マッチポンプの中国政策

国民と国家は別物だ、という論法がアメリカ・トランプ政権の対中戦略で打ち出された。
これには、「国民<国家<党」という図式を応用した、「分断」だと中国政府は反発している。

およそ全体主義体制においては、二重思考(「ダブル・シンキング」)が「ふつう」なので、一般的な倫理や道徳という概念は通用しない。
むしろ、一般的な倫理や道徳に反する、背徳や悪辣をもって「道徳的」というので、正反対のことが一般的になる。

ただし、これは、「国家<党」という両者のなかでの「常識」だから、被支配者としての国民にとっては、「仰せの通り」ということになるだけなので、積極的にこれを受け入れるというほどでもない。
ここに、「分断」の種がある。

すると「国家<党」のいう「反発」とは、国民の側に立てば、「積極的に受け入れられる」ということになる。
つまり、「国家<党」が「国民と分断させるな」というのも、「とっくに分断している」という意味だ。

これが、「二重思考」の解読方法である。

こうしたことを、なんだかんだいっても外国のことだと嗤ってはいけない。
ぜんぜん他人事ではないのである。

わが国の場合、「国家」と「党」がどうなっているのかをかんがえると、「官僚政府<政権与党」を装いながら、実際は、「官僚政府>政権与党」になっている。
「<」と「>」の記号の向きに注してほしい。

どういうことかといえば、中国共産党は「立派な」近代政党だけど、わが国の自民党はぜんぜん近代政党ではないからである。
近代政党には、政党内にシンクタンクがあるものなのに、自民党はあろうことか官僚にこの役目を負わせた。

あえて自民党といっているけど、わが国の政党で党内にシンクタンクがあるのは、やっぱり日本共産党だけである。
この意味だけをとれば、日本共産党は近代政党といえる。
他の野党は、全滅なのである。

だから、かつての民主党政権も砕け散ったのだ。

政策を官僚に、「立案してもらう」ことしかできなかったからである。
もちろん、この「政策」には、「法案作成」もふくまれる。
その法案は、内閣法制局が仕切っているのである。
もっとも重要な、「予算」は、当然だが財務省が仕切っている。

官僚を手足のように使った政治家は、過去に一人、田中角栄しかいなかった。
いまの政治家は、官僚に手足のように使われていて、できるのはパフォーマンスとしての「発言」だけになったから、「失言」がふえる。

角栄の天才は、各省庁のキャリア官僚の顔と名前、そして何よりも「入省年次」を記憶していたから、適材適所が実行できた。
これを、「角栄コンピュータ」と呼んだのだ。
官僚の弱点は昇格において、入省年次を超えられない、一点にあることをしっていた。

経済官僚のほとんどが法学部出身なので、本当はかなり経済音痴なのがわが国経済省庁の特徴となっている。
とくに顕著なのが、経済産業省である。
この役所は、日本経済の発展にほとんどどころか、歴史的にもぜんぜん役に立っていないのに、「我こそは」と意気込む悪い癖がある。

この癖をつけたのが、近衛内閣における岸信介商工大臣(商工省は後に通産省になる)だった。
近衛の悪辣は、阪急東宝グループをつくった自由主義者の小林一三を商工大臣にしながらも、満州で社会主義帝国をつくった岸を次官につけて、小林になにもさせなかったことである。

しかも、内閣を意味不明に放り出してみせたのは、小林を追放し、岸を商工大臣に据えるためだったのだから、たちが悪い。
ついでに、満州で岸を補佐して社会主義のための経済計画を立案していた満鉄調査部の流れから、後の経済企画庁ができている。

このあたりから、わが国のダブル・シンキングがはじまるのだ。

そして、いまの経産省は、中国から撤退する日本企業に補助金を出す政策をかかげ、1700社がこれにしたがっている。
ただし、中国に進出している日本企業は、およそ3万5000社にのぼるから、せいぜい全体の5%程度なのである。

しかも、このたびの新政権でも留任した自民党の幹事長は、「中国との経済関係の強化は世界潮流である」旨の発言もしているのである。
西側諸国のどこを見ても、世界潮流とはいえそうもないけれど、経産省の外郭である日本貿易振興会(JETRO)による、中国進出企業アンケートでは、9割以上が現状維持かさらなる事業拡大を試みる、というから、「国内的には」世界潮流ともいえる。

つまり、撤退させたいのか?拡大なのか?どっちなのか?
がはっきりしない。

税金をつかう補助金方式には限界があるし、かといって民間企業に命令もできない。
だけれども、一方で、現地に駐留する民間人は、そのまま「人質」にもなる。

最後は企業の経営判断なのである。
くれぐれも「サンクコスト」に注意したい。
過去の投資は、「あきらめるに値する」原価なのである。

これは、中国に投資した世界中の企業にいえる。

だから、雪崩をうって撤収パニックになることもあり得る。
他人の判断に依存してもせんないけれど、11月のスイスの国民投票と、もちろんアメリカ大統領選挙がエポックになるにちがいない。

強欲な役人がカジノを逃がした

世界的なコロナ禍にあって、アメリカはラスベガスにある世界最大のカジノ業者が日本進出を断念すると発表したのは5月、続いて8月にも別のアメリカの事業者がつくった日本駐在事務所を閉鎖した。
これで、残る候補事業者は、中華系だけになっている。

「カジノ反対」を掲げる住民団体にとっては、まさに「コロナ福」となっている。

また、横浜市では、住民投票をもとめる「カジノの是非を決める横浜市民の会」や、市長リコールの「一人から始めるリコール運動」の二系統で「阻止」をはかっている。

住民投票をもとめるハードルとしての必要署名数は約6.3万筆で、市長リコールだと約50万筆を必要とする。

あつめた筆が目標を達成すると、住民投票なら市議会で審議され、可決をもって住民投票となる。ただし、住民投票での「反対」が多数でも、結果についての「法的拘束力の有無」が問題になって、結局は「政治決着」というシナリオになっている。法的拘束力が「ない」からである。

一方リコールだと、市の選挙管理委員会が行う投票となって、こちらは「賛成多数」となれば、市長のリコールは成立する。
リコール運動の主旨が、「カジノ反対」だから、それで市長を失職させれば、市はカジノを断念するはずだ、という論法である。

だから、迫力があるのはリコールで、なんだか妥協的(やることに意義がある)運動なのが住民投票請求なのである。
それにしても、横浜生まれ横浜育ちのわたしの記憶には、物心がついて以来、「市長リコール」とか「住民投票請求」という事態は初めてであるとおもう。

この点で、横浜市民も民主主義の制度を活用してこれを実行しようというのだから、なかなかなものである。
しかし、一方で、市長の「カジノ推進」に賛同するひとたちが、沈黙しているのが気になる。

そんななか、つい先日、市長が「カジノ見直し」を発言した。
まるでリコールに怯えたかのようだけど、カジノ誘致のための「予算」が足らないらしい。

市当局の説明によると、現時点で来年度に970億円の収支不足が見込まれているという。
これは、コロナの影響で、特に法人市民税が大幅に落ち込んで、市税収入全体が本年度当初比460億円減と、戦後最大の減収額になる見通しだと発表があった。

これに、以前書いた個人市民税が「ふるさと納税」に流れていることもボディーブローのように効いているはずである。
それで、従来組まれた予算の内、住民直結のサービスを除いて、その他の予算をすべて「見直す」ことの必要性が生じた。

まったく情けない姿を横浜市(役所)は、さらしている。

卵と鶏の順番のような議論だけれど、情けない横浜市(役所)のために、納税なんかするものかとかんがえた横浜市民が、ここぞと「お得」なふるさと納税に飛びついて集団乞食になったのが先か?それとも、市民が集団乞食になったから横浜市(役所)が困窮したのか?

お役人には残念ながら、横浜市民にだって記憶力はふつうにある。
社会党の牙城だった横浜市は、飛鳥田一雄氏の長期政権で開港以来の本社を東京に転出されてから、上場企業の本社が皆無になった。
これに、経済成長に乗った行政の肥大化で余計な業務が拡大したのである。

その証拠が、巨大な市役所を必要とする。
役所の巨大な面積は、「ムダ」の集合体なのだから、本当は「恥の巨塔」なのである。

歴代市長の熱心な箱物づくりとバブル崩壊で、市財政も傾いた。
この緊急事態に対処したのが、若き中田宏市長だったのに、へんなことから退任してしまって、信頼度が地に落ちた。

女性だからという理由をかんがえたことはないけれど、いまの市長の経歴にある民間大企業で役員をはれたのは、「女性だから」という理由ではなかったかと疑うのは、残念だけれどその「無能さ」が顕著だからである。
経営者としての力量も、政治家としての力量も、微塵もみえてこない。

その意味で、最近の「無表情」がお気の毒なのである。

さて、カジノの話にもどろう。
わが国で「カジノ」が営業できるのは、「カジノ法」ができたからである。
ところが、この法律は、いつものように「細則」が決まっていない。
「いつも」、というのは戦前からの伝統をいう。
「国家総動員法」のやり方と同じだとは、前に書いた。

しかしながら、外国の企業には何が何だかわからない、ローカルな「やり方」にうつったにちがいない。
カジノからの「あがり(ピンハネ)」がいくらかは、国家と誘致した自治体とで「折半」するとは「法」に書いてある。

けれども、それが「いかほどか?」は、「細則」に書くことになっている。
「細則」とは、「法令」の「令」にあたるもの(政令、省令、条例)から、「通達」まである。

「法」は国会、「条例」は地方議会が決めるけど、その他は役人が作文する。
これが「当然」とされるのは、アメリカ人には「文化のちがい」ではすまされない。どこに民主主義があるものか?

広く国民が負担する「有料が義務化されたレジ袋」は、「省令」でやったのだ。
少なくても、国会で「法」として決めるのがアメリカ人の常識だろう。そして、次の選挙での投票行動のために「賛成した議員の名前」を覚えておくのだ。

今年1月7日にできた「カジノ管理委員会」は、「3割(国と自治体あわせて)」と、「入場料」それに、カジノ管理委員会の「経費」もピンハネすると要求しているのである。
しかも、この比率や額は将来にわたって「固定」ではなくて、いつどういう理由で変更されるかわからないから、投資家には「リスク」でしかない。

そんなわけで、勝手な皮算用をしていたら、管理委員会の発足4ヶ月後に肝心の事業者に逃げられた、というお粗末である。
アメリカ人には、わが国「カジノ行政」の複雑な仕組みが、ぜんぶセルフ・コントロール不能の「リスク」にみえたはずである。

「コロナ禍」を撤退の理由にできたのは、事業者にとっては「コロナ福」にもなった。
「うまい逃げ口上」だ。

だから、「カジノ阻止」にもっとも有効な方法は、国の管理のより複雑なやり方と委員会経費の肥大化、そして国と自治体のピンハネ分をもっと増額させればよいのである。
そうすれば、世界のカジノ事業者のだれもが見向きもしない「誘致条件」となるからである。

社会主義計画経済が、直接資本投資を逃す、という教科書通りがここにある。

「墓参り」と「墓仕舞い」

秋のお彼岸中日である。

何度も書いたように、わが国は世界最強の宗教国家ではあるけれど、世界最強の宗教団体が存在しない。
たとえば、キリスト教のローマ・カトリック教会とか、イスラム教スンニ派とか。

これは、「統計」に現れないし、「無信仰」とか「無宗派」と本人が思っているのに、じつは「日本教」という宗教のかなり根強い信者だからである。
「神道」が、宗教としていかがか?といわれるのは、ふつう宗教には、「経典がある」とされるのが理由である。

「日本教」にも「経典がない」し、神道の発展形であるために信者なのに「ぜんぜん自覚していない」ということから、宗教として「目に見えない」という特徴を有している。
経典どころか組織もなければ指導者もいない。

なのに、「日本教」は日本人のこころに確実に存在している。
これが、「最強」のゆえんである。

たとえば、「お天道様がみている」から他人のものは盗まない。
このときの、「お天道様」とは何か?
「太陽」というひともいれば、「神様」というひともいる。

太陽ならば卑弥呼の時代からあるとされ、天照大御神に続く。
神様といっても、それは一神教の神様ではない。
そもそも「GOD」を「神」と翻訳したのが間違いの元ではある。
しかしながら仏教的にいえば、お天道様とは自分の精神のことである。

たとえば、死後、極楽にいくのか地獄にいくのかを取り決めるのは「閻魔大王」とされるけど、「GOD」の宗教でいう「最後の審判」とは根本的に意味がちがう。
閻魔さまとは、肉体が死んだ自分自身の「精神の鏡像」なのである。

自分とは完全に別物なのが、創造主である「GOD」であって、創造主の気分によって天国にいくか地獄にいくのかを決められる。
だから、生前にどんなに善行を積もうが関係ない。
これを、「予定調和説」という。

仏教はその意味で、内面的でかつ厳格である。
輪廻転生を前提として、この世とは精神の修行の場であるから、この世にいるうちは善行を積まないといけない。
他人のための善行よりも、自分の精神のための善行である。

それで、毎回のごとく自身の肉体が死んだとき、自分の精神の鏡像が閻魔さまの姿になって、自分を裁くのである。
精神が汚れていると思えば地獄での修行を選択し、そうでなければ先ずは菩薩を目指す。それから先の「仏」になるために、何度もこの世に転生する。

だから、最終目標は「仏に成る」ので「成仏」という。

死後、転生には49日かかるとされる。
なので、49日の法要とは、無事に転生したことをお祝いするのである。
この無事とは、ちゃんと人間に生まれ変わることで、「餓鬼」になってはいけない。

そのための道しるべになるようにするのが、初七日の法要や35日の法要だ。
このあたりの生々しい言葉は、『チベット・死者の書』にある。

チベット人はチベット語の「お経」によって、成仏を目指して生きている。
わが国は、三蔵法師が漢語に翻訳した「お経」でもって、日本語にしない。
だから、呪文のようなお経の意味を滅多なことで知る由もない。
せいぜい『般若心経』といいたいが、あんがいこれが難しい。

仏教徒なのに、仏教をしらないで生きているのが現代の日本人だ。
江戸幕府がつくった「檀家制度」が、慣性の法則でいまにも続いて、お墓があるお寺の檀家であることが、自動的に「信者」となって統計につかわれている。

それなりの業績を残した人生を送ったひとには、本人の名前が大書して刻まれたお墓がある。
ふつうに生きたひとならば、「先祖代々」とする。
谷中の墓地や青山墓地は、見学の価値があるほんとうは観光地である。

民法が変えられて、核家族化が促進されたからお墓の需要が高まってきた。
けれども、少子で子孫がいない。
ならば、一代かぎりでお墓を用意しても、その後のお参りも期待できない。
それは、維持管理費の負担をするひとも絶えるということだ。

お墓をどうするのか?
なくてもいい、ということが、なんだか自分のこの世のでの存在を軽くする。
結婚式と披露宴が軽くなったら、離婚もふえたのに似ている。

べつに離婚が不幸ではないから、幸せの追求はそれぞれに難しい。
でもやっぱり、夫婦円満で一生を添えたらそれは幸福なことである。

果たして、自分が生きた証拠をどうやって残そうか?
そんなに意味のある人生なのか、が問われ出した。
だから、あながち「立身出世主義」を切り捨てることはできない。
その前提に、「お天道様がみている」という思想があった。

いまは、とうとう自己中の立身出世主義がはびこって、『半沢直樹』に人気が集まる。
いまどき、「お天道様がみている」といって育つ子どもはいないし、これをいうおとなもいない。

お墓にいるひとたちは、とっくに転生したはずだ。
それを意識しながら、生前の記憶を思いだす。
その記憶を持ったひともお墓にはいれば、あるのは石に刻まれた名前だけである。

さては、維持管理者がいなければ、墓仕舞いしか選択できない。
取り除かれた墓石は、粉砕されて道路の敷石となる運命になっている。
物質の運命として、お役にたつならそれはそれである。

ひとの運命として、仏教に帰依するのかどうするのかは、自分で決めないといけないけれど、生まれ変わりも自分で決めたいから、やっぱり仏教徒がいいとおもう。

その前に、日本教が衰えたから発展もとまったことに、もっと注意していいとおもう。

「敬老の日」をいつまでやるのか?

昭和22年、兵庫県の村からはじまった素朴な運動は、当初は55歳以上が対象の「老人の日」だった。
当時の平均寿命と、戦争被害をかんがえると、「55歳」という年齢は立派な老人という常識があったのだ。

それからずいぶん経った昭和41年に法律が改正されて、「敬老の日」ができた。

ほぼ20年かけてメジャーになったともいえる。
この間、昭和36年に我が国の社会保障制度は現在の形の全容が「完成」されて、昭和48年には、田中角栄内閣で「福祉元年」と謳われたのは、繁栄の分け前を国民に施す、という見事な社会主義政策が実施された「元年」となった。

つまり、老人の日からの変容は、30年という一世代分の時間をかけて、最初の趣旨から完全に分離・離脱した別物となったのである。
最初の趣旨は、戦争で孫子を失っただけでなく、食糧難という困難の時代に、精神的励ましをしよう、というものだったからである。

いまや満100歳が1万人を超える、超高齢化社会が実現している。
一方で、少子は進み、昨年の新生児は91万人になった。
これで、20年後の新成人は、91万人だと確定したのである。

第一次ベビーブームの、昭和22年〜24年は、ざっと毎年270万人だったし、その子供世代の第二次ベビーブーム(昭和46年〜49年)は、200万人だった。
つまり、老人の日ができた頃に生まれた子供の3分の1しか生まれてこない。

20年後の新成人のうち、ざっと半分の45万人しか女子がいない。
すると、新生児の数が45万人になるのも時間の問題である。
女子が生涯に出産する子供の数が、「ほぼ1人」だからである。

そんなわけで、いつまで「敬老」といっていられるのか?
ひとの価値観のうつろいは、かつて20年から30年だったけれども、このままスライドしたとしても、30年後に「敬老の日」があるものか?
むしろ、「出産奨励の日」ができるのではなかろうか?

星新一のショートショート名作集のタイトルにもなっている作品、『ボッコちゃん』(昭和33年)における作家の想像力を超えて、とっくに「疑似恋愛」は商業化されている。
これが、為政者による「夜の街」への集中攻撃になっている理由としたら、なかなか「深い」のだけれど、誰も少子化対策だとはいわない。

それは、江戸「吉原」の灯を一撃で消した「法の威力」に似せているのではあるけれど、なぜに徳川幕府も明治政府もこれを許したかに言及しない偽善がある。
その吉原から生き残った「角海老」の系列店に官憲の手入れがあった。

「売春防止法」が制定されたのも昭和36年で、この法律は、売春という行為自体ではなく、あっせんなどの組織的行為を処罰するものだ。だから「防止法」なのであって、「禁止法」ではない。
法施行の前日、吉原最後の夜の賑わいはいつも通りであったから、客も店もほんとうに最後かと疑ったという。

しかし、翌日の夜は来なかった。
1617年以来350年の「伝統」が途絶えた瞬間だった。

「いけないこと」とするのは正義である。
しかしながら、清濁併せ呑むのが人間というものだから、全部を否定することもいかがか?
そこに「知恵」がはたらいて、占領中の昭和23年に「風俗取締法」ができた。

この当時のおとなは、昭和一ケタの前半より前に生まれたひとたちだ。
二十歳になっていた昭和3年生まれは、いま92歳。
男女ともに平均寿命を上回る年齢である。
昭和と大正の境目だと、94歳ということになる。

村で「老人の日」を制定した、当時の村長は1911年(明治44年)生まれなので、36歳の時の業績である。
昭和22年の平均寿命は男性50歳、女性で54歳。
だから、36歳の村長が特段「若い」ということでもない。

ところが、その昭和22年に生まれたベビーブーマーたちの寿命は著しく伸びたし、教育も「戦後」そのものだった。

そんなわけで、政治家をみても「小粒」なのは、全員が「小粒」になるように育てられたからである。
つまり、なんらかの「意図」がある。
そして、多くがこの「意図」に気づかない人生を送っているのではないか?と疑うのである。

孫娘があいてにしてくれなかったという理由で殺害するような老人は論外としても、果たしていかほどの「尊敬」を受けているのか?
尊敬を受けるほどの見識があるのか?
なんだか「緩い」ひとたちばかりにみえて、たまにしか「骨」があるひとをみなくなった。

それでかしらぬが、老人施設を嫌う老人もいる。
どうして「童謡」ばかりを歌わせられるのか?と。
バカバカしくて、何が面白くてそんな場所に行かねばならぬかと思っている。

悪貨は良貨を駆逐するがごとく、人間も多数派によって小数派は閉め出されて、あたかも多数派しかいないような勘違いを、若いサービス提供者にもおこさせるから、童謡やお遊戯、それに折り紙とかが定番になるのである。

だれでも歳をとりたくはないものだけど、それ相応のとりかたというものがある。
こんなことまで教えてあげないといけないひとたちが、「敬老の日」に集まるのではないかと思うと気が滅入る。

偽善なら、はやくやめた方がいい。

結果としての「コロナ福」

秋のお彼岸連休がはじまった。
太陽に面する「公転面」に対して地軸が23.4度も傾いているおかげで、間もなくやってくる「秋分」を境に、冬至まで日が短くなる。

季節は、日照時間の違いもさることながら、太陽からの日照角度によって受け取る熱量の違いによって変化する。
夏の太陽が真上から照らすのと、冬の太陽が斜め上から照らすのとで、地表が受け取るエネルギーが違うのである。

真上からは多く、斜め上からだと少ない。
わが国の位置が、北緯でいうと45度よりもやや南にあるので、温暖ゆえに「四季」がつくられる。

北であろうが南であろうが緯度が高くなる(極地に近づく)と、夏なら白夜になり、冬なら日が昇らない。
赤道ならば、年間を通じて日照時間はかわらないし、春分と秋分には、太陽は真東から昇り、真西に沈む。

エジプトのスフィンクスが見つめる星座の位置を、「歳差運動」に結びつけた歴史ミステリーが『神々の指紋』だった。

 

べつだん、四季があるのはわが国「だけではない」けれど、季節の移ろいをあらゆる文化に定着させたのは、日本人の感性がなせる技ではある。
これが、仏教の「彼岸」になったのは、この世である「此岸(しがん)」にいるものたちが修行して、悟りの境地(彼岸)にはいることができるとされたからだった。

新内閣が発足して、すぐのお彼岸に思うことを書いておく。

なんといっても今年は、「コロナ禍」の渦中にあって、いまだにぜんぜん改善していないようにみえるのは、マスコミ報道が、相変わらず「PCR陽性者」を「感染者」とする誤報を繰り返しているからである。
もちろん、検査を増やしているから、陽性者の実数も増えている。

まったくもって、『黙示録』的な様相なのである。
もちろん、『黙示録』は、新約聖書の最後にある文書で、これにはキリスト教的「終末論」がある。

「コロナ禍」を終末論的に見たてれば、それは、科学や医学を無視した人間社会がつくりだした病気という意味でとらえることができる。
「病気にかかる恐怖」をトリガーにして、自分という「個の価値」がマックスを超えてしまって、何も信じられないことの「恐怖」になったともいえる。

つまり、そこには「自分かわいさ」しか存在しない。

いわば、究極の「自己中社会」が表出したといえばよいだろう。
それが古代からの「穢れ」と結合したから、自然発生的な「排除の論理」が、地方において行動をともなう事態にまで発展しているのだとかんがえられる。

東京都民が「Go To解禁」となって、地方に赴いたとき、受け入れる地方の精神は大丈夫なのか?=都民は安全なのか?と心配するゆえんである。
明治からの中央集権体制が、もしや崩壊しかねないのは、「廃県置藩」状態がつくりだされて、これに疑問をはさむことができない。

すなわち、「穢れ」に対する「禊ぎ」の準備を、中央政府がやっているとは思えないのである。
これが、新政権の当面の最大にして緊急の課題であろう。

すると、「内憂外患」ということも考慮しないといけない。
コロナに沿ってあった、わが国にとっての「外患」とは何だったのか?
海外をかんがえるときの、もっとも基本となる概念は「日米同盟」である。
この間のアメリカの重大な選択は、「デカップリング」であった。

しかしながら、「桜の頃」に、隣接する大国の元首を国賓としてお迎えするという外交スケジュールがあった。
わが国では数少ない「ジャーナリスト」のひとり、鈴置高史氏も解説しているように、このスケジュールにはとんでもないスケジュールが隠されていた。

それは、香港をめぐる立法とその施行のスケジュールの強行である。
また、内モンゴルにおける言語教育の変更スケジュールもある。

これらは周到に準備され、実行されたのである。
いつからなのか?
表面に出る前が重要なのだ。

すると、うっかり国賓という、最大の同盟国から「?」を受けるものに、わが国独自外交の「成功」と胸を張ったと思いきや、上述の、世界が注目し懸念する事態をまねく決定が、先方のスケジュールにあった、ということになって、「日米分断」という最高の外交成果を先様に献げるところだった。

これを「ラッキー」といわずになんというのか?
わが国が、かろうじて「日米同盟」を維持できたのは、まさに「コロナ福」だったのである。

波状攻撃になっているのは、東京オリンピックの開催問題である。
先日、IOC副会長が、「コロナがあっても来年は開催」と発言したとのニュースがあった。
会長でないところに注目したいけれど、信じてよいのか?

東京オリンピック「後」の半年以内に、冬期北京オリンピックが予定されている。
どうしたら北京オリンピックをボイコットできるのか?
この理由づくりこそが、次の「外患」なのである。

果たして今度は、当事国とわが国以外が、「コロナ福」を用いるかもしれない。
そのために、ずっと理由なく、コロナ禍が「続く」ことを世界は望んでいることになる。

ワクチンは、このタイミングに利用されることになるから、彼の国は真っ先にワクチンができたといって、世界を安心させたいだろう。
そうはさせじと、安全性を云々してこれを阻止する。
じつは、どーでもいい病気だからである。

なので、やっぱり「内憂」のために、「禊ぎ」をはやく用意する必要がある。

「甘い」は「美味い」

わが国が「貧しかったころ」の味覚の伝統である。

「甘い」のは「糖」を感じるからで、「糖」とは「炭水化物」のことである。
そして、炭水化物が「発酵」すると、「酒」になる。
これをさらに、「蒸留」すれば、いわゆる「焼酎」や「ウィスキー」などの「スピリッツ」になる。

日本人は「酒好き」がおおいといわれるけれど、けっして酒豪ばかりではなく、むしろ人類のなかでも「酒に弱い人種」とされている。
外国人の酒量(アルコール分解能力)にくらべると、日本人はうそみたいに少量しか分解できない。

それで、二日酔いになる。

しかし、むかしの「酒」で二日酔いになったのと、いまは状況がちがうのは、酒の「品質」が変わったからである。
それは、とくに「日本酒」でいえる変化だ。

いちばん大きいのは、発酵タンクの材質ではないか?
いまは、衛生も考慮して、ほとんどがステンレス製のタンクで発酵させている。

むかしは、杉の大樽だったし、発酵促進のために樽内を混ぜる「櫂」や「櫂棒」も杉製だった。
できあがった「酒」も、真新しい「杉桶」にいれて販売したので、日本酒と杉の木は深い仲にある。

しかし、杉という木には問題があって、樹液である「ヤニ」がおおくふくまれていて、この中に含有する成分が「頭痛」をひきおこす。
ために、お燗することで、揮発性の成分を抜くことが必要だった。
これが、世界的に珍しい、温かくして飲む酒の理由だ。

いまは、ステンレスとガラス瓶だから、お燗にするのが「もったいない」ほどになって、「冷や」や「常温」が高級酒ほどこのまれるようになった。
「ライス・ワイン」となれば、ますます「燗酒」にはしない。

米に酵母をくわえて発酵させるので、酒米は糖質がおおくあった方がいい。
それで、ごはんとして食べる米と、酒をつくるための米は別の品種になっている。

いま絶世の人気をほこる「コシヒカリ」の祖父にあたる「亀の尾」は、当初は食米だったけど、のちに栽培の難しさから滅びかけたものを、造り酒屋がこだわりの酒の原料としてこれを取り上げ、いまにいたっている。

朝鮮半島が日本だったころ、亀の尾が広く栽培されて、朝鮮米の代名詞にもなっていた。
本州の東北地方は、むかしからの貧しさを引きずっていたが、都市部を基盤としていた「立憲民政党」は、農村振興に無関心だった。

東京駅で暗殺された、濱口雄幸首相は、この立憲民政党の党首でもあった元大蔵官僚である。
合理主義者で、朝鮮の水田開発に熱心だったため、大正期には首都圏の流通米の半数以上が朝鮮米になっていた。

じっさいに、この「政策」で、東北の農村が飢饉でもないのに「疲弊」したのは、作った米が首都圏で売れなかったからである。
高くて評判のわるい東北米を、ぐっとこらえて買っていたのは、東北出身の次男坊三男坊の工場労働者一家だったのは、故郷の窮状を支えようとしたからである。

江戸時代から首都圏に住んでいたひとたちは、安くて美味い朝鮮米を贔屓にしていた。
亀の尾の美味さが仇となったのは、そんな東北人の「怨み」が、関東大震災で在日朝鮮人に向けられて暴発したともいわれている。

世界の大都市で、屈指の人口をほこった江戸は、地方からの人びとがあつまる場所だったから、地方の名物もあつまった。
太平洋側の海岸をつたってくれば、船で物資がはこべるから、基幹的調味料の「醤油」が、和歌山から銚子にやってきた。

伊勢の民謡「波切節」は、おなじ曲が高知にも、銚子、仙台にまである。

これを「利根川水運」で、野田にもつたわっていまにいたっている。
日本海側は、秋田の「しょっつる」に代表される「魚醬」の文化があるから、基本的な「味」が太平洋側とことなる。

バテレンが伝えたカステラの味は、高価なものの代名詞だった「卵」と「砂糖」を大量投下してつくるから、江戸の卵焼きは「甘い」。
その点、日本海とつながる京都は、「うまみ」をもって「料理」としたから、京都の卵焼きは「だし巻き」である。

けれども、京菓子の繊細さと甘さは、茶の湯の発展とともにあったから、めったに口にできない「甘さ」こそ、あこがれの味であったことに東西のちがいはない。

そんなわけで、京都に丁稚奉公した福井人が、正月休みで故郷にかえるとき、女将さんからいただいた「羊羹」を、そのままではもったいないから水と寒天でのばして「水羊羹」にした。
それでも、「甘さ」が十分だったのは、砂糖なんてものがなかったからである。

「丁稚羊羹」は、滋賀や奈良にもある。

白米を腹いっぱい食べたいと願った日本人は、わたしの祖父の時代ではふつうにいた。
明治の陸軍は、これで募集し、全国から兵をあつめることに成功した。
ただし、白米ばかりの兵食で脚気の死者が日露戦争での肉弾戦を上回った。

「ギブミー・チョコレート」は甘くて苦かったろうけれど、「丁稚羊羹」も、苦かったにちがいない。

それで、果物がみんな「甘さ」を主張することになっている。

相変わらず、「甘い」は「美味い」のままである。
国民が早死にするような、悪魔の味、でもある。

選挙パフォーマンスで和平ができるか

昨日、2020年9月16日は、間違いなく歴史に残る日となった。
ホワイトハウスでおこなわれた、イスラエルとUAE、バーレーンとの国交正常化の調印のことである。
仲介したトランプアメリカ大統領は、さらにアラブの数カ国がこれに続くと演説した。

これを、わが国のマスコミは、「選挙パフォーマンス」と決めつけて報道している。
まことに、間抜けで滑稽な姿である。

ご丁寧に、民主党のバイデン氏との「差」をもって劣勢を強調しているが、前回でも勝敗を決した激戦州では、既に互角あるいはトランプ氏優勢との分析もある。
正確を期せば、双方「互角」で現時点では勝敗は不明なのである。

しかしながら、マスコミ報道は容赦なく、あたかも調印式がホワイトハウスであることも「異例」として、すべてが国内選挙向けの演出だと、ニュースを装って演出している。

当事国がイスラエルを中心に2カ国あるので、もっとも適した場所はイスラエルだろうし、エルサレムでやりたいにちがいない。
でも、ここを選ぶと、次の国が腰を引くかもしれないし、周辺国を刺激する。

ならば、仲介者の場所に集まるのは自然なことだ。

もし、これを、「選挙キャンペーンの一部」というなら、まさに外国政府がトランプ氏側を応援していることになる。
ところが、かつて中東の国で、2カ国が同時にイスラエルと国交を結ぶということはなかった。

むしろ、民主党のオバマ政権はなにもしなかったから、副大統領だったバイデン氏にも中東での外交に実績はない。
これを、いまさら羨んでもせんないことなのだ。
だからぐうの音も出ない。

結果的に、「選挙パフォーマンス」となったとしても、この時期というタイミングを、トランプ氏のわがままで決められるほど歴史的な「国交樹立」は甘くない。
相手があるからである。

中東の石油に9割も依存しているわが国にとっても、重大な外交成果に違いはないのに、なにをいっているのかわからない。
むしろ、アメリカだけの外交成果なのではなく、アメリカの同盟諸国だって舞台裏で画策したはずである。

ならば、わが国はなにをしたのか?
高いコストの特派員を直接派遣しているのだから、このくらい自分で取材して報道してこそプロのジャーナリストである。
しかして、日本大使館の公式見解しか取材できないという、記者クラブの「国内事情」をそのまま外国に持ち込んで、遊んで暮らしているのであろう。

見るも聞くも読む価値もない。

こんなぐうたらに、われわれ国民はコストを負担させられている。
新聞社や民放が自ら負担しているのではない。
広告収入という、消費者が支払う価値から転用されているのだ。
そろそろ、スポンサー企業も気づくべきだろう。

そんなわけで、国内では、菅内閣が発足した。
近代政党ではない、自民党の総裁選挙を経ての「結果」ではある。

新政権について、日本のマスコミは「100日間ヨイショ」というルールがあるけれど、これは、「アメリカのマスコミ」から真似っこしたものだ。
じつは日本的には「お手並み拝見」という上から目線なのだ。
果たしていま、そんなことを悠長にいっている場合か?

政権の受け皿となる野党が事実上存在しないので、場合によったら100日もしないで「解散」だってある。
すると、安倍政権の踏襲がここに活きて、再びの長期政権にだってなり得るのだ。

だから、わが国の政治問題の根本に、「ちゃんとした野党の必要性」がある。

従来型の野党では、けっして与党に脅威を与えないのは、何度も書いたように、その「社会主義性」にある。
自民党が、とっくに社会主義政党になってしまって、もう一つの社会主義政党と連立している。

だから、社会主義性のある野党では、ぜんぜん対抗できないばかりか、わが国をどんどん社会主義国家へ変容させる速度が速まるばかりなのである。
この社会主義性が、経済政策の大黒柱と化したから、わが国経済の活力が衰退しているのは歴然だ。

現状野党の狙いは、ここにある。
つまり、与野党の野合であるから、これを「新55年体制」という。

それで、かつての「英国病」(保守党も労働党と野合した)にならって、「日本病」という。
病気の原因はどちらも、社会主義性、である。

これを治療したのは、サッチャー女史で、彼女はハイエクの「新自由主義」を全面に打ち出した。
そして、彼女は科学者だった。

つまり、わが国にはサッチャー女史のような「新自由主義」が求められていて、これを理系が推進する必要があるのだ。
けれども、わが国の「政治環境」では、無い物ねだり状態になっている。
マスコミに新自由主義を押す媒体が存在しないからだ。

すでに、わが国では、新自由主義に「悪の」が枕詞になっている。

コロナ禍がようやく「情報感染症」といわれはじめたなか、とっくに新自由主義もわが国では情報感染症が発症して、世界の常識に追いつかないばかりか離反しているのである。

先ずは有権者たる国民が、上記のような図書をもって、自ら「解毒・治癒」すべきなのである。
なぜなら、まったく期待できない政治構造が、まったく期待できない内閣を量産しているからである。

わが国の9月16日には、こんな歴史的意味がある。

「猟犬がダメになる」とは

前に、「ペットの犬は使役犬にならない」、と書いた。
いわゆる、「使役犬」とは、人間が使役する犬のことで、警察犬や軍用犬、猟犬、あるいは麻薬取締犬から、盲導犬までさまざまな「使途」がある。

「愛玩」という「使途」の犬が、ペットだけれども、あたかも人間と同格に置かれた犬には、人間の想像以上のストレスがかかって、気の毒にも精神病を発症してしまうこともある。
ペットも人間界の住人だから犬を支配するのは人間でなければならないのにもかかわらず、犬が主人であると勘違いしてしまうことが原因だとされてる。

だから、ペットの犬には、正しいペットにさせるための調教・訓練が必要になるのだけれど、このことの重要性すらしらないから、その方法に興味もない飼い主がたくさんいる。
それでもって、犬をコントロールできなくなって、「動物愛護センター」における殺処分が絶えないのである。

酷いめにあうのは、「いつも」犬の側なのだ。

猟犬は、犬の特徴・特性となる能力を人間が利用するために訓練される。
一口に「猟」といっても、いわゆる、「獣(けもの)」と「鳥」に分類できる。
獣には、鹿やイノシシが、鳥には、やまどり(キジの仲間)や鴨が代表的な獲物である。

犬の特徴は、まずは「嗅覚」である。
そして、「聴覚」。
さらには、運動能力であって、狩猟・闘争本能もある。
もちろん、背後には人間への忠誠心も求められる。

すると、猟犬にも二種類ができて、獣用と鳥用となる。
なぜなら、獣の臭いと鳥の臭いがことなるからだ。
当然、獣の臭いのほうが強く、鳥の臭いは弱い。

だから、鳥用の訓練をした犬を、獣が多く棲息する山に連れて行くと、獣の臭いに負けてしまう。
鳥を追わずに、獣を追ってしまうのだ。
これで、鳥用とした訓練も台無しになる。

こうして、猟犬がダメになるのである。

だから、鳥撃ちの猟師は、獣が多く棲息する山を嫌う。
やまどりは、そもそも滅多にお目にかかれない鳥なので、やまどりを狙う猟師は、ただ獲物がとれればそれでいい、という感覚はない。

犬が獣の臭いに反応したら、とにかくその場から犬も一緒に離れないといけない。
獣の収獲に興味がないのだ。
むしろ、これまでの訓練がダメになることをおそれる。

猟犬がダメになるとは、餌代が無駄になるという意味になる。
猟犬は、けっしてペットではない。
けれども、ダメになったからといって、動物愛護センターに連れて行く猟師もいない。

そうなると、猟犬の子どもを得るために使うのである。
信頼ある猟師同士で話し合って、自分の犬を掛け合わせる。
優秀な猟犬にも、血統があるのだ。
この信頼に、動物愛護センターを利用しないという意味もある。

ちゃんとした猟師は、犬を犬死にさせない。

そのかわり、狩猟目的という一線もけっして超えないから、ぜったいにペット扱いしない。
この「けじめ」を、犬も理解している。
猟場に到着したら、犬も勝手に狩猟モードにはいる。

すなわち、お仕事モードにちゃんとなって、それなりの緊張とハッスルを開始するのだ。

あるメスの老犬は、歩くのがやっとで、腰をふらつかせながら山で人間に追い越されるざまだったけど、それでも人間に獲物のありかを必死に教えていたのは、嗅覚は衰えていないからだ。
獲物を前にした記念写真には、腰が曲がった座り方で猟師の脚に寄りかかって映っているものの、顔はどこか満足げである。
彼女は、その夜に自宅犬小屋で静かに死んだ。

こいつは精いっぱいの仕事をしたと、猟師も自慢して目を細めた。

この意味で、猟犬は単機能なのである。
この単機能を維持させることも、人間の責任になっている。

やまどり撃ちの猟師は、獣の猟師が減って、害獣化による被害が増えることを深刻にかんがえている。
一方で、獣の猟師は、山で獲った獣を無駄にしない。
虐殺をしているのではないのだ。

ただし、こちらはこちらで、獲物が大型であればあるほど、獲れた獲物の運搬に体力をつかう。
山に分け入るだけでも体力が必要で、獲れたら獲れたで体力がいる。
そんなわけで、猟師の高齢化問題は、すでに絶対数の減少になっている。

猟友会に依頼する従来の「害獣駆除」が、猟友会から断りを入れる事態も発生しているのは、会員の高齢化と人数がいない、という理由ばかりだ。
地元住民のがっかりは、絶望へと変化している。
加えて、コロナ禍は、狩猟免許の講習会も中止させた。

なんだか、海洋で起きていることに似ている。
わが国は、排他的経済水域を含めると世界第6位の面積になる「大国」なのに、海洋生物の資源管理ができていない。
沿岸漁業の衰退も、魚が減って、漁師では食えないからである。

獲りすぎと、河川の汚染、それに山の荒廃によるミネラル補給の減衰が原因とされる。
山の荒廃には、林業の絶望もある。
山を管理する人間の手が、経済価値を失ってしまった。

山国で海洋国家であるわが国は、資源管理の二方面作戦を強いられる宿命がある。
猟犬がダメになる、レベルの話ではない危機がある。

新政権に真っ先に期待すること

新政権の最初の大仕事は、新型インフルエンザ等対策特別措置法での指定から「新型コロナウイルス」を真っ先に「解除」することである。
春先に、慌てて「指定」したのは、どんな病気なのかよく分からない状態だったのだから、仕方がないといえば仕方がなかった。

安倍氏はわが国を「道義国家」と呼んでいた。
「道義」とは、やさしくいえば、「道徳」のことである。
つまり、道義国家とは、世界に道徳性で優る国という意味であり、この分野でのリーダーとなることをいいたかったはずである。

すると、第一に、国内において、新型コロナウイルスが原因だとされている病気とは、いったい何なのか?
という基本について、あまりにも説明不足が政府にもある。
これにマスコミが扇動的な「報道」を仕掛けたので、まったく収拾がつかなくなった。

緊急事態宣言を出したのは「仕方ない」としても、解除の基準をいわない。
だから、解除自体が、政府・官僚・政治家の恣意的な判断だと国民は受けとめたのである。
これに乗じたのは、ポピュリズム政治家である知事たちで、勝手な「政治判断」がまかり通ることを許した。

PCR検査というものに、いつの間にか「全面的信頼」をするようになって、「診断」という医師の最大存在理由が冒された。
このブログでは、このことを「医療崩壊」と呼んだ。
しかも、医師会はこの崩壊に抵抗しなかった。

「利権」というカビ菌のようなものが、どんどん内部に浸透して、とうとう一般国民にまで届いてしまった。
これを、「脳が冒されるウィルス」と表現するひともいる。
つまるところ、「疑心暗鬼」である。

科学的知見とただの利権が交差して、とうとうこれを、「分離」できない世の中になったのである。
それで、検査をどんどん増やしたら、陽性者もどんどん増えた。
ふつうは、分母と分子の割合を気にするはずが、「陽性者の実数しか」いわない。

これをもって「第二波がきた」といって、政府に二度目の緊急事態宣言を出させようと意図したのは、「破壊活動」である。
政府はこれをしなかった、けれども、例によって「根拠」に関する科学的知見をいわないで官僚出身の大臣が「いまは宣言を出すような事態ではない」とまるで恣意的に繰り返したから説得力がない。

こうして、「納得できない」というひとたちも、陽性者の実数しか繰り返さないので、議論は平行線をたどる。
しかし、平行線をたどるようにしているのだから、そうみえるだけである。
厄介なのは、煽る側の根拠が「数字(実数)」だから、毎日これを見聞きすれば、すっかり洗脳されて政府を怪しむようになるのである。

民主主義は、政府を怪しむのを是とするのではあるが、扇動された結果なら、これはまずい。
その扇動者が、ほぼ全部のマスコミになったのが、今回の騒動でわかったことである。

新総理になることが決まった、いまの官房長官は、記者会見における特定の記者とのバトルが有名になった。
この記者を描いたという映画『新聞記者』が、2019年の日本アカデミー賞最優秀作品賞になっている。

なんだか噴飯物の作品がここまでおだてられると、しらけるものだけど、他にこれといった作品がなかった、ということなのか?
だったら、「該当作品なし」という選択肢もありそうなものである。

けれども、こうした特定の思想をもった記者(実際は活動家)との不毛なバトルに、耐えた、ということが、派閥をもたない政治家を総理にさせたのであろう。
大手新聞社が活動家を正社員の「記者」にしていることも、バレている。

困ったことに、わが国のマスコミは、それでも「公正中立」を言い張るので、国民の思考の軸がズレるのである。
これをふつう、プロパガンダという。
一定の政治思想に寄せる役割が、新聞社やマスコミの存在意義になっていて、これも利権にもなっている。

結局のところ、科学も道議も利権にさらされて、混沌としたのがいまの状態である。

ひとつの内閣でこれを払拭することはできないので、そんな期待はしていない。
しかも、与党がなにか変わることもないだろう。

ならば、やっぱり、コロナを指定解除することだけでもやってほしい。
どうせ、科学的根拠なんて問題にならないのだから。
この一点だけ、それで、たとえ一ヶ月で政権崩壊しても、歴史に残る業績の内閣になることは間違いない。

これこそが、道義国家のことで、安倍政権が口先だけで果たせなかったことの「継続」なのである。

キリスト教とトランプ政治

先週のUAE(アラブ首長国連邦)に続いて、昨日はバーレーンもイスラエルとの国交正常化を発表した。
これは、ひょっとしてアラブ諸国が、雪崩を打って変化しているということではないのか。

不可能といわれてきた歴史がうごいている。

困ったことに、わが国のマスコミは「アラブ諸国の反対」として、あろうことかトルコとイラン外務省の発表を報道し、エジプトの賛成を報道しない。

アラブの定義は、アラビア語を話してイスラム教を信仰していることだから、トルコ語のトルコとペルシャ語のイランは、ぜんぜん「アラブ諸国」にあたらない。ちなみにエジプトの正式国名は「エジプト・アラブ共和国」である。

アラブとは関係ない「外野」をアラブと呼ぶ、このポンコツな報道は、なんだろうか?
無知な国民を啓蒙する気概もなく、ただの「嘘」をたれ流す。
総務省に影響力がある、次期首相には、放送法の厳格な執行と、意図的な誘導には、「詐欺」同様、放送免許に関する罰則を追加すべきだろう。

さてさてそれで、バーレーン側も発表しているように、仕掛けはやっぱりアメリカ・トランプ政権である。
9日、ノルウェーの国会議員が、トランプ氏を「ノーベル平和賞」に推薦する書簡をノーベル委員会に送ったと表明した。つまり、トランプ氏は、ノーベル平和賞にノミネートされたのである。

この議員は、「前に受賞したオバマ氏は口先だけで何もしなかったが、トランプ氏にはめざましい成果がある」とインタビューでこたえている。
もちろん、この発言もわが国マスコミは報道せず、受賞に否定的だ。
どうなるか?受賞自体よりも、マスコミの「正しさ」に興味がわく。

トランプ氏とは何者なのか?
前回の大統領選挙から、今日までも、わが国のマスコミが報道することは、トランプ氏を「異常者」扱いすることばかりである。
日本国民はトランプを憎み、民主党を贔屓するように誘導されている。

ところが、東アジアにおいてあからさまな人権侵害があって、これを強力に阻止しようとしているのがトランプ氏の政権だから、なんだか日本人でも気がつくひとは気がつきだしている。
まずいのは、当事国の支配者とアメリカ民主党の方だ、と。

民主党の支持者が、東西の海岸エリアに多数なのは、世界貿易や国際金融取引をつうじて生計を立てているからである。
一方、共和党の支持者が多数なのは、内陸部で、こちらは内向きの反グローバリズムであるだけでなく、熱心な「福音派」(プロテスタントの聖書信仰)であることでも内向きなのだ。

なお、共和党の最初の大統領は、エイブラハム・リンカーンである。

イエスの教えの「真髄」といわれている一節のひとつには、『マルコによる福音書』2の22、「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ」がある。(新共同訳)

これは、旧約聖書の律法(モーセの十戒)を厳守するひとたち(「ファリサイ派」ともいう)と、イエスの論争の一コマなのである。
人間がつくった古いしきたりや法によって、人間ががんじがらめになることへの「拒否」がこの言葉なのだ。

モーセによる古い契約(旧約)を、全人類が新しい契約(新約)にあらためる、という思想的根源である。(わが家は天台宗の檀家である)

この当時、ぶどう酒は羊の革袋にいれて発酵させるのが常識だった。新しいぶどう酒をつくるために古い革袋にいれると、硬くなった革が発酵ガスによって裂けてしまう。だから、新しい革袋でなければならなかった。

イエスは、この「革袋」を、「制度」に見立てたのである。
そして、このことがファリサイ派の怒りをかって、とうとう十字架にかけられた。

トランプ氏は、内陸を拠点にする「共和党」の政治家である。
なので、東西の海岸を基盤とする「民主党=グローバリズム」に対抗する立場にあるし、実際に対抗している。

ちなみに、社会主義や共産主義は「国際共産主義運動」ということもあるように、「グローバリズム」の本筋である。
グローバリストが批判する、「新自由主義」はぜんぜん「グローバリズム」とはちがうけど、これをすり替える作戦が成功している。

その共和党には、二派があって、一般に「(共和党)主流派」と「(共和党)保守派」といっている。
「主流派」には、ブッシュ親子が代表され、「保守派」にはレーガンが代表されて、トランプ氏は「保守派」である。

主流派は武器をふくめた貿易を重視するので、グローバリズムに近い。だから、「ネオ(新)」をつけて、「ネオコン(新保守)=じつは主流派」といって、もとからある「保守派」と用語を分けたのだ。
パパ・ブッシュが再選されなかったのは、福音派の支持を失ったからである。

逆に、保守派は「反グローバリズム」なのである。
では、なにを「保守」しているのか?
それは、キリスト教福音派の信仰なのだ。

トランプ氏は、徹底的に「新しい革袋」をつくっている。
これは、人間優先の思想でもあるから、人権侵害を許さないのである。

わが国でも、官僚主義に対抗する重要な意味をもっている。
がちがちの法によって縛りがきつくなっている。
経済衰退の元凶がここにある。

新しい政権に、果たして新しい革袋は作れるのだろうか?