながら、国連改革、にも意味がない。
独立国の上に位置するような「国連&国際機関」はなくすべきものであるからだ。

トランプ大統領の処置によって、いよいよ、本丸を剥がしにかかることが確実となったのである。

首相の所信表明演説にみる大矛盾

5日、秋の臨時国会での所信表明演説があったので書いておく。

いまさらだが、自民党の首相なので、その根幹にある思想は、中道=介入主義(理論的には「ケインズ主義」)を基本としている。
だが、半世紀以上も前に自由主義の立場から、ミーゼスやハイエクが指摘したように、介入主義はかならず社会主義に飲み込まれる。

結論から先に書けば、まったくミーゼス、ハイエクの指摘は正しいことが証明されてしまった。

つまり、わが国は社会主義へと舵を切っている。

一見、消費税の一部減税や、エネルギーに関連する暫定税率の廃止は個人の選択の自由を拡大するようにもみえるが、その実は食品だけに限定した減税であったり、原油高騰時における補助金のカットが意味するいきなりの高負担は、国民生活には厳しい内容なのである。

この辺のメリットとデメリットにまったく言及していない。

それに、「ルールに基づく国際秩序」という国語表現にもトゲがある。
あたかも、ICC支援とウクライナ支援のことだけをいいたいようにも聞こえるからである。

アメリカとロシアをあからさまに敵に回すことが、国益となる根拠もない。

だから、前からいっている「責任ある積極財政」と同様に、枕詞に意味を持たせるパターンであって、そこにある共通は、「政府の肥大化」でしかないし、「経済安全保障」といいながらの規制強化が目的であろう。

まともに聞いたら「大矛盾」だが、矛盾がないという前提での「調整済み」が所信表明演説原稿の練った結果であるとすれば、論理破綻もない論理の強弁を貫けば、なんのことはないただの社会主義=国家社会主義の道を追求することでの大団円の独善なのだ。

これを、「ナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)化」といわずになんというのか?

巷では、「高市やめろデモ」が激しいというが、マスコミはこれを伝えない。

左派だけでなく、右派だってこのデモには参加したくなるであろう。

これにまた、国務大臣が得意げに、自分に反対する首長がいる自治体には国家予算の配分を減らした、と自慢したことが大炎上している。
高市氏は、この人物を「盟友」としているお友達ではあるが、果たして「泣いて馬謖を斬る」ようなことができるものか?

むろん、本人も故事を引用して、演説内容に格調を持たせようとした意図はわかるが、いわゆる身分制のもとでの印象が強いがために、支配者たる自民党と支配される国民という構造が浮き出るという事態になった。

高市氏は、その自民党の「女王」気分なのである。

自由主義のもとでの、たとえば以下の表現は、どのように解釈されるものか?ミーゼス最晩年のアルゼンチンでの講演録(1959年)では「チョコレート王」やら「自動車王」を題材に説明している。

ここでいう「王」とは、もちろん封建時代の王ではない。
ここでいう「王」は少しも支配せず、むしろ「奉仕する」と説明している。

産業の「王」は、顧客に依存するので、家来である顧客の寵愛をいつも受けていなければならず、あるいは競争相手よりもすぐれたサービスを顧客に安く提供できなくなるとたちまち「王国」を失う、と。

そして、領主である「王」は、市場や顧客と無関係である、とも記している。

つまり、ミーゼスの説明を施政方針演説にあてはめて解釈すれば、わが国首相は、封建領主の「王」としての演説をしたのである。

だから、顧客たる国民と無関係でいられるのだ。

ちなみに、ミーゼスのアルゼンチンでのこの歴史的講演が、いまのハビエル・ミレイ政権を誕生させたのである。

ところが、わが国での認知度は低い。

あたかも、水銀(有機水銀ではない)があるからと化学を偏向させて、蛍光灯をやめる命令をし、LEDからの有害な紫外線をぜんぜん認識しないで学校や学習机につけるがごとくなのである。

これを本末転倒という。

本来の民主主義が機能すれば、選挙で顧客から選ばれなければ、たちまち「ただのひと」になる。
高市氏は、これをぜんぜん気にも留めないのは、民主主義が機能しないことをしっているからであろう。

ようは、無敵、だと信じて疑わない封建領主としての「王」なのである。

歴史は、そんな状態が長くは続かないことを示す。
『平家物語』の時代は近いのか?

長野市の朝食はおにぎり

旅の楽しみで最大のものは、やっぱり「食事」である。

それでも、アンチョコになりがちなのは「朝食」である。
今回、大発見!してしまったのが、「おにぎり屋」の朝セットなのである。

その名も『長野おこびれ ゑびす堂』という。

「おこびれ」とは、HPにも説明があるとおり、「農作業中の小食・おやつ」をさすことばだという。
店は、24年の5月に開業したというから、もう2年以上前のことであるが、たまたま朝ごはんをどうするか?に迷いながらの走行中に発見!した。

選べるおにぎりを2個と、漬物、それにたっぷりの具がうれしい豚汁がついて、800円(税サ込)也。

ただし、おにぎりの残りでつくれる「お茶漬けセット」をセルフサービスで提供されているので、二度美味しい、から、やたら満足度が高いのである。

こういう店が、横浜や神奈川県にない。

「ツルヤ」もそうだが、「豊かさ」は、一概にGDPなどでは計れないことをしる。

この満足度と似た感覚はどこだっけ?と記憶を呼び出したら、京都の『南禅寺・瓢亭』の「朝がゆ」をおもいだした。
別館だと、4840円(税サ込)で、期間限定の本店だと、6957円(税サ込)である。

800円の「おにぎり」と比べるのはいかがか?というお叱りもあろうが、人間が一度に腹を満たす量はおなじなのである。
むろん、瓢亭の「朝がゆ」だって、「かゆ」そのものをあじわうものではないし、さまざまな付加価値があってのことである。

つまり、この店の「おにぎり」と「豚汁」それに「漬物」だけを食しての評価だけではない。

瓢亭から豪華な付加価値を除いてみて、その本質的な価値を比べてみたら、あんがいと「同格」だといいたいのである。

それは、文化性、という本質である。

瓢亭は京料理すなわち、公家的な伝統文化を基盤にしていよう。
江戸期の朝廷は経済基盤を奪われたので、どこまで贅沢な暮らしをしていたのか?となると貧乏御家人以下だったやもしれぬから、「かゆ」に込められた恨み節は想像以上に強いのではないか?

なので、その反動が瓢亭の「味」になっているような気がする。
こんなに贅沢な朝食は、世界的にも「異常」なのではないか?とおもうと、じつに感慨深いのである。

その贅沢とは、いったい何時から料理人が支度をはじめるものか?をかんがえればわかる。

長野では、「おこびれ」をわざわざ謳うところが、位置づけとして京都と真逆の「農民文化」を代表すると宣言しているのである。
しかして、長野県の農民が、はたして毎日、白米のおにぎりを腹いっぱい食べていたのか?と問えば、答は「否」であろう。

だから、この贅沢なおにぎりには、長野県の農民の恨み節がある。

京の公家が「かゆ」に抱く恨み節と、長野の農民が「おにぎり」に抱く恨み節の激突が、両者を比較したときの「味の深み」となっているのである。

ましてや、おにぎりの具材の準備に、いったい何時から仕事がはじまるのか?も、瓢亭ばかりではない共通の畏敬をするばかりなのである。

もっと無粋にいえば、両者とも、「セントラルキッチン」なる概念をもたないのも共通なのだ。

全国、どこにいっても同じなナショナル・ブランドのチェーン店にはない、個性で勝負しているところも、「いいじゃないか!」となる。

瓢亭に気軽に行ける身分ではないが、長野に旅したら、せめて朝は通いたい。

長野県といえば「ツルヤ」

夏に続いて、長野(市)に行ってきた。

旅行するときの楽しみは、「ご当地グッズ」のお買い物なので、外国だろうが国内だろうが、わが家はかならず「地元スーパー」や「市場」にいって、なにか珍しいモノはないのか?と物色するのである。

たとえば、ポーランドなら、クノールのポーランド限定スープや、乾燥きのこを沢山購入した。
生鮮品は困難だが、いろいろなご当地ならでは、を見つけるとそれはそのまま、旅の思い出品にもなる。

それでもって、長野(県・市)なら、かならず寄るのが、「ツルヤ」だ。

このスーパーの凄みは、店舗構造にもあって、たいがいの店の構造すなわち「商品配置」が、どの店舗もおなじなので、目当ての商品を探す手間とイライラがないことにある。
ストレスのない買い物が、わたしの住む横浜では達成できないのはまことに残念ではあるが、それがまた「ツルヤ」でほんの少しでも解消されるのも「旅の醍醐味」となっている。

だから、有名な「オリジナル商品群」だけが、すごい!、というものではない。

目当てとするオリジナル商品が、どこの棚にあるのか?、駐車場にクルマを駐めた瞬間から店内配置図が頭にうかぶのである。

最初に確認するのは、生鮮野菜がある向かって左側の入口ではなく、右側の入口から入った奥にある「パンコーナー」にあるはずの「お焼き」である。
この長野県のソウルフードは、善光寺参道の有名店のものがなにしろ特別なのであるけれども、負けじと具材たっぷりでコモディティ化しているところがミソである。

なので、「売り切れ」続出の人気商品となっている。
かんたんにいえば、争奪戦なのである。
今回は開店1時間後にいったら、すでに「お焼き」の棚は残りわずかで、滑り込んでわが家が買い占めたらその後、「販売中止」のシートが出ていた。

「お焼き」の次に向かうのは、「漬物」コーナーの一番奥にある、「野沢菜油炒め」の瓶詰めである。
塩分少なめの味付けで、「お焼き」に追加で挟んで頂くと、とまらない、状態になる逸品である。

しかして、「ツルヤ」といえば、ジャムなどのパンに付けるスプレッド類のオリジナル群ではあるが、あまりパンを甘くして食さないわが家では、スルーのコーナーになっている。
ちなみに、「お焼き」の近くにある、ヨーグルトにもオリジナル商品群があって、「ギリシャヨーグルト」が目当てとなる。

それから、時計と逆回りになるが、めんつゆのコーナーにある、「くるみの信州味噌だれ」と、ドレッシングコーナーにある、「焙煎ごまのたれ」は欠かせない。
瓶モノでいえば、スペイン産の「オリーブオイル」もいまどきにしては奇跡的に安いのである。

「ツルヤ」にできて、どうして神奈川県のスーパーにできないのか?をかんがえたくなる。

むろん、YouTubeでも、おおくの「ツルヤファン」たちが、お薦め商品解説動画をあげていて、動画自体を一本化できない状態なのである。

このことが意味するのは、「田舎だからなにもない」といった、都会との比較における絶対的な「負け」を前提とした概念が、崩壊している、ことだ。
きっと、長野のひとたちは、関東のなかでも東京にやってきてさえ、「ツルヤ」がない、ことにガッカリすると同時に呆れることだろう。

そして、「ツルヤオリジナル商品群」の威力を思いしるのである。

そんなわけで、わが家では、横浜で「田舎の生活」を強いられていることに気づく。

なお、ツルヤの店舗は現在、長野県内37店舗、群馬県に7店舗、となっている。
神奈川県に進出するのは、おそらく絶望的なのである。

アラウ降臨

YouTubeの不思議アルゴリズムの功・罪はいろいろあれど、突如、巨匠・クラウディア・アラウの『皇帝』があらわれた。

1987年、5月17日19時、サントリーホールでの『アラウ、N響特別演奏会−ベートーベンの夕べ』における、『N響アワー』の放送である。
指揮は、サヴァリッシュ。
珍しい、リハーサルとインタビューの模様は、当時のNHKの快挙といえよう。

アラウ氏は、1903年南米のチリ生まれだから、上の演奏当時は84歳で、亡くなる4年前の録画となる。

リハーサルでは、椅子の高さをサヴァリッシュさんが自ら調製する。
そのリスペクトがたまらない。
サヴァリッシュは、じつはピアニストが本業だったのだ。

だが、演奏はややテンポが速く、サヴァリッシュの悠然としたベーム張りの「いつも」とはちがうので、緊張していたのは名指揮者の方なのであろう。

不思議かつ残念なのが、アラウをしてベームとの共演がなかったことである。

それでも、ハイティンクが振るオランダ・コンセルトヘボウとの録音が多数あるので、わたしとしては納得なのである。
コンセルトヘボウの弦のくすみ具合が、ウィーンフィルを彷彿とさせるからで、常任指揮者ハイティンクの演奏はいつもみごとだからである。

さて、演奏前の解説で、芥川也寸志さんの「時代」をテーマにした話は、まさに解説としての本質をズバリといいあてる見事さがある。
こういう人物もいなくなった。

いわゆる、「巨匠不在の時代」といわれている現代という時代とはなにか?

それこそが、アラウ氏が後輩に伝えたいこと、で警告したことが、残念な状態に陥っているので、時代が巨匠をつくらせない、ともいえる。
だから、これからの巨匠とは、時代に逆らうことを強制され、それにもかかわらず、本業を守り抜く「分をわきまえる」精神力がないといけない、ということになるのだろう。

この意味でも『アラウとの対話』は、一般人にも一読の価値がある。

卑近な例を示せば、高市内閣(片山大臣)による財務省幹部人事の「怪」がそれだ。
同省OBの高橋洋一氏が、自身のYouTubeで、組織の矜持喪失について、文学的な解説をしている。

このなかで、ペロッと「(大蔵省・財務省は)軍隊的な組織」だと、言い得て妙な発言がある。

むろん、氏がいう「軍隊」とは、旧日本軍のことをさすとおもわれる。
このブログで書いてきたが、旧軍を予算で支えたのは旧大蔵省であり、戦後、旧軍はGHQによって全面的に解体されたが、大蔵省(役人)は一切人事の手がつかないで生き残ったのである。

だから、無責任体質は軍隊的な連帯責任としてそのまま大蔵省に保存されたわけではあるが、それが、時代によって変質し、連帯責任がはずれて無責任体質だけが尖鋭化したらこうなった、というように聞こえる。

むろん、自民党政府に自浄能力を期待する方がどうかしている現状、なんらかの本格的政権交代があってはじめて、「設置法」まで手をつけることができるか?が勝負なのである。

そのときの基本思想が、アラウ氏のいう「分をわきまえる」ことに他ならない。

そうやってかんがえると、民間もおなじ、なのである。
つまり、組織としての矜持を喪失して、無機質がはびこることが、A.I.活用なる極端になっていることがそれである。

ようは、トップからして自分の立ち位置についての「分」を忘れてしまったことの、重大な問題の顕在化がこれから起きることになっているのである。

たんてきにいえば、組織マネジメントの自壊によるコントロール不能状態の出現、である。

クラッシック音楽界の「巨匠不在の時代」に、一般社会が追いつこうとしていて、あるいは、追い越したがために、見えやすい形で「巨匠不在の時代」となったともいえるのだ。

ピアノの鍵盤に手が張り付いたまま離れない、アラウの演奏は、84歳にして完全暗譜なのである。
巨匠を迎えて大緊張のサヴァリッシュの指揮台には、しっかり総譜が鎮座していて、指揮者がこれをみて指揮棒を振っている。

おい、ちょっと速いんじゃね?ともいいたげなアラウの目線ではあるが、まったくそのスピードに対応して一切の乱れがない演奏は、はやく終わりたいという指揮者の心理までも読んでいるようなのである。

それは、ベートーベンが恋人との約束時間に間に合わない、「焦り」を音楽にした逸話までも演奏中にアラウが思い浮かべつつ、サヴァリッシュの心を汲んでいるがごとくなので、この巨匠との共演が嬉しいはずなのに一刻も早く逃げ出したい気持がわかる。

あの「ちがいがわかる男」のサヴァリッシュをして、ここまで追いつめられるものか。

それが、本物、の無言の威力なのである。


冷蔵庫を選ぶ

「2027年問題」として、ことしは特にエアコンが注目されたが、国民の敵になった政府が定める「省エネ基準」(根拠は「省エネ法」(1979年))が変更されることによる。

こうした国民生活に直接影響することが、どこまで国会で議論されているのか?については、あんがいと「関係各省」による裁量が適用されるようになっている。
なぜならば、そういった「行政主導」が「法」に組み込まれているからで、そんな立法をずっとやってきたのが、自民党なのである。

だから、レジ袋有料化だって、法改正を伴う方式ではなく、関係する省庁の「省令改正」でやってくれたのだった。

本ブログでは、憲法違反の疑いを指摘した。

なんにせよ、いまでは国連が推進している「SDGs」のお墨付きを真に受けて、阿呆丸出しの似非科学を国民に押し付ける。
それもこれも、根幹政策としての国民貧困化政策があるからだ。
そうやって、世界共産化を企図している。

なので、今年の国連総会におけるトランプ大統領やミレイ大統領などが堂々と国連批判を展開したのは、彼らにこそ国民優先の民主主義が根本思想にあるからで、残念ながら高市首相(日本政府)は、国連のいうグローバル全体主義を全面支持したのだった。

つまり、自民党とは、自国民を支配する立場にある、と発想する「幕府」よりも腰が低い分筋が悪い集団である。
トランプやミレイが、自国民を代表して「政府を支配する」のとは、根本的にちがう。

よって、自民党政権はだれが首相になろうが、大臣になろうが変わらない。
なにせ、党主導、が政府運営の根本的な構造だからである。

ようは、党からの命をもって内閣は行政責任を負っている。
これを誤魔化すために、党総裁=首相、としているけれども、実態はぜんぜんちがうのである。

それでもって、国民経済に貢献したことがないばかりか、とにかく経済発展の邪魔をするのが役目の、経済産業省・資源エネルギー庁は、格下の住宅関連の国土交通省にも影響力を発揮して、似非科学を推進するから、京大や東大の学長(ローカルに「総長」という)の人選に選挙結果を無視させるのである。

そんなこんなの状況がつくられた上で、たまたまわが家は大規模リフォームをやるタイミングを迎えた。
よって、「2027年問題」をもろに被ることとなったのである。

「大型家電」の代名詞といえば、冷蔵庫である。
はたしてどれほどの用量が必要なのか?をかんがえるにも、夫婦ふたり暮らしでは、たいして大型は不要だろうという一般論は通じないご時世である。

なぜならば、毎日の買い物で需要を満たす時代はとうに過ぎ去っているからだ。
むしろ、買い置きの方がむかしよりもよほど多いので、かえって大型冷蔵庫の需要はあるのだ。

わが家では、セオリー通り、これまでは三菱電機製を購入してきた。

だが、今回は、リフォームプランのコンセプト「仲間が集まる(いつでも宴会)家づくり」なので、これに準じて5大メーカーの機種を比べることとしたら、「大型の氷」がつくれるシャープ製が俄然前面に飛びだしたのである。

むろん、メイン機一台で用が済むとはかんがえておらず、宴会をやる「囲炉裏テーブルスペース」には、飲み物系やらのための小型冷蔵庫がほしいし、その横には「空いたビンカン棄て」がいる。

さらに、1階には寝室がつくれない構造上の制約から、2階にも小型冷蔵庫を設置したいのである。

こうなると、家電量販店員の情報がパンクして、わが家の要望にみあう提案が途切れるのである。
どうやら一気に3台の別々の用途に見合った提案能力がないことがわかった。

そうなると、個人としてどのように情報収集するのか?となって、あんがいと難易度があがる。
つまり、ネット検索するにも、用途、をハッキリさせないといけないのだが、メーカーの設計コンセプトを検索してもでてこないことがわかった。

これは意外である。

メーカーはどんなコンセプトで製品化しているのか?をなぜにわかりやすく公表しないのか?

まさか設計担当の適当なアイデアが、そのまま漫然と商品化されているのか?

いまや、冷蔵庫沼、にはまっている。

自壊する?東大

国立大学法人東京大学(法人番号:5010005007398)の学長(学校教育法第92条)、通称「総長」(内部規定)があたらしく選出された。
その選出にあたってのやり方が、左翼的国際水準的といえる大変強引でなお、いい訳が一方的で傲慢だったために、批判的な議論をよんでいる。

かんたんにいえば、学内投票(総長選挙)における得票で2位との差が2倍差の勝者が就任するのではなくて、敗者の2位が就任することになったのである。
なので、単純に「選挙とはなにか?」を、東大解釈というあたらしい哲学体系で説明するという、たいへんな学術的アクロバットを国民に開示した、といえるのである。

もっとも「先行事例」としては、今年6月の京都大学では、選挙で3位だった人物が「京都大学総長選挙・監察会議」によって選ばれたので、学内での反発・抗議活動となっている。
京大といえば、哲学分野における世界的「京都学派」を有するために、やっぱり「あたらしい哲学体系」を東大よりも先に打ち立てたことが自慢なのかもしれない。

ようは、「形だけ」という選挙をやったのは、最初から一部で決めていた人事について、なんとなく理由づけ・権威づけをしようとしたのに、あまりにも「大差」がついたために、当初のいい訳が苦しくはなったものの、厚顔無恥でツッコめばなんとかなる、という前例をしっかり構築できたのでこれはこれで「あっぱれ!」ともいえるし、古い『白い巨塔』における教授会をいかに制するか?に暗躍するひとたちの滑稽が懐かしくもある。

まったくもって、20年前に放送された『宮廷女官チャングムの誓い』における仇役、チェ尚宮が「最高尚宮」に不正をもって昇格したのと似ている。
「天に逆らって」という前職からの忠告を嘲るようにして就任し、遂には女官長にまで上り詰めるも、そのあっけない崩壊ぶりはこれまた見事なドラマ展開だったものだ。

この儒教的展開は、韓国ドラマにおける勧善懲悪ではあるが、彼の国の歴史おいて、なぜか反儒教的な指導者があらわれては消えていくことを繰り返していることも興味深い。
すると、わが国の最高難易度の大学における、韓国化、ともいえる今回の現象は、いったいどんな反儒教的な流れとつながっているのか?をかんがえたくなるのである。

そんなときには、歴史、を追うのが正当だろう。

このブログで何度も書いたように、戦前・戦中までの旧制(東京)大学と戦後の新制(東京)大学は、GHQによる「学制」の刷新によって、ぜんぜん別物なのであるけれど、「校名(名称)」を変えないでよいという曖昧さで、おおきな誤解が世間にはびこっているのである。

むろん、教授陣もそのまま継続勤務できたので厄介なのであるが、カリキュラムが全面的に変えられたので、おなじ教授がちがうことを教えるはめになった。
それで、一貫性を保持しようとした誠実な学者の言動が制限されて、場合によっては大学を追放されたために、怖れをなした二流学者は自ら立場をかえる=変節のために努力したのである。

たとえば、横田喜三郎なる人物(法学部教授から最高裁長官となる)の恥ずかしい生涯は、いまも語り草となっているようにである。
かんたんにいえば、GHQに盲目的にしたがうことをして論文までまで書いたのに、勲章を得るとなったら自己焚書したような人物だ。

日本政府は、このょうな下劣な人物に文化勲章やら勲一等まで与えた。

ときに、今回の東大総長選挙結果について、一応、文部科学大臣が文句をたれたというが、とくだん結果に影響していない。
それもそのはずで、自民党文教族の事前了解があったにちがいないからである。

自民党政治とは、中共とおなじ「党支配」だから、党の意向に政府は大臣といえども逆らえないのである。
なお、現在の自民党文部科学部会長は、深澤陽一(静岡第4区)、部会長代理は参議院で朝日健太郎(東京都選挙区)、衆議院で岸信千世(山口第2区)である。

もしや、悪い意味のポピュリズム政党として、世間の批判が高まれば、これらのひとたちが政府側の大臣やら政務官をつかって、なんらかの対応策をやらせて責任論から逃げ切ることもかんがえているだろうから、「総長」になるという女性教授を責めてもしかたがないのだろう。

しかして、この機に思い切り東大を左傾化させたい、という自民党の狙いとは、一貫した「反トランプ」の政策決定に連動しているのだとおもえば、おどろくにあたらない。
なにせ、これまでもしっかり左傾化してきたのは、横田喜三郎やら宮沢俊義やらの遺産だし、そのまた上にはGHQを仕切った民主党政権がある。

わが国政府が「敵認定している」はずのトランプ政権2.0は、ハーバードをはじめとした左傾化著しい有名大学への補助金を大幅カットしているのである。

つまり、あくまでも、「天=トランプ政権2.0に逆らっている」のが、日本政府・自民党なのだ。

むろん、国連総会におけるトランプ大統領と高市首相との真っ向対立は、その後、高市首相が自ら「トランプ氏から電話があった」とした発言に、トランプ氏は「日本の高市に電話した?そんなんしらない」と返してしまったのを、これまた東京のアメリカ大使が蒸し返して、「トランプ大統領から高市首相への電話でも日米関係の親密さがわかる」と変な記事をあげている。

ようは、トランプ氏は高市首相になんか電話していないし、用もない、ということの「いけず」な確認・念押しを、駐日アメリカ大使が真逆の表現で露わにしたのである。

なんでこんな強気なことが、日本側にできるのか?

おそらく、外務省が、11月の中間選挙で共和党が大敗する、とでも吹聴しているのだろう。

ヒラリーが絶対に勝つと安倍晋三首相に進言し、大ハズレした責任を外務省はとっていない。

とうとう、愚かにも京大・東大がいいように使われているのである。

「庶民」が気づきだしている

「しょみん」をどう書くのか?

「庶民」とも「諸民」とも書ける。

漢和辞典で「庶」とは、「煮る」の意味が一番にある。
二番に「もろもろ=諸」がくる。
対して、「市民」というカテゴリーもある。
「フランス革命用語」として、政治的権力を得たひと、という意味である。

関連に、「小市民」があって、「中産階級」を意味する。

わが国の戦後高度経済成長で、この中産階級が国民意識の圧倒的にぶ厚い層を形成したが、失われた30年で、すでに崩壊し貧困化が進んでいるのが現状である。

それゆえにいまは、「諸民」には「貧しい労働者」のニュアンスがあるのだけれども、高齢化してリタイヤした元労働者をなんというのか?は、言葉が間に合っていない。
たとえば、日本3大ドヤ街のひとつといわれた横浜・寿町界隈は、いまや生活保護と介護を中心とした貧困ビジネスの先端地域になっている。

なので、ぜんぶをひっくるめて「庶民」としている。

とある食堂での昼食時、作業服を着た中高年男性3人が、あんがいと優雅な昼休みを楽しんでいた。
食事の後に、しっかりデザートも注文していたのである。

あまりにも席が近いので、会話の一部が耳に入ってきた。

なんでも、昨今の経済問題やらを話していて、マスコミがトランプの悪口しかいわないことに、ハッキリと違和感があるというのである。
YouTubeだとそんなマスコミ批判がわかりやすい、との弁に全員が頷いているのである。

テレビ脳ではない!

これは意外な発見であった。
それで、自分たちの給料が上がらないのも、経営者が余計な投資をさせられているからだと、業界や業界を仕切る団体トップの非合理を嘆いていた。

それで突然、「なにがLGBTだ!」、「地球環境だ!」というのである。

まったくの正論である。

現場技術者として、なにが合理的かを日常的にかんがえている自分たちからしたら、メチャクチャがまかり通っている、と。
だが、彼らはアルコールを飲んではいない。
あくまでも、昼食時間なのである。

このひとたちが、夕方、どこかの居酒屋で飲みはじめるとどうなるのか?
かなり面白い話が聞けそうである。

しかし、こういった話がふつうにあるのは「いいこと」である。

一日は24時間しかないので、YouTubeで1時間視聴したら、地上波を観る時間は1時間減るのである。
わが家は行きすぎていて、とうとう地上波を1時間ばかりか1秒も観ることはなくなった。

それで、たまにテレビがつけっぱなしの居酒屋にいって覗く地上波のお粗末が、お笑い番組にみえてくるのである。
真顔で語る、キッチリと決めたニュースを語るアナウンサーのスーツ姿が、まるでピエロの衣装にみえる。

むかしは、ニュースの局アナといえば原稿を聞きやすく読み上げるひとのことを指したが、いまではコメントを加える。
けれども、まったくの個人の感想なのか?それとも局の方針を語って演技しているのか?がわからない曖昧な存在になった。

もしも後者なら、役者がアナウンサーの役を演じている、といえる。

つまり、ニュースがバラエティになったのである。

それを、現役中高年のおじさんたちが見抜いている、というはなしである。
ようは、気分はまだまだ「小市民」なのだ。
ここが、与党政治家の弱点であって、選挙民の精神状況をしらないから、これを「政治的情弱」といいたいのである。

ドイツやフランスの変化は、遠い国の出来事ではない。