宵宮の出店屋台のマンネリ

夏祭りや縁日、当然に秋の大祭でも賑わうのは屋台目当てのひとたちによる混雑が原因といえる。

肯定的ないいかたをすれば、これら屋台のマンネリが「昔ながらの懐かしさ」を全世代にもたらすことでの一体感ある人生経験を提供している、といえるし、これが日本の祭りなのだと、外国にはない文化的価値だともいえないでもない。

本来の祭りの主役たる神輿の担ぎ手がいないので、とうとう「よそ者」を募集したり雇ったりするようになって、「わっしょい」のはずの掛け声が「そいや」に変化し、いまでは「そいや」の方が聞きなれてきた。

たまに「わっしょい」を聞くと嬉しくなるのはわたしだけか?

ことしは、とある街の祭りで「よいしょ」が聞こえて驚いた。
そのうち「えっさほっさ」になって御神輿担ぎが籠かきになるのるのでは?ないかと心配する。

そういえば、時代劇が廃れて久しいから、現役世代で本格的時代劇を観て育った経験者はいないだろうから、こんなところに世代間のちがいが現れる。
むろん、外国人の担ぎ手には想像もつかない話題だろう。

わが家の氏神(うじがみ)が正式にはどの神社にあたるのか判然としないが、たまたま100年近く住んでいる土地の鎮守を氏神としているのである。

これは、人工的に開発された江戸よりもずっと新しい国策としての開港場・横浜の隠れた問題で、森林太郎鴎外が作詞した『横浜市歌』(1909年:明治42年)のなかに、はっきりと記録されている。

むかし思えば とま屋の煙
ちらりほらりと立てりしところ

ようは、開港前の横浜村は閑散とした漁村であって、砂州に数十軒の家が点在していた寒村(ほぼいまの「本町通り」で、JR横浜駅側とは陸地でつながっていなかった)だったのである。

それが、開港からわずか30年で人口約12万人になっている。

つまり、どこの馬の骨かわからないひとたちによる「移住・転居者のエリア」が横浜の本質なので、全国にある「藩」に住まう「昔ながら」のひとたちからしたら、ありえなほど「地縁」も「しきたり」もない。

ペストの大流行が波状的に起きて、人口の三分の一しか生存できなかったヨーロッパでは、街や村が全滅する事態もまれではなく、流れ者が勝手に居抜きで住みついたために、その素性を隠す最大の方法がキリスト教信仰に熱心になって(振りをして)むかしからのコミュニティが残っているとそれぞれの街や村で偽装して演じることが重要だった。

後ろ指を指されないための本気の偽装である。

それで、ヨーロッパ中、何処へ行ってもおなじように教会と広場を中心にした街づくりと、おなじような祭りが行われたのである。

この社会状況に乗じたのがローマ教会だった。

これに横浜もにていて、あたかも古代から続いてきたような風情を出しているが、それはまた、江戸の先行事例に学んだのだろう。
ゆえに、親子三代が横浜生まれでないと「ハマッ子」とはいわない、などというあり得ない定義をひっさげていた時代があった。

開港場として、外国公使からの強い要望が、幕府に近いオランダ公使からの進言で「横浜遊郭」が建った(その跡地が「横浜スタジアム」のある「横浜公園」である)が、肝心の運営方法の指導は江戸吉原の「三浦屋」だったというのも、江戸がが先行事例の具体例である。

外国船員たちのエネルギー発散の場が、いまでは地元市民のエネルギー発散の場となっている共通がある。

こうやってかんがえると、テキ屋=香具師(やし)については、1872年(明治5年)に、「香具師」を名乗ってはならない布告がでて、それからなぜか「的屋(テキ屋)」と呼ぶようになった。

一説には、そのときに当たる(売れる)ものを仕入れて売る的確さから由来するとか、香具師を、「宿街(宿や街)」をの「宿(やど)」をヒックリかえして「ドヤ街」のようにいったとおなじで、「やーてき」いったという説もあるらしい。

前者だと、『男はつらいよ』の「フーテンの寅さん」そのままである。

すると、いまの夜店に寅さんのような口上をもって、ときどきに売れそうなものを売る、という光景は絶えていることに気づく。
むろん、寅さんが扱うのは怪しげな商品ばかりではあるけれど、はるかに貧乏だった当時にして、これを求めたひとがいたのは、口上のお楽しみ料を払う精神的余裕のたまものか?

生活の余裕という意味では、70年代に大流行した「高級オーディオ」も、自宅でゆっくりウィスキーでも舐めながらレコード音楽を聴く時間があったことの裏返しなのである。
その意味で、日本人は「ウサギ小屋」に住んでいたのとはちがうし、いまやわが国の住宅事情はヨーロッパ庶民よりずっと高いレベルにある。

しかして、屋台のマンネリは、いったいどこからくるものか?

全国、だいたいおなじ種類の屋台ばかりなのである。
これはこれで、組織が寡占化しているからなのか?

それでも、生ビールの屋台があるのは日本的で、昼の路上や公園でビールを飲みながら歩ける国は、すくなくとも欧・米ではありえなくなっている。

なるほど、これはこれで、「国際観光資源」になっているのである。

道端で外国人たちがたむろして嬉しそうに一杯やってご機嫌なのは、自国ではあり得ない行為(即座に逮捕される)だろうから「日本ならでは」として結構なことではあるが、それが嵩じてどうなるか?に、念のため注意がいるのは、欧・米の先行事例があるからである。

西部の伝統「無法地帯」

映画で「西部劇」というジャンルが消えて久しい。
イタリア映画には、「マカロニウェスタン」なる区分もあったが、これら全部は、とにかく「無法地帯」における「武力制圧」を楽しむものだった。

正義の保安官か旅の途中のカウボーイがヒーローで、街のならず者たちを退治する。

おおまかなストーリーは、日本の時代劇と大差ないが、日本だと「チャンバラ」で、あちらだと銃だった。
ただし、悪の設定が日本ではお代官様や悪徳商人と相場は決まっているけれど、あちらだとそうはいかないより無法なサバイバルなのである。

とにかく西部は、人跡未踏の地、という設定だったから、インディアンは人間扱いされない。

これを野蛮な歴史だったと大反省したのが、カリフォルニア州のエリートたちで、逆に歴史を遡及して「ネイティブ・アメリカン」の権利復活と保障に躍起になっている。
それでこうした思想が、全米に拡散し、カナダに到達したら、カナダ政府は土地所有権の否定をはじめたので混乱が広がる事態となった。

わが国では、アイヌがその対象になったのだが、はたしてアイヌはネイティブ・ジャパニーズなのか?となると、議論がある。

平安時代に、初代征夷大将軍となった坂の上田村麻呂の、「征夷」とは、中央政府に従わない東北地方(陸奥)より北に住む「蝦夷(えみし)」を「征服する」ことを目的としたけれど、それから約千年後、江戸幕府が北海道を「蝦夷(えぞ)」といったので、漢字表記からの混同・混乱となっている。

いまでは、縄文人の譜系から西日本の大和朝廷と、東日本の日高見国との関係から紐解かないと、「蝦夷(えみし」が理解できない。

東部13州からはじまったアメリカ合衆国の歴史では、とにかく大陸を西進して領土拡大をすることが優先されて、西海岸からとうとう太平洋のど真ん中、ハワイ王国まで征服した。
それから日本へと、ペリー艦隊がやってくるが、彼らはインド経由できているので、太平洋を横断してきたのではない。

さてそれで、アメリカ左翼の牙城といえば、西海岸のカリフォルニア州と東海岸のニューヨーク州なのは、どちらも「港」が富の源泉だったことに由来する。
「国際化」とは体の良い言葉だが、いまどきならば「グローバル全体主義」に染まってしまったといえるのである。

このあたりは、かつての世界最大港だった「横浜」にもあてはまる。

横浜の異国情緒とは、景色だけのことではなくて、そこの住民たちの先進性がそのままグローバル全体主義に染まりやすいことにあるとしっていていい。
だが幸いなことに、アメリカほどのダイナミックさに欠けるから、チマチマと先進性を自慢していたら東京にやられて、人口だけがある一地方都市におさまっている。

カリフォルニア州の中でも、サンフランシスコとロサンゼルスが二大都市である。

この州だけで、わが国のGDPを上回る経済規模だが、彼らの「無法のDNA」は、日本人のそれとはまったくちがう、モンスター級なのである。

それで、秋の中間選挙にあわせて実施予定のロサンゼルス市長予備選挙で、アッと驚く結果がでた。

ふつう、二大政党制のアメリカの場合、予備選挙といえば、民主・共和の双方が、それぞれ自党内で本戦候補者を選定するものだが、この市の場合はどの政党であれトップ2名による決選投票がすなわち「市長選挙本戦」なのである。

それで、民主党現職と共和党、それに民主党の極左の候補が予備選で争ったが、民主党極左の候補は早々に「敗北宣言」をだしていた。
だが、結局は共和党候補が逆転敗北したのである。

その負け方が、まるで「バイデンジャンプ」状態だった。

カリフォルニア州では、ホームレスが投票できる仕組みがあるけれど、どうやら2ドル3ダルといった金額での買収があったと報じられている。
敗北した共和党候補は、本戦後にこの不正を暴いた証拠を官憲に提出すると宣言しているので、民主党のどちらの候補が勝利してもスキャンダルになる可能性が高い。

アメリカの中間選挙は11月3日投票と決まっているが、その前の10月に、カナダ・アルバータ州の住民投票が注目されている。
カナダからの独立=アメリカへの編入を目論んでいるものだ。
この州は、カナダ随一の保守州なので、ずっと続く連邦の左翼政権に嫌忌しているのである。

トランプ大統領が、カナダを51番目の州に、といったのはこのことか?

無法地帯はどこまでも続いている。

メルケルの正直だが迷惑な告白

アンゲラ・メルケルなる人物は、旧東ドイツ出身ということもあって、戦後ドイツの進歩的な、つまりとまらない伝統的市民社会の解体に大きく貢献した政治家だといえる。

ようは、破壊(女)神である。

彼女の治世があまりにも酷いから、出身地の旧東ドイツでは、真逆のAfDが圧倒的な支持を得ているのだろう。

ドイツ国内では、エネルギー転換をはかり、すべての原発を廃止したかわりに、フランスの原発で発電した電気を輸入することで、高コストを決定づけてドイツ経済の基幹を破壊することに成功した。

むろん、支払は「ユーロ」であるので、自国で印刷できた「ドイツマルク」のノーコストとはぜんぜんちがうほんとうのコストがかかる。
ギリシャやイタリア、スペインへの域内貿易で稼いだユーロを、フランスへ移転させるためのである。

フランスはアフリカ植民地からのウランをもとに原発を低コストで運転しているが、アフリカからの利権で3割ものGDPを得ているために、現代フランスにとってもアフリカ植民地は重大な搾取の源泉なのである。

そこに、プーチンのロシアが割り込んできて、フランスの植民地支配を揺るがしている。

これが、ウクライナを利用したロシア憎しの連鎖構造である。

それでもって、オランド元フランス大統領とメルケルは、「2014年ミンスク合意」が紛争解決のためではなくて、ウクライナがロシアに対抗するための軍事的時間稼ぎだったと認めたのは首相退任(2021年12月)から約1年後のことであった。

これを、フランス人とドイツ人はどのように感じたのか?はぜんぜん報道されないが、驚くほどの無責任な告白である。

こうしてみると、ドイツはヒトラーのナチス以上に、壊滅的な内部破壊がサイレントな方法で実施されているのだが、これに気づかないドイツ人が多数派であることにもっと驚くしかないのである。

しかして、今般、メルケルはカメラの前で、(ドイツ国内の)「極右」を阻止するために意図的に第三世界からの移民で洪水のように埋めつくした、と認めたのである。
つまり、民主党バイデン政権がやったとおり、「有権者の大量輸入」をしたのであって、まったく人権や人種あるいは宗教的な差別問題への対処とはちがう。

だから、じつはこのように、人権や人種あるいは宗教的な差別問題への対処をかんたんに口にする者共の「ウソ」が、いわゆる国民国家を内側から破壊し、その気の毒な対象者たちを好き放題に利用する、差別主義そのものを実行しているのである。

昨今、アメリカで民主党離れが広がっているのは、民主党支持だったアメリカ人がこの欺瞞と差別主義こそが民主党の本質であると気づいたからであって、まさに人種とは関係ないし、むしろ、共和党トランプ派への転向は、黒人層、エスニック層にこそ顕著なのである。

しかして、メルケルがなぜにこの時期にかくなる「告白」をしたのか?と問えば、EUが域内各国における12日からの「EU移民・難民協定」が発効したからであろう。

つまり、彼女にとっては「勝利宣言」のタネ明かし、だとおもわれる。

なにせ、メルケルの直弟子が、EU委員長フォン・デア・ライエンなのだ。

ナチスより質が悪い者共がEUを仕切っている。

いよいよトランプとプーチンが、対EUの共同作戦を展開するにちがいないが、わが国では「反プーチンの宣伝工作」も盛んである。
これがどのようなカネの流れで実施されているのか?を調べる術がないのは、日本国民の悲劇である。

いまネット界隈では、あの「文藝春秋」が特定アジアの国からのカネで買収されていたとのはなしで盛り上がっている。
ずいぶん前にこのブログで、文藝春秋社が出していた『諸君!』について書いたから、とくになんの感慨もない。

基本的に、新聞も雑誌も「文屋」という下賎な商売人(売文稼業)が書く「消費財」なのである。

けれども世界をうごかす政治家が、あたかも売文稼業のごとくの無責任では、生活に困るのは国民なのである。

すると、果たして民主主義への疑念と限界を問いたくなる。

愚民が投票権を行使すると、移民が輸入されて、たとえばドイツに縁もゆかりもないばかりか、地域への愛情もないともなれば、まったく「逆ペスト」のような、不可逆な文化破壊が起きて、移民たちにも暮らしにくい地域ができる。

歴史的愚策、としかいいようがない。

世界大百科事典

わが家の家財整理にあたり、「平凡社世界大百科事典」(1964年)全24巻他別冊として日本地図、世界地図付きをどうするか?となった。

近所のブックオフに質問したところ、一冊5円、との評価だという。
ヤフオクでは、全部で500円の落札価格が散見する。

それで、廃棄を決めたがせっかくなので電子版の存在を確認したら、2022年に最新改訂版がリリースされていたので、ipad用を購入した。
こちらは。約2万円であった。

理由は単純で、ウィキペディアが信用ならないからである。

いい悪いの議論ではなく、「平凡社世界大百科事典」は、いまや現存するわが国で唯一の「百科辞典」なのである。

むろん、いま流行のA.I.を信じてはいない

うっかりなにかと「ググる」ことが癖になっているが、第一の検索は電子版で複数ある「国語辞典」としても、第二に「百科辞典」があるのは頼もしいことになる。
じっさいに、検索機能やらが充実している電子版の工夫された使い勝手の良さは、紙版を上回る。

その意味で、一層、ipadが手放せないこととなった。

それにしても、一冊5円、との評価額はずいぶんである。
いっそ、全巻をスキャンしてOCR処理したPDFにでもしようか?とおもったが、今度はデータが膨大で、検索が重くなると懸念したのである。

国語辞典といえば、毎年新学期の4月に『物書堂』さんが提供する電子辞書群が「お買い得キャンペーン」の対象になるので、今年は「精選版日本国語大辞典」を購入したが、これが一番わかりやすい。

小型国語辞典たちと串刺し検索ができるので、「定義」と「意味」の確認がすこぶる快適となったのである。
残念ながら「世界大百科事典」は、物書堂さんの扱いはないので、別に検索しないといけないけれど、この二段階検索が、かえって鬱陶しさから解放されている。

学習に専念する児童や生徒・学生に対して、電子辞書をつかうのがよいのか?紙の辞書がよいのか?という議論がある。
電子辞書は基本的に「アクティブ検索」がメインなのであるけれど、紙の場合は「パッシブ検索」もできるために、調べたい言葉の周辺にある事項も読もうとおもえば簡単である。

「辞書を読む」のは、学びに専門の児童や生徒・学生にとってあっていい体験となることはまちがいないけれど、学校がデジタル化推進の一大基地化している現状では、紙の辞書をめくって読むということさえも推奨されないのであろう。

智の劣化を推進している、ともいえる、じつは怖ろしいことが企図されている気がしてならない。

そんなわけで、爺になって「世界大百科事典」を読んでどうするのか?という話になるのだが、わたしの周辺の近しい人物たちが相次いで物故するなか、宗教的な感覚ではなくて、量子論からの「意識の永遠」が興味深くなったのである。

つまるところ、アカシックレコードに書き込まれることの意味に重さを感じる。

なので、閑にかこつけては「辞書を読む」のが、老後の基本ではないかとかんがえた次第である。

FIFAとは何者か?の疑問

2026年サッカー・ワールドカップが11日から7月19日までの日程で開幕した。

開催地は、アメリカ、カナダ、メキシコの共催となっている。

その直前、アフリカ大陸ナンバーワンの審判、ソマリア人のオマル・アルタン氏が、アメリカ入国ビザを持ちながら、11時間にわたる入国審査の結果、入国を拒否されたことが「差別」だとしてトランプ政権2.0へのお決まりの批判となっている。

むろん、トランプ氏が損害賠償を求めているBBCの、懲りない編集方針がみてとれるので、エンタメとして楽しむには丁度いい。

サッカー・ワールドカップも、オリンピックも、所詮は暇を持てあますヨーロッパ貴族たちのためのエンタメなのである。

ちなみに、アメリカでは入国ビザは国務省が発給し、入国審査は国土安全保障省が担当している。
わが国では、ビザは外務省、入国審査は法務省の外局たる出入国在留管理庁が管轄しているので、アメリカと近い。

そもそも今回の「事件」は?というと、どうしてサッカーにそれほど熱心とはいえない「北米」のアメリカとカナダが共催地となったのか?に話がさかのぼる。
ここから、FIFAという組織の決定判断が疑われるけれども、体質的に国際オリンピック委員会と似ているのではないか?ともおもわれるのである。

つまり、腐敗の体質である。

それで、最終トリガーとなって顕在化したのが、オマル・アルタン氏の入国審査結果、であった、といえる。

昨年から、アメリカのミネソタ州ではソマリア移民たちによる「公金詐欺事件:470億円規模」が、ソマリア系連邦下院議員のイルハン・オマル女史周辺にも及んで、一大政治スキャンダルに発展しているし、2024年大統領選挙では民主党の副大統領候補だった同州知事のティム・ウォルズの不法行為疑惑に拡大しているのである。

つまり、民主党の組織犯罪が捜査の対象になっている。

そんな状況下でも、FIFAは、大会開催目に審判団をフロリダに集合させることを決めていた。
フロリダ州は、トランプ大統領の別邸がある拠点地であるから、入国審査が厳しくなることも事前に当局との協議事項にならないはずがない。

だが、FIFAは、なにもしなかった。

しかして、ソマリアは海賊が有名であるが、「アル・シャバブ(「若者」の意)」というテロ組織があって、これはあの「アル・カイダ(「拠点」の意)」と連携していることでしられている。

アメリカ入国にあたって「オマル・アルタン」で入国審査官が検索したら、「アル・シャバブ」の幹部に、同姓同名がヒットしたという。
それで、本人への長時間尋問となったが、疑惑が晴れないために入国拒否の決定となったのである。

表の顔は国際サッカー名審判で、裏の顔はテロ組織幹部という、なんだか『必殺シリーズ』のような展開になった、ということなのだ。

すると、本件で本人への援助もなにもしないばかりか、なぜに審判団をアメリカに集合させたのか?となって、FIFAは、なにをしたかったのか?という疑惑になるのである。

なににつけてもトランプ政権2.0を批判したいマスコミは、ここぞとばかりオマル・アルタン氏を被害者として協調しているが、真実の追究がないのはいつもの通りだから、本件も含めて一般人にはエンタメとなっている。

なんにせよ、トランプが悪い、というイメージが刷り込めればそれでいいからであろう。

いまいちど世界地図をみれば、アデン湾をはさんでイエメンの南に位置するのがソマリアである。
アラビア半島のホルムズ海峡と双璧を成す、紅海と地中海を結ぶスエズ運河の入口にあるバブエルマンデブ海峡がひかえる戦略上の重要地域なのである。

ヨーロッパ貴族によるちょっかいが気にかかる、トランプ政権2.0への攻撃が目的なのか?とも疑っていい話であった。

普通ではない不公正な選挙

20世紀になってから、民主主義国家では「普通選挙」が普通になった。

だが、「普通」とは、あんがいと普通なことではない。

生活で身近な「普通」に、たとえば高校(「高等学校」とはいうが、じっさいは「後期中等教育」と定められている)の「普通科」でいう「普通」とは、「職業科」とか「専門科」と区別しているし、その意味は「一般的:基礎的な教科を幅広く学ぶ」ということになっている。

なので、さらに進学をするのなら、その学びの「土台」となる基礎学力を得ることを目指すのが、本来の設置目的となっている。

生活に密着した「普通」の別の例に、「普通電車(列車)」がある。

これは、乗車券だけで乗れるという意味の「普通」で、路線にある全部の駅に停車するために、誰でも乗車できるから「普通」なのである。

ちなみに、陸上自衛隊でいう「普通科」とは、「歩兵」のことである。

しかし、歩兵が「普通」なのは、地上戦における主力だからであって、陣地戦やら占領地域の拡大・確保など、戦争においてもっとも重要な要素を担当している。
むろん、地上部隊が軍政を敷くのが「普通」だから、GHQを率いたダグラス・マッカーサーも、普通科のトップだといえるのである。

わが国では、日本国憲法第15条3項に、「公務員の選挙については、成年者による普通選挙を保障する」とあって、選挙には普通選挙以外の方式があることを示唆している。
ここでいう「普通」とは、すべての成年者に選挙権、被選挙権を与える、という意味の普通である。

ざっと大正時代までは、財産による選挙権・被選挙権の制限があったし、性別による制限も昭和20年まであったのである。

公務員を選ぶ選挙(公職選挙)が、公正に実施される、と信じるのは、選挙管理委員会なる公務員への全面的かつ無条件な信頼があってのことなのであるが、それがしっかり実行されると担保するものはなにか?を問うと、あんがいとユルユルなのである。

むろん、町内会や自治会が、区役所や市役所などの「下位組織」として扱われているので、選挙のときも実務は町内会や自治会の会員たる住民が「お手伝い」をしている形式となる。
けれども、この「お手伝い」さんたちが、ある意志のもとで一斉行動したら、選挙管理委員会から派遣される役人のしったことではないことも行えるのである。

その姿をも描いたのが、『原子力戦争』であった。

さてそれで、わが国をして上の疑問があるのだから、ましてや外国をや、となる。
アメリカの2020年大統領選挙における「不正」は、いまや陰謀論ではない現実の出来事として社会問題となっており、官憲による捜査・逮捕・起訴がはじまっている。

邪悪なEU委員会の露骨な介入は、アメリカで民主党による組織的なでっち上げが証明された「ロシア疑惑」そのものをコピーした噴飯があるが、それでも、モルドバ、ルーマニア、ハンガリー、アルメニアでは、白昼堂々の不正が認められるものであった。

ちなみに、A.I.は、これらの選挙不正の真犯人はロシアだとして、それに対抗したEUを正当化する大ウソがプログラムされている。

今年予定の選挙で、大注目なのはアメリカの中間選挙とイスラエル議会選挙である。
おそらく、イスラエル議会選挙の方が9月頃とみられるので、アメリカの中間選挙より先になることも、タイミングとして中間選挙に影響するとかんがえられる。

そこで問題なのが、ネタニヤフ政権のゆくえ、なのである。

はなから「連立政権」であるが、連立を組む「正統派ユダヤ教政党」が、とっくに離反をはじめているばかりか、前に書いたように、イスラエルの人口構成で最大となっているのが、ロシア系移民なのである。

つまり、ネタニヤフ政権が終わる可能性が高い。

このことが意味しているのは、「大アブラハム合意」の現実化への重大な布石となることだ。

さすれば、前人未踏の「中東和平」の実現に大幅前進となる。

一方で、ネタニヤフ氏には「汚職裁判」があって、政権を失えば「有罪」となる可能性まであるために、いかなる不正を考案するのか?となるが、国民の厭戦気分がトドメを刺すことになるのだろう。

それにしても、「普通」な選挙とは、幻想なのかもしれないのである。

「自分探し」の蟻地獄

世間や他人との協調のために自己否定し、自分を見失う人間ばかりの社会となっている。

集団主義的=全体主義的社会で、管理と支配がしやすいのは、確信的偽善で善意を訴えることができる、すなわち、偽の道徳、をもって本人に自主的な行動だとおもわせるメカニズムが作動するからである。

それでも自分は何者なのか?という根本的な不安が解消されるわけでもないのは、そもそも自分とは何者なのか?は「自分ではわからないもの」だからである。

このブログでは、ときたま「量子論」にまつわる話題を書いているが、「量子もつれ」が実験で確認されて、いよいよ「わからないこと」がわかってきた。

たとえば、量子の中の「電子」が原子中のどこにあるのか?についての大議論で、電子は確率論的にあることはある、けれど、どこにあるかは特定できない「重ね合わせ状態」にある、というのが結論なのである。

このことが、「原子」のなかの実際なので、地球も含めた宇宙の物質は全部この結論に従うこととなっている。
むろん、人体も物質のなかの一部だし、脳が量子コンピュータかもしれないことで、「意識」すら、量子論の議論のなかにある。

つまり、「自分とは何者なのか?」とする「(自己)意識」も、電子が原子の中のどこにあるのか?とおなじく、どこにあるのか?という問題となっているのである。

だから、肉体を失った瞬間(つまり「臨終」のとき)、意識はどうなるのか?をかんがえることになって、さいきんの仮設では、「意識=重力」だという議論まである。
臨死体験と量子論が近接していて、とうぜんに宗教(教義)とも関係する。

まったく、『マトリックス』で表現されたごとく、個体の幻想が共鳴・共振によって全体の共通認識になっている世界なのである。

すると、「自分探し」をしたいなら、量子論を学ぶことがもっとも近道なのである。

自分とは何者なのか?という問いは、宇宙とはなにか?とおなじ問いになるからである。

ニートになって家でボンヤリと自分とは何者なのか?を問うならば、おなじ時間をつかって、量子論の勉強・研究をした方がいいというのは、ニート生活を否定したいからではなく、それが実利にもなるからだ。

その思考過程を文学にしたら、アシモフを超える作品が誕生するかもしれない。

かつての「登校拒否」が、いまは「不登校」といわれるようになったけれども、いまだ不登校を選択した子供の方が異常視されるのは、多勢に無勢の絶対的民主主義だからか?
もしや、不登校の方が正常で、毎日他人から管理されに登校できる方が異常ではないのか?と思考実験したら、量子論のごとく正常と異常のちがいの曖昧さに気づくのである。

だから、管理したい側は、管理される側にあたかも自由があるがごとく宣伝する。

しかして、管理される側は異常値やら統計的な外れ値に敏感となり、自己責任の判断で、管理する側が定た正常値の範囲に自分をおくように努力することになっている。
それでもって、異常値あるいは外れ値にあると管理する側からの指摘によって、順応するのか拒否するのかという二択を迫られるのである。

以上のようになっているものだ、と認識すれば、「自分探しの強要=自分らしさの追求」とは、じつは管理側に都合よく「ふるいにかける」行為なのである。

その管理画の意図とは、当然に全体主義社会に変革することである。

そうやって、絶対王政ならぬ現代の絶対民主主義によって、管理される側は蟻地獄に落とされるのだが、そんな状況を「自ら率先して選んだ」ということにするから、まったくの蟻地獄なのである。

これを、1906年(明治39年)に、夏目漱石が『草枕』の冒頭に書いた。

こんなことを、6年前にも書いていた

ラッキーな人手不足

「不足」をどうするのか?

これがほんとうの「発明の母」なのである。

たとえば、70年代から80年代の「激動の時代」は、それまでの惰性(高度経済成長も)とちがって、世界的な「不足」を原因としていたことはまちがいない。
わが国と西ドイツ(当時)を潤した高度経済成長は、西ヨーロッパの戦役被害復興と、東ヨーロッパがソ連に分断されて生じた「物不足」が原因であった。

しかし、新しい時代の70年代から80年代には、そのモノづくりのための基本的ね資源である、アメリカドルの信認が揺らいだことと、ほとんど同時におきた石油ショックで、とにかく「石油(エネルギー源としてと素材原料として)」が不足したのである。

ちなみに、アメリカでは1930年代に「人手不足」が起きて、そのために「経営革新」が行われたのだった。

ところが、70年代から80年代のアメリカ人は自国内の油田を掘りまくって中東からの石油依存を減らす一方で、「ペトロダラー」を発明して、ほとんどタダで中東の原油を手に入れることにも成功したら、「省エネ」が吹き飛んでしまった。

不足を充実でカバーする安易さが、傷を深めることとなったのである。

タダで中東の原油を手に入れたとは、FRBが印刷した紙切れのドルを決済につかいまくったことをいう。
それがつぎに、「オイルダラー」となって、さらにヨーロッパでは、「ユーロダラー」に姿をかえて、アメリカ一国の経済政策効果を薄めたのである。

対して、ヨーロッパに属するドイツでもない非力なわが国は、ドルと石油のダブルショックをまともに受けるはめになった。
それが象徴が、トイレットペーパー騒ぎであり、「経済の福田」を自称していた自信過剰の福田赳夫が「狂乱物価」と迷言を吐いたのである。

しかして、当時のわが国は「光化学スモッグ」が子供を襲い、体育の授業での校庭で生徒がバタバタ倒れる事件が頻発していた。
そこで、ホンダがクリーンエンジン開発(排気もクリーンだが燃費が驚異的の省エネ)に成功したことで、「世界のホンダ」となる。

むろん、日本政府(通産省)は歴史的にホンダの自動車事業を妨害していたが、このエンジン開発にも茶々を入れていたほどであった。
この役所は、とにかく経済成長に役立たないためにある。

ところが、イラン革命(第二次オイルショック)で、さしものアメリカも省エネに走らざるを得なくなって、ホンダの小型車が世界を席巻することとなった。

ひとの手柄を盗む癖があるのが役人だから、あたかも日本政府・官僚の優秀さの証明のごとくの自画自賛たる宣伝を国民にやって洗脳したのである。
ホンダには「忸怩たる思い」があるはずだが、適度に役人をヨイショしないと、またどんなイジメにあうかしれないから知らんぷりをしているのだろう。

逆に、今日、ホンダが苦境にあるのは、役人のいうことをそのままに、EVシフトしたから失敗の憂き目をみているが、これを「経営責任」と一刀両断にするのが役人のこれまた責任逃れなのである。

忸怩たる思いをしたくない、というのがリスク管理だと勘違いする精神の弱さが、本田宗一郎の哲学を無視させたことが最大の原因なのであろう。

そんなわけで、「不足」には、「どうするのか?」を根本的に対策すれば、大きなビジネスチャンスになることは、歴史が証明している。

いま、「人手不足」をいうなら、その根本対策を発明したものが成功者となる。

けれども、人手不足だから外国からの移民をもって埋める、という対策は、もっとも安易なものなので、外国人人材紹介業なる一部にしか恩恵がないし、一般国民の社会福祉の向上(たとえば治安維持)にも寄与しない。

それで、次元のちがうA.I.に業務をふれば人手不足が解消するという幻想に惑わされて、サラリーマンが社長をやっている「無責任体質」の企業(おおくは大規模模投資が可能な「大企業」)が、なんと新入社員の採用数抑制までやっているのである。

しかも、わが国の大企業は発行株式のおおくを外国人投資家に買われている実態がある。
なお、金融機関等による「株式の持ち合いを禁止」したり、「自社株買いの解禁」をしたりしたりしたのは、そのための準備であった。

この政策も、経産省=自民党(アメリカ民主党の手先)が積極的に展開したものだから、彼らの本質がわかりやすいのである。

さてそれで、大企業やらからの採用に漏れた若者は?といえば、「ニート化」するようにも仕向けられて、一生のうちでもっとも業務の基礎を習得する時間を無駄にしている。

それもこれも、貧困化計画のうちにあって、将来の「社会主義・共産主義=全体主義」体制をつくるための壮大な「被害者創出」なのである。

ひとは、貧すれば鈍する、からである。

そんなわけで、こんなときに採用する側の中小零細企業が自己卑下してもはじまらない。
一生食っていける技能を修得できる、修得させる、ということをいかに社業として本気で取り組むか?が将来を決めるし、ニートを放置せずに、一生食っていける技能を修得しないとえらい人生になることを、本人に納得させないといけないのである。

それができる、ラッキーな人手不足、となっている。

「勝ち組」、「負け組」論の日和見

ふるくは第二次大戦中から日本の敗戦が決まった戦後となっても、ブラジルの日系移民のなかで、日本の勝利を信じるひとたちを「勝ち組」、敗戦の事実を認めるひとたちを「負け組」と呼んだことが「語源」のようである。

いまでは、社会的地位や収入のあるひとと、ないひと、との格差を表現する用語になっている。

ブラジル移民一世の厳しい生活は、ほとんど日本政府による詐欺的な情報操作からの「棄民」被害者であったとおもわれるが、片道切符で渡航したひとたちが後から気づいて嘆いても現地で暮らせるはずもない。

それで、大和魂を発揮して、緑の地獄を開墾し、いまの生活に落ち着いたのは、これぞ尊敬に値する自助の賜物なのである。

しかし、本土の日本の発展スピードが速すぎた。

ために、あたかも南米日系移民の貧しさが取り上げられることがあるけれど、日本が失ったオリジナルの日本人の残像があるだけでも見事だと感心するばかりなのである。

ときに、負けをあっさりと認めるばかりか、国家資産である軍用品などの物資を私物化して、まさにソ連崩壊後のロシアやウクライナの「オルガルヒ(新興財閥)」のごとく、闇屋を牛耳って巨富を得た人物たちの暗躍を、いまどきの日本人は無かったことにして消し去っている。

「満州ゴロ」とかをはじめとして、政府や軍は利権の構図でコントロールしていたが、コントロールされる側が交換条件として富を得るのは、古今東西の共通である。

そればかりか、勝った連合軍、総じてアメリカ軍に日和りながら、同胞の支配に精を出した輩を英雄視するのはいかがなる精神からのことなのか?
これぞ、いまようの「勝ち組」の元祖ではないか。

その共通は、「いまだけ、カネだけ、自分だけ」に集約される。

いまこの刹那だけでもカネがあって好きにつかえて贅沢を楽しみ、それを自分だけで興じることができれば、他人なんぞは知ったことではないという精神構造である。

むかしは、エリートといえば、武士道が当然で、あの下賎なヨーロッパにも、ノブレスオブリージュが19世紀のフランス貴族社会から常識になったものだ。

しかし、戦後社会のいま、日本もヨーロッパも、エリートがこぞって「いまだけ、カネだけ、自分だけ」を平然と追求して恥じなくなったのである。

それは、大勢に日和ると得をする、という浅はかな民主主義の蔓延から始まるのである。
これを専門家や学者も真似て、中身は日和るものでも、肩書きだけでものを言えばそれでカネになる。

そうやって、いつの間にか「反骨精神」は世の中から雲散霧消して、個別に反骨精神を言動にすれば、変わり者として損ばかりすることになった。

だから、あたかも予言者のごとく、過去に言ったとおりのことが起きて、「あなたの言った通りになりました」と褒められることがあっても、ぜんぜん嬉しくもなんともない、と福田恒存が『諸君!(昭和55年6月号)』で書いている。

自分が社会を動かしてそうなったなら褒められもしようが、社会の方から勝手に寄ってきたものを、たまたま言い当てただけだからである、と。

こうやってひとに擦り寄ってくる者の浅はかさは、常に目先の損得勘定で日和ることしかないから、結局は信用を失うのだ。

コロナ禍において、21世紀にかかわらず「マスク警察」なる正義の集団が登場したのも、「五人組」を笑えるはなしどころか、ぜんぜん変わりようのない全体主義の価値観が継続していることを示したのである。

つまるところ、「お上=政府」よりも、「勝ち組=正義」だと信じる「負け組」たちの勘違いの上昇志向に翻弄されるのであって、それがまた「監視社会」をつくり、政府がこれを利用することとなるにちがいない。

世知辛い世の中とは、自分たちでつくっているものなのである。

「キーボード沼」の正体

入力デバイスとして、やっぱりキーボードが主流なことに変化がない。

それなのに、わたしも含めてキーボード沼にはまりこんで抜けられないひとがおおいのは、単純に「決定版」がないからである。

これが嵩じると、パソコン選びでもつまずくことがある。

たとえば、ビジネスマンに圧倒的信頼と人気の、パナソニック「レッツノート」シリーズは、「カスタムモデル」と称しても、もう「日本語配列キー」しか販売されていない。

アメリカメーカーのHP(ヒューレットパッカード)さえ、「メイドイントーキョー」を謳いながら、やっぱりカスタムモデルなのに、「日本語配列」のキーボードしか選択できないのである。

それでも、HPは以前、エンターキーの右横に余計なキーが縦配置されていて、おおいに不評を買ったものだが、最近の「日本仕様」では、これが廃止されてやたら高評価されている。

レッツノートと同様に、画面も「ワイド」よりずっと縦長になる「4:3」なのが有り難いのもある。

それでもしつこいようだが、日本語配列キーなのだ。

「ローマ字入力」するわたしにとって、「ひらがな入力」専用の日本語配列は不便な道具であると書いてきた。

しかして、英語配列のキーボードにも「沼」がある。

たとえば、「最高峰」と称賛されている、HHKBは、その静電容量無接点方式ゆえの重量からモバイル向きとは言い難く、かつ、「静音タイプ」ですらうるさいと図書館などでは周辺に迷惑がられることもある。

それに、確実な接続を維持するために、「有線方式」の機種を探してもあんがいとかんたんにはみつからないのである。

日本メーカーの従業員は、この実態を不便と感じないのだろうか?

それとも、社内では「ひらがな入力」ばかりなのであろうか?
いや、わざわざマーケティングを叫ばなくとも、こんな状態なのは、どこからか会社に圧力があるのか?と疑いたくなるほどである。

iPhoneがでてくる前に世界を席巻していた情報端末、「ブラックベリー:BlackBerry」のプチプチのクリック惑がよかろうと、ドイツ・ドレスデンのひとが個人で製作している有線接続ミニキーボードが人気だという。

BlackBerryの入力部を3Dプリンターで復活させた逸品である。

さらに、多様なキーマッピングも可能なのだ。
ゆえに、遣い勝手を左右する、日本語と英字の入力切り替えもカスタマイズできる。

また、「沼の本体」ともいえる、メカニカル方式(キースイッチの組み合わせが無限)でマニア垂涎のメーカーが、香港に本社がある「キークロン:KeyChron」で、なかでも『Q9Plus』という機種は、いわゆる「40%キーボード」と呼ばれる、ファンクションキーも数字キーもないのである。

打鍵感や打鍵音は、キースイッチの種類でおおきく決まる。
しかも、キーマップを好みで変更できる。

こんな少ないキー数で、数字をどうやって入力するのか?も、「レイヤー(階層)」という概念で解決する。
たとえば、第一レイヤーは普通の文字キー、第二レイヤーで数字や記号、第三レイヤーでは、パソコンの音声や動画の操作とかを設定するのである。

この設定の組み合わせがまた自由なので、ここにも「沼」がある。

むかしなら、日本の中学生とかの「ラジオ少年」がやりそうなことだけど、すっかり日本の子供は消費者になってしまって、あれこれ部品を集めては何か作るというのはなくなったのか?

ごのこともまた、「沼」の原因にちがいない。