MTP公認インストラクター

5日間の合宿を二回、合計で10日間。
昨日、この日程を終了し、公認インストラクターに認定された。
資格の元締めは、一般財団法人日本産業訓練協会である。
略して「日産訓」。あの自動車会社とは関係ない。

詳細は、協会のHPをご覧いただくとしても、「MTP」について書いておこうとおもう。

Management Training Program の略である。
カタカナにすれば、マネージメント トレーニング プログラム。
これの「先生」に認定されたわけである。

日本におけることの発端は、アメリカ空軍立川基地だったというから、終戦直後である。
占領軍として、東京の立川市にあった立川基地で、日本人従業員を募集し、たくさんのひとが就職した。

しかし、それは「烏合の衆」で、ぜんぜん効率がわるい。
こんなひとたちと死闘を繰り広げていたのかと唖然としたのは、アメリカ人将校たちであったという。
そこで、「教育」することになった。

対象者は、日本人でも管理職になった、あるいは、管理職にしたいひとたちで、組織運営のかんがえ方を体系立てて教える、というものだった。

それが、基地へ航空機の部品などを納入する企業にもひろがって、ついには「マッカーサー指令」にもなる。
すなわち、わが国製造業への学習指導が「命令」になったのである。

基地に納入する物品の品質基準を守らせるには、その会社のなかで、マネジメント体系のルールに従った活動がきっちりできなければ、製品の質に影響するとかんがえられたからである。
いまの日本からすればウソのようなはなしだが、「安かろう悪かろう」とは、メイドインジャパンの証だった時代のことである。

OECDの資料によれば、日本経済の伸び率とMTPの企業への普及率が一致していた時期が、一般に「高度成長」といわれる時代である。

バブル経済の頂点のとき、MTPの導入企業も頂点だった。
さすれば、MTPをわすれた日本企業の衰退とは、理屈どおりの事象であるともいえる。

基地での逸話がしめすように、MTPは、「初級管理者向け」の研修プログラムである。
しかし、だからといって侮ってはいけない。

それには「順番」が隠れているからだ。
立川基地という組織のトップは、当然だがアメリカ空軍の「将官」である。
その下の「佐官」や「尉官」たち将校は、みなMTPをしっている。
だから、日本人従業員のうち、初級管理者に実施して効果があがったのである。

つまり、組織のトップをふくむ上位者たちがMTPをしらないで、自社の初級管理者だけに実施すると、問題が発生する。
このプログラムの精密な設計は、組織のマネジメントについて網羅しているから、受講すれば組織マネジメントの「あるべき姿」がかならずインプットされるのだ。

それで、自社にもどれば、トップや上位者(上級管理者)が、マネジメントの「素人」にみえてしまうのである。
もちろん、それは「事実」だ。
この訓練を受けていない、トップや上位者は、まちがいなくマネジメントの「素人」である。

これは、「滑稽」でもある。
昨日まで上位と信じたひとたちが、たんに権威をかざしているだけで、中身がないことが歴然とする。
こんな素人たちに、なんで自分が従属しなければならないのか?

こういう「副作用」が、このプログラムにはある。
だから、本来の順番における対象者は、トップや上位者が先に受講していることなのである。

まるで「織物」を織るように、トップや上位者が、すでに織り上がっていて、そこに、新任管理職の横糸が一本織り込まれる、というイメージだ。
わが国を代表するメーカーは、数十年もこれをくり返してして、MTPを企業文化という「織物」にしている。

逆にいえば、トップや上位者が別の模様で織り上がってきているのに、新任管理職の横糸が別の素材や色だったら、浮き上がってしまう「ノイズ」になる。
どちらの立場からも、不幸をつくることになるのだ。

だから、この「順番」は、ものすごく重要である。

MTPの「凄み」は、組織の活性化にある。
つまり、組織が良い(上手な)方法で運営されれば、当然に企業目的や目標が達成される度合いが高まる。
裏返して、組織が悪い(下手な)方法で運営されれば、当然に無駄がふえて効率が落ちるから、業績も自助によって向上しない。

単純な原理なのである。

これは、MTPが「あらゆる組織に有効」な理由だ。
営利目的の民間企業はもちろん、町内会から部活まで、はては労働組合だって、「組織」なのだから有効なのは当然である。

すると、あとは「やる気」だけだ。
トップがみずから率先垂範して、幹部とともに受講してもよし、業界団体として、トップ同士だけで受講するもよし。

先ず隗より始めよ。

ご相談はお気軽に。

教育出張

製造業にはあるという「教育出張」は、人材育成のツールとなっている。

内田百閒の名作とも迷作の『阿房列車』のごとく、「なんにも用事はないけれど、出張に行く」ことで、大きな会社なら全国の工場見学、小さな会社なら社会見学に社員が出かけるのである。
自社工場ばかりではなく、全国の他社工場でもいい。
とにかく「見聞をひろげる」ことが目的だから、べつに工場見学でなくてもいいから、「教育出張」なのである。

予算があろうがなかろうが、行きたいと思ったら社員が手を挙げる。
上司が「必要性」をみとめるので、ちゃんと「日当」もでるのである。
ただし、通常出張の「半額」が相場のようである。

しかして、どんな「必要性」を上司が感じるのか?は、かなりあいまいだ。
内心で「そろそろ順番だ」ということもあるし、見学先がユニークだから、ということもある。
このご時世なのに、続いているのは「無駄」ではないからなのだ。

マーケットの状態をみにいくから、マーケティングの担当者が行く、ということではない。
技術者だろうが、工場勤務者だろうが、はたまた事務屋だろうが、「行く」と言ったひとが行く。
そこに「新鮮な発見」が期待されているからである。

たとえば、鉄鋼メーカーのひとなら、ある意味どこでも対象があるから、どこへでも行く。
「鉄」は、文明生活のあらゆる場所にあるモノなので、どこでもいいのである。
それで、メーカーでは考えつかないようなアイデアがみつかれば、それはもう「儲けもの」である。
逆に、どこでもいい、ということがないと「発見できない」リスクが生じる。

鉄という製品は硬いけど、頭脳は柔らかさが要求されている。

ひるがえって、ソフト産業であるサービス業で、「教育出張」という用語を聞いたことがない。
あんがい、石頭なのがサービス業である。

さいきんでは、業績のよい旅館が、「休館日」をもうけて、全館で休んでいる。
予約の問い合わせに、「満室です」といって断るから、ふつうの利用客にはわからない。
むしろ、「満室なんて人気の宿の証拠」とおもわれて、いっそう都合がいい。
休んで都合がいいとは、なかなかの「発見」である。

それで、オーナー一家だけでなく、従業員も引き連れて、競合あるいは評判の宿にお客として宿泊するのである。

むかしからの旅館は、年中無休があたりまえだったから、ほんとうは自分がお客になったことがない。
それを「おもてなしの宿」とかいっておだてられた。
はりきって新しいサービスを追加するけど、自分がお客としての素人なもんだから、余計なサービスを自画自賛する神経がある。
季節労働で、あちこちの宿での勤務経験がある女子学生のほうが、よほどこのへんの価値基準はしっかりしている。

そんなわけで、休館日があって「教育出張」する宿と、そうでなく年中無休で「貧乏暇なし」の宿の差が目に見えて開いてきた。
そのうち、どちらさまもまねっこして、わが国から年中無休の宿がなくなってしまうのではないか?

中途半端に開けておくなら、閉めてしまったほうが楽でかつ経費もかからない。
けれども、どのあたりのレベルが判断の基準になるかは、ちゃんと「計算」しないとわからない。
じっさいに、こうした「計算」ができないでやってきた。
それで、やっぱり「計算しない」で、横並びにするだけしても、元の木阿弥ではないか?

こんな心配をしないといけないのが、宿である。

まだまだ、工業の世界から学ぶことがたくさんある。

横浜市消防局救急隊のお粗末

防護服を着ていたから安心のはずが、新型肺炎に感染してしまい、さらに高熱のなか「出勤」して「出動」もしていた。
いったい、どんな「危機対応」をしていたのか?
少なくとも、「科学的」な管理がなされていないことだけは確かである。

いつ感染したのか?
この問いに、横浜市幹部は、「前日に感染者を搬送した」事実をあげた。
は?

素人でも、潜伏期間をしっている。
たった一日で発症するのか?
すぐさま、厚生労働省が、それ以前のどこかの時点にて「感染」したはずだとコメントしたのは、納得できる。

すると、横浜市の「幹部」とは何ものか?
まるで、福島原発が爆発したときの、原子力保安院のひと(法律が専門の事務方だった)が、なんだか「技術職」のふりをしてえらそうに記者会見していたことが思いだされた。

しかも、この事故については、「マニュアル」があるのに、だれも「マニュアル」をみていなかった、という衝撃の事実がレポートされていることはずいぶん前に書いた。

わが国の「行政」は、中央官庁から放射状に、しかも「完璧」に「コピー」されている。
福島のときは、経産省-原子力保安院-東京電力本社-福島第一原発という流れに沿って、コピーされていた。
「マニュアル」を「みない」ということが、である。

今回の横浜市消防局救急隊のお粗末は、総務省消防庁-横浜市消防局という流れに、あろうことか厚生労働省が横やりをいれた形になっている。

すなわち、今回のものだけでなく、感染症が流行した場合の「緊急対策マニュアル」の「有無」と、これを「いつ」「だれが」みて、「どのように」実施するのか?ということが問われているのだ。

厚生労働省-保健所というルートと、消防の救急隊とは、いったいどんな関係になっているのか?
おおいに興味がわく。

「防護服」を着用していたのに「感染した」のは、「想定外」だという横浜市の役人の、信じがたい浅はかさは横に置いておいても、こういう「法学部=文系」がえらくて「現場=理系」は、道具に過ぎないという感覚から、もう狂っているのである。

文系なら、保健所というルートと救急というルートの「配線」をどうするのか?が仕事になるのだろうが、「行政」としての「限界」あるいは、「逃げ道」がここにある。

決めるのは「政治です」と。

しかし、ここがアメリカ合衆国ならそうなるが、日本国という官僚社会主義国では、そうはいかない。
「逃げたい」ならば、官僚社会主義国をやめなければならない。
けれども、一方の、絶対的当事者である「議会」が、他人事だし素人だから、役人任せしかできないのである。

こんなとき、近代民主主義国家ならどうするのか?

じつは、政党が恒常的な「シンクタンク」を持っているし、分野が足りなければ政党が専門家を雇って、方策を策定し、これを議会に提出して決定する。
このとき、市長が行政を代表して策定した案と突き合わせるのである。

わが国には、近代政党が事実上存在しないから、ぜんぶが「行政」に依存するようになっている。
それで、行政組織内でできた「文系優先」(高等文官試験をひきずっている)で、現場を平気で無視できるものが「えらい」ことになるのである。

ところが、何度も書くが、文系の高等行政マンとは、人為的にできあがった法体系というシステムの維持管理「しか」できないから、自然科学による緊急事態=法体系のシステムとはことなる「系」の事態が発生すると、たちまち「無能」をさらけだすようにできている。

それが「原子力保安院」の「あの人」だったし、今回の「横浜市」の「この幹部」なのである。
そして、かれらにそんな役回りをさせる、「組織」というものを、誰がコントロールしているのかさえ不明になるのである。

しかして、こんどは厚生労働大臣が、16日「感染経路がわからなくなった」と発表した。
へんてこな「自由」にとらわれて、「入国放置」ということをしたから、それはわからなくなるだろう。

台湾の総統が、早期に「入国管理」をもって、厳しいけれど「緊急対応」したのとは、おおちがいである。

そんなわけで、いま、わが国内閣は「爆弾ゲーム」に興じだした。
こんどは厚労省が、入国管理の法務省に爆弾を投げつけた。
検事総長の定年問題が、感染症の入国管理に入れかわろうとしている。

福島のときは、防護服を着ていたら「放射線」を防護できるかのごとくの「原始人ぶり」をしていたが、こんどは、防護服を着ていたら「ウィルス感染」を防護できるそうである。

わが国の「法学部」は、もうちょっと「科学」を勉強しないと、「科学技術立国」に泥を塗ることになる。

あぁ、失礼しました。
とっくに「科学技術立国」をやめて、「観光立国」になるのでした。

その観光客を、クルーズ船に閉じ込めていたら、どうしたことか「シウマイ弁当が4000個も」なくなってしまいました。
「管理」ができないことが、世界にバレて、なんだかなぁ。

市民は、まったく、トホホ、なのであります。

香川県のゲーム時間規制条例

「完璧なる全体主義」が香川県で実施される予定になっている。

十八歳未満の「ゲームは一日60分まで」という使用制限を、明日17日からの二月定例議会に提出し、可決予定だという。
しかし、「強制」をともなわない、「基準」を規定するだけだという。
だから、「罰則」をともなわないから、実効性も低いと予想されている。

だったら、こんなもの議会に提出することはない。

なんのための「条例」なのか?
おそるべき「全体主義」であることに、だれも気づかないのか?

つまりは、条例を「つくること」が目的になっているのだ。
これを、「自己目的化」という。
「愚策」が生まれる典型的な「愚行」だ。
しかも、自己目的化した目的には、「屁理屈」がともなうのも特徴である。

今回は、本件検討委の委員長が、以下の話をしたと新聞が書いている。

「家庭や学校で取り組む対策に統一性を持たせ、一定の強制力を担保するには具体的な規定が必要」だと。

どうして「統一性」が必要なのか?
しかも、「一定の強制力」とあるから、そのうち「罰則」をふくめた「改定」も視野にいれているにちがいない。

これを推進するひとたちは、『アンネの日記』を読んだことがないのか?
そして、この「悲劇」の、本質である「全体主義」を、なんだとかんがえたのか?

思考力もない人物たちが、地方といえども「議員」になっている。

ひとびとが、ヒトラーのナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)を熱狂的に支持しながら、「ユダヤ人浄化」ということをはじめたときは、「ゆるかった」のだ。
その「ゆるやかさ」が、批判のもとになって「過激化」する。

そして、「もっと」、「もっと厳しく」が、ついには組織的になったのである。
これを役人として、機械的に実行した人物の裁判が「アイヒマン裁判」だ。

 

左は題名のとおり「調書」である。
右は、この裁判の「傍聴録」として、みずからユダヤ人で、ドイツから脱出したアーレント渾身の筆がさえる考察だ。
この本の出版で、アーレントはユダヤ人から「裏切り者」と批判され、旧友を失いもした。

神奈川県の「禁煙条例」は、原案に「家庭内」も対象にされていた。
この条例には、罰則がある。
それで、「アンネ」という少女が、「喫煙者」になったら、どうなるか?

ある日、戸建てやマンションに関係なく、自宅玄関にやってきた「禁煙指導官」(あるいは警察官でもいい)なるひとに、クンクンにおいを嗅がれて、「お宅、タバコやってますね」と指摘されて、その場で罰則の切符を切られる、ことを想像すれば、ことの大小ではなく、官憲による個人の自由剥奪という状態が出現する。

わたしは、タバコを十年以上前に「やめた」けど、これは、誰かから命令されたからではなくて、自分からやめようと思ってやめたのである。
やめるのも自由意思があってこそである。

もちろん、神奈川県は、この原案は「さすがにちょっと」ということで、対象から「家庭内」は外したけれど。
「ちょっと」ではない重大さが「ちょっと」といわれることに、いまだに違和感がある。

日本ではなぜか人気の、ジミー・カーター氏がどのくらいの「左派」なのか?あんまり解説はないのだが、所属が「民主党」だから、当然に「左派」である。
しかしながら、かなり「極」がつくことに注目したい。

彼が二期目の大統領選挙で、共和党のレーガン候補に大敗したのは、イラン問題とテヘランの大使館占拠事件の救出に失敗したからと説明するのは、一面だけに注意を向けようとしている危険がある。
彼が創設したのが「連邦教育省」で、「最悪」と評価されて大敗したのだ、と前に書いた。

なんでも「一律」にしたい「左派」に対して、有権者は「No」を突きつけた。
トランプ氏は、「教育省廃止」を公言していたから、そのうち「公約」として出てくるのではないかと思う。

わが国は、明治以来の「開発独裁政府」という性格がいまだにある。
だから、「全国一律」が「常識」になっている。
なのに、「地方の時代」といったりもするから、「痴呆の時代」なのだ。

律令時代の「中央集権」を、もっと強力に実行しているのが「日本国政府」であるから、「地方」の「独自性」は、ほとんど発揮でないようになっている。

国民を乞食にした、「ふるさと納税」で、総務省の役人から徹底的にいじめられている自治体は、「独自性」にこだわった「だけ」である。

もちろん、わが国の総務大臣は、国会議員という「源立場」をかんたんに忘却して、役人のロボットになり果てるから、こんないじめはいけません、とは決していわない。
選挙のときに、役人からいじめられるのがこわいからである。

ちなみに、カジノをやりたい横浜市は、ふるさと納税のおかげで、えらく税収を減らしていることも影響しているはずである。
カジノに反対する市民は、ふるさと納税ではなくて、ちゃんと横浜市に納税すればよいのだが、それは「お得」ではないとして、やっぱり「乞食」をやめない。

中央の締め付けが、地方を殺している。
こうして、独自色を出したい地方がとち狂っても、この国の人権派はだんまりを決め込む。

いろんな正体がみえてくるけど、まさか地方から全国一律になりはしないか?

中学生の娘と母の会話

たまたま食事をしていた隣席に、たまたま母娘がすわった。
食事時だから、なんのことはなく、この母娘も静かに料理を食べていた。
食器がさがって飲み物に移ると、娘がおもむろに中学の参考書をとりだした。

へー、こんなところで勉強するのか?と思っていたら、なにやら母親がはなしはじめた。
どうやら「社会科」の話題らしい。
あんがい、聞耳を立てたから、以下はかなり正確に書いたものだ。

いきなり「現政権の経済政策」について、かなり「適確」な批判がはじまった。

「アベノミクス」がいう「景気対策」とは、日銀による「ゼロ金利・マイナス金利」という「無謀」でしかなく、株式をもつ一部の投資家にだけの恩恵なのに、消費税は「増税」して、その対策が「2%」のキャッシュレス決済における「返金」という無意味になっている、と。

すると、娘は、「そんなこと解答にできないよ」といったけど、母親は意に介せず「自由に述べよ、なんだから、いいじゃない」という。
「それに、お母さんがいっていることのどこがちがうの?」
「う~ん。その通りだとおもう」

「どこがその通りなの?」
「日銀の金利と消費増税」
「なら、それでいいでしょう?」
「うん」

「あと、おおきな問題は親中の外交ね」
「ああ、それね」
「大問題でしょ?国家の存亡にかかわることよ。お母さんの時代よりあんたたちの時代になったら、日本が占領されちゃうから。そうなったら、みんな奴隷になるのよ」
「やばいよね」

「でも、学校でこういうこというと、どうなのかな?」
「なにが?あんた、なにを気にしているの?先生?」
「っていうか、雰囲気」
「なに?親が右翼だからって文句いうの?」

「そうじゃなくて、あんまりこういうこと、いうひとがいないとおもうから」
「だから、自由意見でいっておきなさい。すこしは目を覚ませって」
「だれに?」
「みんなによ」

「あんた、ほんとうはどうおもっているの?」
「え?。。。やっぱり、この国やばくない?っておもうけど」
「どうやばいのよ?」
「民主主義じゃないし」

「どうして民主主義じゃないっていえるの?」
「だって、アメリカの大統領選挙みればわかるじゃん」
「なにがわかるの?」
「立候補者から選ぶんだよ。大騒ぎして」

「それで?」
「それに、議会が予算編成するんだよ」
「その意味は?」
「行政が予算案をつくらないってこと」

「こないだの弾劾裁判と一般教書演説がおもしろかったわね」
「上院が多数だから、否決されるのわかってるのに。学校でも話題だったよ」
「あれって、民主党の党内でのバイデン降ろしでしょ?」
「たぶん。日本のニュースはいわないね」

「それに、おどろいたのが、大統領は議会に入れないことね」
「えーっと、議長から招待状をもらって議会に入るのが許可されるんだよね」
「そうよ、それが三権分立。大統領が議事堂に勝手に入れない国」

「これ、日本でかんがえたらどうなるの?」
「総理大臣は国会に入れない?」
「総理は国会議員から選ばれるのよ」
「そうか。そうなると、、、あれ?わかんない」

「イギリス式なのよ」
「あっそうか」
「あんた、イギリスのこと勉強しないとダメね。それに、女王陛下と天皇陛下はちがうのよ」

「ちがうの?」
「なにいってるの?あたりまえでしょう?」
「えっ、どうちがうの?」
「天皇陛下のほうがえらいにきまってるでしょう?」

「なんで?」
「ばかね、歴史がちがうのよ」
「ああ、長いんだ、天皇家の方が」
「世界最古よ。エリザベス女王のウインザー朝は1917年からだから、たったの百年、まだ4代目なんだから」

「古いってだけ?」
「あのね、これが伝統っていうの。古いだけっていうけど、二千年以上続いてるってことがすごいのよ。あんたの子孫が千年も続くの?」
「。。。。。」

「でも天皇制っていろいろいうけど」
「あんた、その天皇制ってやめなさい。共産党用語なんだから」
「そうなの?みんないってるけど」
「だから、日本人がおかしくなるの。それが共産党の作戦よ」

「でね、ウインザー朝ってドイツの王朝からの流れなのよ」
「そうなの?」
「それに、エリザベス女王には、ウインザーって苗字があるのよ」
「あれ?苗字?」

「イギリス歴代でも苗字があるのは、ウインザー家が最初よ。それまでなかったんだから。どのくらい天皇家からして格下か、わかる?」
「へー、そうなんだ。なんか、すごいね」
「あたりまえでしょ」
「お母さんがすごいみたい」

「だから、日本人はちゃんとしなきゃいけないの。その辺の普通の国とちがうって。差別とかじゃなくて、じぶんたちの誇りとしてしっかりしないといけないのよ」
「そのわりに反日されるよね」
「それは、日本人としてシャンとしなかったからでしょう?自民党の売国奴たちが日和ったからバカにされるのよ」

「じゃあ軍事力もいるの?」
「なにいってるの?あたりまえじゃないの?軍隊がない国なんて国じゃないでしょ?」
「それって過激だよ」
「あんた、それ学校でならったの?」

「わかんないけど、なんとなく」
「もうだめね。留学しなさい」
「どこに?」
「海外ならどこでもいいわ、東アジアを除けば」

「じゃあドイツがいい」
「だったらドイツ語勉強しなさい」
「やるやる」

女、子どもの話とは、むかしなら相手にされないが、時代はおおきくかわっている。

パレスチナ化する日本領土

世の中には面倒くさいはなしがたくさんあって、「問題解決できない」問題にあふれている。
学校時代は解けない問題は出題されなかったけど、世の中には、解ける問題のほうがすくない。

解ける問題を上手に解くものが優秀で、解ける問題をうまく解けないものは凡庸とされるのは、「解ける」という点では否定しないが、「解けない問題」をどうするかは、かなり本人の「センス」にもよる。

解けない問題の「正解」は、だれにもわからない。
これは、「四次元」で解く問題だからだ。
わたしたちは、点、線、面までの「三次元」にいきているから、時間がくわわった「四次元」は、グラフにひょいと書くこともできない。

世の中に「解けない問題」がたくさんある理由はなにか?
それは、「経営資源」というもののなかに「時間」がはいっているからである。
ひと、もの、カネ、情報、、、、、時間。

これらを「トータル」で駆使して目的や目標を達成するのが「経営」だから、「正解」にあたる「ある一カ所」を指し示すには、「四次元グラフ」のなかで特定するひつようがある。

ところが、この問題の正解を指し示すまでの「時間」でも、環境は刻々と変化するから、結局「近似値」に近づけることしかできないのである。
しかも、それが「近似値」であることさえ、だれにもわからない。

今日の判断が、もしかしたら「大間違い」かもしれないし、もしかしたら「かすっている」のかもしれない。
それで、仕方ないので、どのくらい目的や目標とズレているかをたえず確認することで、その都度「修正」するしかないのが「経営」という行為になる。

ところが、もっと厄介な問題が世界にはあって、それが「領土問題」というものになる。
土地、あるいは海洋であっても、そこに境界をもうけて、その内側と外側を区別する。

この原理の単純さゆえの複雑は、世界が自分ひとりではないことにはじまる。
世界にふたりしかいなくても、それぞれの生活圏がぜんぜん関係なく離れていたら、世界はじぶんひとりに等しいから、なんにもかわったことはない。

しかし、接近してくると、とたんに「奪い合い」という事態になる。
その土地や海洋自体は、そこから動かないので、まったく人間の都合による「奪い合い」ということだ。

わが国よりはるか遠くの中東で、むかしは「中近東」といった地中海の東海岸側にある「パレスチナ地域」に、「シオニズム」という政治運動から、ある日突然、大量の外国人がやってきて、現地人を追いやって住みついてしまったら、そのまま「建国」された。

追い出されたひとたちは、はじめ「60万人」ほどだっけど、60年も時間がたって、子孫をいれれば数百万人になっている。
これが、「パレスチナ難民」で、北の隣国「レバノン」や、東の「ヨルダン」それに、東エルサレムやガザという地域に住んでいる。

あんまり遠くて、どうでもいいようにおもえるが、石油を産する地域になるから、ぜんぜん他人事ではすまない。
トランプ政権が、あたらしい「中東和平案」を提案して、わがマスコミは批判的に伝えているが、はたしていかがか?

たしかに、「理屈」のうえでは、理不尽な「案」である。
ようは、「現状の容認」をする、という「だけ」の案だから、パレスチナ難民のひとたちを元の場所に帰還させて住まわせる、ということはこの案にはない。

むしろ、注目は、周辺のアラブ諸国の「変化」で、かつて「四回」も戦った中東戦争からすれば、「五回目か?」といえばさにあらず。
ぜんぜんやる気がなくて、しかも「他人事」なのである。

つまりは、当事者で決めてちょうだい。
アメリカ案?う~ん。わるくないんじゃない?
これが、かつての盟主エジプトの反応である。

「パレスチナ政府」を認める、というのは、これで何回目かわすれたが、かならずパレスチナ側が「拒否」してきたし、今回も「拒否」したのは、案自体を拒否したからである。

さてそれで、パレスチナ側はこれからどうするのか?
じつは、資金援助していた周辺国が、援助に疲れてしまっている。
それに、アメリカも中東から足ヌケしたい。
ならば、出てこられるのはロシアなのか?それともあの大国か?

この両国とは、領土問題があるのがわが国である。
尖閣には領土問題は「ない」という、わが外務省の公式見解も、「理屈」ではそうなのだが、はたして「実態は?」となると、かなりあやしい。

「現状の容認」なんかできっこない、のがわが国の「領土問題」だから、構造が「パレスチナ問題」と似ていて、さらに、追いつめられ方も似ているのだ。

一戦交えるはなしをした国会議員が、所属する政党から除名される「事件」があったけど、いまさらに、その「政党」は、どんな解決策をもっているのか?
相手国との「交渉」・「話し合い」における「戦略」は?きいても無駄な愚問になり果てている。

パレスチナ自治政府との知恵の出し合いもしていないにちがいない。
もちろん、「なにもしない」ことに長けているのがわが国の特徴だから、ひたすら「問題の先送り」という方法で、解けない問題を放置するのである。

なるほど。

俳優の日常を追求してはいけない

俳優になりたい、とおもったことがあった。

いまはどうしているかしらないが、45年以上まえ、小学校の卒業式にあたって、在校生からの「呼びかけ」というコーナーがあった。
「卒業生のみなさん」からはじまる、ひとりひとりが短い言葉をつないで、全体でメッセージにするものだ。

毎朝、この練習で、指導の先生から名指しで褒められた。
なんともいえない「間」がいいと。
あんまり毎回褒められるものだから、同級生からも褒められた。

高校生。現代国語の授業で、教科書を席順でまわして、少しずつ音読させられた。
「はい次」といって、わたしの順番になると、いつも先生が「はい次」といわないので、最後まで延々と読まされた。

どこまで読まされるのかとおもいつつ読んでいると、読み終えても先生が反応しない。
しばし間があって、「どうした?」というから「ぜんぶ読み終えました」といったら「聞き惚れた」という。

これが何回かあったら、「ラジオのアナウンサーになれ」といわれた。
ぜんぜんかんがえたことがなかったし、職業について他人から具体的なイメージをもらった最初だった。

全盛のテレビじゃないから、クラス中が笑ったが、それからラジオを聴くようになった。

わすれられないのは、森繁久彌と加藤道子のご両人「しか」出演しない、『日曜名作座』だった。
登場人物のキャラクターを「声」だけで演じ分ける、こんなことができるものか?いや現実にやっている。

なんだこれ。すごすぎる。

いまは、西田敏行、竹下景子のご両人でつづけている。

民放では、御大・小沢昭一の『小沢昭一の小沢昭一的こころ』というバカバカしくも可笑しい、大長寿番組があった。
『全国子ども電話相談室』の直後に、子どもにはわからない「小沢昭一」の大人の時間があったのが不思議だ。

こちらは、「ネタ」が書籍になっていて、シリーズを買い込んでは自室で朗読しただけでなく、リズムを真似て、英語学習のために買ってもらったカセットテープレコーダーに録音した。
あの「味」の再現はできなかった。

  

幼稚園前、祖母が出入りしていたので何回か連れて行かれたのが、進藤英太郎宅だった。横浜に住居を構えていたのだ。
「おお、坊きたか」といって、在宅しているとうれしそうに出てきては、かならずお菓子をくれたが、その笑顔の掛け声とお菓子ぐらいしか記憶にない。

小学生のとき、夕方の30分ものテレビに、山田太郎主演の『一心太助』をやっていて、大久保彦左衛門を進藤英太郎がやっていた。
わたしの中で、いまでも、進藤英太郎が大久保彦左衛門なのである。
まちがいなく、一生変わらない。

東映の「忠臣蔵」では、吉良上野介を憎々しげにやったりしたのは悪役でならした俳優だったからだが、別のオールスター作品では浅野内匠頭切腹の立会人における「武士の情け」をしみじみと演じている。

晩年の傑作は、『おやじ太鼓』で、まったく芸の細かさは「さすが」である。
夫人役は風見章子。
いったいいくつのときの「老け役」なのか?

エジプトのカイロにいたころ、こちらも悪役で名高い小沢栄太郎をご夫妻でピラミッドに案内したことがある。
当時、『白い巨塔』の鵜飼教授役が直近の印象だったから、どうしてああいう演技ができるものかと質問した。

なぜなら、一日中笑いがたえない人で、なにか言っても、返答を聞いても「コロコロ」笑うからである。
はたして、このひとが、全国民からうらまれる「悪役」とはおもえなかった。

すると、「じぶんとぜんぜんちがう人物を演じるのが、おもしろくてしょうがない」といって、またコロコロと笑われた。
それから、伊丹十三監督の『マルサの女』で、えらく気弱な税理士役で出てきたのを観ておどろいたけど、それは伊丹十三の「ひとの悪さ」もいっしょに観た気がした。

あの「小沢栄太郎」の、「ふだん」をみせたからである。

どういう気分で、あの税理士役をやったのか?
直接本人にうかがってみたい気もしたが、なんだか「野暮」な質問なので、とうとう連絡しなかった。

エジプトから帰国されてから、お手紙を頂戴して逗子の自宅を訪ねてほしいとあったけど、なんだが憚れた。
わたしも帰国して、ホテルの新入社員研修でコーヒーハウスのウェイターをやっていたとき、小沢夫妻がスタッフと打ち合わせで来店された。

コーヒーのおかわりを注ぎにいったが、議論に夢中で気がつかない。
奥様が気がついて、ふと目が合ったとき、「カイロではどうも」と言おうとしたけど、仕事の邪魔になるから一段落してからご挨拶しようとおもっていたら、ご一同そのまま席をたってしまった。

奥様が、こちらを振り向いて、不思議そうな顔をされたのが印象に残っている。
これが、大俳優・小沢栄太郎先生との今生のわかれとなってしまったのは残念である。

あのとき、強引に声をかけていたら?

けれども、やっぱり「観客」は「観客」でいたい。
それが、俳優にとっての「楽しみ」を「密か」にさせるのだし、「観客」は観る側にいることで、無限の想像(妄想)をめぐらせることができる。

やっぱり、ラジオのアナウンサーか、俳優になりたかった。
それでいま、「講師」をつとめるとき、「舞台」のつもりでやっている。

台湾は公用語に日本語を加えるか?

国際法的にいえば、台湾の「帰属問題」は、はっきりしないまま、いまにいたっている。
日本は台湾を放棄したことになっているが、それすらも「あやしい」からである。

だから、選挙でえらばれた最初の総統になった、李登輝(岩里政男)氏は、その著『台湾の主張』で、台湾は「日本領」だと主張している。

中国経済を発展させれば、自動的に「民主化される」と信じて、いろいろ援助をしてきたが、実態は、おそろしく「不純」な「援助交際」だったと、アメリカがいまさら気がついた。

ソ連が崩壊したとき、アメリカ人は無邪気に「自由化」すればうまくいくと信じたが、「自由主義」における「自由の概念」をしらなかったひとたちは、ただ好き勝手をやって、とうとう「マフィア経済の国」になってしまった。

そうなるだろうと「事前に予想」したのは、世界でただひとり、故小室直樹氏のみだった。
「社会学」が、国家の崩壊とそのゆくえをドンピシャでいいあてたのは、驚愕だった。

ソ連の崩壊によるロシアでの「苦い経験」が、ぜんぜん役に立たなかったのはなぜなのか?

アメリカ人は生まれながらにして、自由主義と資本主義をたたき込まれる。それは、まるで「空気のよう」に。
だから、自由主義と資本主義がわからない人間はいないと信じているからだ。

とは、小室氏の「論理」だから、アメリカは「二度も」間違えたことになる。

しかし、ここにきて、ようやくアメリカ人も気がつきはじめた。
超党派で対中強硬路線となっているのは、両国ともお互いの「水と油」の論争で理解したのだということだろう。
もちろん、アメリカは覇権の挑戦者を前もって叩き潰すことを「是」とする国である。

ここにきて、レッドチーム入りを画策しているわが国を「叱りつけない」のは、とりあえず「泳がせておく」ことにして、獲るモノは獲っておくという戦略にちがいない。
防衛費の「負担問題」がそれだし、カジノもそれだ。

外国に自国の防衛を依存して、それが「経済的だ」という価値観は、「双子状態」の韓国もおなじだ。
しかし、高すぎるとなると、「自主防衛」という、世界ではあたりまえの概念が出てくるから、そこのところのサジ加減がある。

アメリカからしたら、日韓を自主防衛に走らせることは、国益にかなわない。
ずっと、属国におくことが彼らの国益なのである。
だから、「護憲派」とは「究極の親米派」になる。

日本国憲法が制定されるとき、日本共産党が「軍を持たないのは国家ではない」として「九条」に反対したのは、ただしい主張であった。

米軍駐留費の一部負担のことを、「思いやり予算」という「倒錯用語」をつかうのは、ガチガチの「中華思想」にほかならない。

日韓ともに、本国よりもはげしく、より厄介な「小中華思想」の国である。
すなわち、近代人の思想をもっているものではない。
アメリカナイズされて心地よいのは、やっぱり精神が「倒錯」しているからだ。

つまり、かなりへんなひとたち、になっている。
「エキゾチック・ジャパン」とは、「異質」という意味だけれども、良い意味ばかりではないのである。

戦後、日本に見捨てられた台湾は、戦前の日本人をイメージして、「親日」だったけど、未来永劫親日とはおもえない。
もちろん、これは残念なことだけど、いまの「かなりへんなひとたち」になった日本人に「憧れる」ことがへんだからだ。

しかし、台湾の地政学的リスクは、大陸に近いことで、いつ「呑み込まれるか」という恐怖が、常にある。
それで、「少子化」の深刻さは、韓国の次に台湾にある。
わが国の少子化問題のレベルは、比較すれば相対的に「低い」ほどだ。

アメリカの対中戦略変更によって、「台湾防衛」が、東アジアにおけるアメリカ自体の信用問題になってきている。
各国が見守っいるなか、過去にないコミットをはじめた。

石油が自前になったから、中東から足ヌケをかんがえるアメリカを、どうやって引き留めるのか?が、あちらの国々の戦略になった。
さいわいかな、足ヌケできないイスラエルが存在しているのが、紛争のタネとして利用するはなしに転換した。

中東の石油に90%も依存しているわが国が、アメリカの足ヌケの後釜にならざるをえなくなったのは、大変化だが、アジアの自由主義の国々が「期待する」のは、ある意味当然である。
本音はレッドチームの親玉にかしずきたいのだが。

そんなわけで、アメリカに上手につかわれるのは、あちらの大統領がビジネスマンだからでもある。
けれども、哀しいかな、わが国の立場はアメリカの属国だし、それしか生きる道がない。

台湾は、本音は親日をとっくに卒業しているけれど、この際、やっぱり「利用したい」から、公用語に日本語を「加える」かもしれない。
いきなり「英語」にしたいのはやまやまなれど、世界で唯一、日本国以外の、「原住民会議」における「公用語が日本語」だから、少数民族のため、というれっきとした理由がある。

レッドチームにいきたい日本を牽制するのに、これ以上の妙手はない。
日本国内における「親台湾」の爆発的支持が望めるのは、まちがいないからである。

けれども、この一手は、日本も救う。

はたして、目に見えない「綱引き(神経戦)」のゆくえは、意思なき日本という国の運命を左右することまちがいない。

それにしても、ここまで「他国依存」しなければならないものか。

空中浮遊する「べき論」

日本企業の「真面目さ」とか「一途さ」が変容したのは、やっぱり「バブル期」だったかとおもえる。
すると、もう一世代分の30年も経ってしまった。

「失われた何年」という、不思議な言葉をつかうけど、これは勘違いや責任逃れをあらわす。
自然災害のように、受動的に聞こえるからである。
人間社会のことだから、ほんとうは能動的に「失った」のである。

さいしょに「失った」のは、「目標」だったとおもう。
この時期、わたしは、ホテルの全社予算編成を担当していた社内官僚だった。
バブル期の問題は、「はじまり」からはじまっていた。
つまり、売上予算が努力なく「達成」されてしまうのである。

営業部門の各部長たちは、誰もが「慎重さ」を崩さなかったのは、「未達」のときの「責任論」を嫌ったからである。
当時の仕組みは、「評価」に問題があったのは承知していたから、社内予算制度そのものの再編もやっていた。

トップ・マネジメントは、「ビジネスは成果だけで評価するものだ」と公言していたが、予算担当者のわたしからすれば「ビジネスはプロセスが重要で、成果はその結果でしかない」とかんがえていた。

どちらがただしいという議論はさておいても、「評価」が「結果だけ」なら簡単だが、「チャレンジ」の精神が弱くなる。
けれども、プロセスを評価することはたいへん難しく、接客現場の「判断」をいちいち記録することはできない。

そこで「業務のフローチャート」をつくってみた。
サービス設計上、どこが「管理ポイント」で、どんな「判断」をすればよいのかが、現場のひとたちと確認できる。
もちろん、「管理ポイント」とは「品質基準」になるから、サービス品質の標準化もできる。

しかしながら、このやり方は継続しなかった。
「組織の意志」として、経営層に「続行」をみとめてもらうことがなかったのである。

こんな手間をかけなくても、現場はむかしからやっている。
現場を信じられないのか、と。

とはいえ、これは、「バブルの反省」からかんがえだしものだった。
上述の「はじまり」から、頂点に達しのは平成2年(1990年)のことである。
この年の売上予算は、たった8日間で崩壊した。

できたばかりの「予算」が、どうかんがえても「かんたんに達成してしまう」ばかりか、大幅に「上回る」ことが確実となったのだ。
かってに予約申込みがどんどん入る。
経営トップから、作り直しを指示されたが、営業部門の部長たちは動かなかった。

これは、「恐ろしい」経験で、従来の積み上げ式の限界があらわになったのだ。
もちろん、めちゃくちゃ「良い数字」なのだから、あんがい上司たちは楽観していた。

しかし、これが「下振れ」したら、想像もできない「落下」がやってくることを「予算化できない」という意味でもあった。

そして、たった二年後、平成4年にそれが「起きた」。
新聞・マスコミでは「ジェットコースター」という表現がつかわれたが、実務の現場では、それどころか「エレベーターが落ちる」感覚だった。

わたしは、エジプトのカイロのホテルで、じっさいに落ちるエレベーターに乗っていたことがある。
このホテルは世界的に有名な五つ星であった。

それゆえか、数台横並びならまとめて「エレベーター・コア」をつくるのがふつうだが、この建物は、一台分ずつの「穴」だったから、空気抵抗でフラフラと落下しながら、最後に地上の安全装置であるスプリングにあたる。からだが足元からてっぺんまで「ツン」とくるのだ。

バブル崩壊の衝撃は、「ツン」どころではなかった。
予想どおり、どこまで落ちるのか、見当もつかなくなったのだ。
ホテルは景気の遅行指標になるというけど、それは上昇するときのことで、下降するときは先行指標になる。

景気がいいからといって、それを見極めるまで贅沢な食事の予約は入らないのに、わるくなると、とたんにキャンセルされるからである。

そんなわけで、やるべきこと、が放置されて、30年。
業界をこえて、いまはどちらさまも、やるべきこと、すらわからなくなっている。

地に足がついた施策が浮遊して、浮き足立っているできもしないことが地に足がついた施策だと勘違いして、業績は悪化するしかない。
これを言い訳するための「理論」が、世の中に蔓延しているから、ミドルからトップまで、マネジメント層の責任回避が容易になっている。

なんのことはない、ミドルからトップまでの経営者が経営しているふりをして、じっさいは運営しかしていない。
その運営もできなくなって、ハラスメントが日常化し、これを押さえつけるための「組織」をつくれば、解決しなくても責任はその部署だ。

かくも「お気軽」では、中学校の生徒会も仕切れない。

「バブル崩壊」とは、「精神の崩壊」でもあったのだ。
しかし、それはずいぶん前から準備されていた。
日本人の精神のよりどころの根本は、なんだったのか?
「心」と「宗教」の関係がうすい国だから、「べき論」が空中浮遊するのである。

こたえはわかっている。
それは、キリスト教圏から真似た、明治の大発明、「日本教=天皇崇拝」だったのだ。

今日、「建国記念の日」が風化するのも、「神話」をおしえないことだけが問題ではない。
「日本教」を棄てたので、神話をおしえる必要性がなくなったのである。

もはや、この日本教という宗教の復活は望めないから、いったいなにが取って代わるものなのか?

日本人は、日本人として共通の、近代をつくってきた普遍的な価値観を失ったのである。
それで、資本主義の本質も理解できなくなった。
「お天道様がみているよ」とは、「神の見えざる手」を意味した。
この「お天道様」が、「現人神」として機能したのだった。

それが、ほんとうの「人間」たち、「官僚」に取って代わられた。
いくべきが、社会主義になった理由である。

マックで語る会社の愚痴

関東で「マック」、関西だと「マクド」。
この言いかたのちがいが、わが国の言語的文化圏の「境界」をしめすから、旅先で時間の余裕があるときに、この世界的ハンバーガーチェーンに立ち寄ることにしている。

自国通貨と外国通貨の価値をはかるとき、さまざまな手法があるなかで、「購買力平価説」のなかでも、「ビックマック平価説」がもっともわかりやすい。
ビックマック一個が、円でいくら、ドルでいくら、ユーロでいくら、と書いていけば、為替レートをただしくしることができる、ということだ。

これは、ビックマックを提供する仕組みが、「世界標準化」されているからである。
材料の調達から、流通、そして調理と、すべてが「標準化」のルールによっている。

つまり、ビックマックとは、人類がはじめて経験した食品における「世界中でどこでもおなじ」なのである。
もちろん、フィレオフィッシュでも、ただのハンバーガーでもいい。
宗教的にいえば、「フィレオフィッシュ」が最適な比較対象になるだろう。

店舗の配置も、世界どこでもだいたいおなじだから、ちがうのは「利用者だけ」という特徴がすばらしい。
店内で国民性がむき出しに比較できるのも、世界標準を達成したチェーン店ならではである。

平日のひるさがり、店内には主婦たちがたむろしている。
なかには、「現役」のパートさんやアルバイトさんたちが、「職場の問題点」についてミーティングをしていることがある。
一種の日常の光景になっている。

ここで語られている内容に、とくだん聞耳を立てているわけではないが、あんがい興奮した奥様たちの声が通るので、聞きたくなくても聞こえてくるのである。
べつのいいかたをすれば、けっこうな「騒音」である。

まず、人数のちがいによる特徴がある。
グループなら、おおくても6・7人。ここには、かならず「ボス」がいて、このひとが「仕切っている」から、そうじて議論が日和っていることがある。

つまり「同意」の意思表示の場なのだ。

ところが、ボスや数名の子分たちが先に帰宅すると、たちまちにしてちがう話に豹変する。
もちろん、のこった数名、あるいは二名による話し合いは、なぜか「声を潜める」ところからはじまるのだ。

三名のばあいと二名のばあいとで微妙にことなるのは、三名だと一名が「ボスのスパイ」であるかもしれないという「疑心暗鬼」がまじることがあって、安心のお友達どうしである二名のときの赤裸々さとはちがうことがある。

しかし、どんなパターンであれ、共通している話題=議題は、上司である社員への批判か、作業上の「無駄な手間」についての告発なのである。
そして、どんな話し合いであれ、けっして結論を合理的にみちびくことはなく、みごとに「愚痴」でおわることである。

自腹での「セルフ・ガス抜き」なのだ。

そのベテランぶりからすれば、時給で1200円以上のひとたちではないかとおもわれるので、時給を人数換算すれば、ずいぶんな金額が「愚痴代」になっている。
6人で一時間なら、7200円分の負担をみんなでしているし、場所代としてのコーヒー分もある。

まったく「気の毒」になるのは、こうしたミーティングをもしや毎日やっていないか?と気になるからである。
長いと、夕食の買いもの時間まであるから、席をあたためるのは一時間どころではない。

おそるべき「損失」である。

会社として、ちゃんとこのひとたちの「本音」をききだして、適切な処置をくり返せば、おどろくほどの生産性が向上し、なおかつ、本人たちの時給もあがるだろうに。

つまり、ほんとうは社内のさまざまな決定の場に、参加したいのである。
けれども、「パートですから」とか「むずかしいことは社員さんで決めてください」とか、まわりの手前、こころにもないことをいっているうちに、ほんとうに「疎外」されてしまったのだろう。

それにしても、こんなひとたちの顔を毎日みているはずの社員さんや管理職、あるいは会社とは、いったいどういう存在なのか?
「宝の持ち腐れ」とはよくいうものである。

雇用形態のちがいだけで、身分制化して発言を奪うことによる「損失」をぜんぜんかんがえていない。
これをふつう「愚か」というが、「愚かな企業」がたくさんあるということである。

それでいて、「愚痴」の典型は、「経費削減」なのである。
現場を熟知しているひとたちからすれば、表面上の「経費削減」よりも、もっと効果的な方法があるとおもっている。

「社員のくせしてわかっちゃいない」とは、このことをさす。

たまにはこういった場所にでかけて、「愚痴」の数々をリサーチしても損にはならない。