かんたんにいえば、「爆弾テロ予告」で東大の学園祭が中止になった件である。
記事によると、中止を決めたのは学生自治団体『五月祭常任委員会』だというから、大学当局は関係しておらず、あくまでも「自治」が貫かれている。
本件には、学祭に参加する学生サークル「右合(うごう)の衆」が講演依頼したことを受けて、参政党の神谷宗幣代表・参議院議員と、おなじく塩入清香参議院議員が出演する予定であったが、これが反対勢力の暴力によって中止になった、いわゆる「言論封殺」事件になったのである。
巷間のニュースは別として、本件が、ニュースなわけ、について書いておく。
わが国における「最高学府」とはなにか?を問うたときに、「学制(明治5年に定めた学校制度を定めた基本法令=「富国強兵」政策の一環)」でいうなら、
・小学校
・中学校
・大学校 の3段階が定められていたので、「大学」が最高学府と定義できる。
戦後の「新制学校」では、中等教育の部分が前期と後期にわかれている。
・前期中等教育:義務教育における中学校
・後期中等教育:高等学校
「高等学校=高校」は、なんと高等教育の場ではなく、中等教育機関なのだ!
なので、いま、わが国の「高等教育機関」として、
・大学・大学院(学位として学士、修士、博士を授与)
・短期大学
・高等専門学校(高専)
・専門学校(称号として専門士、高度専門士を授与) の4部門がある。
すると、明治のはじめに決めた「最高学府」は、いまの時代、大学に限らないことが「制度」になっているのである。
この意味から、専門学校も「最高学府」にあることは、注目の対象となろう。
役所も企業も、最高学府終了の学歴人材を求めるなら、大学卒にこだわるのは「制度上」まちがっているのである。
ここに、社会的「慣性の法則」によるおおきな勘違いが発生している。
つまり、最高学府とは「大学・大学院」だけであることの勘違いであって、その勘違いの区分の中に「偏差値」による順位付けがあり、そこに「(受験の)最高難易度」として君臨しているのが「東京大学」だということなのである。
しかし、もっと上の鳥の目線(鳥瞰)から眺めてみれば、大学に学ぶ学生とは、まだおとなになりきっていない未完の「子供」なのだとわかる。
社会に出る(巣立ち)直前の、「雛(ひな)」なのだ。
それを、大のおとなたちが、「東大生」はあたかも全知全能の人間のように特別な勘違いの目でみるから、雛たる本人たちも勘違いするように仕向けられている。
おそらく、「東大教授」の肩書きを持つ学内のおとなも、勘違いに染まった人生を歩んできているので、相乗効果をもって勘違いの輪が広がっているにちがいない。
ときに、勘違いで笑えないのは、社会構造として強固な建物のごとく、制度化されてしまったのが、「東大」とか「東大生=超優秀」なる神話である。
むろん、愚鈍では入試に合格はできない。
だからといって、入試が超優秀を担保もしない。
この点で、東大を出た文科官僚が勘違いのままに、勘違いの上塗りとして構築した、「全国テスト」という「制度」で、学校ごとの「校風」も、「教育(方針)の特徴」も奪った。
むかしの大学受験は、校風に向いた学生を選ぶ要素があったから、おそらく半世紀以上前の受験生はいまよりずっと「選別」された各校にとっての優秀であったにちがいない。
もっと時代をさかのぼれば、たとえば幕末の「有名私塾」に激しい受験競争はなかった。
しかして、時代が進んで塾や学校が「権威」となると、様相がかわるのである。
官僚機構がいまのように社会の隅々まで効いていなかった時代、「裏口入学」が事件になったけれども、おおかたが医学部か歯学部の私学であった。
破壊神のマスコミは「悪」として叩いたが、わたしはもっとあっていいのかも、ともかんがえていた、と前に書いたことがある。
誤解をおそれずにいえば、私学なら、卒業生の親がカネで子息を母校に入学させたいとかんがえるだろうし、学校側もカネを得られれば別段どうでもいいはなしなのである。
なにせ、「国家試験」に合格しない限り、医師にも歯科医にもなれないからであるし、「学位」を売るのが商売なのが大学というものだ。
この意味で、国・公立大学とは、官業による民業圧迫であるし、これを制度化しているのが文科省なる国家の役人支配なのである。
それで、横須賀の国会議員の御曹司が、アメリカの有名大学に入ったとて、また、担当教授が卒論を代筆してくれたとて、それが商売(卒業名簿に将来の有名政治家がいることも学校の宣伝・権威となる)だと割り切ればどうでもいい話ではある。
あとのことは、本人次第の人生となるからだ。
つまり、学校はどこも「製造物責任」を負わない、安泰な商売なのである。
ベストセラー『「公益」資本主義』の著者、原丈人氏は、スタンフォードで経済学を学んでいるが、「ロクなことしか教えない」ばかりか「間違った洗脳をされる」ために、行かない方がいい、と断言している。
どちらの国でも、エリート養成校の自爆的な流れが深刻なのである。
そんなわけで、今年で99回目となる東大「五月祭」は、幼稚なテロリズムに粉砕される前代未聞となった。
「東大神話」だけでなく、わが国の「安全神話」も壊れたのである。

