ダブルスタンダード(二重規範)とは、全体主義の手法として重要な役割・機能のある手段である。
つまり、とある思想(全体主義)に合致するように、言語的に処理する方法のことだといえる。
だから、全体主義にぜったいに与しない、自由主義の立場からしたら、「言論の自由」こそが自由の基盤なのであって、全体主義の言論すらも自由にさせるのである。
しかし、全体主義は言論の自由を許さず、「強制排除」を目論む。
そのために用意した言葉が、「多様性」とか、「持続性」である。
つまり、これらの言葉のダブルスタンダードでいう「本意」とは、「多様性を認めない」であって、「国民の不自由=政府の自由」なるゴールがあることなのである。
単一な着地点=全体主義における強制社会であるから、「共生社会」といういいかたも、「字」が違うけれども本音が見え隠れするのがわかる。
これらを支持する者たちの知能がおおむね低いとおもわれる理由は、自身も強制排除の対象であることに気づかいないことにある。
それで、レーニンはこうした支持者を、「役に立つ白痴」と呼んだ。
だからこそスターリンによる千万人単位の粛清も、白痴たちの「始末」として、まったく悪びれることなく粛々ととして実行された。
自分以外の人間を、「物質」としてだけかんがえるのが、「唯物論」だからである。
つまり、全体主義ではトップだけが人間で、それ以外は「物」なのである。
こうして全体主義の行き着く先は、たったひとりを頂点に置くために、それ以外の全員がじつは排除の対象なのであって、いつどうやって排除されるのか?を決めるのは、頂点のひとりが決めるだけのことなのである。
この構造は、旧約聖書の「神=ヤハウェ」とおなじである。
だから、ユダヤ人のマルクスが考案した「共産主義」とは、あたらしいユダヤ教だし、キリスト教、イスラム教にも波及するといわれるのである。
ヤハウェは、自分以外への信仰を否定・禁止したとおり、共産主義なる宗教は、共産主義以外のあらゆる宗教を否定するからイスラム圏で共産主義はタブーだったが、イランの坊主(イマーム)独裁は、「神の声」を聴いて伝える預言者ムハンマドの血筋によるものなので、見た目は反共でも中身の構造はおなじなのである。
ところが、これらの根底にある、「唯一にして絶対の神」という概念が、日本人にはない。
日本人のDNAにミトコンドリアよりも強力に入り込んでいるだろう「八百万神」なる概念は、根本思想としての「多様性」のことだから、千年単位での「持続性」をもっている。
それが、日本人にとっての「自然」だからである。
天皇という概念も、八百万神のトップに君臨する、という感覚ではなくて、八百万神を祀る祭主でしかないのは、天照大神の子孫、という設定なのにえらく謙虚だからである。
しかし、明治政府は、四民平等で契約の自由を確保するために、「現人神」を発明し、これを天皇にまとわせたのは、旧約聖書の構造を導入したかったからである。
だから、日本の共産主義者は、天皇を否定し憎みたがる。
共産主義者の中からの自分を含む誰か?が、絶対君臨すべきなのに、その席がとっくのとうに埋まっていて、永久に支配の構築ができないからである。
そこで、日本人の知恵は、「宗教的権威」を朝廷に、「世俗権力」を幕府に分担させることで調和させたのだった。
しかして、もうひとつ全体主義=共産主義者の知能が低いのは、「死」を想定しないことにある。
人間の個体は、かならず死ぬ。
そこで、強制支配も終了するのに、これをみとめない。
よって、これらの思想に取り憑かれた者共は、遺体の「冷凍保存」をおこなうのである。
そうやって、じつはいま生きている支配者の永久支配も意図しているために、イスラム教シーア派と似たことをやる。
まったく、宗教、そのものなのである。
そこで、現代日本人にはなしを戻すと、とくに「新興宗教」への警戒心が強いのは、マルクス主義以外の宗教を潰したいという思惑からであろうが、DNAにある八百万神からはなれることができない。
そのために、とうとうわが国の仏教も衰退して、「葬式仏教」さえも不人気になっている。
葬り方、葬られ方が簡素化しているのは、結婚式の簡素化と同様に、社会と個人の接点が希薄になっているからだろう。
これはあたかもマルクス主義の蔓延とみることもできようが、アトム化よりも孤独化だとかんがえると、奥深い。
それはまた、全体主義=マルクス主義への反発といえるからである。
この意味で、宗教者の発信がほとんどないことの方がはるかに深刻なのである。
昭和には、「怪僧」といわれた、今東光大僧正が活躍していた。
すると、なんだかんだと言いながら、昭和の発展の素地が健全だったとしれるのである。
それはまた、なんだかんだと言いながら、尋常小学校の教育が優れていたともいえる。
人間形成でもっとも重要な、初等教育が戦後に狂わされて、その狂った中から出てきた「エリート主義」が、さらなる狂気を生んでいるので、宗教も立ちゆかなくなったのである。
そこで、プーチンとトランプが「反動」として、同時に登場して「世直し」をやっているのである。

