多様性で否定する言論の自由

ダブルスタンダード(二重規範)とは、全体主義の手法として重要な役割・機能のある手段である。

つまり、とある思想(全体主義)に合致するように、言語的に処理する方法のことだといえる。
だから、全体主義にぜったいに与しない、自由主義の立場からしたら、「言論の自由」こそが自由の基盤なのであって、全体主義の言論すらも自由にさせるのである。

しかし、全体主義は言論の自由を許さず、「強制排除」を目論む。

そのために用意した言葉が、「多様性」とか、「持続性」である。

つまり、これらの言葉のダブルスタンダードでいう「本意」とは、「多様性を認めない」であって、「国民の不自由=政府の自由」なるゴールがあることなのである。
単一な着地点=全体主義における強制社会であるから、「共生社会」といういいかたも、「字」が違うけれども本音が見え隠れするのがわかる。

これらを支持する者たちの知能がおおむね低いとおもわれる理由は、自身も強制排除の対象であることに気づかいないことにある。

それで、レーニンはこうした支持者を、「役に立つ白痴」と呼んだ。

だからこそスターリンによる千万人単位の粛清も、白痴たちの「始末」として、まったく悪びれることなく粛々ととして実行された。
自分以外の人間を、「物質」としてだけかんがえるのが、「唯物論」だからである。

つまり、全体主義ではトップだけが人間で、それ以外は「物」なのである。

こうして全体主義の行き着く先は、たったひとりを頂点に置くために、それ以外の全員がじつは排除の対象なのであって、いつどうやって排除されるのか?を決めるのは、頂点のひとりが決めるだけのことなのである。

この構造は、旧約聖書の「神=ヤハウェ」とおなじである。

だから、ユダヤ人のマルクスが考案した「共産主義」とは、あたらしいユダヤ教だし、キリスト教、イスラム教にも波及するといわれるのである。

ヤハウェは、自分以外への信仰を否定・禁止したとおり、共産主義なる宗教は、共産主義以外のあらゆる宗教を否定するからイスラム圏で共産主義はタブーだったが、イランの坊主(イマーム)独裁は、「神の声」を聴いて伝える預言者ムハンマドの血筋によるものなので、見た目は反共でも中身の構造はおなじなのである。

ところが、これらの根底にある、「唯一にして絶対の神」という概念が、日本人にはない。

日本人のDNAにミトコンドリアよりも強力に入り込んでいるだろう「八百万神」なる概念は、根本思想としての「多様性」のことだから、千年単位での「持続性」をもっている。

それが、日本人にとっての「自然」だからである。

天皇という概念も、八百万神のトップに君臨する、という感覚ではなくて、八百万神を祀る祭主でしかないのは、天照大神の子孫、という設定なのにえらく謙虚だからである。
しかし、明治政府は、四民平等で契約の自由を確保するために、「現人神」を発明し、これを天皇にまとわせたのは、旧約聖書の構造を導入したかったからである。

だから、日本の共産主義者は、天皇を否定し憎みたがる。

共産主義者の中からの自分を含む誰か?が、絶対君臨すべきなのに、その席がとっくのとうに埋まっていて、永久に支配の構築ができないからである。
そこで、日本人の知恵は、「宗教的権威」を朝廷に、「世俗権力」を幕府に分担させることで調和させたのだった。

しかして、もうひとつ全体主義=共産主義者の知能が低いのは、「死」を想定しないことにある。
人間の個体は、かならず死ぬ。
そこで、強制支配も終了するのに、これをみとめない。

よって、これらの思想に取り憑かれた者共は、遺体の「冷凍保存」をおこなうのである。

そうやって、じつはいま生きている支配者の永久支配も意図しているために、イスラム教シーア派と似たことをやる。

まったく、宗教、そのものなのである。

そこで、現代日本人にはなしを戻すと、とくに「新興宗教」への警戒心が強いのは、マルクス主義以外の宗教を潰したいという思惑からであろうが、DNAにある八百万神からはなれることができない。

そのために、とうとうわが国の仏教も衰退して、「葬式仏教」さえも不人気になっている。

葬り方、葬られ方が簡素化しているのは、結婚式の簡素化と同様に、社会と個人の接点が希薄になっているからだろう。
これはあたかもマルクス主義の蔓延とみることもできようが、アトム化よりも孤独化だとかんがえると、奥深い。

それはまた、全体主義=マルクス主義への反発といえるからである。

この意味で、宗教者の発信がほとんどないことの方がはるかに深刻なのである。

昭和には、「怪僧」といわれた、今東光大僧正が活躍していた。

すると、なんだかんだと言いながら、昭和の発展の素地が健全だったとしれるのである。
それはまた、なんだかんだと言いながら、尋常小学校の教育が優れていたともいえる。

人間形成でもっとも重要な、初等教育が戦後に狂わされて、その狂った中から出てきた「エリート主義」が、さらなる狂気を生んでいるので、宗教も立ちゆかなくなったのである。

そこで、プーチンとトランプが「反動」として、同時に登場して「世直し」をやっているのである。

「下手の考え休むに似たり」とはいうけれど

囲碁や将棋でいうヘボの長考を例に、時間の無駄、という意味である。

だがしかし、考えること自体を否定してよいものか?とかんがえるのである。
むしろ、下手でもよいからかんがえろ!といいたい。

1月29日、金の価格が初めて1グラム3万円を突破したとニュースになった。

これは、ドルでもおなじであるから、世界の通貨は総じてまんべんなく価値を失っていることを示している。

つまり、価値が下がっているもの同士の「相場」で、円安だの円高だのといっているに過ぎないのである。
落ちゆくエレベーターの中で、どちらが先に落ちるか?の競争をしているようなもので、どちらも「落ちている」のである。

さて、通貨価値が物質的な財やサービスよりも下がる現象を、「インフレーション」という。

だからよくいわれるように、物価が高くなってきたからインフレになったのではなくて、インフレになったから物価が高く見えるのである。

たまたま、金という物質(原子番号79:記号はau)だけが対象のようにおもいたいものだが、そうはいかない。
誰かがどこかで、通貨の価値がない、と気がついた途端に、目に見えて下落がはじまるのである。

よって、強烈なインフレが発生し、あらゆる物価が上がりだすと予想できる。

これは恐怖である。

すると、当局は必ず「金利を上げる」ことで、市場(世間)から大量に拡散されている通貨を回収して、価値を戻そうとするだろう。
これはすでにはじまっていて、日本国債の金利は数十年ぶりの上昇を遂げている。

つまり、日本国債を発行する財務省は、はじめから利率を割り引いた額しか調達できない、ということなので、「国際価格の下落」となる。
おなじことが、アメリカ国債にもいえるし、ユーロもそうだ。

すると、いつかは市中(世間)の金利も上がる。

たとえば、住宅ローンを「変動型金利」で借りたひとを直撃するし、企業は金利が高くて設備投資を控えるようになる。「固定型」で貸し出した銀行は、大損する。

ようは、不況となる。

わが国の場合、失われた30年とか40年の長い不況下にあるので、もっと酷い不況になる。

これが、総選挙中に起きたのだが、旧来の政党は国民に情報提供すらしない。
「過去の杜撰な政治」がバレるからである。

しかし、文句をいっても国民生活は改善しないので、過去30年とか40年間、杜撰な政治をやっていた者どもを落選させないといけないのは「筋」である。

しかして、トランプ政権は、ドル防衛に何をするのだろうか?

これを、下手でもいいからかんがえないと、個人の生活が破綻する危機にあるのである。

つまり、ダメ議員らを落選させても、それだけではいけない。

とりあえず、いま個人でもできる防衛手段は、手持ちの現金通貨(普通預金を含む)を「モノ」に変換しておくこととなる。

かつて、ソ連が崩壊する前の東ヨーロッパ衛星国では、タバコの「ケント」がどういうわけか「通貨」として流通していた。
ワンカートン、一箱、一本、で取引されたのである。

なぜ「ケント」で、「マールボロ」でなかったのか?はしらない。

今度は何が通貨がわりになるだろうか?
あれこれ、「下手の考え休むに似たり」としりながら、とにかく『ダイハード』の主人公のように、「think、think、think!」しないと生き残れない。

FBIのフルトン郡ガサ入れ

バイデンが現職のトランプをくだした2020年大統領選挙で、この結果に大影響を及ぼす「激戦州」のジョージア州最大の選挙区が、州都アトランタを含む「フルトン郡」である。

なぜ「大影響」なのかの理由も含め、詳しくは、「カナダ人ニュース」さんが報じている。

そこで、わたしが気になることを書いておく。

まず、トランプ政権2.0が発足して、まる1年以上となった「このタイミング」が引っかかるのである。
何度も書くが、トランプ政権は日本の報道ではぜったいにわからない「用意周到」を看板にしている。

むろん、トランプ氏は、生き馬の目を抜くともいわれる「ニューヨークでの不動産業」を成功させた大経営者であることを忘れてはならない。
そのキャラクターが、あまりに「いけず」なので、ついうっかり「暴言癖」として失笑を買うようなことがあるが、これもわざとの「いけず」である。

それに加えて、トランプ氏は6本もの映画に出演している「役者」なのだ。

さて、この政権の参謀長にして司令塔は、スティーブン・ミラー大統領副首席補佐官である。
おそらく、スーザン・ワイルズ大統領主席補佐官は、予算と人事を司っているとおもわれる。
つまり、「軍」における組織とおなじで、「軍政:国防総省にあたる」がワイルズ女史、「作戦:統合参謀本部」がミラー氏という役割になっているかとかんがえる。

これまでは、フルトン郡やジョージア州に対して「裁判」を仕掛けていて、その都度、民主党勢力に支配されている「郡」が反論して、埒が明かない状態だったのである。
ところが、その「反論」をもって、合気道がきた!

過去の郡のいい分が、今回のFBIのガサ入れについての「連邦地裁からの捜査令状」となっているからである。
不思議なことに、連邦地裁は令状をそのまま画像発表したが、根拠となる「申し立て」についての情報を公開していない。

だから、なんの捜査目的なのか?つまり、犯罪容疑がわからないことになっている。

むろん、「選挙不正」にちがいなのは、提出命令をした資料がぜんぶ、投票用紙のオリジナルやらであるからだが、これも随分と前の「判決」で、「保全命令」が出ていたことの成果なのである。

しかも、ベネズエラのマドゥーロ夫婦を拘束した意味がここで明らかになる。
投票機「ドミニオン」の秘密を証言しているだろうし、さらに表サイドではあのシドニー・パウエル女史がいよいよこのタイミングで司法省に呼ばれ証言をはじめたのである。

すると、トランプ政権2.0は、壮大な「追い込み猟(漁)」をやっていたことがわかる。

狡猾なフルトン郡も、ジョージア州州務長官室も、Republican In Name Onlyの州知事も、勝ったと思い込まされた裁判が、じつは「壮大な罠」のひとつだったことにようやく気づいたのである。

だがもう遅い。

ときに、もしもトランプ氏勝利、が判明しても、いまさらどうにもならないことである。
けれども、「不正」の事実が、「アメリカ合衆国史」に永遠に刻まれることとなり、この不正の当事者たちには、「民主主義の裏切り者」という不名誉のレッテルが、末代まで貼られることとなる。

それもこれも、オバマ=バイデン=クリントン系列の一網打尽への布石なのであろう。

当然だが、11月中間選挙に期限の設定がある、「プロジェクト」なのだ。

やっぱり東大は「ポンコツ」だった

医学部の教授が昨年11月と今月24日と連続で揃って「収賄」の疑いで逮捕されたことで、27日付けにて、東大病院長が引責辞任した。
次いで、28日には、藤井輝夫総長が記者会見し、24日に逮捕された教授を懲戒解雇し、自らの役員報酬を1ヶ月、50%カットするとした。

この決定の経緯がまったく公表されていないし、腐ったマスコミは取材もしない。

自公政権の支配が長い、文科省による国立大学の「国立大学法人」という名の「半官半民」体制としながら、文科省が運営交付金支給の裁量権を握るという、官僚の権益のための「改革」が実行されたのは、2003年の「国立大学法人法」成立であって、施行が2004年4月のことだった。

ときの政権は、小泉純一郎内閣で、9月まで遠山敦子が、その後は河村建夫(引退後の山口3区は、林芳正が参議院議員から移ってきた)が文科大臣だった。

ちなみに、遠山敦子は東大法学部卒だが、同学部で当時の新入生の紅一点でもあり、卒業後の1962年は初の文部省女性キャリアとして生粋の官僚人生を歩んだ。
なので、入閣も「民間」扱いである。
その甲斐があってか、2014年には旭日大綬章をうけている。

さてそれで、従業員の不祥事でよくある上司や経営者の「謝罪」では、官憲による「逮捕」の事実を受けてされるものが、わが国では常識になっている。

これをどう評価するべきなのか?

近代法の大原則に、「疑わしきは被告人の利益に従う」の原則があって、逮捕されたからといって司法の判断で「有罪」となるまでは、あくまでも「容疑者」なのである。

それゆえに、欧米では、逮捕=即不祥事=犯罪者、とはならない。

むしろ、もしも万が一冤罪であった場合、本人の不利益を回復することができないからである。

しかし、わが国では、逮捕=即アウト、となって、社会的責任を本人が負うと同時に、直属の上司も「管理責任」を負うためになんらかの処分の対象となることが、「慣例」となっている。

つまり、厳しい、のである。

むろん、事件当事者が、わが国の最難関にして「神話」化されている、最高学府(大学の中の大学)たる、東京大学教授(しかも「医学部」)、なるこれ以上ない肩書きをもっていることを想像させる、それだけで十分ある「特権」を、もっと強い「煩悩」の要求に負けたことに、世間の関心が集まることになったのである。

そこで、この際、悪弊としての「厳しすぎる処分の慣習」を、東京大学だからこそ打ち破り、おとながやった煩悩の始末はあくまでも本人の責任である、といった見解をだすチャンスでもあったといえる。

それを、工学博士たる総長には、やっぱりできなかった、のである。

国立大学法人法でいう、国立大学は、実質的に民間のような経営体を想定されているために、経営とはなにか?経営者とはなにか?を生涯で一度もかんがえたことのない人物(=研究者)が、学内選挙という、およそ「法の精神」とはかけ離れた方法を旧来通り続けていることの理不尽さえも気づかない集団が「教授会」だとも世間にしれることとなった。

おそらくは、東京大学法学部を卒業してすぐに弁護士になったOBを経営顧問に据えていて、あくまでも「一般例」からの判断をするように、アドバイスした結果なのであろうと推察する。

すると、法人としての東京大学を経営しているのは、学内で選挙をやった結果としてのボードメンバーではなくて、外部アドバイザーが経営しているというお粗末な構造がハッキリする。
そこに、カネ付けをしているのが、文科官僚なのだ。

となると、病院長も、総長も、みな、誰でもいい人形なのだとわかる。

国移民として唖然とするのは、こんな構造が全国の国立大学機構にコピーされていることであって、今年もまもなくはじまる「受験」のおそろしいまでの「軽さ」に背筋が凍る。

まさに、『商業化する大学』の教科書通りになっているのだが、これを東大でも、文科官僚でも、さらには政治家も読んでいる者がいない、という知的廃退が現実になっているのだった。

また「政府閉鎖」をかんがえる

今年度の国家予算(2025年10月〜2026年9月)が、まだ決まっていないアメリカで、昨年に続いてまた「政府閉鎖」がありうる事態になっている。

今回も、連邦上院民主党が「反対」すると、チャック・シューマー民主党上院リーダーが宣言したからである。
理由は、不法移民の強制退去をすすめる連邦政府職員が所属する「国土安全保障省への予算停止」を要求していることにある。

民主党バイデン政権では、国土安全保障省こそが積極的に大量の不法移民を呼び込んだのであるから、主張に「一貫性がある」といえばそのとおりなのである。
むろん、不法移民による犯罪やら、不法移民は生きるために奴隷的労働も受け入れるので、過去からの正規移民の職を奪うことによる失業問題も深刻になっている。

それゆえに、2024年大統領選挙では、民主党支持者の鉄板層だった、黒人やヒスパニック系のひとびとによる、トランプ候補支持が拡大したのだった。
結果、トランプは白人至上主義者だ、というネガティブ・キャンペーンとは裏腹に、万遍ない人種層からの支持をうけて当選するに至ったのは事実だ。

ここにきて、そんな民主党が党を挙げて不法移民の摘発・強制送還に体を張って抵抗し、死者まで出しているのは、おそらく、ソマリア系移民による大規模な社会福祉詐欺へ社会的関心を向かわなせないための妨害が目的ではないか?と疑われている。

ただなんとなく、ではない、ハッキリとした意志が民主党の不法移民大量受け入れ策だったのは、そのまま選挙権をもたせ、あるいは選挙投票に身分証を提示しないでよいとすることでの、永久政権、を民主党が目指したともいわれるのは、自然増で共和党にかなわない「人口減少問題=結婚や家族の崩壊」を民主党の支配する州が軒並みかかえているからである。

これらの「問題」も、民主党のいわゆる「進歩的ジェンダー政策」が引き起こした、身から出た錆であり、民主党の支配を全面的に受け入れた岸田文雄政権がコピーしたのも意識的であった。

そうやってかんがえると、わが国の役所で、アメリカの国土安全保障省のように裏返して「廃止」をいってもいいのは、「こども家庭庁」になるだろう。
2026年度予算案では、7.5兆円もの規模で、4年前の2022年の防衛省予算5.4兆円よりも多い(現予算案では9兆円に増額)。

つまり、わが国で、アメリカ民主党のように破滅的な予算組みを意識的にやめないのは、自民党なのだとわかる。
あたかも、財務省がコントロールしているがごとく信じるのは、政府中枢の意志決定における役人の存在の小ささを買いかぶっているのである。

逆に、役人悪者説、は、自民党が流すプロパガンダだ。

それにしても、政府閉鎖になるのは、予算編成権が大統領=行政府ではなくて、立法府たる連邦議会にあるための「副作用」なのである。

また、予算を人質にするやり方も、議会中心の民主主義をもってするための「政治闘争」なのある。
そうやって、迷惑=痛みを被る国民は、選挙における投票行動で意志表示することの意味をしるのである。

ゆえに、ドイツ人は、かつてやった大失敗の「全権委任法」で、亡国の痛みをしった。

あまりにも大きな命がけの悲惨に懲りたのであるが、そのドイツ人が豊かになって漫然としたら元の木阿弥になっている。
一方で、日本人はまだ全権を委任していられるのは超鈍感だといわざるをえない。

25日の「福井(知事選挙)ショック」で、すこしは目が覚めるのか?

どうする?「中道」の解釈

左(翼)でも右(翼)でもない、真ん中だから「中道」というのなら、ちょっとまった!がはいる。

わが国の政党で、「中道(政治)」をいったのは、かつての「民社党」と「公明党」であった。

民社党は、民主社会主義をイデオロギーとする「修正主義」を標榜していた。
ドイツでは、「社会民主党(SPD)」がそれだが、前身は「ドイツ社会主義労働者党」である。
ただし、ヒトラーのドイツ社会主義労働者党は、後々の組織で、SPDに至るものとはちがうので注意がいる。

とはいえ、この古い方のドイツ社会主義労働者党から共産党が分かれるので、「社会主義」政党である。

わが国では、社会党の右派から分裂して「民社党」がうまれている。

一方で、「公明党」は、「日蓮正宗」の在家団体であったものが、1991年に正宗側から「破門」された創価学会を母体とする政党である。
日蓮宗と日蓮正宗にもちがいがあって、日蓮宗の本尊が「大曼荼羅」に日蓮聖人の木造や釈迦如来などを祀るのに対して、日蓮正宗は、仏像を用いずに「文字曼荼羅」のみとしている。

いわば、偶像崇拝をしない、という点で、イスラム教的なのである。

それだから、公明党が民社党のように、「中道」を標榜したのには、宗教的な意味としてのちがいがあったはずだが、本稿冒頭のような「解釈」となったのはおかしなことではある。
なぜならば、仏教用語としての「中道」は、まったくことなる概念をいうからである。

かんたんにいえば、苦と楽、有と無、好きと嫌い、といった両極端ではない、すなわち執着の煩悩から解放されて悟り(涅槃)に至る高度な「道(八正道)」のことをさすのである。

そうなると、たとえばドイツなら、「保守」といわれてSPDと政権交代を繰り返した「キリスト教民主同盟(CDU/CSU)のような立ち位置が公明党には相応しいのであろうが、そうはならなかった。

これも「在家団体」だからとはいえないのは、ドイツにおけるキリスト教徒は、おおむねプロテスタントだからである。
むしろ、創価学会の排他性が「国民政党」に成長できなかったゆえんであろう。

それでもって、解散に対応するために、衰退の危機に怯えて急遽野合した、「中道改革連合」とは、真ん中に「改革」を挟んだサンドイッチ構造にみえる。
「連合」は、旧立憲民主党の支持母体の労組であるし、「中道」は、上で書いた旧公明党のかつてのキャッチだからである。

しかしながら、「中道」が、民社党がいっていた意味になっているので、旧来の民社党が名前をかえた国民民主党へのあてつけなのか?なんなのか?が不明なのであるし、「改革」なら「痛みを伴う改革」をいう、維新を連想させる。

つまり、「自・公・立憲」政権の従来型に、維新を取り込んでなお、国民民主も仲間入り?にさせるといった、「大野合」の準備をやっているようにしかみえないのは、あまりにも安易ではないか?

トランプ政権2.0が仕掛ける世界規模の「追い込み猟(漁)」について行けないのではなくて、食われるばかりの「撒き餌」になっているのが哀れなのである。

「選管」が壊れている

今日27日、衆議院議員選挙が公示される。

アメリカでは、バイデン・ジャンプで有名な2020年大統領選挙の「不正」が証拠付きで暴かれている。

あの当時、「不正はない」といっていた言論人は、自身の発言をケロッと忘れたふりをして、いまでも悪びれずに上から目線の言動を続けている。

ふつう、これを「厚顔無恥」といい、「ウソつき」と評価されるものだ。

「民主主義」を実現するための根幹にある方策は、「選挙」である。
しかし、その選挙が不正によって歪めば、政治が歪み、国家が歪む。
ゆえに、国民生活が歪むのである。

むかしの「選挙違反」は、たいがい候補者がからんだ「買収」だった。

しかし、いまは、選挙管理委員会が堂々と不正誘導をしている。
その背後に、選挙管理委員会を統轄する「総務省=旧自治省=旧内務省」がある。
大臣以下の政治家は、6人いる。

大 臣:林 芳正(山口3区:下関市、萩市、長門市、美祢市、山陽小野田市、阿武郡)
副大臣:堀内詔子(山梨2区:富士吉田市、都留市、山梨市、大月市、笛吹市、上野原市、甲州市、南都留郡、北都留郡)
副大臣:高橋克法(参議院議員、栃木県比例)
政務官:中野英幸(北関東ブロック、埼玉7区:川越市、富士見市)
政務官:梶原大介(参議院議員、高知県比例)
政務官:向山 淳(北海道ブロック、北海道8区:函館市、北斗市、渡島総合振興局、檜山振興局)

さて、今回の衆議院議員総選挙で、神奈川県内の一部の選挙管理委員会が、解散から公示日までの期間が短く、しかも急すぎて入場整理券の発送が「間に合わない」ことを理由に、厚木市、海老名市、愛川町、清川村では、運転免許証やマイナンバーカードなどなどによる「本人確認を行わない」で期日前投票を受け付けることが報道された。

これよりも前に、同様の質問に山口県選挙管理委員会が「よくある質問」で、「公職選挙法上は、必ずしも写真付き身分証明書の提示による本人確認を求める規定はありません。」との回答をしている。

むろん、入場整理券がなくとも投票できることは重要だが、受付で「本人確認を要しない」とはなんのことか?

これぞ、アメリカ民主党が主張する「選挙の自由」だとすれば、噴飯物である。

問題なのは、山口県選挙管理委員会がいう「法的に定めがない」のであれば、歴代の総務大臣以下6人にあたった国会議員は、「公職選挙法」における「本人確認の義務」改正をすみやかに発議する、これこそ「義務」があったのではないか?

つまり、大臣やらの政府職員に就くことではなくて、ベースにある国会(立法府)議員としての職務怠慢が甚だしいと、責任追及されるべきものなのである。

さらに、21日には、小田原市長や都内の首長(多摩市長など)が、「業務が集中する時期の突然の総選挙を批判した」という記事がでている。

同情のかけらも感じない、幼稚な発言である。

こんな首長は、リコールの対象にすべきだ。

「選挙」の意味が理解できないのだから、自分が当選したことの意味も理解できていないはずである。

公正な選挙を約束する立場のものが、不正でもいい、というのは、完全なる「職務放棄」なのであるし、ましてや自分たちの都合で衆議院が解散できるともおもっているのか?

そらおそろしいことが、蔓延している。

高市政権は気づかなかった

23日、高市首相の意向をうけた衆議院議長が、「解散詔書」を読み上げて衆議院は解散された。

はたして、ほんとうに「解散権」なるものは、首相だけの『専権事項=伝家の宝刀』なのか?という議論が、そのまま憲法論議になるのは、「日本国憲法」自体に権能者とその行為をおこなえる時期などの条件が「ない」からである。

それで、戦後で初の解散をした吉田茂は、憲法69条の「内閣不信任案決議」を唯一の理由にしていたが、二度目の解散時には、憲法7条を基にしたので野党議員が、「違憲訴訟」を起こしている。

対して、最高裁は憲法判断を「せず」に、国民の政治判断に委ねられる、と逃げたことで、あたかも「7条解散=首相の専権事項」になったのである。
ようは、書いていないのだから判断できぬ」ということであって、衆議院の解散と憲法は、そのまま国民の責任とされているのである。

つまり、「憲法とは何か?」という根本問題についての、基本的な知識を教育する義務が政府にあるけれど、それをやると国民が賢くなるので「やらない」のは、戦時に捕虜などの身分を定めた「ジュネーブ4条約」にある、国民への教育徹底義務をいっさいやらない条約違反状態でも平気でいるのとおなじ構造である。

それはまた、原発の安全性が「法」で確保しているからと、スリーマイル島原子力発電所事故の教訓からできた、「マニュアル」輸入を、経産省が阻止したことのようなのだ。

想定外は想定しない。

これは、古代「言霊」の思想であって、言葉にしたら実現するから「しない」、「いってはならぬ」、「書いても読んでもならぬ」となっていて、昨今の事情変更にもかかわらず、「核武装」の議論さえもしてはならぬという論と、まったくおなじ論理構造なのである。

つまり、わが国は21世紀にしてなお、「古代宗教国家」のままなのである。

そんなわけで、今回の「解散に至る経緯」を俯瞰すれば、高市首相は、すくなくとも昨年末まで、「解散」をかんがえていなかったとおもわれる。
世界の表層でおきた「事件」は、イランのデモが12月28日あたりから燎原の火のごとくになったのと、3日のマドゥーロ夫婦の拘束劇である。

むろん、この間に、高市首相と岡田克也衆議院議員とのやり取りからでた「台湾発言」による中共の反発にどうするか?がある。
なかでも、6日に発表された、「レアアースの対日輸出規制」は、強いトランプ政権2.0からの締付けに対する「弱い日本」へのあてつけ制裁と理解すればいいだろう。

だが、これは日本経済には「痛い」どころではなくて、「失神をともなう激痛」となろう。

ようは、ここでの「解散」は、国内事情よりも世界情勢への対応に、石破政権で少数与党に落ちこんだ状態の巻き返しをしないと、対抗できない、といった発想がわいたのだと思われる。

しかし、昨年12月5日(日本時間)の、トランプ政権2.0が発表した、「アメリカ合衆国国家安全保障戦略」に、高市政権が無反応だったことの重大さをいいたいのである。

ようは、上に挙げた昨年暮れからの一連の出来事は、このアメリカ合衆国国家安全保障戦略に影響されていることはまちがいない。
その「戦略」に従って、22日、ダボス会議に300人もの団体参加したトランプ大統領は、なんと、グローバル全体主義者を前に、「平和評議会=第二国連」の発足式までやった。

それに、22日は、アメリカがWHOを脱退した日となったのである。

だが、WHOは、昨年の年度負担金をアメリカが支払っていないことを理由に、「脱退を留保」しているのである。
これは、WHO運営予算の22%にあたる巨額だ。

わが国は、WHOからの脱退どころか、平和評議会への招待をうけているのに「参加」どころか、「無視」しているヨーロッパに同調しているのである。

高市政権は、あきらかに「外交オンチ」である。

これはこれで、解散しても変化が困難なのは、既存政党がぜんぶ「オンチ」だからである。

3月に予定の、「高市訪米」がどうなるのか?は、日本国民の政治選択に委ねられている、のである。

歴史に残る司法の自殺

21日、2022年7月8日の安倍晋三前首相が暗殺された件で現行犯逮捕された、山上哲也(当時41歳)に、求刑通り無期懲役の判決がくだった。

本件の「闇」について、本ブログではいろいろと書いてきた。

残念ながら、納得できる説明がほとんどないままに、裁判が進行し、なんらの疑問・修正もなく判決に至ったのは、法治国家としての記念すべき「逝去日」となったといえるだろう。

この点で、教科書でおそわる1891年の「大津事件」から、大幅どころではない、しゃれにもならぬ事態となっている。
すくなくとも、大津事件では津田三蔵なる警察官(巡査)が斬りつけた「事実」がある。

それで、相手がロシア皇太子だったことで、ときの政府(第一次松方内閣)は「大審院(いまの「最高裁)」に執拗な圧力をかけたが、これを児島惟謙(こじまいけん)院長(愛媛宇和島藩出身)がはねのけて「司法権の独立」をはたした、とならうのである。

安倍晋三氏暗殺の場合、二度発射した山上の手製銃が凶器だと確定しているが、週刊文春2023年2月8日号における「疑惑の銃弾」にあるとおり、物理的に本当に発射されても適中することがありえないものが、全マスコミの「打ち消し記事」によって、「なかったこと」になっているのである。

むろん、山上の手製銃も、凶器として疑われることはない。

つまり、銃の性能と、上下左右の発射角度のふたつの「物理要件」に、重大な疑念がある事件なのである。
これに、犯行を否認しない、山上被告の「精神的な要件」が加わっている。

しかし、なんといっても、物理的要件の問題がきわめて重要であるのは、本人が殺意を持っていたとする事実があったとしても、実行ができるのか?にはなしが戻るからである。

殺傷力のない武器をつかった、では、犯行は達成されない当たり前がある。

疑念を異論として排除し、これを報じないのが「全社」にわたると、国民はみごとに騙される。
このわざとらしいマスコミの対応が、状況証拠にもなるのであるし、奈良県警の杜撰な対応と、ふたりの執刀医の真逆な見解もなにもが、山上犯人説だけに寄せられている。

そこで、22日に「安倍元首相暗殺の真相を究明の会」が奈良弁護士会館で記者会見を開いている。
ここで、会長の弁護士は、検察、山上被告の弁護人、それに裁判官が結託しているとの疑惑から、それぞれを告発する予定であると語っている。

このこと自体が、「わが国司法にとっての大事件」なのだ。

安倍氏との個人的な友情をつくったというトランプ大統領は、二度以上、「複数形をもちいた真犯人=やつら」について言及しているのである。

これはこれで、在京の大使館やらからの「極秘情報」の報告があったやもしれぬし、そういうことを思わせぶりにしているのである。

さらに、判決に関する「世界の報道」も、蒸し返しになるのを避けるがごとく、以上の疑念には一切触れていないし、暗殺からしばらくは、世界の指導者たちのおおくが「哀悼の意」をSNS発信していたのに、今般の判決に対するコメントがぜんぜんみあたらないのも、「ずいぶん(冷たい)」なのである。

なんにせよ、安倍晋三氏の弟子あるいは政治的な後継者と「いわれている」高市氏は、地元の奈良が舞台になった事件当時から本件には一切の言及がなく、「沈黙のひと」を貫いている。

このことも、わたしには、この人物の「仮面下の素顔」を想像して怖くなる原因なのである。

『煩悩☆西遊記』の顛末

『チ。』本作について関連づけて書いたが、いよいよ本作の最終話(第13巻)をみたので書いておく。

読後感想としてはじめにあるのは、日本仏教とは、ほんとうに仏教なのか?なる疑問である。

昨年の正月に観たのは、1961年公開の大映が総力を挙げたスペクタクル映画『釈迦』であった。

ややこしくなるのは、「釈迦」と「釈迦如来」のちがい、である。

「釈迦」は実在した仏教の開祖(いまのネパール南西部ゴータマ・シッダールタ)、をさし、「釈迦如来」は、悟りを開いた後の「仏陀」になったお姿を仏像にしたもの、である。
それで、「仏陀」とは、悟りを得ることをさすので、特定の個人をさすのとはちがっている概念なのである。

ここに、入れ子構造があるし、一神教的「神」とはちがうのに、なんだか「神々」といった扱いと混同してしまうのは、西方のギリシア神話との交わりが関係しているのだろう。

だから、仏教をしるには、キリスト教など他宗教の知識がじゃまになるのである。

むろん、キリスト教も、ギリシア神話だけでなく、たとえば、キリスト教が普及するよりも古くから北欧に伝わる「妖精の森」といった伝説が混じって、さらに「天使」との関係とか、「精霊」とのちがいとかと、これもけっこうややこしいのである。

この意味で、あらゆる宗教が「宗教になる」には、超自然的な現象や奇跡を信じることが前提となっている。

オリジナルの『西遊記』自体は、仏教、儒教、道教やらをパロディとして扱っているために、存外に「無神教」的な文学作品なのであると前に書いた。
破天荒で、なんでもあり、なために、芥川龍之介が幼少時から愛してやまなかったことの重要性がここにある。

その芥川の後輩にあたる天才が三島由紀夫で、三島をして『家畜人ヤプー』を戦後日本文学の金字塔とまで絶賛せしめたのはなにか?を問うと、芥川龍之介の『西遊記』絶賛につうじるものさえ感じるのである。

想像力の爆発。

しかして、本作がどのような青少年・少女を対象としているのか?は、掲載が「少年サンデーGXコミックス」なので、10代後半からの男性層であるとかんがえられる。
すると、これは一種の「恋愛・性愛マニュアル」だけでなく、一種の「女性理想像」を埋め込む機能も想定されていないか?と勘ぐるのである。

つまるところ、「少子化対策」の根底を刺激する意図があるかもしれない、と想像を膨らませる。

作者の、クリスタルな洋介氏にきいてみたい。

いやいや全部がパロディーです、との返答があるやもしれぬが、それはそれで想定内である。

ところがまた、『乙嫁語り』との併読で、あんがいと強力な相乗効果があるのではないか?
こちらは、おとな向けではあろうけれど、意外にも集合論的に被っていないか?と期待したくなるのである。