資生堂の業務用品撤退の意味

今月はじめ,表題のニュースがあったが,ホテル・旅館業界の反応がいまひとつみえてこない.
月代わりするまえに,コメントしておこうとおもう.

あらためて,報道によると,資生堂が「業務用」の化粧品事業から撤退する.
具体的には,1992年(平成4年)に設立された,「資生堂アメニティグッズ」が年内に営業活動をやめる.売上高は年間数十億円だったというから,小さすぎて詳細はわからない.
これで,ホテル・旅館業界は,ポーラなど,他社への取引先転換をすすめることになる.

さて,ここで最初に注目したいのは,設立年である.
まさに,バブル経済の崩壊期である.
だから,「資生堂アメニティグッズ」側からみれば,会社設立の営業開始以来ずっと,納入先から「理不尽」な値下げ要求ばかりだったと推測する.

なぜ「理不尽」かといえば,商品に不備はないのに単純に「安くしろ」という要求であったろうからだ.
こうした要求ができる理由は,以下のようなものだろう.

老舗旅館の経営者のおおくは,若くしてそのまま家業を継ぐばあいと,いったん大手ホテルなど宿泊関連企業に就職して,しばらくして退社し家業を継ぐというパターンがある.
また,大手ホテルのばあいは,「サラリーマン」としてのホテル勤務をしていて,社内昇格によって幹部になるパターンである.

こうしてみると,経験は,家業か大手ホテルのサラリーマンかに絞られる.
いわゆる,「利益」や「経費」の本質について,恒常的に儲かっている企業がどのような判断をしているのかしらない,という「ビジネス経験」になってる.
簡単にいえば,日本を代表するメーカーや商社の出身者がいない,ということだ.

それで,「経費削減」が至上命令になるのである.
このブログで何回も書いたが,「経費削減」で業績向上を成功させ,企業の復活を果たした事例はない.
むしろ,理不尽な要求で,自社の評判を落とし,ついには「信用」をなくすことすらある.

自社製品になんの落ち度もないのに,取引先から「値下げ要求」をしつこくされたらどう思うか?
なんで,こんなひとたちの要求を飲まなければならないのか?と思うのがふつうの反応だ.
「買ってやってる」という一方的な上から目線は,互いに同等の立場である正常な取り引きではない.つまり,略奪的なのだ.

大袈裟にきこえるかもしれないが,資本主義的ではない.
だから,独占禁止法でも,有利な立場を利用して支配的な取り引きを強要することは禁止されている.それは,資本主義のルールではない,ということだ.
前資本時代の取り引きになってしまう.

今回の,資生堂の判断は,ホテル・旅館業界への決別である.
「もう知ったこっちゃない」とか,「無理やりおつき合いする道理はありません」と.
すくなくても,わたしにはそう見える.
残念だが,これに一方のホテル・旅館業界は気づいているのだろうか?と問えば,「否」であろう.

それが,前述した「ビジネス経験」のなさが原因だとおもうのだ.
そして,外国人観光客のおかげで単価も稼働も上昇したが,経営の意図として達成したものとはおもえないことにつながる.

お客様がつかうシャンプーなどを,とにかく安く仕入れたい,という発想は,裏返せば,お客様へのサービス水準も安くて(チープで)いい,ということに等しい.
もっと満足度を高めて,もっと利用頻度をあげて,もっと単価を上昇させたい,とかんがえるなら,もっといいシャンプーはないのか?になるはずではないか.

何度も書くが,損益計算書のとおりに世の中はなり立っていない.
損益計算書は,ただの「計算書」である.
だから,売上-経費=利益 は計算式であって,実際は,
経費の支払⇒売上の入金⇒キャッシュの増減 である.

すべて,経費の支払いからビジネスははじまる.
だから,どんなものを「買う」のか?は,ビジネスの結果に影響するのは当然である.
「安いものがいい」では,ビジネスは成長しない.
自社の目的にきっちりかなったものだけを適正価格で買う,これがビジネスである.

単純だが,上述の重要さがビジネス経験を積まないと理解できない.
だからこそ,理不尽な要求ができるのだ.

売上高1兆円を突破した資生堂の業績は,いま「絶好調」である.
一方のホテル・旅館業界の業績は,果たして「絶好調」といえるのか?

「なぁに,資生堂なんかなくても他社があるさ」と,どんなにうそぶいても,見捨てられたのはどちらかはあきらかである.
こうして,一切の反省なく他社にも理不尽な要求をつづければ,そのうち取引先がなくなって,とうとう独占的な一社の支配下に置かれてしまうかもしれない.

もっといいものを,ちゃんとした値段で買いたい.
そういう業界になってほしいものだ.

魂を売った「祭り」の後始末

日本の「祭り」がかまびすしい.
徳島の「阿波おどり」の騒動がまだ尾を引いているなか,兵庫県芦屋市の「だんじり保存会」が,文化庁から受け取った補助金の「返還命令」を受けたという.
金額は,1,480万円というからバカにできない.
「修理費」の補助金を,「新調」したと「認定」されたのが理由という.

むかしは「写真」を撮られると魂が抜けるとして忌み嫌った時期があったというが,いまは「補助金」をもらうと魂が抜かれるのである.
むかしのは「迷信」だとわらえるが,いまのは「事実」だからわらえない.

中央政府の国や,地方政府の自治体からお金をもらうと,なぜ魂が抜かれるのか?
それは,麻薬患者がとうとう「廃人」になるように,公金をもらった側の「自主性」をうばうからである.

封建時代のお殿様からの「下賜金」であったなら,うやうやしくいただけばよかった.もちろん,断れない.
その金はもともと我々が支払った「税金」だから公平に分配すべきだ,などと文句をいうものなど存在しない.
税として取り立てた財貨は,基本的にお殿様のものである.
だから,そんなことをいったが最後,捕まって処罰されるのがオチである.

ただし,もらった側は,お殿様からの「下賜金」をすきなように使えるわけではない.
「下賜金」をくれた理由のなかにある,「使い道」に沿っていないといけない.
家臣の武士とても,なにかの褒美に下賜された「お宝」には,近代の「絶対的所有権」があるわけもなく,もしそれが何代かのちの子孫が傷をつけようものなら,直接的に「お家断絶の危機」になる.
夏にふさわしい,怪談「番町皿屋敷」のはなしも,以上の前提あってこその物語展開である.

こうしてみると,「補助金」というものの性質に,「下賜金」の概念がいきている.
使い道を限定されても「申請」というお伺いをさせるから,あたかも「申請」した側のためになるという構図だが,もともと使い道を限定した条件をだしているのは「行政」の側である.
だから,行政の掌のうえで踊らされるのは,かならずもらった側になる.

つまるところ,お殿様からの「下賜金」とかわらない.
21世紀の「奇跡」のひとつである.
日本という国の伝統に,いまだしっかり封建社会がいきている.

ところが,はるかむかしより現代は始末が悪い.
むかしは,お殿様からの「下賜金」だけでは足らないから,村々の住民が全員で不足分をなんとかした.
お金で払えなければ,現物を用意したり労働を提供した.

そうして住民全員が「祭り」を準備し,実行し,後片付けをしたから,住民が主催者で,お殿様は余計な口出しはしなかった.
もちろん「祭り」を楽しむのも住民である.
お殿様は,せいぜい遠目でながめて満足するしかなかったろう.

いまは,行政が命令して口も出す.
ところが,住民も負担をいやがり,準備も実行も後片付けも手伝わない.
一部の「お祭り好き」の趣味になった.
それで,資金が足りないと補助金に手を出すのである.

一部の趣味に,みんな平等の行政がなぜお金をだすのか?
「観光」になるからである.
これを「わがまちの『観光資源』だ」といえば,とりあえず反対はいなくなる.
そして,かならず「経済効果」が行政によって計算される.

こうしてついに,村人全員の「宗教的行事」が,「観光」という名の「見世物」になって,「祭り」ほんらいの宗教性が「薄め」られる.
なるほど,憲法の「政教分離」の精神がここにある.
宗教性がない「祭り」だから,公金がでるのである.

つまるところ,たんなる「イベント」にすぎなくなった.
これをはじめたのが,宮田輝アナウンサーの「おばんです」ではじまる,NHK「ふるさとの歌祭り」(1966年~1974年)だった.
「郷土芸能の保存」を番組趣旨にしたというが,テレビに出るという「イベント化」でもあった.

それで,有名な祭りが巨大イベント化した.
地元企業の協賛から,やがては全国規模の大企業が資金を提供して,まさにコマーシャル化した.
駅前商店街がシャッター通りとなって,いまや「イベント地獄」になったのが「祭り」である.
年に数日の「祭り」が,地方を活性化などしない.むしろ「疲弊」させていないか?

企業が「祭り」に協賛金を拠出しても,すぐには「寄付金」にならない.
企業名が掲示されれば「交際費」である.
そもそも確定申告を要しないサラリーマン世帯なら,「祭り」の寄付は経費処理もできないから,たんなる家計の支出だ.
「祭り」が無形文化財だというなら,「寄付文化」をそだてて税額控除をすれば,補助金なんて必要なくなる.これをしないで「お殿様」に君臨するのが役人だ.

50年に一回の,たった20日間のオリンピックが,巨大化した日本経済を復活させるはずがない.
なんのことはない,イベント化した村祭りと発想がおなじなのである.

賢い村は,祭りをイベント化せず,地味に住民だけがたのしんでいる.
そうして,村の鎮守もまもられるようになっている.
身の丈こそ,ということをわすれて,行政がいう「経済効果」や「まちおこし」という甘言に吸い寄せられると,魂が抜かれるのである.

ACPG 2018

「才能に関するアジア太平洋会議 2018」という.

わが国では,大正14年からはじまったNHKラジオ「子供の時間」が,才能あふれる子供を紹介した嚆矢であろう.国家が才能を宣伝し,国民が称えた時代だった.
「平等」が大好きな戦後の日本でも「天才」を紹介する番組はあったが,いまはみあたらくなったのは,みんな「平等」でなければならないからか.

「才能」が世の中をうごかす時代になって久しい.
わかりやすい例では,ビル・ゲイツやスティーブ・ジョブズがいて,なぜかアメリカ人がおおい.
これは,才能に「投資」する仕組みがあるからで,あいかわらずベンチャー企業に「実績」と「不動産担保」しか要求しない日本では,才能が学校で育っても社会が枯らしてしまう仕組みになっている.

日本で「才能」といえば,まっさきに芸術分野があげられる.子供からバイオリンやピアノなどの楽器演奏を中心にとらえる傾向があるが,科学技術分野においては希薄なのが不思議である.
その芸術分野でさえ,才能が海外流出してしまう.若き芸術家は,外国でキャリアをつんで有名にならないと日本でありがたがられないからだ.育てるコストを負担しないのは見る目がないからだろうから,ベンチャー企業に「実績」を要求する姿勢ににている.

表題のACPGは,ことしタイで開催された.
国際数学オリンピックで,タイはすでに日本の上位国になっている.
どの親も,自分の子どもの才能を伸ばす努力をするだろうが,日本の親がもつ熱意とはちがうレベルの熱意があるのだろう.それは,世界が才能によって動かされる時代だと識っているか識らないかのちがいにもみえる.

開催日程は1週間で,参加する各国の子どもたちは,この間,才能教育専門施設で「合宿」することになる.
この施設自体,宿泊棟は日本のビジネスホテル以上のスペックで,日中はワークショップが開催できる会場があるから,その規模は大きなものだ.

ここまでの施設と設備を整えているのは,「才能」の掘り起こしこそ,国家の繁栄につながるというかんがえがあるからだ.
これは、ふるい国家主義ではない.
才能の自由さを保障することが,才能の流出を阻止し,その才能が生みだす「価値」を,国民が享受できるという発想だ.だから,才能を国家が独占して囲い込むという発想とは真逆なのだ.

とにかく,多数の才能を育てることが重要になる.
わずかな天才だけを保護しようということではない.
社会のおおくの分野に才能が行き渡る.
これが現代の富の源泉なのである.

そのために,いかに難しいことをやさしく教えるか?
難しいことを平易な言葉に置き換えただけでは,やさしくなったとはいえない.
難しいことを興味と関心をもって,あいてに理解させる技術が必要なのだ.
だから,教える側の理解度が深く広くないと才能をのばす実践ができない.

たとえば,「スチュワート微分積分学」という教科書がある.日本語版は全部で三巻の大分冊だが,三巻目は未刊である.

監訳者の秋山仁先生によると,この本の執筆は「スチュワート教授」ひとりではなく,なんと各分野(医学,建築,経済...)の専門家が三百人も結集したという.
「謝辞」には,一貫性をもたせるための「査読者」が第8版だけで7人いるが,補助教材の査読者は39人もいる.第7版までの査読者として,173人の名前が掲載されている.
「査読」とは,内容の不備を指摘するためにある.それで,査読者と執筆者は激論をかわすという.

さらに,「補助教材の査読者」とあるように,この本には本文説明と連動したオンライン教材もあって,「紙」だけの情報でなり立ってはいない.
オンライン教材といっても,ウエッブ上のアドレスが変わってしまっては印刷教材として困るので,これを確定する作業もやっている.

日本における「◯◯学」の教科書が,本当にひとりか数人の共著であることをおもいだすとこれだけで執筆陣の規模がちがうが,ふつう教科書でオンライン補助教材など皆無であるから,それはまさに「雲泥の差」である.

このスチュワート教授の教科書は,世界のベストセラーというが,その理由は原著が「英語」であることのみならず,なによりも「わかりやすさ」にある.
つまり,執筆動機が「学生の理解ため」であって,これを愚直に追求している.

その動機=目的からみちびかれる,執筆戦略が,学生読者の脱落をふせぐために題材の「絞り込み」が意図されて,理解の発散をさせず,むしろ豊富な現実世界での「微分積分」の応用例を解説して,興味を枯らせない.これこそ、「選択と集中」である.
そのために,いろんな分野の専門家が参加しているから,この本自体が「大型プロジェクト」になっている.

つまり,執筆動機=目的=理念 ⇒ 執筆戦略 ⇒ 執筆陣の選定 ⇒ 執筆実務 ⇒ 査読 ⇒ 激論 ⇒ 修正 ⇒ 完成 ⇒ あるべき姿との比較 ⇒ 次版のコンセプト策定 というサイクルを繰り返して,いま「第8版」になったのだ.
スチュワート教授はすでにこの世にないが,この教科書は,これからも進化をつづけるのだろう.

これも,日本における「◯◯学」の教科書が陥りがちな,「いちどにたくさんの定義や概念の一方的説明」があったり,現代のテクノロジーをみとめない態度とは逆である.
すなわち,学生のための教科書ではなく,教科書「執筆者」であることの重視ともいえるのではないか.
主筆が亡くなってなお,新版がつづいてでるのは広辞苑や新明解といった辞書にみられるが,日本の「教科書」ではめったにないのではないかとおもう.

秋山仁先生によると,数学の能力は高校生までは日本人が上をいくが,大学卒業時にはアメリカの学生にはるか先まで追い越されるのが実態だ,という.
わかりやすく教える技術の差なのだろう.

書店の理系コーナーには,数学以外にもアメリカ人学者が書いた有名な「教科書」が,いずれも大分冊なボリュームで棚を飾っている.
日本人の大権威が書いた本は,薄くて難解な傾向があるのとはちがう.
上述した,執筆動機 ⇒ からはじまるサイクルの有無のちがいとしかおもえない.

ことしのACPGには,日本から「数名」の生徒が参加したという.
いずれもお茶の水女子大付属校の生徒だったらしい.
おおくのひとが隔離されて知らないうちに,区別された一部のひとたちの才能が伸びる夏休みを過ごしている.

それにしても「数名」とは.

夏休みのグラフ電卓アート

アメリカで1987年にはじまった,Teachers Teaching with Technology(T3:テクノロジーによる数学関連の教育)という運動があって,これをうけて日本では1992年に研究会がたちあがったというから,もうかれこれ四半世紀をこえることになる.
8月25日と26日の二日間,恒例の年次大会が東京理科大学で開催されたので参加してきた.

日本をのぞく「先進国」つまり,OECD加盟国のおおくでは,すでに初等教育における「算数」から授業に「教育用電卓」が導入されていて,中等教育においては,「数学」のみならず「理科」においても「グラフ電卓」を使用して実験データの収集と分析にもちいている.
最新の「グラフ電卓」は,ほとんどハンドヘルドコンピューター化していて,各種センサーを接続することができるのである.

これは「国際バカロレア」でも「当然」とされるので,一般の学校の校内試験においても「電卓」の使用はふつうのことで,一見して日本の試験より高度な問題が出題されるという.
ハイテク国家を自他共に標榜しているのが日本だから,算数・理科や数学・物理・化学の授業にハイテク電卓をもちいることをしないのは何故か?と外国の教師から不思議がられているのは,以上のような事情がある.

なにも「国際バカロレア」がすべてではないが,学校の成績と社会に出てからの評価の関係が高いことが「国際バカロレア」の最大の成果といわれているから,各国とも力をいれているのである.
もちろん,わが文科省がなにもしていない,ということはなく,「指定校」という区別的手段で一般校と隔離した導入をしている状態にある.これをあえて「差別」とはいわない.

とはいえ,指定校だからといって授業に電卓をつかうとはかぎらず,むしろ,それでもつかわない,というのが日本の実情のようだ.
これを,T3参加の先生にきくと,ふたつの問題があるという.

ひとつは,学校における管理職(校長や教頭)の「無理解」があがる.
しかし,より深刻なのは数学を専門とする教師がいやがる,ということだ.
もちろん,電卓は道具だから,その購入費用をどうするかがあるのだが,自分の「教え方」の変更を余儀なくされることが,いやがる理由としていちばんの問題だという.

もっとも,「行政(文科省)」の側は,電卓という小さい予算よりも大きい予算を要するからかはしらないが,なぜかパソコンが大好きで,さいきんではタブレットPCなら予算要求しやすいらしい.
それで,電卓アプリをつかう手が見えてきた,とT3の参加者は期待している.

この議論をきいていて,結局のところ,「生徒のため」という顧客満足視点が,行政にも,それに従わざるを得ない学校管理職にも,さらに確立した自分の授業を変えたくないという教師にも欠如していることがわかる.要は,みんな自分がかわいいのである.

そんな状況をしった上で,グラフ電卓をつかった「アート」すなわち「絵」の発表会があった.
「作品」をみせながら,どんな数式を用いて描いたのか,描くにあたっての困難さはどこにあったのか,そして,この描画をつうじてどんな発見があったのかをつくった生徒が発表するのだ.

少ないものでも20本,おおいものなら90本以上の「数式」からなり立っている.
発表者が高一の生徒なら,制作したのは中三の時期になるから,おおいに感心してきいていた.
数式とグラフ描画の関係が完全に一体になるこの方法は,複雑な表現のためにカリキュラムをはなれたレベルの方程式や定理をネットで調べたという生徒もいて,すばらしく教育的である.

発表について,参加した教師側からの質問も鋭い.
ある女子生徒の,「世の中が数式でできていることを実感できた」といった発言が印象的だった.
よほどの達成感があったのだろう.

自分が高校生だったとき,こんなことは思いも及ばない.
それどころか,先生がなにをいっていて,その公式や定理が世の中でどんな役に立つのかをしらないままだから,苦痛でしかない授業だったとしか記憶がない.
あぁ,なんて不幸だろうか.

電卓は道具だが,先進諸国の思想は,「発見的教授法(heuristic method)」にある.
これから,生活現象を中心に統合して教えるべきだとする一般科学(general science)がアメリカで起きて以来,あちらでは,その公式や定理が世の中でどんなに役立つのかの具体例を徹底して先におしえる.
文明の成果を生徒にみせて,それから中身の教育をするのだ.

これは、論理の演繹法である.
日本では,帰納法一辺倒で,コツコツ階段を登るイメージがよいとされるが,それは世の中全体が伸びているという前提があってのことである.
いまの時代は,さきにあるべき姿をえがいて,その実現方法を計画する「演繹」をしないと,企業だって目標をうしなってしまう.

グラフ電卓アートも,手で描いた「下絵」からの演繹でつくられている.
だから,演繹のための道具が「電卓」なのである.

すべてはお客様(生徒)のために.
たったこれだけの追求が,いかに困難なことか.
日本での数学教育の進化は,T3参加の熱心な先生たちだけに頼るわけにはいかないだろう.
ここにも「依存」のすがたがある.

漁業従事者は15万人

150万人の間違いではないか?
そうではない.
農林水産省の「漁業労働力に関する統計」にある平成29年の数字である.

このうち,65歳以上は約6万人で,水産高校教員の減少からも若者の新規就業がほとんどないらしいから,あと10年もすると全部で10万人を割り込む可能性がある.
漁港の数は,ことしの4月1日現在で2,823あるので,単純に平均すれば漁港あたり53人の漁師しかいない.近い将来,立派な漁港があちこちで放置されることになるだろう.

農業はどうか?
おなじく,「農業労働力に関する統計」では,175万人である.
漁業従事者の12倍ほどになる.しかし,ぜんぜん安心できないのは,このうち65歳以上は120万人とあるから,あと10年もしたらとんでもないことになりそうだ.
新規就農者が毎年6万人ほどいるので,いくぶんマイルドではあるが減少は確実である.

このふたつの「統計」をみると,様式は似ているものの,漁業のほうには「新規就業者」欄がない.
これはまさしく仕事の「ムラ」である.
「農」にあつく「漁」に冷たいのが見てとれるが,行政サービスとしていかがなものか.

どちらにしても,食料生産の原材料を供給する分野での「衰退」が,もはや「危機」領域にあることを示しているが,はたして一般国民に危機感があるとはおもえない.
これもひとつの「国家依存」の結果ではないか.しかも,思考力をうしなった国民は,丸投げの政府依存をしているから,問題意識すらうすい.

農・漁業について簡単にいえば,「保護」の方法をまちがえた.これは、林業の悲惨もおなじだ.
例によって「日本式」というガラパゴス化が,補助金の分野にもあって,世界の潮流とは反対のことにこだわるのが日本政府なのだ.
つまり,時代の変化に適応できないままで,70年一日のごとく,戦後の食糧難時代への対応,が延々とつづいている.

これは,残念ながら事業に行き詰まった企業が辿った道とそっくりであるから,政府は政府の経営に失敗している.
漁業にしぼりこんでも,「日本人は日本近海の魚が食べられなくなる」という警告は,昭和時代というむかしにずいぶんと指摘されていた.

その警告が,ほとんどそのまま「的中」して,いよいよ滅亡の淵にまで追いつめられている.
証拠は,本稿タイトルのとおり漁業従事者の数にあらわれている.
北欧では漁業が成長産業だから,新規就労希望者がおおぜいいるのは,所得が高いからである.
日本では漁業が衰退産業だから,新規就労希望者がほとんどいないのは,所得が低いからである.

この違いの発生原因はなにか?
それは、水産資源についての思想の違いにある.
70年代(日本の昭和元禄時代),北欧で漁業にかかわる人たちだけでなく消費者も,水産物の捕獲と消費について危機感があったのは,日本で問題指摘された時期とおなじであった.

違うのは,「日本式」では将来たち行かなくなる,という認識を北欧のひとびとが結論づけたことである.漁業における「日本式」とは,漁場開発をしたら獲り尽くすという意味で,「掠奪式」ともいう.
そこで,「資源保護」という概念に,「持続可能」ということばも付けた.
北欧の消費者がこれに賛同したのは,未来の子孫にも資源をつなぎたいという想い(思想)からであった.

残念ながら日本の場合は,この「分岐点」をいまだに迎えておらず,消費者は強欲にもあいかわらず「安くて美味くて安心安全」をもとめてやまない.だから,獲れるだけ獲らないと間に合わない,ということになる.

すると,この連鎖を断ち切るための方策は「教育」であることがわかる.
世界のなかの「文明人」として,「持続可能」ということの意味をしらなければならない.
ところが,貧乏が蔓延すると,これをしったところで関係ない,とにかく安くて美味くて安心安全をよこせになってしまうはずだから,「教育」のチャンスにも時間がすくない.
旧約聖書の出エジプト記にあるようなはなしだから,キリスト教の北欧人には理解できたのだろう.

日本の漁業は,まさに自滅のシステムになっているのである.
「前資本」における「掠奪」が,どっしりと居座って日本国をおおっている.
野蛮な中国人ではなく,とっくに世界は野蛮な日本人を意識した.
「野蛮」とは,自分のことしかかんがえない態度をいう.堺屋太一の出世小説「油断」にでてくる,「消費者団体」の主張がこれだ.

排他的経済水域の「200海里」とは,日本の略奪的漁船を自国海域から追い出すためのルールであった.それで,当時は大騒ぎになったけど,これは掠奪ができなくなるという騒ぎだったのだ.
ところが,このルールのおかげで,日本は世界で6番目に広大な領域をもつ国になった.
「排他的」が許されるのは,自分の水域での資源保護が義務化されているからで,そのかわり他国を排除できるという理屈である.問題は,「資源保護」という概念が日本になかったことである.

なんと,いまでも日本は,国際ルールでの資源保護を事実上「やっていない」から,またまた国際ルールを無視している.
中国や韓国の「漁船」が,政治的行動ではなく,純粋に「漁」として日本の排他的経済水域に入らないのは,とっくにわが国漁師が「獲り尽くした」ので,なにもなく燃料代もでないからである.

資本主義の発想は,まさに「持続的」にいつまでも「儲ける」ことで,そのためにはいかに「付加価値」を高めるか?を労使ともに協働しておこなうことである.
日本人は,その「資本主義」を嫌うが,それはいつまでも「前資本」という「掠奪」や「詐欺」,それに「冒険」が前提の体制を好むからだろう.

こういう国に生きている,という自覚ぐらいは持っていい.

薄利多売はやってはいけない

安くしないと売れない.
このかんがえに取り憑かれたら,それはまるで貧乏神に取り憑かれたのとおなじで落ちるところまで落ちるはめになる.
しかし,いまだにこの発想からのがれられない経営者はたくさんいるから,お祓いだけではなく自ら滝の水にでも打たれて禊ぎを受けたほうがいい.

いまどき「薄利多売」をしようというのは,社内の数字を把握するシステムが不完全なままで放置しているからできるのだ.
もし,社内の数字をきっちり把握するシステムがあれば,「薄利+多売」などしないで,「ちゃんとした利益+多売」をすることになる.

その「ちゃんとした利益」が,他人から「薄利」だといわれても,経営者が「ちゃんとした利益」だと認識できていれば,それはそれでよい.
つまり,「薄利多売」とは,利益を把握している,という条件が満たされてはじめて成り立つものなのである.利益を把握せずにやったら,それは「無謀」というものだ.
だから,おおくの「薄利多売」は,そのまま「無謀」になる.

なぜなら,「利益」を把握することは,とても難しいことだからである.
もし,そんなことはない,ちゃんと損益計算書には利益が出ている,と主張するなら,そうとうに危ない発想をしているから,注意が必要だ.

このブログでも何度か書いたが,「損益計算書」は「納税」のための「計算書」であって,真の「損益」を把握するためのものではないからだ.
当然に,会社法での「決算書」も,株主や投資家のための開示資料であって,経営者のための資料ではない.
だから,そこに書かれている「利益」を,経営者が経営のためにつかってはいけない.

ならばどうするか?
残念ながら,損益計算書は恣意的すぎて使えない,というのが結論である.
それでは困るので,「キャッシュフロー」をみるという方法が唯一存在している.

ところが,このキャッシュフローでは,製品や商品の一個あたりのキャッシュの動きが見えない.
だから,そもそも「薄利多売」は成立しないのである.

現金の動きがキャッシュフローである.
現金の「入金」と「出金」,そして「あまり」が重要なのだ.
「入金」がなくても「出金」はある.
これを,会計士は「管理会計」と称して,「変動費」と「固定費」という概念をもちだす.

売上がなくても出ていく費用を「固定費」といい,売上と連動して出ていく費用を「変動費」という.
そして,これらの費用から,「限界利益」を求めれば,「必要売上高」の計算が「できる」,という.

しかし,できない.
そもそも,損益計算書の費用を「固定費」や「変動費」に分けることが「できない」からだ.
もし,適当に分けて計算したら,その「誤差」がおおきくなって,とても実務ではつかえない.
ある教科書には,「とにかくひたすら『固定費』と『変動費』に分解せよ」と書いてあるのをみたことがある.

これを執筆した会計士は,実務を知らない,と確信した.
「理論」は理解したい.それで,「感覚」を持つのは重要だ.しかし,「つかえない」.
製造業で「中小企業のカリスマ」といわれる人物が,「設計図どおりできたら倒産する会社なんてない」と言っていたが,「理論どおりできたら倒産する会社なんてない」のである.
どちらも,たいへん難しいことなのだ.

わたしも若い頃,教科書を信じて,会社の数字から限界利益を導いて必要売上高計算をし,これを予算策定の根拠にしようと取り組んだことがある.
経理と組んで3年間,結局は「できなかった」という苦い想い出がある.
しかし,この失敗から,気づきがあったのはよかった.

「薄利多売」をしているひとは,是非,教科書通りをいちどやってみて,「できないこと」を経験するとよいのだが,それでは会社がもたないかもしれない.
「時間」という経営資源を浪費してしまうからだ.

どんなにお金を出しても,「時間」は買えない.
古来,永遠のいのちを求める物語はたくさんあるが,成功した話はひとつもないのは当然である.
しかし,人間とちがって「会社」には永遠のいのちがあるかもしれない.

それは、「経営力」にかかっている.

二億円の買いもの

わが国の「労働問題」をややこしくしているのは,「問題解決」の教科書がいう「ロジカル・シンキング」がなっちゃないからではないか?
つねに安易な「弥縫(びほう)的」すなわち,「その場しのぎ」や「間に合わせ」を積みかさねてしまったから,問題の本質が「うろこの層の下」にあるようになって,むりやりにでも引っ掻かないと何が何だかわからなくなった.

だから,用語の定義にもしっかり「裏」があって,そのまま素直には受け取れない.
たとえば,「正社員」.
これは、「ぜったいに『解雇できない』社員」という意味だ.
「正」は「ただしい」でも,「正規の」という意味もうしなって,「解雇されない特権」と「自分から辞める自由」という意味になった.

つまり,雇用する企業側からみれば,いちど採用したら最後,自分から辞めなければ,とにかく一生面倒をみなければならない義務を背負うことになる.
これは,「公務員」の身分とおなじだ.
なので,かならず「貴族化」する.

それに,「社員」だって,もはや「法的」な定義の「社員」より,会社の「従業員」を社員ということがふつうになった.もっとも,こちらには「雇員」という古いいい方があったけど,「雇ってやっている」から「業務に従う」への変化は,しょせん上から目線だからたいした変化ではない.
むしろ,「出資者」や「事業パートナー」としての法的「社員」の位置づけが断ち切られた様相のほうが深刻なのだろう.

「雇員」だろうが「従業員」だろうが,労働という有限資源を提供しているのだから,広い意味では「出資者」である.だから,これに「社員」「派遣」「パート・アルバイト」といった「雇用形態」に差をつけるのはナンセンスである.
このひとたちは,全員が労働という有限資源を提供する見返りに,「賃金を得る」という「ビジネス」をしている.
だから,ビジネス・スーツに身を固めたひとだけが「ビジネス」をしているのではない.

この二十年あまり,「不況だから」とか「利益が出ない」から,という理由で賃金をさげてきた.
それで,サラリーマンの生涯年収がかつて「3億円」といわれていたが,ちかごろとうとう「2億円」になった.夫婦とも正社員だと「4億円」になって,金利がめちゃくちゃ低いから,人生最大の買い物である住宅で,7千万円ぐらいの家が買えるようになった.

産業のなかでも自動車と住宅が,そのすそ野の広さで圧倒している.
ご存じ,自動車はわが国を代表する輸出産業であるから,為替の動向もふくめ,この産業の浮沈はわが国経済のかなめである.
一方で,住宅の輸出はどうかというと,自動車のような位置づけにはなっていない.国内向け主体なのである.

わが国の住宅は,「在来工法」でもすっかり「プレハブ化」したから,むかしながらの大工さんが建てる家は「伝統工法」になってしまった.ましてや,立体高層長屋を「マンション(邸宅)」と呼んで耳に心地よい一般化に成功した.コンクリートの構造躯体に個人が注文をつけられないので,内装しかこだわれない.

こうして,わが国の住宅は,大量生産の工業化を果たすと同時に,「工法」が標準化され,完成と同時に価値を失うことになった.
すなわち,大量生産=大量消費が「美徳」というかんがえかたの固定である.
こうした品質の住宅を,消費者は大枚はたいて買わされる.

個人の年収を夫婦で稼がないといけなくなったから,女性の男性化が必定となる.
「ジェンダーフリー」というガラパゴス化も,ここに要因のひとつがあるのだろう.
これが,企業内で「ハラスメント」を引き起こすのかもしれない.

ひるがえって,企業は正社員を採用すれば,向こう40年間で2億円以上の出費が確定する.
つまり,企業経営にとって,「採用」は重大問題である.もちろん,いまにはじまったことではないが,正社員保護の体制確立はむかしにできたものではない.
それにしては,むかしのままの「採用方式」ではないか?

ここにも「無能」経営者のすがたが出てくる.
そんな無能は,かならず「人件費」を費用としてしかみないから,経費削減の対象にする.
ならば,正社員を採用しなければよい.
ところが,人事泣かせなのは,無能経営者がことわれない「推薦」の存在だ.

そこで,人件費削減に熱心な経営者に,正社員の採用中止を進言したら,正社員がいないと困る,という.
何故かと理由をきいたら,こたえられなかった.
なんとなく採用して,その結果責任を従業員にもとめる愚.

ため息しかでないことがある.

重い社会保障が人件費を上げる

「会社」に勤めていると,会社が半分払ってくれているから天引きされる「社会保障料(年金と健康保険)」が気にならない.
ところが,「自立」したとたんに,自分で「全額」負担する.それで,おどろいた経験のあるひともいるだろう.

いまさら,厚生年金であれ国民年金であれ「公的年金」ならば,それを「掛け金」と言ってはいるが,自分のために「積み立て」しているわけではないと,しらないひとはいないとおもう.もしも,しらなかった,というなら,まちがいなく給与明細の「手取り」しかみない勤め人しかいない.
ましてや,公的健康保険が健康だとどのくらい酷なお金を徴収されているか,かんがえもしないものだ.これも,毎月「掛け捨て」ている.

戦時中にできたときは,「積立方式」だったが,戦後のインフレで「積立」がパーになって,それからは支払原資がないから「賦課方式」に変更された.これは,いま集めたお金をいまの支払にあてる方式だ.だから,受取人がすくない当初は,どんどんお金がたまっていった.それを預かる役人が,いいから使っちまえ,といろんな「会館」を建てたという事情は「厚生年金保険制度回顧録」に詳しいが,アマゾンでの取扱がないから,図書館の利用を推奨する.

そんなわけで,明治生まれの世代は,掛け金の負担を「しないまま」年金生活ができた.
わが国の社会保障が国民皆保険として完成したのが昭和36年である.当時は,55歳定年がふつうだった.ときの総理は「社会保障元年」だと自慢した.
その次の,大正から昭和一桁生まれは,若干負担したが,受け取りのほうがおおい世代で,世間はここまでを「得をした」と言った.

「世代」でいえば,これらのひとたちは「戦争当事者」である.ひどい目にあって生きのこったことに対する国からの「ご褒美」だと認識しても,それなりに納得できる.
ただし,ひどい目の元凶は,政府だけのせいではなく国民の意志だったことを忘れてはいけない.
「国民皆保険制度」を国民の意志としないアメリカのような国もある.

それは,「自由」が失われるという「命題」による.この「自由」とは,「自己決定」の「自由」をいう.
「国民皆保険制度」を国民の意志としたわが国は,国民ひとりひとりの「個人の『自由』」が冒される「危険」を,アメリカ人のように意識しているのだろうか?

いま,年金生活をしている世代は,しっかり「自己負担」したように見える.
これからの世代は,自己負担分よりすくない額になること必定である.
これで,いまだに「損」「得」を言っているのは,視野狭窄ではないか?
これからの未来世代にとっては,既にこの国の社会保障制度は破綻している.

日本人は,先祖を思いださない不敬な国民になり果てた.
誰にでも「親」がいる.その「親」にも「親」がいる.
たった二・三世代前の,明治生まれのご先祖が,ただでもらった年金と,その次の世代がもらった年金を,自分には「損」だからもっとくれと言っている.
全員の「家系」でトータルすれば,結局チャラになっただけのはなしである.

これから先は,マイナスばかりで,だれも「得」をしない「制度」になり果てる.
それがもうはじまっていて,パートタイム労働でも負担を強いられる.
本人負担だけではない.半額は雇用者負担だから人件費の増額である.
その分「手取り」が減るならば,この国の貧乏を社会保障がつくっていることになる.

なんのことはない.食に窮したタコが自分の足を食べるようなものである.
これをつづければ,タコは自身を食い尽くして無残なまま最期をむかえる.

マスコミによる有権者へのアンケートで,つねに上位回答が「社会保障の充実」になってひさしい.
いっとき「家系」の「家計」に役だったものではあるが,もう全員が損しかしない制度の充実を要求してはばからないのは,タコにも劣る強欲そのものである.

その国民の強欲を満足させれば選挙で勝てるという強欲が,破滅へのスパイラルである.

はやく現役世代には,民間の積立方式に加入をうながして,この制度の廃止をすすめるべきである.
放置すれば今度こそ,まちがいなく国民の意志で,この国の破滅がやってくる.
その辛酸をなめるのは,まだ生まれてきていない世代になるから,この世代の恨みを今の我々が一身に受けることになる.

「国家依存」した「強欲のバカ世代」という歴史的烙印を押されるだろう.

「格差社会」のつくりかた

日本人で「奴隷」といわれてもピンとくるひとはすくない.だから,憲法18条に違和感をおぼえるのだ.
はるかむかしからずうっと貧しかったので,欧米人からしたら「奴隷」にみえても,本人たちはそう思っていない.「みんな」貧しかったという事実が,これを否定させるのだ.

移民の歴史をみると,明治初期の海外「移民」のおおくは「奴隷貿易」だったという.
それで,中南米への「移住」も,さいしょはそれを疑われたから,うそつき政府はここでも「バラ色の開拓地」と平気でうそをついた.現地での辛苦は想像を絶したが,帰国もできない.それでも誰も,日本政府を相手に損害賠償請求をしないのは,できなかった,だけなのだろうか?
実態は,移民ではなく「棄民」だったのだろう.日本の近代政府には「棄民」のノウハウがある.

個人的に「奴隷」になったはなしは,高橋是清がその「自伝」に記録している.

少年是清が横浜から密航をくわだてたものの,出港から数日で発見されてしまい,その後の航海は船長預かりとなった.そして,アメリカに到着すると,船長が自分の所有物として是清を売却したので,彼は本物の「奴隷」になった.後の日銀総裁,大蔵大臣,内閣総理大臣の経歴である.

大陸中国の発展と不安定のコントラストの構造は,1億人の支配者層と3億人の平民層,のこり9億人の奴隷からなっていると,しりあいの中国人がはなしてくれた.
圧倒的多数の不安定な奴隷という存在は,古代中国からかわっていない.われわれの隣国は,じつは古代国家なのである.

さて,奴隷とはなにか?
辞書には,「人間としての権利・自由が認められず、道具同様に持主の私有物として労働に使役される人間。」とある.

数ではすくないとおもわれるが,「有能」な経営者がひきいる会社の従業員は,「『ちゃんとした』労働者」というあつかいを受けている.
「ちゃんとした」,とは,雇用主と対等だという意味で,雇用主と共に「付加価値」を一緒につくりだすパートナーであるという位置づけのことである.

「有能」な経営者は,これを無言でも実行する.
それが「信念」になっているからだ.
だから,「従業員は人財です」なんてことを軽々しくいわない.
こういう会社の従業員たちも心得ているから,だまって働いていることがおおい.

「無能」な経営者は,損益計算書しかみないが,だからといって損益計算書の見かたをしっているわけではないし,そもそも,損益計算書が「経営」にほとんど役に立たないこともしらない.
だから,費用でいちばん大きな数字になる「人件費」を削減すれば,利益が増えるとおもって疑わない.

損益計算書でもっとも重要なのは,「売上総利益:粗利」である.これが「付加価値」を示すからだ.自社で生み出す付加価値が大きければ,結果的に赤字になるはずがない.
だから,「有能」な経営者は,粗利をいかに増やすかに心血を注ぐのであって,従業員と一緒に取り組む努力をおしまない.

ところが,「無能」がまっさきに取り組む人件費の削減方法が難しい.
この国では,もはや「正社員」を解雇することはよほどでなければ不可能になった.
それで,目先はパートやアルバイトにむかうのだが,困ったことに,現場の労働力はとっくにこれらのひとに依存しているから,人数の削減は現場責任者がゆるさない.

それで,せめてもの抵抗として,残業代を払わない,という手をかんがえる.
「仕方ないだろう,そうでもしなきゃ利益がでない」と無能が自分に言いきかせていたら,今度は人手不足で採用ができなくなった.

この会社は「ブラックだ」,といって,解雇できない社員が自分の意志で退職すると,とても作業がまわらないから,自社の能力をしたまわる稼働でしか仕事をこなせない.
こうして,稼働と売上がさがっても,なおも人件費を削減したいとかんがえるのが「無能」である.

無能な政府が多数の無能経営者に媚びて,無能の悩みを解消しようとはかったのが「働きかた改革」法である.
子どもの「おこづかい帳」とおなじ単式簿記の世界にいる役人は,財務諸表の見かたもしらない.
それで,「無能」の経営者からレクチャーをうけて,わかったつもりなる.

始末が悪いのは,法学部出身の役人で,かれらは「法」と「現実」の順番が狂っている.
「法」を作文したら,それが「現実」になるとうたがわない.その結果が「福島」である.
「現実」が「法」のとおりにならないのは,「法」がおかしいのではなくて,「現実」がおかしいとかんがえる.これを「倒錯」と指摘する評論家がいない.

もちろん,これはおかしいのだと「有能」な経営者はしっている.
けれど,かかわる暇がないし,かかわるとかならず面倒なことに巻きこまれるから自社のことで精一杯にしておくのだ.

政治活動に心血を注いだ労働組合のイメージが払拭できない不幸が,一般人からもいまだにフィルターがかかってみられている.それで,「労働」の意味を啓蒙教育される機会もうしなったままになっている.
学校で教えろといっても,先生たちの例の組合が張り切るだろうから,まともな親なら拒否したくなる.
こうして,一般人は「労働」とはなにかもしらずに,自分の「労働力」を安売りするから,「無能」な経営者がはびこるようになっている.

「格差社会」をつくる強欲資本主義がいけない,と批判の声がおおきいが,そうではなくて,「付加価値」を生みだすことにこだわるのが「資本主義」だとしらない「無能」たちが,トンチンカンな努力をして「格差社会」をつくるのだ.
けれども,そんなことは承知の上で,「格差拡大」こそが「革命」のきっかけになると,確信的に企んでいるのではないか?ほんとうは「格差社会」をおしすすめるように仕向けている.

だから,このまま「努力」をすればするほど,この国は貧しくなって,結果的に「格差」もひろがる.格差社会は「いけない」といいながら,じつは望んでいる.
そういう意味で,上野千鶴子がいう「みんなで貧乏になりましょう」が実現できるというものだ.
ただし,彼女は自分が貧乏になることを決して望んでいないし,貧乏になるともおもっていないだろう.平等を「強制」する政府の顧問にでもなれば,ゆたかな生活が確保できるというものだ.

こういう「無能」は,犯罪的だというひとがすくない.
しかしてレーニンのことばをおもいだす.
「役に立つ白痴」.
東京大学の権威と名誉にかかわることではないのか?
こんな人物がなぜに「元東京大学教授」にして今「東京大学名誉教授」でいられるのか?不可解なことである.

「観光立国」の難易度

「科学技術立国」という「国是」が,いつのまにか忘れられて,かんたんそうな「観光立国」にシフトしてしまった感がある.
もちろん,その前提にあった「貿易立国」という「国是」がゆらいで,フラフラになってしまった.

8月16日発表,財務省月次貿易統計の7月速報は,2312億円の赤字であった.
前にも書いたが,「貿易黒字」ばかりが増えて増えて,その最大の相手国(こちらはまっ赤な赤字)の米国からどうしてくれると文句をいわれた時代がなつかしい.

その文句をいわれる側が,いまは中国になっている.
アメリカさんの怒りがおさまらないから,北京政権内でさては「政変か?」と噂されるほどの苦境であるという.
わが国のいまの「苦境」とは質がちがう.あと何十年かしたら,中国も「苦境の質」をかえるのだろう.

「貿易立国」の成功は,外国から仕入れた材料を,国内で加工した製品として外国に売って儲ける,というパターンだったが,この成功の理由を唯一「働き者の日本人」としたところにおおきな間違いがあったということも前に書いた
冷戦構造と朝鮮戦争,それに安い石油だと指摘した.

「冷戦構造」とは,ソ連衛星国と中共が,自陣営に「壁」をつくって,西側との「鎖国」をしていた,というものだ.これら,「遅れた地域」のひとたちが,いっせいに安い賃金ではたらく集団として登場したのが「冷戦終結」の世界経済的意義である.
それで,「世界の工場」が日本から中国へ移転して,いまにいたる.

社会主義思想を支える思想である「進歩主義」では,今日よりも明日がぜったいに発展する.
だから,青島幸男の「明日があるさ」は,みごとな社会主義思想「賛歌」である.
こうして彼らは,資本主義社会から社会主義社会へ,そしてついには理想郷とした共産主義社会へ歴史は発展するのが「科学」だと信じた.

その「進歩主義」を,日本の最大与党である自民党も「党是」としている.確認方法は簡単で,自民党のHPをみればよい.
ついでにいえば,東京オリンピックの開催でノスタルジーにひたるひとたちは,大阪万博までもういちど,といっている.大阪万博のテーマは「進歩と調和」だったから,日本型社会主義の祭典だった.これがガラパゴス化のはじまりだとおもう.

進歩主義者は直線的な発想しかしないから,「退化」をみとめない.
しかし,残念ながら,退化することはしょっちゅうある.
とくに人間の能力がそれで,手仕事のある技術が途絶えると,ほとんど復活は不可能になる.

むかしの学校教育が優れていたのではなくて,生徒が我慢強かったのではないかとおもうことがある.
いま,書店で生徒向け「参考書」を手に取ると,各教科ともたいへんわかりやすい解説の「進化」だと感心する.
自分の時代にこんなのがあったら,さぞや?ともおもうが,まぁそんなことはなく遊んでいたろう.

なぜなら,遊びのデジタル化の「進化」は参考書の「進化」より想像を絶するものだから,強い誘惑にはかなわないだろうと認めるしかない.
しかし,ゲーム機に夢中の子どもをみれば,人生の半ばをこえれば誰でもが,「あぁ,時間がもったいない」とおもうものだ.
「勉強しなさい」という命令よりも,誘惑に打ち勝つ「興味」の提供こそが,もっとも重要なのだとおもう.

中学の理科では,「化学」の基礎を習うことになっている.
頭がやわらかくて,記憶力がちゃんとしている子ども時代に,暗記させる,というのはあんがい理にかなっているから,「詰め込み」だといって一方的に非難することがただしいとはかぎらない.

150年より前の武士の子なら「論語の暗誦」はあたりまえ,四書五経ぜんぶを暗誦してもおもてだって褒められなかったろう.逆に,武士以外の子が暗誦したら,そんな閑があったら働けといわれたはずだ.「門前の小僧習わぬ経を読む」は,発達中の脳のすごさをおしえてくれる.

いまでも,アラブならコーランの暗誦,イスラエルならトゥーラーの暗誦は小学生でふつうにやっている.ユダヤ系ドイツ人の思想家,ハンナ・アレントはゲーテの「フアウスト」を暗誦していた.どれも数百ページのボリュームである.

意味はあとからわかるようになる,というのもこれら「暗誦文化」の共通点だ.
ならば,原子周期表の暗記は,現代人の教養の基礎として必須ではないかとおもうがいいすぎか?

そうはいっても,教科書の説明には具体例がなさすぎる.
物質のなりたちを「科学する」のが,「化学」であるから,その法則を学ぶのは当然としても,面白みがないのである.まるで,子どもが嫌になるように仕向けている.
教科書を執筆する学者のレベルが低いのか?それとも「検定制度」のせいなのか?ページ数の制限は,ほんとうは検定官のためにあるのではないか?

本としてぶ厚いけれど,これでもかとやさしく解説があるのはアメリカの教科書だ.
人間のからだも「物質」からできているし,生存のためには食べなければならない.その,「食品」も「物質」だから,おのずと「消化」とは「化学反応」のことになる.
こうしたことを丁寧に書いている.

よく噛んで飲み込めば,あとはかってに胃と腸が消化する,というだけの知識では自分で「健康」を維持できないだろう.あまたある健康食品が,ほんとうに「自分のためになる」のかを判断するにも,「化学」の知識は必要である.
「賢い市民を育てる」のは,健全な民主主義に必須の要素で,「鈍な市民を育てる」のは,腐った民主主義ではなく,全体主義がやることだ.
それにしても,日本の義務教育にも高等教育にも,将来「親」になって子どもを育てる生活がくる,という前提が欠如している.

「野菜は健康に良い」というのは何故か?それは本当か?
ならば「添加物」はどうか?乳児にハチミツを与えてはいけない理由はなにか?
高額な食品容器と100均の食品容器のなにがちがくて値段がちがうのか?
「PETボトル」の「ペット」とはなにか?

さらに,われわれは福島原発の後始末に千年単位以上のつき合いをしなければならない運命になったから,放射能や放射線量についての知識はぜったいに外せないはずだが,これをちゃんと教えていると寡聞にして聞かない.
広島・長崎にまで議論がふくらむから,教えない,ときめたのか?ということも聞かない.

どれもが毎日の生活にかかわる「日常」づかいのものである.
食品もふくめて高度な加工品にとりかこまれているのに,化学がわかないからあっさり売手のいうとおりになる.
義務教育のなかでは,これらに注意ができるようになって,学問のおもしろさがわかることが重要ではないか?
それから,高校レベルの化学になれば,生徒にもわかりやすいだろう.

そういう生活レベルの「化学」をきっかけにした「科学」が知識としてまんべんなくあることを前提にしてはじめて,「観光立国」をかんがえることができる.
「観光」は,「歓楽」だけで成り立つのではない.
一次産業の「食」,二次産業の「文明の利器」,そして「IT」や「金融決済」などをトータルで駆使してはじめて「観光立国」ができるから,じつは「科学技術立国」よりも難易度がたかいのだ.

文明社会に生きるには,あんがいそれなりの負担を強いられるものだ.