FIFAとは何者か?の疑問

2026年サッカー・ワールドカップが11日から7月19日までの日程で開幕した。

開催地は、アメリカ、カナダ、メキシコの共催となっている。

その直前、アフリカ大陸ナンバーワンの審判、ソマリア人のオマル・アルタン氏が、アメリカ入国ビザを持ちながら、11時間にわたる入国審査の結果、入国を拒否されたことが「差別」だとしてトランプ政権2.0へのお決まりの批判となっている。

むろん、トランプ氏が損害賠償を求めているBBCの、懲りない編集方針がみてとれるので、エンタメとして楽しむには丁度いい。

サッカー・ワールドカップも、オリンピックも、所詮は暇を持てあますヨーロッパ貴族たちのためのエンタメなのである。

ちなみに、アメリカでは入国ビザは国務省が発給し、入国審査は国土安全保障省が担当している。
わが国では、ビザは外務省、入国審査は法務省の外局たる出入国在留管理庁が管轄しているので、アメリカと近い。

そもそも今回の「事件」は?というと、どうしてサッカーにそれほど熱心とはいえない「北米」のアメリカとカナダが共催地となったのか?に話がさかのぼる。
ここから、FIFAという組織の決定判断が疑われるけれども、体質的に国際オリンピック委員会と似ているのではないか?ともおもわれるのである。

つまり、腐敗の体質である。

それで、最終トリガーとなって顕在化したのが、オマル・アルタン氏の入国審査結果、であった、といえる。

昨年から、アメリカのミネソタ州ではソマリア移民たちによる「公金詐欺事件:470億円規模」が、ソマリア系連邦下院議員のイルハン・オマル女史周辺にも及んで、一大政治スキャンダルに発展しているし、2024年大統領選挙では民主党の副大統領候補だった同州知事のティム・ウォルズの不法行為疑惑に拡大しているのである。

つまり、民主党の組織犯罪が捜査の対象になっている。

そんな状況下でも、FIFAは、大会開催目に審判団をフロリダに集合させることを決めていた。
フロリダ州は、トランプ大統領の別邸がある拠点地であるから、入国審査が厳しくなることも事前に当局との協議事項にならないはずがない。

だが、FIFAは、なにもしなかった。

しかして、ソマリアは海賊が有名であるが、「アル・シャバブ(「若者」の意)」というテロ組織があって、これはあの「アル・カイダ(「拠点」の意)」と連携していることでしられている。

アメリカ入国にあたって「オマル・アルタン」で入国審査官が検索したら、「アル・シャバブ」の幹部に、同姓同名がヒットしたという。
それで、本人への長時間尋問となったが、疑惑が晴れないために入国拒否の決定となったのである。

表の顔は国際サッカー名審判で、裏の顔はテロ組織幹部という、なんだか『必殺シリーズ』のような展開になった、ということなのだ。

すると、本件で本人への援助もなにもしないばかりか、なぜに審判団をアメリカに集合させたのか?となって、FIFAは、なにをしたかったのか?という疑惑になるのである。

なににつけてもトランプ政権2.0を批判したいマスコミは、ここぞとばかりオマル・アルタン氏を被害者として協調しているが、真実の追究がないのはいつもの通りだから、本件も含めて一般人にはエンタメとなっている。

なんにせよ、トランプが悪い、というイメージが刷り込めればそれでいいからであろう。

いまいちど世界地図をみれば、アデン湾をはさんでイエメンの南に位置するのがソマリアである。
アラビア半島のホルムズ海峡と双璧を成す、紅海と地中海を結ぶスエズ運河の入口にあるバブエルマンデブ海峡がひかえる戦略上の重要地域なのである。

ヨーロッパ貴族によるちょっかいが気にかかる、トランプ政権2.0への攻撃が目的なのか?とも疑っていい話であった。

普通ではない不公正な選挙

20世紀になってから、民主主義国家では「普通選挙」が普通になった。

だが、「普通」とは、あんがいと普通なことではない。

生活で身近な「普通」に、たとえば高校(「高等学校」とはいうが、じっさいは「後期中等教育」と定められている)の「普通科」でいう「普通」とは、「職業科」とか「専門科」と区別しているし、その意味は「一般的:基礎的な教科を幅広く学ぶ」ということになっている。

なので、さらに進学をするのなら、その学びの「土台」となる基礎学力を得ることを目指すのが、本来の設置目的となっている。

生活に密着した「普通」の別の例に、「普通電車(列車)」がある。

これは、乗車券だけで乗れるという意味の「普通」で、路線にある全部の駅に停車するために、誰でも乗車できるから「普通」なのである。

ちなみに、陸上自衛隊でいう「普通科」とは、「歩兵」のことである。

しかし、歩兵が「普通」なのは、地上戦における主力だからであって、陣地戦やら占領地域の拡大・確保など、戦争においてもっとも重要な要素を担当している。
むろん、地上部隊が軍政を敷くのが「普通」だから、GHQを率いたダグラス・マッカーサーも、普通科のトップだといえるのである。

わが国では、日本国憲法第15条3項に、「公務員の選挙については、成年者による普通選挙を保障する」とあって、選挙には普通選挙以外の方式があることを示唆している。
ここでいう「普通」とは、すべての成年者に選挙権、被選挙権を与える、という意味の普通である。

ざっと大正時代までは、財産による選挙権・被選挙権の制限があったし、性別による制限も昭和20年まであったのである。

公務員を選ぶ選挙(公職選挙)が、公正に実施される、と信じるのは、選挙管理委員会なる公務員への全面的かつ無条件な信頼があってのことなのであるが、それがしっかり実行されると担保するものはなにか?を問うと、あんがいとユルユルなのである。

むろん、町内会や自治会が、区役所や市役所などの「下位組織」として扱われているので、選挙のときも実務は町内会や自治会の会員たる住民が「お手伝い」をしている形式となる。
けれども、この「お手伝い」さんたちが、ある意志のもとで一斉行動したら、選挙管理委員会から派遣される役人のしったことではないことも行えるのである。

その姿をも描いたのが、『原子力戦争』であった。

さてそれで、わが国をして上の疑問があるのだから、ましてや外国をや、となる。
アメリカの2020年大統領選挙における「不正」は、いまや陰謀論ではない現実の出来事として社会問題となっており、官憲による捜査・逮捕・起訴がはじまっている。

邪悪なEU委員会の露骨な介入は、アメリカで民主党による組織的なでっち上げが証明された「ロシア疑惑」そのものをコピーした噴飯があるが、それでも、モルドバ、ルーマニア、ハンガリー、アルメニアでは、白昼堂々の不正が認められるものであった。

ちなみに、A.I.は、これらの選挙不正の真犯人はロシアだとして、それに対抗したEUを正当化する大ウソがプログラムされている。

今年予定の選挙で、大注目なのはアメリカの中間選挙とイスラエル議会選挙である。
おそらく、イスラエル議会選挙の方が9月頃とみられるので、アメリカの中間選挙より先になることも、タイミングとして中間選挙に影響するとかんがえられる。

そこで問題なのが、ネタニヤフ政権のゆくえ、なのである。

はなから「連立政権」であるが、連立を組む「正統派ユダヤ教政党」が、とっくに離反をはじめているばかりか、前に書いたように、イスラエルの人口構成で最大となっているのが、ロシア系移民なのである。

つまり、ネタニヤフ政権が終わる可能性が高い。

このことが意味しているのは、「大アブラハム合意」の現実化への重大な布石となることだ。

さすれば、前人未踏の「中東和平」の実現に大幅前進となる。

一方で、ネタニヤフ氏には「汚職裁判」があって、政権を失えば「有罪」となる可能性まであるために、いかなる不正を考案するのか?となるが、国民の厭戦気分がトドメを刺すことになるのだろう。

それにしても、「普通」な選挙とは、幻想なのかもしれないのである。

「自分探し」の蟻地獄

世間や他人との協調のために自己否定し、自分を見失う人間ばかりの社会となっている。

集団主義的=全体主義的社会で、管理と支配がしやすいのは、確信的偽善で善意を訴えることができる、すなわち、偽の道徳、をもって本人に自主的な行動だとおもわせるメカニズムが作動するからである。

それでも自分は何者なのか?という根本的な不安が解消されるわけでもないのは、そもそも自分とは何者なのか?は「自分ではわからないもの」だからである。

このブログでは、ときたま「量子論」にまつわる話題を書いているが、「量子もつれ」が実験で確認されて、いよいよ「わからないこと」がわかってきた。

たとえば、量子の中の「電子」が原子中のどこにあるのか?についての大議論で、電子は確率論的にあることはある、けれど、どこにあるかは特定できない「重ね合わせ状態」にある、というのが結論なのである。

このことが、「原子」のなかの実際なので、地球も含めた宇宙の物質は全部この結論に従うこととなっている。
むろん、人体も物質のなかの一部だし、脳が量子コンピュータかもしれないことで、「意識」すら、量子論の議論のなかにある。

つまり、「自分とは何者なのか?」とする「(自己)意識」も、電子が原子の中のどこにあるのか?とおなじく、どこにあるのか?という問題となっているのである。

だから、肉体を失った瞬間(つまり「臨終」のとき)、意識はどうなるのか?をかんがえることになって、さいきんの仮設では、「意識=重力」だという議論まである。
臨死体験と量子論が近接していて、とうぜんに宗教(教義)とも関係する。

まったく、『マトリックス』で表現されたごとく、個体の幻想が共鳴・共振によって全体の共通認識になっている世界なのである。

すると、「自分探し」をしたいなら、量子論を学ぶことがもっとも近道なのである。

自分とは何者なのか?という問いは、宇宙とはなにか?とおなじ問いになるからである。

ニートになって家でボンヤリと自分とは何者なのか?を問うならば、おなじ時間をつかって、量子論の勉強・研究をした方がいいというのは、ニート生活を否定したいからではなく、それが実利にもなるからだ。

その思考過程を文学にしたら、アシモフを超える作品が誕生するかもしれない。

かつての「登校拒否」が、いまは「不登校」といわれるようになったけれども、いまだ不登校を選択した子供の方が異常視されるのは、多勢に無勢の絶対的民主主義だからか?
もしや、不登校の方が正常で、毎日他人から管理されに登校できる方が異常ではないのか?と思考実験したら、量子論のごとく正常と異常のちがいの曖昧さに気づくのである。

だから、管理したい側は、管理される側にあたかも自由があるがごとく宣伝する。

しかして、管理される側は異常値やら統計的な外れ値に敏感となり、自己責任の判断で、管理する側が定た正常値の範囲に自分をおくように努力することになっている。
それでもって、異常値あるいは外れ値にあると管理する側からの指摘によって、順応するのか拒否するのかという二択を迫られるのである。

以上のようになっているものだ、と認識すれば、「自分探しの強要=自分らしさの追求」とは、じつは管理側に都合よく「ふるいにかける」行為なのである。

その管理画の意図とは、当然に全体主義社会に変革することである。

そうやって、絶対王政ならぬ現代の絶対民主主義によって、管理される側は蟻地獄に落とされるのだが、そんな状況を「自ら率先して選んだ」ということにするから、まったくの蟻地獄なのである。

これを、1906年(明治39年)に、夏目漱石が『草枕』の冒頭に書いた。

こんなことを、6年前にも書いていた

ラッキーな人手不足

「不足」をどうするのか?

これがほんとうの「発明の母」なのである。

たとえば、70年代から80年代の「激動の時代」は、それまでの惰性(高度経済成長も)とちがって、世界的な「不足」を原因としていたことはまちがいない。
わが国と西ドイツ(当時)を潤した高度経済成長は、西ヨーロッパの戦役被害復興と、東ヨーロッパがソ連に分断されて生じた「物不足」が原因であった。

しかし、新しい時代の70年代から80年代には、そのモノづくりのための基本的ね資源である、アメリカドルの信認が揺らいだことと、ほとんど同時におきた石油ショックで、とにかく「石油(エネルギー源としてと素材原料として)」が不足したのである。

ちなみに、アメリカでは1930年代に「人手不足」が起きて、そのために「経営革新」が行われたのだった。

ところが、70年代から80年代のアメリカ人は自国内の油田を掘りまくって中東からの石油依存を減らす一方で、「ペトロダラー」を発明して、ほとんどタダで中東の原油を手に入れることにも成功したら、「省エネ」が吹き飛んでしまった。

不足を充実でカバーする安易さが、傷を深めることとなったのである。

タダで中東の原油を手に入れたとは、FRBが印刷した紙切れのドルを決済につかいまくったことをいう。
それがつぎに、「オイルダラー」となって、さらにヨーロッパでは、「ユーロダラー」に姿をかえて、アメリカ一国の経済政策効果を薄めたのである。

対して、ヨーロッパに属するドイツでもない非力なわが国は、ドルと石油のダブルショックをまともに受けるはめになった。
それが象徴が、トイレットペーパー騒ぎであり、「経済の福田」を自称していた自信過剰の福田赳夫が「狂乱物価」と迷言を吐いたのである。

しかして、当時のわが国は「光化学スモッグ」が子供を襲い、体育の授業での校庭で生徒がバタバタ倒れる事件が頻発していた。
そこで、ホンダがクリーンエンジン開発(排気もクリーンだが燃費が驚異的の省エネ)に成功したことで、「世界のホンダ」となる。

むろん、日本政府(通産省)は歴史的にホンダの自動車事業を妨害していたが、このエンジン開発にも茶々を入れていたほどであった。
この役所は、とにかく経済成長に役立たないためにある。

ところが、イラン革命(第二次オイルショック)で、さしものアメリカも省エネに走らざるを得なくなって、ホンダの小型車が世界を席巻することとなった。

ひとの手柄を盗む癖があるのが役人だから、あたかも日本政府・官僚の優秀さの証明のごとくの自画自賛たる宣伝を国民にやって洗脳したのである。
ホンダには「忸怩たる思い」があるはずだが、適度に役人をヨイショしないと、またどんなイジメにあうかしれないから知らんぷりをしているのだろう。

逆に、今日、ホンダが苦境にあるのは、役人のいうことをそのままに、EVシフトしたから失敗の憂き目をみているが、これを「経営責任」と一刀両断にするのが役人のこれまた責任逃れなのである。

忸怩たる思いをしたくない、というのがリスク管理だと勘違いする精神の弱さが、本田宗一郎の哲学を無視させたことが最大の原因なのであろう。

そんなわけで、「不足」には、「どうするのか?」を根本的に対策すれば、大きなビジネスチャンスになることは、歴史が証明している。

いま、「人手不足」をいうなら、その根本対策を発明したものが成功者となる。

けれども、人手不足だから外国からの移民をもって埋める、という対策は、もっとも安易なものなので、外国人人材紹介業なる一部にしか恩恵がないし、一般国民の社会福祉の向上(たとえば治安維持)にも寄与しない。

それで、次元のちがうA.I.に業務をふれば人手不足が解消するという幻想に惑わされて、サラリーマンが社長をやっている「無責任体質」の企業(おおくは大規模模投資が可能な「大企業」)が、なんと新入社員の採用数抑制までやっているのである。

しかも、わが国の大企業は発行株式のおおくを外国人投資家に買われている実態がある。
なお、金融機関等による「株式の持ち合いを禁止」したり、「自社株買いの解禁」をしたりしたりしたのは、そのための準備であった。

この政策も、経産省=自民党(アメリカ民主党の手先)が積極的に展開したものだから、彼らの本質がわかりやすいのである。

さてそれで、大企業やらからの採用に漏れた若者は?といえば、「ニート化」するようにも仕向けられて、一生のうちでもっとも業務の基礎を習得する時間を無駄にしている。

それもこれも、貧困化計画のうちにあって、将来の「社会主義・共産主義=全体主義」体制をつくるための壮大な「被害者創出」なのである。

ひとは、貧すれば鈍する、からである。

そんなわけで、こんなときに採用する側の中小零細企業が自己卑下してもはじまらない。
一生食っていける技能を修得できる、修得させる、ということをいかに社業として本気で取り組むか?が将来を決めるし、ニートを放置せずに、一生食っていける技能を修得しないとえらい人生になることを、本人に納得させないといけないのである。

それができる、ラッキーな人手不足、となっている。

「勝ち組」、「負け組」論の日和見

ふるくは第二次大戦中から日本の敗戦が決まった戦後となっても、ブラジルの日系移民のなかで、日本の勝利を信じるひとたちを「勝ち組」、敗戦の事実を認めるひとたちを「負け組」と呼んだことが「語源」のようである。

いまでは、社会的地位や収入のあるひとと、ないひと、との格差を表現する用語になっている。

ブラジル移民一世の厳しい生活は、ほとんど日本政府による詐欺的な情報操作からの「棄民」被害者であったとおもわれるが、片道切符で渡航したひとたちが後から気づいて嘆いても現地で暮らせるはずもない。

それで、大和魂を発揮して、緑の地獄を開墾し、いまの生活に落ち着いたのは、これぞ尊敬に値する自助の賜物なのである。

しかし、本土の日本の発展スピードが速すぎた。

ために、あたかも南米日系移民の貧しさが取り上げられることがあるけれど、日本が失ったオリジナルの日本人の残像があるだけでも見事だと感心するばかりなのである。

ときに、負けをあっさりと認めるばかりか、国家資産である軍用品などの物資を私物化して、まさにソ連崩壊後のロシアやウクライナの「オルガルヒ(新興財閥)」のごとく、闇屋を牛耳って巨富を得た人物たちの暗躍を、いまどきの日本人は無かったことにして消し去っている。

「満州ゴロ」とかをはじめとして、政府や軍は利権の構図でコントロールしていたが、コントロールされる側が交換条件として富を得るのは、古今東西の共通である。

そればかりか、勝った連合軍、総じてアメリカ軍に日和りながら、同胞の支配に精を出した輩を英雄視するのはいかがなる精神からのことなのか?
これぞ、いまようの「勝ち組」の元祖ではないか。

その共通は、「いまだけ、カネだけ、自分だけ」に集約される。

いまこの刹那だけでもカネがあって好きにつかえて贅沢を楽しみ、それを自分だけで興じることができれば、他人なんぞは知ったことではないという精神構造である。

むかしは、エリートといえば、武士道が当然で、あの下賎なヨーロッパにも、ノブレスオブリージュが19世紀のフランス貴族社会から常識になったものだ。

しかし、戦後社会のいま、日本もヨーロッパも、エリートがこぞって「いまだけ、カネだけ、自分だけ」を平然と追求して恥じなくなったのである。

それは、大勢に日和ると得をする、という浅はかな民主主義の蔓延から始まるのである。
これを専門家や学者も真似て、中身は日和るものでも、肩書きだけでものを言えばそれでカネになる。

そうやって、いつの間にか「反骨精神」は世の中から雲散霧消して、個別に反骨精神を言動にすれば、変わり者として損ばかりすることになった。

だから、あたかも予言者のごとく、過去に言ったとおりのことが起きて、「あなたの言った通りになりました」と褒められることがあっても、ぜんぜん嬉しくもなんともない、と福田恒存が『諸君!(昭和55年6月号)』で書いている。

自分が社会を動かしてそうなったなら褒められもしようが、社会の方から勝手に寄ってきたものを、たまたま言い当てただけだからである、と。

こうやってひとに擦り寄ってくる者の浅はかさは、常に目先の損得勘定で日和ることしかないから、結局は信用を失うのだ。

コロナ禍において、21世紀にかかわらず「マスク警察」なる正義の集団が登場したのも、「五人組」を笑えるはなしどころか、ぜんぜん変わりようのない全体主義の価値観が継続していることを示したのである。

つまるところ、「お上=政府」よりも、「勝ち組=正義」だと信じる「負け組」たちの勘違いの上昇志向に翻弄されるのであって、それがまた「監視社会」をつくり、政府がこれを利用することとなるにちがいない。

世知辛い世の中とは、自分たちでつくっているものなのである。

「キーボード沼」の正体

入力デバイスとして、やっぱりキーボードが主流なことに変化がない。

それなのに、わたしも含めてキーボード沼にはまりこんで抜けられないひとがおおいのは、単純に「決定版」がないからである。

これが嵩じると、パソコン選びでもつまずくことがある。

たとえば、ビジネスマンに圧倒的信頼と人気の、パナソニック「レッツノート」シリーズは、「カスタムモデル」と称しても、もう「日本語配列キー」しか販売されていない。

アメリカメーカーのHP(ヒューレットパッカード)さえ、「メイドイントーキョー」を謳いながら、やっぱりカスタムモデルなのに、「日本語配列」のキーボードしか選択できないのである。

それでも、HPは以前、エンターキーの右横に余計なキーが縦配置されていて、おおいに不評を買ったものだが、最近の「日本仕様」では、これが廃止されてやたら高評価されている。

レッツノートと同様に、画面も「ワイド」よりずっと縦長になる「4:3」なのが有り難いのもある。

それでもしつこいようだが、日本語配列キーなのだ。

「ローマ字入力」するわたしにとって、「ひらがな入力」専用の日本語配列は不便な道具であると書いてきた。

しかして、英語配列のキーボードにも「沼」がある。

たとえば、「最高峰」と称賛されている、HHKBは、その静電容量無接点方式ゆえの重量からモバイル向きとは言い難く、かつ、「静音タイプ」ですらうるさいと図書館などでは周辺に迷惑がられることもある。

それに、確実な接続を維持するために、「有線方式」の機種を探してもあんがいとかんたんにはみつからないのである。

日本メーカーの従業員は、この実態を不便と感じないのだろうか?

それとも、社内では「ひらがな入力」ばかりなのであろうか?
いや、わざわざマーケティングを叫ばなくとも、こんな状態なのは、どこからか会社に圧力があるのか?と疑いたくなるほどである。

iPhoneがでてくる前に世界を席巻していた情報端末、「ブラックベリー:BlackBerry」のプチプチのクリック惑がよかろうと、ドイツ・ドレスデンのひとが個人で製作している有線接続ミニキーボードが人気だという。

BlackBerryの入力部を3Dプリンターで復活させた逸品である。

さらに、多様なキーマッピングも可能なのだ。
ゆえに、遣い勝手を左右する、日本語と英字の入力切り替えもカスタマイズできる。

また、「沼の本体」ともいえる、メカニカル方式(キースイッチの組み合わせが無限)でマニア垂涎のメーカーが、香港に本社がある「キークロン:KeyChron」で、なかでも『Q9Plus』という機種は、いわゆる「40%キーボード」と呼ばれる、ファンクションキーも数字キーもないのである。

打鍵感や打鍵音は、キースイッチの種類でおおきく決まる。
しかも、キーマップを好みで変更できる。

こんな少ないキー数で、数字をどうやって入力するのか?も、「レイヤー(階層)」という概念で解決する。
たとえば、第一レイヤーは普通の文字キー、第二レイヤーで数字や記号、第三レイヤーでは、パソコンの音声や動画の操作とかを設定するのである。

この設定の組み合わせがまた自由なので、ここにも「沼」がある。

むかしなら、日本の中学生とかの「ラジオ少年」がやりそうなことだけど、すっかり日本の子供は消費者になってしまって、あれこれ部品を集めては何か作るというのはなくなったのか?

ごのこともまた、「沼」の原因にちがいない。

情弱(ボケ)なひとの絶望的な発想

たまたまのことだが、とある居酒屋の隣席で70代半ばとおぼしき爺やがふたり、現代的なデジタルについての議論(とはいえ、しゃべくり漫才のようなボケとツッコミ)を熱くしていたので書いておく。

スマホなどのデジタル機器から、個人情報が抜き取られていることのヤバさをさかんにツッコんでいるAさんの話を、ボケのBさんが受け入れないので、いよいよAさんの論は深くなるのだが、まったく理解できないBさんは、とうとう議論に飽きたのか帰り支度をはじめた。

それで、ふたり揃って席を立ちながらの別れの挨拶が「では、また来年!」だったので、こちらが驚いた。

年単位での会合としては、ずいぶんな話題である。
それでもケンカ別れにならないところが、長年の仲、だからだろうか?
なんでも、たくさんいた仲間がふたりだけになったようなので、もしやクラス会の果ての姿なのか?とおもわれた。

さてそれで、Aさんの論は、どのように個人情報が抜かれるのか?のテクニカルな話が中心なのである。
一方のBさんは、自分の個人情報なんてたいしたこと(価値)はない、といって譲らないから、話がかみ合わない。

このふたりの価値観の決定的なちがい、である。

つまり、Aさんは、ビッグデータ(=社会)という目線で話している一方、Bさんはあくまで個人(=自分だけで家族も関係ない=個人主義のなれの果て=アトム化)の目線なのである。
それゆえに、Bさんにとって自分の人生やらを思いかえしても、「たいしたことはない」で済む話だから、まったく興味をおぼえないのである。

しかし、くらいつくAさんは、それは無責任なことだと、これまたやんわりだが言葉を選びながら話を進めるのである。

Bさんは、なんでそれが無責任なことなのか?それを指摘される理由がわからないのだ。

そこで、Aさんは、スマホやさいきん廃れたスマートスピーカーが、会話を全部聞いていて、その音声から関係しそうな広告を自動的に出してくるのが、気持ち悪い、と指摘した。
対して、Bさんは、便利な世の中になったじゃないか、というのである。

そこで、便利といえば、A.I.だ。

BさんはA.I.のすさまじい普及を、たいした世の中になったと感嘆する。
だがAさんは、ウソばかりだからA.I.の答を鵜呑みして信じてはいけないと論を張るのである。

A.I.がウソをつく?
はぁ?
そんなこと、どうしてわかるのだ?

ためしに、自分がしっていることをA.I.に質問してみればすぐにもっともらしいウソで返すからA.I.の実際がわかるよ。

どうして自分のしっていることを、わざわざA.I.にきくひつようがあるものか?

だから、A.I.がどんなふうにウソをつくかが確認できるということですよ。
そうなると、A.I.にしらないことを質問して、ウソだと気づかずに信じたら、あとで間違えに気づいても取り返しがつかなっかたら損してしまいますよ。

おれはそんなややこしいことは質問しないよ。
ただ、便利だろう。
それにしても、どこで個人情報を抜かれているんだ?それで、どんな損をしているのか?がわからないが、あんたはどうしてわかるんだ?

たとえば、「Payなんとか」とかで支払うときに抜かれていますよ。

でも5%安くなるから、損ではなくて得しているじゃないか。
どんな損かがわからない。

常習的に泥棒に入られて貴重品を盗まれていても、盗まれたことに気づかなければ問題ない、というのはマヌケな話じゃないですか。

いやー、おれの個人情報が盗まれてもたいしたことはないさ。
それよりも5%得になる方がよほどいい。
現金を持ち歩かなくなったから、スリにもあわないですむし。

スマホをスリにとられたらおなじでしょうに。

だいじょうぶ、スマホには暗証番号があるさ。

そのために、さいきんではレジに並ぶ時間が増えましたなぁ。

まるでイソップのお話のようなのであった。

しかし、世の中はBさんが多数派なのである。
その結果の恐ろしさが、「ビルダバーグ倶楽部」で書いたとおりの、人類家畜化推進なのである。

ところが、家畜は自分が家畜にされていると一生気づかないから家畜なのである。

アメリカが英語を公用語に指定した

昨年3月1日、トランプ大統領は、「英語をアメリカ合衆国の公用語とする大統領令」に署名していた。

なんと、建国以来250年、アメリカ合衆国に連邦レベルでの「公用語」は制定されておらず、建国史上初のこととして報道されていた。

トランプ氏から訴訟を起こされている「BBC」は、懲りずに上の引用記事のなかで、

「公用語の指定は、英語を話さない人々に対する差別を助長する恐れがある」

との反対意見を、「公平に」書いている。

BBCの本国、英国では、すでに「英語を解さない」人物が市長となる事態にもなっている。

これも、民主主義の明るい未来なのか?と問えば、だから、反グローバル政党(マスコミは「極右」と表記する)が台頭するのであろう。

すこしむかし、フランス人は英語を解さないふりをして、フランス語で通したものだったが、いまでは「バイリンガル以上」をもって、ふつうに英語で対応してくれる。
おなじく、ロンドンでは、商店街のたばこ屋さんで何度も銘柄を口にしても、志村けんのコントのように別の銘柄のを次々と出すようなことがふつうにあった。

それでもって、毎日通い、とうとう半年ほど後に、ニッコリ笑って「正確にいえるようになったわね」というオチがついたものだ。

そのロンドン市長は、いまパキスタン系イスラム教徒が三期連続で選ばれている。

わが国では、「新しい日本人」という概念を、自民党と公明党が打ち出した。
その影響をどう読むのか?について、参考になる動画がアップされている。
ここでは、「中国人」と名指しされているが、「外国人」と範囲を広げてもおなじであろう。

つまり、『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』の「A.I.」が、「外国人」に置換できるはなしなのである。

ずいぶん前だが、日本にやってきてわずか1年あまりのとある外国人が、流暢な日本語を話すので「すごい!」と褒めたら、あっさりと「生きるため」とのこたえがかえってきて納得したことがある。

たとえば、牛丼チェーンでも、外国人がチーフで日本人の新人やらに指導している場面を観ることがあるし、ふつうの街中華で、やたら接客サービスが「できる」中国人が多数箇所にいるのをしっている。

接客サービスは「瞬間芸の連続」でもあるので、「できる」ひとは、日本人でもなかなか少ないと感じるようになった。
これは、言語の問題ではなく精神の問題であるし、相手を慮りながら自分の行動にムダがないようにする合理的な思考や意識がないと到達できないものだ。

その意味で、「できる」ひとは、国籍や母国語とは関係ないのだろう。

とはいえ、「ジャパン・ロス」という現象が発生するのは、おもに「古い」日本人が構築してきた文化的な環境に原因がある。
ここに、日本語(での発想方式)が関与していることは、おおくの外国人観光客ばかりか言語の専門家が気づいている。

それで、むかしに比べていまは、世界で日本語学習熱の一大ブームとなっている、らしい。

おもに英語圏で、日本文学(古典から近代まで)が外国翻訳書籍のうち4割を占めるような売れ行きとの報告もあるが、肝心の日本人が読書をしない時代なのである。
ずいぶん前に往年の人気アニメ、『魔法近いサリー』が描いた樋口一葉の世界について書いたが、いまの小学生にはとうてい通じないはなしだろう。

むしろ、たとえ翻訳でも、外国人の方が理解している場面がこれからでてくるとおもわれる。

イラン戦争とは経済・金融戦争

戦闘行為だけが戦争だという定義はまちがっている。

外交の延長線上に戦争はある、とするクラウゼヴィッツの論は、いまも有効なのである。

愚将、山本五十六が好んだ「常在戦場」とは、長岡藩牧野家の家訓であったものを、長岡出身の山本五十六が引用したものである。
この訓示は、クラウゼヴィッツ的に読めば、「平時こそ見えない戦場」であって、そこでは情報戦やらなにやらが繰り広げられていると解すことができるのである。

それゆえに、トランプ政権2.0におけるイラン戦争の直接的な担当部署は、「財務省」となっていて、国務省と連携しているし、戦争省(旧国防総省)と軍はこれらの配下にあるとかんがえるべきである。

だから、スコット・ベッセント財務長官の「X」は、フォローしておく価値がある。

2日、アメリカ財務省は、イランのデジタル資産取引所を排除すると「指定」したと発表し、ベッセント財務長官がこの発表を引用しながら、自身が直接指示していることを認めている。

このコメントの前の同日、トランプ大統領は「イランとの交渉が絶えている」との報道に対し、「フェイクニュース」だと切り捨てている。

さらに、トランプ大統領がイスラエルのネタニヤフ首相に電話で「ブチ切れした」との報道があったのも、どうやらホワイトハウス側による「情報陽動作戦」であったようで、報道後にホワイトハウスの高官はこのトランプ発言を否定しているのである。

ところが、「カナダ人ニュース」さんが、当事者のふたりがそれぞれあっさりと認めた、と伝えている。
まったく謀ったような話である。

あたかもトランプ大統領がイランに忖度しているようにみせることで、「交渉」の進展を図るためと解されている。
この意味で、「報道」もしっかり利用して情報戦に引き込んでいる、といえる。

つまり、野球の投手戦における「緩急をつけた投球」を、トランプ政権2.0がチームプレーとして実行しているのである。

さて、「財務省」という名の官僚組織は日本にもあるが、政治制度がぜんぜんちがう(「議院内閣制」と「大統領と議会の二元制」)ので、名前がおなじだからといって、やっていることもおなじ、ではないし、おなじはずもない、のである。

民主主義の「民主」のために、絶対王政を経験した英国の失敗をもって建国されたアメリカでは、とにかく立法府の議会が主体であって、行政府統括長官たる大統領は従の関係にある。

なにせ、大統領に立法権はない。

この明確な役割区分を、いったん滅亡した敗戦後も曖昧なままにしているのが、わが国の政体である。
むろん、曖昧なまま、なのは偶然ではなくて、GHQの設計による「日本統治=日本征服」の永続に役立つとの判断からのことである。

自民党とは、そのための「代理統治装置」なのである。

明治憲法は役割分担をキッチリすぎるほど意識して構成されていたが、扇の要にあたる「統帥権」の役割分担で自滅の憂き目をみた。
これを「改正」した、日本国憲法=昭和憲法は、逆に、内閣総理大臣の役割を強大にしたので、アメリカ大統領よりも独裁的な存在となっている。

しかし、それは、自民党総裁=内閣総理大臣、という構図を前提としている。

何度も書くが、表向きの「日本総督」は、日本駐在アメリカ大使だが、「占領軍=征服軍」として、在日米軍司令官が武力をもって君臨しているのがわが国の永遠なる姿なのだ。

青山墓地と六本木の間になにがあるのか?をみれば、わが国の真の統治者をしることができる。

そんなわけで、戦後初にして、アメリカ総督府に自民党が逆らっている状況ができた。

「60年安保」で、安保条約を読んでいない国民が「大反対」の声をあげたのは、アメリカ民主党による日本征服体制永久化への反発であった。
ここが、のちの「70年安保」とは絶壁をなす、価値観のちがいである。

つまり、トランプ政権2.0は、アメリカ民主党が鉄板的に構築した日本征服の仕組みをそのまま用いて、本気で日本改造(自主独立)を目論む戦後初の政権なのである。

そのための情報戦やら経済・金融戦が「イラン」の影に隠れてはじまっている、とみれば、おおかた将来の変化が予想できるというものなのである。

そこで質問、「イラン=ホルムズ海峡封鎖問題」があるというのに、日経平均株価が「最高値更新」しているのはなぜか?をかんがえてみたらいい。

これはバブルなのか?

日本政府が反トランプ政権なわけ

わたしは世間にいう「ザイム(財務)真理教」(いいだしっぺは、故森永卓郎氏)を信じてはいないが、財務省(旧大蔵省)の官僚たちが、国家財政の運営に成功した歴史をもたないことに、この「俗説」が蔓延する理由の最大要因だとおもっている。

ヒトラーのドイツが疲弊した経済を立ち直らせたあたかも奇跡の成功を、極貧のわが国も真似たくて「日独同盟」となったけれども、そもそもヒトラー政権が世界で最初に「ケインズ政策」を実施したことをしらないと話にならない。

その実行者は、ヤルマール・シャハト経済相・ライヒスバンク(ドイツ中央銀行)総裁であった。
なお、第一次大戦の巨大な賠償金分配を戦勝国が得るために創設されたのが、各国中央銀行の上に君臨しているBIS(国際決済銀行)である。

シャハト博士にはラッキーなことに、ヒトラーの気分から疎外され失脚したから、その後のドイツの破局には直接かかわらなかったこととなった人物なのである。
ただ、おもな業績に、「メフォ手形」の発行があって、政府が民間企業に支払うための手形の考案で、インフレを抑えながら軍拡のための資金調達に成功したのであった。

参政党創設メンバーで残るふたりのうちの1人となった松田学参議院議員(元大蔵官僚・元衆議院議員)が提案する、「松田プラン」は、「メフォ手形」をブロックチェーン技術で提供する「政府発行電子通貨」の形式に変換しているところがミソなのである。

そうなると、財務省(官僚)がいう、「プライマリー・バランス」の罠から逃れることができるが、法学部出身で英・米の有名大学大学院で、アメリカ式経済学の学位なるロクなことを教わらない経済官僚には理解できず、政府収入を増やす「増税」しか頭にないことになっている。

ケインズの「乗数理論」を用いた、有効需要の喚起を政府がやる(=公共事業)政策が否定されたので、ケインズよりもっと過激な社会主義・共産主義=全体主義政策を採用しているのが政府=自民党(アメリカ民主党の子会社)なのである。

わが国より先行するのは、英国労働党(アメリカ民主党の本家)で、スターマー政権の社会主義・共産主義=全体主義は、みごとにジョージ・オーウェルが描く『1984年』の世界観と一致している。

すでにこの政権は、SNSに政府批判を書き込んだ人物を「逮捕」して、身柄拘束までやっている。

世界に蔓延するアメリカ民主党的な全体主義を徹底的に潰すのが、共和党トランプ派の政治目的(自由主義の復活)となっている。

口火を切ったのは、フロリダ州知事のロン・デサンティス(共和党)が発表した、「固定資産税の廃止」である。

州民が自分で稼いで得た(所得税を払った後)資金で購入した不動産に、「州」という国家が固定資産税という名の罰金を課すことは「フロリダ州憲法」に違反する、という理由なのである。

当然に固定資産税は、フロリダ州の運営にとっての財源ではあったが、知事は財源がないならそれに見合った州政府の機能で良い、としている。

これぞ、「小さな政府」の発想である。

まったく、わが国の官僚や政治家が発想しないことを言いだしているのである。

これに、トランプ大統領が、「所得税の廃止」を言いだしたのも、「合衆国憲法」に自由な可処分所得であるはずの国民資産を連邦政府が奪うことは、やはり憲法違反だという理屈なのである。

ただし、このことは、二回目の大統領選挙での「公約」であったために、いまさら目新しい発言とはいえない。
だが、「公約」について、ウソをつくことはしない徹底があるので、民主党支持者たちが共和党トランプ派支持に流れ出しているのである。

じっさいに、アメリカ合衆国で連邦政府による所得税課税がはじまったのは、1913年(大正2年)からなのである。
それまで、連邦政府は「関税」を収入としていた。

だから、トランプ関税=所得税の廃止の合図、と日本政府の深いところのひとたちにはみえたろう。
それで、「トランプはとんでもない」とか、「狂った」とかと、日本国民に精神的なキャンペーン(プロパガンダ)をやって、「ピストン赤沢がんばれ!」論が跋扈した。

「鬼畜米英」の現代的復活だが、戦時中のこの用語を「プロパガンダ」だとするのは間違いで、ほんとうに「鬼畜米英」であったのだ。

「鬼畜米英」をプロパガンダだとする論こそがプロパガンダなのである。

つまり、アメリカ政権与党の共和党を代表する政治家が言う「税金=国民からの掠奪」という解釈は、まったくもって日本政府には都合が悪い「政治イシュー」なのである。

これで謎解きができた。

誰が首相になろうが、わが国政府は、「絶対的反トランプ」政権なのである。
むろん、英国もEUも同様なので、わが国で「日英同盟の復活」とか、「NATO」を通じたウクライナ関与とかといった「政策」がでてくるのである。

トランプ大統領は、しっかりフォン・デア・ライエンのEUを「失敗国家」といい切って、縁切り宣言し、例外として、ハンガリー、ポーランド、チェコ、スロバキアの名を挙げている。

わが国もいつ縁切りされるのか?が迫っているが、これは東アジアにおける国家存続の危機である。

むろん、いまや政府からの広告受注が途絶えたら即死の危機にある媚中(じつは、社会主義・共産主義=全体主義)のマスコミが、国民に反トランプ感情を植え付けるのに躍起となる理由がこれなのである。

しかし、ほんとうに固定資産税がなくなり、所得税がなくなったら、企業や個人は「善政競争」の物理で、アメリカや適応する州への人口大移動を開始するであろう。

そしてそれが、巨大な「逃散」ともなれば、固定資産税や所得税をかたくなに課税する地域は貧困化する。

その兆候が、すでにカリフォルニア州やニューヨーク市ではじまっていて、10年毎の国勢調査の人口比できまる連邦下院議員の州別議席配分で、民主党にとって絶望的(「万年=永久野党」が確定的となる)となるのもとっくに「時間の問題」(次は2030年)となっているのである。

「反トランプ対策」しかかんがえない、社会主義・共産主義=全体主義の英・EU・日本における現政権の末路がみえてきているのに、かれらは国民を人質として政権維持に努力するだろうから、やがては阿呆な国民も気づくときがやってくる。

「善政競争」が、世界規模でおきているのである。