帰りの駅弁考

JR秋田駅。
城下町だった地方都市の典型で、駅が中心部の外にある。
そうかんがえると、城下町をつくった大名たちの都市計画は、鉄道をつくった政府の都市計画の上をいく。
それが悔しかったのか、たいがい城を破壊して県庁にしているものだ。

その典型の変形が秋田市で、県庁も市役所も、城址とは別の場所に隣接して建っている。
全国のどちらも地方最大の産業が、「お役所」になっているから、衰退はまぬがれない。

お役所産業が、全産業を支配して命令し、その見返りが補助金を与えるやり方だからだ。
タコがじぶんの脚を喰らう姿になっている。
だから、役所ががんばればがんばるほど、その地方は衰退する。

秋田県のイメージが全国的に悪化したのは、秋田杉をつかった住宅の販売だった。
県の公社が売ったものが「欠陥住宅」で、訴訟となって広がった。
おそれをなした県は、公社を切り捨てて逃げたから、より一層の「悪質さ」が知れ渡ったのであった。

けれども、秋田県は「教育県」である。
小中学生の学力は全国一。
なのにそれからは、急速に減速して伸び悩むことがしられている。
どうしてなのか?どなたかおしえてほしい。

県立大学は、ふたつあって、「秋田県立大学」と「国際教養大学」。
どちらも「優秀」。秋田県人比率はいかほどか?
国際教養大学は、悪名高い偏差値で東大を抜き去っている。
そんなことから、国立の秋田大学が妙に地味だが、こちらは「国内唯一」の鉱物学を中心にした「国際資源学部」がある。

鉱物学で有名なのは、アメリカのスタンフォード大学である。
こちらの卒業生には、大恐慌のときの大統領だったハーバート・フーバーがいる。
彼は、入学を一度断られたが、個人教授で猛勉強の末に入学したという逸話がある。

日本の「入試制度」は、世界的には珍しいものだ。

スタンフォード大学は、鉱物資源の学問的成果だけで有名なのではなく、鉱物資源によってどうやって「儲けるか」までをカリキュラムにおいている。
実際、これで、彼は若くして財をなす。

さらに、コロンビア大学から『アメリカ史上二人の偉大な技術者』として表彰されたひとりで、もうひとりはトーマス・エジソンである。
フーバーの表彰理由は「工業の規格化」であった。
「規格化」こそが、現代生活をささえる工業の真髄である。

そんなことをおもいながら、秋田駅に着いた。
帰宅予定は5時間後だから、夜の10時をまわる。
つまるところ、駅弁を買わないと空腹になること確実だ。
けれども、やっぱり出発時刻までの時間がすくない。

秋田駅は立派な売り場をかまえるビルと連結している。
それでまず、こちらに飛びこんだが、土産物はあっても「弁当」がない。
どうなっているのか?

それで、ここを出て通路を改札横まで移動したら、「駅弁」の看板をみつけた。
なんだ、やっぱりあるじゃないか。
ところが、店内には土産品がたくさんあって、どこに駅弁があるのかわからない。

一周してみたら、ちいさな手書きのポップで、駅弁は店内奥の左側にあります、と書いてある。
どこだ?
すると、仕切りのない「待合室」側に向けた冷蔵ケースがあった。

なので、店内側からだと「裏側」になっていて、そのまま手にすることができない。
待合室の椅子の裏にまわってみたら、なんと残り二個しかない。
はたして、早い者勝ちである。

出発時刻20分前に、無事駅弁をゲットした。
残り一個だ。
お店のひとは、補充する様子がぜんぜんないから、タッチの差での争奪戦になるのだろう。

しかし、この待合室の先に、コンビニがある。
どんな弁当があるのか?余裕があるこころで見にいった。
すると、いつものおにぎりとサンドウィッチが置いてあった。

せっかく秋田にきて、帰りの一食がこれでいいのか?
あぶないところであった。
なにせ、新幹線だけでも東京まで4時間も乗るのだ。

そして出発すれば、例の放送である。
ワゴンサービスはあっても弁当の販売はない、と。
「みなさま、どうぞご利用くださいませ」が白々しい。
このアナウンスをさせられる従業員が気の毒だ。

きっと、汚い言葉をあびせられることもあるだろう。
なにせ、腹が減ってしまっていれば、冷静さをうしなうこともある。

それでもJR東日本は動じない。
へんてこな「規格」が社内にあるにちがいないのは、嫌がらせが得意なひとたちが経営しているにちがいないからだ。

秋田にある大学をでたひとたちではないはずだ。
すると、思い浮かぶのは、やっぱりこの鉄道会社の幹部たちは、鉄道をつかって移動なんてしておらず、「社用車」の後部座席にふんぞりかえっているにちがいない。

自分がこのシチュエーションにおかれたら、一体なにを感じるものか?
人間ならおなじだろう。
すると、社用車にのっているひとたちは、乗客のシチュエーションを「想像もできない」のだと告白しているも同然だ。

こんなひとたちなら、秋田の弁当屋にも、小数発注しかしない。
あまった弁当が、「コスト増」になるとだけかんがえているのだろう。

秋田新幹線は全席指定である。
当日の販売数のデータから、どのくらいの需要があるかを予測できないことも告白している。

弁当屋がわるいのではない。
鉄道会社に愚か者がたくさんいるということである。

ここに宿でのビジネスチャンスもひそんでいる。
朝、荷物を預かって、弁当の注文をとればいい。
駅であわてることがなくなるのは「ざまー」である。

駅弁考

自分が横浜市民だから、ということになるのを承知で、「駅弁」についてかんがえる。

久しぶりに東北新幹線に乗っての出張なのに、自宅最寄りの在来線の遅れから、東京駅での乗り換え時間が逼迫してしまった。
駅ナカの各店で、駅弁を物色しようにも時間がない。
座席予約した電車は、12:20発なのであるが、JR東日本という鉄道会社は、国鉄の真逆をいく「同類」だから、車内販売で駅弁を売るのをやめた。
おかげで、ほとんど夕食時間に到着予定だと、一食抜くことになってしまう。

これを「自己責任」だというなら、在来線の「事故責任」をどうしてくれる?
そんなわけで、プラットホームの駅弁売り場で、時計を横目に買ったのが『大船軒 アジの押し寿司』である。
わたしが利用する最寄り駅の改札前にも大船軒の売店が長らくあったけど、今年になって閉店してしまった。
たしかにこのところ購入していなかったから、ちょっとは自分のせいかとも思ったものだ。
だから、今日、アジの押し寿司をみつけて即決したともいえる。

地元が横浜だから、『シウマイ弁当』は絶対の定番である。
むしろ、駅弁というジャンルで、かくも「完成された」商品は他にあるものか?
以前、地元ローカルテレビ局の経済番組によばれた崎陽軒の社長も「完成」といって、いかに「守りつづけるか」だと発言していた。
「完成」を公言する経営者はめったにないが、ものが「シウマイ弁当」だと、観ていても同意するしかなかった。

この弁当にまつわる話はたくさんある。
シウマイの数とか、どうして「シュウマイ」でなくて「シウマイ」なのかとか。
しかし、いま鶏の唐揚げになっているものが、エビフライだったこともある。
一個170円だったときから値上げされたときだったか?それが、唐揚げになるとしばらくしてエビになって値上げとなることをくり返した。

けれども、シウマイ弁当の絶対的魅力は、ごはんの美味さにあって、それを「経木」の弁当箱とフタが守っている。
この「容器」こそが、いまや「特別」になってしまった。
理由はどうであれ、シウマイ弁当は経木の箱に入っているべきものなのだ。

はたして、他の駅弁も「経木」をつかうなら、世の中に「経木やさん」がふえるのか?
是非そうあってほしいものだ。

しかし、これを阻むのは鉄道会社でもある。
なにをしても儲からなかった国鉄が、JRになったら、儲かればなにをしてもいいことになった。
国民資産を使っているくせに、なにを勘違いしているのか?
NTTと、おなじである。

それで、国鉄清算事業団の負債返済はどうなっているのか?
もはやJRは、知りませんと他人事である。
どちらも、一方は国民が負担していて、一方は毎日利用しているから、国民にはなにもかわらない。
変わったのは、清算事業団とJRとが「分裂」しただけだ。

こんな発想をしているから、昼時に車内販売で弁当を売らないで平気なのである。
腹を減らす国民は、やっぱり「ガマン」するしかない。
みごとなわかりやすさである。
車内販売のワゴンには、弁当に替わって「ビール」が山積みだ。

ようは、純粋に需要をみないで「供給」だけする。
これが、国鉄と真逆だけど「同類」だということの理由だ。

横浜駅にはかつて、『加登屋(かどや)バッテラ』という名作もあった。
加登屋は健在だけど、弁当をやめた。
だからもう「幻の味」である。
やめた理由をしらないが、記憶に残るストーリーがあった。

祖父が大好きな弁当だった。
サバすしの上に、薄い紙のような昆布が引いてある。
子どもからしたら、紙ごと食べているようで気持ち悪かった。
祖父が亡くなって、あるとき思いだして食べてみた。
酒の味を覚えてからだったが、世の中にこんな美味いものがあるかと驚いた。

大船軒のアジの押し寿司は、『バッテラ』とはまた趣がことなる美味さがある。
作家の檀一雄が、東京の自宅から着流しで散歩に出たとおもったら、帰宅するなり自室に隠って内側から鍵をかけるという。
不審におもってあるとき覗いたら、ギクッとした形相で押し寿司をほおばった父が見返した、と娘の壇ふみが話すのをきいたことがある。
当時なら、大船駅にしか売っていなかったはずである。

おいおい、大船なら鎌倉市になるだろう?
ご疑念ごもっともなれど、大船駅の戸塚よりは、ホーム下に川が流れていて、これが市境になっているのだ。
それで、駅の北口は、ちゃっかり横浜市なのである。

東京駅でも『シウマイ弁当』やアジの『押し寿司』が買えるのは、なんだか旅情を薄める。
けれども、他社さんには申し訳ないが、「完成度」がちがう。

全国に『シウマイ弁当』があれば、どんなに幸せか。
地方から帰るとき、駅弁を買ってはみるが、なかなか「あたり」がない。

駅ビルのデザインやどこにでもあるテナントなど、旅情を壊してなんぼのJRさんなら、全国でシウマイ弁当を売り出しても「儲かる」ならやるかもしれない。
いや、崎陽軒さんが断るのだろう。
もしや、ふるさと創生大臣もダメ出しするかもしれない。

「予備選挙」があるから民主主義が実現する

アメリカ合衆国という国のことを、わたしたち日本人はあんがい知らない。
向こうからすれば、建国以来、唯一領土を侵された相手国がわが国なので、きっちりわが国を研究している。
占領政策からして、その研究成果が発揮されいまにいたっている。

よくアメリカ人に世界地図をみせて、日本を示すようにいうと、わが国がどこにあるかを知らないといって嗤うのが日本人だ。
この感覚は「小中華思想」そのもので、世界の中心に日本があると思い込んでいる証拠である。
長崎県や佐賀県のひとには申し訳ないが、横浜人のわたしは、この両県が九州のどこにあるかを地図で正確に描くことができない。
西北にあるのだが、形状が複雑でなんだかわからない、のである。
それに、佐賀に行くなら佐賀空港ではなく福岡空港の方が交通機関が便利だという事情もくわわる。

あたりまえのようにアメリカとつき合って70年以上。
敗戦して卑屈かと言えば内弁慶である。
ほんとうは「卑屈」しかないのだが、それでは存在価値を失うからと「内輪だけなら」なんだかえらそうな発言をする。
そんなふうにかんがえると、白洲次郎という御仁が、わたしには信用できない。

それに「敗戦利得者」という一家もたくさんいる。
「公職追放」という、勧善懲悪の「プロパガンダ」のために、おおくのひとが「職をうしなった」が、その周辺の「小物」を「大役」につけて、占領政策という「革命」を実施した。
それで、思わぬ形で「利得」をえたひとたちが「ジャパニーズ・エスタブリッシュメント」を形成している。

文部科学省の前身の文部省が、どうして発足したのか?
ヨーロッパ列強に倣った「近代化」を、強力に推進するために、「国民」をつくらなければならない。
それが、全国一律にカリキュラムを統一する必要になったのだ。
わが国の歴史で、ひとびとが「日本国民」という感覚も、「人民」という感覚も、一度ももったことはなかった。

すると、占領軍は、なぜ「文部省」を存続させたのか?
わが国の「弱体化」という基本方針が貫かれたのが占領政策であるからだ。
そして、文部省が命令する「学習指導要領」に、同盟国であるアメリカ合衆国にたいする多方面からの「指導」がない、不思議もある。
一個の国として「連邦政府しかみない」というのも、各州の連合体である「アメリカの本質」を無視している。

そのアメリカには、主に「二大政党」というものがある。
現職のトランプ氏は共和党。だから、いまは民主党が野党である。
再選を目指すトランプ氏が所属する共和党は、すでにトランプ氏で「一本化」されている。
しかし、ちゃんと「党内予備選挙」は実施され、それで決まった「一本化」だ。

対する民主党は、候補者選びの真っ最中である。
このところ、絶好調なのは、バーニー・サンダース氏(バーモント州から選出の上院議員)だ。
彼は、前回の大統領選挙でも、最後までクリントン氏とあらそっていた。
だから、「もしや」がある候補である。

けれども、このひとは、民主党員ではない。

ここが、不思議なのである。
「党」として候補者をきめるための選挙に、「党員ではない」ひとが立候補してしまう。
それだけでなく、得票数でトップになってしまうのだ。
はたして、サンダース氏は党員になるのか?なれるのか?

わが国なら、そもそも「予備選挙」ということ自体がないけれど、党員でないひとが特定の党だけの「推薦」で候補者になれるか?
とかんがえると、あんがいなれる。
地方選での「全党相乗り」というほどの「異常」ではない。

また、アメリカの政党には、総裁も幹事長も、委員長や書記長もいない。
いったい誰が政党のトップなのか?
どんな仕組みになっているのかの「解説報道」もない。

もしや、解説しないのではなくて、しらないかわからないのではないか?

すると、わが国の政党は、かなり共産党の仕組みに似ていることがわかる。
それでか、自民党の政策が、サンダース氏の主張よりも「左」になっても、だれも異常だと気づかなくなった。
異常が日常になった証拠である。

ところで、先日まなんだMTPの「M」は、マネジメントのMである。
アメリカ人のエリートは、ドラッカーを言い出すまでもなく、マネジメントとはなにかをしっている。
日本だと「経営」と訳してしまうから、なんだかえらいひとたちの話に限定されると勘違いする。
自分のことを自分でする、というのもマネジメントだ。

組織なら、どんな組織にだって人がいる。
人間の集団が組織だからである。
その組織運営方法も、マネジメントである。

日本人のおおくは、この意味で、マネジメントをしらない。
マネジメントをしらないひとが、会社や組織を「経営」しているから、まとまらない。
日米の経済における「彼我の差」とは、こんなところに原因があるとかんがえられる。

マネジメントの重要な要素に、「リーダーシップ」がある。
ひとを「強引に引っぱる」のがリーダーシップだと、勘違いしているのが日本人である。
本来のリーダーシップは、勝手にメンバーたちが自分の役目を果たし、それに満足できる組織をつくることである。

この「勝手に」が重要なのだ。
ここに、「自由」がある。
他人から命令されないで、自分からおこなう。
そのように他人を仕向けるには「人柄」がなければならない。
だから、アメリカ人の選挙は「人を選ぶ」選挙になる。

「人」を重視するから「民主主義」が成り立つ。
それぞれが、自分以外の人のちがいを見分けるからである。
これが、「個人主義」なのであって、自己主張だけをするのが個人主義ではない。

わが国は、政党を選んでいる、というより選ばされている。
最初から「命令」なのだ。

ここが、ぜんぜんちがうことに注目したい。

政府がホテルの品質をきめる

昨年暮れに官房長官から発表されたので、業界人なら知らぬものはいないだろう。
まったく「とち狂った」としかいえない日本政府は、客室の「スイート・ルームが多いこと」を「世界レベル」といい、それをやる「高級ホテル」を各地に50カ所「新設」するそうである。
しかし、主だった「反対」がなかったのでどうしたとおもっていたら、やっと昨日「ビジネスホテル大手」のオーナーが異論を発表した。

残炎ながら、この異論は、問題の核心を突いたモノではない。
その意味で、「政府に配慮している」ともいえる。
このひとの主張は、面積なら自社のように「狭いホテル」が外国人観光客に好まれていること。
そして、それこそが「エコ」である、と。

わたしが指摘している問題とは、「政府の介入」のことである。
「自由であるべき経済」を政府が介入してコントロールする。
これこそが、社会主義なのである。
わが国の著名経済学者たちも、思い切った表現として、社会主義「的」といって、「的」をつけて政府に配慮する。
しかし、もはや現行の安倍政権(=官僚政府)にはちゃんと「社会主義だ」と決めつけてあげた方がいい。

たまたま、桜のはなしかなにかが「内閣支持率を下げている」ようにみえるからといって、おおくの国民が、野党を支持しているわけでもない。
それは、「社会主義の薫り」に、体質的な違和感があるからである。
けれども、あまりにも「社会主義」が浸透してしまったので「薫り」ぐらいにしか反応できなくなっている。

本来、こうした「政府」に対抗すべきは、経営者たちがつくる「経済団体」のはずである。
初期のころの「経団連」は、その意味で「自由主義の牙城」で、官僚出身なのに石坂泰三は立派だった。
おかしくなったのは、「稲山会長時代」からか?
理論をもって支えたのが「日経連」(日本経営者団体連盟)だったが、2002年に経団連と「合併」した。

これから、日経連時代にあった「財界の理論」が陰を薄くするようになったと感じるのは、偶然ではあるまい。
すると、ライバルをうしなうと、うしなった側も衰退する、という原理から、労働組合側も弱体化するのだ。
これは、なにも「労使対立」をあおっているのではない。
むしろ、労働組合も「理論」を鈍化させてしまったといいたいのである。

労使の双方が、政府に寄り添って依存する。
これぞ、完全なる社会主義である。
国による公的社会保障制度の維持のため、という消費増税に、財界も労働組合も「賛成」したのは、確かにそれぞれの思惑はあるけれど、果たしてこの一致点の示すものはなにか?

わが国の経済界が、「国営企業化」しているのだ。

冒頭のホテル・オーナーはいう。
ホテルというものは建設すれば、何十年もホテルとして経営・運営されるものだ。
だから、投資には慎重かつ緻密な計画がひつようだと。

すなわち、需要と供給、という原則から、投資の決定をおこなうのが「経営」の本質なのである。
これを、政府が推進するとは、一体どういう意味があるのか?
投資リスクについて、政府保障をするということである。
すると、これは投資家にとって「ノー・リスク」ということになる。

こんなことが現実におきていいものか?
つまるところ、こうしてできたホテルの経営リスクを、「国民が負う」という意味だ。
そして、おそらく役人たちは次のようにいうはずである。
「わたしたちが責任をもって経営を監視する」と。

ちょっとまってほしい。
相手は、「需要と供給」という原理なのだ。
役人が経営を監視したところで、ホテル経営が成功するという保障などどこにもない。
むしろ、既存のホテル経営者たちを、徹底的にバカにしている態度である。

かつて、絶対王政の時代でも、王様が「景気よ良くなれ」と命令したところで景気は良くならない。
それで、経済学という学問が発達したのである。
いま、わが国政府は、役人が「景気よ良くなれ」といえば、良くなるものと信じている状態だ。

はたして、これはまともな思考であるか?

財界も労働界も、目を覚ますべきだ。
賃金が下がりつづけている理由は、生産性が落ちているからである。
なぜ、生産性が落ちるのか?
政府が経済に介入して、社会主義経済になってしまったからである。

そうしたら、生産性革命を政府がやるといいだした。
政府にやらせてはならないのに、財界も労働界も政府に期待している。
「働き方改革」という愚策で、どんどん働きにくくしているのは誰だ。
まるで、レジ袋有料化で、どんどん生活を不便にするのとおなじ、無駄な努力をさせるのが政府だ。

もはや「ソ連共産党」が「自民党」になった。
こんなやつらに任せてはおけぬ。
けれども、見渡したところで政界に替わりがいない。

あぁ、ポーランドの自由化を果たしたワレサ大統領がなつかしい。
彼が委員長を勤めたのは「独立自主管理労働組合『連帯』」だった。
当時「グダニスク」といわれた『連帯』本拠地の地名も、いまは「グダンスク」になった。
「レーニン造船所」が、この労組の職場である。

いまは、自由化運動の記念公園にもなっている。
そこには、この「革命」の犠牲者がたたえられた碑があって、賛同するわが国の労働組合名もその名簿に刻まれている。
何に「賛同」したのか?
ワレサ(いまは「ヴァウェンサ」)氏が1994年に国賓として来日し、帰国後に「ポーランドは日本のようになるべきだ」と発言したことは、現地では有名な逸話になっている。

はたして、いま、わが国は自由化したポーランドよりも社会主義経済の国になった皮肉がある。
「自由主義革命」が、わが国で必要なのだ。

MTP公認インストラクター

5日間の合宿を二回、合計で10日間。
昨日、この日程を終了し、公認インストラクターに認定された。
資格の元締めは、一般財団法人日本産業訓練協会である。
略して「日産訓」。あの自動車会社とは関係ない。

詳細は、協会のHPをご覧いただくとしても、「MTP」について書いておこうとおもう。

Management Training Program の略である。
カタカナにすれば、マネージメント トレーニング プログラム。
これの「先生」に認定されたわけである。

日本におけることの発端は、アメリカ空軍立川基地だったというから、終戦直後である。
占領軍として、東京の立川市にあった立川基地で、日本人従業員を募集し、たくさんのひとが就職した。

しかし、それは「烏合の衆」で、ぜんぜん効率がわるい。
こんなひとたちと死闘を繰り広げていたのかと唖然としたのは、アメリカ人将校たちであったという。
そこで、「教育」することになった。

対象者は、日本人でも管理職になった、あるいは、管理職にしたいひとたちで、組織運営のかんがえ方を体系立てて教える、というものだった。

それが、基地へ航空機の部品などを納入する企業にもひろがって、ついには「マッカーサー指令」にもなる。
すなわち、わが国製造業への学習指導が「命令」になったのである。

基地に納入する物品の品質基準を守らせるには、その会社のなかで、マネジメント体系のルールに従った活動がきっちりできなければ、製品の質に影響するとかんがえられたからである。
いまの日本からすればウソのようなはなしだが、「安かろう悪かろう」とは、メイドインジャパンの証だった時代のことである。

OECDの資料によれば、日本経済の伸び率とMTPの企業への普及率が一致していた時期が、一般に「高度成長」といわれる時代である。

バブル経済の頂点のとき、MTPの導入企業も頂点だった。
さすれば、MTPをわすれた日本企業の衰退とは、理屈どおりの事象であるともいえる。

基地での逸話がしめすように、MTPは、「初級管理者向け」の研修プログラムである。
しかし、だからといって侮ってはいけない。

それには「順番」が隠れているからだ。
立川基地という組織のトップは、当然だがアメリカ空軍の「将官」である。
その下の「佐官」や「尉官」たち将校は、みなMTPをしっている。
だから、日本人従業員のうち、初級管理者に実施して効果があがったのである。

つまり、組織のトップをふくむ上位者たちがMTPをしらないで、自社の初級管理者だけに実施すると、問題が発生する。
このプログラムの精密な設計は、組織のマネジメントについて網羅しているから、受講すれば組織マネジメントの「あるべき姿」がかならずインプットされるのだ。

それで、自社にもどれば、トップや上位者(上級管理者)が、マネジメントの「素人」にみえてしまうのである。
もちろん、それは「事実」だ。
この訓練を受けていない、トップや上位者は、まちがいなくマネジメントの「素人」である。

これは、「滑稽」でもある。
昨日まで上位と信じたひとたちが、たんに権威をかざしているだけで、中身がないことが歴然とする。
こんな素人たちに、なんで自分が従属しなければならないのか?

こういう「副作用」が、このプログラムにはある。
だから、本来の順番における対象者は、トップや上位者が先に受講していることなのである。

まるで「織物」を織るように、トップや上位者が、すでに織り上がっていて、そこに、新任管理職の横糸が一本織り込まれる、というイメージだ。
わが国を代表するメーカーは、数十年もこれをくり返してして、MTPを企業文化という「織物」にしている。

逆にいえば、トップや上位者が別の模様で織り上がってきているのに、新任管理職の横糸が別の素材や色だったら、浮き上がってしまう「ノイズ」になる。
どちらの立場からも、不幸をつくることになるのだ。

だから、この「順番」は、ものすごく重要である。

MTPの「凄み」は、組織の活性化にある。
つまり、組織が良い(上手な)方法で運営されれば、当然に企業目的や目標が達成される度合いが高まる。
裏返して、組織が悪い(下手な)方法で運営されれば、当然に無駄がふえて効率が落ちるから、業績も自助によって向上しない。

単純な原理なのである。

これは、MTPが「あらゆる組織に有効」な理由だ。
営利目的の民間企業はもちろん、町内会から部活まで、はては労働組合だって、「組織」なのだから有効なのは当然である。

すると、あとは「やる気」だけだ。
トップがみずから率先垂範して、幹部とともに受講してもよし、業界団体として、トップ同士だけで受講するもよし。

先ず隗より始めよ。

ご相談はお気軽に。

教育出張

製造業にはあるという「教育出張」は、人材育成のツールとなっている。

内田百閒の名作とも迷作の『阿房列車』のごとく、「なんにも用事はないけれど、出張に行く」ことで、大きな会社なら全国の工場見学、小さな会社なら社会見学に社員が出かけるのである。
自社工場ばかりではなく、全国の他社工場でもいい。
とにかく「見聞をひろげる」ことが目的だから、べつに工場見学でなくてもいいから、「教育出張」なのである。

予算があろうがなかろうが、行きたいと思ったら社員が手を挙げる。
上司が「必要性」をみとめるので、ちゃんと「日当」もでるのである。
ただし、通常出張の「半額」が相場のようである。

しかして、どんな「必要性」を上司が感じるのか?は、かなりあいまいだ。
内心で「そろそろ順番だ」ということもあるし、見学先がユニークだから、ということもある。
このご時世なのに、続いているのは「無駄」ではないからなのだ。

マーケットの状態をみにいくから、マーケティングの担当者が行く、ということではない。
技術者だろうが、工場勤務者だろうが、はたまた事務屋だろうが、「行く」と言ったひとが行く。
そこに「新鮮な発見」が期待されているからである。

たとえば、鉄鋼メーカーのひとなら、ある意味どこでも対象があるから、どこへでも行く。
「鉄」は、文明生活のあらゆる場所にあるモノなので、どこでもいいのである。
それで、メーカーでは考えつかないようなアイデアがみつかれば、それはもう「儲けもの」である。
逆に、どこでもいい、ということがないと「発見できない」リスクが生じる。

鉄という製品は硬いけど、頭脳は柔らかさが要求されている。

ひるがえって、ソフト産業であるサービス業で、「教育出張」という用語を聞いたことがない。
あんがい、石頭なのがサービス業である。

さいきんでは、業績のよい旅館が、「休館日」をもうけて、全館で休んでいる。
予約の問い合わせに、「満室です」といって断るから、ふつうの利用客にはわからない。
むしろ、「満室なんて人気の宿の証拠」とおもわれて、いっそう都合がいい。
休んで都合がいいとは、なかなかの「発見」である。

それで、オーナー一家だけでなく、従業員も引き連れて、競合あるいは評判の宿にお客として宿泊するのである。

むかしからの旅館は、年中無休があたりまえだったから、ほんとうは自分がお客になったことがない。
それを「おもてなしの宿」とかいっておだてられた。
はりきって新しいサービスを追加するけど、自分がお客としての素人なもんだから、余計なサービスを自画自賛する神経がある。
季節労働で、あちこちの宿での勤務経験がある女子学生のほうが、よほどこのへんの価値基準はしっかりしている。

そんなわけで、休館日があって「教育出張」する宿と、そうでなく年中無休で「貧乏暇なし」の宿の差が目に見えて開いてきた。
そのうち、どちらさまもまねっこして、わが国から年中無休の宿がなくなってしまうのではないか?

中途半端に開けておくなら、閉めてしまったほうが楽でかつ経費もかからない。
けれども、どのあたりのレベルが判断の基準になるかは、ちゃんと「計算」しないとわからない。
じっさいに、こうした「計算」ができないでやってきた。
それで、やっぱり「計算しない」で、横並びにするだけしても、元の木阿弥ではないか?

こんな心配をしないといけないのが、宿である。

まだまだ、工業の世界から学ぶことがたくさんある。

横浜市消防局救急隊のお粗末

防護服を着ていたから安心のはずが、新型肺炎に感染してしまい、さらに高熱のなか「出勤」して「出動」もしていた。
いったい、どんな「危機対応」をしていたのか?
少なくとも、「科学的」な管理がなされていないことだけは確かである。

いつ感染したのか?
この問いに、横浜市幹部は、「前日に感染者を搬送した」事実をあげた。
は?

素人でも、潜伏期間をしっている。
たった一日で発症するのか?
すぐさま、厚生労働省が、それ以前のどこかの時点にて「感染」したはずだとコメントしたのは、納得できる。

すると、横浜市の「幹部」とは何ものか?
まるで、福島原発が爆発したときの、原子力保安院のひと(法律が専門の事務方だった)が、なんだか「技術職」のふりをしてえらそうに記者会見していたことが思いだされた。

しかも、この事故については、「マニュアル」があるのに、だれも「マニュアル」をみていなかった、という衝撃の事実がレポートされていることはずいぶん前に書いた。

わが国の「行政」は、中央官庁から放射状に、しかも「完璧」に「コピー」されている。
福島のときは、経産省-原子力保安院-東京電力本社-福島第一原発という流れに沿って、コピーされていた。
「マニュアル」を「みない」ということが、である。

今回の横浜市消防局救急隊のお粗末は、総務省消防庁-横浜市消防局という流れに、あろうことか厚生労働省が横やりをいれた形になっている。

すなわち、今回のものだけでなく、感染症が流行した場合の「緊急対策マニュアル」の「有無」と、これを「いつ」「だれが」みて、「どのように」実施するのか?ということが問われているのだ。

厚生労働省-保健所というルートと、消防の救急隊とは、いったいどんな関係になっているのか?
おおいに興味がわく。

「防護服」を着用していたのに「感染した」のは、「想定外」だという横浜市の役人の、信じがたい浅はかさは横に置いておいても、こういう「法学部=文系」がえらくて「現場=理系」は、道具に過ぎないという感覚から、もう狂っているのである。

文系なら、保健所というルートと救急というルートの「配線」をどうするのか?が仕事になるのだろうが、「行政」としての「限界」あるいは、「逃げ道」がここにある。

決めるのは「政治です」と。

しかし、ここがアメリカ合衆国ならそうなるが、日本国という官僚社会主義国では、そうはいかない。
「逃げたい」ならば、官僚社会主義国をやめなければならない。
けれども、一方の、絶対的当事者である「議会」が、他人事だし素人だから、役人任せしかできないのである。

こんなとき、近代民主主義国家ならどうするのか?

じつは、政党が恒常的な「シンクタンク」を持っているし、分野が足りなければ政党が専門家を雇って、方策を策定し、これを議会に提出して決定する。
このとき、市長が行政を代表して策定した案と突き合わせるのである。

わが国には、近代政党が事実上存在しないから、ぜんぶが「行政」に依存するようになっている。
それで、行政組織内でできた「文系優先」(高等文官試験をひきずっている)で、現場を平気で無視できるものが「えらい」ことになるのである。

ところが、何度も書くが、文系の高等行政マンとは、人為的にできあがった法体系というシステムの維持管理「しか」できないから、自然科学による緊急事態=法体系のシステムとはことなる「系」の事態が発生すると、たちまち「無能」をさらけだすようにできている。

それが「原子力保安院」の「あの人」だったし、今回の「横浜市」の「この幹部」なのである。
そして、かれらにそんな役回りをさせる、「組織」というものを、誰がコントロールしているのかさえ不明になるのである。

しかして、こんどは厚生労働大臣が、16日「感染経路がわからなくなった」と発表した。
へんてこな「自由」にとらわれて、「入国放置」ということをしたから、それはわからなくなるだろう。

台湾の総統が、早期に「入国管理」をもって、厳しいけれど「緊急対応」したのとは、おおちがいである。

そんなわけで、いま、わが国内閣は「爆弾ゲーム」に興じだした。
こんどは厚労省が、入国管理の法務省に爆弾を投げつけた。
検事総長の定年問題が、感染症の入国管理に入れかわろうとしている。

福島のときは、防護服を着ていたら「放射線」を防護できるかのごとくの「原始人ぶり」をしていたが、こんどは、防護服を着ていたら「ウィルス感染」を防護できるそうである。

わが国の「法学部」は、もうちょっと「科学」を勉強しないと、「科学技術立国」に泥を塗ることになる。

あぁ、失礼しました。
とっくに「科学技術立国」をやめて、「観光立国」になるのでした。

その観光客を、クルーズ船に閉じ込めていたら、どうしたことか「シウマイ弁当が4000個も」なくなってしまいました。
「管理」ができないことが、世界にバレて、なんだかなぁ。

市民は、まったく、トホホ、なのであります。

香川県のゲーム時間規制条例

「完璧なる全体主義」が香川県で実施される予定になっている。

十八歳未満の「ゲームは一日60分まで」という使用制限を、明日17日からの二月定例議会に提出し、可決予定だという。
しかし、「強制」をともなわない、「基準」を規定するだけだという。
だから、「罰則」をともなわないから、実効性も低いと予想されている。

だったら、こんなもの議会に提出することはない。

なんのための「条例」なのか?
おそるべき「全体主義」であることに、だれも気づかないのか?

つまりは、条例を「つくること」が目的になっているのだ。
これを、「自己目的化」という。
「愚策」が生まれる典型的な「愚行」だ。
しかも、自己目的化した目的には、「屁理屈」がともなうのも特徴である。

今回は、本件検討委の委員長が、以下の話をしたと新聞が書いている。

「家庭や学校で取り組む対策に統一性を持たせ、一定の強制力を担保するには具体的な規定が必要」だと。

どうして「統一性」が必要なのか?
しかも、「一定の強制力」とあるから、そのうち「罰則」をふくめた「改定」も視野にいれているにちがいない。

これを推進するひとたちは、『アンネの日記』を読んだことがないのか?
そして、この「悲劇」の、本質である「全体主義」を、なんだとかんがえたのか?

思考力もない人物たちが、地方といえども「議員」になっている。

ひとびとが、ヒトラーのナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)を熱狂的に支持しながら、「ユダヤ人浄化」ということをはじめたときは、「ゆるかった」のだ。
その「ゆるやかさ」が、批判のもとになって「過激化」する。

そして、「もっと」、「もっと厳しく」が、ついには組織的になったのである。
これを役人として、機械的に実行した人物の裁判が「アイヒマン裁判」だ。

 

左は題名のとおり「調書」である。
右は、この裁判の「傍聴録」として、みずからユダヤ人で、ドイツから脱出したアーレント渾身の筆がさえる考察だ。
この本の出版で、アーレントはユダヤ人から「裏切り者」と批判され、旧友を失いもした。

神奈川県の「禁煙条例」は、原案に「家庭内」も対象にされていた。
この条例には、罰則がある。
それで、「アンネ」という少女が、「喫煙者」になったら、どうなるか?

ある日、戸建てやマンションに関係なく、自宅玄関にやってきた「禁煙指導官」(あるいは警察官でもいい)なるひとに、クンクンにおいを嗅がれて、「お宅、タバコやってますね」と指摘されて、その場で罰則の切符を切られる、ことを想像すれば、ことの大小ではなく、官憲による個人の自由剥奪という状態が出現する。

わたしは、タバコを十年以上前に「やめた」けど、これは、誰かから命令されたからではなくて、自分からやめようと思ってやめたのである。
やめるのも自由意思があってこそである。

もちろん、神奈川県は、この原案は「さすがにちょっと」ということで、対象から「家庭内」は外したけれど。
「ちょっと」ではない重大さが「ちょっと」といわれることに、いまだに違和感がある。

日本ではなぜか人気の、ジミー・カーター氏がどのくらいの「左派」なのか?あんまり解説はないのだが、所属が「民主党」だから、当然に「左派」である。
しかしながら、かなり「極」がつくことに注目したい。

彼が二期目の大統領選挙で、共和党のレーガン候補に大敗したのは、イラン問題とテヘランの大使館占拠事件の救出に失敗したからと説明するのは、一面だけに注意を向けようとしている危険がある。
彼が創設したのが「連邦教育省」で、「最悪」と評価されて大敗したのだ、と前に書いた。

なんでも「一律」にしたい「左派」に対して、有権者は「No」を突きつけた。
トランプ氏は、「教育省廃止」を公言していたから、そのうち「公約」として出てくるのではないかと思う。

わが国は、明治以来の「開発独裁政府」という性格がいまだにある。
だから、「全国一律」が「常識」になっている。
なのに、「地方の時代」といったりもするから、「痴呆の時代」なのだ。

律令時代の「中央集権」を、もっと強力に実行しているのが「日本国政府」であるから、「地方」の「独自性」は、ほとんど発揮でないようになっている。

国民を乞食にした、「ふるさと納税」で、総務省の役人から徹底的にいじめられている自治体は、「独自性」にこだわった「だけ」である。

もちろん、わが国の総務大臣は、国会議員という「源立場」をかんたんに忘却して、役人のロボットになり果てるから、こんないじめはいけません、とは決していわない。
選挙のときに、役人からいじめられるのがこわいからである。

ちなみに、カジノをやりたい横浜市は、ふるさと納税のおかげで、えらく税収を減らしていることも影響しているはずである。
カジノに反対する市民は、ふるさと納税ではなくて、ちゃんと横浜市に納税すればよいのだが、それは「お得」ではないとして、やっぱり「乞食」をやめない。

中央の締め付けが、地方を殺している。
こうして、独自色を出したい地方がとち狂っても、この国の人権派はだんまりを決め込む。

いろんな正体がみえてくるけど、まさか地方から全国一律になりはしないか?

中学生の娘と母の会話

たまたま食事をしていた隣席に、たまたま母娘がすわった。
食事時だから、なんのことはなく、この母娘も静かに料理を食べていた。
食器がさがって飲み物に移ると、娘がおもむろに中学の参考書をとりだした。

へー、こんなところで勉強するのか?と思っていたら、なにやら母親がはなしはじめた。
どうやら「社会科」の話題らしい。
あんがい、聞耳を立てたから、以下はかなり正確に書いたものだ。

いきなり「現政権の経済政策」について、かなり「適確」な批判がはじまった。

「アベノミクス」がいう「景気対策」とは、日銀による「ゼロ金利・マイナス金利」という「無謀」でしかなく、株式をもつ一部の投資家にだけの恩恵なのに、消費税は「増税」して、その対策が「2%」のキャッシュレス決済における「返金」という無意味になっている、と。

すると、娘は、「そんなこと解答にできないよ」といったけど、母親は意に介せず「自由に述べよ、なんだから、いいじゃない」という。
「それに、お母さんがいっていることのどこがちがうの?」
「う~ん。その通りだとおもう」

「どこがその通りなの?」
「日銀の金利と消費増税」
「なら、それでいいでしょう?」
「うん」

「あと、おおきな問題は親中の外交ね」
「ああ、それね」
「大問題でしょ?国家の存亡にかかわることよ。お母さんの時代よりあんたたちの時代になったら、日本が占領されちゃうから。そうなったら、みんな奴隷になるのよ」
「やばいよね」

「でも、学校でこういうこというと、どうなのかな?」
「なにが?あんた、なにを気にしているの?先生?」
「っていうか、雰囲気」
「なに?親が右翼だからって文句いうの?」

「そうじゃなくて、あんまりこういうこと、いうひとがいないとおもうから」
「だから、自由意見でいっておきなさい。すこしは目を覚ませって」
「だれに?」
「みんなによ」

「あんた、ほんとうはどうおもっているの?」
「え?。。。やっぱり、この国やばくない?っておもうけど」
「どうやばいのよ?」
「民主主義じゃないし」

「どうして民主主義じゃないっていえるの?」
「だって、アメリカの大統領選挙みればわかるじゃん」
「なにがわかるの?」
「立候補者から選ぶんだよ。大騒ぎして」

「それで?」
「それに、議会が予算編成するんだよ」
「その意味は?」
「行政が予算案をつくらないってこと」

「こないだの弾劾裁判と一般教書演説がおもしろかったわね」
「上院が多数だから、否決されるのわかってるのに。学校でも話題だったよ」
「あれって、民主党の党内でのバイデン降ろしでしょ?」
「たぶん。日本のニュースはいわないね」

「それに、おどろいたのが、大統領は議会に入れないことね」
「えーっと、議長から招待状をもらって議会に入るのが許可されるんだよね」
「そうよ、それが三権分立。大統領が議事堂に勝手に入れない国」

「これ、日本でかんがえたらどうなるの?」
「総理大臣は国会に入れない?」
「総理は国会議員から選ばれるのよ」
「そうか。そうなると、、、あれ?わかんない」

「イギリス式なのよ」
「あっそうか」
「あんた、イギリスのこと勉強しないとダメね。それに、女王陛下と天皇陛下はちがうのよ」

「ちがうの?」
「なにいってるの?あたりまえでしょう?」
「えっ、どうちがうの?」
「天皇陛下のほうがえらいにきまってるでしょう?」

「なんで?」
「ばかね、歴史がちがうのよ」
「ああ、長いんだ、天皇家の方が」
「世界最古よ。エリザベス女王のウインザー朝は1917年からだから、たったの百年、まだ4代目なんだから」

「古いってだけ?」
「あのね、これが伝統っていうの。古いだけっていうけど、二千年以上続いてるってことがすごいのよ。あんたの子孫が千年も続くの?」
「。。。。。」

「でも天皇制っていろいろいうけど」
「あんた、その天皇制ってやめなさい。共産党用語なんだから」
「そうなの?みんないってるけど」
「だから、日本人がおかしくなるの。それが共産党の作戦よ」

「でね、ウインザー朝ってドイツの王朝からの流れなのよ」
「そうなの?」
「それに、エリザベス女王には、ウインザーって苗字があるのよ」
「あれ?苗字?」

「イギリス歴代でも苗字があるのは、ウインザー家が最初よ。それまでなかったんだから。どのくらい天皇家からして格下か、わかる?」
「へー、そうなんだ。なんか、すごいね」
「あたりまえでしょ」
「お母さんがすごいみたい」

「だから、日本人はちゃんとしなきゃいけないの。その辺の普通の国とちがうって。差別とかじゃなくて、じぶんたちの誇りとしてしっかりしないといけないのよ」
「そのわりに反日されるよね」
「それは、日本人としてシャンとしなかったからでしょう?自民党の売国奴たちが日和ったからバカにされるのよ」

「じゃあ軍事力もいるの?」
「なにいってるの?あたりまえじゃないの?軍隊がない国なんて国じゃないでしょ?」
「それって過激だよ」
「あんた、それ学校でならったの?」

「わかんないけど、なんとなく」
「もうだめね。留学しなさい」
「どこに?」
「海外ならどこでもいいわ、東アジアを除けば」

「じゃあドイツがいい」
「だったらドイツ語勉強しなさい」
「やるやる」

女、子どもの話とは、むかしなら相手にされないが、時代はおおきくかわっている。

パレスチナ化する日本領土

世の中には面倒くさいはなしがたくさんあって、「問題解決できない」問題にあふれている。
学校時代は解けない問題は出題されなかったけど、世の中には、解ける問題のほうがすくない。

解ける問題を上手に解くものが優秀で、解ける問題をうまく解けないものは凡庸とされるのは、「解ける」という点では否定しないが、「解けない問題」をどうするかは、かなり本人の「センス」にもよる。

解けない問題の「正解」は、だれにもわからない。
これは、「四次元」で解く問題だからだ。
わたしたちは、点、線、面までの「三次元」にいきているから、時間がくわわった「四次元」は、グラフにひょいと書くこともできない。

世の中に「解けない問題」がたくさんある理由はなにか?
それは、「経営資源」というもののなかに「時間」がはいっているからである。
ひと、もの、カネ、情報、、、、、時間。

これらを「トータル」で駆使して目的や目標を達成するのが「経営」だから、「正解」にあたる「ある一カ所」を指し示すには、「四次元グラフ」のなかで特定するひつようがある。

ところが、この問題の正解を指し示すまでの「時間」でも、環境は刻々と変化するから、結局「近似値」に近づけることしかできないのである。
しかも、それが「近似値」であることさえ、だれにもわからない。

今日の判断が、もしかしたら「大間違い」かもしれないし、もしかしたら「かすっている」のかもしれない。
それで、仕方ないので、どのくらい目的や目標とズレているかをたえず確認することで、その都度「修正」するしかないのが「経営」という行為になる。

ところが、もっと厄介な問題が世界にはあって、それが「領土問題」というものになる。
土地、あるいは海洋であっても、そこに境界をもうけて、その内側と外側を区別する。

この原理の単純さゆえの複雑は、世界が自分ひとりではないことにはじまる。
世界にふたりしかいなくても、それぞれの生活圏がぜんぜん関係なく離れていたら、世界はじぶんひとりに等しいから、なんにもかわったことはない。

しかし、接近してくると、とたんに「奪い合い」という事態になる。
その土地や海洋自体は、そこから動かないので、まったく人間の都合による「奪い合い」ということだ。

わが国よりはるか遠くの中東で、むかしは「中近東」といった地中海の東海岸側にある「パレスチナ地域」に、「シオニズム」という政治運動から、ある日突然、大量の外国人がやってきて、現地人を追いやって住みついてしまったら、そのまま「建国」された。

追い出されたひとたちは、はじめ「60万人」ほどだっけど、60年も時間がたって、子孫をいれれば数百万人になっている。
これが、「パレスチナ難民」で、北の隣国「レバノン」や、東の「ヨルダン」それに、東エルサレムやガザという地域に住んでいる。

あんまり遠くて、どうでもいいようにおもえるが、石油を産する地域になるから、ぜんぜん他人事ではすまない。
トランプ政権が、あたらしい「中東和平案」を提案して、わがマスコミは批判的に伝えているが、はたしていかがか?

たしかに、「理屈」のうえでは、理不尽な「案」である。
ようは、「現状の容認」をする、という「だけ」の案だから、パレスチナ難民のひとたちを元の場所に帰還させて住まわせる、ということはこの案にはない。

むしろ、注目は、周辺のアラブ諸国の「変化」で、かつて「四回」も戦った中東戦争からすれば、「五回目か?」といえばさにあらず。
ぜんぜんやる気がなくて、しかも「他人事」なのである。

つまりは、当事者で決めてちょうだい。
アメリカ案?う~ん。わるくないんじゃない?
これが、かつての盟主エジプトの反応である。

「パレスチナ政府」を認める、というのは、これで何回目かわすれたが、かならずパレスチナ側が「拒否」してきたし、今回も「拒否」したのは、案自体を拒否したからである。

さてそれで、パレスチナ側はこれからどうするのか?
じつは、資金援助していた周辺国が、援助に疲れてしまっている。
それに、アメリカも中東から足ヌケしたい。
ならば、出てこられるのはロシアなのか?それともあの大国か?

この両国とは、領土問題があるのがわが国である。
尖閣には領土問題は「ない」という、わが外務省の公式見解も、「理屈」ではそうなのだが、はたして「実態は?」となると、かなりあやしい。

「現状の容認」なんかできっこない、のがわが国の「領土問題」だから、構造が「パレスチナ問題」と似ていて、さらに、追いつめられ方も似ているのだ。

一戦交えるはなしをした国会議員が、所属する政党から除名される「事件」があったけど、いまさらに、その「政党」は、どんな解決策をもっているのか?
相手国との「交渉」・「話し合い」における「戦略」は?きいても無駄な愚問になり果てている。

パレスチナ自治政府との知恵の出し合いもしていないにちがいない。
もちろん、「なにもしない」ことに長けているのがわが国の特徴だから、ひたすら「問題の先送り」という方法で、解けない問題を放置するのである。

なるほど。