共和制と民主主義

国家の政治体制をいうときの「区分」で、いまや圧倒的に多数なのは「共和国(republic)」である。
近代での本来的な意味は、「非君主国」ということだったけど、民主主義(democracy)と結びついた君主制「立憲君主国」がでてくると、表面的には「大統領制」をいうようになった。

わが国の曖昧さは、天皇の位置づけから破壊されたので、大手を振って「立憲君主制」ともいえず、なんだかわからないから、「民主主義国家」ということにしている。

これが、世界的にも珍しいのは、「共和国」は共和国であって、「民主主義国家」とはいわないからである。
ここに、戦後のわが国の「政治体制(政体)=国体」についての「闇」があるのだ。

トランプ氏が大統領選挙の正当性を、表面的に放棄して、バイデン政権らしきものが発足した最近になって、「株式会社アメリカ合衆国」と、「アメリカ共和国」とを分ける議論が起きている。
そもそも、トランプ氏が属したのが「共和党」だから、トランプ派が「アメリカ共和国」をいいだしたともいえる。

だから、表面的な政権らしきものを、「株式会社アメリカ合衆国」と表現したい気持はわかるし、なかなかうまいいい方なので感心している。
「日本株式会社」とか「株式会社日本」といういい方が、オリジナルだと言い張っても空しい表現だけど、国をあげてひとつの「エンタープライズ」だといえば、納得もいく。

自由主義を標榜した、かつてのアメリカ合衆国なら、こんないい方に反発しただろうけど、国家を超えた巨大テック企業たちの「情報支配」が、ほんとうに国家を支配したうえでのビジネスをやっているから、彼らに支えられた民主党は、株式会社アメリカ合衆国の表面上のボードメンバーとなっている。

すると、国家間の軋轢というのは、もはや「過去のこと」にすぎず、真の支配者である巨大テック企業の意向こそが、国家意思となる時代になった。
だから、今度の政権が「親中」だとかいうのも、まやかしであって、巨大テック企業が儲かるためのルールづくりが、そのまま「対中要求」になるはずなのだ。

もちろん、個々人を情報支配して全体主義を完成させたいひとたちとも手を組むのは、その技術的背景が「儲かる」からであって、さらに、アメリカ大統領選挙での介入で、全体主義の旨味を知ってしまったから、もう戻れないのである。

これは、一種の麻薬中毒なのだ。

巨大テック企業の経営トップが、このような麻薬中毒に陥る一方で、支配される側は、州政府から本物の薬物依存を促進されて、民主党系=左派の知事が君臨する、たとえばオレゴン州では、注射器を希望者に無料配付という「行政サービス」がおこなわれているし、カナダでも同様の状況以上(コカインの配付)が発生している。

もう30年以上前に、スイスでは無料麻薬投与所が開設されていて、ここでは本人が希望する薬物を、有資格者によって「安全」に提供されている。
当然だが、スイス社会は、本人が廃人になることを容認したかわりに、薬欲しさの犯罪を防止することを、国民投票によって優先させたのである。

すると、スイスの「民主主義国家」としての完成度は、その徹底的な「個人主義」とセットで、「完璧」であることがわかる。
直接民主制(単純多数決)によって、自動的に「法」がつくられるからである。

対して、自由主義の「共和制」では、「法の支配」を前提におく。
たとえ多数決で決しても、それが、「法」に合致しなければ「無効」とするのが、「共和制」の本質なのだ。

たとえば、『レ・ミゼラブル』のジャン・バルジャンのように、1個のパンを盗んだことが、生涯追われる罪になるのか?という問いである。
刑法があれば、その罰則以上の罪に問うことはゆるされないのが、法治の原則である。

アメリカ合衆国連邦議会における、トランプ氏二度目の弾劾訴追(下院)と裁判続行決議(上院)は、アメリカ合衆国が、共和制の法治ではなくて、民主制の多数決になった瞬間を見せてくれたものなのだ。
つまり、国柄の変更である。

これを押し進める、ほんとうの勢力が、グローバリストたちである。

フロリダに第二の大統領府をつくった、トランプ氏の「アメリカ・ファースト」とは、反グローバリゼーションの旗印だ。
だから、彼が掲げた選挙キャンペーンが「法と秩序」だった。
まさに、共和制をストレートに表現したのである。

さてそれで、わが国の、民主主義国家とは、とっくに多数決による「民主制」そのもので、学校教育の現場でも、「多数決」をもって決めることが正義とされる「(洗脳)教育」がされている。
そうやって育った、おとなたちのなかの成績優秀者が、民主制の支配者になるようになっている。

日本の危機が、アメリカの危機より深刻なのは、こんなところにも見つけられるのである。

政治闘争の中韓「キムチ論争」

漬物である「キムチの起源」は中国にあり。

突然、こうした主張が飛び出したのは、中国人女性からのユーチューブ投稿動画が「起源」である。
設定は、両親を亡くした地方の女性が、祖母とふたりでひっそりと暮らしながら動画投稿しているということになっている。

そのおおもとは、四川省の伝統的郷土漬物の「泡菜(パオツァイ)」だという説である。
なお、泡菜がISO認定された、という自信が「キムチ論争」のきっかけだという説もある。

それでもって、キムチは中国の伝統料理のひとつだ、という主張になった。

もちろん、韓国側が黙認しているはずもなく、初期段階ではいつものように「火病」を発症したけれど、「ファクト」をもって論破すべく意気込んでいるというから、火の粉が日本に飛んでくるやもしれない。
あんがい、面白おかしい「他人事」ではないのである。

前にも書いた通り、キーとなるのはキムチの主な材料にある。
日本人にとっては、「白菜」がまっ先に思い浮かぶだろうけど、それ以上に重要なのは「唐辛子」である。
このどちらも、「日本」が大きくコミットしているのだ。

それまでの「菜っ葉」を、いまのような「白菜」に品種改良したのは、明治の農林試験場だったから、ふつうにある白菜は、あんがいと新種の野菜なのだ。
それに、「唐辛子」も、「唐」から伝来したのではなく、「南蛮」からの伝播なのだ。

ここでいう「南蛮」とは、キリシタン・バテレンの南蛮のことで、いわゆる「南蛮貿易」である。
なぜなら、トウガラシは、中南米が原産だから、「南蛮(ポルトガル)人」が日本にもたらした。

問題なのは、この時期に、大陸の王朝も半島の王朝も、「貿易」をしていなかった事実があることだ。
つまり、唐辛子は、日本から半島や大陸に伝わる、というコースをたどるのである。

いまでも日本の東北地方で、唐辛子のことを「なんばん」と呼ぶのは、往時の表現がそのまま残っているからである。

そんなわけで、韓国のいう、ファクトをもって論破するという決意のほどが、どういった説を「ファクト」というのか?興味がわくし、そもそもが、こんな論争をしかけた中国側の意図はなにか?ということだ。

ユーチューブで発信している女性は、とっくに有名人なのだそうだけど、どういうわけか、フェースブックやツイッターでの投稿もしていて、さらに、人民日報が報じているという。

彼の国で、どうやってこれら有名SNSの利用登録をして投稿ができるのかはしらないが、党の機関紙にも登場するなら、はたして本人は「実在するのか?」という疑問まででてくる。

つまり、よくわからないけど、「面白いね」という興味本位のレベルではなさそうだ。
「笑いの中の真実」を追求すべきなのである。

すると、一石二鳥の革命戦略が見えてくる。
・韓国を文化的支配下におさめる
・日本の言動を封鎖する

韓国人が、キムチは自国の文化だといえばいうほど、これをねじ伏せることで、文化的優位にたつことができる。
べつのいい方をすれば、韓国(朝鮮民族)文化の根底からの破壊である。
これぞ、無機質な共産主義の、破壊すべき最大の対象なのだ。

自国のオリジナル伝統文化の喪失、これこそが革命だ。

経済的に中国依存の韓国は、支配の第二段階、すなわち「仕上げ」としての段階に入ったことを意味する。
トランプ政権なら、「バカいうな」で終わったものを、米国現政権は、きっと放置してこの論争に介入しないはずだし、「文化支配」を重大視もしないだろう。

すでに、アメリカ民主党が自国の伝統文化破壊を開始したからである。
すなわち、重大政策だと、しっている確信犯なのだ。

こうして、韓国は、自国の政権とともに、事実上の吸収合併される運命が見えてきた。
日本に併合されるより、「まし」とかんがえるなら、それはそれで仕方ないことである。

すると、わが国への圧力は、「黙っていろ」に尽きる。
謝謝茂木こと、茂木外務大臣ばかりか、総理自身も心得ていることだろう。
こうして、わが国の防衛ラインは、日清日露戦争「前」の状況に戻ってしまうことも確実になってきた。

それどころか、韓国の次の文化的支配におくべきは、わが国に絞り込まれることが確定する。
さては、どんな手をつかうのか?
アメリカがやられたような手だってかんがえられる。

これまで通り、なにもしない、ということこそが危険なのだ。
なにかあったら、アメリカが助けてくれる、という時代は1月20日で終わったのである。

まずは、韓国を見よ。
「キムチ論争」自体も、敗色濃厚という事態になっている。

明日は我が身なのだ。

「あぶり出し」の議案

アメリカ共和党のなかでも、有名かつ有力な議員は複数いるけど、テッド・クルーズ上院議員(テキサス州)は、「最強」ともいわれている論客である。

わが国でもしられるようになったのは、大統領候補がトランプ氏に決まった党内予備選挙で最後まで争って、惜敗したことからである。
今回トランプ氏が二期目をやれば、24年の大統領候補の筆頭でもあった。

民主主義を標榜するなら、その根幹を支えるのが「選挙」だということは、子どもだって理解できる。
選挙の公正さの確保は、絶対、でインチキは許されないということも、しっている。

今回のアメリカ大統領選挙では、その「絶対」が崩壊したのを全世界が目の当たりにした、まさに、信じられない光景が展開した。
それで、選挙についてかんがえる、というひとたちがたくさん生まれたのである。

先日、トランプ大統領の弾劾が予定されている上院で、この弾劾裁判の違憲(退任したひとを弾劾するのは違憲か)を問う決議が提案された。
いまや、同数となった民主・共和の議席数だから、副大統領が議長となるので、民主党が有利になっている。

結局、55対45で、この議案は否決された。
すなわち、共和党議員が5人、裏切ったことだけがはっきりした。
しかし、弾劾判決には、2/3以上の賛成がないといけないので、バイデン氏も発言したように、この弾劾は成立しそうもない。

けれども、常識でかんがえれば、「解職」を目的にする弾劾が、離職したひとに適用できる、とすることの無理がある。
だから、今回、アメリカ議会は、この無理を通した、ということだけで、「憲政史上」の汚点をつくった。

つまりは、国民に見せるための、「あぶり出し議決」である。

そこで、クルーズ議員の提案が飛び出した。
「議員の当選回数を制限する法案」である。
すなわち、バイデン氏が47年間も上院議員であったように、当選回数を重ねて、それが利権を拡大させることの弊害を取り除く、という主旨だ。

わかりやすい事例だから、バイデン家が俎上にあがる。
じつは、バイデン家は「ふつうの家」だったのだけれども、議員生活の長さとともに、富が増大してきた「歴史」がある。
いまでは、兆円単位の富豪となった。

トランプ氏はビジネスを通じて富豪になったから、後ろ指を指される筋合いはないけれど、バイデン氏はずっと上院議員「だけ」だったのに、どうして富豪になれたのか?
しぜんと、「職権濫用」という言葉がうかぶ。

自身も議員であるのだから、身を切る提案だ。
連続だろうが、飛び飛びだろうが、議員となる回数を制限するという案は、大胆である。
だから、おそらく可決されない。

よって、この議案も「あぶり出し」である。

可決されないのがわかっていて提案するのは、議会をもてあそぶいけないこと、という意見もある。
しかし、違憲を合憲とする「パワー・ゲーム」が平然とおこなわれる議会となったからには、国民に知らせるシグナルがひつようとなったのだ。

それは、「ワシントンの沼」を、ハッキリと暴き出したトランプ氏の功績でもある。
もはや白日の下にさらされた、「ディープ・ステート」を、「陰謀論で切り捨てる」こともできなくなった。

とはいえ、ひとつ、トランプ氏の「失政」をあげれば、それは、「コロナの政治利用」に尽きる。
衛生分野の大統領顧問ひとりに、歴代の大統領が多大な権限を与え続けた結果でもあるし、側近たちが大統領への情報操作をしていたという指摘もされていた。

発生から1年が経って、ヨーロッパやアメリカで、冷静な専門家たちが「異見」を表明しだしたのだ。
すなわち、「やっぱり風邪である」と。
そこで導かれる言葉が、「ワクチン利権」となってきた。

つまり、問題の根本にある、「特別な病気」という概念自体が、怪しいという指摘であって、トランプ大統領がもっとこれらの「異見」を政策に尊重すべきであったという指摘がでてきたのである。

それに、遺体にまでPCR検査をして、陽性ならこの病気を「死因」にしないといけない、という「WHO通達」に、アメリカの開業医たちが「良心の呵責」にさいなまれている実態も明らかになってきた。
「もうこれ以上、水増し報告はしたくない」。

わが国に視線を戻せば、とてもじゃないがアメリカを笑うことなんてできない体たらくである。

安倍氏は現職末期、この病気の法的基準を「緩める」方向での検討をすると明言していた。
すなわち、感染症ランクでいう「2類」(結核、SARS、MERS、鳥インフルエンザなど)から、「5類」(従来のインフルエンザ、ウィルス性肝炎、風疹など)への変更のことである。

ところが、いま、政府部内(主に厚労省結核感染症課)では、あろうことか、「格上げ」を検討しているという。
一類は、ペスト、エボラ出血熱など、劇症の病気である。

その理由が、「5類にすれば、権限がなくなって何もできなくなります。」との報道がある。
「権限が欲しい」という政府の本音を、国民はどうかんがえるのか?

これを、「あぶり出し」に利用する、議員がひとりもいないことがあぶり出されている。

「不思議」の「フロリダ朝」

25日、トランプ氏は地元フロリダ州に、「前・大統領府」を設立したと発表した。
トランプ政権のスタッフをそのままに、今後も引き続き「政権2期目」の政策立案に集中するという。

いわゆる、「南北朝」がほんとうにアメリカではじまった。

南北戦争(American Civil War:英語では「アメリカの内乱」という)以来、ワシントンD.C.が「北朝」になって、これを、「南朝:フロリダ朝」が牽制する体制となったわけだ。
しかも、正当性は南朝にあって、権力は北朝にあるから、なんだか「京都」と「吉野」のような話になっている。

ふつうなら、敵対側は「逆上」するはずだけど、それが、上院での「弾劾裁判」らしい。
たしかに、逆上しているとしかいいようがないのだが、来月からという日程が、なぜかスピード感に欠ける。

トランプ氏は離任にあたっての演説で、「不思議な旅がはじまる」と、不思議なことをいっていたのが、このことなのか。
24日までの首都ワシントン封鎖を命じた、緊急事態令はとっくに期限で解除されたはずなのに、州兵たちは3月まで留まるというし、その数も7000人規模を維持するという不思議がある。

なんのために?
理由が説明されていない。
それに、各州知事に州兵の派遣を命じているのは、国防総省でどうやら新大統領ではない?という不思議な状態なのだ。

共和党系の知事や議員が激怒した、寒さの中、兵たちを満足にトイレもない地下駐車場に追いやった犯人探しも、結局誰の発令だったのかわかっていない。
こんなことがあり得るのか?
相手は、州兵といえども「近代軍隊」なのだ。

軍の移動に関する指揮命令系統の混乱なんて、まったくあり得ないことだ。

ならば、「軍権」は、いま誰が掌握しているのか?
巷間いわれているのは、トランプ政権の国防長官がいまだに掌握している、という「うわさ」である。
しかし、新政権の国防長官は、もう上院で承認されているから、これもまったくおかしな「うわさ」なのである。

しかも、新長官は元陸軍大将だったひとだ。

彼の承認にひと悶着予想されたのは、軍人が文官の身分である「長官職」につくには、退役後7年の期間が必要とされる慣習があったからである。
しかし、トランプ政権の国防長官を務めたマティス氏は、この慣例を破って就任するという慣例をつくったから、いまさら感があったのも事実である。

わからないのは、新国防長官が承認以来、報道のおもてに出てこないことで、このことに注目した話題すらない。
一方で、国防総省は、相変わらず新政権への機密情報の提供を拒否しているというから、ふつうなら大問題だ。

でも、大問題になっていない。

かんがえられる第一の理由は、新国防長官のもとで、正常な業務がおこなわれているから、問題自体がない、ということ。
第二は、ほんとうは大問題だけど、大問題だというと、政権の正当性が問われてしまうから、だんまりを決めている、ということだ。

するとこの二点が共通して示すのは、「軍政」になっている、という「うわさ」がほんとうだということになる。

さらに、予想どおり、「バイデン氏の弾劾訴追」がどうなったのか?がわからない。
こちらの弾劾理由には、彼の子息による犯罪容疑も含まれるので、新政権にとってのアキレス腱どころではない大問題がある。

つまるところ、アメリカ合衆国は、いま誰が統治しているのか?
これが、「はっきりしない」という大問題の状態なのである。

それでもって、あちらサイドについているわが国政権とマスコミは、「バイデン政権」が、あたかも「通常どおり」ということに決めた。
国民への「情報戦」をはじめたのである。

しかし一方で、あちらの大国では、昨年暮れからほぼ一ヶ月、「国家主席」が「生身」の姿を見せていない。
もしやの「死亡説」まで流れている。
脳大動脈瘤の手術という「うわさ」があったけど、まったくわからない。

これがもし「あたり」だとすれば、強烈な権力闘争がはじまっているはずで、バチカンの法皇決定の「コンクラーベ」のごとく、決まるまで外部に漏れることはない。
コンクラーベは選挙だけど、あちらの大国では「犬」とおなじ方法でボスを選ぶのが通例である。

「力」による押さえつけのことである。
ただしこの場合の「負け犬」は、息の根を止められるから、死闘になるのだ。
邪心をもった人間は、犬未満に成り下がるものだ。

そうはいっても、バチカンだって、枢機卿が9人もいっぺんに亡くなった。
発表された死因は、例の流行病だということだけど、ひとりも入院せずにいたからほんとうか?
それに、バチカン銀行元総裁の大司教が逮捕されて、8年の実刑だという。

逮捕から判決までがやたら速い不思議がある。

容疑は「マネロン」と「麻薬取引」。
ご本人はとっくに80歳を超えているので、8年は痛い。
ついでに、法皇ご自身も持病のため静養すると発表されて、ついぞおもてに出てこない。そういえば昨年は、クリスマス後に法皇が退位する「うわさ」もあった。

まったくもって、『ゴッドファーザーⅢ』のごとく、と書いたことが「あたってしまった」不思議がある。

さてはどこまで、「フロリダ朝」が関与しているのか?
しばらくは誰にもわからないだろう。

トランプ氏関与といわれた、新設「パトリオット(愛国者)党」の支持率が、あっという間に共和党の支持率を上回ってしまったけれど、これをみてから「フロリダ朝」は、われわれと「関係なし」と正式発表した。
けれども、上院での弾劾に腰を引かせる、すごい効果となっている。

こちらも、すさまじい「情報戦」をやっている。

ハイエクに2度目のノーベル賞を

世の中には、あらゆる分野に「主流派」がある。
だから、かならず「非主流派」とか「反主流派」に分類されるひとたちもいるのは、「分散」という意味で健全なのだ。
すると、「集中」とは、この意味では「不健全」だということになる。

また、すぐに世の中の役に立つ学問を、「実学」といって、「純粋学問」から分けてかんがえるひともいる。
ならば、「純粋学問」は世の中の役に立たないかといえば、そんなことはない。

この「実学」の典型が、「経済学」というひともいる。
ところが、最近の経済学が、「役に立たない」といって文句をいうひとがいる。
けれども、これは正しくは、「経済政策」のことで、経済学が基礎を支えていない、ということを端折っていっているのだろう。

先週発足したといわれている「バイデン政権」が、矢継ぎ早に打ち出した「経済政策」が、どんな「経済学」によって裏打ちされているのか?と問えば、こたえは「マルクス経済学」ということになるから、唖然とするのである。

なぜなら、ふつう「経済学」といえば、いわゆる「近代経済学=資本主義を前提とする」ことであって、この主流派も非主流派も反主流派も、「マルクス経済学」のことを経済学とは「認めない」という常識があったからである。

もちろん、アメリカでマルクスとは。

では、これら「経済学」の立場から、マルクス経済学はどういう位置づけなのかといえば、それは、「宗教」なのである。
だから、マルクス経済学を分析したりするのは、「宗教学」の分野とされていたし、そのなかの位置づけでも、「邪教」扱いがふつうだった。

これは、一般的な宗教(欧米では新旧約聖書の3大宗教)で信仰の対象となる「神を否定」し、「無神」を信じる宗教だからである。
しかしながら、神を否定するとはいえ、それ自体を「信じる」宗教的な思想と思考構造は、従来の宗教とおなじなのである。

その根底に、理屈ではない、「飛躍」があるのだ。
たとえば、神の存在を証明する「理屈=根拠」はないけど、「あることを信じる」という「飛躍」を前提にしていることを挙げることができる。
これがそっくりマルクス教にもあてはまるので、この宗派も既存宗教と同様に、「(他)宗教を否定」するのである。

およそ宗教というものが、それを信仰するひとたちを団結させる力があるのは、教義に対する「絶対」があるからである。
これが、世俗的政府の為政者には「危険」になるから、ローマ教会がひとびとの「心」を支配したヨーロッパでは、「政教分離」が行われたのである。

江戸時代までのわが国の歴史で、「斎主」である天皇が絶対的崇拝の対象にならなかったのは、信仰の対象となる「神社」に「絶対がない」という、世界的「珍奇」があったからだ。
それで、輸入した宗教にある「絶対」が爆発したのが、「一向一揆」だったし、「島原の乱」になった。

内乱阻止を宗とする徳川幕府における「重職」に、寺社奉行があるのは、まさに日本版「政教分離」だった。
これを、明治政府が「政教一致」にしてみせたのは、資本主義の前提となる、平等の実現に、欧米の神とおなじ「絶対」を求めたからであった。

天皇以外は全員平等だとする「思想」が、国民を団結させ、一家を成すことに成功したばかりか、一枚岩ゆえの自由も付与する「建て付け」で、資本主義の条件を整えたのである。
これが、アジアで唯一発展できた理由である。

何度も書くが、「人間宣言」によって上記の「発展基盤」が壊されたけど、日本教を信仰する世代のひとたちが寿命をえてから、わが国の衰退がはじまったのは、至極当然のことなのだ。

ハイエクが晩年に到達した、『法と立法と自由Ⅰ,Ⅱ,Ⅲ』(1976~79)において、「部族主義=閉じた社会:家庭、企業、地域社会など」のなかにある「利他主義」が、自由をうしなわせる「内側の敵」であるという指摘と焦りともおもわれる「警告」が、アメリカで現実となった。

  

じつは、マルクス教も「利他主義」を説いている。
これがいまだに、善人で頭脳明晰なひとたちの「脳を汚染」する元凶なのだ。
しかし、マルクス教の「飛躍」は、利他主義の実現方法に「ある」。
美しく利他主義を説きながら、その実現方法が飛躍して、一切の記述が「ない」ゆえの宗教なのである。

一見、利他主義はよいことに見えるし、「道徳的」でもある。
しかしながら、これが「自己犠牲」になって、それを利用しようと計画するひとたちに、無限の権限委譲を伴うのだ。
つまり、善が悪に利用され、踏みにじられる「お約束」の結論を導く。

全体主義への道である。

先日、アメリカとカナダにまたがる「北米国際労働組合(LIUNA:Laborers International Union of N A)」が、バイデン政権を激しく批判するコメントを発表した。
彼らが一押しして選挙応援をしたのに、「公約」を破って、パイプラインの建設中止や、シェールオイルのフラッキングを禁止したからである。

雇用を重視する労組にあって、4万人以上が失業する可能性の現実化で、組織の存在理由が問われる事態になったのだ。

もちろん、政権が根拠とする理由は、「地球環境」ということになっているから、信者たちは彼らの失業を、美しき「自己犠牲」だと言い張るにちがいない。

ハイエクが1974年にノーベル経済学賞を受賞したのは、若い頃の経済分析をもって理由とされたので、同時受賞で福祉国家=社会主義を展開したグンナー・ミュルダールは、「どうしてこいつと一緒なんだ?」と文句をたれた逸話がある。

アメリカのいまをいいあてた、ハイエクがもう一回受賞しても、今度は誰も文句をいわないだろう。

奥深い「甘辛人生道場」

赤ちょうちんに目いっぱい書いてあるから、当時は「電飾看板」の役割もあったろう。
残念ながら、わたしにはこれを見た記憶がないので、パチンコ店のハシリに実際にあったのか、それともこの作品の演出なのか?の区別が判断できない。

名作製造機・小津安二郎の映画、『お茶漬けの味』(1952年:松竹)での表現だ。
シナリオ自体は、1939年に書いていたという。
だから、時代設定がより、「現代的」になって製作されたとおもわれる。

どのくらいの時間をかけて製作したのかわからないけど、公開が昭和27年10月1日であるから、「占領中の製作」なのかもしれず、「完成が独立後」になった可能性がある。
もっとも、「国家総動員法ができた翌年」のシナリオ完成だし、「内務省の事前検閲」を通らなかったというから、結局は、絶妙なタイミングで世にでたことになる「縁」がある。

テレビ放送が本放送となるのは、本作公開翌年(1953年)のことだ。
それでもって、興行収入は、1億1千万円弱だったという。
当時の物価と現在とを比較するのが、あんがい困難なのは、それぞれの「物品」が、それぞれの物価上昇をしたからである。

念のため1953年の資料をあたると、
大卒事務初任給:9200円
新聞購読料/月: 280円
ラーメン   :  35円
ビール    : 107円 とある。

だいたい20倍ぐらいになった感じがするけれど、ビールがなんだか不思議なお値段である。
作品中でもビールがふつうに注文されて登場するけど、やたら「高級」にみえる。

68年間で20倍だから、年の平均上昇率(幾何平均)を計算すると、4.5%(68√20:20の68べき乗根)となる。
ビール以外、マッチしているような気がする。

バブル崩壊後のインフレ率は2%程度と低く、最近ではマイナスになったけど、昭和28年スタートの計算なら、これから高度成長期になって、そのころのインフレ率はだいたい7%あったからである。
いまからすれば、懐かしい「公定歩合」なんてものもあった。

こうした古い映画の映像に見る風景が、いまとなっては貴重だし、俳優陣のセリフ回しが、絶滅した日本語として録音されているので、楽しいのである。

この作品では、「宮城」から銀座に向かう光景が記録されていて、和光のビルがぽつねんとそびえ立っている銀座を観ることができる。
登場する「有閑マダム」たちの言葉は、けっして「ざぁます言葉」ではないし、極力手短な男性陣の会話と、なにかあればはじまった一節の「歌」がある。

そういえば、むかしの宴席にはかならず「歌」があって、これを酔ったひとたちが妙にバラバラなノリで合唱していた。
だれかが歌い出すと、それに集団があわせるのだけれど、あんがい「軍歌」はめったに聞いたことがない。

軍歌を歌うのが、テレビドラマの定番の場面だったのも、「作られたもの」だったとおもう。
海軍にいた父は、ドラマのなかで歌われる「同期の桜」に憤慨していた。
戦争に行かなくて生き残ったひとたちと、戦争に行って生き残ったひとの「断絶」だ、と。

俳優が悪いのではない。
これをやらせる、演出家や制作者がふざけている、とつけ加えていた。
「悪い戦争」と世間が認識し出したことへのやるせなさを、とうとうなにも書き残さずに物故した。

日本映画だから、という国内を「鎖国」して観れば、たしかに食うや食わずの時代にあって、上流階級というひとたちの浮世離れした生活は、もしやいまより豊かだったかもしれない。
しかし、なんだかスケールが「小さい」のだ。

欧米人の上流階級とか、かれらがアジアにつくった「邸宅」と、そこでの生活ぶりは、比較しようがない。
すると、外国目線でこの作品を観たら、どこにも上流を「感じない」にちがいない。

ようやく、木暮實千代が演じる「奥様」が、そのトンガリ具合から、「もしや」と感じるかもしれないけれど、あるいはやっぱり、ふつうすぎてスルーするかもしれない。
「奥様」のロココチックな寝室の壁紙、家具調度、それに額の絵にいたるまで、日本人には浮世離れにしかみえないけど、その天井の低さと狭さから、イプセンの『人形の家』を連想させるかもしれない。

話の展開は、大団円だ。
シェークスピアの『じゃじゃ馬ならし』にもみえるけど、欲求不満の心理ドラマとして観れば、佐分利信演じる「旦那様」も、家庭内マネジメントに失敗している。

すると、当時のエリート社員は、もしや職場のマネジメントにも失敗していたのでは?という疑問がわくのだ。
職場の彼の仕事ぶりが、個人的すぎてなんだかなぁ、にみえるのはそのためか?
机の下の彼の両足を、妙に「内また」にする演出がされている。

いまどきなら、さてはジェンダーか?

そんな「旦那様」は、流行りだしたパチンコを気に入ったらしい。
「こんなものが流行ってはいけない」と、笠智衆が演じるパチンコ屋の親父にいわしめたのは、逆説的な「正論」で、それで食うしかない悲哀があるけど、きっとこの親父さんは、パチンコ屋の経営者として一代で財をなしたにちがいない。

まさに、甘辛人生道場、をみせてくれた。

歴史的な就任直後の弾劾提起

「大統領弾劾」によって、過去弾劾(=解任)されたアメリカ合衆国大統領はいない。

「訴追」ということで、トランプ氏は史上3人目の大統領となり、「在任中2度」というのが史上初なのは確かである。
しかしながら、「訴追」は、ふつうの裁判でいう「起訴」であって、「解任判決」がでたわけではない。

判決を下す「裁判」自体は、連邦上院の仕事だ。

トランプ氏への「訴追」だけでも問題なのは、どちらも「冤罪=でっちあげ」が「確定」しているからである。
最初が、当選後で政権発足前の「ロシア疑惑」⇒「ウクライナ疑惑」。
二度目が、「連邦議事堂襲撃幇助」。

最初の疑惑は、特別検察官による調査を経て、「どこにも証拠がみつからない」という発表をもって終結した。
今年6日の議事堂事件は、選挙中、明らかに民主党という「党派より」を見せつけたFBIですら、すでに議会へ「関与はない」と報告書を提出している。

むしろこの報告書は、議事堂への乱入を計画し実行したのが、民主党系の過激派だったことを明記しているので、このまま弾劾を強弁すれば、ふたたびの「でっちあげ」となって、憲政史上の汚点となる。

それでも、「与党」が強行するのは、たちが悪い。
狙いは、弾劾された大統領は、ふたたび公職に就任できないルールの適用だといわれている。
しかして、もはや私人となった人物を弾劾する意味はあるのか?

ウォーターゲート事件で「辞任」したニクソン氏は、弾劾される前に辞任して、結局は「弾劾訴追」もされなかった「前例」となっている。
なぜなら、弾劾とはそもそも、「解任」のことだから、辞めたひとを訴追する意味がないからである。

そんなわけで、大統領弾劾が、なんだか「軽くなった」のである。

例によって、一方的報道(もはや「偏向」でもない)しかしなくなった、世界のメディアは、共和党で新人(今回のアメリカ大統領選挙と同時に実施された下院総選挙で初当選した)が、バイデン氏の弾劾を提案すると明言していることも報道しない。

もちろん、下院で過半数を上回る議席数にあるのは民主党だから、ふつうにかんがえれば、「通るはずのない」弾劾訴追なのである。
けれども、その「理由」が問題なのだ。
つまり、ぜんぜん「でっちあげ」ではなくて、むしろ、国民もしる「事実」だからである。

・第一に、ちょっと前までなら、トランプ氏に対する「ウクライナ疑惑」といっていたけれど、当事者のウクライナ政府が、バイデン親子をすでに刑事犯として「指名手配」しているのである。

アメリカ合衆国大統領に就任した(といわれている)ひとが、外国から刑事犯にされていて、しかも、その証拠がそろっているから、「でっちあげ」ではないどころか、「副大統領の職権濫用」について、なんと当時の本人がカメラの前で「認めている」のだ。正確には、自己の権力を自慢している。

ちなみに、就任したと「いわれている」のは、ライブの就任式のはずが6時間も前にスペインで放映され、その画像のなかの天気が「晴れ」で、しかも「影の方向と長さ」が非現実的だと指摘がある。
当日のワシントンD.C.は「濃い曇り」だったのだ。

なお、ホワイトハウスは、ネットでの「就任式ライブ動画」の配信を、「登録者限定」として、一般人への公開をしていない。
「登録者」とは、ホワイトハウスが認定した、民主党支持という身元がわかるひと、のことという「前代未聞」がある。

・第二は、上の「証拠」に関連する、子息の「犯罪」の詳細で、これには外国政府からの資金提供まであるし、証人もいるのある。
すなわち、バイデン氏に「大統領候補」としての「被選挙権」がない、という問題提起だ。

本来なら、政権が吹っ飛ぶはなしだ。

報道されないからといって、この提案が無視されるものではない。
トランプ氏に投じた、(おそらく)8000万以上ものアメリカ人有権者は、この展開を見つめていることが重要な事実なのである。

いかに民主党員の議員でも、2年後の選挙にどうやって当選するのか?は、重大な関心事である。
アメリカは、下院議員の任期は2年しかない。
くわえて、同数になった上院も、やっぱり2年で1/3が入れ替え選挙になるのである。

それで、バイデン氏の「被選挙権資格」を、ほんとうに強弁できるのか?

離任にあたってのトランプ氏の演説では、「何らかの形で、すぐにワシントンD.C. に帰ってくるよ」といっていた。
フロリダに「帰省した」トランプ氏は、さっそく自分が所有するゴルフ場でプレーを楽しんでいる。

一方で滑稽なのは、フロリダ州の住民たちが「お帰りなさい」とトランプ一家を沿道で出迎えたのを、「数十人」と報じたことである。
ネットでの投稿動画を観れば、だれにでも確認できる「群衆」に、感動すらおぼえるだろう。

沿道で車列を待っているひとが、いよいよの到着を前に、「Our President」と子どもに諭すような声でつぶやいたのが聞こえる動画もある。

「ほらごらん、わたしたちの大統領だよ」。

就任式前日の、バイデン氏壮行会に集まった「群衆」は、25人だった。
それでも「群衆」と報道するのを、呆れないものはいない。
数千人を数十人にしたって、その場にいた人々には、「事実とウソ」の区別ぐらいできる。

こうやって、誰も見向きもしないようにする報道の行為が、正義だと自己陶酔するなら、まもなくその「酔い」から醒めても、頭痛しかやってこないだろう。

報道されようがされまいが、「大統領弾劾」が、二人に同時におこなわれる時代がやってきた。

「危険」な戦争をしない大統領

戦争をするから危険なのではない。
戦争をしないから危険なのだ。

トランプ氏は、戦後の合衆国大統領として、任期中に戦争をしなかった「ただひとり」の大統領として歴史に名前を刻んだ。
戦争どころか、むしろ外国駐留アメリカ軍の、「撤退」と「縮小」を実施して、意図的なパワーバランスを変更することでの、不可能とされた「中東和平」を実現させた「快挙」がある。

ノーベル平和賞10個以上に相当するのは、当事国の数による。

これで、中東の地図が、「イスラエル・アラブ連合」対「イラン」となった。
イランの背後にはアジアの大国がいるので、「イラン・パキスタン・アジアの大国」が、イスラエル・アラブ連合に対峙している構図になったのだ。

まっ先にイスラエルと和平協定を結んだUAEが、原子力発電所の建設失敗の怨念もふくめ、韓国に石油を売らない、といったのは、韓国が相手側大国の子分だと認定したからでもあろう。

わが国に、中東の石油が今後も安定して供給されるのか?
あんがいと今後の早い時期にはっきりするかもしれない。
「あっち側に立つ」自民・公明連立政権の正念場だ。
経産省は伝統的に、イランの石油プラント推進が大好きなことを確認しよう。

バイデン氏は就任して早々に、トランプ政権が破棄した、「イラン核合意」の復活も意図しているから、中東和平を破壊したい、という意味の行動になることが予想される。
新国務長官候補は、オバマ時代に、ヒラリー氏の下でこの合意をまとめた人物である。

それに、さっそくバイデン氏は、テレビ討論会で公言した公約を破って、シェールオイルを得るための「フラッキング」を禁止するという。
これは、アメリカが純石油輸出国になったから中東への関与を弱めたことでの、和平の重要な基盤の破壊であるし、激戦州における雇用に深刻な影響をあたえる。

いつもの、「環境への取り組み」という詭弁が便利につかわれている。

前回書いた、「既得権保持」の優先順位は絶対だから、トランプ政権が差し止めた「既得権停止」を180度転換させることが、そもそもこの政権発足の至上命令である。
これが、就任初日の、数々の「大統領令」へのサインだ。

日本の新聞が、一面で大々的に書きたてる「快挙」扱いの記事は、まさに、既得権保持者への媚びへつらいにほかならない。
一般の日本国民として、こんな新聞におカネを出して購読する意味は、もはや1ミリも、1グラムもなくなった。

自称わが国を代表するクオリティー・ペーパーの、朝日新聞が赤字になったと報道され、こんどは、伝統ある毎日新聞が40億円以上ある資本金を「減資」して、3月には資本金1億円の会社になると発表された。
累積赤字の補填に、減資しか方法がなくなったのだろう。

一部に、資本金1億円の会社は税法上「中小企業」扱いとなるから、節税効果が期待できるという主張がある。
バカげた話なのは、払うべき儲けがあってのことを忘れているからである。
むしろ、主力銀行は、今後なにをもって追加融資をしてくれるのか?の不安しかない。

まさに、既得権保持者への媚びへつらい記事ではあるが、ここまでのことを理由にされたら、ドン引きするのがふつうの株主だろうから、いよいよわが国の大新聞社が倒産の危機を迎えている。

ほぼ時をおなじくして、電通が汐留の本社ビルを売却して、そのまま賃貸するのも、やっぱり赤字補填が理由である。
売れれば6000億円が入金するらしいけど、事業の立て直しができなければ、こちらも「時間の問題」となる。

リモート業務が8割になったから、いまの半分のフロアー数を借りることにするらしいとは、2割でない未練がある。
過労でなくなった若い社員からしたら、リモート勤務での残業をどうやって認定するのか?草葉の陰から心配しているだろう。

電通の凋落とは、テレビの凋落のことである。

新聞社は、テレビ局の親会社だから、テレビ局会社の経営だって火の車にちがいない。
いまになって、新聞とテレビを合体させた、田中角栄郵政大臣の亡霊が暴れだしている。

こうなったのは、ネットの台頭というよりも、自分たちの勝手な思想を読者や視聴者に押しつけたからである。
ちゃんと「公正」な報道をしていたら、玉石混交のネットよりもはるかに信頼性を維持できる人的資源があるはずなのに、これを使わなかった報いである。

いま、自由主義を標榜して、「公正」な記事を提供すれば、かならずや人々がこぞって購入するだろうにとおもうけど、確信犯にはこれができない。
よって、誰からも惜しまれずに市場から退場を余儀なくされるのは、「道理」というものである。

電通がGoogleに対抗できないのも、デジタル技術の問題ではなく、目的と手段をまちがえたからだろう。
そのGoogleが、SNS大手とともに、民主主義の破壊に手を染めた。
この千載一遇のチャンスを活かせない電通は、しょせん「満州ゴロ」の出自がそうさせるのだとしかおもえない。

経営には、倫理の前に道徳がひつようなのだ。

戦争をしなかった、唯ひとりの大統領を、危険人物とすることの人倫にもとる行為をしてはばからないばかりか、強弁を続けることは、巨大テック企業とおなじ土俵にあるから、けっして活路が見いだせない。

かれらが見下す一般人が、これら企業の困窮を「ざまぁ」とみているのは、因果応報というのである。

芸術化したダブル・スタンダード

「ダブル・スタンダード」とは、日本語で「二重規範」と直訳されている。
かんたんにいえば、「ご都合主義」という日本語の方がなじむ。
その時その時で、自分に都合のよい「論理」を押しつけることをいう。
だから、一貫性がないのは当然だ。

ふつうのひとがこれをやったら、たちまち仲間うちからの信用をなくすばかりか、嫌われ者になるだろう。
「なにいってんの?」と。

ところが古今東西、権力者はこれをやる、という習性がある。
なかでも、「絶対的」権力者がやるから、やられる側(被支配者)は、おそろしく理不尽で悲惨なめにあうこと必定となる。
国家レベルだけでなく、あらゆる組織レベルで発生する悪夢だ。

昨今の企業組織にみられる、「パワハラ」も、あんがいこれにあてはまる。
その前兆が、仲間うちでの「声の大きさ」だったり、「マウント行動」だったりする。
もちろん、マウント行動じたいが支配欲からなるものなのは、犬の習性をみればわかる。

つまり、「支配欲」という欲求が、人並み以上に強くて、一方で、周辺から「よい子」として育て上げられたうえでの、「自分かわいさ」という「幼児性」をあわせもった人物が、権力を手にすると、その支配下にあるものには、絶対的服従を求めるようになり、自分より上位のものには、自ら絶対的服従をするものなのだ。

すると、こうした人物は、自分が組織内で昇格する理由を、上位者への絶対的服従の結果だと思い込みながら、自らの「優秀性」に自己満足もするのである。
だから、組織のトップは、このような人物の危険性を察知しないといけないのだ。

ところが、上位者への絶対的服従を貫くから、上位者は視野を広げていないと、見抜くことはできない。
さらに、上位者が、部下の絶対的服従を喜ぶ傾向にあるなら、その危険性を察知するどころか、「かわいがる」という同類としての態度をとるのだ。

このようにして、組織は頭から腐るのである。
いやむしろ、そもそも頭が腐っていることが原因なのだ。
すると、いまの「頭」が選ばれた過程にもさかのぼれば、あんがいと「歴代」が腐っているものだ。

こうなると、その組織文化という深層までもが汚染されていることに等しいから、このような組織の「再生」には、たいへん苦労する。
「業績不振」になって、経営者の交代が実施される理由は、以上の意味での「経営責任」追求の結果なのである。

「数字の悪化」だけが理由なのではない。
その数字が悪化した根っこに、組織を腐敗させたトップの責任がある。
たいがいの「業界」で、同業で同時期なのに、業績優秀企業とそうでない企業とに分類できるほんとうの原因がこれなのである。

そこには、絶対的服従というダブル・スタンダードがあることに注目しよう。
上位と下位への、正反対な指示・命令があるのだ。
そして、歴代がこのような価値観なら、その組織には、かならず「既得権」がある。

すなわち、腐った頭が組織全体を腐らせるのは、組織全体に「既得権保持」という思想と行動が蔓延するからである。
くわえて、組織人がトップの意向を無視して、自分たちの「既得権保持」を優先させることもある。

これを国家レベルで解明・披露したのが、トランプ政権による「ディープ・ステート」との死闘であった。
「陰謀論」として、まともに論者に相手にされなかったものが、白日のもとにさらされた。

これこそが、公約をほとんど果たしたトランプ政権でも、「最大の成果」といえるのだ。
多くの国民が、そこにある「ディープ・ステート」を目撃したからである。

政権移行前に公表した、ラトクリフ国家情報長官の覚書は、2018年の「選挙に関する大統領令」で義務づけられ上院に提出した、「国家情報長官による報告書(これ自体機密)」の内容についてのコメントだった。
驚くべきは、「この報告書は採用されるべきではない」とある。

トップの意向にぜんぜん従わない、情報機関の官僚機構が、まさに「既得権保持」を優先させたと、長官本人が曝露したのだ。
これは、別に提出された、国家情報長官を監査する立場からの議会報告書もおなじく、「採用すべきでない」としたことが注目に値する。

つまり、行政官僚の組織が、行政府の長である、長官ばかりか大統領令までも、葬ったのである。

国民のための政府にする、というトランプ氏のいい分は、民主主義国家なら当然のことだからスルーされがちだけど、とっくに「既得権保持」という価値観が優先された官僚政府になってしまっていた。

これが、世界を震撼させたのだ。

「既得権保持」をしたい世界のひとびとが、一斉にトランプ政権を攻撃した理由が、国民のための政府になっては「こまる」からなのだ。
世界の政府役人と政治家ばかりか、マスコミも経済界もこれに乗った。
CNNがとくに批判されたけど、BBCだってロイターだっておなじだ。もちろん、NHKも。

ふだんから「民主主義がたりない」と政治家や政府を批判するひとたちが、トランプ政権潰しに全力投球したのは、世界が「ダブル・スタンダード」に満ちていた証拠となった。
そして、情弱なひとたちは、芸術的なダブル・スタンダードによって、みごとにコントロールされていることも判明した。

まさに、暗黒と光の闘いを目撃したのだ。

これは、人類最古の経典宗教、「ゾロアスター教」(紀元前1000年頃)の世界である。
しかして、「光=明」が最終勝利するのがゾロアスター(ザラスシュトラ=ザラストラ=ツァラトゥストラ)の結論である。

現代人類は、古代に回帰しているのである。

日米共通の「ポピュリズム」

「ポピュリズム」といえば、「大衆迎合主義」と訳して、批判の対象となる政治用語である。
たいがいの「用語」には、「対義語」があるのだけれど、こまったことにポピュリズムの対義語が確定していない。

あるひとは、大衆に対する「エリート主義」をあげるし、あるひとは、大衆の凡庸さに対する「知性主義」や「哲人政治」をあげる。また一方では、リバタリアニズム(自由至上主義)をあげるひともいる。
このように、「確定していない」のである。

対義語が確定していない、ということは、もとの用語の意味も確定していないことになって戻ってくる。
つまり、民主主義において、「ポピュリズム」とは、ほんとうに批判の対象となるものなのか?と。

これを逆転させると、ポピュリズムが民主主義を形成している、ということになる。
なぜなら、選挙において多数票を得ないと、政治家は政治家としての活動ができないし、この多数票を投じるのが「大衆」だからだ。

すると、「大衆とは何者か?」が問われる。

いまここで議論している「大衆」は、いまの世の中での人々を指す。
すると、その「起源」は、近代工業社会にあるのだ。
つまり、「都市労働者」がその中核をなす。
だから、近代の「大衆」とは、近代がつくった社会階層でもある。

この点は、「観光客の定義」と対応する。
近代になって、はじめて「観光客」がうまれたのは、やはり都市労働者の存在が欠かせないからだ。

都市労働者は、一定の賃金を得るので、安定した生活者となる。
「貧・富」、所得の「多・少」という意味ではない。
日給でも、週給でも、はたまた月給でも、あらかじめ提示された給金を提示されたままに受け取ることができるから、安定するのだ。

農業社会ではこうはいかない。

種まきから収穫までの時間と、収穫してから収入になるまでの時間を足しても、あらかじめ提示されるものは何もない。
これに、天候の偶然も加わるから、おもに太陽活動周期による影響で、豊かな時代とそうでない時代とになったのだ。

太陽活動周期の変化スピードに、人間の農業技術が追いつかない時代なら、おなじ農作業をしていても、収量は劇的に変化する。
しかし、都市労働者という層には、農産物物価というかたちで影響しても、収入の安定があるのは、賃金も上昇するからである。

日本の場合、支配層であった武士たちが困窮したのは、武士が実質都市労働者ではなくて、自分の「領地」や「知行地」における収量と現金化の相場に依存していたからである。
つまり、支配層の生活基盤が、もっとも脆弱なのであった。

ここに、ヨーロッパ貴族の精神基盤である、ノーブレス・オブリージュ「的」な、しかし似て非なる「武士道」が独自にうまれたのだ。
しかも、その根底に、外様の石数に比して貧弱な親藩を、幕府内で圧倒的権力を与えることでバランスさせた巧妙があった。

欧米の発想なら、あり得ない。
強いものが独り占めするのを当然としたからである。
強いはずのものが経済的に小さくて、そのかわり権力を与えるとは、権力があるものが強い、という発想の裏をかくから巧妙なのだ。

これを強制した、将軍・徳川家康の絶対的強さは、もっと強調されていい。
しかも、歴代将軍、270年間も、この強制が続いてだれも反抗しないのだ。
だから、江戸時代をポピュリズムとはふつうはかんがえない。

なのに、都市労働者という層ができあがっていて、はやくも元禄時代には、大衆文化が花開くのである。
そして、金銭を積み立てる「講」をつくって、この階層がこぞって、富士や伊勢などに観光旅行をしていた。

この「素地」が、わが国で近代工業社会を成功させたことは、間違いない。

そんなわけで、明治になってすぐに、「自由民権運動」が起き、大正期には大衆に広がるのである。
すると、なんだかいまよりずっと、大衆がダイナミックなのである。
この活動の精神基盤が、「日本教」であったと何度も書いた。

人智を超えた絶対の存在=Godが、支配下にあるすべての人間を「平等」にする。「神の前の平等」である。
これには、「Godは実在する」という、「信仰」が社会の構成員全員の常識としていないと成立しないから、「平等」の前提に「信仰」がある。

トランプ氏の「お別れ演説」でも、このことが強調されたのには、伝統的価値観を基盤にする彼と、彼に投票したひとたちの共通概念としての意味があるから「重い」のだ。

だから、自由の概念の最優先に、「信教の自由」があるのだけれど、日本人の宗教に、Godがないから明治のひとが困ったのである。
江戸期には、「東照神君・家康」がちゃんと設定されていた。

そこで、天皇をGodに差し替えてすえる、「日本教」を発明した。
しかし、天皇は生身の人間だから、「現人神(あらひとがみ)」としたのであった。

この、近代日本人の概念機構を、根底から破壊したのがアメリカ民主党政権だった。
明治教育制度の最後、昭和一ケタ世代までが日本教徒だから、この世代の死滅で、いよいよ薄っぺらな「ポピュリズム」だけが、蒸発した皿に残ったカスのようにみえてきた。

では、ポピュリズムのマーケットとしてみるべきところはなにか?といえば、いまさらながら圧倒的多数の「無党派層」なのである。
この層が、日本教徒の遺伝子をもっているのだ。
にもかかわらず、「カス」が跋扈している。

まるでなかったことにされた、トランプ氏へ投票した8000万票のようだけど、日米の共通点がここにある。