長野市の朝食はおにぎり

旅の楽しみで最大のものは、やっぱり「食事」である。

それでも、アンチョコになりがちなのは「朝食」である。
今回、大発見!してしまったのが、「おにぎり屋」の朝セットなのである。

その名も『長野おこびれ ゑびす堂』という。

「おこびれ」とは、HPにも説明があるとおり、「農作業中の小食・おやつ」をさすことばだという。
店は、24年の5月に開業したというから、もう2年以上前のことであるが、たまたま朝ごはんをどうするか?に迷いながらの走行中に発見!した。

選べるおにぎりを2個と、漬物、それにたっぷりの具がうれしい豚汁がついて、800円(税サ込)也。

ただし、おにぎりの残りでつくれる「お茶漬けセット」をセルフサービスで提供されているので、二度美味しい、から、やたら満足度が高いのである。

こういう店が、横浜や神奈川県にない。

「ツルヤ」もそうだが、「豊かさ」は、一概にGDPなどでは計れないことをしる。

この満足度と似た感覚はどこだっけ?と記憶を呼び出したら、京都の『南禅寺・瓢亭』の「朝がゆ」をおもいだした。
別館だと、4840円(税サ込)で、期間限定の本店だと、6957円(税サ込)である。

800円の「おにぎり」と比べるのはいかがか?というお叱りもあろうが、人間が一度に腹を満たす量はおなじなのである。
むろん、瓢亭の「朝がゆ」だって、「かゆ」そのものをあじわうものではないし、さまざまな付加価値があってのことである。

つまり、この店の「おにぎり」と「豚汁」それに「漬物」だけを食しての評価だけではない。

瓢亭から豪華な付加価値を除いてみて、その本質的な価値を比べてみたら、あんがいと「同格」だといいたいのである。

それは、文化性、という本質である。

瓢亭は京料理すなわち、公家的な伝統文化を基盤にしていよう。
江戸期の朝廷は経済基盤を奪われたので、どこまで贅沢な暮らしをしていたのか?となると貧乏御家人以下だったやもしれぬから、「かゆ」に込められた恨み節は想像以上に強いのではないか?

なので、その反動が瓢亭の「味」になっているような気がする。
こんなに贅沢な朝食は、世界的にも「異常」なのではないか?とおもうと、じつに感慨深いのである。

その贅沢とは、いったい何時から料理人が支度をはじめるものか?をかんがえればわかる。

長野では、「おこびれ」をわざわざ謳うところが、位置づけとして京都と真逆の「農民文化」を代表すると宣言しているのである。
しかして、長野県の農民が、はたして毎日、白米のおにぎりを腹いっぱい食べていたのか?と問えば、答は「否」であろう。

だから、この贅沢なおにぎりには、長野県の農民の恨み節がある。

京の公家が「かゆ」に抱く恨み節と、長野の農民が「おにぎり」に抱く恨み節の激突が、両者を比較したときの「味の深み」となっているのである。

ましてや、おにぎりの具材の準備に、いったい何時から仕事がはじまるのか?も、瓢亭ばかりではない共通の畏敬をするばかりなのである。

もっと無粋にいえば、両者とも、「セントラルキッチン」なる概念をもたないのも共通なのだ。

全国、どこにいっても同じなナショナル・ブランドのチェーン店にはない、個性で勝負しているところも、「いいじゃないか!」となる。

瓢亭に気軽に行ける身分ではないが、長野に旅したら、せめて朝は通いたい。

長野県といえば「ツルヤ」

夏に続いて、長野(市)に行ってきた。

旅行するときの楽しみは、「ご当地グッズ」のお買い物なので、外国だろうが国内だろうが、わが家はかならず「地元スーパー」や「市場」にいって、なにか珍しいモノはないのか?と物色するのである。

たとえば、ポーランドなら、クノールのポーランド限定スープや、乾燥きのこを沢山購入した。
生鮮品は困難だが、いろいろなご当地ならでは、を見つけるとそれはそのまま、旅の思い出品にもなる。

それでもって、長野(県・市)なら、かならず寄るのが、「ツルヤ」だ。

このスーパーの凄みは、店舗構造にもあって、たいがいの店の構造すなわち「商品配置」が、どの店舗もおなじなので、目当ての商品を探す手間とイライラがないことにある。
ストレスのない買い物が、わたしの住む横浜では達成できないのはまことに残念ではあるが、それがまた「ツルヤ」でほんの少しでも解消されるのも「旅の醍醐味」となっている。

だから、有名な「オリジナル商品群」だけが、すごい!、というものではない。

目当てとするオリジナル商品が、どこの棚にあるのか?、駐車場にクルマを駐めた瞬間から店内配置図が頭にうかぶのである。

最初に確認するのは、生鮮野菜がある向かって左側の入口ではなく、右側の入口から入った奥にある「パンコーナー」にあるはずの「お焼き」である。
この長野県のソウルフードは、善光寺参道の有名店のものがなにしろ特別なのであるけれども、負けじと具材たっぷりでコモディティ化しているところがミソである。

なので、「売り切れ」続出の人気商品となっている。
かんたんにいえば、争奪戦なのである。
今回は開店1時間後にいったら、すでに「お焼き」の棚は残りわずかで、滑り込んでわが家が買い占めたらその後、「販売中止」のシートが出ていた。

「お焼き」の次に向かうのは、「漬物」コーナーの一番奥にある、「野沢菜油炒め」の瓶詰めである。
塩分少なめの味付けで、「お焼き」に追加で挟んで頂くと、とまらない、状態になる逸品である。

しかして、「ツルヤ」といえば、ジャムなどのパンに付けるスプレッド類のオリジナル群ではあるが、あまりパンを甘くして食さないわが家では、スルーのコーナーになっている。
ちなみに、「お焼き」の近くにある、ヨーグルトにもオリジナル商品群があって、「ギリシャヨーグルト」が目当てとなる。

それから、時計と逆回りになるが、めんつゆのコーナーにある、「くるみの信州味噌だれ」と、ドレッシングコーナーにある、「焙煎ごまのたれ」は欠かせない。
瓶モノでいえば、スペイン産の「オリーブオイル」もいまどきにしては奇跡的に安いのである。

「ツルヤ」にできて、どうして神奈川県のスーパーにできないのか?をかんがえたくなる。

むろん、YouTubeでも、おおくの「ツルヤファン」たちが、お薦め商品解説動画をあげていて、動画自体を一本化できない状態なのである。

このことが意味するのは、「田舎だからなにもない」といった、都会との比較における絶対的な「負け」を前提とした概念が、崩壊している、ことだ。
きっと、長野のひとたちは、関東のなかでも東京にやってきてさえ、「ツルヤ」がない、ことにガッカリすると同時に呆れることだろう。

そして、「ツルヤオリジナル商品群」の威力を思いしるのである。

そんなわけで、わが家では、横浜で「田舎の生活」を強いられていることに気づく。

なお、ツルヤの店舗は現在、長野県内37店舗、群馬県に7店舗、となっている。
神奈川県に進出するのは、おそらく絶望的なのである。

アラウ降臨

YouTubeの不思議アルゴリズムの功・罪はいろいろあれど、突如、巨匠・クラウディア・アラウの『皇帝』があらわれた。

1987年、5月17日19時、サントリーホールでの『アラウ、N響特別演奏会−ベートーベンの夕べ』における、『N響アワー』の放送である。
指揮は、サヴァリッシュ。
珍しい、リハーサルとインタビューの模様は、当時のNHKの快挙といえよう。

アラウ氏は、1903年南米のチリ生まれだから、上の演奏当時は84歳で、亡くなる4年前の録画となる。

リハーサルでは、椅子の高さをサヴァリッシュさんが自ら調製する。
そのリスペクトがたまらない。
サヴァリッシュは、じつはピアニストが本業だったのだ。

だが、演奏はややテンポが速く、サヴァリッシュの悠然としたベーム張りの「いつも」とはちがうので、緊張していたのは名指揮者の方なのであろう。

不思議かつ残念なのが、アラウをしてベームとの共演がなかったことである。

それでも、ハイティンクが振るオランダ・コンセルトヘボウとの録音が多数あるので、わたしとしては納得なのである。
コンセルトヘボウの弦のくすみ具合が、ウィーンフィルを彷彿とさせるからで、常任指揮者ハイティンクの演奏はいつもみごとだからである。

さて、演奏前の解説で、芥川也寸志さんの「時代」をテーマにした話は、まさに解説としての本質をズバリといいあてる見事さがある。
こういう人物もいなくなった。

いわゆる、「巨匠不在の時代」といわれている現代という時代とはなにか?

それこそが、アラウ氏が後輩に伝えたいこと、で警告したことが、残念な状態に陥っているので、時代が巨匠をつくらせない、ともいえる。
だから、これからの巨匠とは、時代に逆らうことを強制され、それにもかかわらず、本業を守り抜く「分をわきまえる」精神力がないといけない、ということになるのだろう。

この意味でも『アラウとの対話』は、一般人にも一読の価値がある。

卑近な例を示せば、高市内閣(片山大臣)による財務省幹部人事の「怪」がそれだ。
同省OBの高橋洋一氏が、自身のYouTubeで、組織の矜持喪失について、文学的な解説をしている。

このなかで、ペロッと「(大蔵省・財務省は)軍隊的な組織」だと、言い得て妙な発言がある。

むろん、氏がいう「軍隊」とは、旧日本軍のことをさすとおもわれる。
このブログで書いてきたが、旧軍を予算で支えたのは旧大蔵省であり、戦後、旧軍はGHQによって全面的に解体されたが、大蔵省(役人)は一切人事の手がつかないで生き残ったのである。

だから、無責任体質は軍隊的な連帯責任としてそのまま大蔵省に保存されたわけではあるが、それが、時代によって変質し、連帯責任がはずれて無責任体質だけが尖鋭化したらこうなった、というように聞こえる。

むろん、自民党政府に自浄能力を期待する方がどうかしている現状、なんらかの本格的政権交代があってはじめて、「設置法」まで手をつけることができるか?が勝負なのである。

そのときの基本思想が、アラウ氏のいう「分をわきまえる」ことに他ならない。

そうやってかんがえると、民間もおなじ、なのである。
つまり、組織としての矜持を喪失して、無機質がはびこることが、A.I.活用なる極端になっていることがそれである。

ようは、トップからして自分の立ち位置についての「分」を忘れてしまったことの、重大な問題の顕在化がこれから起きることになっているのである。

たんてきにいえば、組織マネジメントの自壊によるコントロール不能状態の出現、である。

クラッシック音楽界の「巨匠不在の時代」に、一般社会が追いつこうとしていて、あるいは、追い越したがために、見えやすい形で「巨匠不在の時代」となったともいえるのだ。

ピアノの鍵盤に手が張り付いたまま離れない、アラウの演奏は、84歳にして完全暗譜なのである。
巨匠を迎えて大緊張のサヴァリッシュの指揮台には、しっかり総譜が鎮座していて、指揮者がこれをみて指揮棒を振っている。

おい、ちょっと速いんじゃね?ともいいたげなアラウの目線ではあるが、まったくそのスピードに対応して一切の乱れがない演奏は、はやく終わりたいという指揮者の心理までも読んでいるようなのである。

それは、ベートーベンが恋人との約束時間に間に合わない、「焦り」を音楽にした逸話までも演奏中にアラウが思い浮かべつつ、サヴァリッシュの心を汲んでいるがごとくなので、この巨匠との共演が嬉しいはずなのに一刻も早く逃げ出したい気持がわかる。

あの「ちがいがわかる男」のサヴァリッシュをして、ここまで追いつめられるものか。

それが、本物、の無言の威力なのである。


冷蔵庫を選ぶ

「2027年問題」として、ことしは特にエアコンが注目されたが、国民の敵になった政府が定める「省エネ基準」(根拠は「省エネ法」(1979年))が変更されることによる。

こうした国民生活に直接影響することが、どこまで国会で議論されているのか?については、あんがいと「関係各省」による裁量が適用されるようになっている。
なぜならば、そういった「行政主導」が「法」に組み込まれているからで、そんな立法をずっとやってきたのが、自民党なのである。

だから、レジ袋有料化だって、法改正を伴う方式ではなく、関係する省庁の「省令改正」でやってくれたのだった。

本ブログでは、憲法違反の疑いを指摘した。

なんにせよ、いまでは国連が推進している「SDGs」のお墨付きを真に受けて、阿呆丸出しの似非科学を国民に押し付ける。
それもこれも、根幹政策としての国民貧困化政策があるからだ。
そうやって、世界共産化を企図している。

なので、今年の国連総会におけるトランプ大統領やミレイ大統領などが堂々と国連批判を展開したのは、彼らにこそ国民優先の民主主義が根本思想にあるからで、残念ながら高市首相(日本政府)は、国連のいうグローバル全体主義を全面支持したのだった。

つまり、自民党とは、自国民を支配する立場にある、と発想する「幕府」よりも腰が低い分筋が悪い集団である。
トランプやミレイが、自国民を代表して「政府を支配する」のとは、根本的にちがう。

よって、自民党政権はだれが首相になろうが、大臣になろうが変わらない。
なにせ、党主導、が政府運営の根本的な構造だからである。

ようは、党からの命をもって内閣は行政責任を負っている。
これを誤魔化すために、党総裁=首相、としているけれども、実態はぜんぜんちがうのである。

それでもって、国民経済に貢献したことがないばかりか、とにかく経済発展の邪魔をするのが役目の、経済産業省・資源エネルギー庁は、格下の住宅関連の国土交通省にも影響力を発揮して、似非科学を推進するから、京大や東大の学長(ローカルに「総長」という)の人選に選挙結果を無視させるのである。

そんなこんなの状況がつくられた上で、たまたまわが家は大規模リフォームをやるタイミングを迎えた。
よって、「2027年問題」をもろに被ることとなったのである。

「大型家電」の代名詞といえば、冷蔵庫である。
はたしてどれほどの用量が必要なのか?をかんがえるにも、夫婦ふたり暮らしでは、たいして大型は不要だろうという一般論は通じないご時世である。

なぜならば、毎日の買い物で需要を満たす時代はとうに過ぎ去っているからだ。
むしろ、買い置きの方がむかしよりもよほど多いので、かえって大型冷蔵庫の需要はあるのだ。

わが家では、セオリー通り、これまでは三菱電機製を購入してきた。

だが、今回は、リフォームプランのコンセプト「仲間が集まる(いつでも宴会)家づくり」なので、これに準じて5大メーカーの機種を比べることとしたら、「大型の氷」がつくれるシャープ製が俄然前面に飛びだしたのである。

むろん、メイン機一台で用が済むとはかんがえておらず、宴会をやる「囲炉裏テーブルスペース」には、飲み物系やらのための小型冷蔵庫がほしいし、その横には「空いたビンカン棄て」がいる。

さらに、1階には寝室がつくれない構造上の制約から、2階にも小型冷蔵庫を設置したいのである。

こうなると、家電量販店員の情報がパンクして、わが家の要望にみあう提案が途切れるのである。
どうやら一気に3台の別々の用途に見合った提案能力がないことがわかった。

そうなると、個人としてどのように情報収集するのか?となって、あんがいと難易度があがる。
つまり、ネット検索するにも、用途、をハッキリさせないといけないのだが、メーカーの設計コンセプトを検索してもでてこないことがわかった。

これは意外である。

メーカーはどんなコンセプトで製品化しているのか?をなぜにわかりやすく公表しないのか?

まさか設計担当の適当なアイデアが、そのまま漫然と商品化されているのか?

いまや、冷蔵庫沼、にはまっている。

自壊する?東大

国立大学法人東京大学(法人番号:5010005007398)の学長(学校教育法第92条)、通称「総長」(内部規定)があたらしく選出された。
その選出にあたってのやり方が、左翼的国際水準的といえる大変強引でなお、いい訳が一方的で傲慢だったために、批判的な議論をよんでいる。

かんたんにいえば、学内投票(総長選挙)における得票で2位との差が2倍差の勝者が就任するのではなくて、敗者の2位が就任することになったのである。
なので、単純に「選挙とはなにか?」を、東大解釈というあたらしい哲学体系で説明するという、たいへんな学術的アクロバットを国民に開示した、といえるのである。

もっとも「先行事例」としては、今年6月の京都大学では、選挙で3位だった人物が「京都大学総長選挙・監察会議」によって選ばれたので、学内での反発・抗議活動となっている。
京大といえば、哲学分野における世界的「京都学派」を有するために、やっぱり「あたらしい哲学体系」を東大よりも先に打ち立てたことが自慢なのかもしれない。

ようは、「形だけ」という選挙をやったのは、最初から一部で決めていた人事について、なんとなく理由づけ・権威づけをしようとしたのに、あまりにも「大差」がついたために、当初のいい訳が苦しくはなったものの、厚顔無恥でツッコめばなんとかなる、という前例をしっかり構築できたのでこれはこれで「あっぱれ!」ともいえるし、古い『白い巨塔』における教授会をいかに制するか?に暗躍するひとたちの滑稽が懐かしくもある。

まったくもって、20年前に放送された『宮廷女官チャングムの誓い』における仇役、チェ尚宮が「最高尚宮」に不正をもって昇格したのと似ている。
「天に逆らって」という前職からの忠告を嘲るようにして就任し、遂には女官長にまで上り詰めるも、そのあっけない崩壊ぶりはこれまた見事なドラマ展開だったものだ。

この儒教的展開は、韓国ドラマにおける勧善懲悪ではあるが、彼の国の歴史おいて、なぜか反儒教的な指導者があらわれては消えていくことを繰り返していることも興味深い。
すると、わが国の最高難易度の大学における、韓国化、ともいえる今回の現象は、いったいどんな反儒教的な流れとつながっているのか?をかんがえたくなるのである。

そんなときには、歴史、を追うのが正当だろう。

このブログで何度も書いたように、戦前・戦中までの旧制(東京)大学と戦後の新制(東京)大学は、GHQによる「学制」の刷新によって、ぜんぜん別物なのであるけれど、「校名(名称)」を変えないでよいという曖昧さで、おおきな誤解が世間にはびこっているのである。

むろん、教授陣もそのまま継続勤務できたので厄介なのであるが、カリキュラムが全面的に変えられたので、おなじ教授がちがうことを教えるはめになった。
それで、一貫性を保持しようとした誠実な学者の言動が制限されて、場合によっては大学を追放されたために、怖れをなした二流学者は自ら立場をかえる=変節のために努力したのである。

たとえば、横田喜三郎なる人物(法学部教授から最高裁長官となる)の恥ずかしい生涯は、いまも語り草となっているようにである。
かんたんにいえば、GHQに盲目的にしたがうことをして論文までまで書いたのに、勲章を得るとなったら自己焚書したような人物だ。

日本政府は、このょうな下劣な人物に文化勲章やら勲一等まで与えた。

ときに、今回の東大総長選挙結果について、一応、文部科学大臣が文句をたれたというが、とくだん結果に影響していない。
それもそのはずで、自民党文教族の事前了解があったにちがいないからである。

自民党政治とは、中共とおなじ「党支配」だから、党の意向に政府は大臣といえども逆らえないのである。
なお、現在の自民党文部科学部会長は、深澤陽一(静岡第4区)、部会長代理は参議院で朝日健太郎(東京都選挙区)、衆議院で岸信千世(山口第2区)である。

もしや、悪い意味のポピュリズム政党として、世間の批判が高まれば、これらのひとたちが政府側の大臣やら政務官をつかって、なんらかの対応策をやらせて責任論から逃げ切ることもかんがえているだろうから、「総長」になるという女性教授を責めてもしかたがないのだろう。

しかして、この機に思い切り東大を左傾化させたい、という自民党の狙いとは、一貫した「反トランプ」の政策決定に連動しているのだとおもえば、おどろくにあたらない。
なにせ、これまでもしっかり左傾化してきたのは、横田喜三郎やら宮沢俊義やらの遺産だし、そのまた上にはGHQを仕切った民主党政権がある。

わが国政府が「敵認定している」はずのトランプ政権2.0は、ハーバードをはじめとした左傾化著しい有名大学への補助金を大幅カットしているのである。

つまり、あくまでも、「天=トランプ政権2.0に逆らっている」のが、日本政府・自民党なのだ。

むろん、国連総会におけるトランプ大統領と高市首相との真っ向対立は、その後、高市首相が自ら「トランプ氏から電話があった」とした発言に、トランプ氏は「日本の高市に電話した?そんなんしらない」と返してしまったのを、これまた東京のアメリカ大使が蒸し返して、「トランプ大統領から高市首相への電話でも日米関係の親密さがわかる」と変な記事をあげている。

ようは、トランプ氏は高市首相になんか電話していないし、用もない、ということの「いけず」な確認・念押しを、駐日アメリカ大使が真逆の表現で露わにしたのである。

なんでこんな強気なことが、日本側にできるのか?

おそらく、外務省が、11月の中間選挙で共和党が大敗する、とでも吹聴しているのだろう。

ヒラリーが絶対に勝つと安倍晋三首相に進言し、大ハズレした責任を外務省はとっていない。

とうとう、愚かにも京大・東大がいいように使われているのである。

「庶民」が気づきだしている

「しょみん」をどう書くのか?

「庶民」とも「諸民」とも書ける。

漢和辞典で「庶」とは、「煮る」の意味が一番にある。
二番に「もろもろ=諸」がくる。
対して、「市民」というカテゴリーもある。
「フランス革命用語」として、政治的権力を得たひと、という意味である。

関連に、「小市民」があって、「中産階級」を意味する。

わが国の戦後高度経済成長で、この中産階級が国民意識の圧倒的にぶ厚い層を形成したが、失われた30年で、すでに崩壊し貧困化が進んでいるのが現状である。

それゆえにいまは、「諸民」には「貧しい労働者」のニュアンスがあるのだけれども、高齢化してリタイヤした元労働者をなんというのか?は、言葉が間に合っていない。
たとえば、日本3大ドヤ街のひとつといわれた横浜・寿町界隈は、いまや生活保護と介護を中心とした貧困ビジネスの先端地域になっている。

なので、ぜんぶをひっくるめて「庶民」としている。

とある食堂での昼食時、作業服を着た中高年男性3人が、あんがいと優雅な昼休みを楽しんでいた。
食事の後に、しっかりデザートも注文していたのである。

あまりにも席が近いので、会話の一部が耳に入ってきた。

なんでも、昨今の経済問題やらを話していて、マスコミがトランプの悪口しかいわないことに、ハッキリと違和感があるというのである。
YouTubeだとそんなマスコミ批判がわかりやすい、との弁に全員が頷いているのである。

テレビ脳ではない!

これは意外な発見であった。
それで、自分たちの給料が上がらないのも、経営者が余計な投資をさせられているからだと、業界や業界を仕切る団体トップの非合理を嘆いていた。

それで突然、「なにがLGBTだ!」、「地球環境だ!」というのである。

まったくの正論である。

現場技術者として、なにが合理的かを日常的にかんがえている自分たちからしたら、メチャクチャがまかり通っている、と。
だが、彼らはアルコールを飲んではいない。
あくまでも、昼食時間なのである。

このひとたちが、夕方、どこかの居酒屋で飲みはじめるとどうなるのか?
かなり面白い話が聞けそうである。

しかし、こういった話がふつうにあるのは「いいこと」である。

一日は24時間しかないので、YouTubeで1時間視聴したら、地上波を観る時間は1時間減るのである。
わが家は行きすぎていて、とうとう地上波を1時間ばかりか1秒も観ることはなくなった。

それで、たまにテレビがつけっぱなしの居酒屋にいって覗く地上波のお粗末が、お笑い番組にみえてくるのである。
真顔で語る、キッチリと決めたニュースを語るアナウンサーのスーツ姿が、まるでピエロの衣装にみえる。

むかしは、ニュースの局アナといえば原稿を聞きやすく読み上げるひとのことを指したが、いまではコメントを加える。
けれども、まったくの個人の感想なのか?それとも局の方針を語って演技しているのか?がわからない曖昧な存在になった。

もしも後者なら、役者がアナウンサーの役を演じている、といえる。

つまり、ニュースがバラエティになったのである。

それを、現役中高年のおじさんたちが見抜いている、というはなしである。
ようは、気分はまだまだ「小市民」なのだ。
ここが、与党政治家の弱点であって、選挙民の精神状況をしらないから、これを「政治的情弱」といいたいのである。

ドイツやフランスの変化は、遠い国の出来事ではない。

イスラム教と共産主義(教)

神(アッラー)を絶対神とするイスラム教と、宗教を否定する「新興宗教」の共産主義=全体主義は、根本的に相容れない関係にあるのに、昨今のヨーロッパやアメリカへ移民したイスラム教徒たちは、なんだか「極左=共産主義」を支持・信奉しているらしいい。

これは、エセ・イスラム教徒ではないのか?

「大量移民」という結果が重視されているが、そもそもなんで母国を離れるひとがこんなにもいるのか?が、日本人のわたしには不思議でならない。
若い頃に自分がした外国生活を振り返れば、還暦を過ぎたいまさら「移民」しようとはおもわないからである。

これは別に、壮年期でもそうで、仕事を棄てて新境地に行く理由がなかった。

一方で、アフリカや中東、あるいは南米からの大量移民の特徴は、限界的な生活苦があってのこと、としても、そのギャンブル的な移住をはかることに全面的同情をするには単純すぎると感じるのである。

ようは、なんらかの生活保障がなければ、そうは易々と母国から離れられないし、そのほとんどは「片道切符」であろう。
つまり、ここでわたしが日本人として思い出すのは、国が仕掛けた「南米移住」のことであって、事実上の「棄民」をイメージするのである。

すると、現代の欧米を席巻しているこれら移民たちとは、母国による「棄民」ではないのか?という疑問である。
荷物を持たないで着の身着のまま国境を越えることのリスクをどうかんがえているのか?をかんがえなくてよい状況とはなにか?

もっといえば、人口を武器化する、あたらしいテロではないか?

そうやって、欧米側の受け入れ体制をつくった党派と、母国の連携があるとみれば、ようやくその意図がハッキリするのである。
もしや、その根底に、欧米からの搾取をされた母国の歴史への「ルサンチマン(復讐感情)」があるやもしれぬ。

ようは、いかに国境が陸続きであろうと、「出国」できることに先ずは注目すべきであろう。

それでもって、どこまでが事前に訓練をうけているのか?さえもわからないけれど、「出国し定着した先の国」での、大規模なデモや性犯罪を繰り返すことの状況とはなにか?をかんがえたくなる。

つまり、一部であれ、このようなことを効率よく実行する「プロ」が混じっていないか?と疑いたくなるのである。
しかも、当該国の極左政府のもとの検察が、「不起訴」にする共通がある。

ようは、裁判にもさせない「政治」があって、自国民イジメ、をしているのが、じつは人類史上的に「異常」な共通となっている。

これを、イスラム教徒は異常とみないのか?

いやはや、「ジハード(聖戦)」の一環なのだ、というのだろうか?
すると、かつて、イベリア半島で「アル・アンダルス=アンダルシア」と呼ばれたイスラム圏地方への、「レコンキスタ(国土回復運動)」がおきたことの繰りかえしとなるのか?

いや、もう、はじまっている、のである。

CNN買収と資本の論理

トランプ大統領がしきりに「フェイクニュース」と呼ぶマスコミの代表で、ワーナー・ブラザーズ傘下の「CNN」が、親会社のワーナー・ブラザーズごとパラマウントに吸収合併されることがほぼきまった。

「ほぼ」というのは、巨大合併案件のために関連する「州法」における「独占禁止法」への法的対応の道筋がみえてきた、という意味である。
つまり、事業に関連する各州司法長官からの訴訟は避けられる、と同意である。

本件について、「THE CORE」と「長谷川幸洋のNEWSチャンネル」が詳細な解説動画をあげている。

ようは、反トランプ=グローバル全体主義のCNNが、これを資本の論理でひっくり返させることが確実になってきたから、現CNNのスタッフたちは解雇の恐怖に震える「事件」となっているのである。

すでに、「パラマウント」を所有しているのは親トランプで有名な大富豪ラリー・エリソン(オラクル創業者)氏で、その息子のデービッド・エリソン氏はすでに「CBS」を所有して、親トランプの「編集長」を配置している。

広大なアメリカには「全米ネット」は、5社しかない。
・NBC
・CBS
・abc
・CNN
・FOX

このうち、2社が陥落した、ということである。

本件のそもそもの買収金額は、17兆円、であって、それからニュースメディアのパラマウント・グローバルの買収に1兆1800億円をかけている。
ようは、20兆円ほどが「動いた」のである。

それで、デービッド・エリソン氏は、大口投資家の資本参加を募集していて、そこに登場したのが、イーロン・マスク氏なのである。

「Twitter」買収の経験則から、CNN従業員の恐怖は理解できるが、視聴者の立場からすれば「歓迎一色」なのが彼らには厳しい結末である。

グローバル全体主義の末路がここにある。

なんにせよ、資本の論理でオーナーチェンジがおきるアメリカは、良くも悪くも、分かりやすい単純構造を維持している。

この件で、「THE CORE」のコメント欄についている大多数の意見は、「日本でも!」という要望ばかりなのである。
しかしながら、わが国のマスコミ企業の構造は、田中角栄がつくった「新聞社によるTV局子会社化」であったために、アメリカのような自由買収ができない。

わが国は、国家がマスコミの独占を許しているからである。

この田中角栄による計算された「仕掛け」が、本気で自民党を批判する力学を排除して、長期政権のためのプロパガンダ機関としたのだから、まったくもって、庶民宰相の庶民の扱いにおける天才的かつ悪魔的な発想が、いまも有効に機能しているのである。

だから、「日本でも!」という投稿をした庶民には気の毒だが、わが国における改善ポイントは「そこではない」ことに気づかないといけない。

それがまた、経営難を指摘されて久しい「フジテレビ」がかんたんに倒産しない理由でもある。

ときに、国連総会出席のためにニューヨークに到着した高市首相が、搭乗機から降りたタラップの上で手を振る映像は、「ふつう」に報じられたが、なんと彼女の後から撮影した一枚の写真が物議をかもしている。

タラップの周辺に、まったく人影がいないのである。

つまり、アメリカ側は日本の首相を公式に迎えに誰も行かなかった!ということなのである。
そして、高市首相は、誰もいない周辺に手を振ってみせたのだが、これも「広報」としての演出にすぎないことがわかる。

しかして、この衝撃的な写真の出所が「政府広報」だから、物議をかもしているのである。

広報担当官は、間違って流出した、とでも言い訳しているのだろうか?
それとも、内閣官房をあげて、高市降ろしがはじまった、ということなのか?

残念ながら、ここに「資本の論理」はみえてこないのであった。

共同募金会の不祥事と汚職大国ウクライナ

16日、「北海道共同募金会(赤い羽根)」での使途不明金の総額が、約2億5千万円にのぼることが明らかになった。

本ブログで赤い羽根についてはずいぶん前に書いた。

どうやら50代の事務局長が着服したようであるが、金銭を扱う「事務局」は、この人物がひとりだったためにわからなかった、というお粗末ぶりなのである。

これを、組織、というのか?

当該募金会では、来年1月末に「第三者委員会」の調査報告を行うらしいが、これら委員会の費用は誰が負担するのか?の報道はない。
組織役員がいったん個人負担するのが「筋」というものだが、そんな「筋論」が通用しないのが、腐敗したわが国の社会常識になっている。

江戸時代なら、割腹ものであるし、上司はそれこそ閉門蟄居以上の処分が当然であったろう。

この組織の構造的問題は、はたして「北海道」だけのことなのか?
なにせ、「共同募金会」とは、都道府県別の全国組織なのだ。
おそらく、全国でおなじ組織構造になっているのは、やっているのが(元)官僚だからである。

むろん、昭和22年にできた組織であるので、ときの政権はGHQの管理下にある。
それで、「社会福祉法」による「会」なのだ。
よって、厚生労働大臣のもとにある。

まことに、厚生省と労働省を合併させたのはいかがなものだったのか?
たんなる、管理不能の大組織としただけではないか?
もしや、「管理不能」が目的だったのではないか?と疑うのである。

つまり、「汚職」の構造化である。

ここでいう汚職とは、税金以外に集めた「寄付金」を横流しすることをさすが、実質政府が強制的に各家庭から「町会費」あるいは「自治会費」として徴収している会計からの「寄付」が基盤なのである。

駅頭などで生徒・学生をつかった募金は、これら強制の基盤のうえにある、二重取り、なのである。
むろん、町内会や自治会に加盟しないひともいるが、そうしたひとたちが駅頭で募金に応じるのか?ということもある。

しかも、これらの「会」の維持費もまかなうから、ソックリ丸得のような構造になっている。

募金の話題といえば、」「24時間テレビ」が続いているようだが、わが家ではテレビは観ないので一度も観た経験がない。
以前に、テレビ局のスタッフが寄付金の一部を着服していたことがバレたし、今年の放送にはそれを非難する人物がプラカードをもって登場し、大騒ぎになったと聞く。

臭いものに蓋をする現場の対応がそのまま放送されて、炎上したのである。

これのまったく巨大な相似形が、ウクライナ支援、という名の寄附金募集であった。
しかし、その使途が不明のまま放置されていて、こちらは一切報道もされない。

いわゆる、巨悪、に手をつけない、という、安全策、がとられている。
すると、本件の北海道の場合は、そんな巨悪にあたらないために報道されている、ともいえるから、ずいぶんと道民はバカにされたものである。

なんにせよ、ロシアが勝利の終戦が近づいている。

アメリカ民主党の悪辣さから、ウクライナ高官たちの私利私欲の実態が、ロシアとトランプ政権2.0の共同作業によって世にでたときに、EUやら英国やらわが国は耐えられるのか?が、次のステージの曝露大会なのである。

ミレイ大統領の格調高い国連演説

23日、アルゼンチンのハビエル・ミレイ大統領が国連総会の一般討論演説をしたが、その格調高き内容についての解説を「カナダ人ニュース」さんがあげている。
この演説全体の日本語字幕つきは、「自由主義研究チャンネル」さんがお薦めだ。

注目すべきは、自由経済思想を主導したミーゼスをあげていることである。

むろん、ミレイ氏もまた自由主義(「オーストリア学派」または「ウィーン学派」ともいう)の経済学者であったから、ミレイ氏がミーゼスに言及するのは当然といえば当然である。

しかし、この学派は自由主義のために学者同士がバラバラで、「派」を形成しているといえるのか?という問題まである本気度なのである。
よって、アメリカ経済の研究を主にする、「主流派」とは、あんがいと水と油であって、経済学会からは異端視されているらしい。

それはまた、アメリカの名門大学がほとんど「左派=社会主義」に傾倒してしまったからでもある。
属国としての悲哀から、わが国ではなんでもアメリカのコピーが主流派を形成するから、きっちりとアメリカ以上に異端として扱うことで、本国の主流派に媚びを売るのである。

まったく、日米首脳会談で高市首相がトランプ大統領を見据えて媚びを売ったのとおなじだし、あろうことか、ゲイを表明しているベッセント財務長官にも、会談は開始と同時に頬杖をついたので、そのトンチンカンぶりが海外メディアでも取り上げられた「恥」があるごとくである。

トランプ大統領が、あからさまに「嫌な顔」をして、目線をずらした動画がこれ見よがしに再生数を稼いでいる。
そういえば、トランプ大統領は、ゼレンスキー氏との会見で握手をした後に、「逆Vサイン」で手を引いた動画も、欧米における最大の軽蔑の合図として話題になっている。

国連演説で国連を批判するのは、トランプ大統領の得意芸であったが、そのトランプ大統領に激アツの尊敬のまなざしで逆引きされたのがミレイ氏であった。
だから、ミレイ氏の国連批判は、トランプ氏のそれよりも激烈なのはわかるが、そこにミーゼスの哲学をかましたからグッと格調が高まった。

ただの悪口ではないからだ。

そして、アルゼンチンは口先だけでなく、「ジェノサイド」の疑いのあるWHOからも、しっかり脱退してみせたのである。

有言実行。

これから先、国連が解体される場合に、アルゼンチンはその先兵となるであろう。

しかし、ミーゼスとは何者か?も一般にしられていなだろうわが国では、「自由主義」そのものが誤解の対象なのであるし、その誤解をよしとして、勝手な解釈をもって国民を支配しようと画策するのが政府自民党・維新政権である。

念のため「東大 ミーゼス」でA.I.検索すれば、経済学部や大学院の経済学研究科(経済史・経済思想史)で扱われている、という。
つまり、エリート官僚の登竜門たる「法学部」ではないことが、この大学の官僚養成校としての仕組まれた低能なヤバさなのである。

よって、このミレイ演説がわが国で話題にならないだろうという「カナダ人ニュース」さんの予想は的確である。

しかしてこのことは、「哲学」を軽視することの結果でもある。
人間の行動は、思想によって左右されるが、その思想は言語=母語の影響から逃れることはできない。

日常でいかなる言語生活をしているのか?を問えば、これまた薄ら寒い状況なのである。