ハンガリーは陥落したのか?

EU=グローバル全体主義と、反EU=ナショナリズム、の決戦と目されていた総選挙で、オルバン氏が16年間率いた反EU与党の「地滑り的敗北」をもって、EU委員長の魔女フォン・デア・ライエンは狂喜乱舞している。

世界は、二次元的な「保守v.s.左派革新」なる対立軸から、「グローバル全体主義v.s.ナショナリズム」の立体的な対立軸へと移行したことがハッキリした選挙であった。

今回の勝者は、「保守」政党ではあるが、「グローバル全体主義=親EU」であって、やはり、「なにを保守するのか?」の曖昧さがポイントとなる。

おそらく、EUからの経済支援を「保守」する、という目先の利益が勝ったのだろう。

むろん、露骨なEUからの選挙介入は、隣国、ルーマニアと同様であったはずで、マスコミはこれを無視して、トランプ政権2.0の「介入」ばかりを報じていた。

用意周到なトランプ政権2.0は、この結果をうけて、さっそく「プランB」に切りかえただろう。
そのモデルは、ジョージア(グルジア)だとおもわれる。

親EUの政権から、親ロシアの政権へと交替したというけれど、グローバル全体主義からナショナリズムへの逆転があったのである。
プーチン氏の思想は、明らかに「反グローバル全体主義」なので、トランプ政権2.0と相性がいいのである。

なので、いまのロシア=ソ連、という条件付けられた見方はまったくのナンセンスである。

トランプ政権2.0の人気の要を、トゥルシー・ギャバード国家情報長官(元ハワイ州選出の民主党連邦下院議員)がつとめているが、ハンガリー選挙投票日の直前に、たいへん重要な発言をしている。

それが、アメリカにおけるグローバル全体主義の推進者だった、オバマ&ヒラリーのコンビ(バイデンはその傀儡)による国家乗っ取り(第一次トランプ政権からの転覆計画)の「事実」を公表したことで、国家情報長官としてのこれら一味=関係者への「捜査=逮捕」を開始するよう司法省に促したのである。

わたしは、「軍法」の適用(国家反逆罪)ではないか?とかんがえるので、まだ「甘い」のだが、十分アメリカ国民には精神的「慣らし」となる段階に入った、ということだろう。

もっといえば、「古き良き民主党」を破壊して、共産主義をあからさまにしたのがオバマ政権だったし、ヒラリー・クリントンやらの戦争屋がおおきく貢献したので、「古き良き民主党(JFKまで)」の一員であったトゥルシー・ギャバード女史はここから離脱し、共和党トランプ派に乗り替えたのである。

一見、このこととハンガリーはかけ離れているように見えるものだが、EUのグローバル全体主義と地下茎で強くつながっているから、無関係どころのはなしではない。

情報を司法省に引き渡せば、あとは司法省=連邦検察の仕事であって、このタイミングでパム・ボンディ長官の交代人事があったことも、無関係ではないはずだ。
むしろ、本命は、「クラーケン」で有名になり、バイデン時代に弁護士資格を剥奪されたシドニー・パウエル女史の出番ではないか?とも噂されている。

しかして、手が空くトゥルシー・ギャバード国家情報長官は、つぎに欧州との黒い繋がりについての情報をあぶり出すのではないか?とおもえる。
ここで、ハンガリーやジョージア、ルーマニア、そしてモルドバといった国々でのEU主導「不正選挙」が、ベネズエラのマドゥーロ夫婦の証言とともに繰り出されるかもしれない。

なんにせよ、ハンガリー大衆の政治意識が、日本とは比較にならないほど高いのは、ハンガリー動乱も含めた「政治的弾圧」に対する苦く厳しい経験がそうさせているとかんがえる。

しかし、EUの押しつける諸策は、およそオルバン氏がことごとく排除してきたものなので、若い首相がこれから積極的にかつ全面的に「受け入れ」たらどうなるか?は、想像に難くないほどの「反発」を呼ぶのだろう。

英国のスターマーやフランスのマクロン政権のごとく、あるはジョージアのようにである。

それでもって、「再選挙」となるかは不明だが、新政権がレームダック状態になるのは、かなり早い時期になるのは簡単な予測である。

肉を切らせて骨を断つ、が現実となるのではないか?

なので、ハンガリーはより一層の激しい対立の場になるであろう。

従業員を幸せにしない伝統

明治以前の江戸時代から、官庁の真似をしたのが民間(商家=企業)であった。

武家の制度を商家も庄屋も真似ていたは、貧困化する武家が養子をだしたからである。
しかも、家(武家にとっては「企業」と同じく「ゴーイングコンサーン」を第一とする)を継がせるための兄弟がおおいのはふつうだったので、地領の庄屋に養子を受け入れさせるだけでなく、その配下の小作人にもさせて「血」をつなげていた。

明治の「近代」がはじまれば、たとえば、「予算(制度)」も、はじまりは官庁の「経費予算」からはじまって、それが「売上予算」として範囲を拡大した経緯がある。

それで、「売上予算」は未達でも、「経費予算」は100%使い切ることがふつうに民間企業でも行われるのは、元が官庁の業務管理のための「予算」という仕組みだからである。

収入予算が米の出来高に依存した江戸期、武士社会が「俸禄=家制度」を基盤としたから、これを商家も真似て、「分家=新家」を「暖簾分け」とした。

ただし、地領制の武家の方が先に行き詰まって、上で触れたように次男以下は長子(兄)相続にあっての夭逝対策(掛け捨て)保険扱いでしかないために、長子が成人したらその後の次男以下は養子に出るか生涯独身で嫁をとらず子孫を絶やすしかなかった。

「食い扶持」に厳しかったのである。

それで、武士同士の縁組に漏れた次男以下が自家の知行地の庄屋の養子にでもなればまだましで、そうでなければあっさりと小作人になるか出家の身となったのである。
ここが、ヨーロッパにおける「農奴(serf)」と決定的にことなるが、修道僧と似ていて出生の身分としての絶対が保証もされないのは、なかなかに厳しい社会であったともいえる。

だが、そこは実家の知行地でのことだから、小作人になってもそれなりの減免措置があったという。
それで、代が進むと実家との疎遠も進み、本格的な小作になるか、本家の男子がいないときに「血統」だけで呼び戻されることもあった。

皇統というところの、継体天皇、のごとくである。

こうして、元武士の小作人でも「学問」をして、もしもに備えていたのが、農村全体の教育普及に役立ったのであるし、それだけ「血統」を厳密に庄屋(田畑貸出帳簿)と菩提寺(過去帳)の二面から管理していたといえるのである。

なんにせよ、それぞれが皆貧しかったので、子供は早い時期から奉公にだされた。

この意味で、幕府が整備した「街道」と「宿場」における、雇用需要は、奉公人からしても有益だったといえる。
ただし、いまのような雇用形態ではないし、「口利きの親分」という地元に顔が利く有力者が君臨していたのである。

むろん、そういう人物は、奉行所やらと関係があるのがふつうだから、ときには十手を授かっていたろうし、天領(代官)ばかりか各藩にもコピーされた制度となっていたはずである。

それでもっとも単純な労働力をほしがるのが、「宿=旅籠」であったとは容易に想像できる。

男子は力仕事を伴う雑用、女子は文字どおりの女中であったが、場合によっては「飯盛り女=売春」も引き受けて稼いでいた。
それが盛んだったのは、武州の西端に位置した保土ケ谷宿(標準的に日本橋からの最初の宿泊地)で、主たる女中の供給源は隣の相模の国で募集されたので、「相模女は淫ら」との評が江戸で立つ。

昭和の終わりころまで、保土ケ谷宿には岡場所っぽい古い家がまとまっていくつか残っていた。

しかし、こうした「風習」は、街道伝いであっという間に伝播するものなのである。

そうやって、江戸から明治、そして昭和になっても、こうした仕組みは残っていて、旅館に雇われるひとたちの複雑な人生はそのまま尾てい骨のように残ったのである。

それでバブルが崩壊すると、たくさんの旅館やホテルの経営破たんがあったけれども、その際に複数の女将から、従業員のことはどうでもいいからわが家族だけは助けてくれ、といわれた経験がある。

これこそが、見栄の仮面が破れた瞬間だったろう。

しかし、現代は、経営に失敗した一家よりも、残る従業員の方が貴重な経営資源であるから、経営再生には従業員を再教育することが不可欠かつ最重要なのである。

その意味で、『駅前旅館』の文学性はかえって格調高いのである。

しかも、井伏鱒二が書いた『駅前旅館』の主人公が、万年番頭を社会的には「恥」だとする実情を表現し、なお、公的社会保障制度がなかった時代ゆえの将来不安と身の振り方を自ら模索するのは、漫然として生きていけるいまよりもずっと厳しいが人間らしさがあったことだとおもわせる「名作」になっている。

ようは、むかしは緊迫した自分の人生だったのである。

ちなみに、「駅前旅館」が収録されている、『井伏鱒二自選全集第五巻』には、「掛持ち」と「ある草案」の二作が、「旅館もの」の実験的作品となっている。

しかして、わが国を代表する誰もがしっている大手ホテルだって、戦後昭和の半ばまで、「従業員」を「雇員」といっていたし、それらの扱いはまるで「身分制」によっていたものであるから、上に書いた女将たちを決して嗤えない。

この意味で、豊かになった時代は、複雑な人生を完全否定して、なかったものにして無視するので、かえって行き場をうしなったひとたちには、はるかむかしより厳しい社会になっているはずである。

それでも、多様性が重要という綺麗事をいうのは、ずいぶんな人間の劣化なのだ。

武士が「家」単位の俸禄を失って、給料取りになっても、宿の番頭は歩合制で客引きをやっていたけれど、「名人」ともなれば基本給の10倍も稼いだというから、いまではありえないほどの実力主義である。

ために、評判の番頭は希望する条件で転社できたのだが、いつまで番頭稼業をやるのか?が切実な問題になるのである。

これはこれで、ボーナスを加えた年収も退職金も減ったいま、いったんは従業員になったものの、身の振り方をかんがえることがふつうになった現代は、よほど昭和の戦前社会にまで巻き戻されているといえるのである。

新年度がはじまって二週間。

いまや、「4時間退職」なる、超短期で、しかも「退職代行」をつかっての手続が流行っている。

そこまで個人が見切る企業組織とは何なのか?

少子による若者需要が企業存続のために必須であるはずなのに、あたかも使い捨てにできるのは、これはこれでずいぶんと「強気」ではあるが、業界として「選ばれない」ことが決定的常識ともなれば、やはりゴーイングコンサーンの達成は困難になるものを。

機密情報の大漏洩

フェイクニュースの本家筋たる「CNN」が、9日、大スクープを報じた。
流出したデータ量の単位は、「PETA:1000テラバイト」というめったに聞かない巨大単位である。

この記事を、いつものように「カナダ人ニュース」さんがまとめてくれている。

わたしの疑問は、なぜに「この日」で、犯人は「誰」なのか?である。

ようは、イランを含めた「世界的な地ならし」との関係のことであるから、以下、現時点でのわたしの「邪推」を書いておく。

まず、「誰?」についてである。

そもそも、インターネットは、アメリカ軍が開発したものであって、このネットワークの「一部」を民間に開放利用させたことが、現代のネット社会をつくったはじまりであったことをおもいだしておきたい。

だから、われわれがしっている公開情報としての「ネットの仕組み」とは、アメリカ軍からしたらやっぱりいまでも「一部」なのである。
しかし、その「一部」が巨大化して、あらゆるひとびとが利用しているので、軍の「サイバー部隊」も、基本的にはこの「一部」を監視しているとみてよいのだろう。

すると、この「一部」以外の、「軍専用レベル」はどうなっているのか?は、一般人にはしるよしもないこととなって、深入りはムダになる。

なので、まず、素人としていえば、犯人のハッカーとは、アメリカ軍のことではないか?と疑うのである。

しかし、どうして反トランプのCNNがすっぱ抜いたのか?は別の疑問である。

むしろ、トランプ政権2.0によるアメリカ軍将官クラスの大量解任と関係しているのではないか?ともおもわれるが、人事の恨みからのリークなのか?トランプ政権2.0の自作自演なのか?はわからない。

しかも、犯人は、「データの販売」を宣言していて、「サンプル」まで公開している。

対価の支払い方法は「暗号通貨」を指定しているところで、足がつかない、ということなのだろうけれど、「軍専用レベル」からの追跡もほんとうに不可能なのか?とおもうのである。

なんにせよ、政府レベルで「喉から手が出る」ほどほしい情報だろうから、日本政府の官僚はまずサンプルを読み込んで信憑性を確認していることだろう。

さて、一方で、「この時期」というタイミングのことである。

イランとの停戦合意から、パキスタンの仲介での「停戦交渉」は、このスクープから2日後の11日、イスラマバードではじまっている。
アメリカ代表団は、J.D.ヴァンス副大統領を筆頭に300人規模、イラン側も70人程度と、それなり、の規模なのである。

このブログでは、「世界的な地ならし」が行われている、という論をとっているので、ハッキリいえば規模はみせかけで、「出来レース=茶番」であるとかんがえる。
その「地ならし」の最終目的地は、中共、であると書いたとおり、ベネズエラ+キューバとか、ウクライナもイランも、全部、この最終目的地へ向かうための途中でしかない。

すると、本件は、いよいよ最終目的地の一部の切り崩しに到達した、という意味にみえる。

かえって、北京の沈黙がパニック状態を語っているのではないか?

ベネズエラの石油がとまって、イランの石油もとまれば、中共の経済は息もとまる。

それで、トランプ大統領の北京訪問は、3月25日に発表されたように、5月14日・15日と決まっているので、この1ヶ月が「勝負」のタイミングなのである。

おそらく、アメリカ側は、「犯人」から、すべての情報を得ていて、とっくに内容の解析に着手しているのだろうし、もう「終わった」からCNNにリークしたのかもしれない。

むしろ、「すべての情報」とは、発表されている何倍もの量だったのではないか?

そもそも、「PETA」単位の情報を、「犯人」はどうやって保存しているのか?もわからないほどで、わが家の「1テラ」環境ごときでは、ぜんぜん歯が立たない。

そんなわけで、アメリカの自作自演しかおもいつかないけれど、これを「機密」としているはずだから、情報公開されるのは今世紀の終わりになってからであろう。

なお、トランプ政権2.0が推進している「暗号通貨」が、「犯人」指定の方法であることで、またひとつ株を上げていることも敵対するFRBからしたら「いけず」なのである。

狂っている「トランプ発狂説」

トランプ氏の真骨頂は、「戦争をしない稀有なアメリカ大統領」といわれてきたのに、イラン攻撃でその「神話」が壊れたというショックから、「発狂説」まで飛び出している。

あまりの潔癖症である。

第一次政権での「暴言癖」に世界が驚愕したようにマスコミに誘導されたのは、短く切り取ることによって「突飛な発言」に加工したうえでの、「異常性」の刷りこみだった。
とくに、わが国の全マスコミがこれに同調したので、日本人に根拠なきトランプ嫌いは多数いるとおもわれる。

これに、事実としての「政権人事における解任オンパレード」が積み上げられた。
いまは、世界が注目するイランとの戦闘中なのに、アメリカ軍の「将官級」を多数解任する「粛正人事」をガンガンやっている。

むろん、トランプ氏の根にあるキャラクターは、京都洛内的「いけず」だから、東京を中心とする「関東の田舎もの」にはその真意を理解するのが困難な基本的問題はある。

気まぐれなトランプ氏が、気に入らない政権重鎮=高官の解雇を繰り返している、という作りばなしが上塗りされたのであった。

しかし、バイデンの4年間で、トランプ第一次政権内部の混乱の状況が、霧が晴れるごとくみえてきた。
ニューヨーク育ちで民間人だったトランプ氏は、ワシントンの官僚機構と共和党内人脈の薄さから、政権交代人事(約4000人)において情報不足の状態におかれていたのである。

ために、捲土重来の二次政権構想にあたっては、フロリダの別邸で私費による「影の内閣」的なスタッフたちと練りに練っていたこともしられている。

それが、昨年の就任日1月20日からの、前例にない「ロケットスタート」になった当然の理由なのである。
軍でも、バイデン極左政権の「軍改革」への対応として、いまこのタイミングで「ちゃぶだいがえし」をやっているのは、将官級の思想リサーチに時間をかけたのが理由であろう。

ときに、対イランでは、昨年の6月に「危機」があった。
B2爆撃機による、バンカーバスターを用いた「地下核施設爆撃」である。

これらも、どこまでが「茶番」なのか?と書いたのは、ロシアと組んでのことだったろうし、イランのハメネイ師は、もとより「核ミサイル開発不要」を公言していた最高指導者であったのだ。

なので、イラン内部でだれが「核開発必要」を推進しているのか?という大疑問がある。

もしも、ハメネイ師の居場所をアメリカ側に通報したのが、「核開発必要」側だとすると、これをやめさせたいトランプ大統領とも利害は一致しない。
つまり、ハメネイ師の去就には、むしろイラン内部の「核開発不要」側が関与してアメリカと共同でかくまっていないか?ともおもわれるのは「ベネズエラの例」があるからである。

それに、ホルムズ海峡封鎖も、アメリカがやっているのではないか?と前に書いた。

なにせ、海峡奥のペルシャ湾に、湾岸6カ国があるためで、これらの国々の石油と天然ガスが封じ込められてしまい、じつは消費国以上に彼らが困窮するのがみえているからである。
じっさいに、「砂上の楼閣」たるドバイの不動産価格は「絶望的」になっているし、イランが脅した「淡水化プラント」が破壊されたらこの地域で人間の生存はできなくなる。

つまり、トランプ政権2.0は、イランと対峙しているように見せかけて、湾岸6カ国を追いつめているのである。

何度も書くが、狙いは、「大アブラハム合意」だ。

しかし、イスラエルが、イランの石油施設を攻撃して、トランプ氏が「逆ギレ」した。
「戦後復興」の要であるから、温存していた、というが、これも「茶番」と「本気」の比にしては5対5ではないか?

本気の5は、ネタニヤフは、戦争を終えると「汚職で起訴された裁判がはじまる」ために、やめられない事情があることの、「重み」である。
もしもそうなら、トランプ大統領の「逆ギレ」には重大な意味がでてくる。

NATOに続く、イスラエル(むしろ「シオニスト」)との縁切りになるからだ。

「茶番」の5は、トランプ大統領の「逆ギレ」で、ネタニヤフは、イラン石油施設への攻撃はこれ以上しない、とあたかもいたずらっ子のような発言したことが根拠だ。

わたしは、「シオニスト切り捨て説」をもって、「大アブラハム合意」の条件付けに決定的となるから、こちらに分があるとかんがえているけれど、いかに?

なんにせよ、ネタニヤフにしても、トランプ政権2.0にしても、大懸案の地中海ガザ沖油田開発をしたくてたまらないための、「ガザ抹殺犯罪」がある。
エジプトが「仲介」をいうのも、目と鼻の先たるこの油田開発利権ほしさがあってのことであろう。

そんなわけで、トランプ大統領は発狂なんかしておらず、超次元立体パズル的な緻密シナリオのうえに立っているとかんがえるのである。

何度も書くが、「世界的な地ならし」をやっているという文脈でなら、かなり確実にその実現に近づいている。

そのひとつの要が、12日のハンガリー総選挙なのである。

この小国は、ヨーロッパ文明の中心ともいえた「ハプスブルク帝国」の一角にあって、ソ連圏にあったときも「ハンガリー動乱」(1956年)でしられる、筋金入りの「反全体主義」を信条とする国民が多数なのである。

EUの全体主義が嫌でたまらないことでは一致する、トランプ政権2.0があからさまな「応援=選挙介入」をやっているのは、EUの選挙介入がそのまま「不正選挙実施」の実績(昨年のルーマニア)があるからだ。

ときに、マーク・ザッカーバーグが率いる「Meta」は、オルバン首相の同社アカウントをバンしてEUの言論統制に加担している。

この選挙こそ、世界的な地ならしの成否を決める要なのである。

ギャンブルとショート動画の共通依存症

日本独自のお手軽ギャンブルといえば、「パチンコ」である。

いっとき、(西)ドイツや台湾でも大はやりとなったことがあったが、「釘師がいない」ことでの、「出る台」の確定でゲーム性が薄れ、たちまち廃れてしまったし、台湾では岩里政男(通称:李登輝)総統が廃止の決定をして話題になったものである。

ときどき、忘れたころにチラッと批判記事がでるのは、警察庁のキャリア国家公務員やらが大挙して天下る件である。
これが「カジノ」の件で、発展的(利権)拡大状態をつくりたいのであろうために、「ギャンブル依存症対策」なる表面的かつ綺麗事的対策をもってアリバイとしたいのであろう。

さいきんの脳科学の発達で、ギャンブル依存症の発症メカニズムが明らかになってきていて、どうやら脳への連続した緊張の刺激、たとえば、数字の回転結果と、ぜんぶが揃ったときの当たりの興奮とが学習されることで、脳内に麻薬物資に似た分泌が起こり、それが依存症に発展するらしい。

だから、パチンコにかぎらず、競馬、競輪、競艇などでも「負けた」ら(かならずプレイヤーが「負ける」仕組みになっている)、それぞれの負け分はその負けた分野で取り返そうとする心理がはたらいて、パチンコの負けを競馬で取り返すとか、あるいは、損切り、ができなくなるのである。

かたちはちがうが、ショート動画の連続視聴にも、おなじメカニズムが発生することがわかってきた。
経験者ならわかるだろうが、ショート動画を何本も連続して視聴していると、ほとんどの動画の内容がまったく記憶にのこらない、という体験をするらしいのである。

しかも、中毒性があって、いったん観はじめるとどういうわけか時間の経過を忘れてしまうのである。
それで、まったく記憶にのこらない、のだから、怖ろしい時間のムダ、をしていて、通信費のムダにもなっている。

当然だが、そのような動画の提供者には、それなりの収入があるので、まさにスポイトのように人生の時間資源を吸い取られているのである。

このために、スマホの機能には、視聴時間制限の設定ができるようになっているので、ついうっかりをなくすには便利である。

ただし、脳科学的には、脳の健康のためにも、観ない、に越したことはない。

しかして、このような「ソフト」な方法で、自身の脳が破壊されるのを自覚するには、年単位どころか数十年の年月を要するかもしれないし、はたしてほんとうに自覚できるのか?が保証されることでもなく、自覚できないままならかなり深刻な「痴呆」に陥ってしまうかもしれないのである。

むろん、もはや老若男女を問わない、「スマホ歩き」も、確実に脳が冒されている状態を他人が外から観た姿なのである。

むかしから、「ながら」がよくないとされたのは、みんな「お行儀」のことだけであったとおもいこんでるが、「自分の脳」が、自身の行動コントロールを失う機能低下状態に堕ちることをしっていたことからの「注意喚起」だったのではないか?

このように現代はむかしよりもはるかに極大化した情報入力の中毒にされていて、嵩じると、ほんとうに精神障害が「発症」するというおそろしいものなのである。

ようは、ギャンブルもスマホも、多数のひとたちが「軽度の依存症」をすでに発症しているのであるけれど、自覚症状がないという共通まであるのであった。

この意味で、かつてあった「活字依存症」は、はるかに健全だといえるのである。

戦後すぐに誰もが陥った、「活字依存症」は、いまとは逆に、極度の外部・社会情報がない状況におかれたときの人間が、情報枯渇のために発症したといわれている。

むろん、ラジオドラマで伝説の『君の名は』(昭和27年)が、放送時間になると銭湯の女風呂が空になった逸話があるとおりで、その後の「街頭テレビ」に群衆が集まっているのも、情報飢餓のベースがあっての現象だろう。

紙とインクが不足していたので、新聞も貴重だったのは、読んだ後も「紙」としての利用法がふんだんにあったこともある。
とにかく、新聞を隅々まで、場合によっては同じ紙面を何回も読んだのは、依存症、だったからだが、それから昭和の「出版」が花形産業になったのである。

すると、活字が氾らんして出版業界の斜陽がはじまったから、これからなにが起きるのか?と問えば、政府によるSNS規制検討が、つぎの全体主義社会の到来を告げる予兆となっている。

個人生活に介入したがる全体主義は、自然淘汰を好まず、政府によるコントロールを志向するからである。

その口実に、「依存症対策」という方便があることは、しっていていい。

人事のドライな文化

むかしからいわれていることであるが、主に、「人事」は日・米の文化比較のテーマである。

日本人の「血」のなかには、「組織とそのトップへの忠誠心」が根強く残っているので、それが希薄で(個人主義の徹底ゆえに)ドライなアメリカ人の発想に、明治以来の日本人は違和感を持ち続けてきたといえる。

感情でコントロールすることが第一ではないために、アメリカ人は「組織」でコントロールする方法を科学的に研究し実施してきたのである。

日本でも、近年の「合理主義的(無機質)な学校教育」における、アメリカ式のドライな文化にすり替えようとする「国際化」なる綺麗事に熱心なあまり、日本文化や歴史についての教育を省くことがふつうになって、「組織とそのトップへの忠誠心」を育む場は、主に体育系「部活」あるいは地域の「クラブ活動」などの団体行動に集約されているとおもわれる。

生活空間における「平等の絶対主義蔓延」で、家父長の地位転落もあって縦系列構造の空間が消滅したので、「敬語」が狂いだした。
母と娘の理想的な関係像が、「親子」から、「友だち」に変化してフラット化したら、「友だち」が「トモダチ」になっているのである。

よって、こうした体育系「部活」などでの体験で子供は「敬語」を学ぶことになっている。

むろん、縦系文化が絶対の「犬社会」で、「平等」なる概念は発達のしようもないために、主従関係を構築できない「愛玩目的」の犬が、飼い主の指示に従わないのも、人間の側の犬への理解不足が原因となっているけれど、商業主義からの「優しさ」を商品とした、「ハーネス」が、命令コマンドを伝達するのに向いている「首輪」の機能性を無視して「売れている」ことの主因の理由付けとなっている。

個人的に若い世代との交流がなくなって久しいために、よくわからない、のであるけれど、たとえば、『忠臣蔵』をこうした世代の日本人がどのように捉えているのか?にひとつの典型を見出すことができるのではないか?

すると、仮説として、若い世代の日本人が、『忠臣蔵』をしらないか、しっていても理解できない、ので、感動もない、のではいか?とすると、「世代間ギャップ」による、組織内でのさまざまな軋轢・葛藤の原因になっている可能性の指標となるのでは?とかんがえることができる。

なんに関しても外国の優位さにはまり込んだら、それを「かぶれ」と評してきたのが日本人であった。
漢籍や漢学にはまり込んだら、「漢心(からごころ)」といっていたが、明治からは「西洋かぶれ」になった。

この意味で、思想にも適用できるために、「マルクスかぶれ」なるいい方もありなのである。

さてそれで、トランプ政権2.0の重鎮たるパム・ボンディ司法長官が解任されたことが話題になっているが、その前から、「この(イランとの緊張の)時期」にもかかわらずアメリカ軍の「将官」たちが大量に解任されていることがさほどの話題になっていないことが、話題、なのである。

しかして、トランプ政権2.0で「解任」された長官級の最初といえば、サウスダコタ州知事から国土安全保障省長官に抜擢起用された、クリスティー・ノーム女史であったけれども、不法移民対策=国外退去の実績を吹き飛ばす夫との「汚職」が噴出するありさまになって炎上している。

ボスによる、「お前は頸だ!=You’re fired!」のひとことで解雇できる文化と、いったん正社員採用されたらほぼ解雇の対象とはなり得ない日本の雇用文化のちがいは、絶壁、にひとしい。

しかし、これも、トランプ政権2.0の「仕込み」だったかもしれないと妄想したら、歴代民主党政権時代の「汚職」解明の「撒き餌」にもみえてくるのである。

ノーム夫婦の汚職疑惑「だけ」が問題なのではなく、「地ならし」の発想からしたら、燎原の火となって「焼き尽くす」ことを意図していないか?とおもうのも、『旧約聖書』による「神」による「まちがった信仰」に対する怒りの炎に通じるので、プロテスタントらしいといえる。

これもまた、ウエットな日本文化にはない、ドライ、ゆえのやり方なのであろう。

日本人なら、トップの「任命責任」がまっ先に攻撃されるが、あちらでは、個人主義による個人の問題にされる。
判断意思・能力のある「成人=おとな」の所業は、その本人のセルフコントロールを当然とするからであろう。

この点で、日本的な「任命責任追及」とは、本人を「子供あつかい」にしているので、子供の責任は「おとな=トップだけ」にあると発想するものだ。

それが嵩じて、小役人が民間(大企業)のトップにも株主でもないのに「箸の上げ下ろしにも小言を言う」に直結するのが許されるのである。

では、はたしてどちらが有利なのか?と単純な「二択」にならないのは、根が深い「(歴史・宗教もふくめた)文化性」まで吟味したうえでの判断になるからである。

残念ながら、この点で、現代日本人は「子供」になっているのである。

それを、「名刺交換の場」を用いた、お笑いコンビを起用したCMのモチーフにしているから、この「作品」の製作者は「おとな」なのであろうし、その製作者を起用したもっと「上」も同様だといえる。

日本人にも例外はたんといる、ということである。

映画『喜劇駅前団地』の記録

「駅前」シリーズの発端は、井伏鱒二の小説から製作された『駅前旅館』(1958年)のヒットであったという。
それでも、2作目からは、原作小説はなく、「喜劇」が頭についてシリーズ化(全24作)された。

その2作目が、『喜劇駅前団地』(1961年)である。

舞台は、小田急線の百合ヶ丘あたりで、現代との比較をしているサイトがあった。

ロケ地の映像が、そのまま「記録映画」としての価値を持っているところが、このシリーズの現代的な貴重性なのであるし、むかしの映画を観る楽しみのひとつである。

しかし、景色だけが貴重なのではない。

人間の生活風俗やらもそのまま「記録」されているのは、観客自体が「同時代人」なので、無視はできないし、現実そのままであることで感情移入も可能となるからだ。

しかして、まず、タイトルにある「団地」とはなにか?を問うと、地縁も血縁もないまったく異なる別々のひとたちが移り住んでくる、現地の歴史からすると「想像もできない大変化」をもたらすものであって、そのコンクリートの塊群が一種の意思をもったかのような、まったくちがう文化をももたらす、よくよくかんがえれば怖ろしい存在である。

視点はことなるが、カフカ最後の傑作『城』と似たイメージを感じる。

そのまったくちがう文化とは、「近現代」そのものの合理的あるいは機械的な価値観であって、旧来のその土地土地の価値観を押しつぶすのである。

ようは、無機質な平準化、だ。

それで、むかしは「日活ロマンポルノ」で人気シリーズになったのが、「団地妻」(1971年、ロマンポルノ第一作)であったことの社会的合理性が理解できる。
また、現実に団地妻たちに覚醒剤が蔓延したことの事件性の根に、上の無機質な価値観との関係があるのは容易に想像できることなのである。

江戸が開闢して以来、地縁も血縁もないひとたちが江戸・東京に移り住んできたので、まさに、団地とは江戸であり東京の縮図であったから、それがまた近代化の象徴になり得たのである。

よって、現地人の「前近代人=地元民」との軋轢や葛藤がはじまるのは当然である。

そこに、本作では江戸期から続く「医院」がもう一つの現地として登場する。

1961年とは、国民皆保険の開始があった記念すべき時期であり、「保険点数表」は、その前の58年に「新医療費体系=統一単価」が導入されている。

なので、この映画における「医療」は、「端境期」における、森繁と左卜全演じる古い医者と、『夫婦善哉』の名残がたっぷりある、淡島千景演ずるところの新しい医者の混在状態すらも、記録されているのである。

気づけば、「名医」も「藪医者」もいなくなったのは、保険点数表の完璧な施行=デジタル化によって、医師の判断が点数表の基によるしか報酬とならないことによる社会主義の成果である。

つまり、患者たる国民は、保険点数表における「平均値」と「バラツキ」すなわち「偏差」の上でだけで診療・投薬を受けているから、かなり実験室のモルモットとおなじ扱いなのである。

この意味で、医療も工業化されたのが高度成長期といえ、現代はその完成の結果にある。

そんなふうに本作を観賞すると、はたして「喜劇」なのか?とおもえてくるのは、土地成金の逆転した親子関係や、食と農をどうするのか?といった、まったく現代的な社会問題の萌芽があっさりとした描写にあって、深刻性は打ち消してはいるものの、ハッキリとみてとれるからである。

65年が経過して、笑えない「喜劇」となっている。

「故人」資産のスマホが開けない

残念なことに、わたしの妹が亡くなった。

まっ先に困ったのが、故人と交友関係のあった人物たちへの連絡が、スマホのロック解除ができないために、どうにもこうにもならないことになったのである。

スマホの提供者側は、いまや、「スマートフォン=個人(情報)資産」と位置づけている。

それで、「事前」の準備をユーザーに呼びかけて、本人から指定されていれば比較的スムースに「ロック解除」が可能なようになっている、という。

けれども、この「事前措置」をしていなかったら、かなり絶望的な状況になってしまう可能性が高まるのである。

本稿では、この理不尽な状況が、どのような観点から「つくられてきた」のか?を考察してみたい。

そもそもの原因に、「個人情報絶対主義」がある。

しかし、その「絶対主義」の源泉に、狂人ジャン・ジャック・ルソーの狂気にみちた思想があった。
それが、「アトム化」である。

「アトム」とは、古代ギリシャ哲学でいう、「原子」のことで、現代科学の「原子=陽子、中性子、電子などの量子からなる」とはずいぶんとちがう、「原始的な独立したツブ(粒)」をさす。

それで、ここから、マルクスとエンゲルスの「唯物論=共産主義」に発展するのである。

ここから、ルソーは、個々の人間も、社会から切り離してみたときの「個人」としての存在自体を、「アトム=粒」として規定したのである。

人間を「粒」=「物体」としてしかみないゆえの、「絶対的平等」の甘言は、高級マンションに暮らし、外国製高級車を乗りまわす上野千鶴子が唱える、「みんなで貧乏になりましょう」なる暴論(支配者の贅沢と被支配者の貧困を目指すという意味)そのものなのである。

これは、世界経済フォーラム(ダボス会議)の主張でもあるから、国境を無視する共産主義こそが、グローバル全体主義の根幹である。

この意味で、さいきんの「経済物理学」=経済現象を物理学的な手法や観点で解明しようとする学問、と位置づけられていて、「ビッグデータ解析の重要性」もここにつながっているけれど、「個=粒」を集めて「粒が集団で流体行動する」という観点そのものは、共産思想を基にするともいえるのである。

わが国で「個人情報保護法」が全面施行されたのは、2005年の4月からのことであった。

「自民党をぶっ壊す」とかという、短いフレーズの繰りかえし(典型的なプロパガンダ手法)を得意とした、「変人」小泉純一郎内閣のときである。
しかし、この内閣以来、自民党は「日本をぶっ壊す」努力を重ねてきた、じつは極左政党に変容して、とうとう共産党まで呑み込んで共産党の衰退にみえる相対現象になっている。

これは、たとえばいまでも「保守政治家」と見なされている安倍晋三内閣を、左派が嫌って、「安倍政治を許さない」と叫んでいたこととの矛盾にもみえるが、じつは、安倍晋三内閣の本質が左翼政権のために、旧来(本家)左翼が行き場を失ったことの「恨み節」なのである。

そして、この「個人情報保護法」の極大解釈が社会常識に転換される、わざと、が学校や職場の「まじめ」さを政治的な「空気」にかえることで、「卒業名簿」や「町内会名簿」に住所や電話番号が不記載となり、いよいよ隣の人はどこの人?となる、「アトム化」が普及し、都会における「地縁」が消滅して「郷土愛」が文字だけのものになったのである。

90年代からはじまった、「携帯電話=ガラケー」で、ドコモが「iモード」サービスを開始したのが年代最後の1999年のことである。
そして、「個人情報保護法」の極大解釈が浸透をはじめた2008年に「iPhone」が日本発売となったのである。

スマートフォンは、これ一台で電話帳・住所録はもちろん、メモから録音も可能だから、家庭に配布されていた「電話帳:ハローページ」が消滅し、かつては玄関に設置の黒電話の横にどの家にもかならずあったし、家族共有だった「紙」のインデックス付き「電話連絡帳」も消えたのである。

こうして、「家族共有」の破壊が進んで、「アトム化」はますます広く・深く進展し、とうとうスマホが「個人(情報)資産」となったら、「故人」情報になったとたんに、こんどは家族(遺族)も、やすやすとアクセスできない「過保護」な設計になっている。

すると、もっともかんたんな「故人情報」を開ける方法は、信頼できる家族・友人やらと、相互に「アクセス・コード」の交換をしておくことに尽きるのである。

それがまた、それぞれのスマホのデジタル記録となっても、自分だけでない他人への「交換」というアナログが、「もしものとき」にもっとも安全・安心だという結論となって、何のことはない、やっぱり人間は「アトム」なんかでは生きていけない動物なのだと確認することができる。

むろん、仕込まれた「コロナ禍」も、アトム化の手段であったので、わが国における「村八分」の伝統(どんなに社会的に制裁されても、火事と葬式だけは除く)すら破壊する、「家族葬」がこれまた普及して、「葬儀」という人生最後の「式典」すら奪われている。

そのまた元凶に、「故人情報」が家族にもわからないために故人が呼びたいかもしれない交誼のあったひとたちへの連絡を不能とすることが、人為による社会の「仕組」にされていることに気づくのである。

つまり、「家族葬」とは、「アトム化」の追い込み猟(漁)成功の結果としての「追いつめられた姿」で、隣近所との交友・交流も破壊しているひとつの姿なのである。

さてそれで、最新の量子力学から、ロジャー・ペンローズ『量子脳理論』の発展で、『死は存在しない』なる仮説が解明されたら、アカシックリコードとの関連も含め、「知らぬが仏」が完全否定されるときがくる可能性がある。

これが、「アトム化」を雲散霧消にして、「お天道さまがみている」の常識回帰となれば、いよいよ「故人情報」を開けるための人的繋がりに重きを置くような社会となるにちがいないであろう。


『ルックバック』と『戯作三昧』そしてヴェートーベン

「雅楽」について、石田多朗氏と高橋弘樹氏の対談動画がおもしろい。

終盤、互いに製作者としての「産みの苦しみ」と「恍惚感」について語る場面では、一種の「神がかり」状態についての体験談になっていて、わたしもおおいに共感できたのは、企画屋(組織内官僚)としてそれなりの感覚をあじわったことがあるからである。

個人的体験でいうと、この境地にいたるには、石田氏が語る「うんこが漏れそう」とまではいかなかったが、本人の意思ではないのに極度の緊張をもたらされた中学校での生徒会長立候補の立ち会い演説会を経てからの生徒会運営における、これまた困難の連続経験であったし、高校では予算委員長をやらされたときの、カネにまつわる同輩たちの貪欲さに辟易したこともある。

大学ではそれなりに歴史あるクラブの会長(第24代だった)になって、やはり組織運営の困難=人間集団との葛藤にみまわれて、日々七転八倒するような目にあったのである。

それゆえに、しぜんと「人間」についてかんがえるようになって、予算におけるコントロールの妙を得たのは役所でのアルバイト勤務での経験となったのである。

それが、後になって企業内における昇華となり、コンサルとしての目線になった。

本稿冒頭の対談における高橋氏が語る好きな小説に、芥川龍之介の『戯作三昧』が登場し、これに石田氏が、藤本タツキの『ルックバック』との共通性を指摘する。
わたしには、もっと絶望的で救いのない、山本周五郎の『虚空遍歴』をイメージさせた。

なお、『ルックバック』は今年、是枝裕和監督の下、実写版映画として公開される予定である。

この対談における石田氏の、「雅楽の聴き方」もまた興味深い。
なにせ、「自然」を相手にしているので、人間の聴き手を相手にしていないのだから、空や海をみるような気分で味わうものだ、という。

雅楽に用いる楽器自体は、それぞれがバラバラに伝播したというが、これを日本人はまとめて用いることとして、なお、楽器の進化を禁止した。
まったく西洋の楽器の進化と、人間を相手に聴かせる目的との真逆がある。

それがまた、西洋人にはない感性の「幽玄」となるから、まったくもってむかしの日本人は「死の世界」と「現世」とを自由に巡っていたのである。
そうやって、室町期に観阿弥と世阿弥の親子がでてきて、「猿楽」を「能」に昇華させ、「幽玄の世界」をひとびとに目撃させた。

江戸も後期になって、上田秋声が『雨月物語』を書いて、戦後の昭和に溝口健二監督によって実写版映画となった。
西洋の「怪奇小説」とまったく趣が異なるのは、「雅楽の思想」を原点にもつ日本の特異が改めて確認できるからなのである。

この映画のサウンドトラックは、早坂文雄による、やっぱり「雅楽」と「邦楽器」の融合でつくられている。

すると、佐藤究の『幽玄F』も、日本人にしか書けないだろう。

しかして、西洋人も「産みの苦しみ」と「恍惚感」はしっている。
それが典型は、ヴェートーベンで、聴力を失っても絶対音感のために作曲に没頭できたのは、神からの試練なのだと悟ったにちがいない。

石田氏によれば、雅楽にかぶせる洋楽の奏者はみな絶対音感をもっていて、西洋音楽のピッチ(A=440Hz)と決定的にことなるA=430Hzでの演奏ができるのだという。

ヴェートーベンがたどり着いた境地として、彼なりの「幽玄」表現が、「第九」以降の「弦楽四重奏」の作品群になったとおもえるのである。

すると、ヴェートーベンの弦楽四重奏をA=440Hzで演奏するとどうなるのか?に興味が向く。

高橋弘樹氏は、どうしたら雅楽をもっと。。。というが、日本人に「日本人とは何者か?」という原点を教えることがもっとも効果的なのだろうとおもわれる。

文字による古典文学よりも、古典音楽の音色の方が、より高度な精神性を含んで保存されている可能性があることに気づいたのはおおきな「収穫」であった。

「船舶保険」に言及しないメディア

日本「関係」の船舶が、2隻、ホルムズ海峡を無事通過した、としてニュースになっている。

どちらも、商船三井がからんでいるのだが、例によって意味不明の誘導情報なのである。

まず、国際貨物船舶には、「船主」と「荷主」の、立場のことなる「主」が存在し、それぞれが「保険に加入」しないと「運航」できないのが業界の常識である、と説明しない。
それに、船の所有者である「船主」が、建造した船の「戸籍登録」をどこにするか?は自由なので、「税金やら規制の緩い国」にするのがふつうだから、船主が日本人でも船籍が日本とはかぎらない。

保険の大元は、英国の「ロイズ:Lloyd’s of London」であって、さらに、個々の保険には「再保険」がかかるので、その再保険を引き受ける「再保険会社」というものが世の中に存在する。

そうやって、リスク分散をやっているのである。

「船籍」についてもう少し書けば、本稿冒頭の、「関連」とはずいぶん大雑把な概念で、おおくの船主は、上に書いたように「便宜置籍船」なる、税制や規制の緩い国の「船籍」にすることで、船主の国籍がどこであろうが、「便宜的」に船籍を置いた国の「旗」を掲げて運航される。

これが、いまでは衛星システムを通じて公的に認識できるようになっている。

しかして、よしんばイランが海峡封鎖を軍事的にやっているとして、その「国旗」を認識・識別することで、攻撃対象から外す友好国の船か?攻撃対象とするかを判断することは、そもそもできない。

よって、あたかも日本「関係」の船舶がホルムズ海峡を無事通過した、というのは、ほとんどなにを意味するのかわからない「ニュース」なのである。

むしろ、これらのほかにも海峡通過に成功した船舶は、いったいどんな「保険に加入」していたのか?が、重要なニュースである。

アメリカによるイランへの攻撃開始をうけて、「ロイズ」は、一方的に「12倍」の保険料を設定し、その後も10倍率で値上げしたので、ちょっと前の100倍以上となった保険料支払を躊躇した「船主」と「荷主」が運航を止めたから、おおくの船舶がペルシャ湾内に留まっているのである。

上のリンク先でも書いたが、3月3日にトランプ大統領は、アメリカ政府による「新しい保険の提供」について、具体的な指示をだしたことがちゃんとニュースになっているのだ。
すると、運航を開始したのは、アメリカの新保健が適用されているのか?それともなんなのか?となるのである。

つまり、ベッセント財務長官がトランプ大統領の1日の演説をうけて、2日に、「X」にあげたように、トランプ政権2.0はロイズや再保険業界(典型的な「国際金融資本」)と真っ向対立しているなかでの2隻の海峡通過「現象」なのだとわかるけれど、その重要な理由をまったく商船三井も公表していない。

今回の報道の対象となった日本「関係」の一隻は、イランが指定した「安全航路」を通過したのであるが、もう一隻はこれを無視してはるか南のオマーン側を無事通過してみせた。

それを、前者は「インドとの責任分担」があるLNG船であるとし、後者を「オマーンとの責任分担」があるとして、あたかもイランが、対岸でかつ「(アメリカ・イスラエルとイランとの)仲介役」を引き受けているオマーンに忖度したかのうような「解説付き」としたのが、まったくの「蛇足」にきこえる。

この場合の「責任分担」とは、「船主」としてなのか?「荷主」としてなのか?が混じっていて、不透明かつ曖昧ないい方で、やっぱり日本「関係」に視聴者の関心を向けさせたい意図がみえてくるのである。

それは、イランが親日だから、という方向(印象)づけのことである。

また、ほかに通過した6隻がみな「インド」だということも、「インド船籍」という意味合いがおおきくて、「船籍」では攻撃理由の決定判断材料とはならないことと矛盾する。
これらがインド船籍であろうがなかろうが、運航している理由としての「保険加入条件」に、ロイズの要求を呑んだのか?否か?に重要な意味があるのである。

シェークスピアの、『ベニスの商人』で、「破産」についてなにが語られているのか?を読めばわかるし、シェークスピアは英国人であることを思い出せば、「ロイズ」が近くに感じるだろう。