「校名」が「学歴」になるニッポン

世界の「外れ値」にある、「特殊」な国がニッポンであるといわれてひさしい。

困ったことに、これを自慢することもあるし、謙遜をはるかに超えて自虐することもある。
その中で、将来いっそうの「困った」になりそうなのが、「学歴表示」の外れ値なのである。

結論から先にいえば、「学位」と「分野」のセットで語る世界標準に合致しないことである。

世界は、「学部卒」か「院卒」かだけでなく、「院卒」のなかの「修士」か「博士」かに重点がおかれているので、改めて書き出せば、「学部卒:学士」、「修士」、「博士」のどれか?がまずはひとつの「学歴」となる。

もうひとつは、「学問分野」のことである。

「文系」、「理系」といったものではなく、具体的なのが重要で、たとえば「経済学」とか、「物理学」といったはなしになるのが、世界標準なのである。

では、「校名」はどうかといえば、上のふたつに比べるとずいぶんと軽く観られる傾向があって、少なくとも「世界的有名校」を除けば、ふつうは無視される。
なぜなら、「学位」を認定されることに、一定の基準があると信じないと国別の比較すら無意味になるからだ。

ずいぶん前にポーランドの事例を書いたが、旧社会主義国だったポーランドには、国立大学「しか」ない。
それで、「大学入学試験」を突破した学生は、国内のどの大学にも入学でき、卒業したら全員が、卒業資格としての「学位」を得るために、一切「校名」は無視される文化である。

なお、学生に課す学費は全額無料なので、期末試験において一科目・一単位でも落とすと、自動的に「放校=退学」処分となる。
ために、ポーランドでは、4年制の大学に5年生は存在しない。

ちなみに、ワルシャワ大学日本語学科の人気は高く競争倍率は国内トップだが、卒業できるのは入学者の2割しかないという。
ただし、ワルシャワ大学以外の国内の他の大学の日本語学科も同様なので、とくにワルシャワ大学が厳しい、ということではないのである。

こうした厳しさがあって、社会的に「学士」だけでも十分に高学歴であると認定されるのであるから、「修士」、「博士」ともなれば、大変高い学歴だと評価される。
もちろん、国内だけのことではなく、学位の基準が国際的にも合致しているので、当然に国際間における評価も同レベルとなる。

ところが、わが国における外れ値とは、「校名依存」なのである。

ゆえに、「学卒」レベルでも、校名を聞いただけで「水戸黄門の印籠」のような社会的評価となり、他校でたとえば「博士」を取得しても、それがたとえば、学部での入学偏差値が低い大学名となれば、難関校の「学士」より軽く観られるという、まったく意味不明のことが起きるのである。

それで、受験勉強に精魂尽きた若者が、難関校に合格突破することで人生の目標を失っても、なんとかなる社会となっているのである。

むろん、校名依存だから、どんな学問分野での専門知識修得・卒業であるかはほとんど問われないし、「学士」だけでも十分高学歴とみなされるのである。

それで、すでにわが国はOECD諸国においても「低学歴国」となっている。

このことは、外資系の進出と、外国資本によるわが国上場企業株式の取得という二面から、日本人が管理職に昇格できないことが将来予測になっているのである。
それは、あんがいと「文系」に顕著である。

「修士」や「博士」をもつ者との競争にかなわないからである。

日本政府は、そんな「高度人材」ならどんどん移民してほしいと公言しているが、「校名依存」の政治家や官僚が、未来永劫、母校の校名だけで自慢をしていればいい、ということにはならない。

しかも、国立大学を、独立行政法人にしたことで、校名による可処分予算の格差を広げる政策を採用している。

むかし、全国の国立大学の校名を「東京大学」だけにしたらどうか?という議論があった。
東京大学北海道校とか、東京大学大阪校とかとすれば、ポーランドに似たことにはなる。

なんにせよ、何を学んで、そのレベルが「学部卒=学士」なのか、「博士」なのか?といったグローバルスタンダードになってないのに、この点をいわないグローバル全体主義者たちの狙いは、やっぱり日本衰退をもって全体主義国家にしたいからではないか?と疑うのである。

A.I.が不当にもてはやされているいまの時代こそ、日本伝統の「漢籍=古典哲学」を学ぶことの優位は当然として、たとえ欧米かぶれからでも「文学部=人文科学」の重要性が高まっているのに、相変わらず「文系実学=法学や経済学など」を優先するのは、進んでA.I.との競争に負けよ!という悪魔的な仕掛けであると気づくべきである。

また、勉学には向かないけれど、手先の訓練でしっかりと稼げる業種は山のようにあるし、それを特別に体験しにやってくるインバウンドの観光客も多数なのである。

いまや料理人の世界では、数倍稼げる海外勤務にシフトして、かえって年収=待遇での不利になる国内勤務が嫌われている。

みなと一緒のマス的な安心ではなくて、なにを見るのか?がそれぞれに問われている。

従業員に見切られる企業

新年度=新入生=新入社員、というエスカレーター式の「伝統」がいつまで続くのかしらないが、さいきんでは「退職代行」なる商売が、増えた弁護士のための収入源のひとつになっているようである。

自分で選んだ企業に、退職を告げるのさえ専門家に依頼する心理は、現代的コンビニのお気軽さもあるけれど、それよりも「接触したくない」ことの拒否感の方がうえにあるのだろう。

すると、退職代行なる商売のポイントは、そういった個人(雇人)と企業組織とのコミュニケーション(=信頼関係)崩壊におおきな原因があるとかんがえられる。

日本人が本を読まなくなって久しいが、これはあんがいと現代の中高年世代にまで拡大しているので、還暦を過ぎたいい歳の経営者層すらまともな読書経験がないことがある。

コンサルの実務では、問題ある企業によくある光景なのである。

むろん、書籍を読むことだけが重要である、ということではないが、読書は人物の基盤作りに役立つので、講演などに参加・視聴するのに熱心でも、深い理解のための前提として読書経験が豊富なひとと、そうでないひとには理解度で決定的なちがいを生じるのはいうまでもない。

経営学の祖のひとり、バーナードの歴史的著作が『経営者の役割』である。

原著は、1938年(日本で「国家総動員法」ができた昭和13年)の「古書」ではあるが、当時、アメリカで「バーナード革命」と称されるほどの「逆転発想」で有名となった。

じつは、日本的発想でいえば、どこが「革命」なのか?わからないほどに、旧来の日本人には「常識」ともとれる内容なのではあるけれど、アメリカナイズ(「アメリカン・コーヒー」のような「薄く浅はか」という意味)された戦後日本の価値観にあっては、もはや半世紀以上前から「革命的」になった、ともいえる退化がある。

旧来の「日本的経営」が完敗し廃れたのは、バブル崩壊とその後の復興策のアメリカ化があった。
これを一般的に、小泉純一郎の「小泉改革」とか、「小泉=竹中(平蔵)改革」といい、ようやくいまになって一部が「売国改革」だと気がつきだしている。

わが国で「人口問題」が顕在化したのは、バブル以前の80年代初期のころで、「40年後に超高齢社会が到来する」ことが大ニュースになったのである。

そして、この危機感が、「土光臨調(第二次臨時行政調査会)」発足の理由となっていた。

仕切ったのは、中曽根康弘行政管理庁長官(当時)で、その後に中曽根内閣となったから、若くして総理大臣になりたいと公言していたこの人物の大出世に、土光敏男氏が利用されたともいえるものだが、明治の漢、土光氏の方からしたら、そんな一政治家のことは些末に過ぎず、日本再建に真剣だったにちがいない。

だが、その土光氏が再建した、東芝も「のれん」だけが残る無惨になったし、第4代会長として、いまの経団連の傍若無人を許すはずがない。

それもこれも、土光氏の経営ぶりは、バーナード的であったからである。

土光氏が指揮した当時の東芝は、管理職が「土光師」と仰ぎ見る尊敬を集めたが、その後に企業解体の憂き目をみるタネともなったのは、土光氏「だけ」をまつりあげればそれでよしのようなこととなってしまったことにあるのではないか?

いまの「ホンダ」にみられる状況と似ているし、「ソニー」もその罠にかかって久しい。

さてそれで、少子、の時代である。

バーナードは、「企業が従業員を選ぶ、のではなくて、就職希望者が企業を選ぶ」と書いた。
だから、企業は、就職希望者から毎年選ばれ続けないと、人材枯渇して最終的に事業継続ができなくなる、とあたかも「針小棒大」なことをほとんど100年前のアメリカにおいて真顔で主張したのである。

しかし、この当時のアメリカはすでに、「少子」の時代だったのである。

それで、バイデン時代の「移民受入策」となったから、日本でも自公政権がこれを真似たのだし、高市内閣も止められない。

バーナードを経団連の幹部たちがしらないか興味もないからだと推察する。

なんにせよ、人間を機械同様に扱い、A.I.やヒト型ロボットとの「利用・共存」をいうことのバカバカしさに気づかない愚か者たちが企業のトップに君臨し、自分たちは「別格」=「安全地帯」にいるという、あたらしい身分制を性根にもっているから、これを「格差社会」というのである。

それで、人間だけが価値を創造する、という大原理を無視しているのは、自分たちの時代だけ良い生活ができればよい、という、信じがたい無責任がはびこっている。
彼らは、自分の子孫の人生すらどうでもいいので、ましてや他人をや、なる、いまだけカネだけ自分だけの「唯物論」信者なのである。

したがって、従業員をモノ扱いとするのであるが、その従業員が逃げ出す状況(むかしなら「逃散」)の恐ろしさを想像もできない。
幕藩体制において、生産者たる農民が逃散したらどうなるのか?の恐怖を、大名も家臣団もしっていた。

ようは、江戸時代よりも退化した呆けた指導者たちが仕切っている現実がある。

「人手不足」は、雇用統計でみれば「ウソ」である。

そんな唯物論企業に、だれが好んで働くものかと、みえない逃散で「人手不足」になっているのである。
これがまた、「外国人研修生」の逃散になっているのは、「研修生」とは名ばかりで「奴隷輸入」をしているからである。

そんなわけで、企業が生き残るのは国家がつくる制度や国家財政への依存ではなく、バーナード理論の一読で理解できる、「新規だけでなく既存の働き手から選ばれ続けるにはどうするか?」だけの単純命題なのである。

なんのことはない、「いい会社」を構築・維持することしかないのである。

世界にしれた「君が代」の衝撃

スポーツ観戦にぜんぜん興味を失ったので、オリンピックを観戦することもなくなっている。

いまでも覚えているのは、札幌大会(1972年)での、ジャネット・リンの尻もちと、スキージャンプの「金・銀・銅独占」の驚きで、その後のことはあまり覚えていない。

だから、前回の東京大会は、おそらく全部で5秒ぐらいしか観ていないし、この冬のミラノ・コルティナ五輪にいたっては、まったく観た記憶がないのである。
わが家に地上波テレビはないので、ニュースも観ないからである。

それで、「りくりゅう」がフィギュアスケートで金メダルをとったと聴いても、中国選手のことだとおもっていた。

しかし、このところYouTubeで何本もの「君が代」についての動画があがっている。

はじめて、オリンピックの表彰台で流される「君が代」に、イタリア語と英語の訳がついて会場に表示された。
これを観ていた会場のひとびとが、なにを歌っているのかわからない歌の意味をはじめてしって感涙にむせび、それがまたSNSで世界に拡散したのである。

じつは、いちばん驚いたのは、これを放送していたNHKではなかったのか?

もっとも都合が悪いのは、その「正しい訳」にある。

「君」を「君主=天皇」として解釈する、共産主義者の捏造が一般化されたので、これまた共産主義用語の「天皇制」と結合して、「天皇制が永遠に続きますように」との政治解釈が、おおくの日本人の脳に刻まれれて、「天皇のための戦争反対!」スローガンの戦後的かつ正義感ある価値観となっていたからである。

よって、教師の絶対を信じる「良い子」こそ、これに染まり、活動家へと成長していく「再生産」が、80年も続いてきて、ほぼほぼエリート層の「常識」になってきていた。

しかし、男性をさす「き」と女性をさす「み」が、一字で書ける「君(訓読み:きみ)」としたのが正解である。
わが国を創生した男女神「イザナキ」と「イザナミ」しかり、「翁(おきな)」と「嫗(おみな)」の、「き」と「み」のことである。

つまり、「き・み」とは、男女双方からそれぞれに「あなた」という呼び方なのである。

これに、「ドラクエ」の音楽で世界的に有名な作曲家「すぎやまこういち」氏が、アメリカのテレビにて「君が代」についての解説をした動画も加わっている。
すぎやま氏は、「レ」からはじまって「レ」で終わり、永遠にループする曲が、「9度」の音階内で演奏できる(誰にでも歌える)ようになっている音楽的完璧さを解説しているのである。

この「レ」からとは、「雅楽」からのものなのだ。

西洋の国歌は、「ドレミ」の和音をもってはじまり、それで完結するし、「度数も13」とかと、なかなか素人には歌えない曲がおおいから、プロの歌手が歌って聴衆は聴くものとなっている。

対して「君が代」は、和音を拒否してメロディーしかないから、全員で歌えるし多少ブレても「雅楽」としての余韻となるようになっている。

ちなみに、あの『ABBA』がくりだした数々の大ヒット曲は、いまでも伝説的な存在であり、「カラオケ」でも歌えるようになっているものの、ほとんどリクエストがないのは、なんと13度どころか「3オクターブ」の音域発声を要求されるために、「ふつうのひとには歌えない」からなのである。

さては外国人に「君が代の真の姿」がバレたのである。

かくほどまでに、政治的に左翼にとって都合の悪い話はない。

これまでのプロパガンダが、雲散霧消する可能性が発生したからである。

さあ、どうする文科省、という話になるのは当然だろうが、およそ自民・維新政権はほっかむりをしているし、その他の野党も知らぬ存ぜぬを通して大票田の「日教組」に忖度しているのである。

イタリア大会を仕切った、実行委員会にいまさら文句もいえぬので、なかったことにしているにちがいないけれど、インバウンドで大挙してやってくる外国人がしっていることにどうするのか?となっている。

ファーストレディーの声明

9日、メラニア・トランプ夫人がホワイトハウスから突如の声明をだしたので話題になっている。

ジェフリー・エプスタインとの関係を完全否定する内容だったので、「何事か?」になったのである。
詳しくは、「THE CORE」の動画にある。

さて、本ブログでは、トランプ政権2.0による「世界的な地ならし」説を採っている。

その一環に、「エプスタイン文書」も内包されているとみる。

しかも、トランプ氏の「いけず」は、言葉による態度を豹変させながら、「まとも」に聴くものを翻弄し、場合によっては自らをも「囮」として、あたかもエプスタインの邪悪に与したごとくの評価をされても、それが政敵・民主党の議員たちを騙くらかすなら率先して実行するものだから、あれよあれよとその術中にはまるように仕込んでいるのである。

こうしたことの「筋書き」をだれがいつどこで発案しているのか?は、まったく明らかにされていないが、トランプ派という集団内で組織化されているとしかかんがえられない。
別にいえば、しっかり統制されている、のでなければ達成不能な「おおいなる茶番」であるからだ。

なんであれ経営には、「目的設定」が第一で、そこから「目標」がうまれる。

これらを、セットでコントロールするのが「経営者」であるのは、バーナードが記した古典、『経営者の役割』にある基本中の基本である。

しかし、世界の経営者たちが、資本の解放(株式の国際投資)によって、国際金融資本の奴隷にされてしまったので、もはやかつての「経営者の役割」が不明の時代になったのである。
そうやって、世界の有名企業はみな「国際金融資本」の支配下に堕ちたので、経営者も文字どおりの「サラリーマン化」して、その現状の身分を保守することに汲々としている。

これを、「株主資本主義」という。

むろん、「資本主義」と「株主資本主義」とでは、比較のしようがないほどの別物ではあるが、マルクスかぶれの方面からの「資本主義批判」が170年も続いてきたから、いまや区別もつかない体たらくになって、資本主義の発展形が株主資本主義だと信じられている。

この「信仰」が、キリスト教社会での「信仰」を塗り替えてしまったので、ヨーロッパ文明の基礎にあったすべての文化が失われて、それをまたイスラム教徒の移民受け入れ政策で、見事にリセット=歴史伝統文化の壊滅的破壊を行っても、心に痛みすらなくなったのである。

そして、あろうことかこんな状態を、ローマ教皇が支持する倒錯となったために、トランプ大統領が教皇を名指しで批判する挙に出たのであるが、それを、悪いのはトランプだ、という風潮をつくっているのが、マスコミだし、おそらくバチカンもスポンサーになっているのであろう。

『教皇選挙』が、妙にリアルな問題作であるのも、事実は小説よりも奇なり、ゆえのことであるからだ。

先代教皇の小児への関心は有名だったし、そもそも「教会」が関与した人身売買の黒歴史は、わが国の秀吉による「バテレン追放令」にもなったほどの、宣教師ビジネスの柱だった。
戦国大名たちは、わが国に産出しない火薬の原料、「硝石」を欲したために、若い領民の「輸出」をもって支払っていたのである。

これぞ、500年続く「グローバル全体主義」の実態例である。

それゆえに、エプスタインがやった犯罪は、ヨーロッパ白人文化からしたら、かなり伝統的かつ根深いものであるが、そこにある「煩悩」的な「欲」についての耐性が、仏教の影響がないだけに、さらにいえば「現世利益」の追及で、社会的な上位にある人物たちがことごとく落とされるはめになったのだろう。

はたして、11月中間選挙のスケジュール管理上、6月にはひとつの結論がわかるように仕向けないといけないのだが、どんな手順で成し遂げるのか?のステップとして、メラニア声明がなされたことだとおもわれる。

ウクライナも、イラン(中東)も、中南米(キューバ)も、そして、東(南)アジアも、ぜんぶひっくるめて、一連の「いけずな茶番劇」の終局になるのだと楽しみにしてみている今日この頃なのである。

英国の「新・国立銀行」でさらに衰退加速?

ほとんど共産主義政権のスターマー・労働党政権は、3月末に、「National Housing Bank(A Homes Enguland Company):国立住宅銀行」の設立「構想」を発表していた。

ようは、深刻な住宅不足に中央政府が直接関与する、という共産主義政策のことである。

これは、わが国における高度成長時代の「巨大団地開発」となり、国(日本住宅公団⇒UR都市機構)と地方では「公営住宅」と「住宅供給公社」がやった、「ソ連化」と似ている。
その地に縁もゆかりもない(国内)移民が、地方独自文化を破壊したが、成長のエンジンと規定した労働力を確保するには「効率的」だったのである。

しかしながら、もはやいまの英国には、政府にも、地方政府にも「財政難」という問題が横たわっていて、おいそれと「財政出動」ができない。
かの、トラス保守党政権が超短期で崩壊したのも、「減税」による財政難の深刻化予測から、ポンド危機となって国債金利が暴騰(国債価格の暴落)したことが理由であった。

そのトラス女史は、「あのとき」の追憶で、中央銀行たるイングランド銀行をはじめとする国際金融資本による「仕組まれた脅し」に屈せざるをえなかった、とハッキリ回想している。

英国のイングランド銀行は、あのロスチャイルド家が所有する「私企業」なのである。

逆にいえば、保守党はイングランド銀行と水面下での折り合いをつけずに、トラス新首相を選出した、ということでの政権崩壊劇だともいえるのである。
以来、保守党から労働党への政権交代となったが、どちらもイングランド銀行に逆らうことができないでいるし、国民は選択肢を失って新党「リフォームUK」に向かっている。

ここで重要なのは、ロスチャイルドやらの超大富豪にとって、政治思想による支持判断など無用であることだ。
かれらは、際限のない「自家が肥える富の追求」しか判断基準がない。

よって、ときに保守党支持、ときに労働党支持に回るのは、政治的な嗜好からのことではなく、たんに、「儲かるか儲からないか」だけなのである。

すると、もしもリフォームUKが政権をとったら、どうなるのか?であるけれど、アメリカと再接近し、トランプ派が進めている「国際金融資本潰し」の現場に飛びこむのだろう。

それで、この国立銀行構想は、設立資金を民間から公募する、という仕組みであって、それを「政府が保証・担保する」ことで直接政府支出はしないで済む建て付けになっていることがミソなのである。

むろん、もしも「焦げ付いたとき」には、政府は財政支援せざるを得ないから、キャッシュの先送りをしただけのはなしである。
それでも、イングランド銀行が支配する英国で「国立=政府」の銀行という、画期、であるから、スターマー政権の瓢箪から駒が出る「遺産」になる可能性はある。

肝心の住宅はどこに建設するのか?については、大都市郊外に「ニュータウン」をつくる構想であるという。

ようは、21世紀の『駅前団地』をつくる計画なのである。

しかも、入居対象者は、現在のホームレス、それと(不法をふくめた)主にムスリム系外国移民たち=貧困層、であるから、できあがった「ニュータウン」の治安は、はなから怪しい「構想」になっている。

なにせ、日本人とちがって、「肉食の思想」どおしの対立が、彼の国における「移民問題」だからだ。

そんなわけで、昨今のロンドンでは、日本人男性の若者観光客が「大もて」していて、『私をスキーに連れてって』どころではない、「私を(嫁として)日本に連れてって」になっているらしい。

日本経済の落ちぶれも相当だが、もっと酷い英国人からしたら、「肉食ではない」日本人の特性を本能的に見分けているのかもしれない。

それが、英国でもっとも人気がある「非欧州言語」として、日本語が選ばれていることにもなっている。

だが、支持率が絶望的な低水準に堕ちたスターマー政権による、「やりにげ」に、英国人は喜んではいないだろう。

それなのに、「日英同盟」の幻想が残るいまの日本政府(自・維政権)の浅はかさは、点数が取れた学校教育の「歴史」で満足し、その後の人生で深く歴史理解をする努力を拒否してなんの反省もないために、「おなじ島国」というだけの理由で、なぜか英国を手本に真似ることを明治維新からずっとやってきている。

なので、わが国の未来=将来像はこの残念至極な英国にあるのである。

脳がスポーツ観戦をシラケさせる

1998年、わたしは職場の一部のファンたちと一緒に、地元「横浜ベイスターズ」38年ぶりの優勝(前回は生まれていない)に酔っていた。

この年は6月段階で「首位」にたち、「まさか?」となったのは、前年の「2位」が記憶にあたらしいからで、「弱小」に慣れすぎていたことの反動で夏には大きな期待に変わっていたのである。

地元に異変もいろいろあったが、「横浜そごう」の玄関前に、「大魔神社」ができて参拝したし、島根県の酒蔵が発売した特別純米酒、「横浜の大魔神」を入手するためにえらく苦労したものである。

日本シリーズでは、横浜スタジアム三塁側内野席しか入手できなかったが、西武ファンを圧倒する横浜ファンの数にも興奮・感動したものである。

これぞ、地元!の理想的光景なのであった。

しかしながら、その貴重な日本シリーズのチケットを入手できたのは、当時の「株式会社横浜スタジアム」の大株主(約45%)だった西武(国土開発)の会社人脈を通したものだったのである。

この意味で、西武は企業グループとして、どっちが勝っても儲かる体制であった。

それもこれも、1978年のスタジアム建設計画において、横浜市と市民から募集した資金だけでは足りずに、西武が出資した経緯からのはなしである。
さらに、「2位」となった1997年から、ベイスターズは日本のプロ野球チームとして初の、アメリカ大リーグで普及した「試合時の選手評価制度」を導入していたのである。

つまり、「管理野球」の定義を変えるほどの異次元をベイスターズはやっていた。

これらのことを、熱狂の中でしったら、なぜか翌年のシーズンから、「応援」にサッパリ興味を失ったのである。
それよりも、ずっと興味がわいたのは、「評価制度」の内容と運用方法であった。

そして、わたしのなかで「決別」となったのは、2002年にマルハニチロがオーナーから降りたことを契機とする。
わたしは、川崎球場以来の「大洋ホエールズ」ファンであったのだ。
そこには、『巨人の星』のなかにあって地味そのものの、「左門豊作」のイメージが重なる。

だいたい川崎球場にナイター観戦に行けば、ほぼ確実に「ケンカ」している酔っ払いのおとなを観ることができたのである。
そして、子供には「缶詰」のプレゼントがあって、これが妙にうれしかった。

あの川崎の喧騒が、いまでは懐かしい。

最新の脳科学や心理学の研究によれば、スポーツ観戦に熱狂するおおくのタイプと、そうでもないタイプに分類できるが、そのちがいは、熱狂するタイプが集団で呼吸まで「同期」するほどに外部刺激に対する同調があるのに対して、そうでもないタイプは、個人の「内側の内面」に意識が向くことでの「シラケ」であることがわかってきたという。

どうやら、わたしは、外部刺激の熱狂から内面へとタイプが移行したようである。

この内面タイプは、おおむね「構造主義的」な発想を好むのも特徴である。

現象のどんな仕組み、あるいは、人物が対象ならどんな精神状態なのか?に意識が向いて、これを解明しようとすることに「脳内快感」を得るという。

なるほど、おもいあたるふしがある。

別にいえば、面倒くさいやつ、であるけれど、そう他人にいわれても、ぜんぜん気にしない、という特徴もピッタリなのである。

むしろ、なにかと他人と同期したがる側に、ひそかな軽蔑感をもっている。

自分(のかんがえ)はないのか?という疑問からのものであるが、それはそれで「構造主義的」な発想であるので、外部刺激に同調する人物にこの質問をすると気まずくなるのでしないようにしている。

ただ、気になるのは、外部刺激に同調するタイプはスポーツ観戦だけでなく、おおむね、地上波テレビをいまでも熱心に視聴していることに気づいたのである。
むろん、自分がない、あるいは自己の領域が少ないので、批判的に観ることができず、あっさりと洗脳させられるのだが、これを拒否したい欲求もないのが特徴なのである。

つまり、何度でも騙されてその都度痛いおもいをさせられても、すぐに忘却しこれを繰り返している。

そこに、「大衆」がある、と認識するようになった。

「大衆」とは、ぜったいに反省しないのもをさすからである。

ざっと1200年前、空海が孤独を楽しんだのは、おそらく、「大衆」からの隔絶・逃避があったのではないか?

それで空海は、付き合いの浅い古い友人との絶縁を推奨している。

このことの哲学的意味は深いから、どんな真意なのか?にまた興味がわくのである。

しかし、現代の「大衆」とは、ヨーロッパでは工業社会が作り出した「労働者層」という身分をさすし、わが国ではこれと似ているが異なものとしての「中流(家庭)」がついこの前まで、「一億中流の主流」として存在していた。

すると、スポーツ観戦に熱をあげることとは、「中流である(あり続けたい)ことの集団的自己主張」をせざるを得ない(格差)社会への「反逆」ではないのか?ともとれるので、なかなかに切実かつ悲愴感があるのだ。

それはともかく、なるほど空海がスポーツ観戦に熱狂するイメージは、やっぱりわかないのである。

「翼賛政治」がはじまった

1940年(明治73年)にできた、公事結社が大政翼賛会(政党廃止)、であった。

ことし、2026年は、「昭和100年(満)」であるけれど、敗戦から80年、大政翼賛会ができて75年と、過去の経緯と似ている時の経過のなかで「(社会保障)国民会議」なる政府に賛同する野党も加わった翼賛政治がはじまったのである。

逆にいえば、政府に賛同しない野党(中道改革連合、国民民主党、参政党、日本共産党、れいわ新選組)は排除の対象となっている。

滑稽なことに、現内閣は、『「昭和100年」ポータルサイト』をつくって、国民におもねることをやっている。

しかして、参政党衆議院議員の豊田真由子(元自民党衆議院議員、元厚生労働省官僚)女史が、今国会(3月2日衆議院)で総理に直接質問したように、「国民会議」の法的根拠のない任意性をより的確に「憲法違反の疑いがある」と指摘して物議を醸したとおり、なにが「先の大戦の反省」なのかも吹き飛んでいる。

この会議に参加をしている、日本保守党の北村晴男参議院議員(弁護士)のダブルスタンダードも気になるところである。

なぜにこのような「鵺(ぬえ)的」な会議体を高市氏が目論み、実施したのか?について所説あるが、やはり「参議院」での少数与党状態が、再来年(2028年)まで続くことでの多数派形成のための「布石」なのであろう。

前回の翼賛政治は、近衛文麿内閣が実施したものであったけれども、五摂家筆頭の近衛文麿公爵が背景にあった思想とは、共産主義であった。
有名なのは、近衛文麿内閣の書記官長(いまの「内閣官房長官」にあたる)と司法大臣という重職にあった、風見章は、戦後、左派社会党の重鎮となってその本性をあらわにした。

わたしには、この風見と、高市が重なるのである。

もしも近衛文麿が、風見の正体も、風見の仲間でゾルゲ事件の尾崎秀実のこともしらないでいた、「お坊ちゃま」だとしたら、相当な「ぼんくら」である。
風見の交遊仲間で有名な人物は、とくに近衛の他に山本五十六(海軍次官、連合艦隊司令長官、元帥)と米内光政(海軍大臣、首相)がいる。

ちなみに、米内海軍大臣の次官が山本五十六であった。

さて、近衛といえばそのブレーンにあった『昭和研究会』(1933年:昭和8年〜1940年:昭和15年)がおもいうかぶ。
この研究会のモットーが、
・現行憲法(明治憲法)の枠内で国内改革をする
・既成政党を排撃する
・ファシズムに反対する 、等であった。

ここから、歴史は繰り返す、というあの原則にたちかえると、「国民会議」が、「昭和研究会」にもみえてくるのである。
しかし、いまの自民党は、結党の悲願、たる「改憲」を表面だけ整えて、内容は全体主義の匂いがするものへと「改悪」を目論んでいる。

つまるところ、「昭和研究会」との類似性は「ソックリ」のレベルなのである。

いまは、「社会保障」が枕になっている「国民会議」ではあるが、この手法が一般的となれば、「なんでもかんでも」議題にできることになるのだろう。

いま、アメリカでは、中間選挙を前にして、共和党・民主党ともに連邦上・下院議員の「辞職」があいついでいる。
それなりの「恥ずかしい理由」であるけれど、あと数ヶ月の選挙を目前に「恥ずかしい事由」が世間にしれることでの「辞任」なのである。

当然ながら、こうした「恥ずかしい事由」をリークしていることに、トランプ政権2.0が無関係なことはないだろう。
むしろ、潔癖症ともいえるトランプ政権2.0は、「恥ずかしい事由」をかかえる議員たちを容赦なく排除することに躊躇はない。

しからば2月の総選挙後に、わが国の既存野党の内部分裂(内紛)が、どちら様でも起きているのは、トランプ政権2.0がまっ先に実行した、DOGEによるUSAIDの事実上の解体による、「活動資金の枯渇」が原因ではないか?と書いた。

それで、「寄らば大樹の陰」とばかりに、財界からの資金が豊富な自民党に擦りよるのは、「政党助成金」欲しさ、と勘ぐられても仕方あるまい。

つまり、既存野党とは、政治をビジネスにしている自民党のアンチを装った「コピー」なのである。

それが、とうとう資金不足による入金手当の万策つきて、「国民会議」なる「蜜」の誘惑によって、あぶり出されるのである。
対象は、中道改革連合、国民民主党、れいわ新選組となろうが、参加の賛否で内紛が起きているようにみせかけていることも、なかなかの偽装なのである。

なんにせよ、トランプ政権2.0の狙いが「世界的な地ならし」で、最終破壊の目標が中共であると判明したから、その「支部・支党」たるこれら「同じ穴のムジナ」たちは、意味なくも「結束」をはかることでの、ダチョウ脳とおなじ「安心」を得たい願望のあらわれにちがいない。

日本政界のリセットも、間近、になっている。


その時トランプはプロレスを観ていた

世界が注目した、11日から翌日かけてのアメリカとイランとの協議は21時間を費やしても合意にいたらなかった、と発表したのは、アメリカ側交渉団長のJ.D.ヴァンス副大統領の弁である。

今年1月の「世界経済フォーラム」に、300人を引き連れて参加したトランプ大統領の一行は、世界経済フォーラムが掲げる「グローバル全体主義」を破壊することに専念したが、今回の「イラン」もJ.D.ヴァンス副大統領一行が300人規模の大デレゲーションであったのは、1月にしっかり関連づけていたからではないか?

対するイラン側は70人規模だったという。

問題は人数の不均衡ではなく、代表の「格」であるのは外交における「相互主義」では常識である。
アメリカが国家ナンバーツーの副大統領を送り込んだのに対して、イラン側は外務大臣であった。

まったく、トランプ関税についての「大統領に直訴する交渉」に、「経済担当大臣(当時)」を送り込んだ、石破内閣の「やる気のなさ」は、はなから「交渉する気なし=全面受け入れ」のジェスチャーにしかみえないヘンテコリンで、世界が「アメリカのポチ=ニッポン」と呆れたのであった。

J.D.ヴァンス副大統領は、交渉中何度も大統領の指示を仰いだ、と発言したが、「その時」トランプ大統領は、マルコ・ルビオ国務長官とともに、プロレス(UFC:Ultimate Fighting Championship)観戦をしていたと、「スパイチャンネル」さんが明かしているのである。

みよ、この「いけず」を。

試合後、「(圧倒的アメリカの勝利だから)イランに興味ない」旨の発言があったというが、これすらも「額面通り」受けてはいけない「いけず」だと注意しないといけない。

そのように、「演じている」のだとかんがえるのが妥当であろう。

そうでなければ、J.D.ヴァンス副大統領一行はピエロになってしまう。
じっさいに、アメリカによるホルムズ海峡封鎖で、困り果てているのはイランの側であるし、通貨イラン・リアルは、対ドルで暴落し、1ドル=1,321,000イラン・リアルという水準にある。

昨年末のレートは、1ドル=42,100イラン・リアルであったので、対ドルで31分の1以下になったのである。
これを、日本にあてはめると、昨年末の1ドル=157.56円が、4,943.87円になったようなものである。

単純に、食料もふくめた輸入物価が跳ね上がり、餓死者が出るような事態であろう。

たとえば、マクドナルドのハンバーガーが税込み190円だったものが、5,962円になるようなものである。

何度も書くが、アメリカはイランを攻めているようでいて、じつは中共を絞り上げている。

人民元はドルにペッグしているから、イランとしては人民元での貿易も厳しいし、資本の自由化だけはやりたくない中共も、アメリカ相手の通貨戦争に勝てる見込みはぜんぜんないばかりか、人民元なる通貨の信用そのものが崩壊の危機にあるのである。

日本人とちがって合理的かつリアリストである彼の国のひとびとは、「資本の自由化」が決まった瞬間から、大規模な資金移動(外国への資産移動)をやって、人民元の大暴落が予想されるからである。

さほどに、人民元の所有にはリスクがあると、当局ばかりか人民がしっている。

つまり、トランプとマルコ・ルビオ国務長官揃ってのUFC観戦の意図とは、時間が人民元を破壊=中国大陸経済をコントロール不能とすることを待っているという、来月の首脳会談までの意思表示にみえる。

そこで、北京がさっそく反応して、イランへの武器供与を全面停止する旨の発表とはなったが、トランプ政権2.0の狙いはそこではなく、中共の「全面屈服」であることは確実である。

すると、この「全面屈服」が意味するのは、「習政権」どころか、中共支配のおわり、であることもまちがいないであろう。

中華帝国は、次世代の「三国志」あるいは、「五胡十六国」とかの分裂にむかうのであろう。

すると、日本海にボートピープルがあふれ出すかもしれず、人間の津波がわが国を襲いかねない。

これに自民党・高市政権は無防備を貫く、売国、を一貫してやめない。

ときに、「ウクライナ」では、とうとうゼレンスキーが、「NATO加盟を諦める」と発言し、いよいよ「敗戦処理=和平」モードになってきた。

「ウクライナと共にある」わが国は、安倍晋三内閣以来これを変えずに頑固に一貫しているので、ウクライナの敗戦処理に莫大な資金提供を米・露から強要されるのも当然である。
EUや英国がどうやって逃げるのか?が注目されるなか、わが国の逃げ足の遅さでまたまた国民負担が増える(「ウクライナ支援増税」とかを発明する)と予想できる。

そこで、ロシアと誰が交渉するのか?となって、鈴木宗男氏しかいない、事実が浮かび上がるであろう。

それもこれも、みんな台本がある「プロレス」なのである。

「高市人気」という幻想

「プラザ合意」(1985年:昭和60年)後は、「中曽根内閣円高不況」ともいわれた時期があって、1ドルが、240円程度から120円へと急上昇したことでの「輸出(業)不況」のことをさしていた。

これがまだ都内でも軒数が少なかった、「高級ホテル」に影響して、いかにも外国人宿泊需要とは、占領期にできた「国際観光ホテル整備法」にいう、「輸出業(外貨を稼ぐ」という意味)」とおなじだと業界人が再確認したものである。

それで、わが国を代表する経済新聞も、業界誌・紙も、どこもかしこも「円高による外国人宿泊者の減少」を書きたてたことがあった。
軒数が少ない、既存高級ホテルの発表する数字をまとめた「だけ」をみれば、そのとおり、だったのである。

けれども、その中の「高級ホテル」で、まだ新入社員にちかかったわたしは、フロントの夜勤時に、両替サービスの「交換レート」と外国人比率の推移を、関数電卓(まだ「パソコン」が職場になかった)で二変数統計計算をしてみたら、まったく相関がないことに気がついてこれをレポートしたことがある。

しかし、当時の上司から、「理由をあきらかにせよ」との命を受けて、つぎの夜勤時に、実数での計算を試みたところ、外資系企業との宿泊契約がごっそりなくなっていることに気づいたので、その分を加味すると、なんと相関係数は「0.98」という凄まじい高水準を示したのである。

それで、向こう1年の予測値を出したら、実績値がほぼ誤差±2%ポイントの範囲で合致したので我ながら驚いたことが記憶にある。

結論をいえば、この年に「東京全日空ホテル(当時)」が開業し、六本木ヒルズに丸ノ内から外資系企業の移転があったのだった。
つまり、新規開業したホテルに、客層ごと奪われただけ、だったのである。

それを、「円高だから」としていたのは、滑稽であった。

さてそれで、「高市人気」だから、衆議院総選挙で自民党が結党以来最大の議席を確保する「大勝利」となった、というフレーズの似ていることに気づく。

ところが、この2月の国政選挙から後の、3月8日の石川県知事選挙、同月29日の東京清瀬市長選挙、そして先週12日の練馬区長選挙と、自民党は一勝もしていない三連敗なのである。

そこで、2月の総選挙を振り返れば、「公明党」と「立憲民主党」との野合による、「中道改革連合」が1人負けした「だけ」で、ぜんぜん「高市人気」なんてない幻想だったとわかるのである。

それでも、「高市内閣支持率」が高水準だということ「だけ」で、まだ、「高市人気」をマスコミはいいたてているが、主たる「高支持層」とは、「若年層」なる「少数派」の支持が高いことに重みがある、という。

しかし、その支持の理由は、おそらく「消費税減税」やらの暮らし向きに関する昨今の自民党としては珍しく「自由化」をいったことへの「おおきな期待」にちがいない。
これを、「事前期待値」としてかんがえたら、自民党内の反自由主義=社会主義勢力(約半数ほどの国会議員)が全力で阻止するのは必然なので必ず失望のうねりが起きるだろう。

つまり、期待感が強ければ強いほど、その反動で失望=不支持がふえるのは既に決まっているである。

これはなにも、若者層が情弱だから、ということではなくて、本当に生活苦があって、結婚もできないことの深層の理由のような言い訳、としての「個人主義」が学校で教えられていることの「自民党社会主義勢力」による洗脳の成果でもある。

この点でいえば、「高市内閣支持層」とはまた別の、「自民党支持者」の大半に「(後期)高齢者層」があるのは、惰性と情弱、それになによりも関心がなく無責任で生きてきた人生が理由だからであろう。

しかして、その心の挫折とは、全共闘世代にみられる共通なのである。

ただ、全共闘世代=後期高齢者=団塊の世代が、この世を去ると、必然的に激変する。

彼らの「巨大な人口の塊」が、かつての「アメリカナイズされた若者文化」を形成しただけでなく、「市場を多数で席巻した」からである。
そのために、わが国は文化だけでなく政治でもこの世代の価値観にずっと引きずられてきたのであるが、それがいよいよ終焉をむかえるのである。

ベースにある自民党支持の高齢者の塊を失うことの必然に、自民党は典型的な「硬直した組織」そのものにみられる「自己変革」ができない。
それもまた、仕組みとしてこの政党のなかに組み込まれているメカニズムであるからだ。

なぜなら、圧倒的多数の世代の塊に最適化してきたことで、政権を維持することができたからである。

よって、こうした仕組みが、これからまもなくして、「逆回転」をはじめ、組織の維持すら困難になるであろう。

そのはじまりが、上に挙げた、地方首長選挙の三連敗である。

すると、自分の保身だけが心情の「議員たち」が、泥船からの脱出を試みることがブームになる。

並行して、高市内閣の「失策」が目立ちだすので、より崩壊速度が加速するであろう。

まったく、自分の重力によって内部へ崩壊するとみられる、赤色巨星ベテルギウスの「超新星爆発」と似たメカニズムがはたくのである。

『北斗の拳』でいう、「自民党・高市政権はもう死んでいる」のであるが、それが認識できるまでのタイムラグが、ベテルギウスなら642(光)年であるように、いつわかるのか?だけが問われているのである。

「本能寺」はどこだ?が視野に入る

「敵は本能寺!」と叫んで、知恵者でしられた明智光秀が裏切った「歴史の転換点」としてあまりにも有名かつドラマチックなできごとであった。

「下剋上」の究極的・最終形でもある、天下人級の「主」を倒すその行為の善・悪が、21世紀になっても問われ続けている。

しかし、なぜに明智は突如本能寺(織田信長)を「敵」としたのか?については、まったくの「謎」のままである。

わたしの好きな「歴史ロマン」として、「ローマに行ってみたい!」といいだした信長の命で、「偽装の本能寺襲撃」をして、その後の三日天下をもって秀吉に光秀が「討たれる」というシナリオで、密かに信長・光秀主従は堺から香港に渡り、先に出発していた「天正の少年使節」と合流した後に一緒にローマを目指した、という「お話」がある。

つまり、「本能寺」とは、天下を騙す一世一代の大芝居、だというのである。

こうでもしないと、また戦国の世に戻る可能性は高かった。
信長からしたら「天下布武(五畿内の武家による平和秩序確立)」の理想が露と消えるので、自身の願望としての「ローマに行く」と「天下布武」の両立ができる唯一の案なのである。

秀吉が「伴天連(バテレン)追放令」を出すまで(「本能寺」から5年後)に、おそらく、信長・光秀主従とは連絡を取り合って、潤沢な生活資金の送金すら「南蛮貿易」を通じてやっていたのではないか?

その手段が、「金(Gold)」だったとすれば、秀吉の「黄金の茶室」もキンキラ成金趣味も偽装を兼ねた宣伝であったとかんがえることができる。
ところが、秀吉最側近としての利休の「佗茶」が真っ向から矛盾するし、「本能寺の事実」がバレるのをおそれて、「切腹」を命じたのかもしれない。

さて、知能指数でいえば、かなり「天才」の部類にはいるトランプ派の面々が仕込む、「地球規模の天下布武」を達成するには、立体パズルのような壮大な仕掛け、がひつようで、かつ、世界の政治家どころか一般人にも、達成するまで「大芝居」であることがバレたらこまる。

しかし、11日から翌日までの21時間もかけたという、イランとの和平協議が「不発に終わった」、ことで、いよいよその「大芝居」の真の目的(地)が明らかになってきた。

これを、「Harano Insight Official Channel」さんが丁寧に解説してくれている。

トランプ政権2.0の「反グローバリズム」は真性なので、伝統的かつ古典的なグローバル全体主義=共産主義とも、相容れないのは当然である。

昨年12月に発表した、新しい国家安全保障戦略で、「モンロー主義」ならぬ「ドンロー主義(ドナルド・トランプとモンロー主義の統合イメージ)」を打ち出し、まず、譲れない第一エリアとして「アメリカ」を、南・北アメリカ大陸+グリーンランド、とした。

それで、左翼政権ばかりが支配した中・南米で、自由主義政権への交替がオセロゲームのように広がっていて、「戦略発表」からたったの1ヶ月である新年早々のベネズエラの陥落で、石油支援を失ったキューバの社会主義政権が青息吐息となっている。

当然だが、第二エリアはヨーロッパであるから、対EU&NATOに対する圧力を強めることでの方法が、ヨーロッパの大弱点たる「エネルギー」に集中させることでの、「イラン=ホルムズ海峡封鎖」なのである。

このブログでは、最初からホルムズ海峡封鎖はアメリカが仕掛けていると書いたけれど、とうとう、「和平交渉の失敗」を表向きの理由にして、アメリカによるホルムズ海峡封鎖を宣言したのは、たんに本音公表のタイミングだけのことだったろう。

むろん、3月初めにトランプ大統領が指示をだしていた、アメリカ政府による「船舶保険」の販売用意ができたことが背景にあって、いよいよホルムズ海峡にある保険引き受けを止めた(100倍レベルの保険料大幅値上げ)「ロイズ」(国際金融資本=グローバル全体主義)と対立しているのである。

このことは、4月1日のトランプ大統領演説翌日(2日)に、ベッセント財務長官が投稿した「X」でハッキリ書いている。

こうしたアメリカトランプ政権2.0の覚悟ある動向に、敏感に気づいたのは、ベトナムとシンガポールであろう。

ベトナムは共産国だし、シンガポールも、リー・クワンユー以来の一党独裁強権国家である。

しかも、どちらも「国際海峡通過」に関して重要な地域に存在しているから、一歩まちがうとトランプ政権2.0からの制裁が飛んで来ると判断し、従順な姿勢を露わにしているのである。

しかし、その先、を地図でみれば、明らかに巨大な共産国があって、それが、まちがった理論からの「ワシントン・コンセンサス」となって大発展を遂げたのである。
その根幹のまちがいとは、経済発展さえすれば(共産)社会は自ずと自由化する、という寝言であった。

ざっくり、半世紀もこのまちがいをやってきたのであるが、トランプ政権2.0は、まちがいを認めて、自由化だけを要求する(共産党の解体)を目指しているのである。

それゆえに、ベトナムとシンガポールが「次」あるいは「先」は自分たちかと、敏感になっているのである。

この点で、わが国の「鈍感さ」は、特筆に値する。

ようは、トランプ政権2.0における「本能寺」とは、「共産国=グローバル全体主義の撲滅」であって、最大のターゲットはいうまでもなく中共であるが、社会主義国となったわが国も視野にあるのではないか?

この意味で、社会主義の自民党・維新がつくる高市政権の不安定さは、衆議院の絶対安定多数が却ってトランプ政権2.0からの要求拒否理由とはならないがために、ずっと繊細な運営が要求されるものを、劣化した官僚機構とともに切り崩される運命にあるのは国民にとって幸いでもある。

高市人気の終わりははやく、国民怨嗟の声が高まるのも時間の問題なのは、国内統治失敗のレベルを超えているからである。

さて、石油ひとつとっても、親米に掌返ししたベネズエラから中共への石油は途絶え、世界で唯一中共が取り引き(しかも「人民元」で)していたイランの石油も入手困難になったのである。

トランプ政権2.0が一部制裁解除したことで、ロシア産だけが頼りであろうが、入手方法は陸路の細いパイプラインだけしかない。

本ブログでは、これを「世界的な地ならし」と呼んでいるのである。

トランプ大統領は、まさに『進撃の巨人』そのひとなのだ。

それでもって、来月の米中首脳会談が、真の勝負所となっているから、その「リング」の整備をじつはイランと協働でやっていて、アラブ湾岸6カ国も取り込み済みである。
親中だったイランは、とっくに寝返っている。

この場合の「イラン」とは、上のシナリオにおける明智光秀の役回りであることはいうまでもないが、後ろ盾のロシアがこの役回りをさせているであろうことは容易に想像できる。

絶体絶命なのは、トランプ政権2.0ではまったくなく、中共、なのである。

すると、日本人として、マスコミのトランプ批判一辺倒のプロパガンダに加担するとはどういうことなのか?となって、中共をお助けしてもなんにもならないことに気がつけば、「イラン」の構図もみえてくるであろう。

さらに驚くべきは、アフリカ諸国であって、中共の甘言で「借金漬け」にされた恨みのある大半の国々は、みな、トランプ政権2.0に期待する展開になるのも必然だし、それが「国家安全保障戦略」の履行だとわかる。

なんと、いま、中共は、世界的な孤立状態におかれているので、降格された王毅氏の顔がさらに歪んでみえるのである。
党内での叱責がどんなに厳しいものか?想像するに痛快であるけれど、上司たちの無責任と自身への責任転嫁に日々が地獄であろう。

ビスマルクの「アフリカ分割会議」以来、ヨーロッパ諸国がアフリカ利権を失うことの意味は深く、アフリカの労働に支えられた「植民地主義の前提で身分制が残るヨーロッパのおわり」とも直結するから、反米のヨーロッパ=EU貴族たちは、中共との関係を重視しているのであるけれど、これぞ、溺れる者は藁をもつかむ、の格言どおりの無惨である。

すなわち、トランプ政権2.0が仕掛ける壮大な立体パズルの行き先が、自由主義、による全体主義の世界的排除であることとして、だんだんとみえてきたのである。