日本の「過ち」は避けられたか?

なにも外国人が言っているから「正しい」ということではないけれど、「自由主義」の立場からと、自身の研究成果の「正直な披露」ということがあって、なかなかに「スッキリ」するスピーチの動画がアップされている。

しかしながら、その翌日に、スピーチをした人物の名前をタイトルに加えようとしたら、「拡散制限」がかかるという「制裁」を受けてしまったという。

時間をかけて丁寧な翻訳をして動画をアップした本人は、あくまでも「拡散希望」だから、このブログが少しだけでも役に立てば幸いである。

動画から分かるオリジナルの撮影は、2012年で、登壇したアメリカ人歴史学者にして経済学者のロバート・ヒッグス博士は、特に「リバタリアン・アナキスト」を自称するほどで、経済学者としては、「オーストリア(ウィーン)学派」に属している。

この学派の、徹底した「自由主義」は有名で、それゆえに、いまでは「バラバラ」という状態の「派」になっている、というほどの「徹底ぶり」なのである。
それで、「主流派(アメリカ経済を中心に研究している)」からは、煙たがられて、なんとなく「反主流派」になっているのである。

もちろん、自由を必ず損なう「社会主義・共産主義」とは、まじわるはずもないのだけれど、政府という自由を束縛する存在に対抗して、「アナーキスト(無政府主義者)」になる、という皮肉が「共通」にある。
ただし、社会主義・共産主義からなってしまう「アナーキスト」とは、口もききたくないだろうけど。

この動画には、会場や講演の主催者についての説明がないけれど、ヤジもなくおとなしく聴いていて、スピーチ後の「拍手」の様子から、ハイエクが1947年に創設した、「モンペルラン協会」の会合ではないかと勝手に推測するのである。
あくまで「勝手」なので念のため。

彼の講演内容は、日本人研究者のものとおなじなので、特段の「新味」はないのだけれど、おなじことを日本人が言うのとアメリカ人が言うのとでは、「当事者の譜系」からの意味が出てきて、「新鮮」なのである。

これは、「誰が言っているのか」ということが、おなじ内容のものであっても「意味がちがう」ということになる事例だといえる。
残念なことに、ロバート・ヒッグス氏の著作で、日本語になっているものはないから、余計に「意味がちがう」ことが印象づけられる。

このことをして、「拡散制限」にしたのなら、YouTubeの中のひとの「読解力」は相当なものだ。
「A.I.(人工知能)」には、読解力がないことが証明されているから、きっと「人力」で、制限の操作をしたはずなので、これはこれで「ご苦労」なことである。

かつての「ソ連」が崩壊したのは、経済効率の悪さ、ということに集約されているけれど、それはなにも「ゴスプラン(ソ連邦国家計画委員会)」がやった「計画経済」だけが原因ではなくて、国民の「思想」を確認するための「監視」に対するコストに耐えられなくなったのである。

だから、その「反省」をもって、熱心に「画像・音声解析技術」で、安く国民を監視するシステム作りに熱心な国があるのだ。
来月からはじまる、世界最大の「サーカス」も、各国から参加する選手を「監視」することで、完成度の確認をするのが「開催目的」だと考えられる。

むかしは、「サーカスに売り飛ばされる」と言って、言う事を聞かない子供を脅かしたものだったけど、いまは、売り飛ばされたくてサーカスに「参加することに意義がある」ことになったのである。
それで、外交的ボイコットをするのを「アリバイ」として、自国民を差し出しても「個人の責任」ということにしたのを、だれも「ずる賢い」とは言わなくなった。

「おとり」に引っかけて、一網打尽にする、というずる賢い考えは、ヨーロッパ的な、あるいは白人の発想で、各個攻撃を旨とした日本的発想とは異なる。

これは一種の、大陸的発想と、狭い島国の少ない資源を確保する発想とのちがいである。
だから、「猟犬」すら、役割がちがって、それがいまだに「和犬」がペットになりにくい原因にもなっている。

「洋犬」は、主人の命令に忠実に獲物を追い込む遺伝子を保存したけど、「和犬」は、主人に獲物のトドメを楽に刺せるように仕向ける遺伝子を保存した。

そんなわけで、民主党ルーズベルトとチャーチルがやった、日本そのものの「追い込み猟」に、まんまとかかったのが日本人だった。
ならば、この「おとり猟」を、どうやったら回避できたのか?が、「反省」となるはずだけど、「絶対的平和主義」という「おとり猟」に、ふたたびまんまとかかったままなのが今の日本人なのだった。

なので、相手を追いつめてトドメを刺すように仕向けることは、やったことも考えたことないままで今に至っているのである。

トンガの噴火で寒冷化?

15日に起きた、トンガの噴火は、その後どうなっているのか?
噴火「後」に、地下10㎞あたりでの「地震」が頻発しているので、まさかの「大噴火」があるかもしれない。
すると、15日の噴火が前兆の「小噴火」になってしまう。

噴煙が上がったのは、最高で55㎞、多くは35㎞の高さで「横」に拡がった。
「成層圏」が11~50㎞の間というから、成層圏を突き破って「中間圏」にまで達したということになる。

なお、「オゾン層」とは、ほぼ成層圏にある「層」で、25㎞あたりが一番「濃い」というから、「横」に拡がったというのもオゾン層の濃い層の上で拡がっていることになる。

われわれが目にする「雲」は、「対流圏」という成層圏の下にできるものだから、高度12㎞ほどの成層圏を巡行飛行するジェット旅客機の窓からは、雲は見えないのである。

何年か前、沖縄付近にダブル台風が接近しているときに、北陸の金沢から飛行機で帰京するにあたって、たまたま飛行ルートが本州を横断して伊勢湾付近で太平洋に旋回したら、右窓側にいたのでこれら台風の姿を目撃することができた。

みごとな「エリンギ」形をしている雲が二つあって、対流圏と成層圏の境界で、平らになって拡がっていた。
以来、台風の衛星写真は、エリンギを真上から見ているのだとイメージしている。

そんなわけで、噴煙の中にある「小石」大の噴石なら早速に落下するけど、ミクロン単位のものは、長い期間空中にあってなかなか落下してこない。
対流圏にあるのなら、それは早めに雨に含まれるだろうけど、「中間圏」や「成層圏」なら、数年かかるといわれている。

もちろん、これが超巨大噴火ともなれば、数千年から数万年間、強烈な寒冷化となって、動植物の「絶滅」という事態にもなるのである。

ときに、噴煙には大きく二種類の物質が含まれている。
・二酸化硫黄、硫化水素
・火山灰

二酸化硫黄と硫化水素は、太陽光によって化学変化を起こし、周辺の水分と結合して「硫酸エアロゾル(aerosol)」になる。
このエアロゾル粒子は、たいへん細かくて、その生成過程のちがいから、一般的に、粉じん(dust)とかミスト(mist)とかがあって、気象では「霧(fog),もや(mist)、スモッグ(smog)とかという。

それで硫酸エアロゾルには、太陽光を「はじく」効果があるという。
これに、火山灰の中でも細かいものは、「粉じん(dust)」(4マイクロメートル以下程度)にあたる大きさだ。
これが、太陽からの熱を「吸収する」効果がある。

つまり、太陽光をはじく効果と熱を吸収する効果のダブルで、地球を寒くさせるのである。

今回の噴火でどの程度の範囲に影響を与えるのかが問題になるが、少なくとも「南半球」が対象地域になるという。
それがどのくらいの「被害」になるかは、まだ不明だけれど、農産物の収量に影響するとなると、他人事ではない。

地球の自転によって、偏西風が吹いていることが、これら物質の「拡散」に影響するので、広く薄くなることは確実だ。
世界中の気象学者が、さまざまなシミュレーションをもって、被害予想を立てることになるのも確実である。

火山噴火で、「平成の米騒動」が起きたことを思い出させる。

これは、平成3年(1991年)6月のフィリピン・ピナツボ山の噴火が原因だった。
それで、2年後の93年に、「記録的冷夏」になって米が大不作となったのである。

日照時間が減ったので、例年の、2~3℃、夏の平均気温が下がったのだった。

日本政府はタイ(インディカ種)米を緊急輸入したけれど、これが「国際米相場」を「高騰」させた。
日本国内では、バンドル販売されて、国産米を買うにはタイ米も一緒に買わないといけなくなったのである。

日本人には食べ慣れないインディカ種は、粒が長くて粘りがないため、「ふつうに炊いたら」美味くない。
それで、「廃棄」することが、国際的に非難を浴びて、バングラデシュ政府やらが、「不道徳である」とした日本非難声明を出したのだが、国内報道機関はこれを「伝えない」という不道徳なことをした。

実はわが国は、昭和6年の「冷害」によって、タイ米を緊急輸入した「実績」があって、やっぱり「美味くない」として廃棄したから、当時でも輸出してくれたタイ側に日本への不信を生んだのだった。

カネにものをいわせて現地人には「御馳走」の食糧を粗末に扱う、傲慢な日本人への「食い物の恨み」となったのである。

してみると、「自己中な日本人」という、自分は謙虚だと信じて疑わないのに、外国からは「傲慢そのもの」に見える姿が浮き上がってくるのである。
さては、他国から「侵略の欲望を促す」効果しかない、「平和憲法」が、地域の平和を乱す元凶だということに気づかいないことと似ている。

被害が少ないことを祈るばかりだが、火山噴火を人類がコントロールできないのは、太古のむかしとなんら変わりがない。
これを、あたかもコントロールしようとする、「脱炭素」なる「愚挙」への、天からの警告とみるしかない。

1250発の中距離核弾頭

「媚中派」の「媚」は、自らかかった「ハニートラップ」やらなにやらの「罠」によって、外国にコントロールされる立場になってしまった、ということがあるのだろうけど、表向き「国民には言えない」、国防上の「絶望」が、その外国による、この1250発の中距離核弾頭であって、わが国の主要都市をターゲットにとっくに配備されている、ということだろう。

前にも書いたが、「核ミサイル ターゲット 日本」に、想定される「国名」を追加して検索すれば、たちまち「配備図」までもがヒットするし、わが国を代表する新聞社は、「被害想定」の記事(見出しは「日本1800万人即死」2020年8月3日付け)まで出している。

つまり、「公然の秘密」という状態になっていて、これを「正式に認める」ことは、国民が「パニックになる」とかなんとかいう理由をつけて「言わない」ことにしているのだろう。

いまさらコロナがどうでもいい「風邪」だった、とは言えないから、効果がまったくないことが世界の「ロックダウン政策」の結果でもわかっているのに、「まんぼう」なるムダな政策をやるのは、もはや「バレたら」パニックになるという「恐怖」からでしかないのとおなじだ。

国民がパニックになるのではなくて、薄々気づいていることが「おおやけ」になることで、「正論」になることが、「政府の無謬性(決して間違えない)」を崩壊させてしまうことの「恐怖」なのである。

だから、2年も経って、「未知の病」だということで「固定」して、新たな知見を無視した政策をとるしかない、ということに政府が自分で追い込んでしまった。
「科学を無視」したことの「つけ」が廻ってきたのである。

では、この「核ミサイル群」はどうなのか?といえば、「事実を無視」したことの「つけ」である。
国民が事実を知らない限り、自分たちの主張の自己欺瞞の言い訳が、「国民を護るため」の「媚」なのだ、という心理でいられる。

これは、脅迫に屈した、ということでの「媚」である。

さらに、昨今開発されたという、「極超音速ミサイル」という最新兵器は、「北」すらも成功させたという報道がされている。
「迎撃不可能」という「事実」は、このミサイルの飛翔スピードが「極超音速」というスピードだから、ではない。

大問題なのは、「軌道を変える」ことなのである。

早くからオリンピック競技になっている、「クレー射撃」の難易度は、クレー撃破「ロボット」が存在しないことでわかる。
その理由は、初速100㎞程度かそれ以上で射出されたクレー(素焼きの皿)の到達予測地点に向けて散弾を撃つことを、およそ0.8秒内で行うことの「困難」なのである。

これには、散弾の到達時間があるからだ。
つまり、目に見えている、いまこの瞬間の位置にあるクレーをめがけて撃っても、散弾が到達するまでに、もはやその位置にクレーは存在せず、放物線上の先に移動してしまうのだ。

よって射手は、目に見えない放物線とその先を予測して撃つことができないと、けっして当たらない。
しかも、散弾の射程距離とクレーの飛翔距離から、以上の動作を0.8秒以内で終えねばならないから、「機械」ではできないのである。

これを、「ミサイル迎撃」ということで考えれば、発射されたミサイルが「放物線」上に落下する従来型であれば、落下地点までの軌道は計算可能で、しかも、数分間の時間があるから、迎撃ミサイルを放物線上の予測地点に発射すれば、「当たる」のである。

しかも、「迎撃ミサイル」には、「目」があって、予測地点に近接したら、「目視」しながらターゲットを確実に撃破するよう、自らの軌道を修正することで、誤差数センチ以内の精度まである。
鉄砲の弾とは大違いなのだ。

けれども、「軌道を変える」という相手には、まったく通じない。
それで、「迎撃不可能」ということになる。
ならば仕方がない、では済まないから、発射前の「止まっている」ミサイルを破壊するしか、方法がないのである。

ましてや、「核弾頭」を乗せているので、通常型でも「誤差数センチ以内の精度」をもって撃破するのは、確実に「核弾頭」を破壊するためである。
放射性物質による「汚染」を理由に、「反対」するひとがいるけど、都市上空で「爆発」したときの被害とは比較にならない。

そんなわけで、発射前のミサイル撃破は「ミサイル防衛」に含まれる、という定義のもと、2015年の日米防衛ガイドラインでは、「日本が」これを主体的に対処する役割を負っていて、米軍は「サポート」となっている。

それで、わが国には発射前のミサイルを撃破するための手段はあるのか?を問えば、「つくるべきかつくらざるべきか」で止まっている。
なんだか、ハムレット状態なのだ。

 

なるほど、ならば相手に「媚びるだけ媚びる」という方法で、「命乞い」をしているのがわが国の姿なのであるけれど、国民は知らずに「平和」を享受している。

1億人の悲惨をもっての「教訓」として、22世紀の人類に「愚民の平和」という「逸話」を残すしか、貢献できないのかもしれない。

戦争を望むひとたち

事前に「キャラクター」のチェックをして確認すれば、その「キャラ」がどうやって交わるのかを想像すると、なんとなく「ストーリー」が見えてくるものだ。
なので、「作り手」は、そうした「ストーリー」の期待に応えるようで、上手に「裏切る」と、「人気作品になる」ことを知っている。

だから、「駄作」と評価されるものは、そもそも「キャラ」の設定が曖昧なままだったり、事前に想定できる内容の「まま」で、なんら「ストーリー」に工夫がみられないものとなる。

現実世界にあてはめると、戦争を望むひとたち、という「キャラ」は、グループを作っていて、グループ内での「役」を分担して演じている。
だから、これが見えてくると、「面白くもなんともない」ということになるのだけれど、本物の「戦争」を画策するから、「現場」は命がけになる。

今年は、大きなイベントのスケジュールが決まっている。
2月は、北京オリンピック。
6月は、日本の参議院(半数の)議員選挙。
11月、アメリカ「中間選挙」という名の連邦下院(衆議院)「総選挙」。
そして、「秋」には、中国共産党大会での「習氏3選」が注目だ。

良くも悪くも、世界を動かすアメリカの中間選挙が、一種の「クライマックス」となっている。
しかし、「秋の大会」も、世界に影響を与える大イベントだ。

ちなみに、アメリカ合衆国の「序列」は、大統領、副大統領(連邦上院議長兼務)、そして、連邦下院議長の順になっているから、下院選挙における多数派党の権限は強大になるように出来ている。

世界の軍事バランスは、「最強」のアメリカ軍(5軍:陸・海・空・海兵隊・宇宙、の各軍)であることに異論はないだろうけど、「欧州方面軍」という「下請け」を「NATO」が請け負っている。
ちなみに、和訳すれば、「北大西洋条約機構」という名前になっているものの、「北大西洋」という地名に意味はない「軍事機構」である。

「経済力」という点では、わが国に対してもはるかに「劣る」ロシアが、軍事面では頑張っていて、そのNATOに対抗している。
元は、ソ連とその衛星国の「ワルシャワ条約機構」に対抗するためのものだったけど、「衛星国」が揃ってNATOに加盟してロシアと対峙している。

英語の「PUT]は、「置く」と習って久しいけれど、「in」を後に着けると、「差し込む」という意味になるとは、中学で教わる。

日本語では「プーチン大統領」というけれど、英語表記では、「PUTIN」なのである。
だから、欧州方面では、「ごり押し男」というイメージが彼の名前を見たとたんに「浮かぶ」ようになっている。

そんな「名前の音韻」からくるイメージが、マスコミにも利用されて、旧東側のいまは高齢になったひとたちには、「スターリンの再来」として怖れられている。
これが、旧衛星国までNATOに加盟した、国民感情である。

「ロシア」には、バルト海に面した「カリーニングラード(州)」という、「飛び地」があって、西はポーランド、東はリトアニアに挟まれている。
元は、東プロイセン、で「ドイツ」だったものが、第二次大戦後に、ソ連へ「割譲」された土地である。

ちなみに、ポーランドもかつては、バルト海側の全部が東プロイセンで、その背景には「ドイツ騎士団」の支配地という歴史もある。
それが、「マルボルクのドイツ騎士団の城」として「世界(文化)遺産」に登録されている。

ロシア帝国を含む欧州列強(プロイセン、オーストリア)に、二度も分割されて国を失うことになったポーランドの歴史は、1回も国を失ったことがない、という「欺瞞(しっかり「占領」という経験があるのに)を信じる」日本人には、とくに学ぶ価値がある教訓にあふれている。

このポーランドから見たら、その隣の「ベラルーシ(白ロシア)」とウクライナは、ともに「隣国」だ。
「ベラルーシ」は、「ベラ:白」と「ルーシ:ロシア」で、「白」とは光の反射から、「南」という意味があるので、「南ロシア」ということである。

この国に入るには、日本人でも「ビザ」が必要なので、なかなか入国しにくい、「独裁国家」である。
マスコミは、「欧州最後の」をつけたがるけど。

さてそれで、ロシアがずっと軍事大国なのは、海と陸とで「殲滅された」という「恐怖の体験」があるからだ。
海は、「日本海海戦」で、いわずと知れた日本海軍による殲滅。
陸は、「タンネンベルクの戦い」で、第一次大戦のドイツ軍による殲滅。

ロシア海軍は、主力のバルチック艦隊のほぼ全部を失ったし、陸軍は50万人が「全滅」した。

そんな歴史的トラウマがあるので、ロシア人は敵の3倍の兵力を準備しないと、「動かない」という「習性」がある。
「好戦的」に見えるのは、犬もそうだが、「臆病」ゆえの防衛本能がでてくるからである。

バイデン政権の「キャラ」は、アメリカ民主党という「好戦的勢力」だ。
このひとたちは、歴史的に「産軍複合体」と連携して、これを、「資金=利益」とする集団だ。
トランプ氏が「RINO」と厳しく批判する共和党主流派も、資金源をおなじくする。

オリンピック前のこのタイミングで、ロシアにウクライナ侵攻の「警告」を発したのは、「戦争を望むひとたち」に対する「やっている感」のアッピールにちがいない。
もちろん、これには、マスコミも含まれる。

11月の選挙に向けて、アメリカ民主党が戦争を始める「前兆」を演出している。
つぎは、オリンピック後の「宴の後」にも、きっと「警告」を出すにちがいないけど、米中ともに、それぞれの「秋」、を目指していることはまちがいない。

「プラットフォーム」がない

ないのなら創ればいい、にならないで、せっかくつくった「ミクシィ(mixi)」を事実上崩壊させたのは、なんだったのか?

そんなわけで、「つくること」に長けていたはずのわが国では、外国製の「プラットフォーム」に依存するようになった。
「5G]だなんだといっても、それは、「線路」のことで、「駅」がないから乗車できない。

アメリカ製:YouTube
韓国製:LINE
中国製:TikTok

特に、「LINE」は、個人情報が抜かれる問題がうやむやになったけど、問題の最中でも、地方自治体(たとえば、神奈川県)が「採用」して、住民への通知に利用するなどしている。
そして、もっとも「怪しい」中華製の「TikTok」を、この度「法務省」が採用して、国民への啓発に利用を開始した。

当然だけど、これら「プラットフォーム」を利用するには、「利用者登録」をしないといけない。
そして、この「利用者登録」にあたってでてくる「承諾確認」で、いろんな「承諾」をさせられる。

「承諾」しなくても、スルーできる「承諾」もあるけれど、結局「承諾」しないならば申込み手続きが完了しなかったりして、再び申込みの「振り出し」から操作しないといけないことになっている。
それで、利用したいという意思があるひとは、なにを承諾しているのかを読み飛ばして、全部の「承諾」ボタンをポチるのである。

この中に、プラットフォーム提供者が個人情報にアクセスすることの承諾もあるから、あとで気がついても「被害者」とはいえない仕組みになっている。

ところが、「中華製」の問題は、「承諾」の有無すら無視して、利用者が知らないところで「利用者情報を抜く」ということにある。
これを総じて、「バックドア」と呼ぶ。
日本語では、「裏口」とか「勝手口」となる。

得体の知れない「デジタル庁」という役所は、やっぱり「得体が知れない」ので、きっと「放置」しているにちがいない。
その「放置」には、「YouTube」の勝手な規約に基づく「日本国内での言論弾圧」の容認も含まれる。

むかしは、「免許」の関係で町内に必ず1軒はあった、酒屋さん(『サザエさん』なら「三河屋さん」)とかが、「御用聞き」に各家を廻って配達と注文をとるときには、決して「玄関」のベルさえも鳴らさずに、「勝手口」から声をかけたものである。

つまり、どの家にも「勝手口」があったのだ。
だから家を建てるときには、道路との関係から「勝手口」の場所もおおかた北側などと決まっていて、必ず「造った」から、初めてでも信用ある商人は必ず勝手口を見つけて、そこから声かけしたのである。

むしろ、まともな一般家庭で、御用聞きが玄関から入ってきたら、その家の「主婦」は、血相変えて「失礼」だと怒鳴ったことだろう。

これは、「身分制」の名残でもあるけれど、「玄関」は正規の入口という意味なので、謙譲した商人は「玄関」の敷居をまたぐことはなかった。
今に残る「文化財級」の住宅では、「(客用と主人用)正面玄関」と、「(家族用)玄関」が別にあって、さらに、「勝手口」が別にあるのが「ふつう」である。

こうしたことは、近代の「長屋」でも踏襲されたので、たいがいが「玄関」の裏側にある台所の横が「勝手口」で、さらに横に便所があった。
男子用小便器と、大便器を別にして、おなじ汲み取り口とした。
これを、「文化住宅」とも呼んだのである。

それが、現代の「長屋」である、集合住宅(いわゆる「マンション」)では、こうした「身分差」を打ち消して、勝手口どころか玄関が一箇所しかない「邸宅」となった。
なんだか、江戸時代の長屋と構造がおなじだ。

さて、中華製の「バックドア」の存在については、英国政府も「確認」して、政府調達品リストから中華製のデジタル器機は排除された。
オバマ時代は曖昧だったけど、トランプ時代には、「プラットフォーム」のプログラムにも「バックドア」があるとして、これを法的排除の対象としたのだった。

その最も厳しい規制対象が、「TikTok」だったから、こたびの「日本政府・法務省」の「TikTok採用」は、それなり(同盟国)の方面に「波紋」を投げかけている。
むろん、アメリカやイギリスで「LINE」はメジャーではないので、対象外のように見えるけど、その「危険性」が弛んでいるものではない。

そうしてみると、メイドインジャパン!の唯一の「プラットフォーム」にならんとした、「ミクシィ」への攻撃が、なんだか「陰謀論」ではなくて、「陰謀」に思えてくる。

ほぼすべてのSNSから「排除」された、トランプ氏は、その排除が「現職大統領」であったときからはじまったのであるけれど、ようやくにして、自身の「プラットフォーム」をスタートさせるに至りだした。

新年6日の記者会見が中止(15日に変更)になったのも、「切り取り報道」の被害を再確認したからだという。

古今東西、「独裁者」とは、情報管理もその「独裁権」に含んだモノで、自身への非難中傷を絶対に許さないばかりか、最大の刑罰を持って処する共通がある。
だから、大手報道機関ばかりか、SNSから完全排除されたトランプ大統領を、「独裁者」と呼びつけて、いまも無事でいられる方が、よほど「独裁」といえるのだ。

さては、情報が世界を制する、といわれて久しい現代にあって、SNAプラットフォームを「敵対する外国」に依存するわが国は、もう、とっくに中韓勢力の「植民地」となったといえる。

このことに気づかずに、「LINE」と「TikTok」に興じている多数の日本人が、政府を動かしている、のである。

なるほど、この意味でわが国は、「民主主義」なのだった。

現代日本の「あゝ無情」

パンを盗んだ罪で、とんでもないことになるのは、『レ・ミゼラブル』のジャン・バルジャンだ。
ヴィクトル・ユゴーのあまりにも有名な小説にして、何度も映画やテレビ・ドラマ、それにミュージカルになっている。

フランスでは、『聖書』の次に読まれているという「国民文学」だけど、その物語と筆致の「長さ」が、日本人読者には「読破に忍耐力」を要求される「大作」にもなっている。

およそ、ヨーロッパ文学の「冗長さ」は、ストーリー展開はもとより、作者の「説明文」の長さによる。
そのまた引用が、ひろく「古典」に言及されるので、それを知らない読者には「苦痛」を強いられることになるのである。

すると、すでに現代からみたら古典になっている作品の難易度は、必然的に高くなる。
「当時」の時代背景も、現代とはちがうからで、これも「読みとらないと」全体把握ができない、という事態に陥る。

そんなわけで、「お手軽」な、映画やテレビの連続ドラマ、ミュージカル上演に何回もなるのは、作家の説明文を省いているのが、「わかりやすい」からとなる。

このブログで、『レ・ミゼラブル』を何度も取り上げているのは、「フランス革命前夜」という巨大な時代背景があって、さらに、この「革命」のグダグダが、ナポレオンやら王政復古やらだけでない、現代のフランス、ひいてはヨーロッパ(EU)のグダグダにつながっているからである。

すると、作家による冗長な説明を理解することが、じつは「深読み」のもっとも簡単でお手軽な手段に様変わりするのである。
5分冊になっている、「ちくま文庫版」の訳者がこれを別途解説しているのが、西永良成『「レ・ミゼラブル」の世界』 (岩波新書)である。

貧しい生活の中で、姉の子供が飢えて泣くのを救おうと、パンを盗んだことを発端に物語は始まるけれど、「国家権力」の象徴として、「ジャヴェール警部」に生涯をかけて追跡捜査されるという「理不尽」が、王政ゆえの悪行・慣行として描かれる。

蛇足ながら、「革命」に親和的なヴィクトル・ユゴー自身、革命後には「亡命」を余儀なくされて、本作の完成は亡命先でなされたという、グダグダもあるのである。

  

マクロン政権のグダグダも、こうした歴史の延長線上にしっかりあるので、「外交的ボイコットをしない」とした決定も、次が「パリ・オリンピック」だから、という意味不明のグダグダにもなっている。
もちろん、わが国のグダグダ度合いはもっと深刻だから、あんまり他人のことはいえない。

高校の同級生が、校内の売店で「パンを盗んだ」ことで、無期停学になった想い出がある。
これが、「メロンパン」だったために、なんだかマリー・アントワネットの「パンがなければお菓子を食べればいい」という話の方がもっぱらの話題になって、いちおう「レ・ミゼラブル男」という異名をとった。

「ジャン・バルジャン」にしなかったのは、盗んだものが「メロンパン」という間抜けさだったためで、だれも「悲惨な貧困」とは思わずに「同情しなかった」ばかりか、ただの「笑い話」だったからである。
「無期」とはいっても「2週間」程度で「復学」し、本人は自主退学もせずに無事卒業、進学したし、クラス会にも参加している。

この意味で、まことに的確な判断を「皆で」(同級生たちも学校当局も)したものだ。
同級生たちは、「一生の笑い話のタネ」をもらって、学校側は「教育的指導」ということで済ませ、本人の人生に影響はないようにしているからである。

ネットの「妙」に、突然表示される項目があって、それがどういう「アルゴリズム」になっているのか知らないけれど、「へー」と思う「当り」が出ることがある。

昨年といっても1ヶ月前、三重県警の警察官(42歳の巡査部長)が、管轄内の神社で「賽銭泥棒」をしたとして、逮捕・停職3カ月の懲戒処分を受けたところで、同日依願退職したという。
警察は、容赦なく「書類送検」したけれど、「余罪」もあったらしい。

盗んだ額は、「200円」。
余罪は2回のおなじ神社での賽銭泥棒で、1,800円。
あわせて、「2,000円」だ。

しかして、その理由とは、結婚以来10年、「妻に全部の給料」を渡していたが、自分の「お小遣い」をいっさいくれないために、「タバコとコーヒーを買いたかった」と、驚愕の供述をしたという。

すると、給与の指定振込口座が、「妻名義」だったということか?
いまどきの警察で、現金封筒で渡すということはない。

2000円で職を失うことをどう考えるのか?という「命題」が、この「事件」にはある。
はたしてこのひとの「再就職」はどうなるのか?
「私文書」にあたる、「履歴書」の「賞罰欄」に、「停職と書類送検」を書かないといけない。

当然だが、警察組織としては「あってはならないこと」にあたるのだろうけど、「上司」として部下を観察すれば、妻に対して、「少しはお小遣いをあげてください」と指導できなかったのか?

これは、「民事不介入」という問題ではなく、「組織のマネジメント」の問題だ。
10年間も手持ち現金がないことに気づかない「上司」(管理職)こそ、部下を犯罪者に仕向けた「犯人」だといえる。

それに、捕まるべきは本人ではなくて、「妻」ではないのか?
お小遣いがゼロ円では、自力でなんとか工面するということにならないから、他人のものに手を出す「教唆」にならないかと疑うのである。

とにかく何が何でも責任をとらない、という組織は、フランス革命前夜となにがちがうのか?

三重県警に就職したら、ろくな人生にならないと教えてくれる「事件」なのであった。

葬儀の「革命」とは?

わが国では、年々高まる「高齢化」で、年間の死亡者数は130万人を超えているから、月間にして10万人以上だ。
これに、新生児の数は年々減り続け、既に90万人も切っていて、その差が「人口減少」となって現れる。

高齢化の「ピーク」を作り出すのは、いつもの「「団塊の世代」(1947年~49年生まれ)で、この三年間の出生は、ざっと260万人/年超えである。

1947年:約268万人
1948年:約268万人
1949年:約270万人 この3年間の合計:806万人

すると、47年生まれのひとたちは今年75歳となって、あと10年もすると「平均寿命」に達することは、確実なのである。
ただし、おおかた「正規分布」するはずだから、早いひとも遅いひともいて、全員が平均寿命で亡くなるということはない。

もちろん、「厳密」には、これらのひとたちの「実態」が、平均寿命の計算にも影響するから、「そうはいえない」というひともいるだろうけど、おおよその一般論としては、「大間違い」とはいえないはずだ。

それにしても、わが国総人口のうちの6.4%という「かたまり」が、この3年間の「生まれ」に集中していることは、事実である。

「人生百年時代」という「甘言」も、過去のたとえば、70年代を「若者文化の時代」としていたのと同様に、その「巨大マーケット」に対する媚びへつらいである。

この世代の「時代」では、「金の卵」という、カネを生みだす「(若年かつ低賃金)労働力」として「重宝」されたのが常識で、中学卒での「集団就職」という「風習」すらあったのだ。
だから、高校進学だって「憧れ」で、大卒ともなれば文字どおり「エリート」だった。

よくよく意識しないといけないのは、当時のわが国は、「発展途上国」だったという歴史的事実なのである。

その記念碑が、井沢八郎が歌う『あゝ上野駅』だし、ノスタルジックなファンタジー『ALWAYS 三丁目の夕日』であって、自身がなれっこない「高校生」への憧れは「5回(1949年・1957年・1963年・1975年・1988年)」も作られた『青い山脈』で「疑似体験」したのだった。

集団就職が終了しても、夏休みになると「家出」した少年少女を「補導」するために、警察官が特別配置されたのも、「上野駅」であった。
このことも、息の長い「歌」になった理由だろう。

ここが、「東京駅」との決定的なちがいなのだけど、東京駅にも集団就職で上京したひとはたくさんいただろうし、「家出」だってあったはずだろうに。

   

しかし、メタファーとしての「上野駅」が重要なのであった。
それなのに、ただの「通過駅」にした、JRの「文化破壊」こそ、これから記述することの「大問題」の一部なのである。

この時代は、どの家庭でも、「人寄せ」があって、狭くても座敷で宴会をやっていた。
「冠婚葬祭」だって、自宅でやるのがふつうだったけど、都会での婚礼が先に「会館」や「ホテル」になったのは、一堂に会する人数が自宅にとうてい収容できないという理由もあったからである。

それで、一堂に会する人数が親戚縁者だけでよくて、それ以外は道路端のテントでいいとした「葬祭」は、「畳の上で死にたい」という本人の「遺志」もあって、自宅でおこなったものである。
ここで活躍したのが、町内会の婦人会で、その家の台所を仕切るだけでなく、分担してつくった料理を提供したものだった。

これに、近所の魚屋や寿司屋、それに酒屋が加わって、町内の大イベントになっていた。
そしてそれが、「お互い様」でもあったのだ。

とっくに「病院で死ぬ」ことがふつうになったのは、酸素吸入とか点滴やらの各種器機とか薬剤を自宅にレンタルする面倒がそうさせる。
だから、「終末医療」という覚悟があってのことに限定されるので、「末期癌」は「幸せな死に方」になってきている。

「コロナ禍」という「人為」で、とうとう「面会禁止」という、なんでも「禁止」の新しい常識ができた。
人生の最後の時を過ごす、ということが、十分に制限される、という事態になったのである。

五類にしない、という人為も、本人がPCR検査陽性者ならそのまま袋詰めにされてしまうので、遺族は「死に顔」を見ることさえもできない。
むかしは、危篤状態になったら、家族が交代で病室に泊まり込んで「見守った」もので、これを病院も許したのだった。

その意味で、本人の人生への敬意と、命への尊厳を重視していたのは、ずいぶん昔のことになって、「いまは口先だけ」のきれいごとですますことになったのである。

つまりは、「命は大切」というひとほど命を大切にしていなくて、「唯物」的な考え方の「隠語」になったといえる。
その「唯物」は、「materialism」(マテリアリズム)であるから、日本人がかんがえる「物」とは概念が異なって、「材料」から「原子」につながる「物質」の「物」なので注意したい。

そして、決定的に残念なのは、「宗教界」なのである。

良くも悪くも、わが国最大の宗教は、仏教、ということになっているけど、これを、「葬式仏教」といって憚らない巨大宗派の管長がいた。
「科学」による「宗教弾圧」に、キリスト教が最初に「犠牲」になったのは、それ以前の「悪行」からの反動だった。

なんでも「欧米が上で日本が下」という、「思想」が、キリスト教の無様に真似て、伝統的な宗教を破壊したかに見える。
ほんとうは、あまりにもすさまじかった「一向宗」の反乱に懲りた、家康がつくった「檀家制度」が、宗教家を「安逸」の生活に押し込んだのである。

以来、400年。
「コロナ退散」を祈祷も祈願もできないほどに、宗教は堕落し、わが国は「ホッブス」がいう「唯物」を信じるに至った。
これは、「科学信仰」でもある。

それが、「感染予防」という名目で人寄せしない「葬儀」になって、「葬送の儀式」そのものが陳腐化しても、対抗できる能力を失ってしまった。
通夜・告別式というセットから、「通夜」が削除されて、「一日葬」という簡素が費用節約の本音を隠して普及しているのである。

もちろん、「家族葬」という名目で、故人の縁故あるひとも「呼ばない」で済むのは、近所づきあいの衰退もさることながら、寿命が延びすぎて、社会的つながりの希薄さが、これを可能にしているし、なによりも家族自体が「簡素化」したのだ。

すなわち、すべてが「分断」という「一個集中」になっていて、みごとな「(アトム化)革命」が進行していたものを、まさに「コロナの人為」がこれにトドメを刺して完成させようとしているのである。

ここに、なぜ「五類」にしないのか?という疑問の答がある。
とっくに「科学」を利用した、「社会操作」なのである、と。

そんな「変化」を気にせずに、「戒名代」やら「法事」のお布施をむしりとって、宗教が成りたつのも限界に近づいてきていると考える。
超高齢化による「葬儀」の回数は「空前」であっても、このことが却って宗教を「衰退させる」原因になりそうだ。

「先に死んだひとが羨ましくなるほどの悲惨がやってくる」、という「預言」をするひとがいて、「A.I.」が新しい信仰対象になるというひともいるのだけれど、唯物的に「恐怖」が支配しても、「宗教の時代」がやってくることはなさそうだとみる。

そのうち、「葬式」すらやらない社会になるやもしれぬ。

新バージニア州知事の逆転

昨年の州知事選挙で、「大どんでん返し」をやって話題になってから、その後の動静がぜんぜん報道されなかったのは、大手(左翼)マスコミから、無視されていたからかもしれない。
アメリカのマスコミが伝えないものを、日本のマスコミが伝えるわけもないので、「沈黙の勝者」とも言われていた。

15日(日本時間で16日)、「そのとき」がやってきて、就任式が執り行われ、その直後に「知事行政命令:9本」と「行政指令:2本」の、一気に11本も署名して即刻発令した。

なんだかバイデン氏が、就任式の後に50もの「大統領令」に署名して、トランプ氏の政策をひっくり返したのに似ている。
ちなみに、日本人のイメージでは、知事行政命令は大統領令に比べて「格下」に見えるけど、州民にとっては「おなじ」なのが「合衆国」だ。

それに、ヨンキン氏の経歴も、「ビジネスマン」だったトランプ氏と同類とされて、トランプ氏は不動産オーナーで、ヨンキン氏は世界最大規模の投資ファンドの社長だった。
もちろん、人生初の立候補でそのまま初当選したのも似ている。

そんなわけで、日本のマスコミだったら「行政手腕が問われる」とかなんとか書くのだろうけれど、ほんとうはそんなものはどうでもいい。
組織の「マネジメント」ができれば十分なのである。

しかして、わが国には「マネジメント」ができる、企業経営者も政治家もいないから嘆かわしいことになったのである。
これは、「マネジメント教育」がないためで、おおくの場合が、行政の役人にマネジメント「されてしまう」からである。

さてそれで、ヨンキン氏が「奇跡的」な勝利をおさめた理由は、「争点」が「教育」だったから、といわれている。
それは、「州内」で起きた「事件」が、選挙途中で争点になり、ふだんから左翼的な志向の有権者が、自分の子供をイメージしたとたんに「保守回帰」したからだ。

この事件とは、公立高校の校内トイレで、女子生徒がふだんからスカートを着用している「自称女子」に性的暴行を受けたことをいう。
さらに、学校側の説明会に出席した被害者の父親が、学校の責任を追及したら、待機していた警官に逮捕され、そのまま2週間も「拘束」されてしまったのである。

挙げ句に、その間に、加害者の生徒は秘密裏に州内の他校に転校となってしまったが、なんと転校先でも「おなじ手口」で事件を起こしてしまったことを、こんどは転校先の学校が「隠蔽」していたのがバレたのである。

選挙序盤では圧倒的な強さを示したのは、元職の民主党候補だったけれども、民主党が、親に子供の教育に関与する権利はない、と公式に主張していることに「賛同」の意思表明をしてから、様子が変わったのである。

対するヨンキン氏と共和党は、親に子供の教育に関与する権利があるのは当然としているし、学校教育において、政治的な「差別的人種論」の禁止を求めている。
当然だが、民主党候補は「継続・強化」を訴えた。

「差別的人種論」とは、アメリカ建国の歴史に遡って、白人による黒人支配の「原罪」を問うもので、未来永劫、白人は黒人に「謝罪」し黒人が優位な社会にしなければならないと「教育する」ことをいう。
国民の人種的「分断」を図る、共産主義の典型的手法だ。

これらのことが、長年民主党が支配してきたバージニア州を共和党に転換させる原動力になったのである。

実際に、アメリカでは州や郡レベルでの「公職」の多くが、「選挙」で選ばれる仕組みになっている。
それに、ふつうの「国家」にあたる「州」は、州知事だけでなく副知事や州司法長官、州務長官なども選挙で選ばれる。

バージニア州での「どんでん返し」は、これら重要ポストの選挙も全部が共和党の勝利になったことだ。

知事行政命令が発令されたこともしかりだが、司法長官も就任後すぐさま、知事と「連携」して、上述の「事件」についての「再調査」を行う旨を宣言した。
これには、州仮釈放委員会の調査も含まれる。

州法では、被害者への報告なくして加害者の免罪措置をしてはならない、という規定があるけど、これが護られていないことの「調査」だ。
知事は、教育委員会についても、別途専門スタッフを就任させて、事件への対処だけでなく「根本的」な改善を図るとしている。

それが、子供にマスクを着けさせるかどうかは「親が決める権利」だということで、これまでの「学校の権利」を取り消した。
州経済についても「正常化」をとなえており、ロックダウンなどの措置はとらない、とした。

「州」に国家レベルの権限があるのは、「善政競争」という概念があるからで、どこに住まうも移動するも「自由」ということと相まって、悪政の州からの住民移動を「よし」としている。

それが効果で、2020年の国勢調査によると、カリフォルニア州やニューヨーク州の人口が30万人以上も減って、テキサスやアリゾナ、フロリダ州が増加したのは、国内「難民」が民主党の州から共和党の州へと「退避」して居住地を変えたからであると分析されている。

連邦下院の議席数は国勢調査に従う「人口割り」の規定になっているので、カリフォルニアとニューヨークの議席が減って、テキサスなどの議席数が増えることにもなる。

選挙公約を就任当日に一気に果たしたのは、当選後の2ヶ月間でつくった「州知事内閣」が機能して、すっかり準備を整えていたことを示している。
これが、「ビジネス」における「マネジメント力」の有無による「ちがい」なのである。

やられたら「やられっぱなし」

人気ドラマ『半沢直樹』の決めゼリフが、「やられたらやり返す。倍返しだ!」だった。

この「幼稚園児」が言いそうな言葉に、当初違和感があったけど、何度も見聞きしていくうちに、「無感覚」になるばかりか、水戸黄門の「印籠」のごとく、どのタイミングで「言うのか」に興味が移った。

つまるところ、視聴者の「幼児化」という策に「まんま」とはまっているわけである。

やられたらやり返す、というのは、難しい言葉にすれば、「意趣返し」である。
これの究極が、「仇討ち」ということになる。

世の中が「単純」で「素朴」であったけど発展していた江戸時代には、「仇討ち」も高度化して、「許可証」の有無が、犯罪と正義の境界線になっていた。
つまり、「私怨」は「法」として許されず、「公(おおやけ)」の仇討ちこそが「名誉」となったのである。

もちろん、「公・私」に関係なく、相手によって「返り討ち」されることだってある。
それでも、「仇討ち」を実行して死んだということの「名誉」は残った。

この「名誉」の価値が、「家(名)」の価値だったのである。
個人は連綿と続く組織としての「家」に属するので、「家名を穢す」ことは許されない、という「制約」がもっとも身近なものであった。
なお、「けがす」が、「汚す」でなくて「穢す」なのは、「神仏に対して」も含むからである。

封建制の世の中が「単純」だったことの理由のひとつに、「身分社会」という常識があった。
人々は、自分が属する「身分」の中で生きていたので、他の身分の出来事はある程度無視できた。

これが「単純」な社会を作ったのである。
だから、身分が取り払われると、社会は必然的に複雑化する。

そして、身分社会では「ない」のに、持てる者と持たざる者の「差」ができて、持てる者が持たざる者を支配するということが「暗然と」行われれば、その複雑性が内向きにもっと増すのである。

この意味で、共産主義は、持たざる者の政府になるという「複雑」が、一方で「かつての」持てる者を「排除」しながら、持たざる者の内輪における「複雑」も増させるのである。

メカニズムとして、共産主義は思想「だけ」ではないからである。
一般的に、「マルクス・レーニン主義」と言われる理由がこのことを指すのだけれど、一般人は用語としてだけを聞いていて中身をしらないものだ。

思想は、「マルクス主義」のことをいう。
そして、重要なのが「組織化して革命を実行する」方法を「レーニン主義」というのだ。
この「方法」が、「まずい」のである。

レーニンは、「革命のため」という理由があれば、「なにをしても正当化できる」という無茶苦茶を「理論立てた」のだ。
この「なにをしてもいい」には、殺人も含まれる。
「生きている人」も「物」として考えるのが、「唯物論」なのである。

そんなわけだから、政治権力「すら」持たざる者は、完全に支配される身分に「固定される」のは、その世代だけのことではない。
政治権力を持つものは、必ず自分の一族を優先させて「固定化させる」から、ポストを独占するのも必然なのである。

こうして、支配される者は、やられたらやられっぱなし、という身分に永遠にとどまる。
全員が平等の共産社会に、「格差」がないとは、支配される者の階層のこと「だけ」をいうのである。

無論、支配する側には、権力闘争という別次元がある。

これに比べたら、民主主義の方は、ずっと「流動的」だ。
このことが、たとえ表向きであっても身分制がない社会の場合に、民主主義に代わる「ベター」な制度が見つからない理由であるし、旧東側諸国のひとたちが、「反共」で一致する理由でもある。

やっぱり、やられたらやり返す、という可能性を排除していないことに「魅力がある」からだろう。

さて、スエーデンという小国で、この国を代表する大手新聞社が、「反省」の大見出しを掲げた記事を出して話題になっている。

この2年間、自社の「コロナ報道」について、政府発表の数字や対策「しか」書いてこず、新聞として「政府に批判的な情報」を読者に提供しなかった、ことへの「反省」だという。

それは、政府が発表する「感染者数」の「根拠」とか、「対応策」の第三者的立場(たとえば「科学」)からの「妥当性」とかという、生活密着の「重要情報」であるから、これを読者に提供しなかった、ことの「反省」に読者が驚いているという。

もちろん、もっと驚いているのは「政府」であるけれど、「プロパガンダ機関ではない」という新聞社としての歴史的宣言となっている。

さては、「なにを今更」という「国内読者」からの意見に対して、各国からのコメントが寄せられていて、それぞれの国の「ダメさ加減」大会になりつつも、「ニューヨークタイムズよりはマシ」という意見で締め括られている。

きっとニューヨークタイムズの読者が投稿した、「意趣返し」に違いないけど、世界中に「いいね!」という輪が広がっているのに、ニューヨークタイムズは「沈黙」するしかないという体たらくを、これまた世界に示しているのであった。

日本語の特異性から、日本の新聞社が「やり玉に挙がらない」のは、「ローカル」の証拠で、それだけでも「意趣返し」にはなるかもしれない。

果たして、ニューヨークタイムズの発行部数の「倍返し」になっている。

「電子ペン」のあれこれ

紙を減らしたいから電子化をする、というのは、ヘンだと思う。
便利で効率がいいから電子化をしたら、「ついでに」紙も減る、という順番でないとおかしいからだ。

「紙を減らしたい」という優先づけには、あたかも「地球環境にいい」という根拠希薄な「言い訳」があって、なんだか「いい子になりたい」という幼児性を剥き出しにするので「気持ち悪い」のである。

そもそも、森林を伐採してはならない、という刷りこみがある。
大規模な伐採で、環境が悪化する、という事象は確かにあるけど、それが全地球的危機だというのはいかにも大袈裟で、インチキ臭い。

国土の7割が山地で、それがそのまま森林であるわが国は、ほんとうなら、かなりの「資源国」のはずなのに、「林業」が成りたたなくなって久しい。
これから「花粉」の季節がやってくるけど、わが国の森林を「杉だらけ」にしたのは、「自然」ではなくて、「儲けるため」だった「はず」なのだ。

せめて、成木になるまでの時間は、間伐材を現金化するのが、ひと世代分以上の時間を要する「林業」として重要なのだけど、杉の割り箸すらも使わずに、プラスチックで洗浄の手間がかかるものを「エコ」という、鉄道会社系の「駅ソバ」なんかは、この意味で犯罪的な環境破壊をしても「自慢」をするようになった。

もちろん、「家」にしても、「鉛筆」にしても、つかう木材は外国製と決まっていて、とうとう「バイオマス」という言い方で、木を燃やすようになった。
このときの「木」とは、「木くず」のことだというけれど、木を細かく切ればどれもみな「木くず」になる。

そんなわけで、便利だから電子ペーパーを使う、ということになったら、電子ペンの「書き味」が、次の問題になるのである。

いわゆる「タブレット」でいえば、「iPad」の完成度は高いのだけれど、やっぱりバックライトでの「眼精疲労」に辟易するのである。
それが、「E-INK」の「電子ペーパー」を使う最大の理由で、なんでもPDFにする『クアデルノ2』(A4版)を選んだのだった。

パソコンとの「同期」は、単独で出来ないという手間があるけれど、同期先を「クラウド」にすれば、「iPad」との連携も簡単なので、あまり気にしていない。

電子版がなかったり、図書館の貸出で「紙の本」でなければならいことがあるので、この場合の「読書ノート」は、手書きでつくることにした。
どうしてもの場合は別だけど、非破壊スキャンが面倒だからである。
それに、手を動かすのは、記憶に残すという効果もある。

しかしながら、大部冊の書籍の読書ノートもページ数が増えるので、後から読むのに面倒だ。
それで、iPadの『リキッドテキスト』というアプリ(有料版)に流し込んでしまう方法が気に入っている。

手書きのノートを、原形のPDFにするのである。
『リキッドテキスト』でまた書き込んだものも、PDFに保存できるから、それはそれで、『クアデルノ2』に再度取り込めばいい。

このアプリは、長文を読んで、論理の構造を理解するのに役に立つ。
なので、この作業ではバックライトを覚悟するしかない。
「E-INK版のiPad」が欲しい最大の理由がこれだ。

「アンドロイドのE-INKタブレット」は既に世の中にあるけれど、残念ながら「アプリ」の遣い勝手が比較にならない。
動画視聴は無視して、読んで書くことに特化したデバイスがないと「困る」のである。

そのiPadの弱点は、アップルペンシルで「書く」のに、「ペーパーライクフィルム」を別途購入して画面に貼らないと、どうしようもない「書き味」となることで、逆に、このフィルムは、トレーシングペーパーのようなものだから、素晴らしいディスプレイの発色を制限することになる。

優先順位は、「書くこと」なので、「ペーパーライクフィルム」を貼ることに躊躇はない。
一方で、『クアデルノ2』には、「書き味」が考慮されているので、最初から紙のようにザラザラしているのが特徴だ。

付属の電子ペン(『クアデルノ2』から電池不要になった)は、驚くほど「チープ」なペンだが、ペン先の書き味は悪くない。
そこでドイツ、ステッドラーの『ノリスデジタルジャンボ』を、ボディーの書き良さそうなイメージから購入した。

三角軸で1.3ミリの超太シャープペンを持っていて、愛用していたからである。
左がデジタルペン、右がシャープペン。
デジタルペンの尻にあるのも、シャープペン同様に「消しゴム」機能になっている。

 

『クアデルノ2』との互換性でいうと、『ワコムONE』で使えることが条件のようだ。
すると、「鉛筆型」では、以下の二種類があって、さらに『三菱鉛筆9800』という緑色の「あれ」もある。

なお、ステッドラーの方は「新品」を削った「長さ」が長すぎるという不評だ。
ハイユニや9800は、使いこなした「長さ」という設定になっていて、木部の材質は、「本物」の鉛筆とまったくおなじである。

  

さて、書き味の「好み」という点で言うと、「ペン先」の材質によるようだ。
ポリアセタール樹脂(要はプラスチック)と、エラストマー(ゴム様のフェルト)に大別される。

樹脂はボールペン的、エストラマーはサインペン的な書き味となる。
画面を傷つけないために、ペン先は自身が削れるようにできているから、「替え芯」がひつようになるのは、アップルペンシルとおなじだ。

ステッドラーは、「ジャンボ」だろうが一種類の交換芯だけでエストラマー製。
三菱鉛筆は、デフォルトで、ハイユニは樹脂、9800はエストラマーだけど、互換できて「ハイユニ」には本体購入時に3本の樹脂交換芯が付属している。

これが9800との値段差なので、本体の値段はおなじなのが「電子」だ。
ワコムの「特許」が大元なので、様々な筆記具メーカーが、オリジナルデザインで出してくれるとうれしい。
なぜかドイツ人は「お好き」のようで、「ラミー」が万年筆様のデジタルペンを出している。

さては、電子ペン沼?