「一泊二食」というプロジェクト

BABYMETALがとまらない.昨年,あの坂本九の「スキヤキ・ソング」から53年ぶりにアメリカ・ビルボード誌の総合アルバムチャートで39位(40位以内)に入った.また,同年のロンドンの名門「ウェンブリー・アリーナ」で開催した公演は,日本人アーティスト初のワンマン公演だった.

世界的ギタリストのマーティ・フリードマン氏は,「(アイドルグループではなく)バンドやスタッフを含めたひとつの『プロジェクト』として見ているんです」と発言している.

プロとしてのプロジェクト・チーム

日本よりも,外国での活躍が目立つアーティストが何組か生まれてきたのは,たいへんよいことだ.この分野では,一日の長がある外国で認められるには,ステージでの実力だけでなく,それを支えるスタッフをふくめた総合力も問われる.BABYMETALというチームは,神がかったテクニックを持つバックバンド(メンバーが入れ替わる)と,天使の声をもつという女性ボーカル,それに,彼女を両脇から合いの手とダンスで支える「天使役」の二人の女の子でできている.しかし,振り付け,作詞・作曲,プロモーションまで,チームとして一つの「ストーリー世界」を一貫してつくりあげる活動をしているのだ.これをプロデュースしている人物が「KOBAMETAL」(小林氏)と呼ばれている.おどろくことに,プロデューサーの小林氏は,芸能プロの経営者ではなく社員なのだ.

いわば,「各職場」がそれぞれの職場の本分を受け持ち,まっとうしているのだ.まさに,宿泊業のあるべき姿との相似形である.

舞台でお客様の目に触れるメンバーは,一流のスキルである.天使役の女の子たちのダンスを侮ってはいけない.彼女らは,これをライブで何曲も続けてやるのだ.おそるべき体力と気力である.観客からは見えない存在のスタッフも,このステージを支えるためにどんな仕事をしているのか?と想像させるにたるプロたちだろう.

圧倒的なプロに出会うとひとは言いなりになる

わたしの棲む横浜には,東京にはない老舗が何軒かのこっている.開港して約160年,横浜が外国文化の受け入れと国内発信をしていた時代は,飛行機よりも船旅がふつうだったおそらく1960年代までだったろう.それでも,元町界隈には老舗があるのは嬉しいことだ.

その元町の老舗の一軒に,ジャケットを買いに出かけたことがある.店に入ると「いらっしゃいませ」という声とともに,主人が近寄ると,いきなり「ジャケットでございますね」という.そして,わたしの体型を一瞥すると,数あるジャケットのなかから一着を選んだ.その間,わたしは上着を脱いでいたので,あたかも着替えるようにそのジャケットに腕をとおした.ぴったりである.「よくお似合いですよ」と主人.わたしは,「これください」と言って,わずか数十秒で買いものを終えた.以来,ちゃんとしたものはこの店と決めている.この店の取り扱う品々のセンス,さりげない提案が,わたしの希望と一致するからだ.だから,わたしは安心して,主人の言いなりになっている.

宿はお客様を言いなりにさせているか?

ラテン語の「HOSPTIUM(ホスピチウム)」が英語の「HOSPITALITY(ホスピタリティ)」や「HOSPITAL(ホスピタル)」あるいは「HOTEL(ホテル)」になったという.だから、病院とホテルは言語上では兄弟である.いまや,病院では「電子カルテ」があたりまえになったが,いぜんから医療現場では手書きでも「カルテ」は必須の情報源である.それは当然だろう.自分の病歴や症状が記入されているから,カルテの情報がなければ事故になりかねない.ところが,案外,宿泊業,なかでも日本旅館で,カルテに匹敵する顧客情報を利用している施設は少ない.だから,これを電子化した利器を活用している旅館も少ないのだ.かつての「団体」主体だった時代の名残である.

情報不足はリテラシー(活用能力)の欠如から生まれる.「団体」からとっくに「個人」に変化した市場にたいして,いまだに「待ちぼうけ」のごとく,たまにやってくる団体を心待ちにしている間,個人客ファンを作らなければならないという業務上の使命を忘れ,個人顧客情報の収集もしないから,活用などできる環境にない.つまり,「カルテを作らない医者」のようになってしまったから,だれも怖くて近寄らなくなる.

こんな宿でも「アレルギー情報だけ」は,収集していると胸を張ることがある.当然である.アレルギーを申告したお客様の命に関わる情報だ.これが,個人顧客情報のすべてと言われると,言われたほうが呆然とする.

存在意義から問わねばならぬ

お客様から圧倒的な信頼を得るには,なにをしなければならないのか?BABYMETALというチームから,プロジェクトとして学ぶ必要がある.

覚悟なき観光振興

観光地の整備のことを、「観光振興」という。
道や看板、はたまた「会館」や「センター」を建設し、地元の物品販売をすることになっている。最近では、ネットを通じた地元情報の提供のためのサイトへの投資もある。これらの投資が,「民」ではなく「官」が主体であるのも特徴だ.
残念ながら、これらの投資が集客に大成功したという話は、寡聞にして聞かない。

「掠奪産業」を助長するのか?

18世紀にイギリスで資本主義が生まれる前の時代,人類は資本主義を知らなかった.つまり,原始時代から古代四大文明を通じて,ローマ帝国もモンゴル帝国も,オスマン帝国も,資本主義ではなかった.では,なんだったのか?「前資本」とか「前期資本」という.

世界初の先物市場として有名な大阪堂島米会所が,幕府から公認されたのは1730年だ.でも,江戸時代の日本は資本主義経済ではなかった.日本が資本主義を導入するのは,明治になってからである.その明治期におけるめざましい経済発展は,日清戦争(明治27年~28年)でもわかるように,維新後30年足らずで外国との近代戦争ができるまでになったことでもわかる.

さて,「前資本」の時代の経済における常識とは,儲けるための仕組みが,単純であった.「安く仕入れて高く売る」である.なんだ,いまとかわらないではないか?と感じたかも知れない.ところが,価値観が異なるのだ.「安く仕入れる」というのは,たとえば「詐欺」や「掠奪」がふくまれる.「高く売る」には,「冒険」や「押し売り」がふくまれて,これらの行為がとくに問題にならないどころか,むしろ,一般的であったのだ.対象客の絞り込みと、製品設計やサービス設計などという概念がないのだ。

多くの観光地における観光業は掠奪産業ではないか?

地元に存在する「観光資源」を見にきたひと,すなわち「観光客」から,「法外な料金を提示して金銭を得る」なら,それは「掠奪産業」ではないのか?そんな状態で,税金を投じる「観光振興」は,掠奪産業を助長する自殺行為である.

昔の修学旅行生が狙われた

世間を知らない小中学生の修学旅行.お土産になにを買おうかと,いろいろ物色した経験は,おおくのひとにあるだろう.一昔二昔前なら,親からだけでなく,祖父母や親戚からも「選別」をもらったから,「お返し」をしなければならなかった.学校がお小遣いに上限を設けても,もらったものはもらったものである.だから,帰りの荷物はそれなりの大きさと重さになった.

子どもたちが買ったお土産を,「なんだこれ?いくらした?」と大人からからかわれた経験をもつひとも少なくないだろう.大観光地のお土産物屋さんで,よかれと買った物が,大人からみれば値段に見合わないガラクタに大層な値段がついていた.この経験から,中学生になると,品物をより吟味しようという気になる.昔の修学旅行は,たいがい毎年おなじ目的地だったから,中学生には「先輩」という情報源が有効だった.もちろん,「先輩」とて失敗の買い物をしたものだが,帰宅して失敗とわかれば,それを「後輩」に伝えたのだ.

こうして,徐々に観光地の土産物屋は,子どもから見放されていき,それが物資が豊富な時代とともに,大きく衰退した.このころの土産物屋は,二つのことを見誤ったのである.一つは,豊かな暮らしにおける観光土産とはなにか?ということ.もう一つは,子どもから「奪う」ことに鈍感だったことだ.おそらく,当時は,毎年やってくる大量の生徒たちが尽きることはないと思えただろう.しばらくすると,行き先が外国にも拡大した.このとき,「危機感」をもったひとも,「掠奪」された経験をもつ,これらの子どもたちが大人になって親になることに気づかなかった.まさに,「前資本」時代の「掠奪産業」だ.

「観光振興」とは「観光客」の「満足」がなけれなならない

いまだに日本の観光地のおおくは,ふつうの商売ならあたりまえの「営業コンセプト」が決まっていないのである。営業コンセプトを決めるためには、中心となる想定顧客層の設定と、そのひとたちが求めるだろう価値と提供する価値のすりあわせ作業をしなければならない。「多様化」した消費者に対応するには欠かせない常識である。

「多様化」がはじまって半世紀

日本で、「多様化」といわれ始めたのは、1970年代だ。すなわち、高度成長を背景に、「大阪万博」で象徴されるような時期だ。全共闘やヒッピーなどが若者文化として出てきたし、マクドナルドの開業は71年だった。
つまり、半世紀前から消費者はとっくに多様化しているのに、観光産業では、あいかわらずお客様は「(一様な)マス」のままなのだ。このことの方が驚きである。

外国人観光客は「救世主」か?

地元の日本人観光客が気づいた「不満足」を,欧米の「観光大国」からやってくる高単価外国人観光客が見すごすと,本気でおもっているのだろうか?また,その「観光大国」は,なんの努力もせずに勝手に「観光大国」になったと,本気でおもっているのだろうか?

日本の「リピーター」ではあるが,地元に「リピーター」はいるか?と問えば,かつての小中学生修学旅行と似ていることに気づくだろう.外国人観光客のなかでも「高単価層」のリピーターは,どんどん地方都市に「新しさ」を求めて分け入っている.この「新しさ」とは,彼らにとっての「新鮮さ」であって,そこに「古い」日本があれば尚更よいという感覚だ.

70年代の「列島改造論」の価値観は間違いである

地方色のまったくない「駅舎」や「駅前風景」などに代表される,東京になりたい症候群という「病気」が,都市圏に住む観光客の目には「痴呆」の「地方」という,お笑いぐさにみえるのだ.ダサくて不便にしろ,と言っているのではない.その地方独自の文化や歴史を,一切忘れて,ガラスと鉄骨でつくる,ポスト・モダンの建造物が「おらが街の自慢」という感覚を嗤うのだ.

ぜひとも一度,「廃県置藩」を哲学してもらいたい.

ベンチャー企業が「実績」を問われる

ベンチャー企業というのは,これなら世の中に役立つかもしれない,といった技術やサービスを主軸にした,新しい事業コンセプトの企業だ.だれだって,そんな会社を新規に立ち上げたら,「実績」などない.

審美眼ならぬ審ビ眼

日本の大企業のおおくは,ベンチャー企業が売り込みにいっても,ほぼ相手にされない.そもそもどの部署に連絡すればよいのかすら不明である.これは,大企業の側も,自分たちがどんなことを必要としているかをまとめていないから,内部でもわからない.それにくわえ,そんなこまったことを大企業の内部で「内製」すべきなのか,外からの「購入」をすべきなのかが決まっていない.解決のためのスピードとコストを天秤にかけたとき,おおむねコストを重視するのだ.これは,「時は金なり」という資本主義の基本概念が希薄であることを示している.こんなことを何十年もやってきたから,社内の人材で「審ビ眼」を鍛えたことがなくなる.「審ビ眼」の「ビ」とは,ビジネスのことだ.

外資系が「審ビ眼」を重視する背景

「いいものはいい」という目で見ることは,あたりまえのことだ.ここで,外資系をベタ褒めするつもりはないが,「審ビ眼」をつかって判断するということには,それなりの「リスク」を伴う.じつは,この「リスク」への根本的な思想が日本企業と外資はことなる.

日本が高度成長していた時代の映像作品といえば,底抜けに明るいクレージー・キャッツの「無責任シリーズ」だろう.その前の,森繁久彌の「社長シリーズ」でもよい.「笑いの中に真実がある」といったのは,アリストテレスといわれているが,まさにこれら「喜劇」のなかの日本企業は「リスク」をあまり気にしていない.それが,低成長時代になると「リスク」をおそれるようになった.いつの間にか,日本企業の常識は,「リスクは避けるモノ」となってしまった.

外資系ではよく,ボーナス査定の基準として以下のようにいわれている.「このままでは,今期の業績が悪化するかもしれない,という状況で」1.果敢に挑戦し,業績を良好に改善できた,2.果敢に挑戦し,業績を前年並みにできた,3.果敢に挑戦したが,業績は予想よりかなり悪化した,4.これまでどおりとして,業績は予想どおり悪化した.

4.番以外は全員ボーナス支給の対象になる.3.番は,業績を予想より悪化させてしまったのだから,日本企業的には「余計なことをした」としてバツである.しかし,外資では,「果敢に挑戦した」ことを評価するのだ.逆に,4.番は,日本企業的には「仕方ない」として,評価するだろう.もっといえば,そんな部署の責任者になった「不運」を哀れみ,自分でなくてよかっとも考える.前任者や前々任者(すでに昇格している先輩や同僚)がやってきたやり方を変えたら,先輩たちへの当てつけになって失礼になると考えるのだ.ところが,外資では「解雇」の対象になる.「これまでどおり」のことしかしないなら,そのひとの存在理由がないからだ.つまり,「これまでどおり」に対する評価が,真逆になるのだ.

リスクをどうするか?が左右する

「リスクは避けるモノ」から,「リスクは『何があっても』避けるモノ」という,絶対化がおきている日本企業は,なんでも「純化」させてしまう日本人のDNAからきている発想方法だろう.これにたいして外資は「リスクはコントロールするモノ」という発想だ.これは,ある意味「アバウト」なかんがえ方だ.

人生に「正解」がないのは,やり直しがきかないから,時間をもどして,選択肢ごとに試してから「正解」を確認することができない.だから,つねにその場その場においての「最適」を選択するしかない.ところが,このときの「最適」が,経済学者がいう「(金額で示される)効用の最適」とはかぎらない.ひとの生活における「効用」には,「他利(他人のためになる利益)」をあえて選択することによる「信用を得る」という「効用」があるからだ.これは,企業活動においても同じである.いかなる企業といえども,「正解」に近づくことしかできないが,その「正解」が那辺に存在するのかさえ,じつは誰にもわからない.

だから、いま「リスク」に見えることが,じつは「セーフティ」なのかもしれない.すると,「リスクはとるモノ」となり,コントロールの対象となる.こうした,企業の思想的転換があってベンチャーが生きる基盤ができる.これを忘れて,「ベンチャー企業支援」という補助をしても,お金のムダであるばかりか,「政府に依存」させてベンチャー起業家の人生を翻弄させてしまうだろう.日本は冷酷な国である.

「生産性向上」とはいうけれど

人口が減るから生産性向上なのか?

日本の人口の減り方は尋常ではない.人類史上はじめての経験,ともいわれてひさしい.一方で,歴史的な出来事の最中に生きているひとには,それが日常なので,変化に気づきにくい,といわれる.だからか,わが家のご近所さんとの雑談で,「人口減少」を言うと驚くひとがまだたくさんいる.その驚きかたに,こちらが驚いてしまうほどだ.はじまったばかり,だから仕方がないのかも知れないが,生活実感として,それほどでもないということなのか.

ところが,企業経営者は,まず「人手不足」という困り事から,「労働人口の減少」を実感している.かつての「花形」職種でさえも,欠員ができるほどだ.そこで,新聞をみれば,やっぱり記事も「労働人口の減少」を書きたてているし,政府も「対策」を急ぐらしい.しかし,対策といっても,政府が子どもを産むわけではないから,おのずと議論は二つの問題になる.一つは,政府は子どもを産まないかわりに外国人を連れてくる「移民受け入れ」であり,一つは,人間の数が少なくても多くの生産ができるようにする「生産性の向上」である.

「移民受け入れ」は,文化の問題以前に,「移民も年をとる」ということと,「移民も子を産む」ことが問題で,なかなかはなしがまとまらない.一方,生産性の向上は,政府が直接やってできることではないから,やれやれと民間の尻をたたくことぐらいしかない.そもそも,「生産性」をあれこれと,「生産性」の意識などまるでない政府から言われる筋合いではないのだが,財界は喜んでいるようだ.まったく不思議な光景である.経産省や厚労省官僚の残業時間を聞いてみたいものだ.もっとも,インプット(投入資源)に対するアウトプット(効果)という観点からすれば,これらの役所の存在自体が問題になるだろう.ただし,彼らの価値観では,「複数年次に,できれば永続的に,多額の予算を投入して,世の中の役に立たない事業」を提案できてこそ出世条件になるということも国民は理解しなければならないが.

「人手不足」という尻に火がついたから,「生産性の向上」が必要なのではなく,もともとはいつでも「生産性の向上」は必要なのだ.それは,企業には「極限の利益追求」という使命があるからだ.

「極限の利益追求」をしない日本企業

日本企業の行動原理は,「極限の利益追求」ではない.もちろん,決算発表にあたって,だれも「当社は極限の利益追求をしておりません」とは言わないし言えない.しかも,社内の予算策定で,役員のだれも「極限の利益追求はしなくてよい」とは言わないし,むしろ,「もっとよい数字にしろ」と指示するはずである.

では,どうして「極限の利益追求」をしないと言えるのか?

日本企業の経営者は社員である

経営者が「経営していない」ことは,二社の子会社が,不正を知りながら出荷していた問題で,三菱マテリアル本社の社長の発言,「承知していない」という事例や,これまでの神戸製鋼,日産,スバルの事例からもあきらかである.要は,「現場丸投げ」なのだ.

「現場こそ当社の命」という経営者で,現場に詳しいひとがどのくらいいるのかわからないが,「現場丸投げ」の裏返しかもしれないと疑っていいだろう.このことについて,アメリカの経済学者でノーベル賞も受賞したガルブレイスが,1968年の『新しい産業国家』で証明している.

大企業は,「テクノストラクチュア」といわれる社内の専門家たちに「簒奪され,支配される」とある.これは,組織をあげてヨコの繋がりをもつ「テクノストラクチュア」が,「自分たちの安全」を優先させて行動するという原理だと説明している.だから,彼らは「極限の利益追求」をしない.自分たちの安全とは,安楽でもある.会社には成長は必要だが,会社が存続できる程度の利益があればよい,という発想になるのだ.

ボトムアップ型の日本企業は,大なり小なり「テクノストラクチュア」に支配されている.

安楽な会社では「生産性の向上」はできない

「テクノストラクチュア」の考え方を変えさせなければ,「生産性の向上」はできない.90年代の日本が「絶頂」を迎えたときも,生産性ではG7国のブービー(ビリは英国)だった.その前後は,一貫して「ビリ」なのだ.つまり,わが国は,生産性という視点で見れば,万年ビリの二流国であり続けていた.これは,忙しそうに働く振りをする天才たちによる「一流の幻想」でもある.その天才たちこそ,「テクノストラクチュア」だ.

本物の経営者と本物の労働者が必要

本物の経営者とは,企業の将来像を示せるばかりでなく,「テクノストラクチュア」から実権を奪い返す気力と知力をもった人物である.また,本物の労働者とは,自分の労働の価値を知っている人物である.労働者は人身売買の対象ではない.労働力を売っている人物のことである.この感覚があって,はじめて「プロフェッショナル」への入口に立つことができるのだ.

銀行から排出される人材の再教育が肝心である

日本のメガバンクが,大規模な人員削減をおこなうと発表された.この人材をいかに有効利用できるのか?そのための再教育をどうするのか?経済界は政府に依存するのではなく,「プロフェッショナルへの改造」をみずからおこなうべきである.

「趣味」とつきあう

人生80年時代となってみると,生涯の楽しみとしての「趣味」の重みは高くなるだろう.スポーツ系にせよ,文化系にせよ,複数の趣味を楽しむひともおおいのではないか.また,もはや人間の子供の数よりおおくなった小動物を愛玩用に飼育するのも,一種の趣味といえるだろう.

若いときと違って,ある程度の年齢になると金銭的に余裕がでてくるから,趣味への投資もそれなりの質をかんがえれば少額ではすまない.むしろ,大好きなことだからこそ,予算に糸目を付けないというひともおおいだろう.夫婦で同じ趣味なら,いっそう張り合いもあるはずだ.

これは,「趣味という体験」を買っているということだから,けっして受身ではない.趣味人は,自身の趣味には積極的なのである.また,年齢が高くなると,「人生の先」が見えてくるから,若いときとちがって時間にたいしてより貪欲でもある.だから,ゆたかな「残り時間」のためにも,「趣味」に没頭するのだ.

「趣味」のお宿,が少ない

宿の企画で,そこに行けば仲間と会える,という商品があまりない.宿はひとが集まる場所,であるにもかかわらず,とくに「日本の宿」は部屋に引きこもることを前提としているのが不思議だ.

「なんの変哲もない」というのは,謙遜になるのだろうか?

文字どおり読めば,「変わったことも,哲学もない」という「凡庸さ」を指す言葉だろうが,日常からはなれて,気分転換もしたい,という需要に対しての施設提供が宿の基本的価値であるのに,日常とはとくに変わらず,特段の哲学もないのなら,そこは間違いなく「売れない」という結果に甘んじることになる.

こうしたお宿の経営者が,「無趣味が趣味」だったりする.関心がないのか無気力なのか,そのどちらもなのかだろうが,ほとんど「とんがった」知識がないことがある.だから、お客様の趣味にも無関心なのだ.

「趣味人」はとんがっている

ある特定の分野について,たいそう詳しいのが趣味人である.その分野にこだわればこだわるほど,実は他の分野についてのアンテナも高くなる.どこで,自分の趣味に役立つことがあるかわからないし,趣味を通じてこれまでとはちがった世の中の光景が見えてくるから,興味がつかないのだ.だから,趣味人は勉強好きである.もちろん,受験勉強のことではない.そうした知識習得に興味があるひとは,だんだんとひとりではつまらなくなる.仲間との交流がしたくなるのは人情である.だから,グループ行動をする.

いつものグループではない交流は,まさに非日常である.だから,趣味人が集まる宿をつくるのはひとつの成功のもとである.そこでの交流が,次のグループを生成すると,その宿が拠点になるかもしれない.

こうして,なんの変哲もない宿が変化する.

それには,ひとつ,主人から趣味をみつけるとよい.

「食べ放題」の貧困

ホテルや飲食店での「食べ放題」を,日本では,「バイキング」と呼んでいたが,近ごろでは,メニューから自由に選んで注文する方式も人気だ.

小田原北条家の滅亡にかかわる「食」のエピソードとして,北条氏政の「汁かけ話」がある.父の氏康との食事で,氏政がご飯に一度汁をかけたところ,少なかったのでもう一度かけなおした.これを見た,父氏康が「これで北条も終わりかと嘆いた」という.毎日食事をしていながら,成人になって汁の量もはかれぬ者に,領国や家臣,領民の生活経済を推し量ることはできないから,戦国武将家として維持できない,という意味である.氏政の名誉のために付け加えれば,後世の作り話であるそうだが,説得力のあるはなしである.

食品業界では,消費期限や賞味期限の表記に工夫をして,なんとか廃棄量を減少させたいと活動しているが,「食堂」業界では,食べ放題を推進している.もちろん,「持ち帰り禁止」とか,「食べきれる量」という注意もあるようだが,おおくは利用客の「モラル」に依存している.

「育ち」とか「お里」ということをあまり言わなくなってきた.「食事の躾」は,とくに大人になってから目立つようになって,場合によっては一生を左右することにもなりかねない重要事なのだが,「そのとき」では間に合わない.まさに,「育ちの悪さ」や「お里が知れる」瞬間である.これまでの「訓練」が,ついうっかりでてしまうからだ.

だから,重要事にはたいがい「お食事」がつきものである.わが国の最重要お食事会とは,宮中晩餐会であろう.だれでもがこのような席に招待されるものではないから,自分には関係ない,というむきもあろうが,下々とて,人生における重要事に「お食事」はつきものだ.「節句」もそのうちのひとつだろう.「お誕生日会」がこれに加わり,学校給食も日常事での「お食事会」である.けだし,「躾けの要素」がどこまであるのかはよくわからない.いまだに戦後の欠食児童や栄養不足が気になるのか,学校給食ででてくる話題は,「栄養」と「産地」それと,「未払い問題」ばかりである.

お嬢様学校の伝統として,「テーブルマナー」があり,その実地場所として高級ホテルが選ばれていた.講師はホテルの「ボーイ長」で,マナーだけでなくエチケットも教えていた.「花より団子」のお嬢様たちは,料理のおいしさに酔いしれるのだが,数年後の「お見合い」の場面で,効果を発揮できた.男性側は,たいてい背中に冷や汗をかいていたと思われるが,優雅に食事を召し上がるお嬢様にぞっこんさせるためのアドバンテージをあたえていたのかも知れない.いや,良家のお坊ちゃまであれば,付け焼き刃のマナーなど,簡単に見破ったにちがいない.

そんな男性も,社会に出れば接待という「お食事会」がつきまとうようになり,また,社内行事でも幹部との「お食事会」があった.外資系では,週末に上司の家へ呼ばれての「お食事会」は,いまだにふつうのことだ.ここで,かなりの確率で「育ち」と「お里」が評価される.

品のない女子高生グループが,とあるレストランで「食べ放題コース」を楽しんでいる光景を目撃したことがある.お下劣なマナーで,大量の食べ残しの山を築いていた.一口食べて「まずい」といって皿に投げつけた者もいた.ああ,この中から間違っても嫁にしたら,またたく間に貧困家庭になってしまうと思った.

必要経費も削減してしまう

経費削減がブームになって久しい

恐れ入ったことである.組織内の上も下も,「経費削減」がだいすきなのである.人的サービス業である,宿泊業や飲食業でも同様だが,そのやり方がほとんど稚拙である.それで,やったつもりになるから,業績は悪化の一途をたどる.すると,よりいっそう「経費削減」で業績回復を目指すようになる.まるで,競馬やパチンコといったギャンブルで負けたひとが,おなじ競馬やパチンコで取り返そうとするのとおなじである.これを「ギャンブル依存症」ならぬ「経費削減依存症」という.

現場責任者たちが「計数管理できない」ぼやき

経費削減依存症に罹患した企業がいう「計数管理」とは,損益計算書の「読み方」のことで,「計数管理できない」とは,損益計算書の読み方がわからない,という意味だ.そして,これを「困ったことだ」という.どうして困っているのかというと,今期見込みや今期予算の達成のための管理ができないから,という.実は,これが一番困ったことで,現場責任者たちにとって,損益計算書は業務上,本当に「必要」なものなのだろうか?といった目線がないのだ.そして,その現場責任者たちが担っている「現場」と「責任の範囲」を質問したくなる.だれでもが,「現場」を指定することはできるが,「責任の範囲」を特定して説明できるひとがいないことがある.つまり,業務範囲が曖昧なのだ.これは,製造業ではありえないことだろう.

業務範囲が曖昧なのに,現場責任者,はどうしているかといえば,隣接する業務の現場責任者たちと話し合いながら業務を遂行している.これは意外にも健全なことで,組織図のように現場は縦割りではないし,お客様の行動にあわせると,組織体を超えなくてはならないこともある.すると,現場責任者たちからすれば,「計数管理」を押しつけてくる会社側の方がおかしい,ということになる.

経費発生のおおもとは,ひとの存在である

そもそも,企業組織はひとから成り立っている.組織の定義は「二人以上」であることからもわかる.ひとり個人事業主なら,組織はない.その個人事業主が,誰かを一人以上雇用すれば,とたんに「組織」になる.ところで,いま,経費をかんがえるとき,もっともシンプルなひとり個人事業主を想定してみよう.彼の事務所が自宅であろうと,彼がそこに「いる」だけで,光熱費が発生するし,通信費も発生するだろう.客先に移動すれば,交通費が発生するし,打ち合わせのためにコーヒーを飲めば,会議費も発生するだろう.つまり,経費が発生するのは,そこにひとがいるからである.

目的合理的か?が問われる

ひとがいれば経費が発生する.では,無人なら経費はかからないかといえば,そうではない.ひとり個人事業主でも経費は発生するのだ.無人の企業をペーパー・カンパニーと呼ぶ.だから,経費をみる目線は,「目的合理的か?」ということだけになる.すると,ひとの行動には「目的」がなければならない.この目的自体も合理的でなければならないから,「目的が合理的か?」と「目的達成の手段が合理的か?」という二つの問題があらわれる.「経費削減依存症」のばあい,「目的達成の手段」ばかりに注目してしまい,その合理性も,また,その目的が合理的か?ということも忘れてしまっているから「依存症」なのである.

ところが,これら二つの問題を一言であらわす言葉がある.

ムリ・ムラ・ムダはないか?

である.これを組織内部のひとの行動から洗い出すことが,結果的に「経費削減」となるのである.だから,現場責任者に問いたいことは,損益計算書の読み方ではなく,現場における「ムリ・ムラ・ムダの発見」なのである.

経営に失敗する常識

「経済学」に詳しいと

経営に失敗する経営者には,よく勉強したひとがおおい.その典型的な勉強分野が,「経済学」である.ところが,この経済学,さすがにマルクスは影を潜めたが,日本ではいまだにケインズを中心とする混合経済の近代経済学が一般的だ.それをいまでは,「主流派経済学」と呼ぶ.これは,政府が中心となって,様々な「景気対策」などの「経済政策」を行うことをあたりまえとしているもので,いろいろな分野での「補助金」も,政府の「政策」が根拠になっている.つまり,政府がなにかしてくれる,という他人まかせの社会をつくる.だから,自社の業績は経済状況に左右されると発想し,それを政府に改善して欲しいと願うようになる.新聞などの「世論調査」で,いつも大きなウェートを占めるのは政府による「経済対策」や「景気対策」になることでもわかる.

しかし,現実には,いかにして他社より自社が選ばれるかという「競争」がおこなわれているのであって,経営者は,その競争に負けない方策をかんがえるのが仕事である.ここに,政府のでる出番はないのだが,とかく政府は経済に介入したがり,「補助金」とかを渡すかわりに,政府の言うことをきかせるように仕向けるのだ.安易にお金の支給を受けようものなら,後々まで規制をかけられて,しらないうちに自由な経営ができなくなる.

困ったことに,主流派経済学の学者も,その学者から熱心に学んだ官僚も,経済界のえらい人も,「消費」についてすら現実からはなれた発想をしている.ひとくちに「消費」といっても,生活必需品を購入する消費と,不要不急「競争」がおこなわれていての贅沢品を購入する消費とでは意味がちがう.贅沢品は「奢侈品」として役人が分類すると課税されてしまうから,さらに別の意味もある.
教科書どおりの通り一遍な主流派経済学者は,消費の金額的側面,つまり統計データしかみない.「効用」という言葉が経済学にもあるが,ほとんど無視するのが主流派経済学という「学問」の特徴である.マーケティング情報として消費をみるときは,事前期待と事後の満足度の一致具合が興味の対象になる.購入前の「欲しい!」という想いと,購入後の「買ってよかった」とか「失敗した」とかの感じ方のギャップの大小のことである.つきつめれば,消費者がお金を払うとき,『製品やサービスの「期待価値」を買っている』といえるのである.
マーケティング論における大家,セオドア・レビットによれば,経済学者はまったくわかっていない,と嘆くポイントだ.たとえば,パンとダイヤモンドの消費をかんがえるとき,経済学者は,パンはパンとして,ダイヤモンドはダイヤモンドとしての価値しかみないから,それぞれの消費データを分析しようとする.物理学者や化学者は,どちらも「炭素」からできているので,同じ素材の物質にみえる.マーケッターは,パンを購入するときの期待価値,ダイヤモンドを購入する時の期待価値,という「期待価値」という同じ目線でみつめるのだ.ここに,決定的なちがいが生まれる.

消費者をみないで消費データしかみない

経済学者と同様に,失敗する経営者にとっての消費データとは「売上高」のことである.全社でいくら,部門別でいくら,子会社ごとにいくら,というように「売上高」を塊としてみる.そして,これを「損益計算書」という「計算書」としてまとめられた数字の「表」しかみない.部下や責任者からの報告も,この表の「仕訳ルール」(おおくは「税法」による)によってできた「経費科目」によってなされる.比較の対象は,今期と前期,あるいは前々期からの伸びや縮小の率や額である.

これは,「数字ごっこ」である.

この程度の「分析」から,将来を決定するとして,なにをきめることができるのだろうか?日本企業は「決められない」ことに特徴があると揶揄されて久しいが,それは本当である.しかし,「決められない」ことの理由の分析すらできていない.答は簡単なのである.「数字ごっこ」をしていることが原因の大きな要因なのだ.過去の「損益計算書」という書類には,「将来を決めるための情報がない」から,どんなにほじくっても,「決められない」のは当然だ.

決めるための情報は,消費者の選択行動分析である.

とっくにコンビニ業界がそれを証明している.自社にお金を払ってくれる唯一の層は「消費者」である。これは、たとえ「B to B」でも同様である。最終的なユーザーである「消費者」こそが真の負担をする唯一の存在である。自社の製品・サービスの「期待価値」をいかに高めるのか?そもそも,現状の「期待価値」をどう評価するのか?主流派経済学の知識ではわからないことなのだ.

「美味しい料理」は旅館選択基準になるのか?

「グルメブーム」と「飽食の時代」

80年代という説もあるらしいが,90年代のバブル期には遅くても「飽食の時代」と言われはじめていた.だから,短くみてもおよそこの30年間は,「飽食の時代」という時代が続いているとかんがえてよいだろう.最近では「呆食の時代」ともいうらしい.「飽食」とは「飽和状態」の「食」のことだ.つまり,裏返せば「食品廃棄」の時代でもある.
ところで,「グルメブーム」はいつからだろうと探ると,80年代という説がでてきた.「グルメ」から進化して10年ほどで「飽食の時代」になったということか.すると,わが国の「グルメブーム」はおよそ40年間!続いていることになる.これではいっときの「ブーム」とは言えまい.

執念かもしれない

テレビのワイドショーを毎日観ている現役の就労者は少ないだろうが,定年後のみなさまの最初の驚きは,テレビは「グルメレポート」ばかり,ではなかろうか.焼け跡世代(戦中生まれ)に団塊の世代(1947年~49年生まれ)から,1960年代前半生まれ頃までは,青ばなを垂らして,すそがテカテカだった子どもがいた.これはタンパク質の栄養不足が原因らしく,食糧不足から「欠食児童」という言葉まであった.しかし,日本人の栄養不足は,なにも戦後だけのことではなく,ずっと昔からあったことだった.すなわち,近年40年間も続く「グルメブーム」とは,太古から基本的に貧しかった日本人が,かつて経験したことのない,「食への執念が成就した日々」ともいえそうだ.

美味しいものがあふれている

東芝の経営難で,テレビアニメ「サザエさん」のスポンサー交替が話題になるなか,「サザエさん」自体も話題である.もはや,東京郊外で親子三代の大家族が一戸建ての平屋に同居する形態は,珍しくなっているからだ.ましてや,母娘ともに専業主婦!というのは,よほど余裕のある家でなければありえないかもしれない.いまや,典型的な家族は,親子三人暮らしになっているし共働きは当たり前,片親(シングル)による家庭も無視できない.だから,原材料から仕込むちゃんとした手料理ばかりが食卓にのぼることも珍しいことになってきた.手軽に購入できる惣菜のレベルもあがって,少人数分をつくる手間より重宝することになった.全国に5万軒あるコンビニの系列ごとのプライベート・ブランドにいたっては,ちょっとしたレストランや料理店のものと遜色ない品質の商品が陳列されている.買い物客は,ほぼ「原価」でお店と同等のものが食べられる.かつてのファミレスも分化して,価格訴求型と高級型になった.高級型では,ホテル並の品々が気軽に選択できるし,接客サービスもおざなりではない.

プロの料理が問われるているのは「味」ではない

お金を出して購入した料理が「美味しくない」はずがなくなった.まして,流通網が発達して,日本全国どころか世界中から食材が供給されていて,それを自宅でネット注文が出来る時代なのだ.旅の醍醐味である「わざわざ感」が急速に消滅の危機にある.それでもひとは旅に出る.この「それでも」というのは,現地における「事前期待値」のことである.つまり,臨場感を味わいたい,とか,作り手と話がしたい,とか「わたしのためだけの特別な」といった「生の経験」にたいするわくわく感である.そんなお客を受け入れるには,綿密な準備が必要だ.その準備とは「事業コンセプト」にのっとった「商品提供」なのである.

なにに特化するのか?

「旅」の醍醐味は,ずいぶん前から「非日常」だといわれてきた.「日常」とはちがう時間をすごすことでの,「リフレッシュ効果」を買うのだ.「旅人」になるひとの購入目的が,「リフレッシュ効果」であるから,提供側はその目的を達成させてあげなければならない.ところが,「リフレッシュ」したと感じる「感じ方」がひとそれぞれだから,ある一定のパターン(定型)の提供だけでは不満におもうかもしれない.それで,あれこれかんがえるわけである.結果的に,この努力がアダとなっている観光地や旅館がおおい.要するに,自らの魅力を「一本柱」として打ち立てずに,あれもこれもと足し算するから,訪れた旅人は特徴がわからなくなって消化不良をおこすのだ.この「一本柱」こそが,「事業コンセプト」である.その地域の魅力はなにか?その地域の中にある自家の魅力はなにか?その自家の中にあるそれぞれの魅力はなにか?というように,入れ子人形のような構造をしている.この一つ一つの階層が哲学として,系統立ててつながっていることで,はじめて訪問する旅人の感覚に波状攻撃をかけることができる.裏返していえば,周辺と横並びの観光地,横並びの旅館,横並びのサービスや料理という漫然とした状態が,いかに旅人を落胆させてしまうか,ということだ.国内がつまらない,それならいっそ,格安ツアーで海外に出かけた方がよほどに「非日常」が購入できる.しかも,安価で.だから,国内観光地とそれに付随する旅館などの各施設は,外国との顧客獲得競争をしているのだ.

「美味しい料理」だけでは選択基準にはならない,ということだ.

中国の古典をつなぐと「ブランド」理論になる

利によって行えば怨み多し。(論語、里仁)
義は利の本なり。(春秋左氏伝、昭公)
利は義の和なり。(易経、文言伝)
利益だけを追求して行動すれば他人からうらまれる.
義理をはたせば利益のもととなる.
すなわち,利益とは義理の積み重なりでできるものだ.

個人でも法人でも

この「義理」を,「約束した価値」にするとわかりやすくなる.顧客になんとなく接するのと,自分たちは何ものかを定義して,何をお客様に販売し,そのことはどんな価値なのか?を決めてから商売するのとではまったくちがうことになる.

もちろん,最初はおなじ「開業」というスタート・ラインからはじまる.しかし,はじめてのお客様が何度か購入経験を積むうちに,だんだんと「差」がうまれるだろう.お客様がお金を支払っているのに,ここは気に入った,という感情がほのかに生まれ,それがだんだんと積み重なっていくと,ここしかない,というほどのファンになる.これが,ブランド形成のプロセスだから,そのプロセスを確実に,しかも早くゴールに導くには,仕掛けがいる.その仕掛けこそが,自社における「義」すなわち「お客様に果たすべき『約束した価値』」にほかならない.

経営理念の役割

本来,『約束した価値』を文字や文章で規定したものが「経営理念」になるのだが,おおくの企業で「経営理念」がただの「理念」や「お題目」あるいは「先代の作文」になってしまっているのが残念だ.経営理念は,一度決めたらめったに変更できない,というのは,ちゃんと練られた『約束した価値』を見つけ出せたことを前提としているから,そうでなければ書換はいとわないしなるべく早く変更したほうがいい.とくに業績が思うようにならない企業の場合は,たいがい『約束した価値』があいまいだから「経営理念」が従業員だけでなく経営者にも希薄である.また,業容が拡大したり,多角化をすすめた場合,もとの経営理念とあわなくなってしまうことがある.この場合も,すみやかに書換を要するだろう.

経営理念→経営ビジョン→中長期経営計画→短期経営計画(予算),というように,一直線でつながっている.矢印を逆向きにしたら,日常業務の積み重ねが経営理念の追求になると理解できるだろう.

つまり,経営理念は,日常行動を規定する哲学,という役目がある.

ひとが動くからニンベンがついて「働く」になる

経営理念を軽視する経営者は,人間を理解していない.最近のパワハラ事件の数々を,他人事としてはいけないのは,これら事件の当事者たちの未成熟さをみればわかるだろう.部下は「命令」して動かすモノだ,と発想しているのである.確かに,一見すれば,部下は命令で「動く」のだが,おおくの場合,その部下は割り切って行動しているだけだろう.マネジメントの名手は,命令ではなく「使命」をあたえるから,部下は「働く」のだ.この「使命」の根幹をなすのが「経営理念」であり,それが『(お客様に)約束した価値』である.

マンサー・オルソンという学者に「集合行為論」という著述がある.このなかで,6人程度で議論するのがもっとも効率がよい,とある.小学校のクラスにある「班」がこれを証明している.すると,10人も集まるとバラバラになってくるのだ.これを一人の経営者が,それぞれに命令していたのでは,仕事にならないだろう.従業員数がもっと増えれば,経営者の目が届かなくなるのは誰にでも想像できる.だから,経営者は従業員それぞれに「使命」をあたえるしかなくなるのだ.ところが,経営理念をないがしろにしていると,この「使命」自体がバラバラになる.そうした組織の効率は,当然に低くなるから,業績もかんばしくないのだ.

とくに,ひとをたくさん雇用しなければならない,人的サービス業(飲食業,宿泊業)では注意したいことだ.