「曝露」は正しいことだけなのか?

世の中「曝露ブーム」である。

たとえば、参議院議員になった「ガーシー氏」は、とにかく「有名人の曝露」で有名になったひとである。
当選後、一度も帰国せず(詐欺容疑で逮捕される可能性があるため)、もちろん「登院」もしていない。
国会議員が、国会に出ないのは職場放棄だとして、懲罰の対象になれば、「最高刑」は除名である。
これが、ずっとこの議員にまつわる話になっている。

ただし、公正な選挙で当選した事実があるから、めったやたらに、懲罰できない。
民主主義の建前が、ガーシー氏の身分を守っている。
そんなわけで、今日も元気に曝露を続けているのである。

そこで、彼の情報源はどうなっているのか?
じっさいに、彼は「告発クラブ」のような組織をサイバー上でつくっていると公言している。
その中身の信憑性を担保するための、しくみ、も構築しているという。

これが、泉が枯れないごとくの、「源泉」なのである。

こんなことは、ふつうのひとにはできないから、ガーシー氏のオリジナルになるのだ。
そこにまた、「世直し」という建前もかましているので、支持者も絶えない。
芸能ネタをバカにできないのは、むかしから「外国勢力」との関係があるからで、その関係図も大きな変化がある。
すると、外国からの情報戦にひとりで挑んでいるヒーローにもなるのである。

そんな政治ネタばかりでは、芸能ネタだけをみたいバカが飽きるので、芸能人の下ネタも織り込む。
ところがこれが、あれよと、国際売春組織の曝露につながるから、やっぱり政治ネタにもなっている。
国際売春組織の裏に、とある外国政府やらの政治・外交戦略が見え隠れするからだ。

そんなわけで、ガーシー氏を「お下劣」だとして、「国会の品位を穢す」と一方的に非難できないのは、そんな指摘をする国会議員の品位がとっくにないからでもある。
すると、そんな議員たちを選ばされている国民にこそ品位がない、ということになって無限ループする。

ここに、曝露の価値が生まれるのである。

さてそれで、ガーシー氏には悪いけど、巨悪の曝露がアメリカではじまった。
それが、「Twitter File」と名づけられた、Twitter社の社内文書の曝露だ。

これは、世界的規模で今日も行われている「ビッグテック」による、「検閲」に関して、イーロン・マスク氏が買収して検閲団体から脱退したTwitter社で起きている、一連の「浄化運動」のことでもある。
その成果を、Twitter社はTwitterを通じて発表している。

「第一弾」として発表されたので、最低でも「第二弾」があるとおもわれる。

その第一弾の内容は、2020年大統領選挙「まで」のことだった。
だから、第二弾は「その後」になると大方のひとたちに予想されている。

その最大の「検閲」は、バイデン氏の次男(長男は亡くなっている)、ハンター・バイデン氏のパソコンから得られた「不正」を暴いた「ワシントンポスト紙」のスクープ記事に関する言論封殺である。
なにもTwitterだけがやらかしたことではないので念のため。

今回の「曝露」だけでも、たいへんな反響がアメリカで起きている。
なかでも、これらビッグテックによる「検閲」を側面から支えた「ジャーナリストたち」が、一斉にヒステリックな反応を示していて、逆に火に油を注ぐことにもなっている。
ついでに、かれら自身の化けの皮を自分で剥がすことにもなっていることが、哀れなのである。

このことと、州が連邦政府を提訴した裁判で、FBIが「検閲」を支持していたことが、宣誓供述としてでてきた。
すると、法的に「出版」とみなされている私企業による「検閲」自体は、言論の自由を確保すべしとした憲法には抵触しないが、政府機関であるFBIが関与したとなると、一気に憲法違反の重大な問題になるのだ。

なぜならば、近代国家の憲法とは、国民から政府への命令書なので、憲法が縛るのは「政府=公務員」だけだからだ。
一般国民や民間企業が、憲法違反を問われることはない。
ただし、一般国民や民間企業でも、政府の依頼を受けたことだと、それは政府とみなされる、というアメリカ合衆国最高裁判所の判決がある。

つまり、Twitter社は、民間企業ではない、と認定される可能性もある。
また、Facebookのザッカーバーグ氏も、裁判証言でFBIからの協力要請があって、これに応じた、といったから、株価が急落した経緯もある。

沈黙しているのは、グーグルとアップルになった。
もちろん、ご存じのように、グーグルにはユーチューブがあるし、グーグルストアもあって、ストアでは、アップルも同じく、保守系とみなされたSNS「Getter」の販売拒否という手段もつかわれて、ユーザーはアプリのダウンロードができなくなった。
この手法には、Amazonも加担した。

しかし、それでもわたしは、イーロン・マスク氏の本意をうたがって、納得していない。
これはまったくの「勘」ではあるのだけど。

理想的「新任取締役」研修

企業には、新入社員からはじまって、さまざまな「階層別研修」がある。

むかしは、リアルな「企業説明会」が、募集時にあったから、就職希望の高校生や大学生は、就職活動が「解禁」されたら、まずはいろんな企業の説明会にいって、その会社のひとからの「話を聴いた」ものだった。

何気ないけど、企業側がこうした「会」を開催して、「話を聴かせた」のは、選ばれるのは企業の方だ、という感覚があったからである。
つまり、選ぶ側の生徒や学生に、自社を選んで貰うための説明だったということだ。

このことをちゃんと意識している「まとも」な企業は、新入社員研修でも「ブレない」で、練られたカリキュラムをこなしていく。
しかし、そうでない企業で、担当者任せの場合には、毎年やっている担当者が飽きるから、説明会との関連性を無視した内容を押しつける。

むかしは、「変だな」、「おかしいな?」とおもっても、我慢することができたので、特段の問題にならず、かえって社歴が進むと、担当者の気分でできることに居心地がよかったりした。

いまは、我慢することが美徳ではなく、「個性重視」とか「本人の意思」が重要だという教師からの「ポリコレ」もあって、入社翌日に退社するひとがいたりする。
けれども、あんがいと、上述した「矛盾」について敏感な可能性がある。

すると、企業は、逃した魚がえらくでかかったことにも気がつかない可能性もある。
気づいたら、担当者レベルでは自己否定になるし、経営トップレベルでは、自社の看板に傷が付いたとかんがえれば、より一層、その可能性が高まる。

すると、経営トップレベルで、「なぜだろう?」という問いが、できるかできないか?にかかっているのだけれども、そもそも採用を担当者任せにしていて平気なら、こんな疑問をいだく可能性も低いだろう。

にもかかわらず、こういう経営トップこそ、「人材のざいは財産の『財』」、と平気でいえる口をもっている。
従業員の人生を預かっている、という気が、まったくないので気軽にいえるのである。

しかも、ついこの前まで、自身が従業員だったのに。
すなわち、「勝ち組」という「安全地帯」からの発言にすぎない。

安全地帯というのは、むかし都電や市電という、路面電車走っていたときの、停留所が路面より縁石一個分高くなった場所のことをいった。
戦後、アメリカ人の従軍写真家が、東京の通勤ラッシュで密集した安全地帯に脱落者がいない光景をレンズにおさめた「傑作」がある。

平社員からみたら、課長・部長は雲の上だから、その上を意識することは年に数回もないだろう。
課長・部長も平社員だったころはおなじはずだから、その上、は「恐れ多い」ので、あんがいとアンタッチャブルなのである。

だから、ずいぶん前に書いた「取締役が取り締まるのは誰か?」がわからないのである。
このことが、自分は勝ち組で安全地帯にいるとかんがえるひとの精神構造だ。

さて、英語ができるひとが英語圏のことを理解しているとは限らない。
たとえば、会社の「役職」を、英語で表記するときの単語をしっていても、それがどんな意味なのかをしらないことがおおいのだ。

日本の会社の役員(取締役)には、平取締役とか、常務取締役、その上に専務取締役がいたりする。
あたかも、取締役に階層があるようになっているのは、社長からの目線でつくったのである。

けれども、会社法上に定めはないから、常務や専務というのは、各社の「任意」である。
つまり、法にあるのは、「取締役」と「代表取締役」だけなのである。

これは、律令にないから令外の官だった「中納言」のようなもので、江戸幕府の職制にない「副将軍」のようなものでもある。

こんなことを、長いサラリーマン生活のなかで、いつ習うのか?となると、正規に教わる機会は、意外にも「役員昇格のとき」だけしかない。
それなりの実績を「畑」でだしたひとが選ばれて、社内昇格するのが日本企業の「日本的なところ」なので、このときに教わらないと、もしかして一生しらないままになる。

その典型が、「山一証券」の社長が破綻を告げた記者会見で表面化した。

なにもアメリカのやり方が正しいとはいわないけれど、彼らは最初から「経営者(候補)」として新卒採用されている。
にもかかわらず、「変なトップ」が相次いだので、IT関連のドラマ仕立てCMで、「これはだれの責任?」というトップに、みんなで「あなたです」とこたえるシーンが流された。

日米ともに、悲喜こもごも、なのである。

そんなわけで、理想的な新任取締役研修はどんなものか?をかんがえておくのは、既存取締役の義務でもあるし、これをかんがえるのは、平社員の人生をも左右する重大事なのである。

すると、募集から新入社員研修、それから続く各種教育に、トップに関与しないで済むとはならない。
むしろ、いまトップの役目の最重要な「長期戦略」とは、これ以外にないことがわかる。

わからないひとが多数派だということが、日本経済の不幸なのである。

困った吉田茂の英語力

戦前の日本人の学力は、現代日本人とは比較できないほどに「優秀」だというのは、かなりの信憑性があって、一種、「神話化」している。

これは、当時の「学制(学校制度)」に起因しているともいわれている。
なお、上でいう「当時」を、1872年(明治5年)にまで引き戻せば、この年に公布された日本の近代学校制度に関する最初の法令を「学制」といった。

江戸幕府が滅亡した「経済的理由」に、金と銀の海外流出による「インフレ」があるのだけれど、なぜか維新の志士たちの倒幕努力が前面から全面にあって、あまり経済的側面の話はでてこない。

それに、どうして「日英同盟」になったかの、当時の世界大帝国たる英国側事情について、日本人は無視してきて、むしろ歓んで自慢のタネにするのである。
でもあんがいと、「腹黒い」のが英国側の事情なのに。

この大英帝国人の腹黒さに、動物的本能で気づいたのが辛亥革命前の「進士」だった、李宗吾だ。
彼が、閑にかこつけてはじめ中国古典のパロディを書いたものの、その笑いにある真実が笑い事ではなかったのである。

このことに、いまだ気づかず、「日英同盟」を評価する日本人が多数なのは、きっと現代中国人からバカにされる原因でもあるだろう。

幸か不幸かをいえば、とにかく「貧乏だった」のが、幕末から明治の日本人全体にいえたことで、有名な共産主義者にして京大教授、河上肇の『貧乏物語』は、1916年(大正5年)に新聞連載されて、翌年にまとめて出版されている。

なお、東大紛争で総長を辞任した、大河内一男も『貧乏物語』(1959年:昭和34年)を書いているから、京大と東大のそろい踏みともいえるし、日本はずっと貧乏だったともいえる。

国民が貧乏だったので、政府も貧乏だった。

それで、義務教育が小学校までだったとき、各地の篤志家が私財を投入して、地元に学校を建てて、教師まで招聘したのであった。
いまも「文化財」として残る、すばらしい学校建築は、その心根を示したものである。

そんな学校が普及した時代になってからの例が、夏目漱石の『坊ちゃん』である。

義務教育は小学校まででいい、とした2年前の発言がなぜかいまごろ話題になったのは麻生太郎自民党副総裁だ。
なかなかに、「味」のある発言で、賛否両論で盛り上がっているらしい。

「真意」はしらないけれど、「旧制」に戻すべき論として読めば、それなりの説得力もあるものだけど、戦後に「新制」になったのは何故か?ということも同時に議論したいものである。

しかして、麻生氏の母方の祖父がいわずとしれた吉田茂で、学制を「新制」にしたのが、第一次吉田内閣の「実績」になっている。
「旧制」の、「複線型教育」から「単線型教育」への転換は、アメリカ教育使節団報告書に基づくものであったことに注視したい。

要は、旧制では、さまざまな「コース」があって、小学校からの選択肢がいまよりもずっと「豊富」だった。
なお、尋常小学校の上には、義務教育ではないけれど、尋常高等小学校があった。

なので、むかしは、「小学校出」と「高等科出」という区別があったし、「高等小学校」と「高等学校」は完全に分けて表現した。
そもそも、「中学校」に進学すること自体が珍しかったのである。

ならば、小学校と高等科出は、バカなのか?ということではなくて、職人や商人になるなら、早い方がいい、という価値観と人生観があったのだ。
「複線型」はまた、ドイツのマイスター制度があるように、設計することもできる。

これを、選択肢の少ない「単線型」にしたのは、いまからしたら、占領目的の大方針「二度と日本を独立させない」と合致する。
豊富な人材育成を阻む、という、占領側からの都合がよい、将来にわたって永遠に日本の国力を削ぐ効果が期待できる。

なお、「高度成長期」の経営者たちは、全員が「複線型」の旧制による教育を受けたひとたちだったことに注意を要するのである。

そんなわけで、残念ながら、麻生太郎氏は、マンガしか読まないという読書体験しかないと公言しているので、祖父・吉田茂の実態をどこまでご存じなのかは不明である。

麻生氏とはまったく別のルートにある「証言」として、いまさらながら注目されるのは、マッカーサーに直属した「通訳部隊」の、日系二世、カン・タガミ氏の証言が発掘されている。

それによると、吉田茂の英語は、マッカーサーとの会話でまったく通じなかった、という。
初会見で、マッカーサーは、吉田が職業外交官で駐英大使も歴任したことで、通訳官の同席を要しないと判断したという。

しかし、2~3分後、すぐさま呼ばれて、「彼は何語を話しているのか?」といわれたという。

吉田の語学力が「まずい」ことは、外務省内でも有名だったとあるけれど、これが、「GHQにとって都合がよかった」ともいう。
なにしろ、二世のタガミ氏が、おもわず日本人の血が騒ぐほどの「ポチぶり」だったと記録したのだ。

そこまで卑屈にならなくともよいものを、という思いで「通訳」したというけれど、「俺様」体質のマッカーサーは、むしろこの態度をよろこんだという。

吉田のふんぞり返った態度は、まったくの「演技」だというから、当時の日本人も現代の日本人も、どれほど騙されたのか?
そうやって、マッカーサーと吉田のコンビが、日本を永遠の「属国」へ貶めたのである。

はたして、これから「独立」する方策は?をかんがえれば、アメリカの衰退が待ち遠しいけど、東アジア情勢は楽観を許さない。
なんとも、日本を封じ込める仕掛けの巨大なことか?

臥薪嘗胆は続く。

「地質図Navi」の面白さ

生活のあらゆる場面で、「自分から」情報取得をしないといけない時代になったことを、「情報化時代」という。

なんだか、「情報化」というと、勝手に情報がやってきて、便利な時代になったものだ、とおもっていたのはついぞ昔のことになったのだ。
いま、勝手にやってくる情報のほとんどが「プロパガンダ」になったからである。

「飛脚」が「郵便」になったことを、「情報化のはじまり」ということにしているけれど、これも現代目線からロマンのある表現でしかないのではないか?と疑うのは、昨今の「プロパガンダ」の酷さに気づいたための被害妄想なのだろか?

「飛脚」が業務用通信で運んでいたのは、「手紙」よりむしろ、「為替」だった。
「天下の台所」の大阪商人は「銀」を主たる通貨にしていたので、「Bank」を「銀行」と訳し、「金行」にはしなかったのである。

12月といえば、『忠臣蔵』(史実の「赤穂事件」の発端になった「松の廊下での刃傷」は、元禄14年:1701年)にもでてくる、江戸と本国の赤穂との定期の他に緊急連絡体制があったことは、驚きに値するというけれど、想像力を働かせばふつうのことではないか?

幕藩体制下での「藩」は、一種の独立国で、アメリカ合衆国にあてはめれば「州」にあたるし、幕府は連邦政府になる。
そのアメリカ史を思い出せば、カリフォルニアで金が発見されて「ゴールドラッシュ」になったのは、1848年のことだ。

わが国の元号では、1848年はちょうど「嘉永」で、「弘化」のあと、1854年からは「安政」になるときで、天皇は明治天皇の先代、孝明天皇の御代、将軍は12代家慶、13代家定であった。

ちなみに、「黒船来航」は、1853年(嘉永6年)のことだったので、この時代のイメージすら、「分断」されている。

つまり、「日本史」では「黒船からはじまる幕末の動乱」になるけど、「世界史」では、アメリカのゴールドラッシュはテーマとして軽視されているばかりか、これら二つの出来事が「同時代」だと生徒に教えないのだ。

そればかりか、詳しい時代背景がわからないままで、「西部劇」をたっぷり観せられて、悪いのは全部「インディアン」だから、バタバタと殺されても、画面に拍手を送らされたのだった。
インディアンがいない草原こそが「平和」なのである、と。

さすがにこれは「まずい」と気がついて、もはや「西部劇」をつくることも上映することもしなくなったけど、こんどは、「ポリコレ」に傾倒し過ぎて、もっとナンセンスな映画がつくられている。

もちろん、日本人にとっては、「縄文人の末裔」として血の繋がりは、インディアンやら南米のインディオたちにあるから、まったくもって、ひどい映画に拍手を送ってきたものだ。

ゴールドラッシュに話を戻せば、前にも書いた伝記の名手、シュテファン・ツヴァイクが書いた、『人類の星の時間』における、世界史的運のない男ズーター氏の悲劇は、合衆国憲法があろうがなかろうが、これを守る国民の意志の欠如がどんな結果を招くかを示す、とんでもなく「大きな話」なのである。

それが、赤穂事件で江戸表と国もとで飛脚が飛び交った、150年後のアメリカの姿なのである。

なお、アメリカ大陸横断電信ができたのは1860年代のことで、1841年の記録では、第9代ハリソン大統領が在任1年にして死去したニュースがロサンゼルスに届くのに110日かかっている。
日本の電信のはじまりは、明治2年(1869年)という、「早さ」なのである。

2022年中間選挙の、実質的な「争点」とは、この「合衆国憲法」を守るか無視するかの攻防だ。
しかしながら、こんな重要なことを、アメリカのマスコミも、日本のマスコミもぜんぜんいわなくなって「プロパガンダ」に終始している。

もちろん、合衆国憲法を「ないがしろにする」ひとたちを「応援する」ばかりだからである。
そんなひとたちが、日本国内では「護憲」をいうから、その「意図」を勘ぐりたくなるのは人情というものである。

さてそれで、いかに首都ワシントンD.C.から大陸の反対側であったとはいえ、太平洋の反対側にある日本にも艦隊を繰り出すことをしていた。
もっとも、ペリーの艦隊は、大西洋からインド洋を越えてやってきたけど。

当時からしたら、極東の島国を「開国」させることと、カリフォルニア州の農場主の権利(「土地所有権」のこと)を守ることができないことが、同時並行的だったことにもっと注目していいのである。

これを、「わざと」させないように教育しているのではないのか?

そんなわけだから、「情報リテラシー」の本筋を教育しないで、「プログラミング」を教えることを優先させる。
たしかに、圧倒的に「プログラミング人材の不足」はわかるが、だからといって小学校から「正規の授業」でやらせることか?

広義の「児童労働」にあたらないのか?

これが、まわりまわって、自分の立っている地面のことにも興味がないように仕向けるのは、「受験結果」における学校と教師の「評価」が最優先されることになったからだ。
その最たるものが、塾や予備校の実績という評判である。

選別する学校側(たとえば「難関校」)は「いい学校だ」と評価させる意図的勘違いの促進も、プロパガンダではないか?

日本の難関校を出ても、世界企業の本社幹部候補として就職することもできないで、せいぜい「日本支店勤務」のローカル・スタッフになるしかないのが、はっきりしている「実情」なのだ。

もはや、アメリカの大学に入学して、そのままアメリカ企業に就職することが、圧倒的な「勝ち組」になってしまった。

にもかかわらず、「そんなことを勉強する閑があったら、いまは受験勉強しなさい」という呪文が、情報リテラシーのない親世代に焼き付けられているから、とにかくテストの点数で、「偏差値50以上」すなわち、「平均点以上」をとらないと人間扱いしない社会にしたのである。

しかし、どんな社会でも、「偏差値50未満」すなわち、「平均点に満たない」ひとが、かならず半分いる。
義務教育の重要な目的に、「人生を生きのびるための学び」があることをまったく無視しているのだ。

傾向として、この「偏差値50未満」が「主力」となっているのが、「観光業の現場」なのだ。

だから、「観光立国」では、国民は食っていけないのであるけれど、その理由は「偏差値50未満」だからではなくて、答のないビジネスの答を追求することもやらないからである。

自分たちの営業地域の「風光明媚」の根本たる、「地面」についての興味もないというありさまで、それがむかしからいう「温泉宿の温泉知らず」になったのである。

以上のことをふまえて、国立研究開発法人 産業技術総合研究所 地質調査総合センターが提供している、便利な「地質図Navi」を眺めてほしいものである。

ただし、「産業技術総合研究所」が、「総合」としての「産業」を、「観光業」だとおもっていない節がある。

この「ミスマッチ」が、観光業へのブーメランなのだ。

ブラックフライデーが終了して

昨1日、年々拡大してきた、年に一度のAmazonブラックフライデー・セール(大売り出し)が、終了した。

これで、今度は、年に一度のクリスマス・セール(大売り出し」がはじまる。
あたかも、ブラックフライデーで買い逃したひとへの「救済措置」になるので、クリスマスはありがたい。

それから、年が明ければ、年に一度のお正月セール(大売り出し)だ。

だから、なんだかんだと、いつでも大売り出しをやっているから、むかしの商店街を思い出す。
赤いおおきなのぼり旗に、大書して、あちらこちらに掲げて、街中で雰囲気を演出していたものだった。

その商店街が、みごとに衰退して、シャッター街になって久しい。
東京ならばそんなことはないだろう、という地方のひとたちは、おそらくテレビ脳に冒されている。

「むかしながら商店街」として、テレビで紹介されるのは、特定の商店街ばかりなのである。

つまり、テレビで紹介さない商店街に注目しないといけない。
たとえば、秋葉原から御徒町にかけてとおなじ距離を「並行」している、「佐竹商店街」は、その由緒正しきネーミングとは裏腹に、なんともいえない気分を味わえるものだ。

東京のど真ん中にして、これだ、と。

南北の佐竹商店街から、東西の東に折れて鳥越神社にむかう道すがらは、「おかず横丁」という食欲をそそる商店街があるけれど、かつての惣菜屋さんの面影がみつかればありがたい道になっている。

商店街活性化の成功例が皆無という事実に目を向ければ、かならず地元行政のアドバイザーになる「専門家の無能」が光るだけなのである。
しかし、行政の側は、どんなに空しい努力でも、専門家のアドバイスに依っている、という理由があるから責任は回避できる。

この、「やっている感」だけの無責任で、税金が無駄遣いされていても、税金を負担する国民や企業が、無関心、あるいは、かかわりたくない、という態度を「よし」とするので、いつまでもどこまでも「商店街活性化」がきれいごとでいられるのである。

ただし、すでに現代のわが国は「五公五民」の状態になっていて、このところの水道光熱費の高騰で、「六公四民」にむかって爆走している感がある。

もちろん、この期に及んで「増税」を目論む政権与党は、内閣を何個か犠牲にしてでも実現させたいという、政治目標を崩さない。
この意味で、岸田内閣を批判しても、ぜんぜん関係ないのだ。

江戸時代、「五公五民」は、一揆発生のボーダーラインで、うまいこと「お目こぼし」をしなかったら、たちまち一揆が勃発した。

現代人が、「五公五民」で我慢できているのは、どんな理由からか?は、将来の歴史家がかならず研究するテーマになるだろうけど、一応、いま書いておけば、「学校教育の成果」といえるはずだ。
すなわち、従順な奴隷化、が成功している。

この点で、なぜに徳川幕府は、「教育奉行」を置かなかったのか?が気になる。
「大学頭」は、教育行政を担当したのではなくて、将軍家への教育と「学説を公認する」担当にすぎなかった。

そんなわけで、商店街からシフトして、ネットでポチると商品が自宅に届く、あたかも運送業が巨大化する仕組みになったのである。
なので、中間に位置する、デパートも衰退したし、おそらくこれから、巨大ショッピングセンターも衰退するのだろう。

ここに注目すると、赤字で話題になっている「楽天市場の画期」とは、個人商店のサイバー化による、バーチャル商店街の構築であった。
中央集権のアマゾンとの、ビジネス・モデルの決定的ちがいがここにある。

実父が創業して事業拡大した、「大塚家具」を、実の娘が強引に経営権を奪って、とうとう実質「消滅」させたのは、経営戦略の立て直しに、完全失敗したことが原因だという「教科書」になった。

この点で、別角度からガーシーの標的にされた三木谷氏は、なにかを間違えたのである。

一方で、一時一世を風靡した「mixi:ミクシー」の衰退は、なんだったのか?
アメリカの「Facebook」や「Twitter」に席巻されたばかりか、情報漏洩の懸念がぜんぜん払拭されないままにもかかわらず韓国の「LINE」にも完敗した。

わたしには、「こっくりさん」のようにみえるのである。

さてそれで、どれほどの「散財」をしたのかは、個人それぞれのことに戻る。

その個人のはなしをすれば、学生時代から購読契約をしていた、経済新聞を解約した。
ついでに、電子版も解約した。

来年の元旦から、新聞がこない、あたらしい生活がはじまる。
なんだか、うれしい、のは、ゴミを排除したようで、ちょっと早い「大掃除」の達成感にちかい。

これで、年間6万円の節約になるけれど、金額の問題ではない。
ほとんど読んでいないものだから、被害はないし、読むことの被害の方がおおきいだろう。

だからといって、アマゾンでの買い物予算が増えたわけでもない。
つぎのテーマは、Amazonからの脱却、になるからだ。

すばらしき!権威主義

政治形態で「権威主義体制」という区分がある。

民主主義と独裁の「中間」に位置すると解されている。
具体的には、権威に対して盲目的に服従する個人や社会組織があってこそ、という意味でもあるので、底辺から支えているのは「民衆」と、民衆がつくる組織である。

これに、権威主義者としての自信に満ちたトップが存在しないといけないので、体制として成り立つには、双方が同時に必要となる。

マスコミによる情報統制下のわが国に、漫然と暮らしていると、わが国の常識が世界の常識なのだ、という、とてつもない勘違いに気づかない。
もっといえば、気づかせないための努力がマスコミによって行われていることさえも気づかない。

たとえば、ちょっと前、つまり、携帯電話とかの通信手段がなかった時代の電車の中は、新聞や書籍を読んでいるひとをおおくみかけたし、わたしもそのなかの一員だった。

いまは、圧倒的にスマホの画面をみつめていて、いわゆる「コンテンツ消費」をしているのである。
そのなかには、無料ゲームに熱中しているひともいる。

わたしよりもはるか「上」の世代は、「タダほど高いものはない」とよくいっていた。
無料の裏にある、「騙し」や「意図」を見極めようと、いったん立ち止まってかんがえることをしたのだ。

これが突きくずされたのは、街で無料配布されていた、ティッシュを広告媒体とした方法で、怪しげなチラシではなくてティッシュをタダで貰うことが、「変なこと」でなくなったことにあるとおもっている。

ティッシュをとる側の面には広告がないから、この面にそろえて積んでおけば、ふつうに「ポケット・ティッシュ」にみえたことが、警戒心を薄めて、実用になったのである。
そうなると、今度は、手をだして貰うようになる。

だから、広告媒体としての効果がどうなったのか?は、かなり薄くなって、むしろサラ金会社とかにとっては、「経費消化」という、「節税」に目的がかわったようにもおもえる。

しかし、世界ではそんな日本の常識とはちがうことが起きる。

たとえば、ソ連崩壊後の極東ロシアという「辺境」(いまもモスクワやサンクト・ペテルブルクなどからみたら変わりない)では、日本の街角でタダで配られていたティッシュに驚愕したひとが、これを真似て広告会社をつくった。

すると、ポケット・ティッシュをみたこともなかった「旧ソ連人」というだけでなく、「絶対的物不足」がふつうだったから、タダで配られていることに驚いたばかりか、「いいひと」になったのである。

ちなみに、社会主義(共産主義・全体主義)計画経済が、その社会に絶対的物不足をつくりだすのは、「価格」という情報が完全に統制されるために、需要と供給の大原則が機能せず、おカネがあっても物がない、ということになるので、全員が平等に行列をつくって配給を得るしかなくなるのである。

そんな社会しか経験のないひとたちが、突然、街でタダで配られているティッシュが、宣伝・広告が目的だという意味が理解できなかった。
それで配布主=広告主が、生活に有用な物資をタダでくれることに感謝して、圧倒的な信用を得るという、おそるべき広告効果をだしたのである。

ロシアをはじめ、旧ソ連を構成していた、それぞれの「共和国」が、独立して、それらの国がこぞって「権威主義体制の国」になった背景に、もうひとつの「悲惨」があった共通も見逃せない。

それが、「経済の自由化」と、「政治の民主化」が、コントロールされることなく、雪崩のように社会を席巻したことの「混乱」だった。
なんと、ロシアは、成人男性の平均寿命が、ソ連崩壊から10年間で、10歳も「縮んだ」のである。

この「隣国」の「悲惨」を、われわれ日本人はしらないままでいる。

寿命は延びるもの、としてしかかんがえられないのが、現代日本人の病的ともいえる想像力欠如だ。
縮むとは、いかなる事態が社会に起きたのか?

いわゆる、エリツィン時代、ロシアは英米の企業によって、「経済植民地」になったのである。
そこで誕生したのが、これら企業と結託した「新興財閥」だった。

社会主義計画経済しかしらないひとたちが、自由化すればとにかく豊かになるということが、「幻想」だったのは、自由主義経済の本質をしらないという、決定的問題に国民が気づかなかったことをしっている英米企業に、食い物にされたということだ。

これを、排除して「安定化」させたのが、「権威主義」だった。

その申し子のひとりが、プーチン氏に代表されているけれど、旧ソ連の国々は、ほぼおなじくどこも「権威主義」に染まっていることの原因が、上記のごとく共通しているからである。

そういえば、ほぼ10年前、日本の街角のあちらこちらに、「安定は希望です」という、政権与党のポスターが貼られていた。

この政党が、まったくもって、旧ソ連の国々とおなじ「権威主義」で構成されていることに注目すれば、社会をいったん「不安定」にすると、国民から安定を求めて権威主義に突き進むメカニズムをしっているということになる。

なるほど、どんどん国民が貧乏になるようにしているのは、「このため」なのだ。

「白紙」報道の妖しさ

マスコミが何者かに支配されている、というと一気に与太話だとおもうひとがいるけれど、GHQがやった「検閲」とか、アメリカ政府の情報公開法によって機密解除され公開情報になった、CIAエージェントだった正力松太郎や、彼が買収した読売新聞が何をしてきたかは、与太話ではない。

読売新聞の子会社として、正力松太郎が設立した、わが国最初の「民放テレビ局」が、日本テレビで、どうして「日本」がついているのかもいろいろと理由がある。
なお、NHKもGHQによって一般企業から公共放送に「昇格」した。

戦前、テレビがなかった時代、わが国の新聞社は各地に自由設立できたのを、道府県に1社限定にしたのは「国家総動員法」による、戦時体制づくりの一環だった。
一応、紙とインクの節約という名分になっている。

こうした「言論統制」を実行するのに、当時「キング・オブ・役所」といわれていた、内務省が管轄していた。
正力松太郎は、その内務省の官僚だったのである。

なお、例外は東京だけだったけど、戦後にアメリカが統治した沖縄本土に2社があるのは、米軍指導の結果である。
ついでに、各県一社の新聞社に、子会社としてテレビ局をつくらせたのは、田中角栄だったのである。

それだから、マスコミは田中角栄を悪く書かないし、悪くいわない。
恩人だからだ。

コロナで判明した、報道しない自由という詭弁が、とっくに常識になったので、マスコミの報道を観るには、「裏の意図」をかんがえないと間違う時代になっている。

さらに、対中報道については、「日中報道協定:日中双方の新聞記者交換に関するメモ(1964年)」があって、中国に不都合な報道をしたばあいに、当該報道機関の記者が退去させられることを取り決めていた。

国交回復後の1974年には、「日中両国政府間の記者交換に関する交換公文」が交わされて、文書内に旧条件の記載はないが、当初反発した産経新聞の記者が受け入れられるのは、なんと34年後の1998年(平成10年)になってからで、その後の親中報道(特に子会社のフジテレビ)は、何かを語っているように感じるのはわたしだけではないだろう。

なお、NHKの『クローズアップ現代』では、天安門事件は「なかった」として、おおいに顰蹙(ひんしゅく)を買ったが、当然ながらNHKはなんのコメントも発していない。

なんらかの、「指令」があったのではないかと疑うのである。

それでもって、突如発生した「白紙」デモについての報道は、これまでとはぜんぜんちがう様相で、民衆がシュプレヒコールであげている「習近平退陣、共産党退陣」を何度も繰り返し報じている「異様」がある。
これに、「特派員」が現場取材をする(許可されている)という、まことに異様なことが起きている。

はたして、3期目という異様と、その指導部を全員「自派」で固めた習氏の皇帝体制は、本来目指していた「終身」を決めることができなかったことで、じつは「不安定」ではないかとの憶測を呼んでいた。

つまり、また「5年」の任期が延長されただけだった。

どんな権力闘争が内部であったかはしらないが、ナショナリズムの毛沢東主義を掲げる習派と、グローバル全体主義を掲げる江派との死闘があったことは事実だ。

習派の矛盾は、もともと共産主義とは、グローバル全体主義だから、そこにおけるナショナリズムとは、実態として「権力の独占=独裁」しか、やりたいことがみえてこないことにある。

もちろん、世界を牛耳る、とてつもない大富豪たちによる、世界共産化の夢とは、グローバル全体主義(世界市民の奴隷化・家畜化)にほかならないので、習派への嫌悪は差しせまったものがあるだろう。

そんなわけで、一斉蜂起したのは、世界のマスコミもおなじで、あたかも、号令一下「習近平退陣、共産党退陣」をプロパガンダしているとかんがえられ、さらに報道管制をする当局も同調している感がある。

徹底的に世界的大富豪たちが目論む、ウクライナで楯突く、ロシアのナショナリスト・プーチン氏を、今度は、連携しているかのような習氏を叩くことで、ロシアと中国の双方を解体統治したいのか?

なんだか、勝手に「戦線拡大」をやっているようにみえるのである。

これは、「勝算」があってのことなのか?それとも、自棄のやんぱちなのか?

ウクライナ情勢は、どんどん寒くなるにつれ、戦線を立て直したロシアに有利になってきた。
もう、夜の衛星画像では、ウクライナ全土が真っ黒になって、電気の供給が絶えていることが明らかだ。

ゼレンスキー氏も、電源供給は50%だといったけど、実態は「ほぼゼロ」だろう。
すると、現代のインフラシステムは、モーターを要する水道も自動的に止まることを意味するから、流通が途絶えた都市部ほど深刻な状況だろう。

核兵器を用いるよりも酷い兵糧攻めで、市民生活を襲っているにちがいない。

わが国の数年分の防衛費を、アメリカ一国で支援したというけれど、一体どこに用いているのか?
やっぱり、英国北西の大西洋にある、ぜんぜん移動しない「低気圧」をつくっていた「気象兵器」に使ったのか?

そんな人工の姑息を、地球環境には屁ほども影響しないで、北極からの「冬将軍」は容赦なくやってくる。

ために、やけくそになったのなら、それはそれで、人類一般にはよいことだ。

ついでに、わざと起こしたデモが、瓢箪から駒になって、「共産党退陣」が実現したら、もっとよい。

見逃せないことが起きている。

悩ましいE-inkタブ

誰にでも起きる「高齢化=老化」なのに、いわゆる「商品レビュー」に、高齢者向けの紹介が「健康」やらに偏向している。

知的生産性を高めたい、という「悪あがき」をする還暦超えの高齢者は多かろうに。
もちろん、ちゃんと「先は見えている」けど、死ぬまでにしっておきたいことは、若いときより山ほどあるのだ。

自分がほとんど無教養で生きてきたことへのガッカリを、すこしでも取り戻しておきたいのと、残り時間をかんがえたときの「焦り」ともいえる気分がわいてきて、最低でも「良書」を少しでも読んでおきたいのだ。

ところが、若いときとちがって、「目」もすぐに「眼精疲労」を起こすし、そもそも集中力が続かなくなっていることすら自覚する。
だからこそ、「道具にこだわりたい」のだけど、その手の情報が「健常者向き」ばかりで不満なのである。

ここでいう「道具」とは、電子書籍リーダーのためのガジェットである。

たとえば、いま開催中のアマゾンの「ブラックフライデー・セール」では、めったにないアップル社の「iPad mini 6」という現役製品が、14%引きという「破格」で販売されていて、とうとう「売り切れ」になった。

レビュアーのほとんどが、その「絶妙な大きさ」を絶賛しているけれども、残念ながら、わたしの用途では使い物にならないほど「小さい」のだ。
重いのは承知で、12.9インチを持ち歩くのは、10インチクラスでもやや不満の大きさだからである。

「読むだけ」ならば、10インチクラスでちょうどいい。
しかし、「メモ」を書いたりしたくなるような「作品」を相手にして、比較的長時間を覚悟する場合には、確実に眼精疲労からの肩こりがやってくる。

もちろん、iPadで読書をするときには、画面は白黒反転させて、黒地に白文字にしないといけない。
ただし、対象が小説ならば、「kindle paperwhite」でもよくて、付箋やマーカーをして、あとからリストを「Evernote」に飛ばしている。

やっぱり、E-inkの「目に優しい」特徴が、棄てがたいのだ。

これは、iPadに対する唯一の不満で、読書ノートをつくるときに、どうしても「目にくる」からである。
それで、完全PDFに特化したE-ink電子ノート、「クアデルノA4型」を購入した。

快適なのは当然だけど、どうしても機能がシンプルすぎる。
たとえば、手書き検索機能も中途半端で、特定の記号などの検索は可能だけど、文字検索はできない。

iPadの定番アプリ、「GoodNotes 5」に搭載されている当然の機能がないのだ。
しかも、「GoodNotes 5」なら、ファイルを超えて串刺し検索ができる。

また、横書きの論文などの文書を「読む」には、iPadだと、「LiquidText」がある。
Windows版も出たけれど、やっぱりiPadで使うのがいい。

これは、本文の横や下にワークスペースがあって、ここに、マークしたい本文を付箋のようにコピーできて、関連・類似したもの同士を「接着」できる。

それで、マインドマップ状にも表示させることができるので、全体の論理構造が整理できるのである。
これをまた、PDFとして保存もできる。
ただし、日本語のような縦書き文書には馴染まないのが残念だ。

この手のものは、電子化した文書ならぜんぶ対象になるから、電子書籍だけが読めるという限定はない。

とくに、電子書籍だと、PDF化して、さらに、OCR処理をすれば、本文の検索も可能にするのが、スクリーンショットでできるという分、楽だ。
紙の本の場合は、「自炊」が必要という手間がかかる。

こうやって、加工したものを、上述した「GoodNotes 5」とか、「LiquidText」とかの、PDFビューワーで表示させれば、「読書」がだんぜんはかどるのである。

くわえて、原文が外国語でも、iPadに標準装備されている、アップル社純正読書アプリ、「Books」にOCR処理をしたPDFとして読み込むと、選択した範囲の「翻訳」をしてくれる。

これは、探すとでてくる日本語翻訳がされていない作者の場合、とてつもなく便利で知的生産性を向上させる、まさに今様の画期なのだ。
あんがいと、ご当地で有名なのに日本語になっていないひとの作品はたくさんある。

そんなわけで、いまのところ「最強」なのは、「iPad」なのである。

しかして、「挑戦者」がでてきた。
明日、30日発売の「Kindle Scribe」が、レビュアーたちによってこれからの話題になるにちがいない。

けれども、知る人ぞ知る、「BOOX」がシリーズ化されていて、こちらは、E-inkアンドロイド・タブレットなのである。
つまり、「Google Play」に対応している汎用性がある。

E-inkは魅力的だけど、わたしの用途でどうなのか?をかんがえると、やっぱり、「E-inkのiPad」がほしいのである。

さいきんのiPadは、どんどん「高度なチップ搭載」に突き進んでいるけれど、そんなものを必要とするアプリがない。
動画編集もしないわたしには、「知的生産性」の基本、「読む」ことと「理解の補助」に徹した、高齢者の目に優しい端末を要求したいのである。

いまこそ『薬害を学ぼう』を観よう

厚生労働省が、文部科学省に協力を依頼(平成22年から)して製作した、学校教育用の教材(印刷版と動画版)がHPから入手できる。
それが、『薬害を学ぼう』だ。

対象は、中学3年生である。

1年前の動画版視聴者のコメントに、コロナワクチンに関して「後に大規模な訴訟問題とかになりそうで怖い」というものが残っているが、現実がこのコメント通りになってきた。

先月20日、コロナワクチン遺族会「繋ぐ会」が結成され、23日、「全国有志医師の会」(会員1273人)では、乳幼児へのワクチン接種反対の声明とワクチン後遺症患者との緊急会見を実施した。

さらに、25日には、「子どもへのワクチン接種とワクチン後遺症を考える超党派議員連盟」(会長・川田龍平参院議員=立憲民主党)の勉強会「新型コロナワクチン接種と死亡事例の因果関係を考える」が、遺族会とともに衆議院議員会館で開催され、厚労省役人団へ救済等の考え方を質問している。

なお、「超党派」とはいえ、この議員連盟に与党議員の参加はない。

いまの時点で国への死亡報告は、1900人以上、それで救済認定されたのは10人である。
当然だが、死亡報告された数だけでも、氷山の一角にすぎないのは、手間がかかるなど(保健所や厚労省がいやがる)として忖度した医師が報告をあげないからだ。

よって、今後、「増加」が予想され、すでに遺族会には118人が参加予定で、「集団訴訟」の準備がすすんでいるという。
場合によっては、過去最大の「薬害訴訟」になるかもしれない。

さて、議員連盟と遺族会からの質問に対する厚労省の説明をどう受けとるのか?ということには、個人それぞれの考えがあるだろうけど、「職域・職場接種」として、厚生労働省職員はいかほどの接種率なのか?という質問があった。

これには、鹿児島県阿久根市長で、いまは市議会議員の竹原信一氏が、今年9月7日の「令和4年第三回定例市議会」で一般質問した中に、「厚生労働省職員の接種率が10%、国会議員が15%、医師は20%、国民は82%」という発言があって、これがネットで拡散している。

この発言における、厚生労働省職員の接種率や、国会議員、医師についての数値の「出所」は不明だけど、これをもって質問したのだっとおもわれる。

それで回答は、「不明」というものだった。

したがって、現在のところ、竹原市議が述べた内容と根拠に疑義があるといわざるをえないけど、あっさり「不明」と回答した厚労省は、これでことが済むとおもっているのだろうか?

また、国会議員や医師会も、当然ながら「事務的」に、接種の実態を公表する義務がある。
未接種ならば、その理由も記載・集計して公表するのは当然だ。

たとえば、接種について「積極推進」を公言していた、舘田一博東邦大学教授(微生物学・感染症学)が、自身が感染し人工呼吸器をつけるほどに重篤化したことが発覚したときに、「未接種」だったこともばれた。
その理由は、「アレルギーがあるから」というものだった。

この夏の参議院通常選挙に、参政党から福岡選挙区の候補として出た、医療系YouTuberの、野中しんすけ氏が動画で解説している。

当初は、以上の説明「だけ」だったが、後に自身の口から「アデム」といったそうな。
これは、急性散在性脳脊髄炎のことで、検索すれば「たいていは、予防接種を受けた後や、感染症にかかった後におこる」とある。

詳しくは、是非、上記動画をご覧いただきたい。

そんなわけで、『薬害を学ぼう』に話を戻すと、なんだか「むなしくなる」のである。
それで、超党派議連の会長を務める川田氏が被害者の、「薬害エイズ事件」を受けて、厚生労働省は正面玄関に「誓いの碑」まで建立しているのだ。

碑文の内容はさておき、この碑の設置費用は誰がどうやって捻出したのだろうか?
まさか、「予算」から?
ならば、国民負担である。

「学習のポイント」はふたつ。
1.「国・製薬会社・医療従事者」はなにをすべきだったのか考えてみましょう。
2.薬害事件を受けて、「どのような制度ができたのか」調べてみましょう。

そういいながら、「どうすれば薬害の起こらない社会になるのだろう」ときて、ここからプロパガンダがはじまる。

国には、次の「役割」があると説明している。
・薬の安全性などをチェックするための基準を作成する。
・薬の承認を取り消す、薬の回収命令など製薬会社に適切な指導を行うなど。

製薬会社の「役割」は、
・様々な試験などを通じて、安全な薬を開発・製造する役割。
・薬の販売を開始した後も情報を集め適切な対応をする役割。

医療従事者の「役割」は、
・薬を正しく処方する役割、薬の情報を正しく伝える役割。
・薬の副作用が起きた場合に国や製薬会社に報告する役割。

消費者としては、
・主体的に関わる役割(自分の使う薬に関心を持つ、関係者の役割や行動をチェックするなど)

以上、ご丁寧に、関係する4者の役割を説明しているけど、「どれもまったく機能していない」ことだけが確認できる「恐怖の解説」になっている。

製薬会社との「密約」について、大臣がいる国会質問でも「回答できない」と回答しているのが、厚生労働省なのである。
薬害エイズのときに、外資系金融機関の外国人同僚たちが、「Ministry of kill」と真顔で揶揄していたのを思い出す。

アメリカやらヨーロッパでこんなことをしでかしたのがばれたら、大変なこと(大規模デモは当然で、場合によっては暴動)になるとのことだろうけど。

このような活動を、「なかったこと」にしているのが、「与党」であって、国際的な「強制接種」をやる、デジタル・ワクチン・パスポートの導入を先のG20で決めてしまったから、「薬害の世界的拡散」をしたい、ということになっている。

「どうすれば薬害の起こらない社会になるのだろう」を、中学生に聞く前に、与党政治家全員に質問して、この結果を次の選挙で国民からの回答として示したい。

はたして、国、製薬会社、医療従事者たちからの「逮捕者」をだすには、政権交代しかないのだが。

ちなみに、逮捕理由は殺人容疑ではなくて、「人道への罪」とか「虐殺」、くわえて経済的「侵略」がふさわしい。

人類史に輝ける江戸時代

昨日の、「資本家は資本主義者ではない」の続きである。

江戸時代から明治末までの日本が、世界史的というよりも人類史的な価値があるのは、幻想でない資本主義が、「現実にあった」からである。

だから、マルクスの幻想をもって、「資本主義を批判」し、これを、終了させて「共産主義・全体主義」にしたいと目論むひとたちは、「封建的身分社会」という側面を強調して、けっして評価しない、させない、努力がはらわている。

これを、一般的に「洗脳」とか、「プロパガンダ」というのであるが、その方法が巧妙なために、なかなか気づかないのである。

幸か不幸か、資本主義は道徳的だと喝破したアイン・ランドにして、「来日」した記録が見あたらないし、彼女がどの程度の「知日」だったかもわからない。

むしろ、日本についての知識があれば、「資本主義は未来のシステム」とした、その「未来」が、かつての日本にこそあったことをしって、かならずや一文を書き残したはずである。

それに、天涯孤独だった彼女は、アメリカでの生活を棄てて、日本に移り住んでいたかもしれないと思うのは、未来を日本の過去にみたならば、それをもっと深掘りしようという衝動に駆られたはずだとおもうからである。

そして、そのあまりの「個人主義を絶対」とする寂しさを、日本人が癒やしていれば、もしやこのひとを再度インスパイアさせて、あらたな境地を書いてくれたのではあるまいか?と想像してしまう。

このことの「痛恨」は、彼女本人だけでなく、また日本人だけでもなく、いまや全人類にとっての「痛恨」になっている。

もちろん、日本人への痛恨とは、上に書いた「個人主義を絶対」とするひとと、彼女が嫌悪する「利他主義」を善としてしまう現代日本人への接触で生まれる葛藤と、日本人への「利他主義批判」の教育が、それぞれにあたらしい境地を発見させることへの期待である。

つまり、アイン・ランドには「個人主義の幅」を、日本人には「利他主義の誤解」を発見させることである。

なお、利他主義こそが共産主義・全体主義へ人々を導く、悪魔のささやきだ。
「他人のためにある美しい自分」が、「他人のために死になさい」となっても、逆らえないからである。

利己主義と混同される個人主義は、個人を重視するから「他人の個」も、尊重する。
これが、自分しかない利己主義と決定的にことなるのである。

ただし、利他主義と利己主義には、妙な親和性があって、「他人のためにある美しい自分」を追及したひとが、社会的安定を得ると、利他を説きながら利己(いまだけ、カネだけ、自分だけ)に落ちるのである。
これを、一般的に「偽善」と「保身」という。

さて、江戸期にどうして「資本主義」が、しかも、人類史上初の出現をしたのか?をいえば、「道徳社会」が確立していたからである。
このときの、道徳とは、ほぼ儒教によるものだ。
すなわち、四書五経にある教えをさす。

「四書」とは『論語』『大学』『中庸』『孟子』の四つで、 「五経」とは『易経』『詩経』『書経』『礼記』『春秋』の五つをいう。
仏教典の「お経」のことではない。

さらに、江戸幕府が推奨したのが、「朱子学」だったから、支配階級の武士には、その教育の中心に四書五経があったし、これが、町民の経済力の蓄積と浪人の増加で、必然的におおかたの身分へと普及した。

とはいえ、「儒教」を宗教とすることなく、あくまでも「教養」と「道徳」(武士道の基礎)としたことの特殊性が、日本と日本人にあるのだ。

これが、表面的に世界的に高い「識字率」の根幹をつくったのである。
江戸期には「貸本屋」なる商売が繁盛して、戯作者なる大衆文学作家が出現するという、欧米にあっては考えられない文化的高度さだった。

江戸の庶民は、世界にさきがけて「文化消費生活」をしていたのだ。
それゆえ、欧米では産業革命による労働者階級(大衆)が誕生するまで、観光事業は存在しなかったのに、わが国ではずっと前の、五街道の整備を経て、とっくに庶民に旅ブームがはじまった。

その結実が、幕末に完成したという講談『水戸黄門漫遊記』だった。

しかして、おなじころ、日本を訪問したシュリーマンは、「我々のしらない文明国」と書いたように、江戸末期から明治期の外国人知識人はこぞって、日本を絶賛するのは、彼らの国ではありえない「道徳社会」だったからである。

これを、日本人は入浴習慣があるから「清潔」だという評価をするのは、表面的な話にしたい、という戦後日本人たちの変な目論見がある。

わが国が、なぜに欧米以外で唯一、「近代化に成功したか?」の最も重要な点に、この「道徳社会」だったことが挙げられる。
そうでないと、「資本主義」が成立しないからだ。

すると、明治期までのわが国にあった、「道徳社会」が、第一次大戦の「大戦景気」で破壊されるまでが、人類史上初にして最後の「資本主義が出現した」社会だったのだといえる。

敗戦後の高度成長は、このときの「匂い」をしっている世代による、「真似っこ」をもって成功したとかんがえれば、「その後」の衰退も理解できるのだ。

この大きな流れを、故橋田壽賀子が、「意図的」に残してくれている。
それがあの、『おしん』の物語なのである。
彼女のシナリオとして珍しく「出版」された前書きに、「明治の母たち」の記憶を残したかった、と書いているのだ。

橋田壽賀子が書いたドラマには、資本主義の精神があって、花登筺が書いた「ど根性物ドラマ」には、前資本の「儲けることが目的」がある。
たとえば、作品名『銭の花』は、ドラマ『細腕繁盛記』になったけど、舞台となった温泉宿の繁盛と衰退ぶりは、いまならリアルに想像できるだろう。

「道徳社会」が失われると、経済の衰退が必然となる。

資本主義の精神を体得したおしんは一切ブレない。
一方で、特攻の価値観から180度転換した価値観の崩壊(GHQの政策による)によって精神に深く傷を負った息子が、花登筺的「前資本」(とにかく自分が儲かればいい)になってしまうことを、親子の確執として描いている。

利他から利己の保身に落ちる構造を、息子に託して書いた橋田の鋭さを、もっと評価していい。
そしてまた、利他にはまりこんだ夫の最期が、世代としてのさらなる対照をつくっているのだ。

このことの意味を、DNAで覚えているはずの人類が、やっぱり唯一日本人なのだと思い出せば、復活のためにすべきことがみえてくるのである。