旅の楽しみで最大のものは、やっぱり「食事」である。
それでも、アンチョコになりがちなのは「朝食」である。
今回、大発見!してしまったのが、「おにぎり屋」の朝セットなのである。
その名も『長野おこびれ ゑびす堂』という。
「おこびれ」とは、HPにも説明があるとおり、「農作業中の小食・おやつ」をさすことばだという。
店は、24年の5月に開業したというから、もう2年以上前のことであるが、たまたま朝ごはんをどうするか?に迷いながらの走行中に発見!した。
選べるおにぎりを2個と、漬物、それにたっぷりの具がうれしい豚汁がついて、800円(税サ込)也。
ただし、おにぎりの残りでつくれる「お茶漬けセット」をセルフサービスで提供されているので、二度美味しい、から、やたら満足度が高いのである。
こういう店が、横浜や神奈川県にない。
「ツルヤ」もそうだが、「豊かさ」は、一概にGDPなどでは計れないことをしる。
この満足度と似た感覚はどこだっけ?と記憶を呼び出したら、京都の『南禅寺・瓢亭』の「朝がゆ」をおもいだした。
別館だと、4840円(税サ込)で、期間限定の本店だと、6957円(税サ込)である。
800円の「おにぎり」と比べるのはいかがか?というお叱りもあろうが、人間が一度に腹を満たす量はおなじなのである。
むろん、瓢亭の「朝がゆ」だって、「かゆ」そのものをあじわうものではないし、さまざまな付加価値があってのことである。
つまり、この店の「おにぎり」と「豚汁」それに「漬物」だけを食しての評価だけではない。
瓢亭から豪華な付加価値を除いてみて、その本質的な価値を比べてみたら、あんがいと「同格」だといいたいのである。
それは、文化性、という本質である。
瓢亭は京料理すなわち、公家的な伝統文化を基盤にしていよう。
江戸期の朝廷は経済基盤を奪われたので、どこまで贅沢な暮らしをしていたのか?となると貧乏御家人以下だったやもしれぬから、「かゆ」に込められた恨み節は想像以上に強いのではないか?
なので、その反動が瓢亭の「味」になっているような気がする。
こんなに贅沢な朝食は、世界的にも「異常」なのではないか?とおもうと、じつに感慨深いのである。
その贅沢とは、いったい何時から料理人が支度をはじめるものか?をかんがえればわかる。
長野では、「おこびれ」をわざわざ謳うところが、位置づけとして京都と真逆の「農民文化」を代表すると宣言しているのである。
しかして、長野県の農民が、はたして毎日、白米のおにぎりを腹いっぱい食べていたのか?と問えば、答は「否」であろう。
だから、この贅沢なおにぎりには、長野県の農民の恨み節がある。
京の公家が「かゆ」に抱く恨み節と、長野の農民が「おにぎり」に抱く恨み節の激突が、両者を比較したときの「味の深み」となっているのである。
ましてや、おにぎりの具材の準備に、いったい何時から仕事がはじまるのか?も、瓢亭ばかりではない共通の畏敬をするばかりなのである。
もっと無粋にいえば、両者とも、「セントラルキッチン」なる概念をもたないのも共通なのだ。
全国、どこにいっても同じなナショナル・ブランドのチェーン店にはない、個性で勝負しているところも、「いいじゃないか!」となる。
瓢亭に気軽に行ける身分ではないが、長野に旅したら、せめて朝は通いたい。

