ミレイ語録

他人の金で気前よく振る舞うのは簡単だ。

官(政府)であろうが民間企業であろうがを問わず、事務職員の共通感覚をみごとに表す名言である。

それでも、自らあたらしい価値を創造せずに、とにかく他人から集めたカネを「使うしか能がない」のが政府である。
よって、政府の使うカネに依存することに社会発展のタネはない。

しかしながら、カネの使い途にほんとうは困っている政府事務官たちは、「官民学の連携」とかという綺麗事での大盤振る舞いがもっとも都合がいいとしっている。
そこにあるカネだけでなく、未来の自分の懐にはいるカネも確保できるので、二度も三度も旨味があるからである。

世界は、日本人の独自味覚だった「うまみ」をあてる単語がないので、そのまま「UMAMI」としたけれど、役人が得る「役得のうまみ」は、世界共通なのである。
けれども、日本語でいう「役得のうまみ」には、味覚のうまみの意味がしっかりあるために、より一層「おいしそう」にみえるのである。

バブル期に流行った「おいしい(仕事)」とかという下賎な表現が、テレビをつうじて一般語になったけれども、これで日本人全体が「卑しくなった」ことは否定できない。
それゆえに、むかしは美徳だった、武士は食わねど高楊枝、も、浪人に落ちた武家やら、貧乏御家人をバカにする薄っぺらな意味に転化した。

こうしたはなしからもみえてくるのは、外国人がいう言葉の意味には、外国の歴史があっての厚みが含まれている当然である。
だから、日本語になったときの意味には、突然に日本の歴史的な厚みが含まれることになる。

グローバル時代のいま、この重要なことをわすれて、文字どおりに受けとめるのは、そのまま早合点のおっちょこちょいになるのである。

ミレイ氏はスペイン語話者なので、かならずスペインの歴史とともに、南米の歴史が含まれている、とかんがえないといけない。

この意味で、『ドン・キホーテ』は、すごい作品なのだ。

なにせ、この「ラ・マンチャの男」は、すでにアラブが支配したスペインを生きているのだ。

あの名曲、『アルハンブラの思い出』も、アラビア語の定冠詞「アル」(英語でいう「The」)に、「赤い」という意味のアラビア語「ハンブラ」が連結した、「The Red」という異名がついた宮殿の音楽的表現である。

そんなスペインが、いま、再びイスラム教徒の大量流入に揺れている。

これを、遠くアルゼンチンでどのようにみているのか?

ミレイ政権の自由主義は、本国スペインの主義とは真逆だから、ついにはどのような「語録」となるのか?が気になるのである。

カナダは包囲された

立派な肩書きコレクターではあるが、「無能」で有名な、カナダ首相のマーク・カーニーがどこまで「囲碁」のゲーム・ルールをしっているのか不明だが、その無能さゆえに「しらない」と想定することは妥当であろう。

ただ、彼の無能には筋金入り、という「低能」もあってのことだから、知識がある、とする仮定の前提が崩れてはいる。
もしも、しっていてもそれがどうことなのか?を理解できないからである。

昨年暮れに発表された、トランプ政権2.0による「アメリカ合州国の国家安全保障戦略」には、「アメリカファースト」といったときの、「アメリカ」とは、地理的に「南北アメリカ大陸」のことだと明記されていた。

これで、南米大陸では「保守ドミノ」が発生し、ずっと続いた左翼政権がことごとく崩壊したのである。
残っているのは、極左ルラ大統領のブラジルと、麻薬カルテルにコントロールされている傀儡クラウディア・シェインバウム大統領のメキシコである。

むろん、ふつう「北米大陸」といえば、アメリカの他にはカナダしかない、とおもわれてきたが、「地球儀」で眺めれば、カナダの北にグリーンランドが北極まで続いてみえるのである。

それでもって、18日、トランプ大統領が、グリーンランドの事実上の領有宣言をしたので、囲碁の局面からしたら、カナダは包囲されてしまったのである。
このことに、おそるべき無能のマーク・カーニーは、ぜんぜん気づいておらず、「EU加盟」とかという世迷い言を発して顰蹙を買っている。

阿呆には付き合えないと、アルバータ州ではカナダからの独立⇒アメリカへの併合を求める州民投票が準備されているありさまなのである。

そのカナダとおなじ国王を仰ぐ英国では、イングランドの支配に堪忍袋の緒が切れそうな、スコットランドとウエールズ、それに北アイルランドが「独立」の気勢をあげて意気込んでいる。

全く時代は、中世、に戻って、『ブレイブハート』の再現となっているのである。

この作品の監督・主演は、保守論客のメル・ギブソンで、アメリカ映画会では「異端」扱いされている。
だが、トランプ嫌いで有名なロバート・デ・ニーロの方が、最近では分が悪いそうな。

笑い事ではなく「中世」に戻っているという表現も、じつはわたしには共感できない。
わたしのイメージでは、ずっと中世のままに科学技術だけが先行し、いつの間にか文明的な生活に慣れてはきたものの、人間の発想自体が中世でとまっている、とみるからである。

だから、中世から資本主義をもって脱却・進化した、とはかんがえていない。

そもそも、資本主義を人類は経験していない、という、アインランドの説に共感するからである。
ハイエクすら、「資本主義」とは、マルクスの造語だ、としている。

もっといえば、資本主義から帝国主義が発生したのではなく、中世の詐欺・掠奪・冒険を旨とする発想から、帝国主義が発生したといえるし、あらためて「帝国主義」といわずに、中世の弱肉強食がそのままグローバルな世界支配図になった、とかんがえる方が筋がいい。

だから、あんがいと『ブレイブハート』は、そのまま現代的なテーマなのであって、負けたスコットランドの負け状態が、ずっとそのまま保存されて現代にある、といっていい。
だが一方で、勝ったイングランドの中世的野蛮な横暴は、全世界の支配ルールとなってやっぱりずっとそのまま保存されてきているのである。

そうすると、カナダの英語圏とは、イングランドの支配地、なのであって、その首相がマーク・カーニーなる無能でもつとまるのは、イングランドの代弁者であるからである。

ときに、いまのヨーロッパは、ローマを滅亡させたというゲルマン人の大移動ならぬ、アフリカ・中東地域からのイスラム教徒の大移動にさらされている。
ゲルマン人のときは、地球寒冷化による寒さからの南下だというが、いまは地球温暖化による暑さからの北上、なのであろうか?

そうではなくて、国境を開いた、人為であろうし、これを迎え入れる「多文化共生の強制」なる思想戦におけるやっぱり人為の自虐的被征服というマゾヒズムに原因がある。
それでも外国にやってくる移民の群れとは、いかにして発生しているのか?も、だれかがカネを出さねばそうはいかないものである。

なんにせよ、トランプ政権2.0による「囲碁」は続く。

痛快!ホワイトハウスの記者追放

19日の土曜朝、ホワイトハウスが3社の記者に立ち入りを拒否したことが「大騒ぎ」になっている。

その3社とは、トランプ大統領によって「フェイクニュース」と烙印を押された、
・CNN
・MSNOW(My Source News, Opinion and the World:旧「MSNBC」のことで、米放送ネットワークのNBCとマイクロソフトが共同で設立後ケーブルテレビ部門が分離独立した)
・POLITICO

むろん騒いでいるのは、当事者たち、そして、溜飲を下げた一般人の大歓迎なのである。

「X」では、日本でも!という投稿に多くの共感があつまっているが、反トランプ=グローバル全体主義に染まっている日本政府=内閣官房が、そんな無謀なことをするはずがない。

つまり、「高市・自民党」になにを期待しているのか?というトンチンカンなはなしになるのである。

それにしても、なぜこのタイミングでやったのか?が気になる。
トランプ政権2.0の「用意周到」について、このブログでは何度も書いてきたとおり、若くして生き馬の目を抜く業界で、つまり、ニューヨークの不動産王になったトランプ氏の経営手腕を舐めてはいけないし、そのスタッフの優秀さはそれだけでも「歴史的」なのである。

その前に、不思議なのは8月末で退任したキャロライン・レビット報道官の後任が3週間を超えていまだに決まっていない、という事実である。
報道官不在のために、閣僚が自ら取材に応じるばかりか、トランプ大統領も直接インタビューに応じている。

今回の「記者追放」にあたって、バイデン政権から追放された保守系のフリー記者が、当時の「追放」に口をつぐんだばかりか業界の同僚に対する口封じを歓迎し、「報道の自由」さえ自己都合で解釈したこれら大手に対するトランプ政権2.0による鉄拳の快挙と、歴代最高の「透明性」を確保するトランプ政権2.0自体を絶賛している。

なぜなら、トランプ政権2.0は、政権発足直後、バイデン政権が追放した記者の復活ばかりか、独立系弱小ネットさえも積極的にホワイトハウス報道官室(会見室)への入場許可証を優先発給しただけでなく、質問順位も優先させてきた事実があるからである。

つまり、トランプ政権2.0は、キャロライン・レビット報道官の退任後と後任が決まるまでの空白期に「決行日」をもうけたとおもわれるのである。

では、事前にわかっている政治イベントのスケジールとはなにか?となれば、まず第一に、中間選挙、である。
政権後期にも議会でのイニシアチブが維持できるか?は、政策実行に決定的な影響となるからである。

次にわかっているスケジュールは、翌日の日曜に実施のドイツの州議会選挙(ベルリン州と、メクレンブルク・フォアポンメルン州)だ。
6日のザクセン・アンハルト州議会におけるAfDの大躍進と、政権奪取を確認した上の、グローバル全体主義たるEU及びドイツの歴代政権への攻撃となる手段としての配置である。

メルツのCDUも、政権交代相手だったショルツのSPDも、戦後、アメリカ民主党がつくった二大政党であるから、トランプ政権2.0にとっては根本的な破壊対象なのである。
むろん、ヨーロッパの大国であるドイツをどうするのか?は、アメリカの世界戦略に重大な重みをもつ。

おそらく、両州では、AfD政権阻止のための「左派連合」政府が樹立される。

これは、マリーヌ・ル・ペンの国民連合による政権樹立をなんとしても阻止したいマクロン大統領の意向もあって、「左翼連合」が急遽結成されたが、かえってル・ペンへの支持が強固に拡大されていることを学ばないどころか学びを拒否する「左翼脳」による、いつもの道、となっている。

そんなわけで、「X」民が期待する、「日本でも!」は、トランプ政権2.0がそのうち仕掛けてくる時間の問題であって、日本政府はマクロンやらメルツやらの没落の道を選択するしかないところが、「ミソ」なのである。

そして、トランプ政権2.0は、「決行日の前日」である18日、シラッと「グリーンランド」の実質領有を宣言した。

まったくもって、おそるべきスケジュール管理なのである。

アメリカのフェイクニュース連合は、中間選挙での「民主党優位」をさかんに煽って、わが国でもそれがあたかも正当な期待値であるかのように流布されているが、19日、カリフォルニア州で極左ニューサム知事が署名・即日施行された「選挙法改訂」こそが、不正をしないと勝てない民主党の「焦り」を象徴している。

ホワイトハウスのスケジュール管理では、11月中間選挙の後にある、来春のわが国の「統一地方選挙2027年」が、ドイツの次に降伏した順であったがごとく、となっているはずである。

利上げしちゃったFRBと日銀

いまのアメリカと日本は別の方向をみている。

だが、むかしからこの両国はこんなものだった。

アメリカは自国の国債利回りが高まって、暴落の危機にあるのをどうにか抑えたい。
日本は、円がこれ以上安くなるのをどうにかしたい。
円安で日本の「輸出企業」(観光業を含む)は笑いが止まらないだろうが、内部に巣くう経営問題の解決が優先順位から落ちてしまう。

アメリカの国債は、ずっと前から発行しすぎたことのツケがとうとうまわって、ドルの価値がさがる「インフレ」との闘いになった。
日本の円は、ずっと1ドル=100円程度の円高だったのに、それが160円近辺での攻防になっている。

ほんとうなら、インフレのドルに対して、円が高くなっておかしくないのに、そうはならないのはなぜか?
むろん、石油を含めた輸入品物価の上昇、という「悪いインフレ=コストプッシュ型」が、国民生活を圧迫しているのではあるが。

単純化すれば、政府が国民に勧める「NISA」が原因ではないか?

国民が投資したカネが、証券会社を通じてアメリカで運用されれば、それは「円安」になる当然がある。
「高利回り」を追及したら、外国投資の方がぜんぜん有利だからである。

これをいえない日銀は、「日米の金利差解消」という名目を理由に、あるいは、ベッセント財務長官の命ずるままに、金利を上げた、ので、これからわが国はその引き締め策により景気は悪化する。

ようは、住宅ローン返済負担が深刻化=ローン地獄がやってくるのが「痛い」のである。

しかして、肝心のアメリカFRBが、トランプ政権2.0の肝いり(利上げしない)で就任した新議長だったのに、先に「利上げ」してしまったので、日銀が利上げしても「日米の金利差」は変わらないこととなったのである。

つまり、当初とは話しがちがう、日米の金利差拡大を防止するための日銀の利上げ、である。

ときに、高市政権がはじめて自政権が打ち出した「骨太の方針」を受けての「来年度予算編成」に入った。
今年度予算は、石破前政権の「予算編成」を高市政権が国会を通過させたものである。

それが、蓋を開ければ、石破時代と大差ないのである。

つまり、額だけ増えたが実態は「緊縮予算」である。
要するに、わが国政府は肥大化をやめず、どんどん社会主義の国家管理に向かっているのである。

ために、円は価値を失う方向(円安)で変わらないどころか、加速度的に減価するよう、政府が仕向けている。
これを、日銀だけに責任転嫁するのは、方策がアベノミクスとは真逆だが構造はまったくおなじなのである。

金融政策には限界がある、これこそが失われた30年以上の悪政から学んだことではなかったか?

そんなわけで、17日のニューヨーク市場では、原油価格の下落と、とっくに折こんでいた金利上昇の「一服」で、ダウは反発という状況になっているのである。

かんたんにいえば、市場は読んでいる。

そんなこんなで、ツケは国民が払わされるのだが、その損失に気づかれないような「誤魔化しの経済政策」を日本政府は推進する。

それが、社会主義・共産主義=全体主義というものなのである。


ウクライナ沼に入れ込む蛮行

「(わが国は)ウクライナと共にある」といい切った自民党・高市政権のことばにウソはなく、どこまでも入れ込んで、カネを吸い取られることに快感を得る変態になっている。

15日、なんとわが国の衆議院議長(森英介:千葉11区)がウクライナを訪問し、彼の国の国会(「最高会議」という)で演説したのである。
そこに、「(ロシアの)蛮行」なる過激な発言が含まれていて、わが国は政府だけでなく立法府までウクライナに入れ込んでいると世界に示してしまった。

これぞ、「蛮行」である。

このひとの「演説原稿」を書いたのは誰だ?ということが問われないのは、政治家本人の口から出た言葉には、そのまま責任があるからである。

この演説の中にある、わが国とウクライナの共通事項として、「チェルノブイリ原子力発電所事故」と「フクシマ」を挙げる、トンチンカンの上塗りもあった。
「チェルノブイリ」は、ソ連時代の事故であることをなんと心得ているのか?と問えば、メチャクチャな歴史観と地理感覚、政治感覚であることがわかる。

チェルノブイリがどこか?をこの脳天気なひとは地図をみて確認したことがないのではないか?

キエフの北、ベラルーシ(「南ロシア」という意味)との国境近くであって、放射能被害はウクライナの地ばかりか、風向きでかえってベラルーシもロシアも多大なる影響を受けている。
さらに、チェルノブイリの人口構成は複雑で、ロシア語圏の東スラブ民族とも深い関係にある土地なのである。

いまどき、ちょっと調べればわかるこのような事柄を、ほんとうに森英介なる人物はしらないのか?わからないが、「三権の長のひとり」としてはあまりにも政治的な発言なのである。

しかして、なんで「三権の長」のうちの衆議院議長がウクライナを訪問しないといけなかったのか?
なんでウクライナ国会で演説をする「異例」なことをやったのか?が、気になるのである。

ようは、衆議院議長というよりは、自民党の党員代表としての訪問ではないか?

すると、福岡県議会の外国視察、とおなじ構図なのだわかる。
そもそも、衆参両院の議長職が、政府の外交を担うことはない。

つまり、わが国憲法が定める「三権分立」からしたら、憲法違反の越権行為なのである。

これを、臨時国会で問い詰める議員はいるのか?注目したい。

憲法違反をやってでも、日本政府・自民党がウクライナに国会議長を送り込んだ理由とは、おそらく、カネに困ったEUからの要請か?それとも、カネを出さないトランプ政権2.0への当てつけか?

なんにせよ、負け戦のウクライナに入れ込むのは、「大損」になるのは火を見るよりも明らかだが、もっといえば、「支援金のキックバックほしさ」なのかと勘ぐりたくなるのである。

すでに「X」では、日本からの支援金=寄付金50億円の行方を調べたひとが、どこにも使途がわからない、不明な状態になっていると投稿している。
これに、ロシア在住の「X」民は、ウクライナ外務事務次官だった人物の個人運営NGOに流された、と書き込んで、この次官は国際支援金の着服容疑ですでに拘留中、だという。

ウクライナの汚職実態は世界最悪と評価されてきたが、いま、この捜査=大掃除をやっているのは、トランプ政権2.0であって、FBI職員も派遣して支援しているのである。
つまり、日本政府・自民党の「焦り」から、なんとしてでも「支援=裏金」を維持したいとみることができるのである。

むろん、日本政府はアリバイとして、上のような「事実があるなら」との仮定法で、「日本国民の善意を裏切るもの」としてウクライナ側に事実解明を求めている、という。

だが、森英介氏は本件に言及したのか?の報道はない。

トランプ政権2.0と対立してまでも、そこまでやるのか?なのだ。

つまり、「ウクライナと共にある」とは、自分たちも「汚職まみれ」であると告白しているも同然ではないか?と疑う。
「汚職責任追及・撲滅支援」をやっているトランプ政権2.0と真逆の、「汚職支援」をやっているのが、日本政府・自民党で、とうとう衆議院議長まで動員してしまった。

これを、「蛮行」というのである。

再熱除湿のエアコン

「27年問題」を抱えるために、今年、駆け込みでエアコンを買い換えたひともおおかろう。

エアコンだけでなく、蛍光灯も規制の対象になっているけれど、給湯器には「2028年問題」がやってくる。

政府はどこまで個人の生活に介入するべきか?あるいはできるのか?という「自由主義問題」のひとつとしてとらえれば、まったく社会主義・共産主義=全体主義に傾く日本政府のやることなすことのいちいちに文句をいいたくなる。

政府のいい分は単純で、「地球環境保全」なるまさに単純な世迷い言である。

これもまた、家族=家庭経済を破壊して、社会主義・共産主義=全体主義の実現をはかるための見事な詭弁なのである。

地球環境保全のために、国民はあらゆる負担をせよ!と命じるのが、日本政府となっていて、権威のお墨付きが「国連」なるエセ国際機関である。
ドイツと日本=敗戦国に対する、国際的イジメ機関が国際連合=戦勝国組合だからである。

そこにまた、「先進国のつとめ」なる、見栄がはいりこんでいて、2007年の年初にとっくに先進国ではないと国会で歴史的な経済演説をした、大田弘子経済担当大臣の宣言を無視するのは、もう、おなじ政党が政権を維持しているとはおもえない。

この時期よりずっと悪化しているいまの日本人の「ひとりあたりGDP」をみれば、地球のためにカネやらなにやらを負担する余裕はないのである。

しかし、それを「やれ!」という日本政府の意図とは、まさに上に書いたポリコレにほかならない。
しかして、17日夕方、高市首相による内閣改造の説明と各大臣の紹介についての生中継があったが、意図するところは「反日政策の強力推進」だから気分が悪くなった。

そんなわけで、27年度から、いまよりぐっと厳しくなる「省エネ基準」を満たさないエアコンは、製造も販売も「禁止」となるのである。

このように、政府が国民に命令できる根拠はなにか?をかんがえると、日本国憲法に反していないか?と疑問がわくのだが、レジを通過後にイートインでの飲食か持ち帰りかで消費税率が事前に変わる、所有権を侵害するようなことも、レジ袋の有料化も、国会を通さずに官僚の裁量で実施されることは、まったく民主主義国家ではないことをやっている。

江戸幕府による「倹約令」のごとく、なのである。

だから、哀れな国民は自己防衛として、26年度エアコンを駆け込みで買うのである。

ようは、日本政府は幕府化していて、「皇室典範」をあっさり変えることも含めると、徳川幕府よりもはるかに強大な権力を発揮しているのである。

さてそれで、どんなエアコンが自宅に最適なのか?をかんがえるとき、消費者が自分でメーカーごとの機種の特徴をつかむ努力をしないとわからない。
これがまた、複雑にできているのである。

これが、お気軽なひとなら量販店の販売員(じつはメーカー毎からの派遣)の口車にのせられる要因だ。

しかし、シンプルな区分けをする方法がある。
それが、「除湿方式」による分類だ。
基本的に2種類しかないからである。

・弱冷房除湿
・再熱除湿

前者は除湿を冷房運転のマイルドさだけでおこなうもので、後者は冷房運転をして除湿をするが、冷たくなった空気を再加熱して部屋に送るので、梅雨時などそんなに気温が高くない時期の室内を冷やしすぎない特徴がある。

これを、「エアコン研究所」さんがわかりやすい動画にしている。

けれども、「再熱除湿」の機種には、無用な「フィルター自動清掃」機能がついているきらいがあるために、プロ職人による内部清掃依頼では本機能なしの機種との比較で費用が1万円程度高額になる難がある。

逆に、エアコンは数年に一度、できれば2年に一度ぐらいの頻度で、プロに内部清掃を依頼する必要がある家電である。
残念ながら、室内機内部のカビやほこりを自動でクリアにする機能は存在しないために、プロによる清掃は必須だし、同時に室外機の清掃で運転能力も維持できるようになる。

「フィルター自動清掃機能」が、本格的清掃作業の妨げになって、手間賃が余計にかかるのである。

それゆえに、この無駄機能がないさらなる絞り込みの手間がかかるのである。

結論を書けば、「再熱除湿」で「フィルター自動清掃機能なし」の両方を満たす機種は全メーカー比較で「ない」という驚くべき統一された結果となる。

わが家では、エアコンは「クーラー」としてしか使わないので、ほんとうは「冷房専用機」がほしい。
暖房にはガスファンヒーターを使うからだ。

しかし、現行の機種で、「買い」の選択肢にはいる冷房専用機は存在しない。

このあたりの中途半端な商品構造も、まさか経産省の行政指導やらで工業会にちょっかいをだしていないか?と疑うのは、マーケティングをきちんとやればどこかのメーカーがかならず気づいて何らかの製品を市場に出すだろうからだ。

この点で、わが国は自由経済ではない、可能性がある。

つまるところ、統制経済、なのだとかんがえると、つじつまが合うのである。
そうやって、政府はあらゆる方法をもちいて、国民経済を破壊し、ついには共産主義・全体主義のディストピアを現実化させたいのでは?と下種の勘繰りをするのである。

それで、工業会は「除湿機」を別途購入させたいとかんがえているのだろうか?とおもえて、情けなくなるのである。

スーパーの中学生出禁

14日、岩手県奥州市の『いわて生協コープアテルイ』で、10日から中学生のみの入店禁止措置をしたとニュースになっている。

さて困ったことに、わたしは岩手県へは数度しか訪問経験がないために、この広大な県内で「奥州市」がどこにあるのか?の見当がつかない。
それで、マップで検索したら、平泉町内の「中尊寺」からわずかに北からが奥州市であることをしった。

県都の盛岡はここからずっと北にある。

症状として、どうしてこの地で「発症」したのか?はしらないが、わが国の一律的官僚主義による「公立中学校」をかんがえると、おそらく特段の地域差はないとかんがえられるので、全国的な展開がふつうになるのではないか?

また、「父兄」とはいわず、「保護者」となったおとなの責任放棄についても、中央集権による全国的なことだろうから、やっぱり地域差があるとはかんがえにくいのである。

当然だが、警察も教育委員会も同様で、岩手県警やらが特別に問題あるとはいえない。

そんなわけで、店側の苦渋も特段の地域差があるともいえないのである。
きちんと、法的な検討をしたうえでの「措置」であろう。

すると、この破滅的な行為を集団でやっていた心理はなにか?が気になるのだが、むかしからある、成長期の若いエネルギーの発散、とすると、もっとも便利な場所すなわち本件では当該スーパーがたまたまの「現場」となったのではないか?と疑うのである。

しかも、あたりまえだが「休日」のご乱行なのである。
つまり、平日は学校へ行っている、ということだ。

この「真面目さ」が、なんだかあたらしい。

むかしなら、「不良グループ」という仲間での行動で、たまに学校に顔を出すが、誰かの家やどこかにしけ込んで自由行動を謳歌していたものだが、どうやら今回は「不特定多数」という特徴があるために、いまどき普及があたりまえの防犯カメラでさえも「個人が特定できない」ことが、結果的に連帯責任となったのだとおもわれる。

ようは、ふつうに登校している子供たちが、休日になると豹変する、という事象なのである。

この処置がどこまで有効か?と問えば、当該スーパーには来なくなるだけ、だといえるので、近隣に別の場所をみつければ、そこでまた「出禁」をくらうことになるのだろう。
念のために、公式に「出禁」を宣言したスーパーは、彼らが敷地に内に入ったことだけを理由に、「不法侵入」での対抗策を発動できるのである。

ここで興味深いのは、外部から侵入をはかるネズミを特殊な音波で追い返す、という手法の不思議な有効性と、中学生たちの共通はあるのか?という点だ。

ネズミの場合、「縄張り」があるので、このやり方をブロック単位のビルやらで採用した場合に、その近隣では一定以上の過密状態になることでの「総数減」という生存のための調整現象がおきるのである。

「中学生たち」がはたして個々の「縄張り」をもっていたのか?は、記事からではわからないから、数学の「集合」としての表現でいえばかなりあやふやなのである。
つまり、いきなり個人の特定が困難だということの前に、「グループ行動」としてどう分析していたのか?の議論が記事にないのである。

もしも、他校やら他グループとの仲間意識による「縄張り」があったなら、ネズミのような生存競争による敗者は、他地域に行くしかなくなるか、別の遊び方を考案するのだろうか?

なんだか『ウエスト・サイド・ストーリー』のようなのである。

すると、どうやって彼らの余ったエネルギーを消費させるのか?となる。
体育の授業に2012年から「ダンス」が必修採用された本質はこれだとおもうが、地域差があるとしたら「ダンスによる消耗」が薄いのか?と気になるのである。

休日に、ダンスをどこで練習させるのか?は、おとながかんがえることである。

「居酒屋」経営の難易度

インバウンドの増大とSNSの日常化が同時におきて、外から日本文化をみる外国人観光客の風景から、彼らの内なる感情が露わになってきて、それがおおむね「日本絶賛」となっていることに日本人が気づきはじめた。

ほんとうはこのような現象は、信長から秀吉の時代にやってきた伴天連も、幕末から明治のはじめにやってきた外交官たちやまだ珍しかった旅行者も、しっかり書き残しているのだが、日本人一般がいちいちこうした記録を読まないためにあまりしられていないだけでなく、時代が古くて、いまの日本を褒めているのか?の自信がなかったことも影響しているだろう。

その自信喪失の原因に、敗戦とその後の征服が影響しているのは当然である。

だから、これまた日本人一般が意識しない植民地を征服者が訪問して絶賛している交錯に違和感を覚えることもある。
ところが、その征服者のはずのインバウンドが、じつは母国での強烈な身分社会における中流以下が主流なのだとしると、妙な説得力をもつのである。

日本を訪問するインバウンドに、いわゆる「セルブ層」はほぼいない。

「日本観光」の要は、「サイトシーイング」としての歴史的建造物たる神社仏閣の見物が主流となろうが、おおくのインバウンドが驚愕しているのは「そこ」ではなくて、日本人の「日常」におけるあらゆるモノとサービスの品質(クオリティ)が、母国のそれと比較して「高すぎる」ことにあるようだ。

たとえば、「洗浄機能つき便座」への絶賛はよくしられたことであり、輸出も記録的だというが、あんがいと母国で不評なのは、外国では水道の水がたいがい「硬水」なので、噴射ノズルがミネラル成分によって目詰まりしてしまうことにある。

ために、訪日外国人でもとくにやや長期滞在の女性が気づくのが、髪や肌のつやがでてくることだという。
日本の「軟水」が、決定的によい影響を与えるので、母国に帰ってからの悪い変化にも気づいてしまうのである。

だが、むかしから旅の楽しみといえば、ご当地での「飲食」であろう。

そこで、大注目されているのが、「居酒屋」なのである。
彼らの発信で、「居酒屋」を母国語で表現する単語がみつからず「IZAKAYA」といっていることに気づくと、日本人としてはエミール・ゾラの傑作『居酒屋:原題L’Assommoir(ラ・ソモワール)』とはなにか?が気になる。

ようは、「レストランとバーの中間的な飲食店」のことを日本人はイメージするが、身分社会の下層民が集う、つまり、ゾラがいう「居酒屋」とは、わが国のそれとはぜんぜんちがう貧相で下品な店をさすのである。

それはまた、『レ・ミゼラブル』の「宿屋」も同様で、江戸幕府の五街道整備における「旅籠」の安全性とは異次元の悪党が営むことの「ふつう」と通じている。
しかして、当時のヨーロッパ身分社会における下層民の絶望的な生活感=不道徳が、じつは現在の左翼たちに保存されているのではないか?と疑うのである。

そんなわけで、日本でいう「居酒屋」形態の飲食店は彼らの母国に存在しない。

日本の現代的な「居酒屋」にリスペクトする外国人は、日本独自の飲食店形態として1000年の歴史を引き合いにするのである。

よって、いきなり母国で開業することはできない、とも自己分析している。

なぜなら、中間層以下の多数は、より野人にちかい生活習慣のために、節操もなく「入りびたる」ことと、22時を超える店舗滞在の外における街の治安を考慮すると、いかにも危険だから、というのである。

これはこれで、自動車の運転手に酒を提供してはならない、という発想と似て非なるものではるが、遅い時間に街中にでて帰宅することの危険性は、まったく暗いアフリカのジャングルを丸腰で歩くようなものであろう。

たしかに、19世紀のパリの下層社会を描いたゾラの『居酒屋』とは、日本的には戦後の混乱期にあったような、「カストリ酒場」のイメージをいうし、そこで安くてアルコールが強い酒に溺れるひとたちの絶望が渦巻く現場、という意味で、現代日本の居酒屋とは別物であろうけれども、わずか半世紀ほど前にはその辺に存在していた共通がある。

とはいえ、インバウンドが驚愕しているのは半世紀前のそれではなく、現代的な方であって、料理のレベルとアルコール飲料のレベルばかりか、街の治安の安全性がこれを支えていることも、ぜんぶセットの一括りなのである。

しかして、客層として日本人がいまだ主流の居酒屋が街の王道であるのだが、アルバイトに依存することの難易度は、常連の扱い、という点でかなり高い。
週に決まった曜日が出勤だと、客がその裏スケジュールの来店パターンであれば、アルバイトからしたら「新顔」にみえるのだ。

これはこれで、客側も緊張する。

そこで重要なヒントとして、キープボトルの存在に早目に気づいてもらえるようにしているが、最初の一杯たるビールの注文では、まったく新顔・新規客の扱いをうけるのである。
これを、どうするのか?が、店主の力量となるが、厨房配置や店の構造上、料理作りに忙しい店主に依存するのは酷である。

ところが、アルバイトのひとによっては、たとえ常連だと気づいても接客態度に変化がないことがある。
これはこれで、パーソナルな資質とするのが従来の常識だろうが、そうはいかないのは客の立場である。

ときに、昨今では、中華系の居酒屋もふえてきている。

中華系の中華料理屋というのも変ないい方だが、和食化した町中華でもオーナー一家が中華系の場合がある。
その繁盛店の共通は、やはり「女将」の接客と気の利かせ方が、日本人的あるいはそれ以上のウエットさがあるのである。

これもたまたまかもしれないが、わたしが好んで通う店の中華系女将は、わたしの顔を見るなりキープボトルを探しだし氷の準備をはじめるのである。

それが、中華料理屋だろうが焼き鳥居酒屋だろうが、である。

こういう店が好きなのである。

つまるところ、やる気=モチベーション、の問題なのであるが、これを現代的日本人の若者アルバイト(出勤は週1や2程度であるとして)にどうやって訓練するのか?は、いかに自店が選ばれ続けるのか?という経営上の究極的命題の解決法として重大である。

一方で、学生アルバイトとはなにか?をかんがえたばあい、単なる「非正規雇用」という意味ではなくて、社会の実践的な教育現場、として捉えれば、カネを得るという目的だけでは物足りないのだと本人がおもうひつようがある。

学び、としてカネを得ながら得る別の価値の方が高い、というものの見方である。

これを誰が教えるのか?
ついぞ、学校で教えているとは聞いたことがないし、いまどきの親はどうなのか?

インバウンドがいう、日本の軟水やらの価値とか、夜間でも安心して居酒屋にいられる治安・安全の価値とかはあっても、この点が欠けている。
それに気づいた中華系の女将を、これまた「高度マネジメント職」というべきかは、順番の問題である。

気づき、という最初をどこで得るのか?が、あたかも偶然に依存しているからである。


困った!AfDの連立相手が左翼

「極右」というレッテル貼りが、世界マスコミの標準=デファクトスタンダードになっているけれど、困ったことに、極左政党から分裂した新興左翼政党がAfD政権樹立(州首相誕生)に協力すると正式発表して、「極右」表記がつかえなくなっている。

連邦制のドイツでは、アメリカとちがって「州知事」ではなく、「州首相」を州議会(一院制)の議員から選出する。
それで、各州の首相と重要な大臣職にあるひとたちが、そのまま連邦議会参議院(上院)議員となるのである。

また、ドイツの連邦議会参議院には、日本やアメリカとちがって、大きな権限がある。
それが、連邦衆議院(下院)の議決に関する拒否権の行使で、これが発動されたら「廃案」となるから、ひじょうに強い権限をもっている。

なぜかといえば、ドイツの歴史の複雑さ(貴族による細かな領地の統治実績)からの知恵だからだ。

ドイツの地は貴族の血縁(政略結婚の繰りかえし)による「血の平和」のために、天下分け目の合戦もなかったのでわが国における徳川家に匹敵する超大大名が存在せず、しかも、ローマ教会からも離れたプロテスタントゆえに、宗教的な権威の集中もなかった。

分断の長い歴史から、いまもしっかり分断されていて、連邦政府の役割は日本のような「中央集権」までとはなっていない。
ようは、「州」がいつでも分離できるような状態のために、「民意」のはずの連邦下院議会よりもっと住民生活に近い「州の統治」の延長が重要視されている、ということだ。

フランスでは、マクロン政権の内閣が崩壊を繰り返したが、そのたびに、マリーヌ・ル・ペンの国民連合を抜きにする「左翼の野合」でパッチワーク内閣を成立させてきた。
AfD排除のために、左派が連合しようにも議席数で同数になって、過半数がとれないために、新興左翼政党が初の5議席をとったことの「ゆくえ」に注目が集まった。

しかして、あろうことか、極左から別れた5議席がAfD支持を表明したのである。

一方、13日投開票のスエーデン総選挙(一院制)では、移民(国籍取得した)票によって政権交代が起きることとなったので、ドイツとは真逆の模様がうまれた。

これは、 アンゲラ・メルケル元ドイツ首相が告白した、有権者の輸入、の成功事例となる。

かんたんにいえば、国家が溶けて流れ出したのである。

いまや、スエーデンの「原住民」となったひとたちは、少数民族としての保護的な権利を要求するに留まる状況となった、といえるが、はたして移民が支える政府は、これまでの「左派」がいう少数派の権利保護を主張し続けるかどうか?さえわからない。

これが、思想と主張の乖離、である。

つまり、「主張」は、たんなる政治的なパフォーマンスにすぎないのであった。

それでもって、沖縄県知事得選挙でも異変がおきて、二期続いた左派政権が接戦にもならず倒されたが、どうやら左派の応援団がかえってマイナスになったと評判なのである。
たとえば、蓮舫や辻元清美らの過激な主張が、有権者にパフォーマンスにすぎないと見破られてしまったようなのである。

ここでも、模様が変化した。

世界は、「まだら模様」に変化している。

名言「文化はコレクションじゃない」

例によって、突如降臨したユーチューブの話である。

主はフランス人さんで、日本人女性との国際結婚。
日本国籍のまだ幼い娘さんに対する「教育論」が降ってきたのである。

むろん、個人の家庭でのことだから、他人があれこれいう話ではないが、なんだか「フランス人的」な内容が気になったので書いておく。

どこが「フランス人的」だとおもったのか?といえば、その文化論の本質的な点である。
たとえば、レヴィ=ストロースを彷彿とさせるのである。

ご本人は、日本文化に惚れ込んだフラン人であり、日本に住み続ける覚悟をもっての結婚だから、フランス語を話さない日本人女性との間に授かった子供には、日本人として育ってほしい、という強い自覚があるのだ。

しかし、一方で、家族の絆としての自分、つまり父方はフランス人なのだから、それを断ち切るというかんがえはない。
母親が日本語で話しかけているのに対して、自分は必ずフランス語で話しかける。

それで、本人が成人の暁に、父方を訪ねてフランスに渡ることも意識しているけれども、「日本人」として渡仏してほしいと願っているのである。

こういうのを、健全なナショナリズムという。

しかしながら、社会の根本基盤単位である家族を解体したい、と願ってやまない社会主義・共産主義=全体主義では、あらゆる屁理屈を駆使してでも実現をはかるので、むかしはちゃんと「危険思想」として区別したいたのに、これが崩されたのもこれらのひとちによる政治活動成果なのである。

自分は除いてすべて「唯物」なので、何年かけてもしつこく活動するのが特性だ。

そのために、多数の人間の心に「スキ」をみつけると、そこに集中的に攻撃・宣伝を実施して、徐々に、しかし確実に破壊する。
つまり、「(社会の)破壊活動」とは、常時おこなわれているのだが、「自由」の建前はこれに弱く、禁じることが緩くなるのである。

まったく、悪魔的な『笑ゥせぇるすまん』以上の悪魔なのである。

「文化」をたくさん身につけることが、あたかも「優位」だとかんがえることは、母国文化の意味をしらないか軽視するかからでてくる発想である。
逆に、母国文化の広さと深さをしらないようして育てると、容易に軽視できる人間となるから、企画者はまったく悪魔同様に意図をもって教育の方向を定めるのである。

GHQの申し子たる自民党と社会党が「やらせ八百長」で教育界を支配した80年で、まったく設計図どおりとなったのである。

だから、冒頭の日本をこよなく愛してくれているフランス人のいい分は、過大評価、にみえるのである。
だが、フランス革命以来「(社会主義)先進国」のフランスでは、日本よりももっと古くから家族破壊がすすんでいて、目も当てられない惨状、なのだといいたいのだろう。

ドイツでAfDが優勢になってきて、既存の左派政党のほとんどが「AfD禁止」をあからさまな要求するまでパニック化している。

そこで、かつて2004年にも2010年にも「多文化主義は完全に失敗した」といっていたアンゲラ・メルケル元首相は、「人道主義」に転換して大量移民の流入をとめなかった。
AfDの大勝利の選挙後であるつい最近、選挙権を得た移民がAfDなどに投票せず、自党が永遠に有利になることを意図していた、と語り出したのである。

ようは、民主党バイデン政権(オバマ政権の延長)がやった、国境破壊の論理とまったくおなじであることに注意がいる。

このひとは、2021年に「2014年のミンスク合意は、ウクライナがロシアとの戦争をはじめる準備のための時間稼ぎだった」とオランド元フランス大統領と揃って自慢したのである。

まんまとプーチンをはめることに成功した、と。

しかして、何度も書くが、オランドはフランス革命に冒されたままの頭脳で、メルケルは旧東ドイツ社会主義の素直な申し子なゆえの勉強エリートなのである。
その愛弟子が、EUの女帝ウルズラ・ゲルトルート・フォン・デア・ライエンなる共産主義=全体主義者だ。

そんなわけで、本稿冒頭のフランス人はすくなくともこの部類ではない。

ときに、日本文化とはなにか?に即答できる日本人がほとんどいないのは、あまりにも広く深いために、説明が難しいからだ。

なんとなくわかっているので日本人をやっていけるが、そのなんとなく、が薄まると、自分が何者なのか?が不明になってしまうのである。