参政党・鹿児島の「いい仕事」

3年に一回の参議院通常選挙が来月に迫ってきて、だんだんと街が騒がしくなってきている。

ネット界隈では、「参政党」の支持率が、「公明党を超えた」ことが話題になっただけでなく、とうとうこれを機に地上波テレビが報道をはじめたので騒然としているのである。
これまでの、「無視」から、一転しての報道は、持ち上げて落とす、というシナリオのはじまりともとれるからである。

全国比例で8人、地方区には全選挙区に候補者を立てると発表し、既存政党でこれと匹敵するのは、なんと自民党だけ、という状況になっている。

ときに、地上波テレビ、なかんづく「公共放送」を自負しているNHKは、『日曜討論』に登場できるのは、国会における「全政党」という建前があったけれども、参政党が1人の国会(参議院)議員を出した途端にルールを変えて、衆参あわせて5人以上の議員がいないと出られない、というおよそ公共放送とは思えない政治的な嫌がらせをやった。

それで、老舗の「社民党」の議員もテレビから消えたのである。

だが、不思議なことに、社民党がこれに不満の大声をあげているとはおもえない。
つまり、NHKも社民党も、さては、他の野党も、こうした処置を黙視して「言論の自由」を語る噴飯がある。

USAIDから、なにがしかのカネをもらっていたから?と邪推したくなる。

その参政党は、当初5人のメンバーからはじまったが、オリジナルとして残存するのは、党首の神谷宗幣参議院議員と、元党首で元衆議院議員の松田学氏のふたりである。

松田氏は、元大蔵官僚で、石原慎太郎氏に近い関係から、自民党から距離を置く、官僚出身としては珍しい議員歴がある人物である。
わたしは、石原慎太郎氏を「保守」とはみなしていないけれども、世間一般的には、彼を「保守」という欺瞞が苦々しい。

それが、危険思想としての「保守」だからである。

さて、そんな松田氏の経済政策を、「松田プラン」と称して、結党当初から語っていたのが、「国債を政府発行通貨に変換する」という、一見すると「MMT:現代貨幣理論」のような怪しさなのだが、これをさいきんになってやっと、同党県支部のひとつ「鹿児島」から、詳細解説が発信された。

コーディネートしたのは、医師で同選挙区から今夏立候補予定の、牧野俊一氏である。

この解説がこれまででもっともわかりやすいのは、アニメ付き「図解」だからである。
通貨=おカネ=マネーが、どのような仕組みになっているのか?が、銀行のもっとも重要な「信用創造」機能とあわせ基本知識としてもよくわかる。

あえてこの解説に補足すれば、銀行が儲からない、ことの意味する現代日本経済の歪みがある。
これは、おそろしいほどの共産化(政府依存)の結果なのである。

「解説」ではまず、牧野氏からの一般論があって、それから松田氏からの補講があるのだが、ここで、あっさりと「BIS規制Ⅲ(「バーゼル3」ともいう)」についての影響に触れている。

わが国経済をおとしめているのが、この闇深いBIS(国際決済銀行)なのであって、逆らえない金融庁は奴隷のように従順なのである。
ちなみに、大著として『BIS隠された歴史』があるので、参考になる。

ところで、トランプ政権が国際金融の既存システムに対抗していることを、日本のメディアは一切日本人に伝えない。
じつは、まともなアメリカ人からみても、BISはヤバイ存在なのである。

なぜならば、各国の中央銀行のそのまた中央銀行がBISだからで、しかもこれらはぜんぶ「民間銀行」だという驚きの真実がある。
公的な、世界銀行や国際通貨基金(IMF)のそのまた上位に君臨しているのがBISなのである。

トランプ政権2.0が、自国のFRB(連邦準備制度理事会)を目の敵にしているのは、民間にこの組織が誕生したことと「セット」で、アメリカ建国史上はじめて「連邦所得税」の課税がはじまったつながりをしっているからである。

ここに、「トランプ関税」の意志があって、それが、「所得税廃止(論)」という選挙公約の基礎になっているのである。

そんなわけで、トランプ政権2.0はすでに、「FRB廃止」に向けた戦闘を開始しているが、彼の最終構想は、BISの廃止にいたる既存国際金融システムの破壊なのである。
なぜならば、これらの「特権階級」が、人類を支配することの弊害そのものの原因だからという、壮大な世直し、を意図しているからである。

よって、「松田プラン」とは、この文脈の先端的な具体策だという位置付けにある。

その手段が、ブロックチェーン技術を用いた「政府発行デジタル・マネー」のことで、トランプ政権2.0も、これを意図していることは、アメリカで喧伝されているのに、マスコミは伝えない。

何度も書くが、ハイエクの『貨幣発行自由化論』が、理論的背景にあるのだ。

肝心要の難しいことを易しく伝える。
これが、はじまったのである。

計画的な「茶番」

5月28日、DOGEを率いたイーロン・マスク氏が、退任すると発表した。

逆神のマスコミは、トランプ政権に痛手のように書いているが、はなから「任期は130日間だと決まっていた」ことを書かない。
その期日は、5月30日なのである。
しかも、それは「連邦法(特別政府職員の任期制限)」によって決まっていることだ。

このブログで何回か指摘していることに、トランプ政権には、「マインドマップ(思考整理とガントチャート型スケジュール管理)」の遣い手がいるはずだ、がある。
そうでなければ、かくも複雑な内外の現状を適確に予測し、かつ、瞬時の判断やら事前の準備ができるわけがないからである。

すると、イーロン・マスク氏の退任スケジュールとなにをからめるのか?という発想になるのは、ただ予定通り退任する、だけではつまらないことになるし、「ディール好き」のトランプ氏らしくない。

そこで、史上最大の「トランプ減税法案」をかませることにしたのだろう。

しかしながら、連邦下院議長はこの法案についての忠誠をあらかじめ大統領に示していた。
すると、連邦議会内でなにがおきているのか?ということになって、いわゆる「守旧派」つぶしをどうするのか?となる必定がある。

じつは、この「法案」が守旧派によって「肥大化」しているのである。

この議会の習性による修正のことは、選挙公約の時点に戻ることができる「予想どおり」だから、もしやイーロン・マスク氏の就任前からシナリオが用意されていた可能性があるとにらむ。

そこで、シナリオ執筆者は、単細胞で阿呆ばかりのマスコミをどうやって「踊らせるか?」も組み込んだのだろう。
それで、まんまと踊らされたのが、トランプ・イーロンの決裂、という「茶番」である。

この「茶番」の目的は、トランプ減税反対派を撃沈させることにある。

その前に、DOGEは、「省」と日本語翻訳されたが、あくまでもオバマ政権で大統領府のなかにつくった、「USDS(合衆国デジタルサービス)」の「改編」にすぎない。
したがって、DOGEは、すべての省庁のムダを発見してこれを大統領に「報告」はするが、それでどうするか?は、大統領と議会に委ねられている。

アメリカ合衆国憲法で、大統領を独裁者にさせないためにさまざまなカセをはめており、あくまでも既存法を根拠とする「大統領令」は認められるが、新規に立法がひつようなら、議会で決議しなければならない、ように制度設計されている。

つまり、DOGEは、あの「土光臨調」のような、大統領諮問機関なのである。

そうすると、イーロン・マスク氏の「不満」とは、限界のある大統領にではなく、DOGEが指摘したムダの削減を徹底実施するための法案を通さない議会に向かうのは当然だ。
そこで、このふたりが、「共謀」して「茶番」をやって議会に仕掛けることをやったのだ、とかんがえるのは、あまりにも単純すぎるのだが、これをマスコミは見抜けないかわざと書かない。

ときに、この「ケンカ」は、ドイツのメルツ新首相が初のホワイトハウス訪門中にはじまったのである。
このタイミングこそは、なんとウクライナ和平における戦争屋に支配されたドイツの油断までも計画していないか?

メルツ氏は、「ブラックロック・欧州」の会長だった。

なので、「ケンカ」シナリオの策定に、ヘッジファンドの大御所たるベッセント財務長官も一枚噛んでいるとにらむのである。

なんだか1974年にアカデミー賞をとった、『スティング』(1973年)のような、「騙しの仕掛け」にみえるのである。

マスク氏は自身の「X」に投稿し、トランプ大統領は自身の、「Truth Social」に投稿する、というルールで、互いに互いを罵倒し合う「茶番」をやった。

それで、議会の反対勢力がいう主張をこれ以上ない罵詈雑言で撃破してみせたら、あっというまに「和解」に至るのであろう。

なお、マスク氏の盟友が、NASAの長官に指名され、上院の承認を通過していながら、指名解除されたことも「ケンカの原因」とする説もあるが、この人物が民主党支持者であることがいまさらの理由になるのは無理だ。
「仕掛け」のひとつだったのではいか?

しかも、NASAの無駄遣いは、DOGEが暴いたことでもある。

残念だが、日本政府もマスコミのレベル、あるいはそれ以下にあるので、自分でやっている「茶番」が、なんだか本当になる異常がある。
5回も訪米して、何の成果もない「関税交渉」が、何の成果も出さないことが目的だったはずなのに、「航空運賃がもったいない」というチンケな批判にさらされて揺れている。

残念ながら、電話でいいじゃん、という批判の方に軍配があがる程度の「交渉」だといえるのは、「消費税撤廃」を絶対にテーマにしない日本側の「反トランプ」を、ここでもヘッジファンドの遣り手だったベッセント財務長官が、もてあそんでいる構図がみえみえだからである。

トランプ大統領の、「京都風いけず」な発言をまねているのは、そのためだろう。
ついでに、新任の日本大使もこれにならっている。

わたしには、赤沢氏がピエロにしかみえないが、やがてあたかもホラー映画のごとく、「最凶」の存在に化けるかもしれない。

これはこれで、やっぱり「茶番」なのであるけれど。

誠意のかけらもない和平交渉

1日、ウクライナはドローンを積んだトラックでロシア空軍基地の近くまで移動させ、そこから駐機中の軍用機を破壊する「テロ」を実施した。
ロシアの被害額は1兆円規模だという。

これを、「蜘蛛の巣作戦」と、ウクライナ保安庁は発表した。

トルコでの和平交渉中の「作戦実行」であるから、ウクライナ(=EU=NATO)の戦争継続意思表示=挑発であることはまちがいない。
当然ながら、ドイツの外相(緑の党党首)はこの作戦の成功を「絶賛」したし、ドイツの首相はヒトラーがやった「ロシアへの直接攻撃」を模索していると公言している。

つまり、EU=NATOの主流派(戦争屋)は、第三次世界大戦を勃発させたいのである。

一方で、交渉のテーブルでは、双方の戦死者の遺体交換もロシア側から提案された。
遺族への返還と葬儀をきちんとやりたい、というのがロシア正教の信者たるプーチン氏の意向だというが、ウクライナ側には困った提案だったようだ。

ロシア側が保存しているウクライナ兵とはことなり、ウクライナ側はぞんざいな扱いをしているからだという。
これも、両国の「性格のちがい」をあらわす一例となっている。

「蜘蛛の巣作戦」について、トランプ大統領は、「しらなかった」と発言した。

ようは、アメリカ抜き、があからさまになっている。
けれども、それは、EU=NATOの焦り、ともとれるほどの強引さである。
これで、平和勢力の色分けがいよいよハッキリしてきたのだが、マスコミを信じるととんでもないことになるのは「大本営発表」レベルにあるからだ。

さらに、トランプ政権2.0が、中国との関税交渉をあんがいあっさり切り上げたのは、習氏失脚の「噂」についてなんらかの確信があったためではないか?といわれだした。
経済開発・維持の、旧江沢民派の巻き返しによる「習氏排除」の動きは、さいきんの「人民日報」から習氏の記事がないことで証明されようとしている。

そんななか、わが国は、ロシアの凍結資産から30億ドルを勝手につかう、ウクライナとJICAの協定が締結されたと、5日、「スプートニク日本版」が伝えている。
なくなったUSAIDの機能を、本格的にそのコピーたるJICAが受け持つことになって、トランプ政権2.0と真っ向対立しているのが「自・公・立憲」政権なのだ。

こんなことをしながら、赤沢氏を特使とする関税交渉とはなにか?

たんなる、ダミーである。

日本政府は、日本経済を破壊し、日本人を奴隷化する命令に従っている。
命じているのは、「戦争屋」である。
それゆえに、根幹たる自動車産業が「関税」によって壊滅的となることを望んでいるのである。

しかも、無謀な「トランプ関税」のせい、だと、愚民に主張できる。

愚かな「蜘蛛の巣作戦」によって、トランプ政権2.0は、ますますウクライナから手を引いて、さっさとロシアとのディール(=米露同盟関係の構築)を開始する可能性がでてきた。

韓国では、「予定通り」、重犯罪者が大統領職を射止めたようにみえるが、わが国政府が気にもしないのは、同じ穴のムジナ、だからである。
強烈な反日政策が飛んでこようが、そもそもいまの日本政府が強烈な反日なのである。

そんなわけで、トランプ政権2.0が、あたかも「孤立」しているように宣伝されてはいるが、そうはかんたんなはなしではない。
世界潮流は、親トランプ政権2.0であり、親ロシアが実際のところなのである。
1日、対ウクライナの要であるポーランドでは、親トランプ政権の大統領が誕生した。

だから、焦っているのは、EU=NATO主流派なのである。

マスコミが報じない、ロシアが突きつきた和平条件に、「ウクライナからのナチスの排除」がある。
これは、当初からの「目的」にある項目で、ロシアは一切のブレがない。

西側が「ナチス支援」をしていることのおぞましさ、なのである。

さてそれで、プーチン氏はどうするのか?
「蜘蛛の巣作戦」が突きつけたのは、おそろしく面倒なパズルである。
ゼレンスキー政権への直接攻撃開始、をトランプ政権2.0と協議している可能性がある。

それと同時に、イランとのディールの仲介もプーチン氏に依頼していることだろう。

賽を振ったのは、EU=NATO(含む日本)の側なのだ。

地元密着の観光難易度

前回の続きである。
「街中華」がはやっている。

個人商店がおおむね苦戦を強いられる時代になったのは、いまでは人為の計画的であった疑いが濃い「コロナ禍」が最大の試練だったろう。

モノを販売する「お店」としては、「大店法の規制緩和」が大きかった。
これで、街の中心部にあった「商店街」が著しく衰退の憂き目を見ながらいまに至っている。

一方で、「利便性」という側面では、圧倒的に「大店」がまさるから、消費者にとってのメリットは「大店」に軍配があがる。
とはいえ、「商店街」を放置していいのか?という議論になると、急にノスタルジックな議論となって、埒があかないのである。

それで、責任を取りたくない行政は、かつての店舗を「商業用不動産」として優遇税制の中に置いたままにするので、全国にシャッター街を生産するという結果が生まれている。

こうした商店街のなかや、周辺の住宅地に点在したのが、おなじく個人商としての飲食店で、日本そば・うどん、寿司、中華料理が3大ジャンルとなっている。

そもそも自家用車の普及がなかった時代、徒歩圏やせいぜい自転車で移動した「生活圏」にあった店たちなので、はなから「地元密着」になる当然がある。

いま世間を賑わしている「米」だって、むかしは町内に一軒必ず「米屋」があったのは、「食糧管理」の都合上からの強制でもあったし、新規開業を許可しない方式での「権利」であった。

なので、スーパーで買えるようになったら途端に絶滅危惧種になったのともちがう「地域密着」なのだ。
この「米屋」とおなじ分類にあたるのが、「たばこ屋」と「酒屋」で、「権利」を台頭するコンビニに売ったのである。

そんなわけで、「自由営業」の分野に、「街中華」もはいる。

神奈川県相模原市の住宅街に、街中華の名店がある。
創業者の父は「広東料理」、息子は横浜中華街で修行した「四川料理」の父子鷹である。

JR相模線の最寄りの駅からは徒歩で15分ほど、接地する道路にはバスも走るが、1時間に一本程度というアクセスの悪さも特徴なのである。

よって、ほぼ「地元密着」でしかない。

だが、それがまた「味」を出している。
とにかく、観光客がフラっと入店するような場所柄ではないのである。

それでいて、開業から半世紀近くも営業できてきたのは、まさに「名店」にふさわしい。

いまどき、こんな店もある。

それで、片道2時間半ほどをかけても通っているのは、その居心地の良さと気の利かせかたが、まったくもって「むかしながら」だからである。

近所にこういう店がほしい、というのは、いまどきの奇跡的存在だからでもある。

わが家では、この店への道中を含めて「観光化」しているが、まったく他に観光客をみないのも価値があるのである。

しかしながら、店主たちからしたら、ふつうのことを続けてきた、だけなので、なにが特別かをぜんぜん意識していない。
ここに、ガラパゴス的な隔絶がある。

あえて書けば、この店の客は、ほぼ全員が「目的客」なのである。

周辺に他の飲食店がないので、もしも満席なら待つしかない。
「臨時休業」のがっかりをする可能性も高い。
わが家は、「本日貸し切り」という肩透かしを食らって、途方に暮れたこともある。

しかして、全国にはこのような店がたんとあるだろう。

知らぬは「よそ者=観光客」ばかりなのである。
なので、観光地を歩く場合でもなるたけ「地元密着店」はどこか?を意識して歩くのである。
そのために、路地や路地裏に気をつけるし、古びた店構えを発見するとがぜん興味がわくのである。

むかしは、「酒屋」が情報源だった。

町内の飲食店に飲料を提供するから、店の内部事情に詳しかったのである。
ビールなどを買いに立ち寄って、店主お薦め店を聞き出すことはヒット率を高めた。

ネット社会のいま、残念だが「グルメ情報」サイトはほとんど役に立たない。
申し訳ないが、投降者の感性レベルが低いのである。
たんなるノイズになるので、わたしはほとんどチェックしない。

そのために、自分の感性が頼りとなるスリリングさが、またひとつの「味」となる観光をするばかりなのである。

気がつけば、「観光ガイド」とは、効率的(=時短)に観光地をまわるのには意味があるが、非効率からうまれる「発見」を期待することはできない。
すると、「地元密着店」を発掘することは、非効率こその効果なのである。

だからそれが難易度が高いのは、今どきの「なんでも合理的」との反対があってのことなので、意識しないと行動にならないからである。
つまり、偶然を求める旅や観光ではなく、確実性の方が優先されているから、きまった店だけによそ者の客が殺到することになったのである。

なにもかんがえないですむマニュアル的な生き方の象徴がここにある。

「味の変化」をかんがえる

老舗料理店の「味」が、変わったか変わらないかが議論になることで、それがそのまま「店の評価」になっていることがある。

結論から先に書けば、おおむね「店側は味を変えている」のに、「客側が変わらない」と信じていることでの「高評価」がある。
これは、ふだんの食生活の変化を感じとった店側が、ほんのわずかな対応をしているために、「客側」をいい意味で騙しているのである。

もっといえば、洋風の味に染まっている客の食生活に合わせる努力をしたら、「むかしから変わらない味」という勘違いを引き出して、それが知れ渡るとできる「ブランド効果」であるともいえる。

では、味は変えるべきものか?それとも変えているのに変わらないという評価に向かうべきであるか?どうなのだろう?という議論である。

神奈川県の相模原に、父と息子の親子で営む「街中華」がある。

父は、日本人が好む典型的な「広東(風)料理」の担当で、息子は、横浜中華街にて修行した、本格的「四川料理」の腕をもっている。

創業者の父の味こそ、これぞ「街中華」なのではあるが、そのレベルはそんじょそこらの店とはちがう、なるほどの料理なのである。
だから、横浜中華街にもあるあるの料理ともいえるし、庶民的なメニューとはいえひと工夫もひと手間もかけているのがうれしい。

一方で、息子の四川は、これもまったく手間を惜しまぬ仕込みをしているので、「麻」と「辣」とが、はっきりしている。
こんな「本格」が、街中華で手軽な値段で楽しめるのである。

つまるところ、広東料理と四川料理が、同じ店にあるのであって、かなり珍しいといえるだろう。

わが家からはかなり移動の手間がかかる場所ではあるが、意を決して向かうにふさわしい店なのである。

先日、一駅離れた隣町のホテルをとって、いよいよ堪能しに久しぶりに出かけたら、お父上の姿が見えない。
聞けば訳あって入院中という。

二人でやっていた店の料理を、ひとりでこなすため「出前」は中断しているとのことであった。

さてそこで、息子の広東料理をはじめて食べた。

なるほど、父とは味がちがうのである。
だが、まずい、というのではない。
まさに息子の味であって、奇しくも父の味との比較ができたのである。

なによりも、元気で退院されての復帰を願うが、とはいえ息子は覚悟をもって父の味を継いで欲しいとおもったのである。

なぜか?

メニューに、おなじ料理でも、父バージョンと息子バージョンを載せて欲しいとおもったからである。
これを機に、あくまでも前向きに、息子には父の味と自分の味の両刀使いをマスターしてほしいのである。

なんとわがままで贅沢なことか!
厨房に復帰した親父さんに伝えておきたい正直なリクエストなのである。

とはいえ、以上が本音ではあるけれど、ふと『マトリックス』を思い出した。

量子論によれば、いよいよ我々が見て感じている「現実」が、じつは「幻」であることのややこしさがある。
脳(量子コンピュータ)によってつくられている「マトリックス」の世界のほうが、本当の現実に近い。

まぁ、グダグダいわずに、親父さんの復帰を願うばかりなのである。

やっぱり違和感のMET

本稿は『フィデリオ』で書いたことの繰り返しだとあらかじめ書いておく。

それで今回は、5月30日から6月5日まで上映の、『フィガロの結婚』である。
作品に関係なく、冒頭からMET(メトロポリタンオペラ)はやらかしてくれた。

なんと、開演前に出演者が総出して観客とが、「ウクライナ国家」の斉唱をした場面からはじまった。
テロップには、「ウクライナ全面支援のおことわり」が表示されたのである。

撮影された客席は、ほぼ全員が起立して歌っているのである。

このおぞましい光景を見せつけられて、いきなり鑑賞の気分が削がれたのはもちろん、気分が悪くなったのである。
事ここに至ってなお、和平への努力をしないでロシア領への攻撃をしたウクライナの戦争屋の手先たちを支援するとは、とにかく戦争の継続を画策している態度に唖然とする。

国歌を斉唱するなら、「アメリカ国家」でなくてはならないのではないか?
なにしろ、世界都市ニューヨークなのだから。

しかし、グローバル全体主義=民主党の庇護者たちがスポンサーの劇場だから、きっと彼らの「意向」に逆らえないにちがいない。
その彼らとは、もちろん「戦争屋」のことである。

「映画公演:HD(High Definition:高解像度映像)」の公式スポンサーは、「ブルームバーグ」と「ROLEX」それに、「Neubauer Family Foundation」なる慈善団体だが、おおくの民主党系寄付者からの支えが、とうとう政治的ににっちもさっちもいかなくなったにちがいない。

とにかく自分たちの利益のために、現地人が何人死のうが関係なく、この劇場で「オペラ」にうつつをぬかそうというやからたちなのだ。

自分がこのような不道徳なものたちと同じだということに唖然とする。
共犯者のようで、気分が悪くなったのである。

ハーバード大学へのトランプ政権による「弾圧」の原因について、伊藤貫氏が明確に「偽善」だと述べている。
トランプ政権のことではなく、ハーバードを乗っ取った民主党員たちを「偽善者」と呼んでいるのである。

本音には、自分たちほど頭のいいものは世界にいないという思い上がりの裏返しだと分析してる。

もっともな主張である。

それで、日本の国立大学が、アメリカから追放された留学生を「無償=税金と自主的稼ぎ」で受け入れようという「偽善」を発表したが、おそらく「受け皿」として本人たちから認知もされていないことに気づかない間抜けさがある。

日本国内で、自分たちほど頭がいいものはいない、という思いがりが、なんと肩透かしをくらって滑っている「ざまぁ」がある現実に、日本の大学教授たちは何をおもうのか?

政治的立場をハッキリさせるのは、潔い、かもしれないが、それを観客に押し付けないでもらいたい。

本作、『フィガロの結婚』の主役、フィガロは例に漏れず黒人歌手だった。
前作の、『フィデリオ』に出演した上海出身の歌手も本作に登場したのは、「アカデミー賞」選考基準の準用なのか?それとも別の政治的意図があってのことか?といらぬ興味がわくのである。

なんにせよ、『魔笛』をつくったコンビによるこのオペラの反骨は、「初夜権」への反発が基礎にある。
まさに、「肉食の思想」が具現された、ローマ皇帝やら封建領主の「法的権限」であったものを風刺しているのである。

つまるところ、民主党的な「反キリスト教」からしたら、やけに「保守的」な演目なのだ。
もっとも、モーツァルトはフリーメーソンだった。

だが、幕間における「次作予告」は、あの問題作『サロメ』の新演出だ。
虐待を受けてから異常性愛へと変貌するサロメの狂気こそ、社会主義者オスカー・ワイルドの原作にしていまのMETにふさわしいだろう。

そんな作品を観るのは、こちらから御免被るのである。

ディズニーすら、SDGsやらのアジェンダから離脱したのに、METはまさにサロメのごとく異常な行動をひた走っている。

今シーズンは、『サロメ』の次に、『フィガロの結婚』の前作にあたる『セヴィリアの理髪師』で締める。
予告によれば、なんだか「古風」にして「正統」なのは、政治アジェンダの頂点を『サロメ』に置いているからかもしれないと邪推する。

発表されている『セヴィリアの理髪師』の「フィガロ役」はおろか、全員が「白人歌手」のようだからである。

しょせん、オペラはヨーロッパ白人社会の支配者=王侯貴族の暇つぶしにつくられ上演されてきたもので、徐々に一般人(紳士淑女)にも席が開放されたものだ。
はなから日本の芸能とはぜんぜんちがう。

もちろん、王侯貴族の暇つぶしから「近代オリンピック」すら生まれたのだ。

さてそれで、『セヴィリアの理髪師』がどんな「進化」を遂げたものか、また文句を書くチャンスがあるかもしれない。

2027国際園芸博覧会のデジタル・タトゥー

横浜開港記念日の2日、横浜市議会の常任委員会で市が報告という記事があったので、これをデジタル・タトゥーとして保存しておきたい。

内容は、
運営主体の国際園芸博覧会協会が「輸送実施計画」の初版をまとめた。
1日の来場者を最大10万5千人と想定し、会場周辺の4駅から最大計820便のシャトルバスを走らせるとした、とある。

じつは、会場(旧「米軍上瀨谷通信隊」跡地)から最寄りの駅は、相鉄線の瀨谷駅で、当初はここから新交通システムを敷設して運送するという計画であった。
これは、万博後の用地を、相鉄と三菱地所とがテーマパークにするという構想にもつながるものだったが、ここから相鉄が撤退したことがおおきいのだろう。

また、広大な敷地内に駐車場計画がない、ことから、県立高校が廃校となって駐車場にあてられることになっており、付近の農地を駐車場にすべく地主との交渉をしているが協力が得られていないという噂も耳にしていることは前に書いた。

つまり、「シャトルバス」しか交通手段がない、というのは結果論ではなくて、当初からの「計画」なのである。

大阪万博について、あえてここでは話題にしないが、どうして「横浜」といっても、この辺境が万博会場に選ばれたのか?ということがやくわからない。

ずっと、返還運動があったのに、本当に返還(日米合意は2004年で、返還は2015年)されたら利用方法が決まらないという事態になったのである。

わたしは、市と地主との間における「地代」の調製がつかなかったのではないかと疑っているが、詳しいことはわからない。

そもそもこの土地は、日本海軍が倉庫施設として用いており、「海軍道路」という軍専用の道路が瀨谷駅から約3Kmの直線上にあった。
終戦直後に米軍に接収されるモ、47年に接収解除となり、その後、1951年に再接収されて、「海軍道路」も一時は米軍専用道路だったのである。

なお、瀨谷駅からは「引き込み線」も敷設されていた。

個人的には、わたしの父が海軍のレーダー兵であったことに関係して、戦後、この上瀨谷通信隊に勤務していて、幼稚園生の頃、7月4日の独立記念日には基地内での豪華なイベントに2年続けて行ったのを覚えている。

みたこともないステーキやソーセージをバーベキューで楽しんで、たっぷり炭酸飲料だか珍しかったジュースを好きなだけ口にできた。
広場ではアメリカ人の子供と一緒に遊んだが、翌年は、それが誰だったかもう互いに記憶がなかったし、どうやってコミュニケーションをとったのかも覚えていない。

戦後の日本人は、徹底的に軍事から目を逸らされて、「忌諱すること」だけを擦り込まれた。
それで、「国防」というと、すぐに「軍事衝突」をイメージする単純脳にさせられた。
「情報戦」とかという、平時おける危険な活動について、驚くほどの無頓着になったのである。

上瀨谷通信隊が世界規模でどんな存在であったのか?を詳しく説明するものもいないなかで、歴史の消し込み作業が行われることの意味は、あんがいと罪深いのではないか?

ウィキペディアによれば、本通信隊は「アメリカ国家安全保障局」の隷下にあったというから、「軍」よりも上位だといえる。

そんななかで、一日あたり10万人程度という万博の入場者予測は、ショボい、のひとことなのである。
かつて横浜中華街は、平日10万人、週末なら一日あたり40万人という人出であった。
この時期の平日は、それでも閑散としてみえたものだった。

会場面積でかんがえたら、ひとがいないようにみえるだろう。

なんにせよ、シャトルバスに乗り込んでまでして行く価値があるのか?

もう35年も前になる、1990年の「大阪花博」は、総来場者数は2312万6934名であったことも念のため書いておく。

手に負えない「臨時休業」

たまたまだろうが、このところ「臨時休業」での肩透かしを連続して受けている。

わざわざ現地まで行って、シャッターに貼ってある「本日臨時休業」という一枚の紙に絶望感を味わうのである。

はじめて入店したとある「うどん店」では、そういえば昼時なのに電話が何本かあって、その会話内容を思い出したら「今日はやっていますか?」だったろうことを思い出した。
「ああ、こんにちは。やってますよ」という声が耳に残ったからである。

おそらく、何回か「絶望」を味わったうえでの学習効果なのだろう。
この通話を気に留めなかった自分が恨めしい。

「そうだったのか!」としても、後の祭りなのであるが、次回から事前の電話確認は欠かせないと当方も学習した。

しかし、これが片道100Kmほどの行程をとる店(味噌麹店)ならば、そのガッカリ感はまさに「天を仰ぐ」気分となるのである。

無論、ネット検索における「営業中」の文字を見てのことだから、恨みはいったんネットの表記となるのだが、「臨時休業」を登録する簡易な仕組みを提供していないのだろうか?と思いを馳せるのである。

そんな仕組みがあっても、店側の人間が無頓着なら仕方がない。

とはいえ、客としては無頓着でいいはずがないのである。
時間と経費が無駄になる、ということよりも、「得られるはずの商品を手にすることができなかった」ことのガッカリは、大袈裟にいえば人生の損失なのである。

どんな理由で「臨時休業」すると決めたのか?は、店の自由であるけれど、客にとってはいいはずはない。
「困る客がいる」ことをどう考えているのか?と、ききたくなるのである。

いささか逆恨みの感があるかもしれないが、そこまでの「商品」を売っていることの自覚のことをいいたいのである。

2006年に亡くなったマーケティングの大御所にして、いまなにかと話題のハーバード大学のセオドア・レビット教授による「ドリル理論」は有名だが、これは名著として名高い『マーケティング発想法』(1971年)の第1章冒頭に記述がある。

人びとが電動ドリルを欲するのは、「穴」を欲したから、という鮮やかな解説を、この「味噌麹店」に当てはめたらどうなるのか?

美味しい味噌が欲しい、ではないのだ。

教授は、「パンとダイヤモンド」の比較をしながら、「とっくに物理学者は物質の特性」を放棄したのに、わからないひとたちがたくさんいることを嘆いている。
パンとダイヤモンドは、どちらも「炭素」でできている。
では、人びとは、「炭素」が欲しくて購入したがるのか?ということではない。

これらの「効用」を欲しがるのである。

だから、この味噌店の味噌は素性がはっきりとした、大豆と塩、それに米麹を用いている、から欲しいのではない。
健康を気にすることからすれば、病気から逃れたい、と欲することが最大の理由なのである。
副次的に、「おいしさ」があるという順になる。

すると、この店の経営者は、自分たちが何を作って販売しているのか?という意味を理解しているのか?といった大問題につながるのが、客に予測不能な「臨時休業の決定」なのである。

それでもこんな文句を言ってもはじまらないので、やっぱり事前に電話をして確認することだということになる。

ときに、「ホームページ」を自分で運用しているのに、間抜けな情報ばかりで役に立たずイラっとするのが、「営業日と時間」の記載が最初に出てこないことがおおくあることである。

どういうわけか、「社長ご挨拶」といった、顧客にとってもっともどうでもいいことが最初にあるホームページを見るにつけ、残念な気分になるのである。

客は、その社長よりもずっと企業価値をしっている。

だから、いつの日に開いていて、それが何時から何時までかを「真っ先に」しりたいのである。
ページ内をさまよって、みつけるというレベルではない。

もちろん、電話番号を探させるようなホームページは論外だ。

できる「宿」は、ホームページにアクセスしたら、何の説明もなく、いきなり「予約手続き」に誘導される設計になっている。

これが、売れる(売る)、ための手段としてのホームページなのだ。

世に、いまでも大枚はたいてホームページを作成しているのに、ぜんぜん売れないと嘆く向きがあるのは、商品価値の哲学と、顧客心理をしないからなのである。

と、ぼやきはここまでとして、念のため事前の電話確認は重要なのだった。

食券を買う

いつから「食券」ができたのか?について調べると、『白木屋三百年史』にあることが、国会図書館の記事でわかった。

だが、記事によると本当の「発祥」は、日本でいう大正時代の半ばに「海外のデリカテッセンを参考にした」とあって、見本(食品サンプル)を見せて食券を販売したところ、回転率が上がったという。

その「海外」とはどこか?が、残念ながらハッキリしない。

おおむね、パリかロンドンだと推測するばかりだが、質問サイトにおいて、現在これらの都市で「食券」があるとの報告はない。
ただし、パリでは、「クーポン」があるというし、東南アジアのショッピングセンターにおけるフードコートでも「クーポン」は一般的だという。

これも、フランス支配の歴史の流れからなのか?

わたしの少ない海外旅行経験でも、たとえば朝食付きの予約をしたホテルのチェックインで、食券をもらったことはない。
朝食会場には、部屋の鍵をみせればそのまま入場できるからである。

しかし、日本のホテルでは、とにかく食券をもらう。

これは、「戦時経済体制」がいまも続いていることからなのだろうか?と疑いたくなる事例なのだが、野口悠紀雄『1940年体制』(1995年、以降いくつかの版がある)をみれば、けっして冗談ではないことがわかる。

つまり「配給切符」としての「食券」なのである。

もっといえば、「外食券食堂」のことで、「米穀配給通帳」制度共にでき、1951年に国の制度としては廃止されたものの、東京都では「民生食堂」の制度をはじめて(約500軒あったという)「抵抗」をしていたのである。

つまりなんであれ、日本人は、「食券がないと食堂で食べることができない」という訓練をされて、それがいまでも抜けきらない、ということなのだとかんがえられるのである。

そこで、大手外食店チェーンでも、まだまだ「食券」を販売する営業形態が残っている。

「白木屋」ならぬ、横浜育ちのわたしには、「横浜高島屋」の「お好み食堂」で、駅の切符のような「硬券」の食券を、あまたある券種からすごいスピードで取りだして、日付スタンプをつけて売っていたのが記憶にある。

これを、いまでは「自動券売機」でやっているし、決済方法にも電子マネーが加わったのだが、本質的な進化をしているのかどうかは微妙である。

たとえば、マクドナルド方式では、購入した整理番号で自動注文がされるので、客は表示版をみて出来上がったら「証明」として発行された食券と交換する。
これは、「駅そば」のチェーン店でも採用されている。

一方で、単純に「食券販売機」で購入した食券をもって係に渡すと、半券を証明として返してくれながら、そこでの発注となる「むかしながら」も残っている。
ただし、「自動券売機」がデジタル進化をしていて、豊富なメニューの整理が「機械的」なために融通がきかなく面倒くさいのである。

こうした方式の開発に、経営陣がどれほどの興味と利用者の便利さ提供へのこだわりがあるのか?が、見え隠れする。
逆に、自社の管理優先という思想も見え隠れするのである。

白木屋は「回転率が上がった」つまり、売上が数倍になったという効果を実感したろうが、いまの企業は、新規券売機の導入でいかほどの効果を実感しているのか?と問いたくなる。

それは、「売上だけ」をみているのではないか?という疑問につながる。

なぜならば、上に書いたように、「融通がきかなく面倒くさい」と感じたら、もうそのチェーンには寄りつかなくなるという客側の心理を把握していないだろうという疑念なのである。

すると、100年前の白木屋に劣ることを、現代の経営者はなんの疑念もなくおこなっていることとなって、その愚かさに呆れるのだけれども、自分の愚かさに気づかないことの愚かさに、まったくもってサービス業経営としの資質のなさを指摘せざるをえないのである。

この意味で、「工業化に成功した」というマクドナルドの開発方針にブレがない。

とはいえ、わたしがマクドナルドを利用するのは、「コーヒーだけ」であって、「工業的」な食品類は口にしないことにしている。

権威の自爆

「権威」とはなにか?を辞書で調べると、「第一人者」という意味と、「威厳としてひとをおさえ従わせる威力」という二つの意味が重なっていることがわかる。

むかし「平」のサラリーマンをやっていたとき、業務上のことで別の部署の上司に質問しに行かされて、直属の上司に「あの部長がこう言っていました」と報告したら、「馬鹿野郎!」と返されたことがあった。

誰が言っているからが理由だということをききに行けと命じた覚えはない。
どんな理由でそれが慣習化しているのか?ということを聞いてこいと命じたのだ、といわれて、もう一度同じ人物のもとへ行って質問したことがある。

すると、おおいに説明が困難で、慣習ではなく因習であることがわかって、結果として業務改善につながったということがあった。

以来、誰が言っているからという回答を、わたしも許さない上司になった。

あるとき、わたしが言っているから、という理由で役員会まで深い理由を問わない状況にあることに気づいた。
なんと、わたしが「権威」になっていたのである。

このことが、この会社を退社することにした理由のひとつになったのである。

これには、役員(取締役)になるような人物たちが、わたし程度の権威に従うことのヤバさという意味があるし、かつてわたしが怒鳴られた「正論」が、まったく企業文化になっていない特別な経験だったことに驚いたのである。

権威の反対語は「無権利」だと辞書にあるが、他人になんの影響力も与えないという意味であって、それは「浅はか」だという集団内での共通認識にもなる。

そんな無権利な連中が役員をやっている会社に用はない、と断じたのであった。

しかし、一方で、わたしは「権威あるまま」で退社したようなので、もう20年も経つのに、わたしの権威にすがりたいとおもうひとが残っているらしいのが、なんだか面はゆいのである。

ときに、そんな「権威」が、自爆する時代になっている。

たとえば、「ピューリッツァー賞」という、だれもがしっている世界的大権威に、トランプ氏個人が名誉毀損で訴えていて、この訴えを棄却するように反論していた「賞」の側が敗訴していたことがわかった。

つまり、裁判所は、トランプ氏の訴えに聴く耳があると判断した「だけ」なのであるけれど、報道者の権威だけではない存在の側が、個人の名誉を押しつぶそうとしたことに、一種の暴力すら感じとることができるものであった。

内容は、「ロシア疑惑」を報じた社が、ピューリッツァー賞に輝いたことの、「取り消し」を求めるものである。
なぜならば、民主党ヒラリー陣営が捏造した嘘物語がロシア疑惑であったと、すでに判明しているからである。

ようは、嘘を書いてピューリッツァー賞を得たのはおかしいから、「権威ある賞」として訂正と取り消しをする当然がある、という被害者個人からの訴えをなかったことにしようとしたのである。

じつは、ピューリッツァー賞の審査は、かつての新聞王ピューリッツァー氏の遺言によって、「コロンビア大学」が受託している。
ハーバード大学だけでなく、アメリカの主だった大学が「(極)左傾化」していて、総じて「親民主党(グローバル全体主義)=反トランプ」をむき出しにしている実態がある。

つまり、トランプ氏個人の訴えを無視しろとしたのは、コロンビア大学なのである。

この結果、ピューリッツァー賞だけでなく、コロンビア大学の権威も失墜している。
しかし、その原因こそ、「身から出た錆」にほかならない。

サービス業に従事する者なら特にだが、いったん失われた信用を取り返すのは至難の業であることをしっている。
「賞」というモノやコトも、サービスのひとつだから、いったん社会が疑いの目を抱くようになると、「最高権威」ほどキズが付くものだ。

キリスト教などの「契約宗教」による社会は、たいがいその契約には「死まで」という期限があるのは、結婚式における「誓いの言葉」にあることでもわかる。
しかして、遺言の厳密なる履行とは、「法治」の基盤によるものだ。
けれども、その「法」も、本来ならば神との契約に基づく構造にある。

コロンビア大学は、ピューリッツァー氏の遺言の履行すら裏切っているといえるから、これはまさにキリスト教の希薄化どころか社会基盤の喪失をあらわしているといえる。

なるほど、共産主義が宗教を敵視するように、これに染まった大学も、その権威の基盤を自ら放棄した結果がこれだとしれるのである。

ことの深刻さは、裁判どころの問題ではないのである。