BBCの李登輝独占インタビュー

日本の公共放送が意識しているのは、とうぜん英国のBBCだとおもうが、そのレベルのちがいがネットの普及でわかりやすくなった。

2014年だからもう5年もまえになるが、BBCが李登輝元台湾総統に独占インタビューしている映像が、なんだか突然ヒットした。
中国語でのインタビューだが日本語字幕もついているから、なにをはなしているのかはちゃんとわかる。

「哲人政治家」といわれ尊敬をあつめるのは、プラトン以来の憧れである。
アジアでこれに匹敵するのは、インドのガンジーとシンガポールのリー・クワンユーというひともいるけれど、生存している、という条件をあえてつければ李登輝をおいておもいつかない。

1999年(平成11年)のベストセラーになった『台湾の主張』は、司馬遼太郎の『街道を行く40 台湾紀行』にある「台湾に生まれた悲哀」を受けてかかれた「返歌」のような意味もあったかにおもう。

 

もちろん、内容的に文句はないが、わたしに衝撃的だったのは、むしろその後に出版された『武士道解題』のほうである。
21歳まで日本人だった岩里政男が、李登輝と名乗らなければならなくなった「悲哀」が、おもいきり「昇華」しているからである。

ほんらい、台湾の国民党独裁を総統直接選挙にまで変えた、自由と民主主義のひととしてもっと日本の放送局が積極的に取りあげるべき人物が、一方の大国に気をつかって無視する態度にてっすることこそ、武士道にも人道にも反している。

『台湾の主張』には、自己の体験から、学徒出陣で軍隊にはいって、敗戦して故郷の台湾に帰ったら、日本語をつかってはいけないと命令されたので、じつは中国語がたいへん不得意なのだという告白がある。

岩里政男青年はたいへん優秀であったのだが、地元台北帝国大学には入校できず京都帝国大学に入学している。
それで、学徒出陣になって大阪師団に入隊し、陸軍少尉で終戦となった。

いまの大学とちがって、旧制大学のレベルの高さはくらべようもないから、岩里政男青年がいう、むずかしいことはいまでも日本語でかんがえる、というのはうそではあるまい。

冒頭のBBCのインタビューでも、ときどきことばに詰まると英語がでてくるが、よくきいていると、あんがい日本語が中国語のなかにちらついている。

岩里政男=李登輝は、日本がうんだ哲人政治家なのである。

だから、沖縄・台湾県になって、県庁所在地は那覇のままでもいいと言い放つのは、国際政治の微妙なニュアンスとは関係なしに、岩里政男という人間にたちもどれば「当然」のことなのだろう。
あえてニュアンスを解釈すれば、沖縄・台湾県では大きすぎるから、台湾道として道庁所在地が台北を希望しているのだともとれる。

じっさい、台湾の帰属問題は、マッカーサーが曖昧な処置をしたから、ほんとうは国際法的にきまっていない。
台湾を中華民国という国が実効支配している、という状態なのだ。
だから、彼の頭の中は、台湾と中華民国は同一ではない。

むしろ、中華民国という膜のような存在をとっぱらって「台湾だけ」になってすっきりしたい。
だから、大陸がいう一つの中国なんてうけいれられるわけがない、と。

尖閣の領土問題も、日本領だといいきるのは、こんどは李登輝になって、台湾政府の役人だった経験から、漁業問題はあったが領土問題は一切なかった証言している。
沖縄の漁師が尖閣でとった魚を那覇よりもちかい台湾の基隆にもちこんで、そこに漁業基地もあったということだ。

いまどきの日本人は、台湾が日本領だといえば、おどろくほどになってしまったが、台湾は中国領だという根拠より、よほど強固な理由がある。

南太平洋を支配する「南洋庁」が設置されていたパラオでは、日本の委任統治からアメリカの信託統治にきりかわっている。
日本が委任されたのは「国際連盟」からで、連盟脱退後も「委任」されている。
アメリカが信託されたのは「国際連合」からである。

そのパラオが独立したとき、最初の国政選挙もおこなわれ、最初の国会で「日本になりたい」が全会一致で決議され、直接選挙でえらばれた大統領がこれに署名した。
日本国政府はこの決議にたいして、東アジアの国々に「領土的野心はありません」といいたいがために、これを拒否している。

パラオの民主主義を無視する、日本国とはなにものか?

李登輝からみれば、なんの反省もしていない薄っぺらな日本が透けてみえたことだろう。
戦前の日本なら、国を挙げて悩んだはずである。
現代の日本がそこまで気をつかう国が、台湾の独立を脅かす独裁国家だし、このニュースを覚えている国民すら皆無だ。

そして、その独裁国家にかしずくのが、わが公共放送をはじめとするマスコミであるから、はなしにならない。
世界を支配した英国がすばらしいとはいわないが、独立自尊の精神すらうしなえば、だれからの尊敬もえられない。

李登輝の長命は、日本人がよろこぶべきことである。

「教科書」が読めないおとなたち

ふとしたことでよくわからなかったことに合点がいくことがある。

たとえば、たまたまではあろうが、このところ、自動車の乗降において、子どもを「右側ドア」からおろしたり、乗せたりする光景をつづけて目撃した。

あぶない!
のは、当事者の子どもだけでなく、当方もおなじで、もしこの子たちがそのまま道路にでればこちらと接触してしまうかもしれない。

さいきんはスライド式ドアというものがふえたから、いきなりドアが開いて後続車の進行をさまたげることはないが、右側(道路側)ドアがスライドして開くさまは、うしろからは見えにくいから、子どもが注意深く半身を出すことでドアが開いていることを確認できる。

おそらく運転している親とおもわれるおとなは、「後ろからの車に注意しなさい」といっているのだろうが、ドキッとさせられる当方には、はなはだ迷惑な運転手である。
もちろん、こちらに注意をうながすすべはとっさにはクラクションしかない。

これを、安全管理上、「ヒヤリ」と「ハット」という。
おおくの「事故」は、事前に「ヒヤリ」と「ハット」の経験があるから、安全会議という定例会で企業は、そうした「ヒヤリ」と「ハット」の発生事例と対策をかんがえ、事故防止をはかるのである。

ワンボックスカーでも、一部車種には右側にスライドドアがないものがある。
あるのは、運転席のドアだけだから、後部座席のにんげんは左側(歩道側)からしか乗降できないので、安全対策としては万全だ。

それにしても、右側からじぶんの子どもを乗降させるという危険行為をする親とは何者なのか?とおもわずにはいられない。
もちろん、駅の貧弱なロータリーでは、いうなれば追い越し車線に停車して、そこで左側のドアで乗降させるひともいるから、うっかりできない。

自転車通学をゆるしている学校での安全教育はどうなっているのか?
地方にいくと学校指定のヘルメットをかぶっている中学生をみかけるが、高校生になるとヘルメットの着用どころか両耳ヘッドホンをつけているから、およそ安全という視点では「退化」している。

両耳ヘッドホンを着用した女子高生の自転車が老婆と衝突して、はずみで頭をつよく打った老婆がなくなる事故があった。
民事裁判で、この女子高生に1億円の損害賠償責任が確定したから、十代のわかさで1億円の負債をかかえこんだのは、一生の不覚ではすませられない。

だから、よほど全国の学校もこの事故の教訓をもって、注意喚起と安全教育をしているのかと思いきや、そんな様子はぜんぜんみられない。
「リアリティの欠如」なのかなんなのか?
日常的に両耳ヘッドホンの自転車学生を目撃している。

それでかしらないが、自転車に賠償保険をつけることが義務化された。
保険があるから「安心」なのではなく、安全をはかることが先なのだ。

2019年ビジネス書大賞受賞ほか山本七平賞、石橋湛山賞、大川出版賞、日本エッセイスト・クラブ賞と賞だらけ『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』新井紀子(東洋経済新報社、2018年)を読んで、はたと気がついた。

教科書が読めないのは、子どもたちだけでなく、その親もあたるのではないか?
いやいや、わたしだってそうかもしれないと、じぶんのことをかんがえた。

著者によれば、こころある教師たちも、著者が中心になってつくった「確認テスト」を受けているという。
すると、あろうことか、教師だって教科書を読めていないことがわかってきたのだ。

この事実に愕然とした教師たちが、どうしたら教科書を理解できるようにおしえることができるのか?という課題にとりくみはじめて、そんな教師がいる学校では、めざましい成果がでてきているという。

これは重大な情報である。
昨年、「孟母の絶滅?」という記事をかいた。
もし、まだ「孟母」が生存しているなら、このような教師がいる学校に一日でもはやく転校させるべきだ。
このような学校が人気校になることで,教師たちの努力が「まっとうに」評価される.

「教科書が読めない」ということは、「読解力がない」ということだ。
これは、日本語がわからない、ということにひとしいから、将来、どんなことをしてもうまくいかないという「未来図」が、その子どもに貼りつけられたも同然だ。

つまり、約束された貧困がまっている。

親の資産があるうちはいいが、そうでなければかなりの確率で不幸になる。

しかし、これは生活経済の事情のことばかりではない。
「読解力がない」ということは、事前の予測もできないからである。
事前の予測ができるとは、論理構成がはかれる、ということだ。
このように「読解力がない」という一言には、あらゆる面での基本的な能力がない絶望的な意味がある。

わが国は、読解力がない人間の国になっているとかんがえると、説明がつくことがおおそうだ。

だから、公道上で右側のドアをつかうとどうなるかがわからない。
そんな親の子に生まれたら、どこで命を落とすかもわからないのだ。

それにしても、どうしてこんなに「読解力がない」事態になったのか?
たんに教育の荒廃ではすまされないおおきな問題がありはしないか?

わたしは、現代の栄養失調「ミネラル不足」をうたがっているがいかが?

ただのピエロだった

今月、選挙後の札幌市議会での議長選出をめぐる「混乱」についてかいた。

事前の会派間の談合で、新議長候補を決めておきながら、「選出」にあたっては「無記名投票」をする慣習に異議をとなえた長老議員が、臨時議長として「立候補制」を突然いいだして持論を曲げなかったのが「混乱」の原因だった。

これを「議会改革」というひとがいないことを不思議だとかいたのだが、とうとう張本人が27日の議会で「土下座」して「詫びた」というから、これはこれで尋常ではない。

この行動は、当日、懲罰委員会の設置が議論されることになっていたからだという。そして、「懲罰」には、議員の身分をうしなう「除名」まであるから、これを回避するためのパフォーマンスではないかとのみかたもあるという。

そして、例によってこの議員を擁護する報道機関の論調はなく、「市民もあきれる」といって本人を責め立てている。
わたしはいま、横浜市民のひとりだから、札幌市には関係ないが、まことに「残念」なはなしである。

今回の土下座と議会双方が「残念」なのだ。
どうして「土下座」したのか?
ことの発端の、「議長選出方法」についての議論を深める努力がみえてこないことがいちばんの「残念」で、議会の外の市民に向けた説明もあったのかなかったのか?がわからない。

「土下座」によって、単なる「思いつき」になってしまったことも「残念」だ。
すなわち、この議員の行動を「非難する側」にみずから与してしまった。
これでは、議会改革の蟻の一穴ではなく、ただのピエロであると告白したも同然だ。

いっぽう、議会の側の「勝利」とはなにか?
楽ができる慣例を「守った」(保守した)ということだけで済んだということではない。

むしろ、「外れ値」のように跳ね上がった存在は、懲罰委員会にて「懲罰」してくれる、という権力むきだしの牙を市民にみせびらかした。
これに、マスコミも同調して、「除名」をちらつかせるのは、脅迫ではないか?

選挙で選ばれた、という身分だから議員資格はおもいのだ。
それを、慣例を破ろうとした、ということで、どんな「懲罰」がありうるのか?
対象の議員は、慣例を破ろうとした、のであって、破ってはいない。
混乱のあげく、臨時議長を解任されたから、本人の主張である「立候補制」はできなかったのである。

つまり、ことの経緯をトレースすれば、多数の慣例を維持したい派は、臨時議長解任すら当初できなかったのであって、すなわち、9時間も議会ジャックされたのは、会議のすすめ方をしらないひとたちが多数の「議員」であるという意味にもとれる。

もしかして、このような議事進行の事例がないから、議会事務局=政令指定都市である札幌市役所が、総務省の担当官に相談の電話をいれて、どうしたらいいかを検討して、その回答をえることにようした往復時間ではないか?

これが、札幌市議会の慣習を守ったということだとすれば、呆れるほどの堕落した議会である。
だから、市民が「あきれる」というのは、どちらのことなのかという「主語」を省略してはならない。

さて、これで構図がみえてきた。
つまり、議会のやくわりが形骸化している、という姿で、巨大化した行政による支配が確立しているのである。

だから、なんど選挙をおこなおうが、だれが議員に当選しようが、行政の大勢に影響はない。
もちろん、だれが市長になろうが、でもある。

フィリピンでは、ドゥテルテ大統領の長男が国会議長に「立候補」したら、父である大統領が辞任するといって話題になっている。

つまるところ、この国の地方自治体すら、民主主義ということにはなっていない。
中国人の党幹部が憧れるのが日本である理由である。

しかし、これは「自分たちで決めたこと」への覚悟がないことを意味するから、だれか(役人)に決めてもらうことの居心地のよさでもある。
日本人の役人は、中国人のように乱暴・乱雑な命令はしない。
おなじ内容でも、もっとゆるやかにかつ緻密に実行するから、住民が気がつかない。

気がついたときには、もうすっかり実行されていて後戻りができないのである。
こうして、えんえんと行政が自分できめた施策をおこなうから、議会もなにもぜんぶが「決めたこと」というかたちがあればよい。

だから、わが国に「電子政府」はこない。
行政のちょっとした手続きすら、電子化されたのは通信手段だけであって、「向こう側のひと」が、手作業で処理している。
つまり、テレビの中にホンモノの人間がいる状態なのだ。

なぜプログラム化されないのか?
「裁量」という部分が、計算式にできないからである。

なんのことはない、議会も住民も、役人からすればみんな「ピエロ」にすぎないのだ。

副業の残業代はだれが支払うのか?

企業が「稼ぐ自信」をうしなって、とうとう「副業」をゆるすようなことがトレンドになってきている。
従業員が満足できる賃金をはらえないから、どこか別の職場で稼いでもいいよ、という「軽さ」が気になる。

「賃金」というものは、なにか?
たんてきに、「労働の対価」である。
だから、「労働」の価値と「対価」というおカネが、どうなっているのか?ということが出発点になる。

ろくに仕事をこなしていないのに、たくさんの対価をはらうことはできない。
いっぽうで、ちゃんとした仕事をしているのに、これっぽっちしかもらえないのではこまる。

けっきょく、このふたつを結ぶのは、あたりまえだが「仕事」なのである。
つまり、その「仕事」が価値をつくっているのか?いないのか?という問題だ。

物理では、なにかの物体にはたらきかけて、それでなにかがおきることを「仕事」というから、「仕事」があたらしい価値をつくったかどうかは問わない。
しかし、ふつうの企業でそんな「仕事」を「仕事」といったら、お客さんからおカネがもらえないから「ムダ」になる。

つまり、企業内の「仕事」は、お客さんからおカネがもらえるものを指す。

経営者と従業員が、以上のことで同意がとれていればいいが、どこまでがおカネになる「仕事」で、どこまでが「ムダ」なのかがわからなくなっていることがある。

それが、時間経過のなかで「むかしからやっている」だけが理由になると、ほとんど「ムダ」の部類になる。
それで、たまには「仕事の棚卸し」ということをやって、自己チェックしないと、わかるものもわからない。

従業員はいそがしく働いているのに、会社がぜんぜん儲からないのは、およそこの「ムダ」が「仕事」になっているからである。

ならば、どうやって「棚卸し」をするのかといえば、白紙から業務を設計し直しのがいちばんわかりやすい。
けれども、手間がかかる。
それで、この手間をはぶいて「棚卸し」するから、たちまちなにが「仕事」でなにが「ムダ」かがわからなくなる。

従業員は、いつものやり方を変えたくないから、ぜんぶ「必要」な「仕事」だとこたえるから、現場にいっても解答がみつからない。
こうして、いつまでたっても「ムダ」に経費をかけて、儲からない。

それで、どこか別の職場をみつけて、そちらでも働いてよいということになれば、従業員はおカネを効率よくもらえるのがどちらかすぐに気がつくから、元の会社で残業せずに、あらたな稼ぎ先に急いでいきたがるだろう。

だから、元の会社では残業代がへって、よかったになるのだが、ほんとうにそれで儲かるようになったとはいえない。
ほんらい今日やるべき「仕事」が明日に後回しされれば、納品期限が間に合わないから、「ムダ」だけが自動的に削減されるということでもない。

このはなしの行き違いは、あたらしい稼ぎ先でも発生する。
元の会社ではたらいた時間が、もしもフルタイムなら、副業先のあたらしい稼ぎ先では、「残業代」がストレートに発生しなければならない。

けれども、副業先をさがすのに、自分はフルタイムではたらいた後だから、こちらでの仕事には残業代をつけてください、というはずがない。
それに、採用する会社だって、出勤前にどこかで働いていますか?ときくことはないから、けっきょくこのはなしはどこにもでない。

それでそのままならいいけれど、なにかのことで「労災事故」でも発生すれば、たちまちに本人の「働きかた」が調べられることになって、いきなり表沙汰になるのである。

役所というところの特性で、鬼の首を取ったようなことになるのは当然で、これに残業代も請求できるという知恵があたえられれば、たちまちどちらの会社に請求すべきなのかが議論になる。
当然、役所はどちらでもいいから払えというだけだ。

さて、本人はどうしたらいいものか?
元の会社も、副業先も、どうしたものかとなって困り果てるのである。

このはなしの原因はなにかといえば、やっぱり「36協定」がないことにある。
「働く」ということについての、「働く側の無知」と「働かせる側の無知」との掛け算になる。

学校をでた若者が、「働く側」として労働力を提供するあたっての、「働く側の無知」を解消してくれるセミナーがない。
そして、「働かせる側」すら、経営者にそれがどういうことかをつたえるセミナーがない。

あるのは、役所という変な存在だけがみえてくる。
ほんとうに、このひとたちはなにをやっているのか?
こうした教育をすべきだが、法律にないからできないのだ、といえばまだしも、このときとばかり受身の「行政官」に徹するからたちがわるい。

こうして、副業の残業代は宙に浮いて、とうとう宇宙をさまようのである。

共産党宣言を実行する安倍内閣

「いまさらですがソ連邦」という本について書いたから、いまさらだけど『共産党宣言』を読んでみて、どこかでみた項目が載っていたからおどろいた。

どのくらいの日本人が、マルクスとエンゲルスの『共産党宣言』を読み込んでいるのかはしらないが、でた当時は「発禁」だったから、さぞやおおくの知的エリートたちがこぞってないしょで読みふけったことだろう。

もちろん、崩壊したソ連・東欧という事実の歴史をしっているし、中国も共産党の政治支配はあるが、改革解放という名目で資本主義経済を採り入れてしまったから、この地上に純粋のマルクス主義の国家なんて存在しないとほとんどのひとが信じている。

あにはからんや、わが日本国という「成功した」共産主義国がある。

いまさら感をたっぷりもって『共産党宣言』を読むのは、あるいみ知的好奇心をみたしてはくれるが、くれぐれも、この本の内容は「空想」にすぎない、ということをわすれてはならない。
いってみれば、『不思議の国のアリス』を読んで、それが現実だとかんがえたら「あぶない」ということとおなじだからだ。

 

そういういみでいえば、むかしのひとたちの想像力は旺盛であった。
『共産党宣言』が現実だと信じるまじめさは、その後の独裁政権による数千万人がこうむる悲惨の原因となるからである。

それは、やり方がまずかったのだ、という理由をあげて、共産主義はまちがっていない、と主張するひとたちもいる。
これを論破したのが、ハンナ・アーレントのしごとで『全体主義の起源』という大部冊がある。

あんまりの大部冊だから、NHKの番組をみなくても上記のテキストであんがいちゃんと説明してくれているのは、ありがたいことだ。
もちろん、知的好奇心旺盛なひとは、原典を読破されんことを。

さて、それで、『共産党宣言』にどんなことが載っていておどろいたのかにはなしをすすめる。
それは、「第二章 プロレタリアと共産主義者」に、共産党の政策を「10項目」挙げているのだ。

1.土地所有権の剥奪、および地代を国家の経費にあてること
2.強度の累進所得税
3.相続権の廃止
4.すべての移出民および反逆者の財産の没収
5.国家の資本をもって全然独占的なる国立銀行をつくり、信用機関を国家の手に集中すること
6.交通および運輸機関を国家の手に集中すること
7.国有工場の増大、国有生産機関の増大、共同的設計による土地の開墾および改善
8.すべてのひとに対して平等の労働義務を課すこと。産業軍隊を編成すること(ことに農業に対して)
9.農業と工業との経営を結合すること。都会と地方との区別を漸漸廃すること
10.すべての児童の公共無料教育。現今の形式における児童の工場労働の廃止。工業生産と教育との結合等。

かくて、発達の進行につれ、階級的差別が消滅し、すべての生産が、総個人の協力(全国民の大組合)の手に集中されるならば、そのとき公的権力はその政治的性質を失う。

とある。(青空文庫版:堺利彦・幸徳秋水訳、より)
訳がふるいのはしかたがない。

1は空き家対策として、あるいはオリンピック選手村、2はすでにおこなわれているし、4は「出国税」として海外移住するひとたちへのたくらみが進んでいる。

5は、平成バブル崩壊後に政府から日銀を独立させる日銀法ができたのに、安倍内閣はこれを「正す」(政府配下にもどす)と脅して、白川氏から総裁の座をうばった経緯があるし、金融庁が全国の金融機関を支配している。

6は、国鉄の民営化をもってあたらない、というわけにはいかない。
国土交通省という役所が、金融庁とおなじやり方ですべて(陸・海・空)の交通機関を支配している。

7は、産業革新機能がやらかした失敗に象徴されるが、金融庁や国交省と同様に、経産省がわが国の「産業」を支配している。

9は、日本版コルホーズの農協と、国土総合開発計画があたる。震災以後は「国土強靱化計画」に看板をすげかえている。

10は、いま、まさに推進されようとしている。児童手当の露骨な変容で、授業料がただになれば、学校に文句をいいにくくなるし、教育委員会という無能官僚集団をより強化することがほんとうのねらいだ。

そして、「かくて」以下の文章の非論理性は、まったくお話にならない。

いかがであろうか?
歴代自民党政権も、細川政権も、民主党政権も、共産党宣言の政策をまじめに実行してきたのだ。
つまり、わが国は、みごとに共産主義国家になろうと努力してきた。

なるほど共産党のかげがうすくなったのも、政権党がこぞって共産党のあるべき政策を追求しているからにほかならない。

そして、この「事実」が、わが国衰退の原因なのである。

政府予算に無駄遣いはない

与野党ともに、政府予算の無駄遣いをただす、というアナウンスをして、ただすことができたためしがないのは、「政府予算に無駄遣いはない」からである。

たとえば、民主党政権のときは、「特別会計」が「埋蔵金」だといって、これを掘りだすまえに高速道路の1000円均一をやったら、財源がなくなって途中でやめたし、鳴り物入りの「子ども手当」も腰砕けになった。

そのわりに、与野党ともに、じぶんたちが与党のときも野党のときも、国会の予算委員会で予算案のことを審議せずに、スキャンダルの応酬に興じるのは、おそらく政府予算案を読み込んで質問する能力がないからだろうし、一般会計予算「だけ」が国会審議の対象という都合のよいルールがいつのまにかできているので「特別会計」を議論できない。

それで「予算審議」したことになって、衆議院から参議院におくられて、受けた参議院でもおんなじスキャンダルに興じてしまって、けっきょく原案どおりの予算が成立することになっている。

なのに、政治家や評論家が、「政府のムダを削減せよ」というのは、いったいなんのことなのか?
そんなことだから、ムダなのは国会議員のほうだ、になって、定数削減のはなしになるから、行政官僚の笑いはとまらない。

まじめだがトンチンカンな議員や、あたかもちゃんと取材をしているようにみせたいマスコミは、予算の無駄遣いをあろうことか役人に質問する。
証拠もないのに警察が泥棒に、おまえがやったろ?ときいたって、いまどき「おそれいりました」なんてにんげんはどこにもいない。

それを、トンチンカンでない議員が切り込んだら、殺人事件が発生した。
民主党の故石井紘基議員こそ、日本人がわすれてはならない戦後最大の国会議員らしい国会議員だった。
著作は何冊もあるけれど、せめてこの一冊ぐらいは読んで損はない。

どうしてこんな骨のある人物が「民主党」に所属していたのかが不思議で、ほんらいならアメリカ共和党のような政党を組織できたかもしれないとおもうから、「暗殺」されたことの損失は本人と遺族どころか、国民全体に痛い。

わかいころ、社会党労農派の江田三郎が安保闘争で唯一デモ隊と対話した気概に惚れこみ、そのご秘書として世話になったあげく、モスクワ大学政治学科に留学している。

まさに、江田への情緒が恩義として社会党・民主党という泥船に本人をいさせた理由だろう。
それはそれとしての論理が情緒にまけたのだ。
しかし、これは国民の敗北でもあるから、故人には申し訳ないが恨み節をいっておきたい。

なぜかといえば、モスクワ大学での留学経験をもって、彼のなかの理想としての社会主義は崩壊し、ソ連型社会主義をそっくり追求するわが国への危機感がふくらむからである。
そのまっしぐらな追求をしていたのが、盤石な自民党政権であったから、夢にも自民党への移籍という選択は、論理としてなかったにちがいない。

この苦悩は、なかなか常識人の他人には理解されないものだったとおもう。
自民党は「保守」だという、情緒でのきめつけが常識だったし、その自民党にアンチをつきつけるのも、社会党・民主党しかなかったからだ。

つまり、石井紘基というひとは、ソ連で自由主義に目覚めたのだが、この日本という国にヨーロッパ感覚の自由主義をめざす政党がなかった。
なるほど、極東という「辺境」に住んでいるのがわれわれ日本人なのである。

自宅駐車場で刺されたのが2002年だった。
いまだに、この国はそのままのすがたで、衰退している。

そんなわけで、役人という予算をつかう当事者からすれば、ぜんぶ「必要」だから予算請求しているのであって、そこにムダなんて存在しない。
どれもこれも、国民生活に必要なことばかりなのである、という論理がつづいているのである。

しかし、語るに落ちたとはこのことで、国民生活に国家や自治体が介入してはいけない、というのが自由主義だから、国民生活に必要だという国家予算ほどいかがわしいものはない。
むしろ、国民生活に直接関係のないことのほうが、ほんらいの国家がやるべきしごとなのだ。

すると、いまどきは外交と国防と警察ぐらいのものになる。
このなかの警察だって、あんまり生活に密着してくると、息苦しいことになるから、つかず離れずがちょうどいい。

すると、なんていうことはない、ほとんどの役所が無用になる。
しかし、公務員は身分が確定されているから、クビにできないことになっている。

公務員制度改革の本命は、省庁廃止によって公務員を解雇できるようにすることである。
すくなくても、これで頭数だけは民間の人手不足が解消する。
ただし、各役所からでてくる元公務員たちが、労働力として上質かといえばかなりあやしい。

職業人としての教育訓練が、あらためてひつようになって、それが日本経済を強化するから、やっぱりわるいことはなにもない。

論理より情緒を優先させるエリートたち

これは、日本語という言語のせいなのか?とさいきんとみにかんがえるようになった。

日本語の美しさとは、情緒にある。
そのおそろしくも繊細な表現は、他の外国語にはみられない。
まさに、「もののあわれ」という感覚こそ、日本人の日本人たるゆえんだろう、と。

平安王朝文学が発祥とはいうものの、いまにいたるまでの日本人の行動様式までも規定している基盤の感情・情緒となると、はるか以前からこの島国に住んでいたひとたちの、独特な感情・情緒が、たまたま平安王朝で花開いたというべきなのだろう。

こうした感情・情緒の基盤に、外国からやってきた儒教という「学問」が、強化剤になって、盤石の精神安定をつくりだす。
それが、「武士道」なのだろう。

儒教の発祥地では、とうぜんいまでも「宗教」という位置づけだから、信じるという感情・情緒そのままにストレートである。
しかし、これが日本的変容となるのは、もとの「もののあわれ」と結合した化学反応となるからで、儒教を宗教ではなく「学問」にしてしまう。

だから、論語は聖典ではなく、情緒や人生訓をまなぶ教科書になった。
学問をおさめたものが身分にかかわらず登用される、という裏に、幕府の人材枯渇という問題があった。
それで、「湯島聖堂」がたてられるが、「聖堂」という建前には、宗教っぽくしてじつは「学問」がホンネのネーミングだったとかんがえれば辻褄が合う。

ここに集められたエリートたちは、けっして「宗教家」をめざしたのではない。
むしろ、将来の幕閣としての教養をまなびにきていた。
だから、発展的に東京大学となって、さらに東京帝国大学になる。

さいしょにできた「東京大学」は、その後の「東京帝国大学」とも、とうぜんいまの「東京大学」ともちがう。
ぜんぶ略せば「東大」になるから、勘違いの原因となっている。

明治10年(1877年)から明治19年(1886年)までの東京大学こそ、わが国の選良=エリートがつのった大学であった。
なぜなら、わが国に唯一の大学であって、教授のおおくが外国人だったから、授業のほとんどが外国語で、つまり「洋学」=「論理」教育がおこなわれていたのだ。

このときの卒業生たちが、その後の「帝国大学」で教授職となるから、たった9年間ではあるが、マザーマシンのような存在だったのだ。

帝国大学ができても、「東京大学」をそのままにすればよかったが、政府はそれをせずに「東京帝国大学」にしてしまい、東京大学でまなんだ学生を、「自前」の教授にした。
こうして、お雇い外国人教授の需要がへっていく。

政府が帝国大学をつくったのは、明治政府の高級官僚を武士階級からだけの採用では足らなくなったからである。
西南戦争は、明治10年だったという時代背景をかんがえればいいだろう。

つまり、帝国大学設置のころの明治政府は、政府行政機構が膨張する時期でもあるのだ。

江戸から明治になったから、突然個人の生活が激変なぞしない。
ましてや、郵便制度も電信もない時代だ。
突然世の中が変わるのだと信じた、山奥の情弱だが生真面目な人物が発狂にいたる物語が、島崎藤村が実父を描いた『夜明け前』であった。

   

しかし、「情弱」のいみがいまとはちがう。
木曽の山奥だから「情弱」なのは、通信手段がなければしかたがない。
それよりも、発狂するほど平田篤胤の国学という学問知識に傾倒していたのが主人公である。

すなわち、情緒に傾倒したから、現実とのギャップに押しつぶされた。
では、現実に論理はあったのか?
それもない。

江戸時代の教育の基本は、儒学(朱子学)と国学を柱とし、幕末になって儒学(陽明学)が一大ブームになる。
だから、それなりの上流階級(庄屋や大商家をふくむ)では、子弟教育の基本「漢籍素読」や「国学」が急激に変化したのではない。

それゆえ、明治42年(1909年)生まれの中島敦にも、漢籍の素養が残ったのだろう。

しかして、戦後、新制学制による民主教育では、「漢籍素読」の復活どころか、よりやさしい現代文による「情緒」の教育がじっしされて、「論理」がないがしろにされたのは、占領政策の目的から当然のことである。

こうして、学問として「論理しかない」理系はまだしも、文系における論理は「法理」だけになったから、西洋人の言語の論理に対抗できない低レベルの「論理」をもって支配できるのがこの国の特徴になった。

官民あげての文系人間が原因の不祥事は、論理の欠如ではなくて「ゆがみ」とか「勘違い」という、子どもじみた幼稚さにこそあるのは、情緒優先がそうさせているのである。

そんな文系人間が、官庁や企業の理系人間を「予算配分」という支配下におさめている。
こうして、論理こそが近代自然科学の骨格なのに、それを情緒で支配するから、現実においつかない。

30年前、アメリカを一瞬でも抜き去ることができたのは、「論理」のかけらがあった世代のおかげであった。
中国に抜き去られたのは、彼らの論理にわれらの情緒が対抗できなかったからである。

それでも懲りずに、情緒の支配はつづく。

トランプのアメリカをみならえ

25日から令和初の国賓でやってくるのが、アメリカ合衆国大統領でよかった。
しかし、ちゃっかり中国のえらいひとにも声かけしていて、これを「バランス」というなら、かなりおめでたい頭脳だろう。

ふるいタイプの自民党のえらいひとたちが、いまさらむかしの成功体験をおもいだしているらしい。
もちろん、共産党が支配する中国がだいすきな野党のひとたちも文句をいうはなしではない。

米中の「経済戦争」は、とっくに「新・冷戦」になっているし、アメリカ側の意気込みは民主党の有力上院議員までがトランプ政権にエールを送るまでになっている。
そんな条件がととのったなかでの来日だから、「おまえどっちむいてんだ?」のひとことで、ゴルフどころではなくなるだろう。

ロシアとの関係がうんぬんされたトランプだったが、中国との関係がしっかりできていた「クリントン家」にとって、もはや民主党からも切り捨てられたのか?

そのアメリカ経済は、絶好調といっていいほどの歴史的な好調だから、民主党も文句をいえない。
ここが、いさぎよいところでもある。

トランプが就任以来やってきた政策は、オバマ政権がしたことのちゃぶ台がえしばかりであった。
しかし、それはあんがい単純で、以前書いたとおり大規模減税と規制緩和だけなのだ。

ただし、この「規制」には、オバマケアという社会福祉政策もある。
国家が社会福祉を充実させようとすることも、「規制」とかんがえる自主独立の精神こそ、ほんとうは健全なのだ。
「国民皆保険」は、国家が個人生活に介入する、いやらしい制度だから、健康増進法なるいかがわしい法律ができるのである。

だから、この真逆をいくのがわが国で、消費税増税と規制維持である。
アメリカで大規模減税ができるのは、議会に予算策定権限があって、財務省という役所には、執行権限しかないからである。
執行権限とは、つまり「支払」という事務のことである。

大統領がいいだした減税策を議会が了承すればとおるのだ。
それに、財務省には徴税権限もない。
連邦歳入庁という役所がべつにある。

日本でもこのしくみをいれるべきだという議論はあるものの、徴税権限も手放していない日本の財務省がこわくて、えらいひと=収入がたくさんあるひとたちが、政界・財界・学会をとおして声をあげないということがおきている。

アメリカのいうとおりにしたら、へんな憲法ができた。
どうせ日本の弱体化が目的だったからどうでもいいと、じつは本国からGHQに派遣されたひとたちのおおくがコミンテルンの関係者だったからだということがわかってきた。

ところが、戦後しばらくしてどうして連合国の味方にソ連がいるのだ?とやっと気がついて、やっぱり日本を育ててソ連の防波堤にさせようとしたが、いまさらできたばかりの憲法まで変えられなかった。
だから、このさいPL(製造物責任法)の精神で、トランプに「修正せよ」と命じられたほうがわかりやすい。

こんどは、本国の憲法によりちかくなれば、政府の大改造が可能になる。
けれど、それは「前例がない」から、勉強エリートの官僚たちにはできないので、やっぱりアメリカから指導員がやってきて、手取り足取りなおしてもらうのがいちばんいい。
ついでに英国からも呼んでくれば、ちゃんとした立憲君主国になれる。

それは、独立国のやることじゃない、といういっぱしの批判もあるだろうが、どこが「独立国」なのか?ちゃんと説明してもらいたいものだ。
立憲民主党のひとたちが立憲君主国をめざしているとはおもえないから、「立憲」のメッキもはげて国民にはわかりやすい。

さて、民主党までとりこんでアメリカを本気で怒らせた北京のえらいひとたちは、えらい間違いをしでかしたらしい。
それは、今月15日の日本経済新聞がすっぱ抜いた記事にある。
この中国の荒っぽいやりかたは、国内でなら通用するのだろうが、国家間で、しかも相手がアメリカなら、通用すると期待した方がおかしい。

ただし、相手が日本政府なら、ヘナヘナと通用するだろうという期待に、実績がついているから、じつにたちが悪いのは歴代の日本政府の方である。北京から逆恨みされそうだから、親中のひとたちは注意されたい。
そんな政府に誰がしたかといえば、われわれであるからイラつくのだ。

さて、なんであれこの「新・冷戦」は長丁場が予想される。
かつてのソ連を引きずりおろした成功体験がアメリカにはあるから、これをもっと高度に応用した戦法がつかわれるにちがいない。

前の冷戦は40年ほどかけて終結した。
こんどはいかほどか?
それには「終結」の定義があらかじめ必要になる。

・習政権が終了する
・共産党独裁が終了する
・国家の分割がはじまる

どれも一大事件だが、すくなくても「前例」からすれば、後の二つであろう。

こうなると、中国に対抗するベトナムをふくめた東南アジアで、いま親中の国にも影響するのは必至だから、「発展するアジアの時代」の中心がもっと西か東にうつる可能性がある。

日本がアジアの盟主でいられる条件が、中国の台頭ですっかりうしなわれたが、なんとふたたびの大チャンスの到来ともとれる。
すなわち、中国を蹴り落とすチャンスなのだが、おぞましいことに経団連は中国のいう一帯一路に協力したいというから、狂ってる。

だからこそ、はやめにトランプ大統領から「命令」されて、国家の大改造をしないと間に合わない。
「経団連は解散したらどうだ」とトランプが発言したら、爺さんたちはどんなかおをするのだろう?是非とも期待したい一言だ。

なるほど「命和」の「命」とは、そっちからのことだったか。

マグネシウムで洗濯する

洗剤を使わないのに洗濯できる、という製品は「洗剤」ではないのか?という野暮はやめて、じっさいにつかってみたら、すこぶるよい。

ちいさな洗濯ネットのなかみは、純度の高いマグネシウムの金属チップがゴロゴロはいっているだけだ。
つまり、ふつうの洗剤とおなじで、化学的によごれを落とす、という機能を買うことになる。

しかし、いわゆるふつうの洗剤とちがうのは、界面活性剤やその活性力をたかめるための酵素とかがはいっているのではなく、ほんとうに「マグネシウム」と水道「水」を化学反応させて、アルカリ性の「石けん水」にすることで、衣類のよごれを分解して落とすことにある。

その化学反応は以下の計算式となる。

Mg(マグネシウム)+2H2O(水)=
Mg(OH)2(水酸化マグネシウム)+H2(水素)

なにかと話題の水素が発生するから、水から水素が抜けるということで、アルカリ性になるわけだ。
水素イオンがたくさんあれば「酸性」、水素イオンと水酸化物イオン濃度がおなじなら「中性」、水酸化物イオンがたくさんあれば「アルカリ性」になることをおもいだそう。

ところが、マグネシウム自体も反応によって水酸化マグネシウムになるので、永遠にこの化学反応がつづくこともない。
使いつづけているうちに、マグネシウムが黒く変色するのは、表面が水酸化マグネシウムになったからで、さいごはチップ全体がそうなってボロボロになる。
ただし、水酸化マグネシウムにも毒性はなく、むしろ畑の肥料になるから、そのへんに棄てても問題はないだろう。

つかっている途中、それをもとにもどすには、酢酸などのよわい酸につけるとよいのは、酸化還元させるという意味だ。

だから、洗濯をくりかえすうちに効果がよわくなるのは、マグネシウムが水酸化マグネシウムになるからで、それを放置すれば、当然だが水道水がアルカリ化しなくなるので汚れの落ちもわるくなる。

どのくらいのアルカリ度ならいいのか?
おそらく「ph9」以上はほしい。
しかし、家庭にphを測定する器械なんて常備していないから、なかなかわからない。
それが、このての商品を「あやしい」と感じる根拠になるのだろう。

便利な世の中になって、デジタルph測定器もネット通販なら2,000円しないで手にはいる。
毎日の洗濯に洗剤をつかいたくないというひとには、こうした機器で洗濯機の水のph濃度を測ることができれば、より納得度があがるだろう。

ただし、じぶんの家の洗濯機の水がどのくらいの量のマグネシウムで、どのくらい撹拌すればもとめるph濃度になるかは、やっぱりためしてみないとわからない。

そういう意味で,ph表示がある洗濯機はできないものか?
もとめるph濃度に達してから規定時間の洗濯時間を運転してくれれば、これは便利、となるのだが、いそがしいひとにはがまんできないかもしれない。

さらに、「マグネシウムの酸化還元もできて、交換もかんたんな洗濯機」が開発されれば、消費者としてはうれしいものだが、洗剤メーカーに気をつかって製品化されないかもしれない。

もちろん、各家庭に直結されている水道水のphだって、地域によってちがうはずだから、ちゃんと測定すると必要なマグネシウムの量もちがってくるはずだ。

こうやってかんがえると、利用する消費者側にも、作り手のメーカ側にも、それぞれの事情があって、簡単ではないのが「マグネシウム洗濯機」ということになる。

もちろん、これに上水を提供する自治体の事情と、下水処理をする自治体の事情もからむから、かんがえだすとキリがない。
水道局の内部も、上水と下水ではたちばがことなる。

ほんとうは便利なはずなのが、なんだか面倒なことになるから、ふつうの洗剤をつかうほうが楽である。

これに、柔軟剤や芳香剤という需要もあるから、「洗濯」の自由を「選択」の自由として確保することは、あんがい困難なことだ。
だから、自由がいちばん合理的なのだともいえる。

上述した「マグネシウム洗濯機」が製品化されたとして、これをつかうひとたちは、専業主婦の奥様たちだという認識ができると、共働きで洗濯の時間を短縮したい家庭には、一種の「格差」すら感じさせることになるだろう。

すると、そんな「格差」を自慢したい国柄のひとたちにには売れるだろうから、輸出専用か、海外生産専用になるかもしれない。
それで、日本に逆輸入されるなら、もっと「格差」の象徴になるだろうから、ややこしい。

海外子会社につくらせるのが、現実的なのだろう。

いや、日本企業にそんな度胸すらもはやないとおもう。

消費税反対マンガ

さいきん「消費税反対マンガ」をネット上でみつけた。

『私立Z学園の憂鬱』というシリーズで、アテレコつきのバージョンとマンガバージョンがあって、一方はユーチューブ、もう一方はウェブサイトにある。

へたな評論家の解説よりわかりやすいのが特徴だが、わかりやすいからといって読者に媚びてはいない。
むしろ、各種資料の正確さと、もちろん論理の構造は、これまでにないクオリティではなかろうか?

作者は、拡散希望、としとしているから、本ブログの読者にもぜひ拡散されたい。

むかし、「マドンナ旋風」なる国政選挙に「風」がふいて、土井たか子社会党がさいごの輝きをみせたとき、たしかに「消費税反対」のワンイシューで、大量の議席を得たものだった。
「わるいものはわるい」という絶叫も、なんだか頼もしかったものだ。

しかし、国民は「どうして消費税がいけないの?」という問題を解いたわけではなく、むしろ、気分に乗っかったというのがただしく、この選挙のつぎの選挙では、「マドンナ」たちの姿はみごとに国会から消えてしまった。

『私立Z学園の憂鬱』では、主人公の女子高生が、「どうして消費税がいけないの?」に、さまざまな角度から回答している。
だからといって、ホンモノの女子高生がこの主人公のような回答ができるとはかぎらないが、ホンモノの国会議員だった「マドンナ」たちよりも、知識と度胸にすぐれていることはたしかだろう。

主人公と議論して、そして、みごとに論破されることが、ゲスト出演者たちのパターンになってはいるが、論破される側の自信に溢れた態度も、そのほとんどが「財務省」による洗脳と、つくられた社会的地位にあるのだわかると、痛快かつマンネリである。

とくに「ケイ団連会長」が出演する回では、消費税を大企業は払っていない、という微妙な表現がある。

消費税を負担しているのは消費者だから、大企業の商品やサービスを購入した消費者がしはらった消費税は、「預かり金」として「負債計上」されることになっている。
だから、消費税の納税期日まで、企業は「資金」として運用利用はできても、基本は耳をそろえて払わなければならない。

しかし、公共の施設での消費のばあい、消費者がしはらった消費税が、公共の事業者からいったん納税されるものの、「還付」として公共の事業者にもどってくる仕組みがある。

この公共の事業者がやっている事業が、民間の事業と変わりがないばあい、これをほんらいは「民業圧迫」という。
地方自治体のどちらさまも、一般消費者からおかねを受けとる収益「事業」もはじめているから、さいきんでは「民業圧迫」は死語になりつつあるのに、実態はあからさまにやっている。

また、作品中、輸出産業のばあいの消費税還付を指摘しているのは、事実であるが、だからといって還付をうける企業の直接的批判にはならない。
むしろ、消費税分の取引価格の値引き要請が問題なのだ。

この値引き要請ができる理由に、消費税を自社がはらっている「経費」の一部だという現場責任者の勘違いがある。
それで、「会社のために」消費税分を取引先企業に値引き要請するのだ。
消費税は消費者が負担する、ということを忘れた結果だが、根本に社内教育の不備が原因だといえる。

消費税の税収が法人税減税とバーターになっている。
これは、作品中の高校生にバカにされるほど単純な操作がおこなわれている。
作品の高校は超エリート校という設定だから、じつは先輩たちはなにをやっているのか?という不審につながる疑問だ。

本作よりはるかに「軽い」設定であったが、2008年に放映されたドラマ『パズル』も、超エリート校を舞台にしていた。
自分たちより頭のいい人間はいない、という高校生たちの「思い込み」が、トンチンカンをうむ物語だったが、本質はおなじである。

財務省という、この国に「自分たちより頭のいい人間はいない」というかんがえをする集団が、社会のすべての面でトンチンカンをうんでいる。
とにかく、トンチンカンたちが国家予算を査定してつけるのだから、各省各庁にもれなくトンチンカンがコピーされるのは、マンガよりわかりやすい。

さてそこで、問題である。
この『私立Z学園の憂鬱』における「消費税反対」の論に、あなたならどんな「反論」をするのだろうか?
あるいは、どんな「反論」ができるのだろうか?

じぶんはあの「マドンナたち」とはちがう、なら、主人公を「論破」できるものかに挑戦するとよいだろう。

あんがい、主人公の主張を「強化」する論法の方がおもいつくかもしれない。
それが、また、トランプの経済政策に似ているなら、さあ、どうかんがえることにしましょうか?

地上波をみても時間のムダだが、ネットにはいがいなネタがころがっている。