まねるか、まねられるかの逆転

お手本を見ながら、「まねる」ことで学ぶ、という方法は、「門前の小僧習わぬ経を読む」とされても構わないリスクを承知でやることに意義がある。
たとえば、「お習字」が典型的だ。

先生が書いてくれた、お手本どおりに書けるように訓練する。
ときには、先生が後ろから筆に手を添えて、筆運びと「はらい」などの力加減をおしえてくれる。
これをもって、「手習い」といった。

武士の教育において常識だった、「素読」は、『四書五経』をとにかく幼年時から「音読」させることで、内容の意味は問わないものだ。
だから、「素読」なのである。

これと同じ手法が、イスラエルやアラブにあって、ユダヤ教典の『トゥーラ』や、イスラム教の『コーラン』を子どもに暗誦させる教育方法が、いまでもふつうに実行されている。

数百ページもある教典を完全に暗唱できるようにすることで、のちのちに「意味」がわかればいいという割り切りは、その効果が一生の価値になることをしっているからやらせるのである。

小児期に脳に深く刻まれた文言は、ついに、忘れろといわれても忘れられるものではない。

こうして、まねることが、ある日を境に、まねられる存在に変化する。
職人の世界でいえば、親方になる、ということでもある。

政治手法として有名なのは、中国共産党が日本の自民党の研究をまじめに、しかも、深くおこなったことである。
深すぎの意味が「情」にもなって、橋本龍太郎氏と中国女性との問題のようなこともあったが、氏の死去によって一緒に問題も葬られた。

日本が近隣の国だったから学びの手本にした、ということではなく、あちらから見て理想的な支配体制だったからである。

「改革開放」という政策の一大転換も、「日本方式」から学んだ手法だったといえる。
政府の下に民間経済があって、なんとなく自由経済、という姿が、完全に都合がいい「型」だからである。

このときの師匠は、田中角栄氏だったから、いまでもあちらの方々は、氏を「恩人」として仰いでいる。
「田中派」の生存者になった二階氏が、10年間も自民党を離れていたのに幹事長になれたのは、あちらからの「恩返し」の力学があるとかんがえれば、なんだか二階氏の言動と辻褄があうのである。

そんなわけで、「師の逆転」がおきて、いまではあちらの方々が「上位」になった。

それはいつからなのか?
「厳命」なのか「言明」なのかのはなしになったのは、2001年の小泉首相靖国参拝に反対する、あちらの外務大臣発言であったから、それ以前の前世紀おわりからであろう。

政治的に「言明」で落ち着いたが、だれもが「厳命」だとおもったのは、すでにわが国が、あちらから「まねる」という立場になっていたからである。

それからまた20年がたって、いま、どうしても「国賓」としないと、わが方のメンツがたたない、ということになっている。
あちらのメンツではないことに注意したい。

国内のコロナ禍と検察庁のはなしと、香港の一国二制度崩壊のはなしのどさくさに紛れて、今月27日、「スーパーシティ法」が成立した。
正式には、「国家戦略特別区域法の一部を改正する法律」という。

そもそも「国家戦略特区」というのは、あちらの国がつくった「方便」のことで、広大な大陸国家を統治する共産主義の諸制度では、改革開放がままならないから、そこに「穴」をつくったものだった。

これをわが国でもまねたのだ。
つまり、わが国を統治する全国一律の諸制度(=共産主義)では、あんまり不自由なので「穴」をつくろうとしたのだから、わが国の体制がどんな体制であるかを知らしめるものなのだが、だれもいわない。

さてそれで、この法律は、特区内に「まるごと未来都市」をつくるというものだ。
その「まるごと未来都市」とは、人工知能やビッグデータなど最先端の技術を活用し、未来の暮らしを先行実現すると説明されている。

これって、もしや生活のすべてが「監視」される街をつくるということではないのか?と懸念されている。
こうした「懸念」を記事にしているのが、『しんぶん赤旗』なのだから、どうなっているのか?

あちらの国では、「スマートシティ」という監視体制が実行されていて、これらを技術的にささえる企業を、アメリカ商務省は「ブラックリスト」化して公表している。

こうしてみると、わが国があちらの国にまねるのが「常識」になっていて、あちらの国のようになりたい、というひとたちが政権を担っている。
それで、香港のことも強くいえないのだ。

しかし、わが国のなかでも逆転がおきていて、自民党が(中国)共産党に、日本共産党が自民党化しているのである。

宮城県選出の桜井充参議院議員が、今月、野党統一会派を退会し、自民党入りした。
このひとは共産党から応援をうけて選挙にでたので、地元の共産党関係者は「背信行為」として批判している。

本人が言葉にした理由はどうであれ、まねるか、まねられるかの逆転という大きな動きを意識すれば、納得がいく小事なのである。

『大地』のバッタがやってくる

「一難去ってまた一難」どころの騒ぎではない。


   

パール・バックの名作、親子三代にわたる大河小説『大地』の映画は、1937年(昭和12年)作の一本だけで、初代の物語が描かれている。アカデミー主演女優賞受賞作品でもある。
バック自身も、生活のために書いたというこの大長編一作しか残していないのが「驚異」でもある。

清朝末期から辛亥革命時の農民一家を描いた作品だ。
印象的に登場するのが、まったくもって理不尽としかいいようのない「バッタの大群」(蝗害:こうがい)である。
歴史上、中国を何度もおそった蝗害の主役は、すべて「トノサマバッタ」であった。

今年、東アフリカで発生したのは、「サバクトビバッタ」という種類で、紅海を渡り、アラビア半島を横断し、いまインドで猛威をふるっている。
アラビア半島からインドへは、サイクロンの風に乗って飛んで移動するというから驚く。

陸上での移動距離は150キロ/日という。
地上のあらゆる植物を食い尽くしながら移動する。
その数、4000億匹と推定されている。
ひろがった面積は神奈川県に匹敵し、総重量は80万トンになる。

一匹はちいさくても、大集団をつくると集団がひとつの生命のようにみえる。

かれらの生態では、湿度と温度がたかまる「雨期」に、さらなる繁殖をして、ざっといまの500倍になるおそれがあるという。
すなわち、200兆匹で総重量は4億トンという予測だ。
むろん殺虫剤は現時点でも役に立たない。

すでに、アフリカで発生してから3世代目から4世代目になっている。

つい最近まで、WHO(世界保健機関)がさんざん話題になってきたが、これからは FAO(国連食糧農業機関)が主役になりそうである。
すでに、警告を発するレベルにあるのは、コロナのせいで調査が遅れ、初動措置ができなかったことも原因だと説明している。

蝗害が自国領土では発生していなくても、エジプトなどではすでに小麦不足が深刻になってきているのは、蝗害のある国からの輸入がとまったからである。
さらに通常なら、東欧の穀倉地帯ルーマニアからの輸入でまかなうものが、EUが先手を打って「域外輸出禁止」にしてしまった。

つまり、食糧生産国(地域)の防衛措置が発せられているのである。

インドでどのくらいの被害になるかは不明だが、すでに世界の穀物相場のなかでもトウモロコシは上昇に転じている。
これから、追って小麦や大麦などが上昇すると予測されている。

今回の蝗害とは地理的に関係のない、ブラジルなどでのコロナ禍が、農業従事者の不足をまねいて、例年よりも収穫が見込めないことも原因だ。
対象はことなるが、わが国でも「梅」が天候不順で発育しないまま、シーズンを迎えてしまった。
今年は、梅干しも梅酒も例年通りとはいかない。

バッタはヒマラヤを越えての移動ができない。
よって、インド亜大陸をどのように移動するのか?が注目される。
集団からはなれて、アフリカに帰る一団もあり、こちらもアフリカで増殖しているから複数の方面作戦が強いられている。

伝染病と似ているのは、バッタ自身の活動による移動にくわえて、人間の移動がこれを助けることがある。
つまり、かつての「ペスト菌」がそうだったように、荷物や貨物と一緒に移動するのである。

パキスタンの港を出て、上海に着いたコンテナ船のコンテナのなかから、サバクトビバッタが発見されている。
日本における「ヒアリ」のようである。
たかが数匹、とはいえないのだ。

もしも、中国に飛び火して「蝗害発生」となったら、日本も含む東アジアでとんでもないことになってしまう。
もちろん、直接被害はなくても、国際穀物相場が他人事をゆるさないし、生産国の輸出禁止という、食糧防衛措置をともなったらただではすまない。

西村寿行『蒼茫の大地 滅ぶ』は、政治サスペンスだが「蝗害」をテーマにした希書である。

 

すなわち、前から懸念されていた、食糧危機がいきなり起きるかもしれない。
いったんパニックとなると、あたりまえの日常が一変し、現代版の「一揆」が出現し中央政府と対峙する。

荒唐無稽、とはいかない。

ティッシュペーパーやトイレットペーパーの不足、ようやく見かけるようになった紙マスクの不足が証拠だ。
これが「食糧」となったら、どうなるものか?
「配給制」が頭に浮かぶ。

それに、コロナ禍でだれかがいいはじめた「新しい日常」とか「新しい生活様式」なるものとはなにか?
中央であれ地方自治体であれ、政府という役所が個々人の「生活」のなかに忍び込んできて命じることを、命じられるままに過ごすこと、なのである。

まだやっている「営業自粛要請」とは、解除後のいまとなっては「営業妨害」にほかならない。
営業時間の短縮だって、はたしてなんの意味があるものか?
無症状のひとにも着用せよという、ペラペラのマスクの効能は無意味としっていても、社会的同調圧力がそうさせる。

しかし、その同調圧力を利用しているのが、中央であれ地方であれ「役所」なのである。
責任をとりたくないから、である。
「無責任」こそが、わが国全土・全国民に伝染した「病気」である。

禁煙条例からはじまって、まもなくレジ袋の有料化もはじまる。
ちょっとずつ、しかし確実に「政府の命令」が生活のなかに侵入してくる。

受動喫煙なる反科学・反医学が、医師会という人為が推進する訳は、「諮問委員会・専門家会議」の議事録が最初から書かれていないようないかがわしさとおなじ闇のなかにある。

こんどはバッタが、人間社会のいかがわしさを暴くのだろうか?

東京オリンピックができないとすれば、もしやバッタの方が問題かもしれない。

計画倒産という選択肢

経営者が「もうダメだ」とおもったら、傷が深くならないうちに事業をやめて「倒産する」という手がある。

個人や中小零細企業なら、「自己破産」が選べる。
ただし、自己破産の手続きには、かならず弁護士費用が「150万円」かかるから、手元にこの金額があるうちに「決断」する必要がある。

なんと、破産するにも大枚のおカネがいるのだ。

「金の切れ目が縁の切れ目」とはいうけれど、とにかく150万円が重要な「ライフ・ライン」ともいえる。

もちろん、「民事再生」という手もあるが、経営者として継続できないことになる可能性があるし、会社を再生させるにもどんな「あたらしい作戦」のアイデアが自身にあるのかを自己チェックすべきである。

おおかたのばあい、「あたらしい作戦」のアイデアも「ない」だろうから、そんな自分に気がついて、はやく決心すべきだとおもう。

迷惑をかける相手の数がすくなくて、金額もすくないうちが、迷惑の傷を深めないからである。
どうせ「迷惑をかける」のだから、決断しないでいて結局のところ負債を膨らませる方が迷惑だ。

ちいさい迷惑ならば、再起の道の可能性もずいぶん残る。
わかっていて大きい迷惑をかけたら、再起の道すら険しくなるのは、「信用」という最大の資産のかんがえ方に由来する。

このひとは信用できるか、できないか?
信用できるとなれば、再起はできる。
しかし、信用できないと思われたら、それこそが社会からスピンアウトしてしまう。

「分かれ道」があるのだ。

人生の機微を書いた文豪、サマセット・モームの短編に、『会堂守り』や『蟻とキリギリス』のはなしがある。

『会堂守り』は、ロンドンの伝統ある教会堂に長年勤務した用務員が、あたらしい司教になって文盲を理由に解雇されてしまうことから物語がはじまる。
『蟻とキリギリス』は、イソップのそれとは真逆のはなしに仕立てている。

高校生のときこれらを読んで、そんなもんか、とおもった記憶があるが、そんなもんか、ではすまない機微がある。
こういうはなしを、無駄なく短編であっさりと書けるのが、文豪というものなのだろう。

ヨーロッパの教養人には、伝統的な「リベラルアーツ」を素養としてきた歴史がある。
これには、三学と四科をあわせて「自由七科」がある。
三学としては、文法、修辞学、弁証法(論理学)、四科としては、算術、幾何、天文、音楽だ。

もちろん、言語としては、「ラテン語」という素地がある。
だから三学には、「ラテン語の」が頭につく。
古代ローマ帝国の公用語をいまだに引きずっている、とは誰もいわないのは、われわれが『論語』を読み下す感覚と似ているからだろう。

そして、これら「七科」の上位に位置してまとめるのが、「哲学」であって、そのさらに上位に「神学」がある。
つまり、ピラミッドのように階層構造になっていることが特徴である。
これは、東洋にないので、わが国にもない概念である。
「四書五経」が、階層構造ではないことでわかるだろう。

さて、「経営」ということをかんがえ実行しようとすると、じつは「教養」という要素の重大さに気がつくのである。
あたりまえだが、よくいわれるようになった「ステークホルダー」とは、ぜんぶ「人間」だからである。

辞書によれば、「企業に対して利害関係を持つ人。株主・社員・顧客だけでなく,地域社会までをも含めていう場合が多い。」(大辞林)となっている。
地域社会も含めるのだから、人間をしらない経営はありえないのである。

すると、ふつうに「経営」といったときと、感じがことなる。

売上げや経費、そして利益やら資金繰りと、これらをまとめてどうするか?といった計画をたてて、それをもって金融機関と融資の相談をする。
こうしたことが「経営」だと思いがちなのだが、経営はそんな狭い範囲なのではない。

わが国で資本主義を率先垂範した人物といえば、渋沢栄一である。
ヨーロッパでうまれた資本主義は、ヨーロッパの伝統文化を背景にしていて、それは、ペスト禍による伝統知識の否定をも内在した厚みがある。

渋沢はこれを承知で、『論語と算盤』を書きあらわした。

日本人にリベラルアーツをいきなり求めるわけにはいかないから、『論語』を下敷きにした。
しかして、これが「日本版の資本主義の精神」となったのである。

出典はバラバラだけど、わたしがすきな資本主義の精神をあらわす言葉がある。

利によって行えば怨み多し。(論語、里仁)
義は利の本なり。(春秋左氏伝、昭公)
利は義の和なり。(易経、文言伝)

自己中で私の利益だけを追求すると関係者(ステークホルダー)から怨まれる。
顧客をはじめ関係者に義理を果たす(約束を守る)ことだけが、利益の源泉である。
よって、真の利益とは果たした義理の和になって還ってくるのである。

計画倒産の覚悟の前に、かみしめておきたい。

踏み絵になった「香港」

「香港」がひっくり返る。

アジアにおける「金融センター」として大繁栄してきたのは、「自由の賜」であることはだれもがしる理由だ。
本来は「東京」が第一の候補だったし、その地位を狙ってはみたものの、みごとに「失敗」したのは、政府による「規制の賜」であった。

日本人は、なにがしたいのか?

いろんな政策に『日本版』という文字がつくと、それは、本家・本元とはちがう「偽物」という意味になるのだけれど、どういうわけか、本家・本元より「優れもの」だと認識する、わるい癖がある。
たしかに優れているのは、政府・役人によるコントロールが効く「利権」としてみればそのとおりではある。

ダイナミックさがうしなわれ、チマチマした「制度」をつくることに長けるのは、国内行政法を縦横に調整する能力ゆえだが、国力を衰退させる努力になるから、目的合理性がないという結果になる。
緊急事態を解除したのに、自治体が勝手にダラダラ続けるのを放置するのもこの習性があるからである。

99年間で期限が切れるため、香港返還を条約どおり実行したときの英国首相は、たまたまサッチャー女史だった。
世界は、さらなる延長を言い出すかと気をもんだし、はたして共産国に引き渡すべきかどうか?を思料していた。

条約締結国は、「清朝」だったからである。
ちなみに、彼の国に正式に「国名」ができたのは、清朝を倒した辛亥革命による「中華民国」が歴史上の「初めて」である。
それまで王朝名しかなかったのは、世界の中心「中華思想」のためだ。

自分たちは世界の中心なのだから、そのへんのふつうの国とちがって国名を必要としない。
困ったのは、そのへんのふつうの国たちで、名前のない彼の国をなんと呼ぼうか?仕方がないので最初の統一王朝、始皇帝の「秦(シン)」の自国読み、英語なら「CHINA(シナ)」とした。

いまの英語の正式国名「the people’s Republic of China」には、しっかり「CHINA」をいれているけど、日本語表記の「支那」を嫌がっているのは「蔑称」だからという。

日本人の「支那」表記の発明は、発音からとった当て字なので、そんなことはないと反論しているものの、面倒だから先様ご希望の「中国」が通称となっている。
けれども、日本語で「中国」とは、古来より、鳥取・島根・岡山・広島・山口の5県の地域をさす。

そんなわけで、自分たちの都合に相手をとにかく合わせさせる、という思考をする訓練を積んだひとたちが、命がけで権力闘争までして、その勝者たちがつくる政権が相手の「香港」で、とうとう究極の法律が定められようとしている。

「一国二制度」という方便が、とうとう「嘘」だとばれても構わない。これで「台湾」も、確実に「覚醒」するのもいとわない。
そこまでむき出しに「やる」というのは、どんな理由があるというのか?

今年の9月に予定されている、香港立法院の選挙で、いわゆる「自由派」が大勝しそうだ、ということか?
これを未然に阻止するため、北京が決める法律で命じるのは、香港基本法がいう、香港のことは香港立法院で定める、をも無視する策だ。

この乱暴で野蛮なやり方を、アメリカをはじめとした西側諸国が活発に批判している。
けれども、北京で支配するひとたちは、もともとが乱暴で野蛮なひとたちだから、なにをいまさら、という感もなきにしもあらずだ。

日本政府が、このことに触れない、というのは、こうした意味ならいいのだけれど、発信しない、から理解されない。
むしろ、アメリカの同盟国なんかではなく、レッドチームの一員になりたいという本音がみえてきた。

それで、香港在住の日本人ビジネスマンが、匿名のSNSで、香港の自由派デモを揶揄する記事を「発信」し続けていたら、とうとう匿名のはずが本人特定となってしまった。

デモのせいでビジネスが大迷惑を被っている、ということからの「発信」だったのだろうけど、これが「日本人批判」に転じてしまったのだ。
外国の社会における「こっくりさん」が発露されたわけである。

あわてた日本の本社は、コメントを発して、まずは本人の「不適切な発言を詫び」、つぎに「本人を役員から解任した」とした。
匿名だったけれど「解任」つまり、会社を「クビ」になったのだ。

SNSで、酷いことになった女史プロレスの選手のことから、なにやら総務相が発言したが、本件にやっぱり触れない。

香港における「日本人批判」は、これからドンドンひろがって、まさか「日本人排斥運動」にならなければいいけれど、かんじんの日本政府が「国賓招待」をやめないから、世界的な「反日キャンペーン」になる可能性だってある。

となると、「身から出た錆」である。

そのキャンペーンの手段は、SNSにちがいない。
総務相はなんとするのか?

サッチャー女史は、香港返還にあたって、「香港が中国なるのではなくて、中国が香港になる」と演説したが、いまのところそうなってはいない。
しかし、世界潮流は、女史のいうとおりなのである。

「コウモリ国家」として生きる道は、不信の道である。

道議国家を目指すというなら、どうすべきか?
かつての「全方位外交」が通用しない時代になったことは確かである。

ダラダラの「要請」根拠はない

「緊急事態宣言」は、「新型インフルエンザ等対策特別措置法」の附則の改正が今年3月13日に成立し、翌14日に施行されたことを根拠としている。対象となる病気に、「新型コロナウイルス感染症」を加えるという方法だ。

注意したいのは、法に加えた「新型コロナウイルス感染症」とは、今年1月に、中華人民共和国から世界保健機関に対して、人に伝染する能力を有することが新たに報告されたものに「限る」と明記されている点である。

いわゆる「武漢風邪」のことに限定しているのだ。
だから、総理が、「解除」にあたって、今回の感染症の発生が「中国である」と言明するのは、いまさらだが最初から法律に書いてあることを言っているにすぎないので、どうしてニュースになるのか?とおもう。

逆に、今後、別のコロナウィルスなどによる感染症が拡大した場合には、ふたたび法律の附則に加えるか、別の法律をつくる必要もあるのだ。
だから、今回のウィルスの「変異」ならまだしも、ご新規だと大変だ。
それに、法律で「緊急事態」の期間も2年と限定していることは、国民として覚えておきたい。

首相が緊急事態宣言を発令すると、都道府県知事に権限がおおきく委譲されるのだが、市民に対しては「要請」であって「命令」ではない。がんばっても、「指示」までであって罰則はない。
ちなみに、首相は国会に「発令」を報告することになっているので、国会を軽視してはいない建て付けにもなっている。

強制を伴う「命令」にすべきだ、という意見をいう「市民」がいるのは承知しているが、そんなにお上から命じられたいのか?わたしには理解できない。

欧米諸国で、あんがい「命令」になっているのは、「自粛」ということができないひとたちが多数だからで、「要請」だけで「自粛」できるわが国民に必要とはおもえないからである。

しかし、このブログで何度も書いたとおり、そもそもの「根拠」が希薄ななかでの「政治判断」として、「緊急事態宣言」がでてしまったので、解除に当たっての基準も、発令のさいしょから設定されていないし、とうとう最後まで不明のままだった。

これが「日本的情緒の世界」といえば美しいが、ほんとうにかつての「世界の工場」で、いまだ「科学技術大国」とはおもえない、論理ではなく感情が支配する、一歩まちがうと恐ろしい社会に変身できる要素を多分にもっていることがわかったのである。

その証拠が、知事たちに委譲された権限が、「解除」になっても惰性で止まらないことを不思議にも、おかしいとも思わないことである。

わかりやすいのは、東京都の「新型コロナウイルスを乗り越えるためのロードマップ」というものである。
あたかも、「命じる」という態度で書かれていることも不思議である。

これを作成したひとは、きっと有り余る善意にあふれて、暴走してしまったのだろう。
こんなことをする、権限が「解除」になったことに気がつかない。

すなわち、法的根拠をうしなった「ロードマップ」なる「命令書」が、自粛中の権限に溺れた慢心から、実験台の薬品がとんでもない化学反応をおこしたともいえる。
まるで、『妖怪人間ベム』の誕生のようなのだ。

にもかかわらず、都議会が「待った」をかけないのだから、都民には絶望的であろう。

わたしは神奈川県民だから関係ない、にならないのは、仕事先のおおくが東京にあるからで、はたして都民でないわたしにもおおいに関係があるのである。

かくいう神奈川県も、へんなことをHPで発表している。
たとえば、「緊急事態宣言解除後の施設管理者への新たな要請内容」というものである。
市民に要請するのではなく、「解除」した国に文句をいって欲しい。

自分に与えられた権限が、「解除まで」という期限付きなのに、無期限であると勘違いするのは、滑稽を通り越してブラックジョークにもならない。

まさに、越権行為そのもので、「新型インフルエンザ等対策特別措置法」に違反するばかりか、憲法にも違反する。
毎年の晩秋からはじまるだろう、インフルエンザの流行に、まさかの「自粛要請」をだすことを「あたらしい日常」とか言うなよ、といっておきたい。

これは、まさに古来から日本人の精神だから、だれも言わないのかもしれない。
たとえば、結婚式での「誓い」に、神道とキリスト教式で、決定的ちがいがある。

神道の式中に新郎が読み上げる「誓詞」には、夫婦の契りは「未来永劫」なのに対して、キリスト教では、「死が二人を分かつまで」となっている。

日本人は「永久の愛」を、キリスト教の結婚契約は、「いつまで」というおしまいがあるのである。
イスラム教には、結婚予約契約という、「結納」の儀式もあるけれど、「いつまで」というのはキリスト教とおなじだ。

そんなわけで、なんの根拠かもわからないものが「解除」になって、法的に根拠があった「要請」の法的根拠もなくなったけど、市民に命じる「ごっこ」に自己陶酔した知事たちが、無粋にもダラダラとやめることをしない。

これをいさめる議会も議員もひとりもいない。
もちろん、財界人もいないのである。

言論人でもいないから、ついうっかり言いたくなった。

法治から人治への体制転換

わが国は「法治国家」だと思い込まされてきていたけれど、国民はぜんぜんそんなことを信じてなんかいない。
それよりも、政治家による「人治主義」をおそれ、それを嫌悪していることだけがみえてきた。

これが一連の「検察庁」問題である。
不要不急のことはするなと国民に要請するくせに、どさくさに紛れるようなことをするから、ヒステリックな反応にもなるのである。

内閣を仕切る「役所」となっている、「官邸」の関与が、検察官の人事に悪影響を及ぼして、ときの政権の思いのままの人物が検察幹部となるのを嫌う、という「運動」になって、とうとう賭け麻雀の自爆テロで収束ができた。

この処分に、はたまた官邸の関与などをいうのは、事大の潔癖症がそうさせる。
すっかり手指の消毒に慣れ親しんだ国民が、物理ではなく宗教的な「禊ぎ」までしなと気がすまないのは、卑弥呼からの伝統である。

さてそれで、クールダウンしてあえて反論をしようとおもう。
こんなかんがえ方だってある、という「例示」のことである。

民主主義というのは、選挙における国民の投票という行為によって成立している。
その結果が、国でも地方でも「政権」をつくらせる。

国なら、多数を占める議員の集まりから、生まれてくるのは、内閣でありその首班の首相もふくむ。
地方なら、内閣はないが知事は直接選挙で生まれる。
議会の多数から知事が生まれるのではないから、国と地方はぜんぜんちがう組織になっている。

ここで、さいきんようやく気がつきだした、民主主義の欧米先進国と「政党」の定義の違いがある。
つまり、選挙結果ではなく、「プロセス」の問題がある。

欧米先進国では、政党はみずから「シンクタンク」の役割をもっている。
政策論争には、官僚は関与しない。
与党だけでなく野党も、「シンクタンク」になっているからである。

しかし、わが国は、急造りだったからか?政党にシンクタンクの役割も機能もない。
いるのは当選した議員だけで、専門にかんがえて提言するひとたちが常時いないのである。

この機能を、政党から見れば自分たちで養うことがない安上がりの「官僚」とその「機構」に放り投げた。
だから、平時には官僚が「政府委員」として国会に出てくるし、委員会から呼ばれるのである。

今回のような緊急時には、だれが組織したかわからない「諮問委員会」に放り投げてみせて、いつもの審議会のように、官僚のシナリオ通りでことを運ぶだけである。

民主党政権時代に、小沢一郎議員ががんばって、政府委員を廃止しようとしたがあっさり失敗したのは、自分たちの政党にかんがえる人を用意しないで、ただ政府委員を廃止したから、どうすればいいかわからなくなっただけである。

そんな程度の小沢一郎議員が、政権与党の幹事長として首相よりも強大な権力をほしいままにできた、という構造は、まったく国民にとっても、ご本人にとっても「不幸」であった。

組織をつくる技術が政治家にない。

それがいまだにないために、わが国の「政党政治」は、立候補する議員の「個人事業」になってしまって、汚職や腐敗を生むのである。
世界一高額な「供託金」をだれが負担するのか?ということにもなっているから、めったなことで一般人が立候補もできない。

供託金は得票数がなければ、没収されるのだけれども、町村議会のみが「ゼロ円」で、市区議会で30万円、国会の比例区なら600万円を法務局に供託しないといけない。
つまりは、票数を得て落選して返金されても、まずは資金がないと立候補もままならない。

そんなわけで、いちばん得票数を得た者が当選するのだから、民主主義において「投票しない」ということは、「罪」なのだ。
それで、選挙投票を国民の「権利」ではなくて、「義務」としている国もある。

結局、自分の好みとちがう政党が政権をとっても、それが「民意」ならば従わざるをえないのが、民主主義のルールとなっている。

さて、そうかんがえると、検察とはなにか?
官庁において、事務方のトップは「事務次官」ということになっているが、これは「一般職」というくくりの中での地位である。
公務員にはもうひとつ、「特別職」というくくりがある。

外務省には、事務次官のつぎに「アメリカ合衆国駐箚特命全権大使」という「特別職」がある。
特命全権大使や特命全権公使じたいが、「特別職」ではあるけれど。
すると、外務省キャリアだけしか「大使・公使」にはなれないのか?といえばそんなことはない。

今回話題になった、法務省という役所は、法務事務次官の上に三職の特別職がある。
検事総長、次長検事、検事長である。
「検事」「検察」は、「行政」なのだ。

すると、行政をつかさどる内閣が、国会の監視をうける構造になっている唯一の機構だから、むしろこれら三職の人事が行政官のなかで決められることの方が、民主主義国家として「問題」ではないのか?
法務大臣すら関与できないなら、大丈夫なのか?ということだ。

つまり、国民は、大臣や内閣、あるいは国会よりも、行政官僚にすべてをまかせるほうがいい、という運動をやったことになったのであって、大臣や内閣、あるいは国会の敗北となった「事件」なのだ。

つまりは、わが国の民主主義は完全に形骸化し、若いときの一回だけの試験に受かったひとたちに「全権委任する」という選択がおこなわれたともいえる。

法治から人治への体制転換が成功したのだ。

なるほど、それで、世界的風邪の原発地の国家主席を、懲りずにまたまた「国賓」にしたい理由がわかった。
あの国は、みごとな「人治主義」を達成しているからである。

という意見もあるやもしれぬ。

「無能」を暴露した病気

ようやく本日25日、首都圏でも「自粛解除」となりそうである。
あらためて、今後ふりかえるべきことを書いておこうとおもう。

人類史における「厄災」のなかで、「世界的な病気」といえば、やっぱり「ペスト」である。今回の「自粛」期間で、ベストセラーになったのが、カミュ『ペスト』であった。
しかし、この病気は、何度もやってくるので、一回ではなかったということはしっておきたい。

一回だけで、文明が滅ぼされたのは、南米大陸における「マヤ」だし、これによって古代からつづいたというアステカやインカ帝国も滅亡した。
ヨーロッパ人がもたらした、「天然痘」に、これらの人びとがまったく免疫をもっていなかったからである。

つまるところ、ヨーロッパ人(スペインとポルトガル)による、新大陸=このばあいは南アメリカ大陸の「征服」とは、たった数百人が所持した「銃」よりも、かれらもしらずに持ちこんだ「細菌」によってしてやられたのである。

けれども、当時、「細菌」であろうが「ウィルス」であろうが、そんなものの存在をしっている人類はいなかった。
コッホによる「発見」は、1876年。
征服者ピサロのスペイン出航は1531年である。

だから、征服者たちだって、目の前にいるひとたちが、バタバタ死んでいくさまを見て、「キリスト教の神の御業」だとおもったのはまちがいない。
なぜなら、キリスト教徒である、征服者たちには、なんの厄もおきないからである。

では、「ペスト」となるとどうだろう。
以下は、村上陽一郎『ペスト大流行』(1983年、岩波新書)による。

そもそも「ペスト」という単語は、「悪疫」という意味でしかない。
紀元前5世紀に書かれたという、古代ギリシャの歴史的資料にある「アテネのペスト」は、今日では、「天然痘」だとみられている。

人類の記録で最初のペストは、やっぱり「聖書」にある。
『サムエル記Ⅰ』5,6章、「契約の箱」にまつわるエピソードに「腫物」と「ねずみ」が登場する。
時代は、おそらく紀元前11世紀ごろのことだと推定できる。

町が滅亡するほどの病気を、「神の御業」として解釈する。
すなわち、大きな厄災を、神の怒り、人間の堕落に対する神の警告とみなす習慣ができていた。

世界的大流行=「パンデミック」の記録の初出は、西暦5世紀から6世紀に書かれた、プロコピオス『ペルシャ戦記史』にある。
人間の活動が、「世界」に広がって、つながっていたことの証拠でもある。

もちろん、ペスト菌を媒介する「クマネズミ(の蚤)」も、人間と一緒に行動して「つながっていた」いたという意味でもある。
J・L・クラウズリー=トンプソンの『歴史を変えた昆虫たち』(思索社)には、1727年にロシアのヴォルガ河をドブネズミの巨大な集団が次々に西に向かって泳ぎ渡っている、との目撃談がある。

これによって、西側からクマネズミが撃退された。
ドブネズミは、クマネズミほど人間の生活との重なり合いや交渉が「濃密」ではないため、これ以降、ドブネズミが主たる場所でペストも減少したという。

そんなわけで、パンデミックとしては、14世紀中世のヨーロッパ社会における事態が、生活記録が残る最初のものとなっている。
しかし、あまりも犠牲が大きかった。
人口統計がない時代のなか、推定で7千万人もの死者だったとかんがえられる。

当時の人口が1億人と推定されているから、生き残ったひとが3割というのは、実態として「廃村」になった地域が多数あったという意味でもある。

ヨーロッパ中世の経済社会は、「前期資本」という、まだ「資本主義ではない」時代であった。
つまり、冒険や掠奪、詐欺すらも「当然」の経済行為とされる。
そこで、生きのこったひとたちが、誰もいなくなった場所からの財産を継承する、ということによる「成金バブル」まで発生する。

表層では、農民の人口が激減したため、労賃が上昇する、という減少がおきて、自身の耕作地を農民に分与しながら維持するという、貴族にとっては終末的な事態にもなる。
これで、「荘園制」は崩壊し、「労賃」が労働者をつくった。

しかして、流行中の文化としては、廃退と宗教的厳格さが同居する。
明日をも知れぬ命と覚悟すれば、全財産を使い果たして「この世の春」を謳歌してから死にたいというタイプと、にわかに神への忠誠を誓って、せめてもの望みとして「天国」にいきたいというタイプになった。

前者の典型にして傑作が、ボッカチオの『デカメロン』だ。
そして、後者はユダヤ人狩りをはじめる。
それは、あたかも「自粛警察」のごとくである。

では、前者は?
パチンコに列なした人びとをいうのだとすれば、自粛警察にしてもパチンコにしても、じつにちんけなのだ。

クマネズミがインフルエンザ・ウィルスで、ドブネズミがコロナ・ウィルスだとすれば、すっかりインフルエンザが撃退されて、コロナと共存すれば、インフルエンザが減少するということに気がついた。

それで、死者数が半減した今シーズンの「風邪」だから、起きたのは人間社会の「パニック」だけだった。

ヨーロッパ人は、なんの役にもたたなかった古代からの伝統医学の無能を見限って、ついでに教会の無能も見限った。
そしてこれが、ルネサンスの爆発を準備して、近代となったのだ。

果たしてわが国は、なにを準備したのだろうか?

ナラティブ情報もない

「ナラティブ」とは、「語り」のことである。
これを、医学用語として通用させると、「病気の経験を語る」という意味になる。

その病気になると、どんな症状になるのか?
じつは、本人ならわかるが、他人にはわからないのだ。

たとえば、「痛み」。
本人の「痛み」は、他人にはそれが伝わらないので、本当はわからないものだ。
では、どうしたらその痛みを理解するかといえば、自分のこれまでの人生から似たような経験をもって「他人の痛みを追体験」する、つまり「思いだして」その痛みをやっと感じることができるのである。

すると、たとえば末期がんなどのばあい、専門医だって自分でその病状を経験したことはないから、患者本人にどういう状況なのかを語ってもらうことで、疑似体験するのである。

こうした、本人の体験をあつめて「データベース化」すると、患者の病状の進行度合いによって、これからどんなことが起きるのか?を、先輩患者の経験集から、いまの患者自身もしることができる。
事前に知識があることで、患者の心が落ち着くという効果まであるのだ。

なにを慌てているのかしらないが、今回の流行病(はやりやまい)について、こうしたナラティブ情報がほとんど公表されていない。

「予防対策」ではなくて、感染してからの「重篤化させないための対策」として、たいへん重要な情報なのに。
「感染した瞬間」は、だれにもわからない。
しかし、「症状」がでてきたら確かに自覚できる。

ならば、どんな「初期症状」なのか?
それからどうなるのか?
であれば、どんなことをすれば「軽症」で済むのか?
医療機関へはどういう状態になったら行くべきで、どんな状態なら自宅療養でよいのか?

素人判断してはいけないことはなにか?
自宅での、効果的な過ごし方はどんなことか?
もちろん、家族や同居人がいれば、そのひとたちの安全をどうやって防いだのか?

上記のような情報は、基本情報のはずなのに、果たしてどのくらいの国民がしっているのか?あるいは、しらないのか?
これは、中央政府や地方自治体の怠慢なのか?報道機関の怠慢なのか?それとも医師会の怠慢か?

ただ「自粛せよ」といって、今日はなんにんが「感染した」というだけの繰り返しでは、社会になんの役にも立たない。

感染したひとが発症して、これはまずいとおもったら医師のもとに行く。
そこで「診断」されて、はじめて「患者」になるのだが、それがふつうのコロナウィルスによるふつうの風邪なのか?それとも、うわさの新型なのか?も、「患者」になってはじめて「診断」されるのだ。

ましてや、医師の「診断」によって、「体調不良ですね」といわれれば、「患者」にもならない。

なんども書くが、「PCR検査」は、コロナウィルスを反応させるが、それが新型かどうかは「特定できない」のだ。
「陽性」だからといって、「新型だけ」に陽性なのではない。
だから、「感染者数」しか報道しないのは、あきらかになんらかの意図をもった報道だといえる。

活字媒体には「規制」はないが、電波放送媒体では、放送法第四条に違反する。
政府はこれを放置するのか?
ならば、あおられて被害をうけた国民は、どうすればよいのか?

活字媒体を代表する「新聞」と、電波放送媒体である「テレビ局」との「経営統合」を推進したのは、田中角栄郵政大臣であった。
全国紙と東京キー局のみならず、国家総動員法で各県に一社と規制されたままの、地方新聞社と地方テレビ局とを一緒にさせたのだ。

とっくに「戦後」ということばすら忘れかけている現在の「令和」時代に、国家総動員法が継続されたままの体制が残っている。

田中角栄の亡霊が、わが国をいまだに蝕んでいる。
マスコミは、田中角栄を「金権政治」と批判するが、本気で批判しないのは、自分に火の粉がかぶるからである。

なんだかわからないが、感染したことで病気を発症する。
このとき、まずは「怠い」という症状がでるのが、新型の特徴で、その後に、味覚や臭覚がわからなくなって、発熱するという。
よくある、風邪の諸症状なのだ。

ふつうの「風邪」に特効薬がないのも周知の通り。
なので、発症したらすぐにかかりつけ医に相談するとよい。

自粛が解除されるなか、ナラティブ情報もない。

住民のためになる情報提供をしない、という、この一貫性のなさこそが、いつまでもダラダラと続く理由なのである。

人体でワクチン開発実験

アメリカ人の凄みを感じるニュースである。

現在、世界で開発中という「COVID-19ワクチン」はWHOによれば200種以上といわれている。
しかし、なんといっても敵は時間である、と定めれば、最短の開発方法は「直接人体にCOVID-19を打つ」という乱暴な手段だ。

呼びかけ人は、元ニューヨーク州の企業弁護士、モリソンさん(34歳)で、すでに2万3000人の応募者があつまった。

具体的な方法は、開発中の各種「ワクチン」を打ってから、本物のウィルスを打って感染させ、それでどうなるか?を試すのだ。
年齢の差や持病、健康状態などの条件も加味するというから、「ちゃんとデータをとる」のはもちろんである。

あえて初歩をいえば、熱望される「ワクチン」とは、自分をわざと「感染者」にして、自己免疫によって発病させないことを目的としている「薬」のことである。
人類初の発見は、天然痘ワクチン(種痘)であった。

しかし、ワクチンが絶対なのか?という問題がおきていて、むしろその危険性を指摘する学者もいるし、「ワクチン忌避」という社会問題もある。
その典型が、副作用が怖いインフルエンザ・ワクチンで、わが国では1964年にはじまった訴訟が80年代までつづいていた。

こんなことから、「ワクチン先進国」といわれたわが国は、「リスクをとらない」という特性を発揮しだして、おなじく80年代から急速に腰が引け、とうとう「ワクチン後進国」という状態になっている。
学校で集団接種された世代からは、かんがえられないことがいまの「常識」になっているのである。

似た例には、業務用コンピューターの導入がある。
いまのパソコンどころか、30年前の「DOS」時代のパソコンでも、広大なオフィス空間を埋めたその20年前の業務用コンピューターよりはるかに小型化し、性能も向上したものだった。

つまり、巨大なキャビネットをならべたような機械がならんで、オープンリール磁気テープがグルグルまわっているのが当時のコンピューターで、メモリはたったの「2メガ」である。
そのすくないメモリのため、パンチカードというボール紙に穴をあけた紙を通して「入力」していた。

「夢の機械」といわれ、先進的な企業がこぞって導入した。
しかし、処理できる事務作業の効率よりも、あらたにできた「キーパンチャー(パンチカードをつくるひと)」というもっぱら女性職のほうをふやさざるをえず、導入した企業と採用されたひとたちのどちらさまも「挫折」したのだ。

こうして、「パソコン」が世の中にでたときに、おおくの先進的企業のなかでも、「挫折」経験のある企業ほど導入に慎重になって、後進企業の後塵を拝する事態となったのだ。
これを、資力による物量をもって、なにがなんでもパソコン導入にして「巻き返した」歴史がある。

羹(あつもの)にこりてなますを吹く

さてはいま、わが国でも「いよいよ」自粛解除というトレンドがうまれて、例によってどんな根拠か不明ながら、大都市がある関西で解除となった。
さらに、首都圏はもう少ししたら「解除の検討をする」という、どうみても「解除予告」がやっぱり根拠なく発表された。

ここでいう「根拠」とは、科学や医学にもとづくものをいう。
それに、優良企業なら、新規事業参入にあたっての意思決定だって、そのときに「撤退基準」をきめるのが「セオリー」という前提がある。

つまり、「自粛要請」のための「緊急事態宣言」をだすときに、同時に「終了宣言」をだす「基準」をセットで発表するのが「筋」というものにもかかわらず、これをしない日本政府は、優良企業の意思決定をしらないひとたちが運営しているのだと告白し、いま、それを「実践」している。ああ、「あの戦争」とおなじなのだ。

なんだかわからない「報道」らしき「パロディ」を連日やっている、わが国でいう報道機関は、言い値で発注してくれるおびただしい「政府広報」のおかげで収入源を確保している。
もはや、政府様々状態だろう。

なので、つぎは「ワクチンへの期待」をキャンペーンするだろう。
これさえあれば、「安心」だ、と。
したがって、「集団免疫」のことは「わるくいう」。

なんどもいうが、ウィルスは、「生物ではない」ので自己増殖ができない。
宿主の細胞に入りこんで増殖する。
だから、宿主が免疫というバリアーをもったとたん、収束するものなのだ。

そこでの「時間稼ぎ」が、人為による「自粛」という手段だ。
初期症状で治す薬と、免疫の抗体をつくる薬を開発するまでの「時間」のことである。
しかし、こんどは、経済活動がとまって、人為によって「命」が奪われかねない。

しかたがないから、「自粛解除」なのだ。

けれども、再生産数が最初から1を超えないわが国は、国民挙げて、なにをすべきでなにをしなくてよかったのかの「反省」をしないといけない。
でも、できない国なのである。80年前を嗤ってはいけない。

そうかんがえると、日本人で「実験に応募」したひとが何人なのかも気になるところだ。

政府まかせ・他人まかせが国是なのか?と。
いや、風(風邪)まかせなのである。

ウナギ稚魚の4倍豊漁

うなぎといえば「高い」になって久しいけれど、近年の高騰ぶりで、めったに食べられない贅沢品になってしまった。
その原因は、なんといっても「稚魚」の不漁だ。生態がはっきりしないうなぎは完全養殖にほど遠い。
「稚魚」をとってきて「養殖」するしかないのである。

「ニホンウナギ」の一生は、はるか南の太平洋で産卵されて、それから黒潮に乗って数千キロを泳ぎ抜き、今度は川に遡上して生活し、おとなになったらふたたび数千キロを、黒潮に逆らって産卵場へとむかうものだ。

こんなことをしらなくたって、ウナギを食べれば翌日には肌がしっとりする。
子どものときには気がつかなかったけど、「ウナギって効く」のがわかったときは、なんだか哀しかった。

キロ100万円もする「稚魚」の値段が報道されて、とにかく「採れない」ものは仕方がないとおもうしかなかったが、今度は豊漁だというから、結構なおはなしである。

けれども、どうして「稚魚」がいなくなったのか?もわからないままに、今度は豊漁だと聞いても、やっぱり「理由」がわからない。
ここが、問題なのだ。
ニシン大漁のニュースとかさなる。

前にも書いたが、わが国は、漁業における「資源管理」の後進国である。
発展途上国でもない。
ほとんどなにもしない、という現実が「後進国」で止まらせている。

目のまえにあるだけ獲る。
とりつくすまで獲るから、略奪的漁業といわれ、それを「日本式」と表現するのが、漁業先進国の北欧人の常識である。
70年代まで、かれらも「日本式」をやっていた。

とるだけとったらどうなるか?
魚が減る。
産まれる数より多く獲れば、まさかの「絶滅危惧種」になって、消費者が魚を食えなくなる前に、漁師の生活がたちいかない。

それで、「資源管理」と「割当制限」をやったのである。
わが国の資源管理とちがうのは、わが国が「国営」なのに対して、かれらは「民営」なのだ。
国の研究所ではなく、消費者も負担する仕組みの民間研究所が魚介資源の管理をすることで、「公平」ではなく「科学」を優先させた。

国の研究所がいけないのは、研究結果が「行政」にふくまれるから、漁港の公平さも考慮されて、結果的に「恣意的」になる。
消費者も負担する民間方式が選ばれたのは、「科学」からの事実と予測を優先させないと、消費者も漁師も食べられなくなるからである。

そんなわけで、わが国の略奪的漁業をやめさせるために、世界各国が協調してできたのが、「二百海里排他的経済水域」をさだめた「国連海洋法条約」(1974年)である。
12海里までの領海の外なら、日本漁船がごっそり漁をしても文句はいえなかったのが理不尽にみえたからである。

いつでもどこでも、日本はつねに「正義の国」である、とはぜんぜんいえないのだ。
当時の報道は、魚が食えなくなるという「自己中」の議論ばかりだったけど、これはいまだに進化していない。

飴と鞭の典型で、この条約によってわが国は、世界の漁場からしめだされるかわりに、広大な水域を含めることになって、世界8番目の面積をほこる「大国」となった。

おなじ基準でみれば、広大な大陸国家のはずの中国は、なんとニュージーランドより狭い、「10位」となるから、アジアの海をめぐる争いになるのである。

だから、「日本は極東の小さな島国」という概念はもう半世紀も前に「なくなった」のであって、むしろ「世界8位の広大な国」という事実をもって常識としないといけないのだ。

これだけの海域利権を独占できるかわりに、資源管理せよという義務が付随しているのに、これをしない日本政府は、かなり「腹黒い」と諸外国からみられていることも、国民はしっていていい。
海底の鉱物資源にいたっては、その「防衛問題」すら放置されている。

そんなわけで、ウナギの稚魚が安くなったからといって、すぐにぷっくりした成魚の「うな丼」の値段が下がるわけもなく、街から鰻屋の廃業がとまらない。
仕入れ値と調理技術をくわえた販売価格が、割に合わないからである。

外食や中食で食べているのは、食材だけではない。
スーパーの惣菜も、ファストフードであれ、伝統の鰻屋であれ、調理技術がないと提供できないことを、消費者がわすれる社会はほんとうの「消費社会」ではない。

そんな程度なのに「成熟社会」というのなら、北欧の消費者が半世紀前に決心したことはなんなのか?

後戻りできないことがある。
妙な「自粛」ではなく、ちゃんとした「自粛」、科学をもちいたことをする北欧人に学ぶべきである。

10年も前に流行った韓国ドラマ、『チャングムの誓い』の前半、疫病で宮中が大騒ぎになるシーンがある。
「風邪」とおぼしき疫病の過剰反応が、時代劇とあいまって仕立てられている。

いまの日本社会が、みごとなファンタジー・ドラマのチャングムの時代とおなじだとおもえば、もう一度観る価値もあるというものだ。

自分でかんがえる冷静さを失うと、こういうことになると教えてくれる。