世界の「外れ値」にある、「特殊」な国がニッポンであるといわれてひさしい。
困ったことに、これを自慢することもあるし、謙遜をはるかに超えて自虐することもある。
その中で、将来いっそうの「困った」になりそうなのが、「学歴表示」の外れ値なのである。
結論から先にいえば、「学位」と「分野」のセットで語る世界標準に合致しないことである。
世界は、「学部卒」か「院卒」かだけでなく、「院卒」のなかの「修士」か「博士」かに重点がおかれているので、改めて書き出せば、「学部卒:学士」、「修士」、「博士」のどれか?がまずはひとつの「学歴」となる。
もうひとつは、「学問分野」のことである。
「文系」、「理系」といったものではなく、具体的なのが重要で、たとえば「経済学」とか、「物理学」といったはなしになるのが、世界標準なのである。
では、「校名」はどうかといえば、上のふたつに比べるとずいぶんと軽く観られる傾向があって、少なくとも「世界的有名校」を除けば、ふつうは無視される。
なぜなら、「学位」を認定されることに、一定の基準があると信じないと国別の比較すら無意味になるからだ。
ずいぶん前にポーランドの事例を書いたが、旧社会主義国だったポーランドには、国立大学「しか」ない。
それで、「大学入学試験」を突破した学生は、国内のどの大学にも入学でき、卒業したら全員が、卒業資格としての「学位」を得るために、一切「校名」は無視される文化である。
なお、学生に課す学費は全額無料なので、期末試験において一科目・一単位でも落とすと、自動的に「放校=退学」処分となる。
ために、ポーランドでは、4年制の大学に5年生は存在しない。
ちなみに、ワルシャワ大学日本語学科の人気は高く競争倍率は国内トップだが、卒業できるのは入学者の2割しかないという。
ただし、ワルシャワ大学以外の国内の他の大学の日本語学科も同様なので、とくにワルシャワ大学が厳しい、ということではないのである。
こうした厳しさがあって、社会的に「学士」だけでも十分に高学歴であると認定されるのであるから、「修士」、「博士」ともなれば、大変高い学歴だと評価される。
もちろん、国内だけのことではなく、学位の基準が国際的にも合致しているので、当然に国際間における評価も同レベルとなる。
ところが、わが国における外れ値とは、「校名依存」なのである。
ゆえに、「学卒」レベルでも、校名を聞いただけで「水戸黄門の印籠」のような社会的評価となり、他校でたとえば「博士」を取得しても、それがたとえば、学部での入学偏差値が低い大学名となれば、難関校の「学士」より軽く観られるという、まったく意味不明のことが起きるのである。
それで、受験勉強に精魂尽きた若者が、難関校に合格突破することで人生の目標を失っても、なんとかなる社会となっているのである。
むろん、校名依存だから、どんな学問分野での専門知識修得・卒業であるかはほとんど問われないし、「学士」だけでも十分高学歴とみなされるのである。
それで、すでにわが国はOECD諸国においても「低学歴国」となっている。
このことは、外資系の進出と、外国資本によるわが国上場企業株式の取得という二面から、日本人が管理職に昇格できないことが将来予測になっているのである。
それは、あんがいと「文系」に顕著である。
「修士」や「博士」をもつ者との競争にかなわないからである。
日本政府は、そんな「高度人材」ならどんどん移民してほしいと公言しているが、「校名依存」の政治家や官僚が、未来永劫、母校の校名だけで自慢をしていればいい、ということにはならない。
しかも、国立大学を、独立行政法人にしたことで、校名による可処分予算の格差を広げる政策を採用している。
むかし、全国の国立大学の校名を「東京大学」だけにしたらどうか?という議論があった。
東京大学北海道校とか、東京大学大阪校とかとすれば、ポーランドに似たことにはなる。
なんにせよ、何を学んで、そのレベルが「学部卒=学士」なのか、「博士」なのか?といったグローバルスタンダードになってないのに、この点をいわないグローバル全体主義者たちの狙いは、やっぱり日本衰退をもって全体主義国家にしたいからではないか?と疑うのである。
A.I.が不当にもてはやされているいまの時代こそ、日本伝統の「漢籍=古典哲学」を学ぶことの優位は当然として、たとえ欧米かぶれからでも「文学部=人文科学」の重要性が高まっているのに、相変わらず「文系実学=法学や経済学など」を優先するのは、進んでA.I.との競争に負けよ!という悪魔的な仕掛けであると気づくべきである。
また、勉学には向かないけれど、手先の訓練でしっかりと稼げる業種は山のようにあるし、それを特別に体験しにやってくるインバウンドの観光客も多数なのである。
いまや料理人の世界では、数倍稼げる海外勤務にシフトして、かえって年収=待遇での不利になる国内勤務が嫌われている。
みなと一緒のマス的な安心ではなくて、なにを見るのか?がそれぞれに問われている。

