ジョージア州の抵抗と参議院選

過去にあんまり注目されることがない、アメリカ合衆国の連邦議会「中間選挙」のゆくえではあったけど、バイデン政権の歴史的不人気と、その政権の正当性がそもそも疑問、という「異例」から、今年11月の選挙に世界が注目している。

政権を担う「民主党」の退潮は明確であるけれど、「不法移民」に選挙権を持たせるという、前代未聞のむちゃくちゃも、なんだかお金持ちの余裕があるひとたちからは支持されている。

これがまた、「合法移民」との対立を呼んで、「法治」が崩壊の危機にあるのが、現在のアメリカ合衆国だ。
なんだか、西部開拓史にある、カリフォルニアの「ゴールドラッシュ」での「法治の無意味」と様相が似ているのだ。

伝記作家の「大家」としてしられる、シュテファン・ツバイク晩年の傑作集『人類の星の時間』で扱われた「人物」のうち、いまの「サンフランシスコ市」の全域を「所有」していた、ドイツ移民を突如襲った悲劇こそ、敷地内の小川から使用人が見つけた「砂金」がすべての原因であった。

近代社会の基礎をなす、「絶対権利」であるはずの「(土地)所有権」が、あっという間に蹂躙される。
もちろん、「合衆国憲法」も、ちゃんとあったのに。

こんな「大事件」からしたら、小さな事件に過ぎないけれど、無法者たちと闘う保安官やら、正義のガンマンが活躍する「西部劇」とは、憲法があってもこれを守る「ひとも仕組み」もないならば、ただの「印刷物」になることを教えてくれる「教材」でもある。

つまり、「現場」に「法治」がなければ、すぐさま「無法地帯」となる。

トランプ氏がやっている「キングメーカー」としての影響力発揮の努力は、おおむね効を発しているように見えるのは、共和党内予備選挙での正規立候補者となる人物が、トランプ氏の支持証明を持っているからである。

しかし、ジョージア州での予備選挙では、トランプ氏が支持証明を出した上院議員候補者が、みごとに当選したものの、大統領選挙への影響が強い、知事と州務長官予備選挙では、反トランプの現職が当選した。

この「根」にあるのは、州内の「郡」選管すら汚職にまみれているという、民間調査の結果もあって、その「腐敗」ぶりからの「必死の抵抗」となっているようである。

かんたんにいえば、保安官ごと町の有力者たちも「不正」にまみれているために、正義のガンマンを全員で排除した、という、夢も希望ない「映画」のようになっているのだ。
だから、ついぞ観客も目を背ける。

そんなわけで、トランプ氏がこれから先の「本戦」で、これら共和党候補者をどうするのか?に注目があつまっている。

しかして一方、わが国の参議院選挙が7月にあるから、あんがいとアメリカ側がこれを気にしているのである。
日本人は、自国に影響力がないものと発想するけど、幸か不幸かグローバル化という「平準化」で、かえってさざ波も大波に見えるのだ。

それが、さっそくフランスで現れて、「極右」だとさんざん宣伝してコケにしていたルペン氏が、まさかの4割以上も得票したから、勝って二期目を安定させたいマクロン氏も、おいそれと露骨な「グローバル全体主義」を前面に出せなくなった。

いまは小国になったからといっても、「神聖ローマ帝国」の正統なる後継者で、全ヨーロッパに影響を与えた、「オーストリア=ハンガリー二重帝国」の一端だったハンガリーの自由主義政権だって、あからさまな「反」グローバル全体主義を国民が意識しているためにできている。

だから、自国出身者なのに、「ストップ・ジョージ・ソロス法」まで立法して、グローバル全体主義に対抗しているのである。

混沌とする世界をおおっていた「霧」がだんだん晴れてきて、あたらしい「二項対立」が見えてきた。
それが、グローバル全体主義「対」ナショナリズムなのである。

ビル・ゲイツ氏の最新刊、『How to Prevent the Next Pandemic』は、グローバル全体主義がどんなものかをしるのに役立つ。
日本語版『パンデミックなき未来へ 僕たちにできること』は、6月25日に早川書房より緊急刊行されるという。

結局のところ「WHO」をして「世界政府」にさせ、各国はWHOの命令に従わなければならないとする。
そのための「条約」を早急に締結するように求めている。

すると、アメリカの中間選挙は、この条約批准をどうするのか?に間に合うのか?
民主党は、多数を維持しているいまのうちになんとかさせるよう動くはずである。

ならば、日本人の「生存」もかけて、このことが「今回の参議院選挙最大の争点」になってもよさそうなものだけど、とにかく「隠す」という手を使うと予想できるし、じっさいその通りになっていて、「いつも通り」のありきたりが却って「涙ぐましい」のである。

あるいは、「WHO」からの脱退という事態もあるし、「第二WHO設立」という手段もある。

さては、欺すより欺される方が悪い、ということが、国民にとっての「命がけ」になってきたのである。

男は女からできている

聖書の記述における決定的なまちがい。
それが、神によって自分に似せた人間が最初に造られ、そのひとの肋骨から女を造ったという、あの記述(旧約聖書・創世記2:18~24 )である。

ただし、『聖書』は、さまざまな文化圏の影響を受けているのは間違いなく、「歴史書」とされる「旧約聖書」にはそれが顕著である。
もちろん、キリストの死後に「編集」された、「新訳聖書」も同様だ。

「科学」では、人間は、ぜんぶが女として発生し、途中からだいたい半分が男になることが「ある」ようにできている。
その途中からの分岐を司るのが、「Y染色体」という遺伝子群だ。

なので、人間の基本となる「X染色体」しかないなら、そのまま全部が女として生まれてくる。

外見上での男女のちがいは、下腹部に集中するけど、哺乳類として男には不要な「乳首」があるのは、もとが女だった名残である。
それが乳房として発達しないから、平坦なままに放置される。
こうして男に、「授乳」という子育てができない理由になっている。

一般に、「進化」は合理的だとみられているけれど、どうして男に授乳機能を持たせなかったのか?ということの合理性は、わかっていない。
「母性」を男に持たせないため、という「説」があるけど、「確定」してはいないのだ。

なぜに男に「母性」を持たせないのか?の合理的理由がわからないからである。

人間が生きていくために必要な、食の摂取には、水分補給も含まれる。
しかし、同時に、排泄もできないとすぐさま死んでしまうのも人間だ。
とくに、尿の排泄ができなくなると、全身に毒が回って臓器不全を起こす。

尿とは、血液を濾してつくられるものだからである。

つまり、小便とはもともとは血液だ。
生体活動における不要物とは、体内で化学変化したできた「毒素」のことで、血液にたまるからこれを濾過して体外へ棄てるのである。

哺乳類の場合、胎児は自身の体内でできた毒素を、母体に回して排泄している。
これを、「へその緒」を通してやっている。
だから母体は、母自身の毒素と胎児の毒素の両方を排泄している。

このことが、スイッチとなって、母乳が分泌するようになっているとかんがえられている。
すると、母乳も一種の排泄物だともいえるのである。
それがまた、血液を材料にしてつくられるのだ。

そもそも「生命の誕生」について、さいきんでは「ジャイアントインパクト説」が有力になっている。
45億年前、誕生したばかりの地球に、火星規模の天体が衝突した、ことで地球が大きくえぐれて「月」ができたという。

それだから、アポロ計画で持ち帰った「月の石」が、地球の「石」と何ら変わらない、ということにもなっている。
ただし、アポロ計画が本当に「有人月旅行の成功」だったかどうかは、いまだに疑問があることも否めない。

おもに太陽からの放射線に、生物としての人間が耐えられない、という疑問が晴れないからである。

それで、ジャイアントインパクト説に戻ると、大きくえぐれた地球が内部をさらすことにもなって、さまざまな物質が地表に出た。
もっとも重要なポイントは、水蒸気があがってやがてそれが「海」をつくったことである。

ここに、驚くほどの物質が溶け込んで、さらなる隕石の衝突で「アミノ酸」も飛来したという。
一方、できたての「月」は、いまよりずっと地球に近かったので、海の潮位変化は驚くほどの激しさだったという。

この巨大な力で「かき混ざる」ことで、さいしょの生命が誕生した、というのだ。

それからの「進化」の歴史で、いつしか「雌雄の区別」ができたのは、個体としての環境変化に対応するための「工夫」だったとかんがえられている。

しかし、そんな工夫が起きるのはずっと後のことで、細胞はウィルスとの戦いにのぞまないといけなかった。
自分のエネルギーを横取りして増殖しようとするからである。

それで、外部からの横取りに対抗するための「免疫」ができたし、一方で自身のためになるならと、ウィルスごと細胞に取り込む、という手もつかって、これがエネルギー発生装置としての「ミトコンドリア」になったのである。

そうやっているうちに、生殖における子孫を残す方法として、雌雄の区別ができて、とくに「卵」は「胚発育」のために栄養を蓄えて大型化する一方、「精子」は小型化しながら運動能力を備えて、遭遇確率を上げることになったのである。

もちろん、この運動は「べん毛」を動かすためのエネルギーを必要とするから、その根元にもミトコンドリアがあるのだ。

さて、生体として、生殖能力を失ったら、たいがいの生物には「死」が訪れる。
それは、子孫が成長に必要とするエサなどを前世代の個体が食べて減ることを避けるためでもある。

ここに、男性が女性より寿命が短い理由があった。
なんと、人類という「種の保存」にあたって、男性は「使い捨て」という運命を最初から背負わされている。

この究極の伝説が、『アマゾネス』となったのである。

ただし、トルコの黒海沿岸にあるテルメ村(Terme)が「首都」とされ、ギレスン島に女王がいたという。
これらにアマゾネスの実在を示す遺跡があるから、トルコ人は伝説とは思っていない。

そうなると、なんだか哀れなのは男であるから、弱い者が集まってつくったのが「男社会」なのだ。

力を持って制する、という遺伝的特徴の欧米人の野蛮が、女を所有するという概念を持った。
お互い様という概念を持っている日本人には、畏れる者として「かみさん=神様」になったのである。

「恐妻家」というふつうが、日本文化なのは、こういうことなのであった。

シン・会社法

首相が提唱する、「新しい資本主義」とはなにか?

官邸のHPをみても、よくわからない。
それで、『文藝春秋』本年2月号に寄稿した文章を、やや長いが引用する。

 「市場や競争に任せればすべてがうまく行くという考え方が新自由主義である。このような考え方は、1980年代以降、世界の主流となり、世界経済の原動力となったが、格差や貧困の拡大、気候変動問題の深刻化などの弊害も顕著になってきた」

 「市場の失敗がもたらす外部不経済を是正する仕組みを、成長戦略と分配戦略の両面から、資本主義の中に埋め込み、資本主義がもたらす便益を最大化すべく、新しい資本主義を提唱していく」

以上、ツッコミどころ満載の文章で、「だからなんなんだ?」という目で読むと、もっと何が言いたいのかがわからなくなる不思議な作文になっている。

そもそも、「新自由主義」の定義からして、おかしいのは、この論法が社会主義・共産主義者たちがいう「批判」のパターンそのものだからである。

「市場や競争に任せればすべてがうまく行く」というのは、「新」ではなくて、「神の手」を発見し「経済学」を生んだ、アダム・スミスの主張である。
すなわち、「古典派」のいう自由主義だ。

「本家本元」の新自由主義の提唱者のひとり、ハイエクにいわせれば、「資本主義」なる用語も、マルクスが「共産主義」のアンチテーゼとして考えついたものだから、「架空」の経済体制をいう。

つまり、ゴールとしての共産主義社会から逆に線を描いた先にある、批判すべき、あるいは、転覆すべき社会を、「資本主義」としたのであって、そこに「資本主義社会」が実在するかは問わない、という驚愕の論理なのである。

この「空想」を、「科学的社会主義」といって、「空想的社会主義」と分けたのであるけれど、やっぱり「空想」は「空想」である。

そんなわけだから、われわれが信じ込まされている「資本主義社会」とはなにか?を問い詰めると、誰もがかんたんに答えることができないほど、じつはよくわからない状態になって、かんがえるのをやめたくなる、という「思考停止」の境地へ誘われるのである。

そんな「前提」で、80年代を新自由主義の時代だと回顧しているのは、サッチャーとレーガンによる、新自由主義が主流になった「事実」を混ぜている。

もちろん、この二人が呼応して推進したのは、ハイエクが主張した「新自由主義」だったから、首相が議論の前提とした「新自由主義」とは別物である。

この二人に、わが国の中曽根康弘首相も加わって、「土光臨調」を発足させて、三公社五現業の解体的民営化を実施した。
ようは、自民党政権がこれをやったのである。

なので、岸田氏の主張は、過去の自民党からの決別、なのかどうか?という話になるはずだけど、そこまでいっていないから、なんだかよくわからないことになるのである。

事実認識として、格差や貧困の拡大、は、わが国国内問題として「顕著」になっている。
しかし、気候変動問題の深刻化は、科学としては、なにも深刻なことは起きていないので、単なる「ポリティカル用語」だ。

そこで、格差や貧困の拡大の原因を、後段では述べている。
それが、「市場の失敗」だと決めつけていることに、このひとの思想の深層が見て取れる。

もしもアダム・スミスが「正しければ」、市場の失敗を自動調整する機能が資本主義社会には内蔵されているはずである。
そのもっとも重要な要素が、価格調整機能だ。

これによって、需要と供給のバランスを「やじろべえ」のようにとるのが、「市場原理」なのである。
だから、ハイエクは、「政府の(余計な介入による)失敗」と指摘したのである。

すると、岸田氏が主張する「新しい資本主義」は、政府がどんどん介入して、市場をコントールするというに等しいから、マルクスが言った通りの「資本主義批判」をもって、共産主義を実現する、と宣言したのである。

これで困ったのは、共産党の方だ。

政権与党である自民党に、共産主義の本質を盗まれた。
岸田政権とは、共産主義・全体主義を基盤とするから、すでにわが国は共産国家になってしまった。

これぞ、わが国の格差や貧困の拡大の原因であり結果なのだ。

そんなわけで、一気に共産化するかと思いきや、なんだかもたもたしているのは、岸田氏が自分の主張の意味を理解しているのか?という、これまた不思議な状態が垣間見られるからなのだ。

そこで、どさくさに紛れて、会社法の改正を提案したい。

株主総会に、労働者代表の出席を義務化して、監査人が監査人報告をするように、労働者が労働に瑕疵がないことを「業務監査」として報告させるのだ。

円満な労使関係が、「株主利益最大化」に直結するのはいうまでもない。

しかしながら、企業内の実態はどうなのか?
株主から委託された経営者が、「三等重役」以下になって、横暴な態度をとっていないか?

これを、株主にいえるのは、労働者代表「だけ」だからである。

犯罪的なデータ改竄

政府が信用できない。

「民主主義」の「体制下」において、あり得ない事態である。
この「体制」での政府の存在意義は、「国民への奉仕」であるからだ。
それが、どういうわけか「国民統治」になってしまった。

当然ながら、政府を仕切るのは「政権」なので、現在与党の責任となる。

この意味で、国民が民主党に期待し、政権交代を判断したのは、自公連立政権にダメ出しをしたことが主因であった。
残念ながら、その民主党政権のお粗末があんまりで、自公連立以下だったから、ふたたび自公連立政権が復活したのは、「選択の不自由」のためだった。

一方で、この間、国民にはSNSが普及して、既存メディアだけを情報源とする国民と、ネット情報源を猟歩する国民とに分離して、既存メディアを情報源とするひとたちの「保守」と、そうでない「保守」とにも分離した。

「前者」が、自公連立支持であり、それは、「既得権」の「保守」を意味する。
「後者」は、選択の不自由ゆえにおおむね「無党派」ということになって、「既得権」についても批判的なのである。

わたしは、「保守」という概念に批判的であるから、ほんとうは使いたくない「用語」である。
その理由は、「保守」にはアンカーとなる「基準がない」からだ。

その国や国民の歴史やら政治・文化の価値観が、「保守」には基礎となるから、それぞれ別々になってしまう。

たとえば、共産主義・全体主義国での「保守」とは、共産主義・全体主義の強固な推進派をさすし、名誉革命以来の歴史的価値観が根強い英国においての「保守」は、現在・過去・未来が一体となった概念である。

それゆえ、あたらしくできた、アメリカ合衆国における「保守」が何を意味するかは、あんがいと難しくて、ようやく「建国の理念」を「保守」する、ということに落ち着いて、民主党とその価値観を分けている。

すると、わが国における「保守」とは何か?
アメリカよりも、もっと難しいことになったのは、「日本とは何か?」とか、「わが国の建国の理念」がわからなくなったからである。

わからなくなった理由は、敗戦によってそれまでの価値観が破壊されたからであるけれど、幕府が崩壊して新政府ができたときも「破壊」があった。
それでもって、島崎藤村の実父の「発狂」を描いたのが、『夜明け前』だった。

いまとなっては、明治維新が日本の「夜明け」だったのか?すらも、疑問符がつく、「英国世界支配」の「一環」として、「内戦」をやらされたのが「戊辰戦争」だったという説がある。

まだ幕府があった時代の横浜に、はじめてできた外国商館が、ジャーディン・マセソン商会の支店だったことは事実であるし、トーマス・グラバーはこの会社の幹部だった。
もちろん、「アヘン」貿易で莫大な利益を得た企業である。

すると、わが国政府は、政治家ごと、明治時代にシフトして、「利権」を「保守」することだけの政府に成り下がった、といえる。

しかし、「無党派」が50%を占めるから、多数の国民は、こうした「利権」に批判的なのである。
これはどこからやってくるのか?
おそらく、日本人のDNAにある、「道徳観」が本能的に残っているからだろう。

なぜなら、とっくに学校教育、とくに義務教育の場において、児童に道徳観を埋めこむことすら「していない」状況があるからだ。
むしろ、「破壊」を「保守」するひとたちは、「させない」ことを「正義」としている。

にもかかわらず、道徳観があるのだ。

そんなわけで、厚生労働省がやった、コロナにおける「統計データ改竄」は、あきらかに「利権」の「保守」なのである。
すなわち、ワクチン接種をしたひとと、していないひととの「感染具合」や、「重篤化具合」についての「データ」をさす。

HPでの公表だから、これを観た名古屋大学名誉教授が不信感をいだいて、厚生労働省に問い合わせたら、「翌週」からの発表データが、「様変わり」してしまったのである。

どうなったかといえば、ワクチン接種したひとの感染具合も、重篤化具合も、摂取していないひとの方が「良好」になってしまった。
その理由は、データ処理の不具合だったという。

接種した日時が不明なひとを、「未接種」にカウントしていた、というお粗末だ。
しかして、ワクチン接種しない方がよかった、という驚愕を、厚生労働省が認めた、という意味なのである。

さてそれで、いま開催中の「ダボス会議」である。
ここにモデルナの社長が登場して、余ったワクチン廃棄をしないといけなくなっている、と涙目で訴えた。
当初の約束通り、「購入・納品受付せよ」という意味だ。

一方で旧東側の各国は、EU委員長宛に書簡をだして、当初の約束通りワクチンを購入できないと訴えている。
国民からの需要が、またたく間に減衰したからだ、と。

自由を「制限してきた」近代の歴史がある「東側」は、いまや「自由の砦」になっていて、ずっと自由を「謳歌してきた」自由主義の「西側」で、政府による「強制」が合法化される逆転となっている。

それがオーストラリアの政権交代にもなったのは、政府の「強制」に国民が嫌気をさしたからである。

さては日本政府も西側のお仲間なので、苦しいデータ改竄までやってみたのだろう。
結局のところ、「国民衛生」も「政治」になって、「科学」は一歩も二歩も下がってしまった。

これに、「名誉教授」が学者の「名誉」をかけて反論したということだ。

残念なのは、「現役」教授が、言えない、という「利権」がある「まま」になっていることである。

やばい「台湾関係法」

本27日、99歳になってなお健在のキッシンジャー氏が、久しぶりに「ダボス会議」に出席して、米中関係についてコメントしたのが話題になっている。

この発言と相まって、バイデン氏の「米国は台湾を守る」とした勇ましい決意に対して、なんと「すぐさま」ホワイトハウスが声明を発表し、これを、「否定」するという事態となった。

一体全体、どうなっているのか?

そんなものは存在しない、という「ディープステート」に関する「陰謀論」の存在は承知の上だが、一国の大統領の発言の「言質」が、かくも「軽く」、なお、一国の大統領を支え続けた側の「言質」が、かくも「重い」となれば、やっぱりあながち「うそ」とはいえない。

もちろん、「ダボス会議:世界経済フォーラム」は、自ら「世界政府樹立」を理想とする、グローバル全体主義を標榜してはばからない組織だ。
日本人の道徳観とはかけ離れた、「人類奴隷化」を堂々といえることに強い違和感を持つ。

しかしながら、ここに集合するひとたちは、そんな違和感なぞ微塵もないばかりか、すがすがしいほどにむき出しの野望を述べる「正直者」たちではある。
そして皆、ケタ違いの大金持ちという共通がある。

さて、キッシンジャー氏である。
このひとは言わずと知れた、大統領補佐官から国務長官になった、アメリカ外交の「名手」である。

その華々しさは、米中国交正常化という大逆転を実現させたことにある。

かんたんにいえば、台湾の中華民国を棄てて、大陸の中華人民共和国を選んだことに尽きる。

けれども、アメリカ人の「西部開拓史」から、「西へ西へ、とにかく西へ」という思考回路が、止まる所を知らないで、ハワイをも飲み込んで、太平洋を越えてきたことに端を発する、とかんがえれば、米中国交正常化なるものも、「西部開拓史」のなかに含まれるのである。

もちろん、ハワイの「次」は日本であって、その次は、清国であった。
なおこのときの「日本」には、台湾も含まれる。

せっかく、ペリーがやってきて、それからの「交渉」で、「不平等条約」を締結させて、植民地化を図ったのに、日本人がこのハンデを乗り越えたから慌てたのが白人社会だったのである。

当時の、植民地化のための世界共通ワンパターンが、通じなかったのである。
それは、幕末の日本人がとっくに見抜いていたからでもあった。

特に、安政の大獄で散った、橋本左内(享年25歳)が、「腹黒い白人たちがやがてつくる世界組合」と、約半世紀後の「国際連盟」を予言して書き残している。
ゆえに、彼にはその「対抗策」もあったのだ。

日米の激突は、ずっと以前からで、むき出しの野望をいっていたのは、満州の鉄道利権からである。
アメリカ大陸横断鉄道で財を成した、ハリマンが日露戦争後に露骨に要求したものだ。

はたして、日清戦争での「三国干渉」と、「臥薪嘗胆」とはなんだったのか?
日露戦争を「仲介」したアメリカの意向はなんだったのか?

帝国主義というのは、ヤクザの「シマ争い」の延長にあるから、まったくもって「ヤクザの手打ち」ルールがあるものだ。
それで、「仲介役」を最初に名乗り出た者が「裏切り者」だというのは、一作目の『ゴッドファーザー』が教えてくれた。

つまり、アメリカは、日露戦争での利権取得をむき出しにしたのである。
この延長線上に、「リットン調査団」があって、この「報告書」は、やっぱり「満州利権」を「山分けせよ」と求めたものだった。

それで、日本側の策とは、橋本左内が残した「人種差別撤廃」という、乾坤一擲だった。
残念ながら、この「人類普遍の正義」は、邪悪で貪欲な白人国家の逆鱗に触れて、わが国は完膚なき敗戦にまみれたのであった。

その逆鱗に触れたことの「容赦なさ」が、「空襲」という一般人虐殺をやったことに露わになっていて、これをアメリカ人はいまだ謝罪しないのである。

そんなアメリカの代弁者が、キッシンジャー氏なのである。

自身がどんな利権を手にしていようがいまいが、それとは関係なく、あるべき利益の追求を一途に求める。
これこそ、『ロビンソンクルーソー』で表現された、「理想的経済人」の行動原理そのものだ。

 

そんなわけで、氏は、「台湾関係法」に「安全保障条項がない」ことを披露した。
すなわち、アメリカは「台湾を見棄てる」ことの「方便」を、あたかも台湾との関係を維持するように見せかけている、と。

すると、わが国も同時に見棄てられることを意味する。
日米安全保障条約は、機能しない、ということだ。
キッシンジャー氏が高齢ゆえの「切れ」を失ったかどうかは別にして、あまりも重要な発言なのである。

そこで、わが国が選択できるオプションは二つだけだ。
一つは従来通りで、なお、政府が推進する「マネジメントができる外国人500万人受け入れ」による、「人質」と上場企業株を外国人に購入させることでの、日本防衛の価値づくりがある。

ただし、資本はすぐさま逃げられるので、どこまで有効かといえば、かんがえるまでもない「愚策」である。
一気に外国人投資家が売り逃げたら、「大暴落」ではすまない。

すると、もう一つ。
「独立」という選択である。
これは意外な事実を突きつけるものだ。
第二次世界大戦は、いまだに終了していない、ということなのだ。

ならば、わが国の独立とは、台湾の領有も含む、ということになる。
キッシンジャー氏は、自身の発言をどうみているのか?

「和洋折衷」医療の可能性

議論がどこまですすむのかわからないけど、「医師」が「免許制」になったのは、あんがいと最近なのである。

もっとも「古い」のは、1875年(明治8年)からはじまった、「医術開業試験」で、学歴不問の筆記試験だけだった。
とはいえ、わが国にまだ「大学」がなかった。
わが国で最初の「大学」は、1877年の「東京大学」だった。

大いなる誤解があるから書くけど、このときの「東京大学」は、後に「東京帝国大学」になって、それからいまの「東京大学」になったとかんがえては「いけない」、まったく「別物」なのだったことに注意がいる。

有史以来、1874年まで、医師は「自由開業」できた。

ここで重要なのは、これ以前から開業していた「医師」は、そのまま医師として問題なかったことにある。
あくまでも、「新規開業」するなら、「医術開業試験」に合格せよ、ということだった。

しかしてその後、大学に医学部ができて卒業生を守るため、「医師免許」の「独占」をはからんとしたことには、その「利権」という角度からの議論だけでなく、「医療の定義」にかかわる問題になるのである。

もちろん、「藪医者」と「ニセ医者」ということもあるが、ここでは分けてかんがえる。

西洋医学が輸入される以前、わが国伝統の医術とは、いわゆる「漢方」であった。

「漢方」はもっぱら、「遅れている」という認識をされるひとがいるけれど、ここでも何をもって「進んで」いて、何をもって「遅れて」いるのかを判断するには、「定義」や「基準」がひつようなのはいうまでもない。

卑近な例だが、「機械打ち」と「手打ち」の「蕎麦論争」が、大正時代にあって、近代的な自動麺打機を新規導入した蕎麦屋が大繁盛し、古来の手打ち蕎麦屋が衰退したことがある。

客は、「やっぱり機械打ちにかぎる」といって、その物珍しさに満足したけど、果たしてどちらが「美味いのか?」ということの「定義」と「基準」は難しい。
いまなら圧倒的に「手打ち」に人気がある、といえるだろうに。

いまどきの「患者」なら、それなりの知識があれば、西洋医学の圧倒は、「外科」にあることを知っている。
しかしながら、「内科」に関していえば、「漢方」も捨てがたい。
とくに、「体質改善」にいたったら、圧倒的に漢方が優位にある。

「人工合成」されたサプリをあれこれ服用するよりも、「生薬」の漢方に分があるのは、これも人情というものである。

さらにいえば、「漢方」は、「全身」を分析の対象としているので、「科」という概念がない。
もっともわかりやすい、西洋医学での分科として、「医師」と「歯科医師」を分けたことにある。

これはあんがい「決定的」で、医学部をでた医師は、歯学部をでた歯科医を「医者」とは認めないものだ。
漢方医はこうした分科と区別を、不毛だと認識している。

そして、近年の基礎医学の研究成果から、漢方医の全身を観るという姿勢の「合理性」が確認されてきている。
たとえば、虫歯がないのに歯が痛い原因は、骨格のズレによる神経圧迫だったりするけど、歯科医はどんな治療をしてしまうのか?

あるいは、おなじ症状だけど、気が利く患者が整形外科にいったらば、いったいどんな治療を受けるのか?
もしや、治療という名の下の、破壊がおこなわれる可能性だってある。
これが、「保険診療」と合体していれば、なおさらなのである。

すなわち、むかしのように、「藪医者」が少なくなったのはではなくて、「保険点数による管理体制の進化」が、「平準化」をさせたと同時に、全員が「藪」にさせられたともいえる。

そうかんがえると、あんがい世間をにぎわせた「ニセ医者」も、医師免許登録のデータベース化で、すっかり姿を消した。
しかし、捕まるニセ医者には、たいがい通院してみて評判がいい、という患者の口コミがあったものだ。

さて、西洋は西洋医学一辺倒が当然だ、ということでもない。
あんがいとギリシャ以来の伝統医療だって、「現役」なのだ。
そこで、ジョンズホプキンズ大学では、以下の5タイプの分類がある。

1.鍼[Acupuncture]、
2.アーユルベーダー[Ayurveda]、
3.ホメオパシー[Homeopathy]、
4.ナチュロパシー[Naturopathy]、
5.中国あるいは東洋医療[Chinese or Oriental medicine]

一方で、これら伝統医療の「世界標準化」という課題も、具体的な検討がされていることが、グローバル全体主義を推進する立場からある。

果たして世界標準化がどのような意味をもつのか?やや怪しさを感じつつも、わが国にはわが国の伝統医療が150年前までは確実にあったのであって、これを再評価しない手はない。

けれども、医学部と歯学部、それに薬学部と看護学部といった、大学利権がこれをはばむにちがいない。
そこには、巨大なビッグファーマという、スポンサーにして製薬利権が横たわっている。

いわゆる、テッパンなのだ。

人類の生存と幸福をかけた、「医療」も、こんな「ゆがみ」のなかにある、「病気」を発症しているのである。

さてどうしたものか?
他人事ではないのは、確実なのである。

こうして『三等重役』以下になった

第25回(1951年上半期) 直木賞作家の、源氏鶏太による小説『三等重役』(1951年(昭和26年)8月12日号から52年(昭和27年)4月13日号までの全35話、週刊誌『サンデー毎日』(毎日新聞社)に連載)が、その後一般名詞化して流行したという。

52年に制作・公開(5月29日)された同名の映画(東宝)は、三等重役である社長に翻弄される人事課長役をやった、森繁久彌の出世作となったことは前にも書いた。

原作が発表された、半年あまりで映画化したスピード感こそ、「当たる」チャンスを逃さない意気込みがあったからだと推測できる。
この時代、もちろん、まだテレビ放送はなかった。
「本放送」は、1953年(昭和28年)2月1日からである。

とはいえ、食うや食わずのこの時代、一般家庭に高価なテレビがあるはずもなく、まだまだラジオがふつうだったのである。
ちなみに、ラジオ受信料が廃止されたのは、1968年(昭和43年)4月1日のことだった。

さて、一口に「戦後」といっても、「占領期」と「主権回復期」とに、二分してかんがえないといけない。
うそかまことは別にして、2600年以上「独立」が続くわが国で、「初」の、外国による「統治」を受けたのがこの「占領期」だからである。

敗戦した相手国の人間を奴隷にしてこき使うことが、自らの歴史にあるひとたちである、「欧米人」には、その本性をおもわず「記載」することが無意識で行われる。
これが、「奴隷」という概念のない日本人にはすぐさま「ばれた」のだ。

日本国憲法第十八条「何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない。」

原文が英語だから、というよりも、「いかなる奴隷的拘束も受けない」という表現の感覚が、日本人の概念を超えていた。
しかして、「(日本国)憲法学者」という、「戦後」の「業界人」は、これを勝者の立場から「解釈」して国民に拡散した、売国奴であった。

「(明治)憲法学者」は、役立たず、としてとっくに「排除」されていた。
「排除」したのは、もちろん、「占領軍」である。

よって、占領期(講和条約発効前まで)とは、1952年4月28日に発効したから、その前、ということになる。
同時に、日米安全保障条約も発効している。
それでもって、4月28日が「主権回復の日」なのである。

ほんとうにわが国が「主権回復」をしたのか?については、かなりあやしい。
しかし、「国際法」における「形式」においては、「主権回復」したことになっている。

こうしてみると、小説『三等重役』は全話が、占領期に発表されていて、占領軍の検閲を突破している、と解していい。
そして、「映画」は、「主権回復」の後に公開された、という事情があるのだ。

「読み切り連載」という形式の小説なので、短編の集合体である。
それで、記念すべき第1話のタイトルは、「追放解除の施風」である。

ここでいう「追放」とは、いわずもがなの「公職追放」を指す。
『降伏後におけるアメリカの初期対日方針』(昭和20年9月22日発表)の第一部「究極の目的」には、「平和的で責任ある政府の樹立と自由な国民の意思による政治形態の確立」とある。

これを、「根拠」として実行したのが、「公職追放」だったのである。
具体的には、第三部「政治」と、第四部「経済」で、「軍国主義的又は極端な国家主義的指導者の追放」を根拠とした。

こうした文書を、「文字どおり」に読んではいけないのは、外国からの命令だからなので、その「真意はなにか?」という目線で読まないと、意味不明になるのである。

そして、その外国とは、アメリカ合衆国だという認識も間違っている。
20年間も民主党が支配した、アメリカ合衆国「政府」が相手なのだ。

すると、占領目的のなかでも「究極」と表現した中身とは、アメリカのいう通りの「忠犬」に、日本がなること、と解釈できる。
そしてまた、「追放」の対象者とは、「日本の日本人」だということなのである。

これらをベースにして、笑いを誘った源氏鶏太の筆致とは、「自虐」をもって「自虐的な笑い」とした、まさに「本音」が伝わることでの「納得」を読者に与えたにちがいない。

一流の経営者が追放されて、三流社員が「昇格」してなったのが、「三等重役」なのである。
まさに主権回復とおなじく、「形式」だけの「重役」だった。
けれども、全国津々浦々に、三等重役が「君臨する」会社が実態としてできた。

しかしてそれは、占領軍が意図した「三等経営」だったのである。

三等重役には、意志も教養もなく、あるのは「臆病」な小物としての威厳であった。
それで、戦前・戦中に「滅私奉公」した従業員を強権で支配したから、従業員は社内労働組合を設立して対抗したのである。

ついこの前まで「従業員」だった三等重役に、「同格ではない」という、犬の序列を「飴」として仕向け、「身分差」の確認をさせた。
これが、占領軍が意図した、「(民主的な)自由な国民の意思」の発露でもあった。

経営者も「自由」、従業員も「自由」という、「自由による分断」こそが、アメリカ合衆国民主党に逆らわない、従順な奴隷化への一歩だったのである。

計算違いは、明治期に育った「旧日本人」が経営者に復帰して、めざましい発展を遂げたように見えたことだが、ぜんぜん計算違いではなくて、「三等重役」の下で育った「四等」「五等」あるいは「論外」の人物が、「重役」になる必然を埋めこんだのだ。

これが、いま、なのである。

スイスの貧困からの知恵

35年以上も前に、スイスと北イタリアを二週間、一人旅したことがある。

美しいが、いっさいの「生活臭」を感じないスイスから、イタリア国境を越えた途端に、路地を挟んだお向かいどおしのおかみさんが、窓越しに大声で笑いあっている光景や、大きな洗濯物をみて、なんだかホッとした記憶がある。

日当たりのない、古い住宅の谷間にかかるシーツの洗濯物は、ぜんぜん脱水されていなくて、ぽたぽたと水が垂れていたけれど、合間の路地下を行く通行人もぜんぜん気にしないで通りすぎていた。

空気が乾燥しているからすぐに乾くので、かえって「おしめり」がありがたいのかもしれない。
喧噪のカイロ住まいだったわたしには、絞りきれないジーパンも2時間でパリパリに乾くのに慣れていたから、丁度よい気温で乾くのがうらやましくもあった。

しかし、スイスとイタリアを比較するのはあんがいと難しい。

われわれが知っている「イタリア」が、いまのような統一された国としてのイタリアになったのは、なんと第一次世界大戦が終わってからだから、ようやく100年になったに過ぎないのである。

一方のスイスも、ヨーロッパ・アルプスの山国だけど、日本のような森林資源も少ないので、その「貧困」ぶりは、信州・長野県の比ではなかった。
主たる「産業」が、「傭兵」として周辺各国での「出稼ぎ」だったのである。

それだから、ヨーロッパでの戦争は、じつはスイス人傭兵同士の殺し合いで、当事国の兵はいなかったという記録もある。
このとき、イタリアは小国に分立していたから、スイス人傭兵を雇った側になる。

田んぼや畑を「耕す」という仕事から、農閑期の「出稼ぎ」で、建設労働者になるという「日本式」は、この意味で文字どおり「生産的」であったのだ。
スイス人が羨むことにちがいない。

つまるところ、スイスは貧乏すぎた。

ゆえに、頭脳を使う、ということに追いやられたともいえる。
身体を使うだけなら、傭兵になるしかなく、自分の命をかける価値のない他国同士の戦争で命をかけたからである。

もちろん、「傭兵」は、「契約」による「商売」である。
戦闘での「働き」についての「評価方法」も、当然ながら戦死したばあいの「死亡退職金」についての条項もあった。

だから、とくに本人が死亡したときの「退職金」を、あらかじめ指名された家族に「送金する」ということが、「確実」でないと、この商売はやってられない。
死んでも死にきれぬことになる。

それで、送金のための「国際金融機能」が発達したし、もしも契約相手国が反故にしたときの「国際訴訟」や、「証拠保全」のための「契約書管理(いまなら「データベース化」)」も発達したのである。

もちろん、契約相手国には、その国の「通貨」での支払という「当然」があるから、傭兵料をもらう側の都合とは一致しないこともある。
それがまた、各国通貨の「両替需要」という、実需をうんだ。

狭いヨーロッパ地域に小国が乱立するのがふつうだったから、ちょっとした距離の移動で、外国になる。
それゆえに、ヨーロッパでは、「小切手」が普及した。

これを、「使える」ように計らったのが、いまでいう「国際金融資本」で、その中心地がスイスになったのだ。
それから、スイスは中心地としての「あるべき姿」を自分たちで作っていまがある。

わが国の江戸時代、「内国為替」が発達したのとはちがうのが、以上のようなヨーロッパの事情だった。

これが明治になって、外国人との取り引きで必須ゆえに、「小切手法」ができたけど、日本人に理解が困難だったのは、「内国為替」で用が済んだ「便利」があったからである。

つまり、幕府が定めた「共通通貨制度」があったので、国内での「両替」とは、流通している金と銀の含有量にもとづく「評価」をすればよく、「内国為替」一枚を発行すれば、全国で「現金化」ができたのである。

これは、「弥次さん、喜多さん」で有名な、『東海道中膝栗毛』にも、「護摩の灰」にしてやられて持金全部を失ったにもかかわらず、ぜんぜん慌てずに、友人宛に借金を申し込んで、その友人から早飛脚で「為替」が届いて事なきを得るという、あっけらかんとした話がある。

各宿場に両替商がいたし、飛脚問屋も手形の割引をやっていた。
なお、わが国で「為替」ができたのは、なんと「鎌倉時代よりも前」なのである。

同時代のヨーロッパ人がこれを聴いたら、驚くほどの「先進国」が極東にあると思っただろう。

なぜなら、為替だけでなく、ヨーロッパで庶民が物見遊山の旅行(=観光旅行)ができるようになるのは、ずっと「後」の、産業革命後に、「労働者階級」ができてからなのである。

もちろん、道中の「治安」については、よほど危険であったのはいうまでもない。

ならば、スイスが大発展して、長野県が「信州のまま」の状態で留まっているのはなぜか?
明治に「長野県」になって、当時のひとたちが日本でもっとも「教育」に力を入れた「まで」はよかった。

県内各地にある小学校が、「文化財」になるほどの建築を施したのは、県民による「寄付文化」という、「自立の気概」があったからである。
しかしてその後、国家依存という「麻薬中毒」になってしまった。

空き家率日本一(約3割)の山梨県しかり。

長野県と山梨県が、共に「自由経済特区」になって、スイス・モデルを追及するとよいけれど、スイス人は「自然」にこれをやってのけたから、政府が「特区にしてやる」ということでは無理だ。

それで、両県の国会議員と県知事は、相変わらず「麻薬」を県民に与え続けているのである。
これも、「全国一律」になっている。

バイデンは持ちこたえない

そもそも正当性が疑われる、歴史的にも珍しい「大統領」が来日した。

漢字で書けば、「大珍種」といいたいけれど、果たしてこの人物の「居場所」が狭くなっている。
それで、「植民地歴訪」というイベントを考案した、民主党の幹部たちが命じているにちがいない。

日本人は、アメリカ合衆国の歴史を「詳しく」教わらない。
これは、たいへん不思議なことだけど、ほとんどのひとが不思議にも思わない不思議がある。

歴史を学ぶ、あるいは、学ばせる理由は、本人の人生における教訓にするため、という「実利」があるからだ。
それは、「教養」全般に及ぶけれども、もっとも重要な「価値観」を提供するのが「歴史」である。

だから、歴史を学ばない、あるいは、学ばせない、ということこそ、「愚民化」の手段になるし、唯物史観なる「害毒」でもって、人間をコントール(奴隷化)する手段とすることもできるのである。

日本に対する講和条約が発効して、「主権回復」したときに、すぐさま「日米安全保障条約」も発効した。
それで、この条約にひっついている「条件」としての、アメリカ「軍」の立場やら日本「政府」の立場も規定された。

俗にいう「日米安保」の「問題」とは、「基地問題」という目に見える問題よりも、はるかに巨大で重要なのは、「支配構造」としての規定なのである。

もちろん、この「支配構造」とは、アメリカ軍による日本占領の永久化のことをいう。
それが、「日米合同委員会」の存在でわかるのだ。

念のため、外務省HPには、「日米合同委員会組織図」というものが「公表」されているけれど、「表向き」の組織図だとかんがえるしかない。
なぜならば、この委員会での協議内容が「公表」されることが、まずない、からである。

外務省HPリンク(2022年5月23日閲覧):https://www.mofa.go.jp/mofaj/files/100060689.pdf

つまるところ、「GHQ:連合国軍総司令部:占領軍」の核心的本体である、在日米軍(当時は、わざと「進駐軍」といった)による支配が、そのまま残存・維持されているのである。

すなわち、在日米軍の存在理由は、日本防衛という「表向き」役務ではなくて、正しく「日本占領」なのである。

このことを的確についたのは、かわぐちかいじ『沈黙の艦隊』(1989年)における、在日米軍が発動せんとする「日本再占領」という表現だった。

GHQも、在日米軍も、当然ながらアメリカ軍の組織であるから、いまなら「国防総省(人事と予算を担当する「軍政」と、作戦・指揮命令のための「統合参謀本部」がセットになっている役所なので「総省」)」の指揮下にある。

なお、わが国の防衛省は、軍政を担う部分を「内局」と呼称してもっぱら「文官」の防衛官僚が仕切っていて、指揮命令系統は「制服組」の「統合幕僚会議」という分担になっている。
それでもって、アメリカ軍の「補助部隊」という、入れ子の位置づけなのだ。

そんなわけだから、天皇の上に君臨して、当時の日本人にとって「現人神(あらひとがみ)」にまでなったマッカーサー(だから天皇に「人間宣言」をさせた)といえども、本国の統合参謀長には逆らえないし、ましてや「最高司令官」たる「大統領」による「人事」にあがなえるものではない。

だから、われわれ日本人こそ、アメリカ合衆国の「仕組み」を、その歴史から理解しないといけないはずなのに、これを、「させない」のは、日本人一般に、「知らしめると都合が悪い」からである。

そんなわけで、きわめて「薄い」印象だけを与えて、深くかんがえさせないことが重要となる。
ハリウッドで制作する「娯楽映画」こそ、民主党が主導する「植民地支配」のためのプロパガンダなのである。

なので、民主党が推進する「分断政策」の最新版、「ポリコレ: political correctness」による、アカデミー賞の「審査規定」をみれば、そのおぞましい状況が理解できるというものだ。
それは、「俳優のキャスティング」にかぎらず、「制作者のキャスティング」にまで及ぶからである。

さてそれで、その民主党が、「危機的状況」に追いつめられている。

トランプ氏を攻撃し続けた「ロシア・ゲート疑惑」の「でっち上げ」が、白日の下にさらされているだけでなく、それに加担した民主党弁護士が「偽証」でFBIから訴えられた裁判で、とうとう「ヒラリー・クリントン氏による指示」だという「証言」が飛び出したのである。

せっかく、現職大統領の支持率を上げるためのウクライナ危機だったのに、ウクライナで悪さをやった息子のPCも、ここに至って「本物」だと認定されて、「政権自体」がにっちもさっちもいかなくなったのは、自業自得の大ブーメランになっているからである。

そんな「レームダック」が、真顔で来日して、わが国政府がこれを「歓迎」せざるを得ないのは、もう「外交儀礼」の範囲をこえている。

半年を切った「中間選挙」に、滅多にない世界的関心を集めているのは、民主党とバイデン政権の終わりを確認したい世界の市民がいるからだ。

すると、わが国の7月、参議院選挙に日本人が想像する以上に、世界となによりもアメリカ人(共和党支持者たち)が注目している理由もわかる。
わが国の運命を決めるだけでなく、世界潮流の「潮目」とみられている。

第二院の参議院だからと、大勢に影響が薄いとかんがえるのは、もう「古い」のだ。

かえって、アメリカ民主党のコピーと化した自民党の「大敗」こそが望ましく、その受け皿の「参政党」が急拡大(街頭演説での聴衆の異例の数の多さのみならず、党員数が27,000人を突破して社民党、国民民主党を抜き去った)していることが、「まともな日本人」の存在を「まともな世界」にアピールすることになっている。

「失敗は成功のもと」の時代

「失敗は成功のもと」といわれてきたけど、いつの間にか「失敗は許されない」社会になっている。

これを、「成功者」の人生から「逆算」してみる。
すると、「戦後の成功者」たちは、たいがいが「明治生まれ」なのだ。

松下幸之助は、1894年〈明治27年)~1989年〈平成元年〉。
土光敏夫は、1896年(明治29年)~1988年(昭和63年)。
本田宗一郎は、1906年(明治39年)~1991年(平成3年)。

それぞれが「還暦」を迎えたのは、松下幸之助:1954年(昭和29年)、土光敏夫:1956年(昭和31年)、本田宗一郎:1966年(昭和41年)である。

それで、還暦からの「余命」を確認すれば、松下幸之助:35年、土光敏夫:32年、本田宗一郎:25年。

彼らは、この間、「失敗は成功のもと」を信じて経営していたはずなのだ。
なぜなら、かれらこそが、その言葉どおりの体験をしてきたからである。

すると、これら企業組織内に、少なくともふたつの流れができることが予想される。
ひとつは、「君臨する経営者」に追随するひとたち。
もうひとつは、「実際に失敗した」ひとたちだ。

当然だけど、彼らが元気な頃は、「実際に失敗した」ひとたちが、これら企業内で「成功」したろう。
しかし、企業組織が巨大化して、変容を遂げると、単純にトップに追随するひとたちが、企業内官僚となって、徐々に「許容範囲」を狭めるものだ。

さらに、「奇しくも」彼らの寿命は、おおむね「バブルの絶頂時」に尽きた。

偉大なる「指揮官」を失ったタイミングが、「戦後最悪」という経済危機の時代だったのである。
もっといえば、かれら偉大なる指揮官が「健在だった」ならば、「バブル」に浮かれる世間に一石を投じたはずだ。

わが国における「バブル」の最初は、ヨーロッパが勝手に疲弊することになった第一次大戦による「大戦景気」だ。
この「バブル」は、1915年(大正4年)下半期に始まって1920年(大正9年)3月に、「戦後恐慌」がはじまるまで続いた。

「成金」が出現したのはこの頃である。

すると、松下幸之助:26歳、土光敏夫:24歳、本田宗一郎:14歳で、「バブル崩壊」を目撃したことになる。
つまり、かれらの「次の世代」は、これを知らないで、「平成バブル」に浮かれた、という事実が浮かび上がる。

これを、平成バブル「経験者」にあてはめると、「崩壊」がはじまる1991年(平成3年)に26歳だったひとは、1965年(昭和40年)生まれ、24歳なら、1967年(昭和42年)、14歳は、1977年(昭和52年)となるのだ。

こうしてみると、「経済史」が、人間の営みで編み込まれていることがわかる。

しかして一方、いまは「もう一つの側面」が議論されはじめている。
それが、「食と健康」だ。

とくに、「食事」が、「脳」に与える影響の大きさについて、重大な問題提起がされている。
それが、「あたらしい栄養学」ともいえる、「食品安全」にかかわることなのである。

つまり、「食品添加物」や、「残留農薬」、あるいは、「化学肥料」の影響ばかりか、「遺伝子組み換え品」がこれに加わったのである。
わが国では、今年の4月1日から、食品表示において、「遺伝子組み換えでない」とかいう表示はできなくなった。

つまり、消費者は、自分が食べている食品が「なにでできているのか?」を知らされることなく食べることになっている。
しかもこのことは、町のお惣菜屋さんも知りえない。
仕入れた食材が、もはや、どんないわれかを知る由もないからである。

また、よしんば「なにでできているのか?」が書いてあっても、それが「どんなものなのか?」を理解する「化学知識」が与えられていない。

食品添加物を例にすれば、日本は世界一「大量」かつ、「多種類」の添加物を摂取できる国に成り下がった。
それで、「癌」の発症がとまらない。

けれども、これらが「脳」に影響するという報告が、もっとも身近な問題になっている。
たとえば、「キレる」とか、「常同障害」はもとより、「鬱」の原因にも挙げられている。

なんと、日本人は、世界一「精神病患者」が多いのである。

これは、「病気」にいたらない状態のひとが多数いることも示している。
そして、これらの特徴が、「攻撃性」にあるのは、「不安」とか、「憎しみ」といった感情のもとになる物質が脳内で生成されることもわかってきたのだ。

すなわち、自覚できないけれども、他人を攻撃するとか、他人を攻撃したくなる、という欲求行動の主因に、「食事」がある、という問題になっている。

むかしはなかった、「ハラスメント」という概念も、むかしはなかった、のは「概念」であって、各種ハラスメントはあったはずだけど、これが社会問題にまでならなかったのは、「脳が健全」だという前提が、前提としてかんがえるまでもないことだったからである。

それで、加害者がいても、なんとかできた。

しかしいま、ハラスメントの原因さえも、毎日の食生活にあるのだとすれば、おぞましい状況になっていると認識しないといけないのである。

「おおらかさ」をもって、「失敗は成功のもと」と言えた時代は、人間の脳が健全だったからだという、前提ができた。
厳しく個人を追及する、「失敗は許されない」と追いつめるのは、組織のトップすら、「食事」によって脳が冒されている可能性があるのだ。

これを、「外食産業」は、克服できるのか?