「米・ロ同盟」時代の到来

大晦日である。

「盆も正月も帰ってくるな」、という前代未聞の年が暮れる。
1980年(昭和55年)の松村和子のデビュー曲にして大ヒット曲、『帰ってこいよ』が、40年のときを経て完全に、「過去」となった。

くわえて、国民を「総乞食」化させる、「ふるさと納税」が、こんどは地元を疲弊させるから、何が何だかわからなくなった。
ほんらいあるべき「善政競争」ではなくて、たんなる「返礼品競争」にさせている。

何が起きてもおかしくないのは、ルソーがいう「アトム化」が、とうとうわが国でも起きたからである。
これは、わが国も「欧米になった」うえでの、究極の「左傾化=共産化」だ。

血でつながる親子すら、「個体」として分断することに成功した。

欧米ではないのに欧米になったのは、舶来品に憧れるのとはちがう。
むしろ、明治人が参加した『パリ万博』における、出品の精巧さに、欧米人が日本に憧れた。その証拠、明治の「超絶技巧」は、京都の『清水三年坂美術館』などで楽しめる。

つまり、わが国が「欧米化」ではなく、「欧米になった」のは、わが国「本来」を完全に失ったという意味なので、これはいま欧米で起きている社会矛盾の露呈より、ずっとずっと深刻なのである。

あろうことか、こんな「社会的破壊」を強力にかつ一心不乱に推進しているのが、日本政府(都道府県の地方政府を含む)でありマスコミ(=プロパガンダ機関)だから、その正体がとうとうむき出しになった。

暴力的な政府の権力をいかに押さえつけるか?

これが、欧米における近代への「道程」として必須のテーマであった。
それを、彼らは自ら「自由・民主主義」として政府から勝ち取ったものを、ファッションのごとく真似たわが国の、メッキどころか総体がドロリと溶けだしたのだ。

こうして、わが国における「コロナの政治利用」とは、政府の政府たる暴力装置としての蓋を開けることになった。
新年も、引き続き、国民をいじめまくる日本政府が、いっそう牙をむきだして国民を傷つけることだろう。

そのために、コロナ禍を収束させることはしないし、はじめからその気もない。
これは犬を棒やムチで叩いて征圧するのと、おなじ手法なのである。
われわれは、徳川政権よりも理不尽な政府のもとに生きている。

個人レベルでの大変革があるならば、国家レベルでも起きる。

かつての宿敵が、同盟を結ぶ。
こんなことはあり得るのか?
もちろん、おおいに「あり得る」のは、なにも大昔の歴史をたどらなくとも、日米同盟がその証左である。

米ソ冷戦が「冷戦」だったのは、アメリカ軍とソ連軍の直接対決が「なかった」からである。
いま、歴史は巡って、アメリカ合衆国とロシアが、同盟を結ぶ機が熟してきている。

それは、「対中包囲網」が理由である。

世界はとっくに認識を変化させて、国家の支配組織と国民を区別するようになった。
民主主義が機能しないで、国民を支配したら、その責任は国民ではなく支配者たちになる、という理屈である。

「国民=国家」の崩壊がはじまったのだ。
政府は政府のために存在し、国民のために存在してはいない。
だから、「国民≠国家」これは、上述の通りである。

アメリカ大統領選挙は、すでに、共和党か民主党かの闘いを通り越して、「自由の闘い」になっている。
つまり、「国民=国家」を維持するか放棄するかの闘いになっている。
トランプ氏が維持、バイデン氏が放棄の側にある。

ぜんぜん報道されないけど、わが国で、トランプ支持を訴えるデモ行進が行われて(東京・大阪・名古屋)いるのは、国民国家を維持することの「価値」が、政府によって壊される不安からなのだ。
それが、ホワイトハウスへの「請願運動」にもなっている。

そんなわけで、今年のアメリカ大統領選挙は、今後の歴史にかならず出てくる事態に発展しているから、われわれは、歴史の証人としてこれを見ているのである。
人生でめったにない、大転換のプロセスを毎日みている。

ただし、残念ながら、わが国報道機関が報じないばかりか、日本政府も無視を決め込んで、国会も無反応になっている。
これも、ひとつの「歴史」になっているのだ。

いまさらに、マキャベリを出すこともないけれど、欧米人の頭の中にあるかんがえ方だから、まんざらムダではない。
ここに、非常時と平時のちがいが書かれている。
「非常時に、平時のルールは通用せず、むしろ、平時のルールに拘泥したら、それは敗北につながる」と。

かんたんにいえば、無人島に漂流して、無謀なやつに水や食料を奪われたのを、奪い返さずに裁判で訴えてやる、と叫んでも、餓死してしまったらおしまい、ということだ。

つまり、人類世界は、あたらしい「サバイバル時代」に突入したのである。

「合従連衡」が活発化して、それが、世界秩序の「地殻変動」をもたらすのである。

「自由・民主主義」の「国民=国家」か、それとも、「全体主義」の「国民≠国家」かのせめぎ合いと、それぞれからの「封じ込め」が、変動のエネルギーなのである。

「石鹸」のはなし

年齢を重ねてきたら、だんだん自分が「敏感肌」なのだと気がついた。
今日は晦日、1年の汚れを石鹸で落とすにはちょうどいい。
それに、初風呂の石鹸を求めて準備するのも楽しい。

わたしのばあいは、特に「荒れる」というまでではないけれど、肌がヒリヒリしたり、痒くなるのだ。
それで、ためしに石鹸を変えてみたら、すぐさま効果があって、ヒリヒリも痒くなることもなくなった。

男性だと、洗顔といっても重要なのはひげ剃りだ。
わたしのひげは柔らかくて巻いているので、電気かみそりだと剃り残しができる。それだから、もっぱら「ウエット・シェービング派」なのである。
すると、シェービング・クリームをどうするのか?という問題になる。

夏ならば、スプレー式のものでいいけど、冬になると引っかかる。
それで、ひげブラシを湯につけて一度顔を濡らして蒸らす。
ここで、石鹸の出番なのである。

ひげ剃り用の粉石鹸は、プロ用のものを購入したら、もしかしたら一生分あるかもしれない。近所の床屋さんに頼んで、粉石鹸を振りかける入れ物を注文した。ピン・キリだけど、べつに業務用の素っ気ないものでいい。
600円だった。もちろん、これはこれで悪くない。

しかしながら、あんがいと朝のひげ剃りタイムは、それなりの儀式的要素もあって、ただ剃れればいいという合理性だけではつまらない。

そんなわけで、いろんな石鹸に浮気をして楽しみにするのである。
気になるのは、固形石鹸にひげブラシを直接あてて擦って泡立てるやり方だ。
『ローマの休日』で、グレゴリー・ペックがやっていた。
彼の石鹸の泡立ちが、ものすごくよいのが気になるのだ。

どうしたらあんなに泡立つのか?
ふつうのお風呂用石鹸に見えるけど、どこのメーカーの製品なのか?
もちろん、あの泡は「演出」で、シュービング・クリームを追加で振りかけたのかもしれないけど、確信がない。

理容製品の問屋に行って、シェービング用の固形石鹸のことを訊ねたら、「絹の石鹸」を紹介された。
さっそく購入してつかったら、どういうわけか顔に付けただけでヒリヒリするのである。

いまでは、めったに行かなくなった有名デパートの男性専門館で、ステンレスのカップに入った、フランス製のシェービング用固形石鹸を見つけた。
こちらも、無香料の天然素材が売り物ということだった。
さすがに、ヒリヒリはしないけど、脂肪の匂いがする石鹸であるから、なんだかちょっとだけ石鹸香がするプロ用の粉石鹸に分があるように思えた。

あるとき、ロンドンの理容店のはなしを聴いた。
世界最古という店がある。
なるほど、紳士の国だから、きっとシェービング石鹸があるにちがいない。
でも、ロンドンに赴く用事がないので、ネットで検索した。

すると、「DR Harris」でヒットした。

あらためてみたら、なんだかお値段が一ケタ違うような気がする。
わたしが購入したのは、ずいぶん前である。
それでもそのときも、ポチるのにかなり迷ったお値段だった。
しかしながら、お気に入りの逸品なのである。

念のために添えれば、ひげ剃りだけに使うので「えらく長持ち」することは確かである。

女王陛下の在位記念にご夫妻のために調合されたという「香り」は、なんとも優雅なものだけど、その強度が「お香」のようにほのかなので、いやみがない。
もちろん、ヒリヒリなんてしない。

ロンドンに行く用事はないけれど、なんかのおりにロンドンに行くことになったら、是非とも専門店に寄ってみたいものである。

顔から身体に移動すれば、ボディーソープをどうするか?ということになる。
暑い夏は、ひんやりするタイプのボディーソープを使うけど、晩秋にもなれば、それでは寒い。

そこで、登場するのが、やっぱり固形石鹸なのだ。
典型的なお風呂の石鹸が、いちばん好きなのだが、ここでも浮気心がでてきて、いろいろと試している。
さっぱり感だと、柿渋石鹸がお気に入りである。

加齢臭が気になるおじさんとしては、自分ではわからないから効果のほどは自覚できない。
それで、パッケージの柿の絵に、売手の思惑通り釣られるのである。
いわゆるお風呂の石鹸とはちがう、ややつっぱる感じに好感している。

世界最大の塩鉱山があるポーランドは、石鹸の名産地でもある。
国営だった石鹸会社(Biały Jeleń:ビヤウェイェレン:「白鹿」の意で絵が目印)は、いまも健在で国内では1番の有名メーカーでもある。

日本でいうコンビニに匹敵する、ドラッグストアでの定番でもあるのでわざわざお土産にするひとはいないかもしれないけれど、ワルシャワに40年以上在住する方からのお薦めとして、30個持ち帰ってきた。

現地では、1個100円程度だけれど、その品質はたいへんよく、やはり敏感肌の家内のお気に入りである。
まもなく在庫が切れてしまいそうなのに、日本では残念ながら入手困難である。
なくなる前に、代用品を探すことになった。

それで、いまは「アレッポ石鹸」に落ち着いている。
シュメール文明から続く人類最古の伝統製法の石鹸で、基剤はオリーブオイルだけ、出荷までの熟成期間(乾燥させて水分を抜く)は1年以上だ。
これは、頭も洗える固形石鹸なのだ。

アレッポはたまたまシリア領で、経済制裁の対象地にあたるから、製造工場が国境をこえて、いまは概ねトルコでつくられている。
そのトルコは、1人あたりGDPでわが国の上に位置する「先進国」である。

アラビア語の大きな刻印には、「サボン アレボ」とある。
これで、「シャボン」の語源がアラビア語の「サボン」だとわかる。
シュメールでは、なんといっていたのか?

アレッポから数千年ほど後の、ようやく9世紀になってから製造がはじまった、「マルセイユ石鹸(サボン ド マルセイユ)」は、その後、ルイ14世太陽王御用達でも有名になった。
こちらも、オリーブオイルが基剤だけど、きれいな緑色は熟成させていないものだとわかる。

でもサンダルウッド(白檀)の香りがする石鹸は、枕元に置くと寝付きがよくなるというし、王侯貴族はベッドの下に削って撒いて、その香りで防虫剤にもしたという意外な用法がある。

意外すぎて勇気がないのは、歯磨き。
石鹸を歯ブラシにつけるという発想はなかったけど、専用の歯磨き剤がない時代にはやっていたらしい。
ゆすぎが大変そうだけど、食品でもあるオリーブオイルが基剤だから毒ではない。
でもやっぱり、これは試すのを遠慮したい

そんなわけで、カンナで削って使い分けをさせる入浴施設や宿があっていいともおもう年末なのである。

「政商」が政府と一緒に没落する

いまどきに、「政商」といってもピンと来ないなら、自分を疑った方がいい。
わが国最大の「政商」とは、あいかわらず「三菱」がつくグループである。
ただし、「三菱鉛筆」は、素性が別であるので念のため。

グループ中核企業といえば、なんといっても、「重工」だろう。
軍需をまかなう、巨大企業にちがいない。
それがかつて、爆破事件にもなって、丸の内を騒然とさせた理由でもある。
明治の政商・岩崎弥太郎の直系といってもいい。

その三菱重工が、いま倒産の危機に瀕しているのは、初の国産ジェット旅客機の開発に失敗したからであるといわれだした。
この会社の、「主力製品」には、どんなものがあるかといえば、原子力発電所、宇宙ステーション、艦艇、そして、航空機などがある。

つまるところ、政府との関係なくして受注がないものが多いのだ。

横浜にある、ぜんぜん未来感がない「みなとみらい21地区」は、かつての『横浜ドッグ:三菱重工横浜造船所』であった。
わたしが通った小学校は、映画『天国と地獄』の、三船敏郎扮する社長宅にあたる場所(CGとはちがう処理をした)にあって、教室の窓の景色は、横浜駅から造船所、マリンタワーまで見渡せた。

4年生のとき、授業中にクラスメイトが突然奇声を上げたひと言は、「ビルが動いてる!」で、すぐさま、まるで映画『二十四の瞳』における分教場での光景のようになった。
先生をはじめとして、全員が窓に殺到して、「ビルが動いているさま」に嬌声を上げながら見入ったのだ。

これは、当時世界最大といわれていた巨大客船『クイーンエリザベスⅡ世号』初来日における、横浜港入港のさまだとあとからわかった。
いまもある横浜駅のデパート・ビル群より大きなビルが、背後でゆっくり動いていたのは、いまだに忘れられない。

子ども時分には大桟橋には何度もいったことがあって、小学校2年の遠足でも行った。
このときは、『キャンベラ号』が繋留されていて、デッキにいる乗船客にみんなで「ハロー」といったら、おおくのひとが手を振ってくれた。

しかし、『クイーンエリザベスⅡ世号』のでかさは格別で、たった一隻で大桟橋を占拠していた。
片側に二隻や三隻があるのが、ふつうなのを知っていたからである。

それでも、造船所に入ったことはなかった。
横浜駅から桜木町駅の国鉄電車からしか様子がうかがえない、なにかしらの秘密基地のようでもあった。
それでも、巨大な鉄のかたまりに溶接の火花を見ることができた。

移転が完了したのは昭和58年だったけど、ずっと前に機能は停止していた。
大きな船はこれから長崎造船所で作られると聞いて、がっかりしたことを覚えている。

そんなわけで、造船所に勤めるお父さんがいる同級生もいた。

だから、港の機能を一部失って、「みなとみらい」ができてきたときに、過去の栄光をかたる「博物館」に、街そのものがなったのだとおもったのである。

ポーランド自由化の発祥地、グダンスク(当時は「グダニスク」)の造船所は、不思議と海から離れた場所にあって、『自由労組・連帯』の大きな記念館が博物館として建っていた。

世界の労働組合が「連帯」した証拠のプレート群に、わが国の労働組合が寄贈したプレートもあった。
ただそこに、なんの説明もなく日本語だけで書いてあったのが、妙に白々しい感じがしたのとなんだか似ている。

その三菱重工は、2017年にみなとみらい地区にある自社ビルを土地も含めて売却しているし、その前の2015年には、大型客船の引き渡しが遅延して特別損失を計上した。

ジェット旅客機だけでなく、なんだかおかしいのである。

そして、2017年には、ポーランドに次世代原子炉を輸出することになって、2033年に稼働を見込んでいるという。
これには、東芝や日立なども加わるのだが、「東芝?」というアラートが鳴る。

東芝が事実上解体されたのは、原子力事業の大コケが原因だったから、嫌な予感がするのである。
それに、火力発電所の件もある。これは、三菱重工と日立が泥仕合となった南アフリカでの事業損失をめぐる訴訟をいう。

つまり、社としてみれば敵同士が、ポーランドの件では手を結ぶ構図になっている。
こんなことができるのは、誰かが強力な「介入」をしているからである。
その誰か?とは、わが国では「経産省」しかない。

さらに、「水素」事業で「環境」に取り組むというニュースが昨日の28日にあった。
またまた、「脱炭素」だ。

どうしてこんなことに資本を投じるのか?
「あの役所」の介入しかかんがえられない。

すなわち、三菱重工という企業は、自己決定権を失っている。
だからもはや、民間企業ではない。
ではなにか?
民間を偽装した、国営企業になったのである。

軒先貸して母屋をとられた。

「没落」という運命がまっている。

郡是を是として近江絹糸を見る

2020年も押し迫ってきた。
ことしは、日米で「フェイクニュース」が爆裂した「歴史的」な年だった。
アメリカは大統領選挙。
わが国は、コロナ禍のニュースである。

島国の特性で、事実上の「鎖国」を決めたわが国に、外国人観光客が入国することはなくなった。
業務であっても、2週間も隔離されるから、めったに来ない。

それなのに、WHOのいう通りにして、患者数と感染者数を「わざと混同」させ、あたかも「パンデミック」だといいふらすことを、誰も阻止しない破壊工作が行われている。

コロナ禍を世界で一番克服している台湾が、WHO未加盟なのが「うらやましい」ことになっている。
そのWHOの最大資金提供者が、ビル・ゲイツ財団だから、どこが「国連専門機関」なものか。

そんなわけで、あんがい重要なニュースが隠れてしまったのも、今年の特徴なのだ。
マスコミの機能不全が原因だから、隠れたのではなくて、隠された、という方がしっくりくる。

かつてわが国経済を支えた一大産業の「繊維業」で、5月に老舗が事実上「廃業」したのは、「他山の石」としての価値があるから今さらだけど書いておく。

「郡是」とは、インナー製品などの「グンゼ」のことである。
明治29年(1896年)に京都府何鹿(いかるが)郡で創業した。社名の由来は、国是あっての郡是である。

一方、「近江絹糸」とは、「オーミケンシ」のことで、こちらは大正6年(1917年)に滋賀県彦根市で創業した。
両社は、どちらも「絹紡糸」からはじまっている。

その「オーミケンシ」が、5月13日に、繊維事業から撤退して、従業員全員に退職勧奨をした。
一方の「グンゼ」は、しっかり利益を創出している優良企業なのである。
いわば、同業なのに「天と地のちがい」はどこからやってきたのか?が、本稿のテーマである。

結論からいえば、経営者の経営力のちがいである。
では、経営者の経営力とはなにか?

あたりまえのことから紐解かないといけないのは、いまの世間から「あたりまえ」が消えてしまったからである。
それが、病気の判定の混乱にもみられると、冒頭のように、今年はさんざん書いてきた。

症状があるひとが、医療機関にいって医師の見立てから、「風邪ですね」と診断されて初めて「患者」となる。その病気が、感染症なら、そこで初めて「感染者」にもなる。

潜伏期間は、発症から逆算するけど、症状がなければ本人だって周囲だってわからないのだ。
だから、宿には利用者に宿帳記載の義務があって、もしもの感染経路を追えるようにしている。宿泊業の営業許可が地元保健所管轄の理由だ。

これが、今年、「壊れた」のだ。

経営者の経営力とは、経営者の役割をしらないと議論できない。
経営者は、企業組織の維持発展のために、経営資源の配分をする役割をするひとを指す。

経営資源とは、「ヒト・モノ・カネ・情報・時間」を指すけれど、最も重要な資源は、頭脳と感情がある生きものであり、限られた人生の時間をつかう「ヒト」になる。
だから、ヒトの扱い方を、ちゃんとできることが経営者にとって最大の「資質」となるのである。

これが、「できない」なら、経営者になってはいけない。
なれば、会社も従業員も傷むことになる。
資質がないのに、経営学やMBAという「知識」だけでなってしまうことを「よし」としたら、資本主義が傷ついた。

ヒトの扱い方が「壊れる」と、どうなるのか?
あたりまえに、取り返しがつかないことになる。
この「あたりまえ」の喪失が、経営者におきると、たちまち職場の人間関係が壊れて、不信感が蔓延する。

そうやって、とうとう「労働争議」になるのである。

たとえば、宿泊業でも、かつて激しい争議があったのは、ときの経営者たちに経営力がなくて、ヒトをモノ以下の資源と同様に扱ったことが、そのほとんどの原因なのである。

これは、「働き方」の問題ではなく、「働かせ方」の問題だ。
人間という動物は、所属する集団・組織のなかにあって、自分の価値をみいだされたとき、圧倒的な満足感をえるから、さらに張り切るものだ。
逆に、自分の価値が認められないと感じたとき、耐えられない不満となる。

こうなると、既存秩序の「破壊」が、当人には正義となる。
それが、「個人」から「集団」ともなれば、大規模な争議になること「必定」なのである。

経営者の背後には、多数の株主がいる。
だから、個々の従業員は、個のままでは相手にされないことがある。
それで、労働組合が社会の認知ばかりか、「必要」をえたのである。
すると、じつは労働組合とは、個々のひとたちの幸福を追求する役割が本分だとわかる。

すなわち、労働組合という組織のためにするというなら、それは本末転倒なのだ。
もし、本末転倒の集団と化して、経営力がない経営者と対峙したら、それはかならず泥沼化するのは、どちらにも「本分」がないからである。

労働組合の理想的指導者(労働組合の経営者)に、企業経営者と同等かそれ以上の自己抑制を資質とするのはこのためだ。
あんまりいわれることがないけど、労働組合という組織も、「経営陣」で決まるのだ。

とはいえ、経営者の経営力がない企業に勤めることは、株主をも幸せにしない。
つまるところ、短期的売買で利益確保を常識とする株主(というより「投資家」)たちの、企業を育てるという「あたりまえ」の欠如が、資本主義を弱めているのである。

自分が好きと思う経営者がつくる「社風」の企業の株主になりたい。
これを実現するには、株式の短期売買の規制が必要なのだ。

さてこの両社、どちらも従業員を大切にする創業の精神があったものが、いまも続く企業と、従業員との人間関係を失った企業との「明暗」として、ひとつの逸話をつくったことが、オーミケンシ最後の価値となったのである。

今日は御用納めのひとも多かろう。
今年1年、お疲れさまでした。

現実の「ディープ・ステート」

アメリカが「官僚国家」になっていた。

これが、「ディープ・ステート(闇の政府)」の正体である。
かねてから、ディープ・ステートの存在は、「陰謀論」として一蹴されてきたから、これを口にする者は、「変人」どころか「妄想家」として相手にされなかった。

ところが、アメリカ大統領選挙における組織だった選挙不正の実態が明らかになるにつれ、現実の「ディープ・ステート」が姿をあらわしたのである。
それは、連邦政府役人と州政府どころか郡までもが、これに服していることが判明してきた。

そして、とうとうアメリカ政府の公式見解になった『不正選挙レポート(ナヴァロ報告書)』を提出した、ピーター・ナヴァロ国家通商会議議長が、「ディープ・ステートを見た」とつぶやいたのだ。
それは、官僚組織の「SES」を指す。

まさに、裏の全国官僚行政組織だった。

これは、元をたどれば、カーター政権による高級官僚の採用と長期雇用制度を目的として創設された、「シニア・エグゼクティブ・サービス」(1979年)である。
ある意味、当時、経済が絶好調だったわが国の官僚制度を真似たのだ。

カーター氏がこの重大な勘違いをしたのは、アメリカ商務省が「日本株式会社」といいだしたのが1972年、あの『ジャパン・アズ・ナンバーワン』(1979年)によるところ大なのではないか?

ちなみに、C.ジョンソンの有名な『通産省と日本の奇跡』は1982年の出版であるから、勘違いを確信にしたかもしれない。
この本のネタ本とまでいわれたのが、NHKのプロパガンダ・ドラマにもなった、『官僚たちの夏』(城山三郎、1980年)がある。

  

アメリカの官僚は、「政治任用」を旨とするので、政権交代すると数千人のひとたちが、政府から民間へ、民間から政府へと入れ替わることでしられている。
これは、伝統的な、「ジャクソン・ルール:猟官制(スポイルズ・システム)」の運用なのである。

第7代ジャクソン大統領がはじめた制度で、彼の信念である、「役人は誰にでもできる」が貫かれている。
すなわち、行政府の役人とは、議会の決定に従って業務を行うのを旨とするので、それ自体に優秀さを必要としない、というかんがえかたなのだ。

しかしながら、政府役人の質が低くて、行政ザービスの履行が議会の決定通りにできない、という問題が顕在化した。
そこで、カーター氏は、優秀な学生をインターンとして経験させ、もって、各省への就職と業務に興味を持たせるようにしたのだった。
もちろん、低給でしられる給与を、このひとたちには高給(年収20万ドル以上)とした。

こうしてSESは、ワシントンの「官僚機構を管理する」上位組織となった。
対象となる約8200人の高級官僚を、入れ替えがない「定職」として、政府の幹部としたのである。

どのくらい「高級」かといえば、軍の将官クラス(いわゆる「局長級」)に匹敵して、さらにアメリカでは珍しく身分保障されるため解雇されない。
よって、卒業生のほぼ全員が民間に流れていた、有名大学の人材をあつめることに成功した。

これに目をつけたのが、オバマ氏で、彼は自身の8年の任期中に、彼に近しい人材をSESとして採用・任用し、もはやその数は7000人以上ともいわれている。
つまり、この集団が、「ディープ・ステート」だったのである。

そして、政府内部で、トランプ政権になってもさまざまな政策遂行の妨害工作をしていたことが明らかになってきた。
すると、トランプ氏が、あまたの「長官・次官級」をあからさまに解雇してきた意味も理解できるというものだ。

この最たるものが、今回の「総選挙」における選挙不正だった。

すると、真似っこされたわが国はどうなのか?

わが国官僚の「優秀性」は、世界に冠たるものだと自慢している場合ではない。
むしろ、その「危険性」に、国民は気づくべきなのだ。

ディープ・ステートが問題なのは、これらのひとたちが、憲法を守らないからである。
そればかりか、ある特定の利益集団の目的と、自己の利益を合致させるのである。

だから、「闇の政府」なのだ。
これは、民主主義国家としてはあり得ない、国民への裏切りである。

わが国の闇は、明治憲法になかった「枢密院」からはじまる。
同じく憲法に一字の記述もない、「元老」が、内閣と同格以上に位置するのを、誰も不思議といわない不思議。
ここに、明治維新の、ふつうではない「闇」がある。

それが、武士政権の延長としての明治政府なのである。
武士政権の本質は、将軍主導ではなくて、まさに老中や家老以下による「ディープ・ステート」たる武士集団が牛耳ることだ。
これは、解雇されずに禄を食む「SES」と本質的におなじだし、子孫にまで継承される強固なシステムだ。

すると、カーター氏とオバマ氏が真似た日本の官僚制とは、明治以降近代のものではなく、江戸幕府と各藩の官僚制の方だと理解すれば、辻褄が合うのである。

なんだ、いまの官僚とはちがうのか?とはならない。
わが国の官僚政治体制は、もはや確固たる支配体制になっていて、内閣の上位に位置する。

そして、そこには、唯一のメリットだった、「武士道」の微塵もない。
官僚たる武士は、最終責任を「切腹」と「お家断絶」で果たしたのだ。
いまの官僚には、責任という概念すらない。
あろうことか、企業内官僚もこの真似をして恥じるところがなくなった。

官民ともに、かつてない、最低の体制になり果てたのである。

「ペンス・カード」の切れ味

オプションをいくつ持っているのか?
トランプ政権の用意周到は、プランAからFまでの6つを公表あるいは、ほのめかしている。
このほかに、バイデン氏次男のスキャンダル処理は別のオプションである。

プランAは、司法裁判をつうじた路線。
プランBは、12月23日から1月6日までのペンス上院議長による拒否権発動。
プランCは、上記Bのサブで、1月6日での否認と下院投票。
プランDは、2018年大統領令の発動。
プランEは、反乱法333条の発動。
プランFは、上記D、Eと結合させた限定的戒厳令の発動。

すべて、トランプ氏が再選を果たすためのオプションである。
ただし、プランBは23日をスルーした模様だが1月6日まで有効という法解釈がある。
日付に到達していない、プランC以外は、どれも並行しての実施可能性を持っている。

本稿タイトルの「ペンス・カード」とは、ひとまずプランBとCをさす。

11月3日の大統領選挙投票は、いわゆる「一般投票」と呼ばれていて、じつはこれは、合衆国憲法に記載がない。
12月8日までに、選挙人を決めるための、「予備選挙」なのである。

記載があるのは、各州の上・下両院議会が認めて選挙人を決めることだけなのだ。よって、12月14日に選挙人たちが投票するのも憲法が定めた手順「ではない」。
かつて、広大な国土の通信網がなかったときからの伝統なだけだ。
ところが、通信が発達したので一般投票の結果を、各州政府=知事が認定して選挙人を選定することがさいきんの習慣になっていた。

議会でなく政府が認定することを、「憲法違反」と指摘しているのがプランAにおける法廷闘争である。
そして、このことに関連して、選挙人投票の受領をするのが、12月23日(憲法では12月の第四水曜日(正しくは四回目の水曜日)と定められている)である。

受領するのは、連邦上院議長である、副大統領職がこれにあたる。
そこで、激戦州で行われた選挙不正を根拠にこの受領を拒否し、選挙人を差し戻して、あらたに各州議会に強制的に決めさせることを、プランBとしている。

激戦6州における州議会は、すべからく共和党が過半数を占めているので、トランプ氏への選挙人が決まれば、この時点で選挙人票は逆転し、過半数の270票をトランプ氏が確保することが決定する。
ただし、プランBは、極左過激派による暴動が全国展開されると予想されるし、州政府(知事)が逆提訴することもかんがえられる。

なので、プランCは、プランBが滑ってしまったときの予備オプションではあるが「本命」とみられている。
憲法に記載がある、1月6日に選挙人投票の開票と承認にあたって、異議申立をするプランである。
これは、連邦議会上・下両院議員の全員が一堂に会する合同議会の場でおこなわれる。

ここでも、副大統領が務める上院議長が「合同議長」なのである。
開票と承認は、50州のアルファベット順におこなわれるから、全世界注目の州はまず「アリゾナ州」だ。
異議申立は、下院議員と上院議員の最低一名ずつのセットが必要で、あらかじめ署名した文書を議長に提出しないといけない。

これを、「チャレンジの発議」という。

チャレンジ発議が成立すると、議員たちは自分の議場に戻って、上・下両院それぞれが別個に議決をする。
制限時間は、チャレンジごとに2時間である。
6州全部だと、最長12時間を要する。

しかしながら、下院は民主党、上院は共和党が過半数なので、両院で一致せず「決まらない」ことが決まっている。
そこで、合同議会の議長である、副大統領がどのように裁決するのかが注目されるのだ。

これも、「ペンス・カード」である。

チャレンジされた6州の票を、「無効」とすれば、候補者のどちらも過半数の270票に到達しない。
この場合、合衆国憲法は、連邦下院で大統領を、上院で副大統領を選出するための投票をおこなうと定めている。

ただし、このときの下院においては、50州の州ごとに1票とされているから、州における下院議員の多数による。
すると、共和党が36州で多数なので、トランプ氏が再選されることになる。

逆に、上院で裏切り者がでると危ない。
もしや、副大統領にカマラ・ハリス氏がなることも可能性としてあるのだ。
そんなわけで、プランCは、確実さにおいて不安がある。

トランプ氏が就任後初めて、自分から呼びかけたワシントンの大規模集会を、1月6日とした意味は、議会への民衆圧力といわれる所以だ。
そこで、プランDを同時発動することもかんがえられる。

これには、ラトクリフ国家情報長官によるレポートの内容に、2018年の大統領令に抵触するような「証拠」がいる。
おそらく、トランプ氏は集まった民衆に、その証拠のなにかを「伝える」はずである。

連邦議会での裏切りは、身内の共和党に注目される。
ワシントンの沼における水抜きと大掃除とは、民主党・共和党を問わない。
だから、プランDに関連付けできる、プランEとFの発動は、バイデン氏側がもっとも恐れる事態なのだ。

ギリギリまで、沼の生きものをあぶり出す。
追いつめられた側からすれば、バイデン氏による「敗北宣言」だってありうるのは、放置すれば殲滅作戦による「全滅」のリスクを覚悟しなければならないからだ。

しかしもうここまできたら、とかげの尻尾切りで許されることはあり得ない。
民主党側の勝利への執念が、引き返し不能地点を自分で越えたからだ。

しかして聖書の神の怒りは容赦ないのだ。

クリスマスが明けて、嵐の前の静けさがやってきた。

不都合なノーベル経済学賞

ノーベル経済学賞というのは、「なんちゃってノーベル賞」なのである。

この「賞」は、ノーベル財団ではなくて、スウェーデン国立銀行が設立300年を記念して、かってに創設した経緯がある。
それだから、「遺書」にもないので、アルフレッド・ノーベルの子孫は認めていない。

勝手に使うなー!

ノーベルにしてノーベル賞から「疎外」された、人為的な仕組みの社会的定着の例である。
正式には、「アルフレッド・ノーベル記念経済学スウェーデン国立銀行賞」とか、「アルフレッド・ノーベル記念スウェーデン国立銀行経済学賞」といって、「ノーベル経済学賞」とはいわないのが「筋」である。

でも、なんだか長いので、「ノーベル経済学賞」といってしまうのは、日本人のズボラな性格がそうさせている。
それに、日本人の受賞歴が、ノーベル賞のなかで、経済学賞「だけ」ない、という恨みもあるのかもしれない。

しつこいけど、「ノーベル経済学賞」は、ノーベル賞のうちに入らないけど、だ。

とはいえ、経済学者にとって、やっぱりこの賞の権威は認めざるをえないから、「欲しい」と願うのは人間の性である。
しかし、昨今のこの賞の受賞者が、アメリカ人あるいはアメリカでの研究者に偏っているのは、「経済学」が、「アメリカ経済学」になったからでもある。

日本の大学における「経済学部」が、「文系」に属するのは、かつて全盛を誇った、「マルクス経済学」を「経済学」としていたことの名残である。
たしかに、マルクス経済学は、人文学的要素すなわち、宗教に近いのであるけれど、当人たちは「科学的」と自称して、これを、「社会科学」といっていた。

その「非」科学性は、ソ連東欧の崩壊で証明されたため、大学経済学部における「拠点」と「行き場」を失ったひとたちが、「地球環境」やら「持続可能社会」とかという、「似非科学」をもって、マルクスほんらいの「非科学性」を保守することでの、妙な勢力を確保することに成功した。

でも、これは、横滑りのような「シフト」をしたので、二度と「経済学」の本流とはなり得ないところに特徴があって、それゆえに「環境学」とか「環境法学」とかいう、得体の知れぬ「学問分野」を開拓もした、涙ぐましいムダな努力もある。

前にも書いたが、早稲田大学が、経済学部の入試に数学を加えるという「英断」がニュースになるのは、数学を基礎にする世界の経済学からすればまことに不思議な現象である。

ちなみに、経済学に数学モデルを多用し、「新古典派統合(新古典派とケインズ経済学の統合)」で一世を風靡したのは、あの定番教科書『サムエルソン経済学』の著書で有名な、ポール・サミュエルソン(1970年受賞)であった。

バブル崩壊から30年。
数々の経済学賞受賞たちが、日本経済の再生モデルを提示してきたものの、どれひとつとして役に立たない不思議がある。
また、日本を経済モデルの実験場としたいという誘惑にかられた受賞者も多数いた。

アメリカ人の受賞者たちが、ソ連崩壊時の体制変換に、経済の自由化というソフト・ランディングに失敗したのは、歴史的にロシア人が自由主義経済の経験がなく、いわゆる「資本主義の精神の欠如」、という資本主義成立の基盤ともいえる大問題を無視したからであった。

これは、生まれながらにして、「資本主義の精神」をたたき込まれる、英米人を中心としたひとたちには、うっかり忘れてしまうほどに「当たり前」のことなのである。

そんなわけで、わが国の経済モデルを受賞者たちがどんなにいじろうとしてもうまくいかないのは、わが国が「なんちゃって資本主義」だからである、と書いた。

いまや、はっきりとしてきたのは、社会主義へ邁進しているのがわが国経済なので、英米の自由主義経済を基盤とする経済学が、わが国でぜんぜん役に立たないとかんがえることが合理的である。

さてそれで、2020年のノーベル経済学賞は、「オークション理論」だった。
あたらしいオークション形態もふくまれる。
ポール・ミルグロム、ロバート・バトラー・ウィルソンの両教授である。

ここに、「電波オークション」もある。
いま、世界の先進国で、電波オークションを「やっていない」のは、社会主義のわが国「だけ」になっている。

興味深いことに、わが国のテレビやラジオは、この「受賞」の「中身」を詳細に報道することも「なかった」のだ。
自分たちに「不都合」なことは、報道しない自由がある、という自主的な報道管制をここでも実施した。

あたかも、小学校からの算数や数学の授業に、電卓を使わないがごとくの、わが国の「かたくなさ」は、みずからを世界標準から遠ざけている。
ならば、ソロバン教育だろうと思うけど、これもしない。

すなわち、あらゆる科学の基礎となる、数学を苦手とする「文系」を大量生産し、それでいながら、「科学技術立国」とは、語るに落ちる。

優秀でない日本人をつくって、社会を貧困化させ、よって暴力革命を成功させたい。
ノーベル経済学賞を受賞する日本人は、永遠に出てこない。
それが、国家目標なのだからである。

神奈川県央は豚の街

東京のただのベッド・タウンに落ちぶれた横浜市には、これといって美味いものはない。

それは、横浜中心部の衰退をみれば明らかで、貿易港として栄えたかつての発信力と購買力を失ったからである。
その象徴は、全国に10カ所しかない「アップルストア」が、横浜市内に「ない」ことでわかる。

鶴見川を越えて、川崎まで行くか、川崎を通り越して東京に行くかという選択しかないのだ。
しかも、東京なら、銀座か表参道という選択肢もある。

これをいうと、ならば「誘致」しようといいだすひとがいる。
そういう発想法が、衰退を呼ぶのだとまだ気がつかない。
アップル社は、「経済原則」にしたがって出店しているのだ。
その原則に無理な力を加えることを、「介入」といって、結局はその無理がかえって衰退を促進するメカニズムになるのである。

わが国の観光地は、たいがいが「点在」ということになっている。
街の景観も、食事の名店も、点在しているのが常で、なかなか「面展開」がない。
それで、一応「横浜中華街」が、珍しくも「面」を形成している。

だから、横浜には美味いものがない、というと、かならず反論があるのは承知している。

しかしながら、経済成長を「時代の変化」と読み替えたら、いつの間に中華料理もコモディティ化した。
そこで高級店と町中華とが全国でふつうになったけど、むかしの中華街(横浜の古くからの住民は「南京町」という)を知るものからすれば、いまのあの場所は、市外からの観光客による「おすまし」の観光地になってしまった。

つまり、地元住民のふつう、ではもうない。
もちろん、行きつけのお店はあるけれど、古くからのお店が「絶滅危惧種」になっている。
さいきんは後継者問題で廃業した店を、居抜きで経営者が交代して、あたらしい形態に変化(じつはチェーン化)している。

これを、新陳代謝といういいかたもあるけれど、街自体が「別物」になりだした。
これが、むかしを知るものの「がっかり」と「寂しさ」の原因なのだ。

それは、人生経験におけるさまざまな「想い出」があるからである。
だから、気がつけば足が遠のいて、370万横浜市民の「南京町」ではなくなった。

しかし、役人はこういうところに目をつけて、どうしたわけか「税金」を投入する。
「港」と「中華街」が、市の看板となるからである。
それでもって、たっぷり公金を投じたら、「猥雑ないかがわしさ」を喪失して、よそよそしくなったのだ。

どこもかしこも、人工的に「整備」された、コンクリートとガラスでできた「ポスト・モダン」になったのである。
この「センスの無さ」が、ほぼ全国共通の役人の価値観だから、外国人観光客のなかでも「高単価客」が、「退屈なニッポン」と評価した。

おどろくことに、それだけの公金を投じたのに衰退するのは、店が悪いと決めつけるのも役人の性なので、とうとう観光課とか、観光庁という役所が、都度都度に命令をくだす。
これを、「介入」と感じないから、どうかしているのである。

さてそれで、横浜市という田舎者たちから離れて、相鉄の電車で30分も内陸部にいけば、そこはかつての「高座郡」である。
この土地は、文明開化のかつてから養豚業が盛んだった。

高度成長で需要がたかまった豚の大量生産で、効率重視の豚種がコモディティ化したので、一念発起した高座郡の経営者たちが協力して、効率と歩留まりに劣るが美味さでは劣らないばかりか優れた豚(ヨークシャー種)を原産地のイギリスから輸入して、これを「高座豚」として増やした。

相模川の向こう側、厚木市も養豚が盛んな土地である。
たいがいの外国は、肉食ではあるけれど、「モツ(内蔵)」をそのまま人間が食べる文化は珍しい。
だから、ヨーロッパの肉屋では、まずモツは入手困難である。

われわれのふつうが通じない愉快がある。

これが、いかほどに「価値」あるものか。
そんなわけで、厚木市民のあたりまえ、「シロコロ・ホルモン」が、全国B級グルメで大賞を得たのは、例によって厚木市役所の餌食になるかと心配した。

けれども、地元の専門店は、市民の支持で営業するだけだから、動じなかった。
シロコロとは、豚の直腸部分のことで、これはこれで希少部位である。

丁寧に洗浄するのは当然だけど、炭火で炙ってみれば、ぷっくりと膨らんで、なんともいえないプチッとした食感と、脂っこくないあぶらが口内にひろがる。
この美味さは、たしかに癖になること請け合いである。

新鮮な豚が手に入る、養豚の町ならではのごちそうだ。

電車に乗って行く価値がある。
役所が無理やりつくるのとはちがう、自然体の営業が、地元民に支持されるから、その中に入って経験するのが「観光」になるのである。

常連さんたちの注文方法と、食べ方を横目に、自分で確かめる。
タレでなく、「塩」を選択すると、テーブルにある調味料セットから、自分で味付けをするのも珍しい。

納得の満足である。

電気自動車で破滅

すべては、バイデン政権になる、という「早とちり」が原因であり、世界の凡庸な指導者たちが、あろうことか「横並び」をしているという滑稽である。

国家の経営者たちが、あまりにも凡庸になった。
国民が「安穏」としているからである。

これが、21世紀の現代における世界的な危機の根本にある。

企業においても、「業界横並び」が経営者たちの安心感を生むのは、成長しないという現状の環境を「受け入れる」ことを基礎にしている。
すると、業界の順位を守ることは波風を立てないので、あたかも逆風下にあっても「順風」のような錯覚を得られて安心できるのだ。

これではまるで、犬の群れ、である。

ボスではない犬たちにとっては、たいへん居心地がいい。
しかし、ボス犬へのプレッシャーは半端なく、いかにして群れの生き残りを図るのか?という命題を一身に背負うことになる。

前頭葉が発達して、思考能力がある人間という動物の群れは、ピラミッド構造となる特徴がある。
ボスはひとりだが、サブはふたりとか、その下はさらに複数人がいて、中間管理職層を形成し、その他大勢の人民を支配する。

前頭葉が発達していないから、思考能力に欠ける犬という動物の群れは、1頭ごとに序列をつくる。
ボスも1頭で、サブも1頭、その下も1頭、つまり、中間管理職という集団は存在せず、最後の1頭がビリの立場となる。

しかし、ビリでも犬は、人間とちがって、思考能力に欠けるので、それを恥とも思わず、むしろ、群れ全部の上位者から保護されている立場でもある。
よって、気弱な性格のビリ犬にとっては、精神の安定を得られる仕組みになっている。

なので、犬の群れは、別の群れに遭遇して争いになって敗北し、群れの維持が壊れると、勝った群れに合流して、再び群れ内の序列をつくる。
すなわち、人間とちがって、「横並び」ということをしない。

だから、自己の存在意義を忘れた恥ずべき「横並び」をする人間は、ときに犬以下の存在となることがある。

電気自動車への転換、という政治キャンペーンは、35年後に電気自動車を50%にすると「宣言」した、アジアの大国をボスとした、よこしまな発想をする人間たちの「横並び」である。
地球環境とか、持続可能な社会、などというきれいごとは、よこしまな発想を覆い隠すベールでしかない。

では、このボスは、どうして電気自動車にこだわるのか?
理由はかんたんで、トヨタ自動車に逆立ちしてもかなわないことを知っているからである。
そこで、自分たちが有利となる、ルール変更を提唱したのだ。

わが国経済の要は、自動車産業であることに異論はないだろう。
その中心が、トヨタ自動車だ。
すなわち、このルール変更は、わが国経済を破綻させ、わが国国民生活の劇的貧困化から生じる破壊活動を促す、大戦略のひとつであるといえる。

自動車工業会の会長である、トヨタ社長が「懸念」を表明したのは、現状技術の維持に拘泥したような話ではない。
私見をいえば、もっとハッキリと、侵略に加担するのか?というべきであったろう。

電気自動車は、自分で発電しないから、走行するには電源から電気をうけて、けっして地球環境にやさしくない電池に充電しないといけない。
すると、元の電気はどこかで発電しないといけない。
原発の必要性は、ここからやってくる。

フクシマ以来、いまは発電に火力が必要だ。
すると、電気自動車を走らせるために石油や石炭を燃やすことになる。
また、普及には全国各所に設置する「電気ステーション」のために資材を要する。

鉄やコンクリートをつくるにもエネルギーは必須だから、どこが「クリーン」なのかしれたもんじゃない。
むだな投資をさせて、産業破壊をしようというのだから、まったくどうかしている。

わが国経済に役立たずどころか、破壊工作に邁進する経済産業省は、即刻廃止すべきである。

オーストラリアが保守政権になって、アジアの大国と対立するようになったら、傲りたかぶる彼の国は、あろうことかオーストラリアに「経済制裁」と称して、石炭の輸入を止めてしまった。
彼の国の石炭調達先の最大国が、オーストラリア「なのに」である。

それで、すでに自国の三つの省で深刻な電力不足に陥った。
気温が3度以上あれば、暖房をつけてはいけない。
すさまじき「計画停電」もおこなわれているけど、冷蔵庫にいれなくても室内で用が足りることになった。

こんな状態で、電気自動車とは、漫才のシナリオを書く放送作家だって気づかない「おおボケ」だ。

それよりもなによりも、アメリカ人が覚醒してしまった。
大統領選挙で誰が勝つ、という問題をすっかり通り越して、「合衆国独立宣言」と「合衆国憲法」の危機を認識しはじめている。
その危機をつくった破壊者が誰か?もいっしょに理解しはじめたのだ。

まことに、前頭葉が発達している国民である。

彼ら国民が、「敵」を特定したことの重要性は、30年後どころではない未来の筋道を確定させている。
支配するものたちと、支配されるものたちを「分けること」も常識となった。
すなわち、敵は、支配するものたちに絞られたのだ。

ホワイトハウスには、世界から受け付ける請願制度があって、提起から1ヶ月以内に10万の電子署名を達成すると、半年以内に公式見解が示される。
オバマ政権が設けた制度だ。
これを、トランプ政権が活用している。

今月数が満たず失敗した、「日本政府への調査請願」が復活している。
Petition Title: The Japanese people want an investigation into the Japanese government
ご興味のある方は、ご確認を。

とんちんかんな総務大臣の発想

大臣になると何でもできると勘違いするのか?それとも、最初から勘違いしているのか?不明だけれど、最初からなら、「勘違い」というのかも不明だ。
近代民主主義の政治環境、三権分立があるなら、「精神異常者」に分類されることになる。

NHKの受信料徴収に、郵便局員をつかえば、営業経費のなかの徴収経費が削減できると発言した。

確かにNHKの予算は、国会承認がひつようだから、事前に総務省の窓口と協議して、OKが出てからが正式な「予算案」となって国会に提出される手順となる。

しかし、本来の「行政権」は、NHK予算の中身ではなくて、あくまでも「手順」の遵守にある。
中身は、国会で審議するものだからである。
それなのに、国会側も越権だと怒らないのは、三権分立をしらないからで、また、役人が見たなら大丈夫だと、自らの役割を放棄するのが当たり前になっている。

これが、わが国の行政権が立法権にも及んで、総務省の窓口が、予算の中身に文句をつけて修正をさせる、という越権行為をふつうだとしている理由なのである。
それで当然に窓口の親分である大臣も国会議員の身分でありながら、NHKの経営に罪の意識なく介入できるのである。

マスコミのノーチェックもあって、国民もこれを、「異常」だと認識できなくなったから、歴代の総務大臣(郵政大臣時代から)は、NHKの会長を恫喝したりして、なんだか偉ぶることができる。
まさに、時代劇の、お代官さまと悪徳商人の密談のごとくである。

国民が、「NHK問題」とおもっているのはいくつかあって、そのひとつが、戦前からある「受信料制度」であることはまちがいない。
けれども、これには、放送局としての基本的なサービスである、「放送内容への不満」も重なっているのだ。

さらに放送内容は、質と量の問題に分けることができる。
「量」とは、放送時間のことと、放送(電波)帯割当がある。
そこで、NHKでは、BS放送とBSプレミアムの統合や、AMラジオを廃止して、FMへの統合をもって対処しようとしている。

この「自己改革」で、放送経費が削減できるという。
しかし、国民の興味をひろわないのは、肝心の「質」に手をつける様子がないからである。
つまり、国民はNHKが今以上に利益をだすことを求めているわけではなく、むしろこれを、儲け主義の「欺瞞」だと感じている。

アメリカ大統領選挙報道というひとつのテーマを例にしても、NHKの報道の質は、かなり劣っており、むしろ、一方的な価値観を押しつけるプロパガンダ放送と化したから、情報リテラシーがある視聴者は、これまで以上に契約廃棄やスクランブル化を求めだしているのである。

すなわち、放送法の履行(公正さ)を遵守させる、という意味でしかない総務省の行政権を、きちんと発動せよ、というのが国民要求なのであって、どうして受信料の徴収方法を大臣がいわないといけないのかの根拠は、そもそも「法にない」のだ。

すると、この大臣発言は、NHKの経営権に対する違法行為を平然と発言した、というニュースなのである。

そして、もっと深刻なのは、郵便局員の業務にまで及んだことである。
「郵政民営化」を圧倒的に支持したのは、たしかに国民であった。
小泉政権の地滑り的大勝利りよって、郵政省がなくなっただけでなく、ほんとうに「民営化」されたのだ。

これによって、日本郵政株式会社がホールディングス会社となっている。
このホールディングス会社は「上場」したものの、政府は相変わらず30%の大株主である。
ただし、傘下だった、「かんぽ生命」と「ゆうちょ銀行」の株式は、2017年10月から完全処分=民営化された。

よって、あいかわらずホールディングス会社が100%保有する、「郵便局」と「日本郵便」についての支配権は、政府が3割を確保しているともいえる。
けれども、裏返せば、7割は民間資本なのだ。

したがって、大株主ではあるけれど、総務大臣の発言は、民間企業に対しての、明らかに「暴論」といえるものである。
日本郵政株式会社の取締役は、大臣発言に対して「大株主の意向として尊重はするが、命令はできない」とちゃんとコメントすべきである。

マスコミのチェック機能があったすこし前の時代なら、こんな大臣は、「辞任」してもおかしくない。
こんなポンコツな大臣を、解任できない内閣首班も、「任命責任」をとりたくないから、とぼけるのである。

そんなわけで、政府と民意との乖離が日を増して広がっているのがわが国の現状である。
どうして機能不全になったのか?
根本的に掘り下げることからやらないといけない。

来年以降の喫緊の課題であって、かならずや解決しなくてはならないのである。
でないと、国の最期がやってくるのだ。

「砂上の楼閣」状態。

これはすでに、「外部経営環境」の危機であるから、企業経営者ほど敏感でないと、自社が危険にさらされることになる。