昨年3月1日、トランプ大統領は、「英語をアメリカ合衆国の公用語とする大統領令」に署名していた。
なんと、建国以来250年、アメリカ合衆国に連邦レベルでの「公用語」は制定されておらず、建国史上初のこととして報道されていた。
トランプ氏から訴訟を起こされている「BBC」は、懲りずに上の引用記事のなかで、
「公用語の指定は、英語を話さない人々に対する差別を助長する恐れがある」
との反対意見を、「公平に」書いている。
BBCの本国、英国では、すでに「英語を解さない」人物が市長となる事態にもなっている。
これも、民主主義の明るい未来なのか?と問えば、だから、反グローバル政党(マスコミは「極右」と表記する)が台頭するのであろう。
すこしむかし、フランス人は英語を解さないふりをして、フランス語で通したものだったが、いまでは「バイリンガル以上」をもって、ふつうに英語で対応してくれる。
おなじく、ロンドンでは、商店街のたばこ屋さんで何度も銘柄を口にしても、志村けんのコントのように別の銘柄のを次々と出すようなことがふつうにあった。
それでもって、毎日通い、とうとう半年ほど後に、ニッコリ笑って「正確にいえるようになったわね」というオチがついたものだ。
そのロンドン市長は、いまパキスタン系イスラム教徒が三期連続で選ばれている。
わが国では、「新しい日本人」という概念を、自民党と公明党が打ち出した。
その影響をどう読むのか?について、参考になる動画がアップされている。
ここでは、「中国人」と名指しされているが、「外国人」と範囲を広げてもおなじであろう。
つまり、『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』の「A.I.」が、「外国人」に置換できるはなしなのである。
ずいぶん前だが、日本にやってきてわずか1年あまりのとある外国人が、流暢な日本語を話すので「すごい!」と褒めたら、あっさりと「生きるため」とのこたえがかえってきて納得したことがある。
たとえば、牛丼チェーンでも、外国人がチーフで日本人の新人やらに指導している場面を観ることがあるし、ふつうの街中華で、やたら接客サービスが「できる」中国人が多数箇所にいるのをしっている。
接客サービスは「瞬間芸の連続」でもあるので、「できる」ひとは、日本人でもなかなか少ないと感じるようになった。
これは、言語の問題ではなく精神の問題であるし、相手を慮りながら自分の行動にムダがないようにする合理的な思考や意識がないと到達できないものだ。
その意味で、「できる」ひとは、国籍や母国語とは関係ないのだろう。
とはいえ、「ジャパン・ロス」という現象が発生するのは、おもに「古い」日本人が構築してきた文化的な環境に原因がある。
ここに、日本語(での発想方式)が関与していることは、おおくの外国人観光客ばかりか言語の専門家が気づいている。
それで、むかしに比べていまは、世界で日本語学習熱の一大ブームとなっている、らしい。
おもに英語圏で、日本文学(古典から近代まで)が外国翻訳書籍のうち4割を占めるような売れ行きとの報告もあるが、肝心の日本人が読書をしない時代なのである。
ずいぶん前に往年の人気アニメ、『魔法近いサリー』が描いた樋口一葉の世界について書いたが、いまの小学生にはとうてい通じないはなしだろう。
むしろ、たとえ翻訳でも、外国人の方が理解している場面がこれからでてくるとおもわれる。

