問題には三種類がある

ここでいう「問題」というのは、「試験の問題」のことではない。
試験の問題は、別に「設問」ともいって、「問いを設定した」ものをいう。
つまりは、「出題者」が存在する。

出題者が、なんらかの意図をもって「設定」した「問い」を、受験者が「解く」という方法で、受験者の能力を調べるということになっている。
出題者から、上から目線でつくられているのである。

しかし、一方で、受験生を指導する立場にあるひとたち、たとえば予備校講師にとっては、「出題」された「問題」を分析するという仕事がある。
それは、「解き方」だけではなく、どのような「出題意図」なのかも対象になる。

こうして、「傾向と対策」という手法が開発されて、この手法を「販売」することが商売になるのである。
当然ながら、この場において、「需要と供給」の大原則が存在している。

ヨーロッパでは、あえて「中国式」といわれている「試験制度」のことが、公務員採用試験をさすのは、人類史でのはじめてが「科挙」であったからである。
中世の封建時代は、貴族が役人でもあったから、「生まれ」が重視されたが、近代ではそうはいかなくなった。

わが国も、武士に生まれないと「役人」にはなれなかったから、身分制の替わりに学歴制をあたらしい身分制に置き換えたのである。
よって、「役人」による上から目線に変化が起きることはないし、経済が疲弊した地方にいけば、主たる産業が「県庁・市役所」になっている。

それで、本来の「問題」とはなにか?に話をもどすと、「問題」になるには、じつは、「理想」がないといけないのである。
ここでいう「理想」とは、「あるべき姿」のことである。
その理想と現実の「差」のことが、ふつう世間一般に「問題」といわれているのだ。

これを、企業活動の場面にしてみれば、予算と実績の「差」をどうやって埋めるのか?ということが、さっそく「問題」になる。
そこで、この「差」そのものの「区分」として「問題の種類」をみつけることができる。

・みえる問題として、火消し問題
・みえない問題として、発見問題と予測問題がある。

みえる問題を、「火消し問題」というのは、だれにでもわかる「問題」だから、すぐになんとかしないといけないと、これまた、だれにでもわかるからである。

よくある、「問題がたくさんありすぎて、どこから手を着けたらいいのかわからない」という状態は、この「火消し問題」が山積しているために発生する。
まさに、マッチ一本から、大火災になってしまったごとくである。

しかし、真の問題は、「みえない問題」になって隠れていることがおおい。
そのひとつが、「発見問題」というもので、探さないとみつからないから、問題のありかを「探索」しないといけない。

つまり、問題の根っこを探る、ということだ。
みつけることができて、これを解決すれば、問題そのものが雲散霧消する。
問題の根っことは、「原因」のことである。

すなわち、原因追及して、問題の根源を発見する能力がまず問われるのである。
原因がわからなければ、解決方法もみつからないからである。
逆にいえば、解決方法を得るために原因を追及するのである。

みえない問題のもうひとつは、「予測問題」という。
将来、こんなことが問題になるのではないか?という「予測」にもとづく。
そのために、あらかじめ解決方法をふくめた「計画」をつくるのだ。

こうしてみると、受験生にとっての「問題」とは、すべて「火消し問題」にあたる。
いま、世界を震撼させている「新型コロナウイルス禍」も、「火消し問題」としての解決策が目立っている。

そして、その解決策の「まずさ」が、パニックをよんでいる。
「発見問題」にしていないし、「探索」するという行為がないがしろにされているからである。
それで、感染予防についての情報が、マスク着用やひとの集まる場所にいかない、という安易な解決策ばかりが実行されている。

こうしたことが起きる理由は、たとえば東日本大震災における「反省」や「SARS禍」が、「予測問題」として活かされていなかったからである。
つまり、だれも「対策計画」を作成していなかった。

これを、ふつう「場あたり」という。

その場限りの「火消し問題」だけに集中し、喉元過ぎれば熱さを忘れるということわざを無視した結果のお粗末が、現実になってしまった。

さてそれで、これからどうなるのか?
あらためて、予測問題を設定しないといけない。
これは、個人もおなじである。

三種類の問題が世の中にはある。
せめて、これくらいは、今回の教訓にしないと、壊れた世の中の回復ができない。

それこそが、大問題なのである。
年度末の今日、まずは、来年の年度末の「予測問題」を解こうではないか。

責任者は「役人」だった

横浜で停泊を余儀なくされたクルーズ船のなかに入って活動した、神戸大学感染症内科教授の岩田健太郎氏が、下船後の3月4日にインタビューにこたえた記事が、緊急転載として『文春オンライン』にでている。

これを読むと、前に書いた、福島のときの保安院のひとが思いだされたとしたことが、確認できた。

やっぱり、「その道の専門家」ではなくて、「法律の専門家」である官僚が現場を指揮していた。
つまりは、「素人」である。

こういうことが、何度もくり返されるのはなぜだろう?
福島第一原発も、横浜市消防局救急隊のときも、そして今回のクルーズ船も、「おなじパターン」で「失敗」しているのに。

かんがえられることは、「目的合理性が狂っているのではないか?」という疑いである。
「何のために」「誰のために」という「目的」を追求するのではなく、えらいのは「官僚だから」という、ぜんぜんちがう次元からの発想が支配しているとしかかんがえられない。

しかも、もし官僚が、「マネジメント」の原則をしっていれば、過去の「失敗」から、「その道の専門家」に現場をまかせることの合理性に気づくはずである。
であれば、官僚支配の体制下でも、「権限委任」は可能になるし、積極的にそうさせるものだ。

これも「できない」という現実をくり返しみさせられると、「確信」に変わる。
官僚は、「マネジメント」をしらないのだ。

そして、ただ過去のやり方をくり返す「だけ」だから、ふつうこういうことを「馬鹿の一つ覚え」というのである。
平安王朝以来の「有職故実」をもってするのが「官僚の本質」であるから、わが国の支配思想は、「古代」あるいは「中世」のままであることがわかる。

 

まことに「平和な時代」なのであるから、戦後のわが国は一貫して「新平安時代」なのである。
これには、「鎖国」の思想も加わって、世界のことは気にしない。
よってこれらをまとめて、「平和ボケ」と批判されてひさしい。

しかして、ボケているのはなにも官僚ばかりではない。
残念ながら、国民が「惰眠を貪る」状態なので、官僚が張り切ってしまうのだ。
もちろん、惰眠を貪る国民がえらぶ政治家は、「気絶」状態にあるか「ゾンビ化」している。

よって、官僚を押さえつける立場のものが消滅しているので、ますます官僚が仕切るしかないのである。
これが、現代のわが国の思想背景と支配のメカニズムである。

つまり、党が行政官僚を仕切る、隣の大陸国家に「劣る」状態になってもいるのだ。
だから、わが国が民主主義国家であるというのは、たんなる「幻想」にすぎないし、より「隣国有利」が目立つのだ。

その意味で、ジョージ・オーウェルの名作『1984年』や『動物農場』のような「全体主義」に、もっとも近いのはわが国である。

 

さてそれで、岩田先生はつづける。
「安全と安心」のことだ。
安全とは科学的に裏づけられたものであるけど、日本人は感情的な保障としての「安心」を求める、と。

だから、マスクがなくなる。
米国CDC(疾病予防管理センター)やWHOがあれだけ予防効果がないと発信しても、「安心」だからと多くの人が買い占めに走るのだ。

もちろん、WHOの立場が揺らいでいるのは確かだ。
わが国に「優る」隣国の影響が、かくも明確になった事例はなかった。
ソ連の崩壊も、しっかり研究したうえで、さまざまな戦略を「マネジメント」しているからである。

けれども、マスクのみならずティッシュペーパーやトイレットペーパーの不足から、とうとう食料品にまで波及したのは、いったん死んだ「政治」がゾンビになって、「安心」を求めて国民に媚びるから、かえって国民が「不安」にかられるのである。

そして、なぜか「効果がある」とされる「手袋」や、「石けん」はなくならない。
アルコール系の消毒剤はなくなったけど、より日常での予防効果が高いものは、まったく無関心になっている。

これは、現代の不思議である。
けれども、もっと不思議なのは、「目標管理」がなされていないことである。
「感染者を一日でどれだけ減らすか」という目標設定がない、と教授は指摘している。

漢字とはよくできたものだ。
「目的」の「的」は、弓道でいえば「まと」である。
つまり、「いきつく先」であるから、「究極の目標」でもある。すなわち、転じて「存在意義」にもなる。

「目標」の「標」は、一里塚のような「道しるべ」の「しるべ」である。
つまり、「まと」までの「途中経過」のことを意味する。
年度予算が目標とされるのがその典型だ。

そんなわけで、むちゃくちゃが、真顔で実施されている。

それもこれも、この国を仕切るひとたちに、あろうことか、「マネジメント」が存在しないばかりか、はなから発想にないことを示しているのだ。

ふらふらと浮遊している。
そして、どこへともなく「漂流」しているのである。

まことに、驚くべき事態が、日々進行している。
もはや、経済政策どころではない。

この国は、今後もずっと存続できるのであろうか?

桜満開でも週末の鎌倉は閑散と

「自虐」という言葉がうかぶ。

それにしても、こんなに「自粛」するひとがたくさんいることの方が驚きでもある。
さぞや自粛を「要請」したひとたちは、「よしよし」とおもっているにちがいない。

なにがなんでも、経済社会状況を悪化させて、国民を奴隷にしたいらしい。
また、こんな要請をうけて、あっさりと従うのは「愚民の集団」である。

しかし、愚民には愚民なりの問題意識がある。
「治療法がない」のは、やっぱりこまるし不安である。
現状では、咳や熱を下げる「対処療法」がもっぱらおこなわれているから、感染したら最後、生きた心地がしないことも確かである。

だから、為政者は、どんな治療法や治療薬が有効なのか?ということについての情報収集が欠かせない。
それは、国内にとどまらず、世界での事例がどうなっているのか?についての情報整理をして、これを適宜公表する必要がある。

もちろん、ネット情報だろうがかまわない。
むしろ、素人が勝手に判断しては、より不安をあおるだけになってしまうからだ。

しかして、そんな情報がほとんど提供されていない。
むしろ、外出を控えるにあたって、在宅勤務を奨励したりと、自由行動を抑制することしか発言しないのは、根本になにか別の意図があるのではないかとうたがってしまう。

敏感なのは「株式市場」である。

3月14日に成立した、「改正新型インフルエンザ対策特別措置法」において、私権を制限する「緊急事態宣言」の発令が可能になった。
その4日後の18日、富士フイルムの「アビガン」という、「抗RNAウイルス感染症薬」が、中国で新型コロナウイルスにも有効だという報道があった。

これをうけて、東京市場では、「富士フイルム株」がストップ高となっている。

日本政府や地方政府の知事たちの施策が、まったくトンチンカンにみえるのはこのためだ。
3月25日には、「アビガン」開発者のひとりである、白木公康氏(千里金蘭大学副学長,富山大学名誉教授(医学部))が、Web版『医事新報』に緊急寄稿した記事がでている。

しかし、都知事は翌26日に、西村康稔経済財政・再生相と内閣府で面会し、「東京は感染爆発の重大局面にある」と話し、政府に空港での水際対策の徹底や感染拡大を防止する一時滞在施設の確保などを要望したと報道されている。

不安をあおるだけあおる、この知事の手法は、危険ではないのか?

つまり、東京市場での「ストップ高事件」や、前日に緊急寄稿された記事を読んだ形跡がぜんぜんないのである。
べつに、知事ひとりのせいにしたいのではない。スタッフにいる都の役人も、なにをしているのか?

それに、西村康稔経済財政・再生相だって「おなじ」である。
大臣のスタッフたる国家公務員をして、なにをしているのか?
こうしたひとたちは、いったい、どんな「情報リテラシー」をもっているのだろうか?

われわれ国民は、この「情弱者」たちによって、踊らされている。

そして、27日金曜日になって、「週末(つまり翌日から)の外出自粛要請」となったのである。
「情弱」でブレなく一貫しているのは見事だが、まことに「お粗末」きわまりない。これで、テレビのニュース・キャスターだったのか。

都民でなくてよかった、とはいえない影響だから、都知事選挙は首都圏を選挙区にすべきではないか?
しかも、なぜに自民党はこの知事の再選を支持するのか?
すべての関係者の統治能力を疑わざるを得ない。

さて、気になるのは、まずは「富士フイルム」だ。
じつは、この「薬」は、とっくに中国での「特許が切れて」いて、さらに、現地生産工場とも提携が「切れて」いるのである。
そこに、当局が「効く」といったから、はたして、これから大量生産モードになって、「世界を救う」ことになるかもしれない。

つぎに気になるのは、白木公康先生の方である。
先生は、大阪大学のご出身で、ウィルス学一筋である。
1990年に大阪大学医学部助教授に就任され、翌91年、富山大学医学部教授になって以来、2017年まで奉職され、その後現在の千里金蘭大学副学長という経歴である。

山崎豊子の『白い巨塔』が、今どきも通じるものか?とは期待であって、現実は「まんま」の世界ではないか?

 

原作は電子版もあるから、外出しないでも購入できる。
映像版は、やっぱり「田宮二郎版」が記憶に残る。
若いとき、鵜飼教授役の小沢栄太郎氏がカイロにいらしたときに、空港のラウンジで田宮氏の思い出を聞いたことがおもいだされる。

ドラマは、国立大学医学部内のはなしだったが、「わが国のあらゆる学会」は東京大学に支配される構造があって、「東大教授」による支持と同意がなければどうにもならないのが実態だ。

「アビガン」という薬のすばらしさは、記事を読めば、高校の化学や生物を勉強した程度の素人でもわかる。
むかしは「メッセンジャーRNA」とならったものだが、いまはどうなのか?

DNAの遺伝情報を転写したのが「RNA」だから、この「転写」を阻害することで、ウィルスの増殖をくいとめるのである。
それが、耐性をもったウィルスに進化もさせない。

いわゆる「東大閥」が、「うん」というのか「邪魔」をするのか?
こんなことをして国内認可がでないまま、あちら製の薬が外国で「効いて」しまえば、やっぱりしぶしぶ認可する。
国民がどうなるかより、学会の権威が重要なのである。

それまで、「かしこい」政治家は放置するのだろう。
東大閥を敵に回す不利は、のちのちはかりしれないからだ。
もちろん、事務方の官僚たちも、国も地方もみんな東大閥なのである。

事実は小説より奇なりを、地でいくはなしになってはいないか?

せめて、白木公康氏の『医事新報』に緊急寄稿した記事の「英訳版」を、世界に発信して、日本の立場について最低の「アリバイ」をつくっておくべきではないかとおもうばかりだ。

一党独裁の国は、「効く」となれば、通常手続きだって無視できる。
これ見よがしに、アメリカに売りつけるにちがいない。
とっくにレッドチーム入りしているわが国は、傍観することで立場が明らかになるのである。

はて、そんな「妄想」は横にして、平年よりも早くさいた桜を愛でつつ、鎌倉の寺社をめぐるのに、かくもゆったりとしたことはない。
鎌倉市民には、夢のような観光公害のない、春爛漫にちがいない。

さては、なごり雪の予報まででてきた。

納税猶予はしても減税はしない

キャッシュでかんがえれば、払うべきものを、「いま」払わなくてもよくて、来年以降に先送りされるのはありがたいものだ。

それに、新型コロナウイルスで業績が急速に悪化した中小企業や個人事業主に適用されるというのだから、ことしの業績が回復しなければ、来年の確定申告で「還付」ならぬ、「相殺」がおこなわれば、結局、納税としてのキャッシュがうごかないことになるかもしれない。

つまりは、「チャラ」になるかもしれないのだが、その状況とは、はたしてよろこばしいことか?と問えば、そもそも「所得が減っている」ことになるから、ぜんぜんよろこばしくない。
これは、納税者の心理である。

税金を取り立てる側としてはどうなのか?
「上から待て」という命令(コマンド)がでれば、「待つだけ」だ。
つまり、「犬」とおなじだということがよくわかる。
なるほど、それで盲目的に組織にしたがうものを「犬」というのだ。
よく観察されたことばである。

新約聖書の福音書の著者のひとりされる、「マタイ」は徴税役人だった。
ローマ帝国の当時、徴税人というのは、人びとからたいへん見下された仕事であった。にもかかわらず、イエスによって「ひと扱い」され、使途になる。

このときの直前の瞬間を描いたのが、ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョの作品、『聖マタイの召命』(せいまたいのしょうめい)である。
あの有名な「ミケランジェロ」は、カラヴァッジョの生まれる30年ほどまえに亡くなっている。

この絵の中で、マタイはどこにいるのか?
1980年代になって、中央の髭の人物ではなく、左端の若者ではないか、という論争がおきた。
新教のドイツでおきた論争だったが、ローマ法王庁があるイタリアでは、いまだに中央の人物だとされているから、絵画鑑賞とは、なかなか難しいものだ。

そんなわけで、徴税をする側のはなしは、その上の「政治のはなし」に飛んでいく。
では、だれが、わが国の「政治」をしているのか?
まさに、『聖マタイの召命』における論争のごとく、である。

中央の人物が、「政治家」だとすれば、左端の人物は、まさに「役人」である。
つまり、官僚からの納税猶予という「アイデア」を、政治家がそのままパクって出したのだ。

残念だが、財務官僚が支配するわが国は、「税の本質」に敏感な国民が少数派だから、えらばれる議員たちのおおくが、「税の本質」に鈍感になる。

そもそも、明治の第一回帝国議会の議題は、「減税」だったのだ。
これを学習指導要領で「教えない」ことにして、帝国憲法や教育勅語のはなしにすり替えるのが、学校教育と受験制度になった。

つまり、「減税」こそが、すべての政治家が基本とする「政治理念」でなければならない。
ここに、おカネをたくさんつかいたい、「行政当局」との対立がうまれるのである。

その行政当局を仕切るのが、内閣なのであるから、なんのための「議院内閣制」なのか?と問えば、行政当局を放置すれば、かならず「肥大化」するという「原理」を、抑制するための「薬」なのである。

この根本を忘却して、なんのための「政治」で、なんのための「内閣」すなわち「政権」かがわからなくなったので、とうとう、学業でダントツに優秀だった官僚に、ぜんぶを乗っ取られてしまったのである。

こういうことは、緊急事態という「非日常」でみえてくる。
今回の事態における、もっともわかりやすい形ででてきたのが、「納税猶予」だ。

大局視点がぜんぜんない、この局地性。

「経済力を高める」というこころざしは、どこにもない。
税を猶予することが、そんなにすごいことか?
それよりもなによりも、昨年の消費増税によるマイナス成長を、新型コロナウイルス蔓延のせいにして、絶対に減税はしない、という意思の固さがわかる。

あろうことか、財界や労働界が消費増税に賛成したのは、「公的年金依存」に対しての、不安を除去するためという「一致」があったからである。

財界は、社会保障負担を個別企業として増やしたくないから「増税」を支持し、労働界は、じぶんの年金をかならずもらえるようにしたいから、増税を支持した。どちらも、「民間の年金」は視野にない。
これに、共産党も、消費増税をしないと社会保障がもたない、として「沈黙」するという事態となったのである。

そして、軽減税率制度の恩恵を受けたことで、政府(財務省にだけ)恩義がうまれたマスコミ各社は、いっせいに「減税は望ましくない」というキャンペーンを張っている。
なるほど、株式相場の下落で、公的年金原資が減価している。

アメリカのマスコミは、じぶんの「立ち位置」を表明するのが常識だから、共和党か民主党のどちらを支持するかをはっきりさせる。
「不偏不党」などいう不可能を追求しない合理がある。

すると、日本のマスコミは「財務省支持」ということで、全社が一致する。
安倍内閣の経済政策を批判しながらの厚顔無恥がここにある。

これが、わが国凋落の原因のひとつだ。
財務省には国税庁という徴税機関が子会社にある。
政治家のおカネをこのひとたちが監視しているから、けっきょく逆らえない。

イエスもいないが、マタイもいないのである。

人為によるパンデミック

国民がダメだから政治がダメになる。

その政治をあずかる政治家の堕落した発想は、とうとう「ありもしない」ことを「さも、あることのように」して、中世に戻ったのごとく、あるいは台風がやってくるのを心待ちにする子どものように、非日常をたのしんで、それをおのれの権力としてもてあそぶ。

週末の外出自粛要請とは、いったいなにごとか?
紙類ではなく、こんどは食品が買いだめの対象になっている。

はたして、厚生労働省のパンフレット『新型コロナウイルスを防ぐには』を読めばわかることである。
現代日本の為政者たる政治家は、いまだ学歴詐称がうたがわれる都知事を筆頭に、はたしてこの基本文書を読んでいるのかさえ、まったくの疑問である。
まさか、漢字が読めない、ということではあるまい。

以下に念のため、パンフレットの内容を記載する。

「新型コロナウイルス感染症とは」
ウィルス性の風邪の一種です。発熱やのどの痛み、咳が長引くこと(1週間前後)が多く、強いだるさ(倦怠感)を訴える方が多いことが特徴です。
感染から発症までの潜伏期間は1日から12.5日(多くは5日から6日)といわれています。

新型コロナウイルスは飛沫感染と接触感染によりうつるといわれています。
飛沫感染
感染者の飛沫(くしゃみ、咳、つばなど)と一緒にウィルスが放出され、他の方がそのウィルスを口や鼻などから吸い込んで感染します。
接触感染
感染者がくしゃみや咳を手で押さえた後、その手で周りの物に触れるとウィルスがつきます。他の方がそれを触るとウィルスが手に付着し、その手で口や鼻を触ると粘膜から感染します。
重症化すると肺炎となり、死亡例も確認されているので注意しましょう。特にご高齢の方や基礎疾患のある方は重症化しやすい可能性が考えられます。

「日常生活で気をつけること」
まずは手洗いが大切です。外出先からの帰宅時や調理の前後、食事の前などにこまめに石鹸やアルコール消毒液などで手を洗いましょう。
咳などの症状がある方は、咳やくしゃみを手で押さえると、その手で触ったものにウィルスが付着し、ドアノブなどを介して他の方にうつす可能性がありますので、咳エチケットを行ってください。
持病がある方、ご高齢の方は、できるだけ人混みの多い場所を避けるなど、より一層注意してください。
発熱等の風邪症状が見られるときは、学校や会社を休んでください。
発熱等の風邪症状が見られたら、毎日、体温を測定して記録してください。

令和2年2月17日改訂

つまりは、「風邪」なのである。
じっさい、インフルエンザによる死亡例の方がよほど高い確率でもある。

このパンフレットでさえ、じれったいのは、感染の危険がもっとも高い「目」について触れていないし、咳エチケットとは「マスクを着用すること」ではあっても、それは症状があるひとが着用することを指すと強調していないことだ。

それよりも、感染者が触ったものにウィルスが付着するのだから、マスクよりも重要なのは「手袋」なのであって、その次が手洗いとなる。
もちろん、使用した手袋やハンカチ、タオルはこまめに洗濯することが重要なのだ。

石鹸の界面活性剤が、コロナウィルスの外殻を破壊するので、石鹸による手洗いと、洗剤をつかった洗濯が「効く」のである。

このような「基本的知識」の啓蒙・情報拡大に注力しないで、ただ「人混みがいけない」というのは、まったくの無責任である。
人混みなら、さまざまなものに触る機会が多くなるから感染の可能性が増すのであって、単純に空気感染するわけではない。

感染の中心が欧米になったのは、残念だが欧米人のふだんの生活習慣に、石鹸をつかった手洗いや、洗剤によるこまめな洗濯がないからである。
とくに、ヨーロッパは、飲料水が「貴重な資源」なので、食器洗いさえも中性洗剤の残留が気になるほどしかすすがないのだ。

しかし、ここは日本である。
古来より清潔好きな日本人は、欧米人からして「病的」なまでに「潔癖」をもとめる癖がある。
だから、くりかえし「手袋」と石鹸による「手洗い」に「洗濯」が強調されれば、「パンデミック」どころか「インフルエンザの流行」にもならないはずである。

すなわち、失政のごまかしのために、この騒ぎが利用されているとしかおもえない。
すると、この「人為的なパンデミック」がおさまったあかつきには、過去にない「政治不信」がやってくることになる。

自分たちで経済秩序まで壊しているのだ。
その反動は、わが国の、これまでの社会秩序を壊すかもしれない。

どちらにせよ、まずは感染予防。
余計な心配をするよりも、余計な物に触らない、という訓練がひつようで、触ったら消毒しておくことが、なによりも自己防衛になる。

冷静な対応が、為政者の興奮をよりバカバカしくみえさせるのである。

武道の発想

よくいわれるわが国の数ある武道のなかでも、国際的に人気を二分するのが柔道と合気道だろう。
もちろん、このほかに、実戦むきの古武道もあって、その道のプロに対しての教練がおこなわれているものがある。

柔道は、むかし柔術といったものが、明治期に嘉納治五郎によって「柔道」になった。いわゆる「講道館柔道」である。
合気道は、大正から昭和にかけて植芝盛平が創始したものなので、柔道より遅いが、どちらも伝統武道を下敷きにした、近代の武道であることに特徴がある。

近代オリンピックの競技に採用されるなど、柔道の普及はもはや地球規模である。
つまり、「勝負」が決まる「競技」だからでもある。
その意味で、オリンピックのメダルに関して、日本ではもっとも強く要望されている種目になっている。

一方で、合気道には試合がない。つまり、勝負という概念がない。
勝ち負けがない武道とは、どういうかんがえなのか?
そこに、この武道の一大特徴があって、相手の力を利用して、さらに、相手を傷つけずに制圧するための、「じぶんの身体の動き」を訓練するのである。

柔道にも相手の力を利用する「技」はあるが、通常は「逆手」が主体である。
「逆手」とは、相手と自分が力でぶつかって、これをひねり倒すようなイメージだ。

合気道は、「順手」の技が主体で、人間の身体の構造におけるふつうの動きを、タイミングと部位、それに角度の制御で加速化し、相手の身体が宙を舞うような行動しかできないようにする技のイメージだ。

すると、柔道が磁石でいうおなじ極どうしの反発力を利用する感じがあって、合気道はちがう極がひっつきあう力を利用する感じがする。
ひっつきそうなところで、体をかわすから、相手はもう自分の身体の制御をうしなうのである。

合気道の達人の技をみる者をして、「うさんくさい」と思わせるのは、こんなに簡単(そう)に、ひとが倒れるものか、と。
昭和の達人、塩田剛三は、身長146cm、体重46kgという小柄にして、不世出といわれた人物である。

彼の技を記録した貴重な映像が、YouTubeにアーカイブされている。
なかでも傑作は、ジョン・F・ケネディの実弟にして、ケネディ政権の司法長官として来日した、ロバート・ケネディが、塩田の演武をみて、自身のボディーガードと対峙させた場面だ。

屈強なボディーガードが、塩田の前におもしろいように倒される。
それで、本人はずいぶん感心したようである。
これがきっかけで、合気道がFBIなどに採用されたともいわれている。

さて、この合気道。
これぞ、経営の理想型ではあるまいか。

相手を倒す、という意味ではない。
自身のコントロールで、相手もコントロールする。
つまり、達人がなにもしないで相手が倒れるのではなく、倒そうとやってくる相手が、達人のコントロールによってかってに倒れてしまう。

そこに、達人の達人といわれる「技」があるのであって、自身の身体のコントロールのために、いかなる鍛錬を要するものか?
これを実践して、体得したからこその「達人」なのである。
およそ凡人にはできない域に達した。

経営者が経営という行為にたいして、いかなる鍛錬をしているのか?
それは、経営者になる前からのものと、なってからのものとに分けられる。
合気道の達人だって、達人に突然なれるわけではない。

つまり、「育ち」というのが問題になる。
社会人としての「育成」という意味である。
よくいわれる、「後継者問題」のおおくが、経営者になる前の「育成経験」がすくないことに端を発する。

入社してからの「育成」をかんがえない企業や組織は、なんだか経営者予備群が、自然発生的に「自生」するとおもっているらしい。

そんなバカな。

たまたまのラッキーを否定はしないが、めったに「自生」などしない。
へんに自生したもの「しか」いない、とボヤくなら、それは「先代」としての見識不足を、いまさらボヤくことにもなる。

すると、まずは全員に「セオリー」ぐらいは習得させないと、その後の「育成」における「コース立て」もできない。
ようは、将来を見据えた経営者育成を、いまの経営者がやるしかないのである。

もし、これができない、わからない、というなら、外部から経営の専門家を募集するくらいの覚悟がないと、組織の存続ということすら困難になるだろう。

このとき、その専門家の発想が、柔道的なのか?それとも、合気道的なのか?を見極め、どちらを選択するのか?までかんがえて決定しないといけない。

いま、わが国の経済力が衰退しているのは、この見極めと決定ができないひとたちが、おおくの企業経営者になってしまったからだと思えるのだ。
これが、30年前の「バブルの崩壊」がつくった深刻な「後遺症」なのである。

ぜひ、合気道型の経営者を育成してもらいたいものだ。

経営が下手な店が空いている

こんな情況下だが、繁盛している飲食店もあれば、閑古鳥が鳴いている飲食店もあるのはどうしたことか?
なんとなく外出がはばかれる世の中の雰囲気があるから、ふつうの店なら閑古鳥のほうに分類される数のほうが多いのだろう。

けれども、一部の店ではふだんとぜんぜんかわらないどろか、むしろ混雑していることもある。
どうやら、ふだんのあまりの人気店が、新規客で賑わっているやもしれないほどである。

ふだんどおりの営業をしているのが繁盛店の特徴でもある。
つまり、けっして「値引き」をして、誘客しているわけでもない。
むしろ、貴重な席にすわれることがラッキーにおもえるから不思議である。

特別な店でなくて、ふつうのラーメンや定食を提供している食堂だけれど、地元で人気の食堂だって状況はおなじだ。
ただし、各テーブルには、手作りのポップがあって、店内の洗面台の位置説明と石鹸での手洗いをするようにうながす注意書きがある。
それに、店内でつかう食器はすべて高温殺菌している旨のアピールがあった。

こういうものを、さりげなく出すことができる「センス」こそが、経営上手というのである。
また、どっからどうみても、「アルバイト」にみえる店員さんが、子ども連れのお客に、手洗いをうながしているのも、店主による「従業員教育」が確実に「実行」されているという意味がある。

要は、ちゃんとした衛生についての知識をおしえているから、納得した店員さんがそれを実行するようになるのである。
つまり、ただ「客に手洗いをすすめろ」という「命令」や「指図」だけではできないことであるばかりか、経営が下手な店のばあいは、この例における、「命令」や「指図」すらしてはいないのだということがわかるのである。

もちろん、店員がマスクを着用することもしていない。
あれは、保菌者や発症者が着用して、健康なひとにうつさないための努力であり、自分が病気であるという「合図」でもあるからだ。

すると、キーワードは「説得」か「納得」か?という選択であって、従業員が「納得」したとき、はじめて経営者の意思が実行されるのだ。
これは、もはや物理的な「メカニズム」である。

したがって、このメカニズムを熟知している経営者は、いかに従業員を納得させることができるのか?に腐心する。
こうして、「従業員満足度」も自動的に向上するようになっている。

しかし、このメカニズムをしらない経営者は、従業員に一回だけでも「命じる」ことで、それが実行される「べき」と発想する。
だから、この手のタイプの経営者でもガマンができるひとは、しつこく何度でも「命令」して、あげく「うちの従業員はバカだ」といいだすのである。

従業員が、「納得」できていないことに気がつかないのだ。
だから、従業員満足度を向上させる方法を、「別途やればいい」という分裂したかんがえを平気でしている。
従業員のなかでもパートやアルバイトは、もっとも消費者に近いことにも気がつかない。

短時間のパートできてくれるのは、いまどき「有難い」存在である。
本来の「パートタイム・労働」が、いつのまにか「フルタイム」になったけど、雇用形態としての「非正規」を指すように変換された。

一日のうち、8時間のフルとはいわず、6時間でも、4時間でも、おなじ職場で毎日働いていて、自社の従業員が「納得」しているのかどうかも「わからない」という経営者とは、いったいふだん、なにを経営しているのか?

この「無感覚」は、人間をさげすんで下にみるという感情から発生しているとかんがえられる。
もし、対等の人間同士ではあるが、業務上の役割がちがうだけなのだ、と発想すれば、毎日顔をあわせるひとたちの感情がわからない、ということにはならない。

大企業より中小・零細企業のほうが、この点で圧倒的な有利があったものを、中小企業はなにもかもダメで大企業こそが素晴らしいと発想する、国家公務員のえらいひとたちのかんがえが、どうしたことか民間に伝染して、小規模のゆえの利点すら見失う経営者たちが発生している。

しかも、おおくがオーナー一家か企業内昇格でなるのが、わが国の経営者の特徴だ。
ここでの共通点は、昇格による「安全地帯」に自分がいるという、身分上の「安心」が、特別感に転位して、「身の程知らず状態」になるのである。

そんなわけで、やさしい政府はどうしたら「助けられるか?」をまたまたかんがえだして、経営が下手な店を延命させる努力をするのである。
産業優先しか頭にないから、これに乗じる政治家が、これ見よがしのお手柄にしたがるのだ。

先進国の政府は、とっくに「生活者重視」にシフトしてしまったから、個人への資金を提供する方式をかんがえる。
住民ひとりに香港ですら14万円の支給が、わが国で1万4千円という額で議論の俎上にのるのは、産業優先の予算配分にこそ重みがあるからである。

べつにお札をばらまかなくても、消費税で調整だってできるものを、ぜったいにしないのは、財務省というお役所が握っている「岩盤」か「鉄板」になっているからである。

こうして、ふだんからの自助努力に乏しい店が、ゾンビのように生きのこる社会となる。

損をするのは、いつも生活者なのである。

化学の学習

発見的教授法について前に書いた。
中学校でも高校でもいいのだが、学校が休みになった原因は、コロナウィルスというものなのだから、これを「授業」にとりいれることが望まれる。

けれども、肝心の文部科学省という役所と、そこの役人のロボットにすぎない大臣の興味は、授業の質的向上でもなんでもなく、ただじぶんたちの責任を逃れる方法をかんがえることに終始している滑稽がある。

今回のウィルスの特性はなにか?
ならば、どんな方法がもっとも有効な予防法になるのか?
すると、ひとが集まる場所が危険な理由とはなにか?
それも「空気感染」するのか?

咳やクシャミからの飛沫が感染の理由なら、咳やクシャミをするひとが、自分で行動を注意しないといけない。
けれども、潜伏期間があって、本人だって感染しているのかわからないことが問題だ。

ならば、咳やクシャミをしないのに感染状態にあるひとから、どうやって他人が感染するのか?
感染者が触ったところにウィルスが付着して、これを触った自分の手で、自分の目や口を触ることで感染するのだ。

すると、もっとも危険な場所はトイレのドアとか、エレベーターのボタンとかエスカレーターの手すりにつかまることになる。
電車の中で、手洗いを奨励する放送をしているけれど、駅のエスカレーターでは、手すりにつかまるように放送しているし、車内のつり革や手すりにつかまるのは、当たり前のことだ。

つまり、一貫性のない案内がたれ流されていて、たんなる「雑音」と化しているのが、わが国における「公共」の実態なのである。
言うだけいって、やることはなにもしない。
この無責任こそ、感染がすすむ理由なのだ。

そして、残念ながらちゃんとしたおとながいない社会になったから、ほんとうは子どもの方が冷静なのである。
長い春休みを謳歌している。

なんのために学校を休みにしたのか?
感染しても重症化しない、子どもや若者の移動を抑制するためだったのではないか?
そして、それによって発症すれば重症化する高齢者に対しての感染を防ぐためだったのではないか?

けれども、ただ「休校」にしたものだから、子どもたちは外で遊び回り、これをとがめる親もいない。
それで、学校を再開すると、かってに役人がきめてこれをロボットにすぎない大臣がふたたび唐突に発表するのである。

いっぽうで、東京都知事が発言したように、場合によっては「都を閉鎖する」というのは、いったいどうやっておこなうのか?を横にしても、すくなくても、文部科学省のいう学校の再開と意味がぜんぜん通じない。

これぞ、バラバラを絵に描いたようなおはなしで、一体全体どうなっているのか?
と、中学生や高校生ならかんがえるはずである。

つまるところ、子どもからバカにされる社会というものが生まれたのである。
とくに、テレビに出てくるようなおとなたちは、たちが悪い、と。

そんなわけで、教育の大チャンスがここにある。
化学の教師は、自分が学校でまなんだ専門知識をここ一番に発揮して、最低でも実験室で、家庭でもつくれる消毒液をつくるくらいのことをやってほしい。

化学式でも反応を書いて説明すれば、ちゃんとした授業になるのだ。
化学が世の中の役に立つということを、これほどわかりやすく理解させる方法もない。
ついでに、いまの政府がやっている方策が、どのくらい化学から乖離しているかをしめすことが重要なのだ。

そういう意味で、反政府的な授業になるけど、どうしてこれを反政府的な教師たちの労働組合がいわないのか?
それに、「食育」とかいっているひとたちも、感染予防にひつような「免疫力」を高める食事をいわない。

あんまり、消毒やら清潔さに依存すると、こんどは「潔癖症」という病理がとびだして、「免疫力を失う」ということにもなりかねない。

二十年ほどまえ、バリ島でコレラが流行ったことがあったが、感染するのは日本人だけだった。
おなじ環境にいる現地人ばかりか、旅行でやってくるオーストラリア人も、だれひとり罹患しなかった。

すでに、日本人は世界で最高水準の衛生環境に暮らしていたから、とうとう「免疫力が退化」してしまっていたのである。
これはこれで重大な問題だ。
つまり、「弱い」ということだ。

20世紀は「科学万能」が叫ばれた時代であったけれども、その行き過ぎが反省もされた時代であった。
それで、「自然派」という価値観が高まったけれど、原始人には戻れないなかでの「自然派」だから、科学との共存という意味になる。

しかし、その科学の分野にある化学をないがしろしては、生き延びられないことも事実なのだ。
そして、今回いよいよわかったのが、医学は科学ではない、ということだった。

「防疫」という分野は、とっくに「軍事」レベルになっていた。
つまり、「国の防衛」としての概念がなければならない。
欧米の指導者たちが「戦争」というのは、けっして「比喩」ではないのだ。

こんなことも、中学生や高校生が気がついている。

命令に従う訓練

犬のはなしではない。人間のはなしである。

犬ならば、人間の命令に従うように訓練(しつけ)をするのは、人間社会という空間で一生を暮らすための「必要条件」になるからである。
それは、その「個体の安全」にかかわることになる。

だから、むだ吠えしてうるさいから、とか、トイレをまちがえて後始末がたいへんだから、とか、フード・アグレッシブだから、とか、散歩で引っぱるから「しつけ」が必要になる、という理由ではなく、人間が群れの「ボス」であることを習得させることが、もっとも重要な「しつけ」になるのは、すべてがここからはじまるからである。

残念なことに、犬をしつけるためには「暴力」や「痛いめ」にあわせることが必要だとかんがえるひとがいて、これがゆえに「しつけしない」で「犬の自由」にさせることを意識的にして、最後は飼い犬に手を噛まれて大けがし、あげくに愛護センターに持ちこむことすらある。

やっぱり、犬が不幸になるのだ。

つまり、犬の幸福とは、安心できる群れのボスに守ってもらえることが第一条件になっている。
これが、動物としての「犬の本能」なのだから、その本能を育むことが「しつけ」であれば、虐待でもなんでもなく、当然に「暴力」や「痛いめ」にあわせる必要性などどこにもない。

これが意味するのは、飼い主の人間がどう考えているのか?次第であることに尽きる。
つまるところ、プロの訓練士がいう「犬を訓練するのではなく、飼い主を訓練するのだ」ということになる。

訓練士のもとでは「いいこ」なのに、飼い主にもどされるとかえって態度が悪化してしまうことがあるのは、飼い主が犬の扱い方を訓練されていないから、犬が混乱をきたすのである。
バカなのは犬ではない。

ここから学べることは、なにか?
まず、「相手をしる」ということの重要性である。
相手が犬なら、犬とはなにか?
相手が人間なら、ヒトとはなにか?

子犬の売買における法的規制が厳格なのは、ヨーロッパにおけるドイツ語圏である。
ドイツやスイスがこれにあたる。

誕生してから母犬と兄弟たちとの生活による、「社会化訓練期間」を経ない個体としての取引は「禁止」されている。
この「社会化訓練期間」に、親犬等からの引き離し自体が「虐待」だという認識を人間社会の方がしているのである。

つまり、三つ子の魂百までということわざどおり、親犬等による「犬社会」という世界における「しつけ」すら子犬時に経験がないと、その犬の将来に「精神不安」がおそってきて、とうとう犬が精神病を発症してしまうことの可能性が高まることがわかっているからである。

わが国の「自由主義」は、この事実を無視しているが、それは、けっして「自由主義がいけない」のではなくて、商業主義重視、つまるところ産業優先・業者優先の「重商主義」がいけないのである。
結局それで、飼い主という個人がリスクを負担させられているのだ。

つまり、犬も人間も不幸になるようにしている。
ドイツ語圏の合理性重視という価値観からしたら、「ありえない」という状況がわが国では「常態化」しているのだ。

すると、こんなことが「常態化」している、わが日本社会とはどんな社会なのか?
ようやく、人間のはなしになる。

「自由の取り違え」を根本としているのである。
さらに、発想の原点が明治期の成功体験をいまだに基礎にしていて、これを戦後の高度成長の体験とダブらせている。

つまり、発想方法が「帰納法」によっている。
すなわち、類似の事実の積み重ねから、原理や法則を導きだす「推論」のことをいう。
たとえば、明治のひとは頑張ったから成功した。戦後も頑張ったから成功した。だから、頑張れば成功する(はず)だ、という論法である。

これが、「頑張ろう日本」になっている。

けれども、なにを頑張るのかがあいまいでわからない。
わかっているのは、うつ病のひとに「頑張れ」といってはいけないことだ。

そこで、反対の発想方法に「演繹法」がある。
これは、前提となる「事柄」から確実にいえる「結論」を導きだすものだ。すると、前提となる事柄がぜんぶただしいとなると、結論も必ず正しいものを導くことができる。
よくいう「三段論法」がこれにあたる。

たとえば、犬は必ず縦社会をつくって安定する動物だ。人間がボスになると犬は従う。ゆえに、人間がボスになると犬は安心する習性があるからそのようにしつける必要がある。

すると、わたしたち自身が、犬あつかいされるのは、人間社会としていかがか?ということが問題になる。
支配したい為政者は、人間を犬あつかいしたい。
支配される側は、犬あつかいは嫌だ。
これが、人類史における「興亡」となった。

そんなわけで、ふるい教育とは、為政者の命令に従うように一般人の子どもを訓練することであった。
いま、マスコミに出てくる医者のいうことや、政府のいうことに盲目的かつ忠実なひとたちは、この部類の訓練を受けてきたのだとわかる。

しかして、人間という動物の精神や心理を研究すると、命令しなくても命令に従うようになる。
さて、それはどんな方法で、はたして為政者だけに都合がよいものであるか?

自分にも都合がよいから、自分から従うのである。
それが「マネジメント」なのである。

日本人にいま、もっとも欠ける素養になっている。

ビールを飲んだらペストにならなかった

「黒死病」のはなしである。
漢字だと「やまいだれ」に「鼠」をいれる、適確な表現である。
この病気は、わが国では明治初期に小流行したが、ヨーロッパのような歴史的大流行が何度も発生することはなかった。

病原菌は、ネズミについた「ノミ」がもっている。
ネズミの繁殖力がわざわいして、ヒトがこの「ノミ」に吸血されたときに感染するのだが、その後、感染者の体液からも感染するから、看病するにも最大の注意を要する。

予防的薬剤は存在するが、いまだにワクチンはない。
よって、21世紀の現代でも、外国における流行はあり、致死率も高い(30~60%)。

下水道がヨーロッパに発達したのは、病原菌をもつネズミ対策だったことがしられている。
けれども、靴底がぶ厚い「ロンドンブーツ」や「イギリス紳士の傘」が、馬糞よけやオマルの汚物を窓から棄てるのをよけるためとかの説があるように、あんがいと「不潔」だったのだ。

だから、幕末にやってきた欧米人が、わが国の「清潔さ」に驚嘆したのであって、おそらくわが方はみな、どうしてそんなに褒められるのかわからなかったにちがいない。

あのシュリーマンは、「われわれヨーロッパ人がしらない文明国がある」と日本紹介記事を書いている。
もちろん、歴史学の大家トインビーは、世界の文明に「日本文明」というジャンルを独立して設けたことでもしられている。

人類史ということならば、ジャレド・ダイヤモンド『銃 病原菌 鉄』という本がミリオン・セラーになった。

 

アフリカ大陸からひろがったという人類は、東西・南北への移動をするが、南北よりも東西への移動が先立ったことが強調されている。
緯度がおなじ、ということが、どんなに生活に有利であったか。
けれども、そこに「病原菌」があるし、またヒトによって持ちこまれるのである。

南米を征服したスペイン人たちは、はたして「銃」だけで征服できたのではなかった。
ヨーロッパ大陸に住むかれらには、当然の免疫があったものが、南米のひとたちにはなかった。ために、かってに死んでいくようにみえただろう。

そのヨーロッパがペストによって、人口が全滅する地域も発生して、社会体制をも変えてしまった。
たとえば、「農奴」が全滅して、貴族の「荘園」が成立しなくなるとか、英国では小麦栽培から羊の放牧に転換するとかがあった。

カミュの『ペスト』や、村上陽一郎の『ペスト大流行』が、いまどきの読書に向いている。
人間社会が、あんまり「進化」していないことがよくわかる。

人類が「細菌」を発見したのは、17世紀だから、日本でいえば徳川幕府四代から五代のころになる。
そして、幕末の安政年間に、遠くパリでは、パスツールがアルコール発酵は細菌によることを発見した。

つまり、人類は、この「発見」まで、酒がどうしてできるのか?をしらなかった。
つくりかたはしっていても、なぜ?が不明だったのだ。

古代エジプトの埋葬品といえば、ツタンカーメン王の黄金の宝物が有名だが、カイロ博物館のコーナーには、地味に素焼きの瓶がふたつ展示されていて、ひとつが「ワイン」、ひとつが「ビール」である。
どちらも、当然に蒸発していたものの、瓶内側に残った「カス」の成分分析で証明されている。

カイロの街中の歩道に、以前はふつうにあった「底が円錐状の素焼きの瓶」と博物館のものは、おなじデザインで、倒れてしまう瓶に枠をはめて支えるのは、「澱」を沈めるためともいわれている。
歩道設置の瓶は、通行人が自由に飲んでいい「水」があったのだ。

通行人が、瓶の縁を金属カップでカンカンたたくと、おどろいたボウフラが沈むから、そのスキに水をとって飲んでいた。
わたしにはできない「技」であったが、素焼きなので蒸発熱を利用するから、えらく冷たい。生活の知恵である。

とすると、ツタンカーメン王も、あんがい冷えたビールを飲んでいたのだろう。
ただし、人類が現在の主流となったビールである「ピルスナー」を飲めるようになったのは、パスツール研究所にいたチェコ人の研究員がみつけた「ビール酵母」のおかげである。

このひとは、チェコに帰って、ビール工場をつくり、ここではじめて黄金色のビールができた。
それが、ドイツに伝わったのであるから、なんとたかだか180年ほどの歴史しかない。

では、ツタンカーメン王が飲んでいたビールとはなにか?
それは、「エール」に分類されるもので、イギリスのギネスが有名だ。
ピルスナーが下面発酵なのに対して、エールは上面発酵が特徴で、ベルギービールのほとんどが「エール」である。

ワインとビール。
どちらもヨーロッパを代表するアルコール飲料だけど、ブドウがとれる北限をはるかに越えるのもヨーロッパなので、北側ではビールがもっぱら製造されている。

さて、感染症となると、原因よりも結果の関連性から帰納して、ワインを飲んでも発症するが、ビールだと発症者がでないことに気づいたひとがいた。
ビールは、エールでも製造工程で、大麦麦芽を煮沸して麦汁をとらないといけないから「火入れ」されるどころか「煮る」のだ。

そんなわけで、ベルギーとオランダの修道院で、世界的に有名な「トラピスト・ビール」がつくられている。
「トラピスト」とは、「厳律シトー会」という修道会の名称で、日本では函館の「トラピスト・クッキー」が有名な土産物にもなっている。「厳律」なので、司教からの干渉を受けない特権をもつ。
なお、「トラピスチヌ」とは、本会の男子禁制女子修道院をさす。

はたして、コロナウィルスにも有効だといいのだが。