オーストラリア国防相の警告

国民にとっての「国家の役割」を単純化したら、最大の「業務(役所用語では「事業」という)」は、「国家安全保障」である。

それは、「国家の3要素=領土・人民・主権(統治権)」の筆頭にあるのが、「領土」であることでも明らかだ。
もっとも、「領土なき国家」という考えもあるけれど、「陰謀論的薫り」を醸し出すので、ここでは議論しない。

ただし、「領土を超越した国家」という話になると、グローバリストが「夢見る」、世界政府、という発想がある。
興味深いことに、世界政府を実現したいと考えるひとたちほど、「個人」を大切にする、という思想に厳密で、SDGsとか、LGBTとかに熱心なのである。

実は、世界政府とは「均一化」のことだから、「個人の均一化」こそが、実現の「近道」だと考えているのである。

すなわち、共産主義なのである。

このことの「欺瞞」と「恐怖」を、『スターウォーズ』が表現していた。
エピソード3、『シスの復讐』における、パルパティーン最高議長こそが悪の権化ダース・シディアスであった。
そして、この作品の重要性は、シリーズの中の位置づけだけではなくて、「善悪の境界線」がテーマになっていることである。

実際に、「EU」が目指したのも、「ヨーロッパの均一化」だったし、いまでもそうだ。
あらゆる意味で自国の「独立」にこだわった英国が離脱した意味も、「均一化への反発」であって、英国民は、EUに残存して得る「経済価値」はこれよりはるかに低い価値だと判断したのである。

この「判断」を、現代日本人はできるのか?

できないからこそ、「親中政権」が継続しているのである。
岸田政権が特段の親中なのではなく、田中角栄政権以来、我が国は「一貫して」いることを忘れてはならない。
つまり、半世紀に及ぶ「国是」が、親中(共)なのだ。

それに、ヨーロッパは、キリスト教で「均一化」されていた経験がある。

『スターウォーズ』の背景には、「教会」の横暴の歴史と倫理観がある。
制作者たちは誰か?を考えるまでもない。
だから、「教会抜き」と、「日本的倫理観」で楽しむ日本人は、世界的小数派だし、本来の作品製作意図が理解できていない可能性の方が高い。

この作品群を単なる「エンタメ」として観てはいけないし、背景に隠された哲学的意図があるから、世界的ヒットもし、「普遍的価値」を提供していることを、多くの外国人は知っている。

いまのドイツが、プロテスタントという原理主義に熱中したのが、持続可能エネルギーへの「病的移行」になっているし、ローマ教皇から「破門」されそうになって「分離」した英国国教会のように、EUから離脱したのだ、と見ればなんていうこともない。

さて、オーストラリア国防相の26日の演説が話題になっている。
この前提には、EUから「独立」した英国の動きと関連付けることができる。
「死に体」となっていた、「英連邦の復活」がその背景にあるからだ。

最新鋭空母が我が国に「寄港」したのも、その一環である。
わざわざ「極東」の我が国にまでやってきたのは、世界一周のクルーズをしたいからではない。

七つの海を支配した、かつての大英帝国は、オーストラリアを「囚人」の地と位置づけて、正規移民の「ニュージーランド」と区別した。
巨大な「島流し先」だったのである。
だから、オーストラリア人とニュージーランド人は、我が国と「半島」同等かそれ以上に「仲が悪い」のである。

そんなわけで、オーストラリアは右派が政権を担っていて、ニュージーランドは極左が政権を担っている。
ニュージーランドの現女性首相は、「活動家」からの出世である。
ただし、コロナ対策での国民権利の剥奪は、ナチスや中共のように暴力的だから、「右派」も「左派」もない。

「アジア・オセアニア」という地図で見れば、オーストラリアは東南アジアの東南に位置するので、ASEAN諸国との関係は深い。
それに、我が国の真南側になるから、日本との時差は1時間、ないし、2時間(先)しかない。

彼らは、国家の役割の第一に安全保障をおくので、南シナ海やらの「シーレーン」における「自由航行」について、敏感であるのは言うまでもない。
この点、我が国の「脳天気」とは違う。
それで、「台湾の次は尖閣」だと、明言したのである。

しかし、政治家の言葉を言葉どおりに受けとめてはならない。
「尖閣」が、日本領であることは「国際認知」されている。
したがって、日本政府が言う「領土問題はない」は正しい。
すなわち、外国人が「尖閣の危機」というのは、「日本の危機」を暗に語っているに過ぎないのだ。

さてそれで、中国は「核による先制攻撃はしない」と国際約束をしていたが、7月11日に、「日本だけは例外」として、台湾侵攻を日本が邪魔するならば「日本を核攻撃する」というメッセージをネットで拡散させた。

あちらの情報系は、ネットでも国家管理がしっかりしているから、民間人の勝手な投稿はすぐさま削除されるばかりか、投稿者が追跡特定されて逮捕されたら、そのまま「行方不明」になってしまうのだ。
つまり、「拡散した」という事実は、国家が認めた、という意味である。

オーストラリアにとっても、その他の国にとっても、日本は重要な国なのは世界第三位の経済大国だからだけれど、核攻撃をもって脅迫している国がある、という現実を日本人は知らなかったことにして、幸せに暮らしている。

なお、「中国 核ミサイル 日本 地図」で検索すれば、どこからどういうふうに飛んできて、「飽和攻撃」状態になるかを示した地図が多数出てくる。
この地図に、彼の国はコメントしない、ということも、知っていていい。

距離から推測すれば、発射後数分で着弾する。
ご丁寧に、「被害想定」もあって、その数は1800万人だ。
その後、放射能によって人間が居住できるのかどうかの記載はないけど、屈服した日本政府は「直ちに健康への影響はない」とするのだろう。

国防相の発言は、日本を守りたい、ということではなくて、日本のようになってはならない、ということなのだ。

1ページ10円の本

グーテンベルク以来、印刷された「本」が登場していかほどの知的貢献をしてきたものか計り知れない。

およそ印刷物とは、物理的には「紙」と「インク」に過ぎないので、「古新聞」には「古紙」としての価値しかない。
そこにある、古くなった「文字情報」の価値を認めないからである。
つまりは、「物故」しているのだ。

人間も息を引き取れば「物故」する。

その人の持つ、「情報」や「精神」が失われてしまうからである。
さらに、放置すればいきなり腐敗がはじまるのも、物質的な人間の半分は人間以外の生物が体内で棲息してバランスをとっていたものが、片一方の崩壊で全身が人間以外の生物に取って代わられるからである。

コロナは嘘としても、ときたままともな説明があって、「共存」という話が出てくる。
けれども、大元を理解できないひとがたくさんいて、「コロナとの共存」とわざわざ言って、自分は「無菌」だと思いこんでいるのである。

そもそも、細胞1個1個にあって、細胞にエネルギーを供給する最重要な役割を担っている「ミトコンドリア」だって、「赤の他人様」であった。
別の生命体を、我々の細胞が生きるために取り込んだのだ。
それで、ミトコンドリアがエネルギー供給をやめたとき、ひとも最期を迎えるのである。

以上のようなことがわかったのは、「科学」とそれに関わった「科学者」のおかげである。
それゆえに、多くの人類は、「科学信仰」という、「神」を仰ぐ古来の信仰を捨てて出てきた「新しい信仰」に宗旨変えしたのである。

それが行きすぎた先は、「科学万能」という絶対神化であった。

残念ながら、人類は「そこまで」の科学知識を究めてはいない。
「わかったこと」と「わからないこと」を整理すれば、ほとんどがわからないままなのである。

「わかったつもり」になって、現代生活をしている「だけ」なのだ。

宇宙のなり立ちも、地球の内部も、はたまた人体だって、「わかったこと」と「わからないこと」に分けたら、「どこまでわかった」のかすら「わからない」のが現実なのである。
つまり、分母となる「知の全体」の範囲がわからないのだ。

むかしの科学者、といってもついこの間までは、「科学的興味」とか、「知への好奇心」が、衝動ともなって科学者の研究行動を決めていた。
しかし、紙と鉛筆、それにビーカーやフラスコを用いればなんとかなった時代から、とっくにそうはいかないことになったので、「研究予算の獲得」が科学者の行動を決めることになったのである。

これが、「倫理」の問題になった。

そこで、アメリカ科学アカデミーは、1989年に『科学者の責任ある行動とは』というパンフレットを作成し、版を重ねてきている。
日本語になったのは1996年で、化学同人より『科学者をめざす君たちへ』と題して出版されている。

それが、90ページにして900円の本なのである。
10回読めば1円/ページだ。
なお、オリジナルは、$5、で10冊以上を注文すれば$2.5/冊になる。

こうした内容の書物が出版されるに至った経緯で、そもそもの「問題」だというのが、過去には研究活動を通じて自然と習得してきた、数々のルール(もちろん、「倫理」も含む)が、科学者の「大量生産」によって、学部はもとより大学院においてすらも「困難」になってきたという危機感があったのでる。

いまや「卵と鶏」のループになるような議論になったのは、上述のように単に「研究活動」だけの問題ではなくて、資金を要するようになったことでの、「資金調達計画」が科学者の最大の関心事になったことが大きい。
そして、自己満足的好奇心の追求時代にはなかった、「クライアント」が科学分野に発生したのであった。

クライアント(発注者)の要望に応えるための活動。

それが、研究資金提供を得る「手段」となって、とうとう「目的」にもなってしまった。
たとえば、ノーベル賞を「受賞することが目的の研究」が公然と行われているのも、最終的には「おカネ」が欲しいからなのである。

ただし、アメリカの「寄付文化」はいまだ健在なので、様々な「財団」が直接的「成果を要求しない」で資金提供をしていることもある。
これが、「基礎研究」を支えていて、「失敗を許す」からできるのだ。

すると、このような文化がないわが国(寄付の習慣がなく、失敗を許さない)では、より深刻な「不倫」状況になるのは当然だ。
本書の訳者が、若者に問いかけるような「題」にした意図も、ここにあると見るべきだ。

残念ながら、日本において本書をまっ先に読むべき「若者」とは、「文系」の学生なのである。
同学年の「理系」人が常識とすべき「倫理」を、文系でも知らないでは済まされないのは、科学の恩恵を受けた文明生活を一生するからでもあるし、現場の科学者に「予算配分」する立場になるかもしれないからである。

実際に、わが国は、すぐさま役に立つ、という意味で、近代科学技術の導入を急いだ、という「初体験」から近代化に「成功」してしまった。
これがトラウマとなって、いまだに「役に立つ」という予測ができる研究に予算を重点配分して、その他を切り捨てている。

その「役に立つ」か「立たない」か、という判断を、文系の事務官がやっているのだ。
国家予算が、「儲かる研究」とおぼしきもの「だけ」に使われるのは、国家の役割としていかがなのか?という議論すらない。

そもそも、文系に進学すれば、「科学」と「技術」は違うものだという、基本的認識も教育されない。
それで、「科学技術立国」を標榜し、陰りがみえたら「観光立国」という欺瞞で誤魔化そうとする。

よろこんで誤魔化されるのは、いつだって「業界人」なのは、研究予算が欲しい科学者と同じなのだ。
平和賞と経済学賞ではない、ノーベル賞に騒ぐなら、日本国民だって必読の一冊なのである。

なお、同じ年に出た、『SCIENCE FOR ALL AMERICANS(すべてのアメリカ人のための科学)』(AMERICAN ASSOCIATION FOR THE ADVANCEMENT OF SCIENCE(米国科学振興協会)』(1989)の「日本語版」は、220ページでも「無料」でダウンロードができるから、こちらも読むに値する。

クリックしてSFAA_Japanese.pdfにアクセス

会社は学校なんだよ

『会社は学校じゃねぇんだよ』という、ネット配信のドラマが人気だという。

残念ながら観ていないので、ストーリーも知らない。
だから、本作ドラマ自体の感想もなにもない。
作品を離れて、「タイトル」にある言葉をそのまま考えてみたいのである。

ある意味正しく、ある意味間違っている。

以前、とあるベンチャー企業の顧問をやっていたことがある。
このことは、本作ドラマの設定と似ているかもしれないけど、これから以下の内容とは関係はない。
ただ、現実の企業には、出資者たるオーナーがいた。

なので、社長以下の経営陣は全部「お雇い」である。
その「お雇い」の社長から雇われて顧問になった。
幸か不幸か、そのオーナーにお目にかかったことはない。

この会社の社長は、若いけど実力があるビジネスマンで、起業から数年で社業を「倍数的拡大」させて成功していた。
それも、「同業他社を買収」するという方法によってであった。

しかしながら、内部的な「行き詰まり感」が発生していたのである。
それが、「マネジメントの不足」であった。
この改善のために、顧問になったのである。

「マネジャーの不足」ともいえるけど、「マネジメントができるマネジャーの不足」といえば分かりやすいだろう。
つまり、買収した相手企業にマネジメントができる人材がいないために、企業組織の運営上で、「停滞」という現象が発生していたのである。

さらに、買収された相手企業の「管理職」は、その役職を保障されて新会社に移行したので、会社が変わっても業務が変わった、という認識すら欠如していた。
つまり、これまで通りの日常業務が、マネジャーの仕事だと思いこんでいた。

このことを「問題」として直接本人に伝えても、何のことだかわからない、という「おまけ」もついてくる。
入社以来、何十年も先輩の仕事を見て覚えさせられたひとに、いきなり「違うだろ」と言っても通じないし、場合によっては「反発」までするのである。

その「反発」は、管理職一人ひとりによるならまだしも、買収されたという「思い」が、一般職の従業員にもあるから、「妙な被害意識」が醸成されて、職場全体の不満となって、ときにそれが「爆発」するのである。

つまり、かなり厄介な問題になっていたのは、買収した相手が単数ではないからである。
一種の「モグラたたきゲーム状態」になっていた。
しかも、そのモグラが20以上もあったのである。

そこで、社長は、幹部社員の不足を他業界にも門戸を開いて、大々的に募集していた。
「血を入れ替える」という作戦である。
しかし、どういうわけか、応募者の年齢が20代後半から30そこそこという、若いひとばかりで、しかも「業界未経験」という特徴付きだったのである。

「どうしましょう?」
これが、最初の相談だった。

とにかく、社内での幹部会議に同席して、先ずは状況の確認をした。
よくこれで会社としてのまとまりがとれるものだ、というのが第一印象だった。
いまなら、完全パワハラ会議である。

経営陣から罵詈雑言が飛んで、たまにはお茶のペットボトルも飛んだ。

「なんとか使えるように教育してもらえませんか?」
「完璧、は勘弁してください」
「とにかく速く、使える幹部社員に仕立てて欲しい、それから先はなんとかなるでしょうが、いまのままでは何ともなりません」

結局、社内的に「幹部学校」を急いで立ち上げることになった。

もちろん、「学校」といっても、校舎があるわけではない。
むしろ、教育プログラムをどうするか?ということもあるけれど、会社としてどんな幹部にしたいのか?という問題が、顕在化したのだった。
経営陣の中で、「幹部像が違う」ことがわかったからである。

こうなると、プログラムをどうするか?どころではなくなる。
もっというと、事業の拡大を通り越して「膨張する会社」をどうするか?という問題が、オーナーの意向の確認を要することになったのである。

どこまで拡大するのか?

オーナーの答は、オーナーらしいもので、「最大化」であった。
しかも、いまよりも、これまでよりもスピードアップして、さらに買収を加速して拡大せよ、という。

それで、「会社としての統制がとれなくなる」という社長の指摘に、オーナーはもっと単純に答えたという。
「そんなことは、社長であるお前の仕事で、自分には関係ない」と。

まさに、「ごもっとも」。
しかも、「会社は学校じゃねぇんだよ、何をもたもたしているのか?」。
「使えないならクビにして、使えるやつを雇えばいい」。
「会社(自分)のカネで、余計なことはするな」。

さてはオーナー、日本では社員を解雇できない、と言ったところではじまらない。

そこで社長はどうしたのか?
「無視しましょう」だった。

会社を崩壊させることはできない。
社長の自分が使えない、というなら、自分をクビにすればいい。
それで一番損をするのは、オーナーだ。
といい切ったのであった。

そんなわけで、従来からの管理職と、若い未経験者をそれぞれに育成するプログラムは、自然と「腹を据えた内容」になったから、受講する側の腹も据わって、効果は期待以上であった。
加えて、社内報酬の諸制度も変更したこともその気にさせたはずである。

この効果に、高笑いしたのはオーナーなのであった。

米・左翼メディアに異変

北京オリンピックの「中止キャンペーン」がはじまっている。

こないだの東京オリンピックの「中止キャンペーン」も、国内左翼メディアが「閉会式の日」までやっていた。
なんだか、左巻きのひとたちは、オリンピックがお嫌いのようである。

個人的にわたしは、嫌いも何もなく、単に興味がないので、たぶん今回の東京オリンピックの「放送」は、延べで「1分」ぐらいしか観ていない。
活字などの印刷物は、一切観ていないので、この「1分」がすべてではある。

前回の東京オリンピックは、生まれてはいたけれどぜんぜん記憶がないのは、3才だったからであろう。
記憶にあるのは札幌の「日の丸飛行隊」と、赤い衣装が印象的だったジャネット・リンの「世紀の尻もち」で、あとはモントリオール大会でのコマネチの連続「10点」だった。

同い年の「妖精」は、国が遠すぎて「憧れ」にもならなかった。

その後、まさかのチャウシェスク夫妻処刑という大事件があって、それから観光旅行で行くことになるとは、当時はまったく想像もできなかった。
彼が最後の演説をした、旧共産党ビルのバルコニーに立つことが、いまではルーマニア「観光の目玉」になっている。

さて、どういう風の吹き回しか?アメリカの左翼メディアが、このところ「北京オリンピック・ボイコット」について、熱心になっている。

先週のウオールストリートジャーナル紙の「オピニオン」に、NBAのスター選手が投稿して、「中止」を明言したし、ニューヨークタイムズ紙や、CNNでも、やっぱり「中止」を要求している。

こうした、「横並び」が起きるのは、たいがい「黒幕」が存在しているからだと予想できるのだけれども、これらバックの「常連」には、国際金融資本がいるのが「常識」なのだ。

すると、国際金融資本が、ボイコットを「先導」して、どんどん「扇動」しているのか?
それともなんなのか?

以下は、例によって妄想である。

こないだ、「歴史的決議」という重要な決議があったと報道された。
毛沢東、鄧小平につぐ「史上3人目」を指名する「決議」のことである。
これで、来年の党大会において、「無期限」の任期が与えられることの「下地」ができたことになったのである。

その習近平氏は、毛沢東主義のナショナリストである。
およそ共産主義は、グローバリズムの究極だから、ナショナリストというのは「変異種」を意味する。

反毛沢東主義で、改革・開放政策を押し進め、中国を世界帝国に復活させた鄧小平氏が、あたかも社会主義・共産主義国家体制において、あろうことか資本主義を導入した一派の領袖として「変異株」の最たるものと思われているけれど、「順手」の技を二段で繰り広げたのだから、ほんとうは「正統派」なのだ。

鄧小平路線を忠実に引き継いだのが、江沢民・胡錦濤の流れである。
おそらく、党人としての「血筋」はいいけど、ぜんぜん頭脳明晰とは思われなかった、ローマでいえば第三代皇帝のクラウディウスのような気がしてならないのが習氏なのである。

皇帝独裁の恐怖政治が、二代ティベリウスの真骨頂だから、身の危険を察知したクラウディウスは、「脳性麻痺」とはいわれるけれど、「偽装」の疑いがあるのだ。

彼の皇帝就任後の「まとも」さは、まともでなかった「二代・三代」の後継だからともいえなくはない。
けれども、「脳性麻痺」での業績とは考えにくいことがあるのだ。

習氏がクラウディウスに学んだのかどうかは知らないけれど、「後継者」として「ノーマーク」だったきらいがある。
それで、トップに就任するやいなや、「汚職追放」という名の江沢民派「狩り」を開始して、数々の幹部を拘束した。

アメリカの富豪にして左翼活動家の、ジョージ・ソロスは、この江沢民派と握っていた。
それで、習近平氏批判の急先鋒になったのは、彼の言動の示すところである。

「歴史的決議」をクリアしたひとにとって、オリンピックの成功は、「ゴール」を目前にした乗り越えるべき「壁」である。
すると、逆に、なんとか阻止したいひとたちにとっては、みすみす成功させてはならない、ということになる。

そんなタイミングで、女子テニスのトップ・プレイヤーが失踪した。
これによって、寝かしつけた「人権」が、また飛び出したのである。

巷間には、オリンピック後と習氏の終身身分確定決定会議の間に、台湾有事があるのでは?と噂されている。
世界のひとは、台湾有事を台湾有事とみてはいない。
日本の有事なのである。

わが国のマスコミが、「台湾有事」というのは、「他人事」のように勘違いさせるためのプロパガンダである。
台湾を失えば、わが国は(海上)貿易ルートを自動的に失って、1億国民が餓死するほどに追いつめられる。

これが分かっているから、岸田文雄政権は、親中になって「媚びる」という策を「上策」して採用しているのである。
相手側からしたら、「墜ちたも同然」の、売国政権である。
これを、「企画」する外務省は、廃止した方がいい。

しかも、頼りのはずのアメリカが民主党バイデン政権なのだから、実はわが国には「建国以来の危機」がやってきているのである。
すると、アメリカの左翼というより、江沢民派応援団の動向は、わが国の安全保障に直接影響しているのだといえる。

「スポーツの祭典」なんてのんきなことを、言っていられないのだ。

沼津のカレー・ボール

わたしが住んでいる横浜からだと、国道1号線をひたすら行って箱根越えをすれば、三島をとおって沼津に着く。
高速道路を利用しない、この他のルートでは、保土ヶ谷バイパスと交差する国道246号線の「終点」が沼津になる。

誰でもが、沼津といえば「漁港」を連想するのだろうけど、行ったことがない。
魚に興味が薄い、のである。
「ない」わけではない。

神奈川県は海に面しているから、さぞや魚介が豊富かと思いきや、そんな話題はあんまりない。
面しているのは、相模湾だと思いがちだけど、しっかり東京湾だってある。
いまや、相模湾よりも東京湾の方がよほど魚が獲れるのではないか。

人間が考える「きれいな海」と、魚たちが感じる「きれいな海」の定義が違っていて、あわてて「汚す」ことを決めたのは、瀬戸内海のことである。
きれいにしすぎたら、「栄養素が不足」して、魚が住めない海にしたのが人間だった。

日本版の「死海」ができた。

相模湾の汚染は、この逆で、相模ダムと城山ダムが、腐った水を相模川に供給するので、東岸の茅ヶ崎と西岸の平塚では、絶望的な漁獲量になっている。
もちろん、小田原に流れつく、かつての暴れ川、酒匂川にも三保ダムによる丹沢湖ができて、同様に腐った水が供給されている。

それで、小田原も絶望的な漁獲量になったから、「小田原名物 干物」のほとんどが、外国産の魚を加工した商品になっている。
これが、「かまぼこ」にも影響しないはずがない。

伊豆半島の東岸の漁業は、もう伊東しかないのは、人工魚礁をいちはやく導入したことによる。
その反対側は、富士山がそびえる駿河湾で、すそ野が海面下で「深海」にまで達している。

琵琶湖に匹敵する水量をかかえる富士山は、湧水で有名だけど、おそらく海中にも湧水があるにちがいない。
それが、「汽水」となって、魚の好みに合致していた。
沼津や清水、それに焼津が巨大な漁港になった大元に、こうした自然条件があったのだ。

『これから食えなくなる魚』が出版されたのが2013年だった。
「へぇー、まさか?」と思って読んだけど、ずっと速く「現実」になった。

そんなわけで、沼津にわざわざ出かけて、「マグロ」を食べたいとも思わない。
アジとシラスがいいとこで、金目は高価で手がでない。
シラスなら、なんとか江ノ島でも獲れるから、わざわざ感がないのである。

それでも近海物のアジはやっぱり「味」があって美味い。
名前の由来がそのままだけど、これは地元のスーパーで買うのが一番だ。
醤油は御殿場の「二段仕込み」が最適だ。
100均の携帯用醤油を抜いて、旅には入れ替えて持ち歩いている。

ワサビは天城産の入手が簡単だ。
生姜をたっぷりつけてくれるのがうれしい。

今さらだけど、街を分断しているJR在来線の沼津駅を高架橋にするプロジェクトが進んでいる。
新幹線駅を排除して、三島に追いやって以来の産業衰退で、「行政代執行」をやるほどになっている。

沼津駅は、海側の南口と山側の北口の連絡通路が「ない」のである。
なんだか、かつての新潟駅と似ているのである。
だから、急ぎの場合は「入場券」を購入しないといけない。
いかにもJRは、地元に貢献しないばかりか不便を強いるのである。

そのJR沼津駅南口には、改札横にこぢんまりとしたショッピングセンターがあって、肉屋も魚屋も八百屋も入店している。
そして、入口付近に「地元名産」を扱う、沼津港の魚介類専門商社が店を構えている。

ここに、「カレー・ボール」があるのだ。

魚のすり身を加工した逸品で、意外なうまさがある。
他に、つみれ風なのに食感がソフトなものなど、全部で4種類のボールがあって、ぜんぶうまい。
1個90円。

漁港に向かう駅前通り商店街には、「日本一」を標榜する「鶏の唐揚げ」もあるし、この店の「釜飯」は、テイクアウトにして冷めてもうまい。
その先には、クオリティと値段が不一致の天ぷら屋がある。
店の上部がマンションだからできるのか?としか思いつかない。

面白いことに、このカレー・ボールが、地元でどんな評価なのかがわからないのだ。
ネット記事にも、ましてや動画サイトにも「ない」のである。
肝心の販売元のHPにすら、非掲載なのはどういうことなのか?

「謎」なのである。

でも、店先の一番目立つ配置でガラス冷蔵庫のなかにたっぷりあるから、「知る人ぞ知る」であることは確実である。
この地域なら、「黒はんぺん」が有名だけど、ぜんぜん食感がちがう。

カレー・ボールを食べたくて沼津に行く。

魚には違いないけど、こうしたものに価値がある。
美食の国、ベルギーには、「ブイヨン」という街があって、ベルギー人が認めるグルメの中心地となっている。
それで、ヨーロッパ中から食べるためだけにやってくるのだ。

沼津が大都市近郊の、「ブイヨン」になって欲しいのだけど、県庁や市役所、それに商工会が関与したら、台無しになる。

各店が、各店の味を追求すればいいだけなのだ。
知る人ぞ知るをやっていれば、勝手に客が宣伝してくれる。

統計データと現場主義

むかし、ファミリー・レストランが活況を呈していたころ、日本人の「外食に革命」が起きた、といわれたものだ。
それにまだこのころは、ファミリー・レストランのことを「ファミレス」とは呼んでいなかった。

セントラルキッチンで「半製品」を大量生産して、これを店舗に配送する。
いわば、コンビニエンス・ストアのやり方で、レストランを運営するという「応用」であった。
そして、店舗では簡単な調理手順で提供できるようにした。

これには、人間の調理技術よりも、機械の調理技術の進歩が支えていた。
すなわち、製造業でいう、「生産技術」のことである。
セントラルキッチンにいる「シェフ」たちが開発した、「料理」を、どうやって店舗で「再現」して客に提供するのか?

なので、人間のシェフの必要人数は、極端に少なくてよかった。
ところが、人間は「歳をとる」という問題がある。
それで、気がつけば「シェフがいない」という大問題になるのであった。
AIができるなら、大問題にはならないけれど。

シェフはメニューを開発するにあたって、機械性能の見きわめだけでなく、「売れ筋」と「売れなかった」とを見比べる。
ために、店舗での「残飯報告」が重要になった。
それで、「新興」のファミレス・チェーンでは、店長に「バスボーイ」の仕事を命じたことがあった。

バスボーイとは、下げもの専門の「下働き」とみられていた業務である。
退店した客のテーブルの食器類を、すぐさま片付けることしかしない。
それで、「その上」のボーイ見習が、テーブルセッティングをするのである。

入店した客から注文を取るのは、さらに「上」のボーイで、演出を要するテーブルサービスともなれば二番・三番のボーイ長の仕事となる。
いわば、「カースト制」が給仕の世界にはあった。
そうやって、晴れて「支配人」ともなれば、ようやく調理場のシェフにメニューについての口がきけるようになる。

この「伝統」を、足元から崩壊させたのが「ファミレス」だったのである。
だから、「革命的」というのは、現場の方からの言い分なのである。

メニューが多くあるように見える店は、食材の「共通」がある。
食材の共通が少ない店は、メニューが絞られる。
「営業目的」ならば、食材のムダが大敵だから、必然的にこうなる。
ムダを気にしない、かつての「王侯貴族」の政治的食卓なら、メニューが豊富で食材も限定しない豪華さを競わないといけない。

これが、「世界三大料理」を発展させた。
皇帝のための、中華料理とトルコ料理。
王のためのフランス料理である。

通常ならば、レストランという分野の商売をしていれば、「ABC分析」は常識である。
「売れ筋」の商品を、統計的なデータにして「読み込む」のである。
それで作図をすれば、「パレート最適図」ができる。

売れていれば「A商品群」、売れないものは「C商品群」として、まあまあの「B商品群」を挟んで対峙する。
経営判断として、ここからどうするかが問題解決のスタートなのだ。

もちろん、「C商品群」にあるものは「問題」だ。
しかし、「B商品群」に問題はないとはいえないし、「C商品群」のなかに「犠牲商品」という「囮」があるのに、これを排除すると「A商品群」の花形が売れなくなることもある。

そこで、商品を構成する「材料」が何かを知るために、店長に命じたのが「下げものの観察報告」だったのである。
残飯にある食材の特徴は何か?である。

こうして、統計データ「だけ」に依存しない、社内情報システムとしての分析報告をするのが「店長の最重要業務」だとしたから、従来の「最下位の業務」が、とたんに「最重要情報」を含有する、見方によっては「トップ・シークレット」にあたるものとなる。

実は、気の利くパートさんやアルバイトには、下げものを見ながら「この店」とか、「このチェーン」の弱点を見抜いていることがある。
もちろん、そんな重要情報を「報奨金」をもって報告させる企業は少数派ではある。

なぜなら、全国チェーンの大企業ほど、「統計データ」に依存するからだ。

こないだ書いた、静岡県内限定を「社是」として対外公表までしている、炭火焼きハンバーグで有名な「さわやか」がある。
県内で圧倒的な人気店だが、他県の人がこの店を知らない、で済むのか?

そこで、静岡県の販売データを、全国チェーンの他社はどうやって分析しているのだろうか?と思った。

以下は、勝手な妄想である。

時間的推移を見るための「折れ線グラフ」だけに注視していれば、「さわやか」を無視した経営をしている、という意味になる。
来店客数や回転数が、他県の実績に比してどうなのか?

静岡県を「エリア担当」して地獄を経験し、その後異動し他県での業績を伸ばしたひとが、偉くなっていたら、「静岡県はしょうがない」になって、部下への叱咤激励もトーンダウンする可能性だってある。
もちろん、「さわやか」がやっているビジネス・モデルを一朝一夕で真似ることも困難なのは熟知しているから「こそ」である。

全国平均で、静岡県での営業業績が低くても、「さわやか」が他県にいかないのだから「騒ぐにあたらない」という見方もあるだろう。
それで、「確信的」にデータ解析をさせないで、「さわやか」がない全国統一基準とすれば、考えることを「しないで済む」のである。

データから安心感を得る、心理は、わざとともなれば、それはそれで経営方針の実現ではある。

そんなわけで、県内で「さわやか」の一人勝ちが確保されている、ともいえるのだった。

共存共栄。

けれども、ハンバーグが食べたくなったら、静岡県のどこかに行けば「さわやか」があることを知ったから、余程のことがなければ全国チェーン店では注文しない「身体」になってしまったのである。

ただし、首都圏客で超混雑の御殿場店だけは「勘弁」ではある。

パンドラとイブという「女性」

パンドラは、パンドゥーラ、イブはエバともいう。
ギリシャ神話で、全能神ゼウスが造った人間の最初がパンドラだ。
イブは、ご存じ『聖書』の中の「旧約聖書」の冒頭、「創世記」で神が土から造った最初の人間アダムが、ひとりでは寂しかろうと、寝ている彼の肋骨から造ったのがイブだった。

ギリシャ神話では、地上に降りる前にゼウスが「箱:壺という説もある」を彼女に渡して、「絶対に開けてはならない」と命じる。
同様に、聖書では、エデンに暮らすアダムとイブに、この地の中心にある「知恵の樹」にある実を決して食べてはいけないと、神が命じる。

つまり、「禁断」の「箱」なのか「実」なのかはおいて、どちらも「禁止」の命令が出ていた。
そしてこの命令をしたのが、どちらも「全知全能の神」なのである。
さらに、この二つの物語において、命令を破るのも女性なのであった。

こうして、地上に降りたパンドラが開けた箱からは、ありとあらゆる「不幸や厄災」が飛び出した。
慌てて箱を閉じてみたら、「希望」だけが残った、という話になっている。
しかし、厳密には、「未来がすべて分かる禍い」が出なかったのであった。
つまりこのことは、「いつ禍いが降りかかるのかわからない」ので、「盲目の希望」とも言われる。

なかなかに、「哲学的」なのである。

こうした物語を作ったひとは、人間観察の達人で、それがおそろしく遠い過去に気づいて「神話」となった。
未来がわかればどんなに幸せか、と安易に思いがちだけど、実は「禍い」なのだという思考は、もっともだと合点させる。
すべての未来が分かってしまったら、どれほど無気力になるのだろう。
そこには、自分の命日も、死因も分かるという意味がある。

「100年カレンダー」というものが流行ったことがある。
いま、あんまり販売されていないのは、自殺を誘発するという理由もある。
細かく並んでいる「数字の羅列」のどこかに、自分の命日となる日があるのだ。
それが「不安」を高めて、偶然ではなく自分で決めることの意義を見出すという。

たかが「カレンダー」ではない。
未来に対する希望だけは失わずに済んだため絶望することなく生きていくこととなりました、という大団円的な物語が、よくいう「パンドラの箱」の話だけれど、果たしてこの「解釈」でよいのだろうか?
むしろ、人は分かりもしない未来に希望や夢を馳せては叶わずに絶望することを繰り返すようになった、とも悲観できる。

一方で、イブである。
蛇に誘惑されて、禁断の実を食べてしまっただけでなく、アダムにも食べさせる。
すると、たちまちにして「知恵」が湧き起こってきて、自分たちが恥ずかしくも裸であることに気づくのあった。
さらに、楽園を追われた二人は、未来の子孫も「労働」をもってしないと生きて行けななくなって、現在もまた未来もこれが続くことになっている「厄災」なのだ。

「勤労感謝」の思想は、ここにはない。

全知全能の神は、一体何がしたかったのか?という、不躾な疑問が湧いてくる。
これぞ、禁断の実を食べた「原罪」による、知恵なのである。
そして同じことが、ゼウスにもあてはまる。
ゼウスは何をしたくてパンドラに開けてはいけない箱を持たせたのか?

つまるところ、「禁止」があるのは、やるものがいる、からである。

むかし、知らないどの町内に行っても、「小便するな」という張り紙とかが塀に貼ってあった。
そこにするひとがたくさんいる、ということである。
それで、日本人の知恵は、鳥居の絵や、ほんとうに小さな鳥居を作って置いたのだった。
驚くほどの効果があるのは、日本人の本質を突いたからである。

繁華街に近いドイツの地下道では、その悪臭対策に悩んでいて、ついに解決方法が監視カメラになった。
十字架を掲げることをしないのは、知恵がないのか?
それとも、あまりにも畏れ多いからなのだろうか?

最後に、今様のジェンダーという視線からしたら、あり得ない女性蔑視の思想がある、と考えるのか?
ギリシャ神話も、創世記も書き換えるか印刷を禁止して排除せよと言い出したら、またまた考えることが増えるのである。

これぞ、パンドラが開けた箱の効果なのである。

北京五輪に選手は行くのか?

晩秋の気配が高まってきて、来週にはもう「師走」になる。
そして、年が明けたら「北京オリンピック」がはじまるのだけれど、「積極的に入国したい」選手がどれほどいるのか?に注目が集まっている。

「参加することに意義ある」というのは、遠いむかしのことで、プロ化したひとたちの「売名」という大会になったのがオリンピックの素顔になった。
それに、『オリンピック憲章』にはない、「国別対抗」を煽る報道も、やめるような気配なぞはなく、むしろ「国別対抗である」ということにもなった。

このことの根源には、何度も書いた「ルイセンコ」による、科学と共産主義の「融合」による、「新説」がスターリンやスターリンを批判したフルシチョフによっても採用されて、「思想強化」のために利用されたことがある。

ルイセンコは、遺伝学を否定して、「革命的遺伝学」という「新説」をもって、ソ連科学アカデミーの議長として君臨し、学問的にルイセンコ説に反対する科学者たちを、ことごとくシベリヤ送りにしたのだった。

その新説とは、
社会主義の農園で育つ小麦は、資本主義の農園で育つ小麦よりよく育つ、である。

この説を、笑い飛ばしてはいけない。
笑い飛ばしたら、家族共々シベリヤへ送られて、強制労働をもって一生を過ごすことになったことの「リアル」を想像しないといけないのである。

そこで、「小麦」を「スポーツ選手」に置き換えるだけで、「国威発揚」という「国別対抗」の意味がわかるのである。
すなわち、「優れた国家体制」の宣伝活動が、オリンピックになったのである。

すると、表彰式における「国旗掲揚」と「国歌演奏」が、『オリンピック憲章』に矛盾する最たるもの、となるはずなのが、そうはならないのはなぜか?ということになる。
もちろん、答は上述の「優れた国家体制」のプロパガンダのため、であるといえる。

「道議国家」を標榜する、わが国が、本来ならば率先して、『オリンピック憲章』に基づく「表彰式」を提案すべきところであるけれど、「道議国家」とは、単に「言っているだけ」の嘘だから、何も言わないでいるのである。
しかも、「余計な摩擦は避けるが肝心」という、「事なかれ主義」の勝利にもなっている。

さて、テニス界の女子ダブルスで世界トップにいた中国人選手が「失踪」して、世界のスポーツ界が揺れている。

原因として考えられるのは、このひとが「曝露」した、共産党の大幹部で中央政府の副総理をつとめた人物からの、「性的暴行」があげられる。
この告白直後に、行方不明となってしまったのである。

驚くことに、わが国の報道は、「不倫」という言い方に「統一」されている。
いったい誰が決めて、各社に指示を出しているのであろうか?
しかも、ご丁寧に「不倫による精神的苦痛」が「曝露」の理由だとも説明しているのだ。

しかしながら、彼女は「性的暴行」だと主張したとは、「世界の報道」なのである。
一方的だったのか、合意があったのか、では話がぜんぜんちがう。
わが国は、「合意」だと国民に刷りこみをしているのである。

直接関係する「テニス界」では、最も近しい「女子テニス界」のトップが、当該国に対して「即刻解放せよ」との声明を発表した。
さらに、男子シングルスの覇者である選手も、単独記者会見で本件に触れて抗議しているのだ。

彼女の「事件」は、政府高官を暴いたことによる「身柄拘束」という自由の剥奪を意味する。
それは、アスリートといえども、ものを言う人間であるという当然の「前提」があるから、「正確に動作する人形」なのではない。

けれども、所詮「正確に動作する人形」だと定義してはばかることがないのは、「唯物論」という邪教を信仰しているからである。
しかも、この宗教団体の幹部にだけは、「例外の自由」がある。

そんなわけで、「ボイコット」という意思表明が、政府や競技団体などの「上」からやってくる、という従来のやり方が崩れて、選手たちが身の危険を案じる、という「下」からの要求になったのである。

だから、これからは、「上」から参加せよ、という命令が発せられるという、かつてない事態が予想されて、身の安全についての選手からの要求には、「当事者ではない」ということで逃げ回る「上」を見ることができるだろう。

もちろん、「開催国」は、「身の安全を保障する」と言うに決まっているけれど、誰が信じるのか?というループした議論だけが目立つことになる。

わが国では、国家の「看板」である外務大臣が親中派を自認するひとだし、党のトップである幹事長も、外務大臣のときに「謝謝」で有名になった御仁である。
こうした人選をした、岸田氏は、どういった命を下すのか?

対するのは、外務大臣とは真っ向反対に位置する、おなじ山口県の防衛大臣と、さらにその実兄の元総理がいる。
ここで注目したいのは、「准与党」の風情になった「維新の会」という勢力だけど、どこで「親中」の牙をむくのかということだ。

「維新の会」を「保守」だと思って投票した人たちが、驚くようなことになるかもしれないから、オリンピックが「踏み絵」になるのであった。

リズ・チェイニー氏の除名処分

アメリカ共和党が動いている。

「反トランプ派」の急先鋒で、民主党ペロシ連邦下院議長が仕掛けた、議会内「1月6日委員会」の副委員長に、共和党員のまま就任したのがこのリズ・チェイニーというひとである。

もうすぐ12月なので、10ヶ月以上もトランプ氏の「犯罪」を追及している委員会なのだが、困ったことに民主党が用意した「証拠」が全部「事実と違う」と否定されてしまって、むしろ、民主党が「仕掛けた暴動なのではないか?」という疑惑すら浮き上がってきてしまっている。

彼女は、ブッシュ息子政権で副大統領をつとめた、ディック・チェイニーの長女であり、30才前半の若さで、同政権の国務副次官補(近東担当)にも就任している。
その後、2016年の連邦下院議員選挙に、ワイオミング州から立候補し当選して今日に至っている。

ただし、2013年に連邦上院議員選挙に出馬した際には、翌年に自ら「撤退」を表明することになったから、決して「順風満帆」ということではない。

さてこの度、その地元ワイオミング州の共和党から、来年の中間選挙における「共和党候補」としてという前に、党内予備選挙にさえ「出馬できない」旨の決定がなされた。
なんと、「党員として認めない」という決議がされた。

要は、「除名決議」である。

どうしてこうなるのか?といえば、彼女が「軍産複合体の申し子」であることが、ばれてしまったからである。
そもそも、ブッシュ親子が「軍産複合体」と結託した、「ネオコン」であって、父のディック・チェイニー氏は、ブッシュ父政権の国防長官だった。

ちなみに、ブッシュ息子大統領時代の国防長官は、あの、ラムズフェルド氏であった。
このひとは、ある意味正直で、産軍複合体の利益代表であることにはばからなかったし、自慢していた節まであった。

だから、あからさまな「戦争を欲する」姿は、外国である日本にいてもよくわかったので、現地では差し詰め「いっちゃっている」おじさんだったろう。

それでも、いちど成立した政権は、簡単にひっくり返ることはない。

ブッシュ父は、カーター政権以来珍しく2期目の選挙で落選し、クリントン政権に「移行」したことになっているけど、実は民主党も「産軍複合体」だから、似たもの同士なのである。
それで、ブッシュ家とクリントン家は仲がいい。

つまり、アメリカには3分割された勢力がある。
共和党は、「主流派と保守派」があって、民主党には「極左と穏健派」があるから4分割に見えるけど、共和党主流派と民主党穏健派は、バックが「産軍複合体」という意味で「お仲間」なのだ。

念のために「民主党穏健派」という「用語」だけれど、武器商人とか国際金融資本と結託した「戦争を欲する」ひとたちのことだから、ダブルスタンダードの言葉の綾に注意したい。
なお、戦後のアメリカ大統領で、任期中に戦争を「しなかった」のが、トランプ氏「ただひとり」であることが、「事実」なのである。

日本人が持つイメージとこの事実が「真逆」なのは、それだけマスコミ報道が、戦争を欲するひとたちの側にいることを示している。
「有事」となれば、テレビの視聴率が上がって、新聞も売れるからである。
だから、トランプ氏の「本物の平和主義」が、「危険」なのだ。

そんなわけで、リズ・チェイニー氏には、党内保守派の「突然変異」ともいえるトランプ氏が宿敵となる。
たいがいの政治家が「利権」を貪るのに対して、トランプ氏は本人が認める「十分な金持ち」だから、そんなものに興味が無い「変人」なのである。

このことの根底に、アメリカを建国した「清教徒」の流れがあることを忘れてはいけない。
共和党の歴史を遡れば、リンカーン大統領にあたって、さらにたどれば初代ワシントンに行きつく。

ワシントンは、アメリカに党派争いはない、と断言している。
なぜなら、建国を勝ち取った国民全員が「共和主義者」だからだ、と。
これが、アメリカという「共和国の本質」なのである。

日本では「共和党」を、金持ち優遇の党として認知されているきらいがあるのは、産軍複合体の利権にまみれたひとたちが、ときたま政権を得るからで、それをあろうことか共和党「主流派」と呼ぶのである。
建国以来の「共和主義=保守本流」の人々からしたら、まさに「笑止」なのだ。

しかしながら、はじめはヨーロッパから食うや食わずの移民がやってきて、せっかく新大陸にやってきたのに、やっぱり喰えないひとたちが多数になったら、民主党ができた。
だから、民主党が強い地域が、東西の沿岸部になったのである。

その意味で、南北戦争をやって共和党と闘ったはずの「南部」が、いま共和党の牙城なのは、歴史の皮肉である。
これには、かつての南部が、ヨーロッパ最貧のアイルランド系移民による成功と挫折というストーリーがある。

あの名作、『風と共に去りぬ』とは、まさにアイルランド系移民の「恨み節」なのだという、野口悠紀雄の指摘はぐさりとくる。
そのアイルランドが、ITと自由化によって、英国をも凌ぐ経済大国になったことを、現代アメリカ人は知っている。

そんなわけで、子供時代から、あたかも「子役」として、父親の選挙応援をしながら育ったリズ・チェイニー氏にとって、若かくして得た高位の「ふつう」が、まさにトランプ氏という変人によって崩壊の危機に立たされて、徹底抗戦した挙げ句の、地元からの「三行半」となったのである。

これを突きつけた地元の民意とは、彼女への「民意を知らないひと」という評価に過ぎない。

このシステムが、わが国に「ない」のである。

ほらきた「55兆円」の補正予算

予想通りの予想が当たったことが、うれしくもなんともなく、ただの「ため息」が出るばかりだ。
驚くほどの「凡庸」としか言い得ない。

前に書いたようにアメリカでは、二大予算案の攻防が、来年の中間選挙に影響を与えること「必定」となっているのに、わが国で、ことごとく「順番が違う」ことになっている。
選挙前どころか、総選挙後の、「これ」である。

つまり、選挙前も選挙中も、有権者は「こんな話は聞いていない」のだ。

インチキの典型である、「後出しジャンケン」をやっている。
これが、「武士道」なのか?といえば、誰だって笑い転げる冗談だ。
日本を牛耳るひとたちは、ただの姑息な輩に墜ちたのである。

外国人から、「武士道」を言われたら、とにかく穴に入って出てこられない、「黒帯が泣く」ことになったのである。

そこへいくと、「ヤンキー」たちはまだ「まとも」だ。
使うお金と財源を「同時」にちゃんと示している。
たくさん使うから、増税します、と。

もちろん、バイデン氏が「公約」にしたのが「増税」だったから、ここでも嘘は言っていない。
ただし、選挙公約で「増税」を掲げて当選した稀有な例ではある。
それで、史上初の8000万票を獲得して、やっぱり史上初の7400万票の現職を破ったのである。

合わせてこんなに投票があったのも、史上初だったけど。

トランプ氏はレーガン大統領がやった「大減税」の上をいく「大大減税」を実施していた。
これで、アメリカ経済は「絶好調」になったのだ。

70年代から80年代、ノーベル賞をとったサムエルソンの『経済学』が、どの大学でも教科書になっていた。
いわゆる、ケインズの「有効需要創出」に関しての常識に、ソ連型社会主義をあてはめた、「ポリシーミックス:新古典派総合」がもてはやされた時代であった。

いまからしたら、「米ソ冷戦」とは、あんがいと経済学も幸せな時代だったかと思う。
「ソ連の脅威」に対抗すべき経済理論の最右翼が、ソ連型を認めるものでも「通った」からである。

天才サムエルソンをして、ソ連経済発展を死ぬまで疑わなかったのは、「国家統計」の妙であった。
「嘘で固めている」とは、天才にして想像もつかない。
なぜなら、そんなデータで「計画経済」ができるはずがないからである。

しかし、実態は、そんなデータであった。

だから、計画経済ができるはずがなかったし、計画経済なんてできるはずがないとした、ミーゼスの指摘をサムエルソンは意図的にか「無視」していた。
つまり、二重に重要な条件を無視した、「砂の器」がサミュエルソン経済学になってしまったのである。

それでも、剥奪されないノーベル賞学者なのだ(クスッ)。

そうなると、この「教科書」で学んだかつての学生はどうなるのか?
学業成績優秀者とは、学校で言われたことを「忠実」に、かつ、「頑な」に守ることに秀でたひとたちをいうから、ヒヨコが最初に目視した「動く物」を母と思いこむようなことになる。

本質はどうでもいい。
教科書通りを書けば、「優」が取れて進級できる、ということを優先させて、そのまま就職するのである。
そして、成績優秀者ほど、役人になるのがわが国明治以来の「掟」なのだ。

一ケタの年齢からの人生の始めにこの「訓練」を10年以上も受けたひとたちが、自分の幼少期からを否定するようなことはしない。
ましてや、現に「エリート」になっているのだ。

それでもって、今度はその世界でエリートから逸脱しないように、「状況」に敏感にもなる。
つまり、「外れ値」にならないよう、常に「平均」付近でいられるように努力する。

しかして、この「努力」とは、「自己研鑽しない」という努力なのである。
「安逸であれ」という「停滞」こそ、「平均」でいられる近道となる。
だって、小学校から頑張ったのだ。
そんな自分が適当にやっていても、小学校から遊んでいたひとたちには「凄い」といわれるのだ。

そんなわけで、サミュエルソン経済学の中身なんて覚えていない。

そういえば、「乗数効果」なんてことを習ったかもしれない。
それは、「財政出動」で「有効需要」を刺戟したら出てくるんだっけ?
あれ、「減税」でもそんなようなことがあったっけ?

でも、役所で「減税」なんて言ったら、身が危ない。
日本政府の辞書に「減税」なんて言葉はない。
あるのは、「増税」だけなのだ。
それで、どんな増税の方法を編み出すのかが出世の早道になっている。

だから、最初にたくさんのカネをばらまいて、あたかも「経済政策」をやっている振りをする。
その「効果」については、審議会の御用学者がなにか理屈をかんがえる。
その理屈が「理にかなっている」かどうかは、どうでもいい。

どうせやってみないとわからないし、やって効果がなくても後から理由はどうにでもなる。
それより厄介なのは、有力議員へのキックバックを仕込むことだ。
どっちにせよ、増税の理屈になればよいのである。

アメリカ人はバカだと思う。
どうして使う話と増税を一緒にするのか?
先にばらまいてしまえば、国民は喜ぶのだ。
政府のおかげだ、と。

それで、下手から摺り手をして、もうダメです、大変です、デフォルトするかもしれません。
助かる道は増税しかありません、と言いふらせばいい。
こうしたら、国民は、仕方がないと応じてくる。

デフォルトが起きるといえば、コロナのように心配してくれて、ほんとうはどうでもいい「孫子のために」が、決め手になるのは、「現世利益」を掲げる連立与党の信仰の根幹だ。

まことに「愚民」とは便利なものなのである。
「すべては役人のために」という、むかしのビールのコマーシャルをパロディ化して、永遠の役人天国が続く。