コロナ全体主義の恐怖

マスク着用の義務という強制は、全体主義の実行である。
これを推進するのは、アメリカ民主党だ。一方で、都議会の独自政党「都民ファースト」も、マスク着用義務を条例化しようとしている。
こうした政党の支持率が高い、というのもあまりにも情けないので書いておこうと思う。

本稿では10月8日に、WHOのコロナ特使であるデビット・ナバロ氏が、「ロックダウンを推奨しない」と述べていることを前提にする。
これは、日本時間で23日(現地では22日)に行われた、最後の大統領候補者による討論会で、トランプ氏も「前提」にしていたからだ。

国内では、さいきん、過剰なコロナ対策による「犠牲者」がふえている。
マスク着用による、「脳障害」が、全世代に警告されているのは、「酸欠」を原因とするからである。
とくに、乳幼児には「危険」なので、日本小児科会は、「子どもにマスクをさせない」ように警告告知した。

この警告から2ヶ月以上して、文科省も通達を出したが、緊急事態宣言以来、中央集権が効かなくなったので、各地の教育委員会は結構無視しているから、学校でのマスク着用が「事実上義務化」されたままでいる。

一方で、ちゃんとしたアルコール消毒剤が世の中から消えたことで、家庭用の漂白剤が代用できるという情報から、「濃度」についての調整を無視して原液やほとんど薄めずに大量使用して、手指の皮膚が荒れるのはもちろん、吸い込んだ体内の細胞も荒れて「肺炎」を誘発している。

コロナで肺炎にならずに、消毒剤で肺炎になる。
マンガのようなはなしだが、まったく笑えない事実である。
1000倍に薄めて使う、という意味がわからないとは、義務教育でどんな授業体験をしてきたのか?さっぱりわからない。

あるサイトでは、999mLの水に1mLの原液を加えれば1000倍になると、驚くことが記載されている。
ネットが玉石混交とは、このことをいう。
1000mLに1mLを入れないといけない。

式にすれば、希釈倍率=水量 ÷ 原液量(1000mL ÷ 1mL)
だから、できあがりは1001mL、になる。
ちなみに、「リットル」の国際記号は、「L」であって、「l」や「ℓ」ではないから、わが国独自の「記号」であると意識しておきたい。

行われた「討論」自体は、変えようのない事実であっても、新聞社やテレビ局、あるいはひとによって、「評価」がぜんぜんちがうから、これを比較するだけで結構な、「エンタメ」になっている。
どうして、そんな「評価」になるのか?という「ズレ」が、ほとんどギャグになっている。

この討論会の直前、会場にむかうトランプ氏の姿がネットでは動画になっていて、なんだか大勢いる支持者たちに向かって「これから不利な闘いに行く」といって、警備で閉鎖された会場の大学の庭から大声で語りかけ、独り歩き始める。
まるで、決闘に向かうヒーローのようなのだ。

どういうわけか、一回目も今回も、司会者は「民主党員」を表明しているひとなのだ。
このような、前条件も日米のメディアは指摘しない。
観る価値なし、を自分たちで強調しているのも、ギャグである。

討論の最初のテーマが「コロナ」だった。

トランプ氏自身があれだけ批判していたWHOではあるものの、冒頭のナバロ氏の発言をしっかり踏まえていた。
初期の頃は、誰にもわからなかった対処法がだんだん明らかになって、いまではこの病気の実態が見えてきている。

少なくても、アメリカでも50代以下のひとは、感染しても99.9%が回復するし、それ以上であっても自分のように元気になれる。
しかも、自分は免疫さえも取得した、と。

さらに、民主党の知事や市長の州や市のおおくが、厳しいロックダウンを実施したのに、被害はこれを「しなかった地域」とは比較にならないほど「大きくなった」という事実も、具体的数字をあげて重ねて指摘した。
そして、元の生活に戻すことが最優先だと主張したのである。

さて国内では、都議会最大会派となった都知事の与党は、東京都自民党よりも「保守」だとして、おなじく「保守」と観られている都知事が主導してできた地域政党だ。あっという間に広がりながら、もう下火のようではある。
とはいえ、選挙結果はジワリと効いてくるのだ。

「コロナ感染対策」として、「マスク着用の強制化」を条例にするという動きは、「保守」かどうかはしらないが、少なくとも「自由主義」ではない。
憲法違反の疑いも議論されているけれど、わが国の憲法解釈は歪んでいるので、盛り上がらない。

ここではっきり明らかになったのは、「保守主義」は、必ずしも「自由主義」ではない、ということである。
そして、もう一度アメリカを向けば、「民主党(Democratic Party)」の掲げる「デモクラシー(民主主義)」も、必ずしも「自由主義」ではない、ということがわかるのである。

そういえば、ヒトラーもスターリンも、毛沢東、金日成も、全員が、「民主主義」を理由に、全体主義を達成した。

なるほど、コロナの毒の下解毒剤は、ただひとつ、「自由主義」という発想なのである。

「ロシア疑惑」と「日本疑惑」

今後の世界情勢が事実上決まる、アメリカ大統領選挙の天王山、投票日前最後の「テレビ討論会」が、昨日終わった。
とはいえ、期日前投票がかつてなく多いという状況もあって、当落予想も過熱している。

大統領選挙も重要だが、アメリカの連邦政治制度で重要なのは、大統領選挙と同時におこなう、上・下両院議員選挙である。
わが国の衆議院にあたる下院は、任期は2年で「解散はない」。
また、わが国の参議院にあたる上院は、任期6年は同じだが、半数改選のわが国と違って、3分の1が2年ごとに改選される。

このブログで何度も書いているように、アメリカはわが国と「違って」三権分立しているから、行政府の長である大統領と、立法府の両院はそれぞれが「独立」している。
法案は、議員立法「しかない」ので、わが国で主流の「内閣立法」とはぜんぜん違う。

つまり、議会の趨勢がどうなるか?によっては、弱小大統領が誕生することだってあり得る。
大統領が、どんなにがんばっても、議会で否決されたらどうにもこうにもならないのがアメリカ合衆国という国なのである。

ソ連が崩壊して、米ソ冷戦が終結したとき、誰もが、アメリカの一人勝ち状態が永続すると思った。
しかし、好敵手たるライバルを失うと、自己評価ができなくなってしまい、結局は衰退がはじまるものだ。
これは、企業にも、個人にもあてはまる。

この法則に、アメリカ自身も逃れることができないでいるのも確かだ。
しかし、そうはいっても、やっぱりアメリカは強大である。
米中の新冷戦とは、アメリカがアメリカ自身を「偉大だ」と、再確認するために必要な、ライバルづくりともいえるのである。

さてそれで、わが国を中心にして考えれば、わが国の繁栄にとって、アメリカがどうあるべきなのか?あるいは、どうあるとわが国の繁栄に都合がいいのか?を想定することは、これ以上ない最重要事項である。
わが国の、全産業が影響を受けるからである。

これは、「親米」とか、「反米」といった感情とは別の、「損得計算」なのである。
しかも、我々には、「投票権がない」という冷然とした条件がある。
ならば、どうするべきなのか?

まずは、現状認識の確認である。
わが国を取り巻く外部環境と、わが国のなかでの資源配分を冷静に分析しなければならない。
これを、「面」としての現状分析とすれば、立体的にする要素は「時間」を加えた分析で、一方は過去の歴史、一方は将来となる。

将来には二通りあって、ひとつが「成り行き」で、ひとつが「あるべき姿」となる。
ついでにいえば、「あるべき姿」とは、不可能を承知で描く「理想像」をいう。それで、成り行きとのギャップを埋める方策をかんがえるのが、「セオリー」というものだ。

そこで、かんがえるにあたってのベースとなる「思想」によって、「理想像」が変わる。
これが、政党でいう「理念」や「綱領」と直結する。
だから、有権者には、理想像がどんな理念で描かれているかを説明する義務が政党にはある。

この義務を、ほとんど果たしたことがない、のがわが国の「政党」であり、わが国の「政党政治」なのである。
すると、わが国には「政党がない」ということになる。

そんな調子なので、わが国の繁栄に必要なことに近い、アメリカの大統領候補になる人物が誰で、どちらの政党だとより有利なのか?についての合意づくりも何もしない。

政権政党の内部だけでなく、官僚機構にも指示をださない。
だから、外務省がなにをしているのかもわからないのだ。
外国の選挙に介入してはいけません、などとお坊ちゃま面をしていられるのは、自分たちの優雅な生活をしたいだけで、国益は考慮しないという伝統的習慣がそうさせるのだろう。

「ロシア疑惑」とか「中国疑惑」が出てくるのは、それだけ普段から「仕事をしている」ということなのだ。
絶対に「日本疑惑」が起きそうもないのは、ただ現地にいるだけでよしとする、本国の生温い政治体制があるからである。

ちなみに、ロシアのGDPは、わが国の3分の1以下である。
外交力を2倍とすれば、6倍も頑張っている換算になる。

少なくとも、マスコミ報道における「左傾化」で、汚職まみれのバイデン氏と、いまや「冤罪」となったトランプ弾劾を強行した民主党へのあからさまな「贔屓」は、わが国の繁栄を下敷きにしたとは思えず、記者や報道機関の「身内の思想」がそのまま反映されていると思われる。

安倍内閣を責め立てた、「疑惑」のスケールと、数千億円単位の収賄をした疑いのバイデン一家を比べれば、潔癖症のわがマスコミが知らんぷりする理由がわからない。
もしや、第三国からの要請があるのだろうかと「疑惑」もうまれる。

理想とした目標に向かって、あらゆる方面に統合された手を尽くす。
これぞ、戦略思想の具現化である。

唐突ではあるけど、「カジノ」を運営するのは、この思想と具現化のノウハウがないと不可能だ。
なるほど、国産カジノが輸出もできない理由がここにある。
法規制のため国内で開業できなかったから、は理由にならない。

少しは見習ったほうがいい国が、わが国周辺にはある。

衰退の日欧は復活できるか?

むかし、日本経済が絶頂だったとき、碩学・小室直樹は、シベリアに円を流通させよ、と叫んでいた。
ウラル山脈の向こう(西)側で、ドイツ・マルクが流通すれば、日独(西ドイツ)でロシア(ソ連)を牛耳れる、と。

あまりの「絶頂」だったから、ソ連の崩壊に興味がなくて、千載一遇のチャンスを逃したばかりか、その後自壊したのは、宮沢内閣による「総量規制」の一律適用だった。
ソ連の経済政策を日本でやった。

ソ連は体制まで転換したが、わが国はバブル崩壊「だけで」済んだ。
ソ連よりはるかに強固な官僚の事務体制が、テッパンの計画経済を維持したのである。
これを真似たのが、中国だから侮れないことになった。

いまのあちらの体制が、日本人から異常に見えるのは幻想である。
自分たちの本当の姿のおぞましさが、「鏡」に映っているだけなのだ。

この時期は、西ドイツも、東ドイツの合併に全力投球したから、こちらもチャンスを逃して、その後は統合ユーロの普及に向かってしまった。
「戦後」の西側国際社会の経済は、徹底破壊されて敗戦した(敵だった)、日本と西ドイツが機関車の二重連のようにけん引した。

日独両国の全体主義計画経済の経験が、本家のはずのソ連よりうまくいったのは、きめ細かい「役人」の(この場合)優秀さが、ロシア人の性格的荒っぽさを上回っていたからである。
それが、東ドイツをして、東側の優等生にさせたのだった。

ヨーロッパの統合が、「EU」という名の官僚体制になったのは、対抗するベンチマークとしての日本と、地域内のドイツの双方が採用する、「官僚制・計画経済」が、美田に見えたからだろう。
だから、中国の体制との親近感があるのも、日本とドイツ(EU)の特徴なのである。

それで、いまとなって地団駄踏んで悔しがっても、あの(統合の方法を決める)とき、ヨーロッパ各国を「ステーツ」とする、アメリカ合衆国・モデルにしなかったのが、衰退の原因だと本気で気づいたのか?が問われるのだ。
けれども、ヨーロッパ人の心に中に、人工的新興国アメリカへの「侮蔑」があると思われるので気づかない振りをするしかない。

よって、EU(欧州)の衰退は、EU解体まで終わらない。

アメリカの二大政党は、ヨーロッパでの貧困から逃れたひとびとの系統と、イギリスを中心とした、ジェントルマン(教養のあるひと)が投資のためにやってきた系統とが、そのまま政治勢力に発展したともいえる。
前者が民主党で、後者が共和党である。

民主党がいよいよ社会主義・共産主義的になってきたのは、もともとの「先祖帰り」ともいえる。
だから、この表面「だけ」を真似て、わが日本でも「二大政党」を理想とするのは、お門違いなのである。

国民の半数以上が農民だった戦前の二大政党は、地方に重点を置く政党(政友会)と、都会(工業地帯)に重点を置く政党(民政党)であった。
いまの細分化された時代なら、どうなるか?
なかなか二大政党に集約できないのが現状だから、わるい意味の「なんでもあり」がある、自民党が勢力を維持できるのであろう。

しかし、残念なことに、「共和党」に匹敵する政党が存在しない。
これが、ひとつのヒントを与えてくれる。

振り子のように「揺れ戻し」があるから、政治力学というかんがえかたが説得力をもつ。
英米は、政権があんがい連動していて、保守党と共和党、労働党と民主党がそれぞれの時代に首相と大統領をだしている。

サッチャーとレーガン、ブレアとビル・クリントン、だが、オバマ時代はねじれて、英国は保守党政権がいまにも続き、トランプ政権でまた元に戻った。

英国の変化は、労働党のブレアが「サッチャリズム」を前提にする、と断言したことにある。
かつて、福祉充実(典型的社会主義政策)がトレンド(英国病発症)だった時代、保守党もこぞって福祉政策に重点をおいたから、英国の揺れ戻しは「波長」が長い。

対して、人工国家(政治理念で建国された)のアメリカは、政権交代による変化がドラスティックなので、こちらの揺れ戻しの波長は短い。
その象徴的スローガンが、「大きな政府」か「小さな政府」であって、大きな政府には「増税」が、小さな政府には「減税」がついてまわる。

大きな政府とは、福祉国家のことなので、財源としての増税が必須になるし、小さな政府とは、自由主義重視なので、自分のおカネが税に獲られることも「自由の侵害」とかんがえている。
もう1年が経過した、消費増税の名分が「福祉の充実」だったことを思いだせばよい。

「巨大」な中央政府をもつ、日本とEUは、アメリカ人から観たら、民主党永久政権のように映るだろう。
だから、わが国の政権交代の意味は薄い。
自民党も民主党も、アメリカ人にはどちらも同じで左派色の濃さの違いだけにみえるだろう。

レーガン時代、わが方の中曽根政権もそれなりに連動したけど、徹底できず相当な腰砕けだった。もっとコケたのが小泉政権であった。
トランプ再選後のアメリカは、よりパワフルに「小さな政府」を追求するにちがいない。

減税は、予算縮小を意味し、自動的に行政権の縮小を促す。
これが、アメリカ経済発展のパターンで、余裕ができると民主党に政権交代して、「福祉」をやるのである。

この繰り返し行われている「成功事例」をどう観るか?が鍵なのである。

餃子店と堀江氏の正義の衝突

ことの発端の前提は、餃子店が「マスク着用義務」をしていたことにあった。
そこに、ホリエモンこと堀江氏一行がやってきて、このメンバーにマスクを着用していないひとが「入店拒否」されたのが、トリガーとなって、堀江氏がSNSに投降し、これが、「炎上」した。

堀江氏の主張に賛否両論があるものの、店の主張を否定する「電話」が殺到し、恐怖で体調を壊した女将さんのために、とうとう休業に追いこまれてしまった。まったく気の毒なことである。
そこで、いま、トリガーとなった堀江氏へ糾弾の大合唱となっている。

ずいぶん前に社会理念としての、「みんな平等」に対して、あえて天邪久になってかんがえることを書いた。
本件も、あえて天邪久になってかんがえるとどうなるか?を試みたい。

はじめにお断りしておくが、ここで試みることは、あくまで「思考実験」なので、現実からいったん離れる。つまり、餃子店や堀江氏という具体的対象ではなく、抽象的対象として議論するのでご注意願いたい。
本稿は、裁判的なジャッジを両者にするものでもなく、あくまでも天邪久になってかんがえる「だけ」である。

冒頭に、「ことの発端の前提」と書いたが、そのまた前提に「新型コロナによる疫病蔓延」がある。
ここから、天邪久が顔をもたげるのである。
つまり、「新型コロナウイルス」とはなにか?だ。

すると、「旧型」とは、SARSやMERSを指すのだろう。
なぜなら、その辺にふつうに存在しているという、コロナ・ウィルスが地球上に何種類いるのかを人類はいまだしらないからである。
しらないから、見当もつかない。だが、万の単位あるいはそれ以上の種類のコロナ・ウィルスがいるとかんがえられている。

何種類のコロナ・ウィルスがいるかを誰も調べないのは、ほとんど人間などの動物に、「無害」だからである。
無害な物を分類してどうするのか?となると、博物学のなかの分類学となる。

だから、いま流行っているのは、既存のなかの一つが突然有毒になったから「新型」なのか?それとも、本当にこれまでにいなかった「新型」なのか?すらも分類できていない。

すると、すさまじい種類のコロナ・ウィルスが、はるか昔からとっくに人体に取り憑いていて、われわれのほとんが「なにも気づかない」で何世代も生活してきていることになる。
だから、PCRで陽性になるという意味に気をつけないといけない。

そこで、国際便を停止して、ほぼ「鎖国」していることから、9月までの国内の患者(感染者ではなく発症したひと)をかんがえると、死者数も重篤者数も、えらく少ない、という事実がある。
2月から8ヶ月間の累計の死者は、1,500人ほどなのである。

昨年のわが国で生まれた新生児は約90万人で、わが国人口の自然減は約40万人だから、死者数はざっと130万人となる。
毎月10万人強、半年で65万人という勘定になる。
すると、コロナで亡くなったというひとの割合は、0.17%になってしまう。

これを、「パンデミック」といえるのだろうか?

「咳エチケット」だったはずのマスク着用の「推奨」が、いつの間にかに「義務」と変容したのは、とくに地方にみられる現象で、主に「都道府県」レベルで「指導」している。
政府の緊急事態宣言による大幅権限委譲が、終息宣言において「返上されず」、県が「藩に変容」した効果だ。

つまり、「藩・知事」となったので、名称は「知事」でも内容は「藩主」になった。
言ってみれば、江戸時代に戻ったのである。
それで、罹患者を「村八分」にする、かつてのハンセン病患者への差別が復活した。

そうして、夏のお盆ですらふるさとへの帰省を「自粛せよ」との「お達し(命令)」を、藩主がだしたから、都会に出た地方出身者の「根無し草化」(分断)を謀ったのに、それが「正義」に転換された。

すなわち、わが国の中央集権構造が、「パンデミック」の名の下に崩壊をはじめたのである。
これに対抗するのが、政府による「GO TO」で、都会人を「藩」に送り込むことでの中央集権維持を画策している。

こうした点をふまえると、「パンデミック」を長引かせて権限を返したくない「藩の正義」(分断)と、「終息宣言」をして権限を戻す「中央の正義」(集権)が、飲食店というピンスポットでぶつかったといえる。
この意味で、両者はそれぞれの立場の「エージェント」なのである。

さてそれで、店に本当の圧力をかけたのは、匿名のひとたちであった。
SNS発信者とのバーチャル空間での議論から、現実界に飛び出して、一方的罵詈雑言を与える。

これは、社会の分断によるアトム化した個人が、取り憑かれたようにする威圧であって、その手段が「電話」という過去の媒体であった。
組織化されてはいないのが幸いだけれど、もしや一歩間違って「組織化」されたら、それは全体主義へと一気に変わる可能性がある。

その意味で、トリガーを責めるのは安易であって、分断を支持する意思表明であると見られても文句はいえない。
一方、トリガーはどうすべきだったか?
卑怯な威圧をやめさせるように働きかけるべきなのではあるけれど、自身の発言の暴走におののいたのではないか?

SNSとは、ほんとうは個人の分断のための最適手段なのである。
個人データが抜かれる、という次元の問題ではない。
「絆(きずな)」ではなくて、「絆(ほだ)し」なのである。

以上、天邪久でした。

フードファディズムからの異常行動

フードファディズム(Food Faddism)とは、食べ物や栄養が健康に及ぼす影響を過大に評価する考えのことだ。
これが嵩じると、「食品の善し悪しを単純に決めつけ」て、これらを「過度に食べ分けるような行為を誘発」してしまう。

つまり、「過大」と「単純」と「過度」という三点セットを発想の元にさせて、人間行動をある一定の方向へ「誘発」するのだから、本人は「間違いはない」と思い込んでいても、他人からすると、あるいは、「論理的に考えると」、大変おかしなことをしでかしているように見えるのである。

そもそも、「◯◯を食べる(飲む)と、どこそこの細胞やら臓器が活性化して、健康になる」というたぐいの情報のほとんどが、「フードファディズム」そのものを「誘発」しているのである。
しかも、これが、あんがいと「専門的な用語」でオブラートされている。

物質の成り立ちからはじまって、様々な「結合」や「反応」により、あたらしい物質がつくられるのを、われわれは中学の「理科」や、高校の「化学」で学ぶことになっている。
高校全入といわれて久しいけれど、だからといって、フードファディズムが流行るのだから、知識が「身についている」とはいえないのである。

逆にいえば、知っているつもり、がかえって助長させているのだろう。
食べものの「消化」とは、化学反応によって行われるが、それが生体内でどうなっているのか?は、とうてい全部解明されてなどしていない。

もうすぐ出版から20年にもなる、高橋久仁子『食べもの神話の落とし穴』(ブルーバックス、2003年)という本には、わかりやすい説明があふれている。
こういう本を書くひとが「専門家」なのである。

若いひとには知る由もないけど、ずいぶん前からフードファディズムの事象は発生している。
上記の本では、以下の3種類があるとされている。
まずは、第1種が、
1.健康効果をうたう食品の爆発的流行
 「紅茶きのこ」(1977年頃)
 「酢大豆」(1988年頃)
 「野菜スープ」(1994年頃)
 「ココア」(1996年)
 「低インスリンダイエット」(2002年頃) などである。

なんだか懐かしいのが、紅茶きのこである。
わが家でも、ガラス瓶に自家製のを作っていて、おとなたちがこれを有り難がって飲んでいた。
子どもには、実に奇妙な光景であった。

昼の「ワイドショー」で毎日、別々の食品を「特集」していて、店からなくなったのが「ココア」とか「黒砂糖」だった。
気の利いた個人商店主は、朝刊でテレビ欄を確認して、大量発注していたものだけど、そのうち「記載」がなくなったので、いちばん熱心に番組を観ていたのは個人商店主だった。

流行ったのが、10年毎からだんだん短くなってきている、という特徴も、「情報化」といえるのだろう。
ただし、廃れるのもはやい。
「次」に飛びつくからである。

たとえば、「プロテイン」。
日本語にすればただの「タンパク質」のことである。
これが、次の2種類目や3種類目にも関係する。

2.いわゆる健康食品(栄養補助食品)
 ほかの努力はいっさい不要で、「それ」を食べさえすれば、「元気になる」、「若返る」、「病気が治る」。

今日もおおくの「通販番組」で紹介されているし、ネット上での広告も飛び交っている「現役」そのものの「商品」である。
消費者庁が管轄する、「特定保健用食品(トクホ)」だって、この仲間に入っているから、50歩100歩なのである。

3.食品に対する不安の扇動
 食生活を全体としてとらえることなく、特定の食品を身体に悪いと決めつけ、非難攻撃し排斥する一方で、ある食品は身体によいとして推薦したり万能薬視したりすること。

特に3をこの著者は、「不安扇動ビジネス」、「不安便乗ビジネス」を呼んでいる。

なんだか、いまだに終息しない「コロナ」に似ている。
コロナ感染者(といっても「無症状」の検査陽性者)の排斥や、ペラペラのマスクが感染予防に万能だとして、マスク着用の事実上の「義務化」といった愚策が、民間でおこなわれている。

都会より、地方で厳格なのだから、これも「不安の扇動」による効果だといわざるをえないものの、むしろ、「コロナの時代」とは、とっくにフードファディズムが「素地」を社会に作り上げていたのではないかとおもう。

「永遠の生命」を求めた逸話は、世界の歴史に刻まれている。
たとえば、古代バビロニアのくさび型文字に残された、『ギルガメシュ叙事詩』や、エジプトのミイラ、それに、秦の始皇帝の命を受け、日本に不老不死の仙薬を探しに来た徐福のはなしなど。

しかし、これらの例は、英雄や特定の身分にあった為政者個人の願望をかなえるための物語であって、こうしたはなしを一般人は「愚かなこと」として嗤っていたのである。
なぜなら、この世に生を受けたものは、一人残らずいつか死を迎え、誰も免れ得ない真実だと知っていたからだ。

ところが、20世紀の後半から、人類史でまれに見る「中産階級の繁栄」を経験したわが国では、ほとんどの国民が「永遠の生命」を希求するという、人類史のはじめてが社会現象になったのである。
かつての戦争犠牲者を、「精霊」といわずに「犬死に」といえる根拠であろう。

それは、個々人の「精神」を尊ぶ個人主義では到底なくて、「物質的」にただ生きのびたいという「犬も考えぬ」ことを希求する、貧困なる精神からやってくるのである。
経済的に貧困であったかつての日本人は、しかし思想では、尊かったのである。

人間は、機械のように食べものを「消化」しているのではない。
著者は、フードファディズムに対抗すべく、「さしたる根拠もないまま」に続けて「多様な食品の摂取」を勧めてきたことの「裏付け作業」が着々と進行している、という。

たまには、根拠のないことが正しいこともある。

風評被害の原因

いわゆる、「デマ」のことである。
あたかも「真実」のように伝わって、ひとびとを間違った方向へ誘導し、結果的におおきな被害をもたらす。

1923年の関東大震災では、「朝鮮人が攻めてくる」とか、「井戸に毒をいれた」とか、「おさまらない火災は朝鮮人が放火しているからだ」といって、何人だかわからないひとたちがリンチ(私的制裁)され、命を落とした。

ほとんど100年前のことだけど、いまだってふつうに「デマ」は跋扈している。
むかしは「口コミ」と「ビラ」だったのが、いまは「SNS」という便利さが、安易なデマを大量生産している。

学校などの小さなコミュニティなどでの、特定個人を狙った誹謗中傷や、感染症の「陽性反応」というだけで責められ、自殺や転居を余儀なくされるのも、「デマ」による一種の被害者である。

これが通用する社会は、臆病で野蛮である。

すると、現代社会はあんがいと野蛮な未熟社会なのである。
だから、かっこよくメディアで「成熟社会」と発言するひとは、「デマ」のなかの聞き心地がいい「美辞麗句」を流している張本人のひとりだと特定できるのである。

おそらく、こういうひとが発する言葉は、空疎で中身がないに違いない。
視聴者は、心して聞かないと欺されるのである。

こうしたデマによる風評被害は、真実との闘いのなかで生まれる。
しかし、おおくの場合、真実が意図的に隠されていたりすることからの、不安がつくりだす。
だから、それらしくて皆が欺されるのである。

政府がつくったデマの最たるものは、「大本営発表」の「戦果」であった。
ほんとうは大敗しているのに、あたかもわが方が勝利したごとく。
ありもしない敵との会合における戦闘の、ありもしない戦果。
勝っているはずなのに、どんどん厳しくなる生活物資の困窮があるのに、それでも、勝っていると信じ込ませる情報統制。

負けたら負けたで、今度は占領軍による情報統制がはじまって、なぜかそのまま現在に至っている。
そのコンセプトは、「正義」は占領軍にあり、に統合(インテグラル)されているから「高度」なのだ。

その都度都度に対応した嘘を重ねた「大本営発表」とは、規模も精密さも段違いである。
カジノを「博打場」としかかんがえないのは、大本営的発想の継承である。
「IR」の「I」こそ、インテグラルなのである。

つまり、われわれ日本人は、インテグラルな情報操作のなかで70年以上生きてきた。
そう考えれば、『オバQ』の「ドロンパ」も、プロレスも、わずかな空間で許された、アメリカに対する「ガス抜き」であった。

インテグラルな戦略のマネジメントができるアメリカと、相変わらず場あたり的なわが国では、もはや勝負にならない。
その理由は、上記のとおり、インテグラルな戦略策定能力の欠如と、インテグラルな戦略実行(マネジメント)能力の欠如というふたつの能力とも、彼我の差が大きすぎるからである。

これは、政府が民間能力に劣るアメリカ政府(軍を含む)との比較だから、政府が民間よりはるかに高い能力のはずのわが国にすれば、どうにもならない力量の差として、民間企業の経営力に現れる。

一社に数人の優れた経営者なら、日本企業にだっている。
しかし、圧倒的な彼我の差は、組織全体のなかにいる、ということでの勝負なのだ。
いわば、戦略策定の「頭脳」と、実行のための「筋肉」と「神経系統」の機能が、違いすぎるということだ。

そんなわけで、偏った頭脳しかないわが国政府は、福島での放射能汚染水の海洋投棄をはじめるという。
例によって、政府は、その「安全性」についての「デマ」も一緒に垂れ流すに違いない。

政府がいうと想定される理由は次の二点だ。
⑴ 廃棄するのはトリチウム汚染水だけだ。
⑵ 低レベルなので環境に影響しない。
これらは、「デマ」である。

⑴は、トリチウム「だけ」ではないはずだ。
 だから、原液の成分詳細をいわない。
⑵は、どうして「低レベル」なのか?
 原液のレベルをいわない。つまり、「水で薄める」からではないのか?
 それに、トリチウムの危険性=安全性について、どこまでわかっているのか?を説明しない。

わかっているのは、「風評被害対策」という補助金を出す、ということなのだ。
かつての、原子力の街を骨抜きにした「補助金」という麻薬で、再び現地のひとたちを麻痺させようというのは、あまりにもワンパターンで、ぜんぜんインテグラルでない。

なんのことはない。
風評被害をつくっている犯人は、「大本営発表」しかしない、政府なのである。

高濃度廃棄物は、濃度を薄めて海に棄ててはならないというのが、規制法の精神である。
どんなに薄めようが、結局のところ原液全部を海に棄てたなら、同じ話である。子どもにもわかることだ。

国内の工場は、この規制法を遵守している。
どうして、放射能汚染水の海洋投棄だと許すのか?
根拠法はなにか?
民間工場でモラル・ハザードが起きないとする理由はなにか?

政府が「法治」をやめようとしている。
その理由は、タンクが一杯になっちゃったからしょーがあんめえ、だろう。
この荒っぽさで、「安全性が確認された原子力発電」と臆面もなく紙に書けるのである。

わかっちゃいるけどやめられない、では困るのである。

日本は「金融大国」になれない

他人の悲劇的な状況を横目に、そのひとたちが作り上げた繁栄の根拠となる業務を横取りしようとするのは、かなり「恥ずかしいこと」である。
むかしなら、「切磋琢磨」を宗として互いに研鑽しようという気概があったけど、バブルに浮かれて崩壊して以来、相手の敵ではなくなってしまった凋落を、ここぞと取り返そうとする態度は尊敬に値しないどころではない。

まさに、卑しい、のである。

しかし、その卑しさゆえに、相手の強みの本質すら理解していないのではないかと疑わざるをえない。
その本質とは、「自由」のことである。
もちろん、「香港」の成功は、華僑独特の「拝金主義」があったからでもない。

裏返せば、バブルの失敗こそに、日本人の「拝金主義」があったのだ。
その反省もなく、2007年のわが国は、9月のリーマンショックまで、「金融バブル」を経験していた。
そして、いまでも、年収の多寡で人生の「勝ち負け」を語る、「拝金主義」が横行している。まったく反省しないからである。

こうした、「拝金主義」にまみれたひとたちが、その罪を払拭するためにいう、「ポスト資本主義」や「新自由主義批判」こそ、安全地帯からの「偽善」なのである。
これは、アメリカでもっと盛んだ。

それが、東西海岸地域における、圧倒的な民主党支持である。
かれらこそ、根っからの「拝金主義」なのである。
じぶんたちが、いいひとで「ありたい」のではなく、いいひとに「見せかけたい」のだ。

そうやって、拝金主義がつくる歪んだ資本主義からの恩恵を、ぜったいに手放したくないし、じっさいに手放さない。
拝金主義だから、富の独り占めをしたいのである。
だから、本来的な資本主義である、「新自由主義」を徹底的に批判する。
新自由主義を、「歪んだ資本主義」といって歪めるのである。

つまり、「用語」の意味を勝手に都合よく「変換」してしまう。
これも、一種の「ルール化」なのだ。
拝金主義の多数派は、言葉の意味まで変えるのである。

もちろん、じぶんたちが儲かる仕組みにどんどん変えるのは、彼らがかかわるスポーツも同じだ。
勝てば人気がでて儲かるのなら、勝てるようなルールにする。
こうして、国際競技だってつくられている。

「スポーツ庁」の無意味とはこれであって、さらに国家が国民を縛るのは、まったく社会主義国同然なのだ。

日本が金融大国になる。
どこから、こんな発想がやってくるのか?
『待ちぼうけ』だろう。

それっぽい「金融業」があれば、ある日獲物がやってきて、たっぷり儲けさせてくれる。
そんな「カモねぎ」を待つこと20年。
いまだに現れないどころか、「金融業」が疲弊・困窮してきてしまった。

東京がダメなら、関西や九州で。
日本政府の発想の安易さは、スポーツ庁と同じでとめどをしらない。
国内で優秀と評価されている大学を出て、一度も社会で稼いだことがない役人が、「金融業界」に「店を開けさせる」けど、儲からないのは民間人がバカだと思っているからである。

業界人に「箸の上げ下げ」まで指導(じつは命令)するのは、客前に立ったことのない役人が臆面もなくやっている。
その役人を上手に出しぬく業界人が、視聴者の溜飲を下げるのはどういうことか?を、おなじ視聴者の役人は気にもとめない。

だって、それがお仕事なんだもん。

金融には二種類の機能がある。
・通貨の安定
・資金の融通

通貨の安定は、中央銀行たる日本銀行の業務である。
バブル後にできた、日銀を政府から独立させた「新日銀法」は、ほんらいバブルの反省の意味が込められていた。

これを、安倍内閣は、「旧法に戻す」と脅して、政府に従順させる画策と圧力を日銀にかけた。
もちろん、新日銀法は変えていない。なので、「正式に」政府には、「通貨の安定」を担当する部署も役人もいないことになっている。

いわゆる、「アジアの金融センター」とは、資金の融通の機能をいう。
1986年、イギリスのサッチャー首相が打ち出して、これを実行させたのが、「金融ビッグバン」だった。

ロンドンのシティがこれで復活したとはいうけど、「ウィンブルドン現象」も発生した。イギリス人のプレーヤーは誰もいないで、「会場」だけが活況だからである。
それでもよし、とするのがイギリス人だ。そうして、政府の規制を撤廃した。

厄介なのは、身も蓋も、中身もない「別物」に、「日本版」という名称を用いて、やっとこさ10年後に「日本版ビッグバン」をやって、それっぽく「見せかけた」ことだ。金融庁の規制と権限はしっかり残した。
「ガラパゴス化」は、携帯電話のことだけではない。

政府主導によって、どちら様の業界にも都合がいいように「調整」する。
だから、「自由化」のはずが、「不自由」になるのである。
かんたんにいえば、「妥協の産物」だ。
もちろん、自由化の「範囲」も狭くて、お国の都合である「税」を動かさないし、外国人の査証も出ない。

結局のところ、「出島」をつくるしかないのだけれど、21世紀につくるべきが「出島」となれば、いかに「鎖国」しているのかが国民にわかってしまう。
これが、「痛い」のだ。

さらに、国際金融のルールを日本人は自分から作れない。
政府がしゃしゃり出るし、なにせ、資本主義はいけないことだと「純粋に」思っているから、大陸の中国人にも劣るのである。

世界にない文系・理系の区別をやめて、「技術大国」にしないといけない。
でもやっぱり、この分野も政府が仕切っている絶望があるのである。

「RICO法」の破壊力

残念ながら、この法律はわが国のではなくて、アメリカ合衆国の連邦法である。
正式には、Racketeer Influenced and Corrupt Organizations Act という。

「ラケッティア活動(racketeering activity) によって組織的犯罪を行う組織(enterprise) の活動を規制し、犯罪行為に対する刑事罰と被害回復の方法(民事責任)を規定する」と説明があるけど、いささか難解である。

簡単にいえば、マフィアや違法薬物カルテルなどの犯罪組織に限らず、不法行為を行った個人や企業に対する処罰をする法律である。
1970年、リチャード・ニクソン政権において制定された組織犯罪対策法 を含めた組織犯罪取締立法の一環として成立したので、「共和党」の政策が色濃く反映されている。

違反が摘発されると、最高20年の拘禁刑(前提となる犯罪に終身刑が法定刑として規定されていた場合は終身刑)、および、罰金刑に処せられる。罰金の金額は、個人の場合については、25万ドル以下、法人だとその倍の50万ドル以下の罰金か、この犯罪によって得た額または被害額の2倍以下のうち大きい方で、さらに没収刑も別途用意されている。

個人だと、ビザ申請時での虚偽もこれに該当する。
それで、話題になった解放軍空軍の医学研究者の女性について、「最高20年の懲役と、最高25万ドルの罰金が科せられる可能性がある」と報道された。

日本だと、「懲役または罰金」がよくある刑罰なので、両方やってくるアメリカは厳しい。
なぁに、どうせ州ごとに法律が違うと高をくくってはいけないのは、冒頭に書いたように、「連邦法」だからである。
まさに、悪いことをすると、踏んだり蹴ったりになるのである。

米中の「新冷戦」こそが、現代の「新しい生活様式」にふさわしい確定的な生活環境である。
この重大な事実から、ひとびとの目をそらせるために「コロナ」という、ありもしない病原体を利用しているのではなかろうか?

だとすればあたかも、「コロナとの共存」とは、「中共の温存」を隠すのに都合がいいので、こちらも、「新しい左翼用語」となってくる。
惜しむべきは、わが国に「RICO法」がないので、中共の支配下にあった学術会議という組織を、一網打尽にすることができない。

しかしながら、この度の騒動によって、過去の悪事が次々と暴かれることになったのは、国民には幸いである。
いまだに強弁擁護するマスコミを散見するけど、新聞の不買と広告の不出という手段で追放するのに、まことに都合がいいのも彼らにとっては「不都合な真実」であろう。

個人の不買は、日本国民ならかんたんにできる。
しかし、企業の広告の不出は、企業経営者の判断に委ねることになるから、消費者という国民には、もう一つの、不買をすれば経営者は怖れをなすのである。

ここで、自助を旨とするのが本ブログの趣旨ではあるけど、アメリカ議会という他人が、ぜんぜん別のレベルで日本企業にも迫っている。
なので、より現実的な「排除状況」になっていることを書いておく。

それが、「RICO法」の対象に、中共を「指定団体」とする動きがあることだ。
そうなると、「指定団体」には、その支配下にあると認定される企業も含まれるから、こうした相手と商取引している外国企業も、「同類」と見なされてしまうのだ。

つまり、日本企業がアメリカ連邦政府から、突然「ならず者の犯罪企業である」という「指定を受ける」ことになる。
「可能性ではない」ことに注意したい。

すると、「法人」なので、罰金と没収刑とで、いかほどのお支払いを要するのかを問う前に、企業にとって命ともいえる「信用」が失われることになる。無論、アメリカは輸入禁止をする。
アメリカ政府からの「犯罪者指定」が、世界でのビジネスにどう影響するか?はかんがえるまでもない。

まさに、「一巻の終わり」だ。

日本政府は、こうした「リスク」をいかほどに日本企業に伝達し、警告しているのか?
まさか、同盟国の企業を相手にそんなことはしない、と独りよがりしていたら、とんでもない。

アホな官僚が、アメリカ政府に問い合わせて、安心しているかもしれない。
問い合わせるべき相手は、政府ではなく、議会なのである。
この意味で、ワシントンの日本大使館の情報収集力は、大丈夫なのか?
自民党外交部会長になった、ヒゲの隊長佐藤議員にチェックしてほしい。

わが国のIT化に対する「遅れ」には、「IT活用」もあるけれど、経営者の情報収集が、「地上波TV」と「大新聞」では話しにならない。
最低でも、ネット上の各国ニュースを探る必要があるし、とくにアメリカ議会の動きは目が離せない。

残念ながら、わが国の既存マスコミは、このような重大情報ほど無視して報道しない傾向が高まっている。

その意味で、トヨタ自動車があぶない
いまのわが国で、この会社が傷つけば、いかなる範囲で影響がでるものか?
「衰退」ではすまされない事態になるのだ。

心配しすぎ、がちょうどいい。
トヨタ一社への依存とは、高リスク状態を意味するからである。
くれぐれも、「新冷戦」という「新しい日常」がはじまっていることを忘れてはならない。

これは、かつての「米ソ冷戦」より、たちが悪いのである。

妄想・氷川丸運行計画

子どものころ、横浜港大桟橋からの南米移民船の出港を見たことがある。
記憶が曖昧なのは、それが目的だったのか、たまたまだったのかを覚えていないことである。
うっすらと重なるのは、近所のひとの親戚が移民するので一緒に見送りに行ったような、そうでないような。

人生の「出発」には、「別れ」が伴う。

卒業式しかり、転勤しかり、はたまた最期の瞬間しかりである。
駅ホームでの別れも、汽車の時代から特急電車の時代、そして、新幹線の時代となって、だんだん詩情が薄れた。

汽車の時代は、「動きだしてから」も、まだ「間」があって、乗るひとが走れば飛び乗れた。
特急電車の時代は、窓を開けて、何かを渡せた。花や手紙、ときに「言葉」を渡すこともあった。
新幹線の時代は、ご存じのとおりである。

ところが、船となると様相が異なる。
ただの「物見遊山」のクルーズなら、見送るひともあんまりいないだろうけど、移民となれば、「今生の別れ」を覚悟する。
その切羽詰まった人々の気持が、見送るものと見送られるものとを結ぶ、紙テープになったのだ。

音楽隊の蛍の光をバックに、ドラがジャンジャン叩かれて、静かに離岸する船と、ちぎれ行く紙テープのはかなさと絶叫ともいえる声の塊が、子ども心にも哀しくさせた。
それは、まるで、大地が引き裂かれるような光景であった。

あの紙テープは、どうやって回収していたのか?
いまなら、無情なひとたちが、地球環境とか海を汚すなというのだろう。
「あほらしい」
はるか何十年も前のひとたちの方が、よほど文明人である。

横浜に生まれてそろそろ還暦を迎えるけれど、山下公園に散歩にいけば、そこには必ず氷川丸があって、それをマリンタワーが見下ろしていた。
灯台として世界最高の高さを誇ったマリンタワーも、2008年に灯台機能が停止されて、なんだか抜け殻のようになってしまった。

みなとみらいの高層建築がなかったころは、わが家からマリンタワーの赤と緑の灯りが見えて、大晦日の夜0時には港に停泊中の船が一斉に鳴らす霧笛の音が、腹に浸みて除夜の鐘より馴染みがあった。
その霧笛の音も、高層建築に遮られ、外に出て耳をすまさないと聞こえなくなった。

横浜が、ふつうの地方都市になっていく。

国の全国満遍ない開発と統治の仕組みが、横浜から「特別を奪って」、世界一の港町も、いまや「むかしは」をつけないといけなくなった。
「日本三大港」といういい方すら、ハマっ子的には不本意なのである。
実質、横浜市営からいまは国営の港となって、衰退を続けている。

なんとか大型クルーズ船を誘致しようと、ベイブリッジの外側にも着岸できるように横浜市が投資をしている。
どんな投資効果があるのかはしらない。ただ、観光客は大型バスに分乗して、横浜「以外」の観光地に向かうことはしっている。

「横浜港の象徴」ともいわれる氷川丸だって、ホテルもレストランの機能もなくなって、ただの「博物館」になっていることも、衰退する横浜を象徴している。
「文化財」になったから、往年の椅子に座ることもできないで、もっぱら「見学」するだけの施設になっている。

動いていたモノが動かないままで展示されるのは、鉄道博物館だって同じだけども、客席には座れるようにもなっているし、おりあらばSLだって運転されることもある。

ならば、氷川丸を動かす運行計画はできないものか?

できない理由は山ほどどころではない「不可能」があるにちがいない。
そもそも、氷川丸がいまの場所に係留されるにあたって、スクリューが取り外されて、そのためにエンジン・シャフトも一部が撤去されている。

いや、そうではない、『宇宙戦艦ヤマト』のような改装を妄想したいのだ。

博物館の展示品は、陸上の「博物館」に移転させて、最新のテクノロジーを駆使した、氷川丸再生のイメージである。
新造ではなく、あくまでも「大改修」だ。

「復元」という技術は、新作よりも高度な技術を必要とする。
「街ごと復元」する技術に長けているのは、ポーランド人である。
連合国の空襲やドイツ軍の破壊で首都ワルシャワを筆頭に、ほとんどの街ががれきとなった「壊滅」を、驚くほどの根気と技量で、どの街も「旧市街」を完全復元させている。

こんな歴史をしらなければ、観光客はなんの疑念もなく中世からの美しい街並みを撮影するであろう。
しっていれば、その驚愕の復元に、細部までの撮影をするであろう。
この錆びは、本物なのか?復元なのか?すらわからない。

ポーランドの地方都市で泊まったホテルは、外観は典型的な社会主義時代のものだったから、到着したときには期待値がダダ下がりしたけれど、館内の「最新」には呆然とした。
その快適性は、従業員サービスの素晴らしさと融合して、いまだに忘れられない。

街並みを、復元する。
この費用をだれが出したのか?
こたえは簡単で、市民たちであった。
税ではない、寄付や寄贈である。

横浜市は、カジノ問題で市長リコールなどの反対運動がかまびすしい。
けれども、ふるさと納税で失った市税収入の確保のためという「名分」が市当局にある、と書いた。

ならば、ポーランド人のように、市民が資金と技術を出し合って、「妄想の実現」をしたらどうか?
自己犠牲の精神がすこしでも横浜市民に残っていれば、ではあるけれど。
それには、氷川丸という「象徴」がふさわしいとおもう。

もちろん、民間事業であって、公共事業にしてはならない。

一党独裁への愛が強すぎて

オギャーと生まれてから10年あまり、小学校の高学年である5年生や6年生にもなると、クラス運営にあたっての「民主主義」を体得するようになる。
「意見の違い」という問題が噴出するからである。

それが、思春期のはじまりにあたる中学生になると、簡単に収拾が付かない状態になって、「会議のすすめ方」という国語の副読本での解説が妙に役に立ったことを覚えている。
最近では、思春期のはじまりがだいぶ早まってきているだろう。

会議のすすめ方の第一に、「会議の目的」がある。
目的に沿った議論をしないといけないのは「自明のこと」だけど、かんたんに「脱線」するのは、意見のなかに「屁理屈」が入りこむからである。

とくに、自我に目覚めた子どもは、「屁理屈」をいうことが恥ずかしいというレベルに達していないので、こじゃれた子どもほど「屁理屈」をいって、自画自賛する傾向がある。
このままおとなになると、面倒な奴になる。広義の発達障害であろう。

しかし、屁理屈も論理のなかに含めると、論理展開という意味での訓練にはなる。
正しい論理の導き方を学べば、ちゃんとした「理屈」をいうようになるから、「屁」がとれる。

だから、おとなは子どもに、「論理」を教えないといけない。
むかしは、「お天道さまが見ている」といって、道徳を教えて常識人をつくったけれど、これを、さいきんは「ロジカル・シンキング」といっている。
どことなく、無機質なのは「常識」もロジカルでないといけないからだ。

学校なら教師が、家庭なら保護者が、そして、社会がロジカル・シンキングを常識とすれば、「世迷い言」がずいぶん減って、その分、社会も明るくなるはずだ。

コンサルタントの仕事をしていて気づくのは、「いい会社(良い会社ではない)」は、社をあげて常に、ロジカル・シンキングをしていて、その結果をメンバーの誰もがきちんと行動に移していることである。

逆に、うまくない組織は、これがぜんぜんできていないばかりか、ロジカル・シンキングということさえ知らない文化があるものだ。
だから、上からいわれたコトしかしない、ということが日常になる。
メンバーはバラバラで、全体のパフォーマンスが上がらないのである。

しかも、こうした組織のトップは、パフォーマンスが上がらないことの責任を、自分より下の組織メンバーの「資質」に求めるのもよくある話だ。
「うちの従業員たちは、やる気のないバカばかり」という本音は、「いい会社」がどうやって運営されているのかを知らない、自虐的な告白でもある。

さて、これを国家にあてはめて、本来、野党の存在意義はなにかといえば、与党の施策に対する「論理的批判」である。
当たり前に見えるけど、その「論理的批判」のベースに、かならず「政権交代」を意識していることが条件なのが、本来の「当たり前」である。

批判のために批判する、というなら、「評論家」に任せればよい。
野党といえども、メンバーは選挙で選ばれた、「国民の指導者」のひとりなのである。

この度の「日本学術会議」の任命人事について、たいへん興味深い「屁理屈」を展開しているのが、任命拒否された本人たちと野党と、そのシンパと見なされるひとたちである。
人数にすると結構な日本人が、はからずも旗幟を明らかにしているのは、一種の「あぶりだし」のようにもみえる。

また、その「屁理屈」の論理展開が、ちょっと前の「検察人事」のときと似ているばかりか「そっくり」なのである。
やっぱり、同じひとたちが、同じ屁理屈を掲げているのが滑稽なのである。
こういうのを、懲りないというのだろうけど、ぜんぜん反省もしていないから、悪質なのだ。

彼らの「世迷い言」とは、「議院内閣制の否定」がその根底にあるからだ。

わが国では、国政選挙のうち、下院にあたる衆議院議員選挙が行われて、当選者多数の支持を得た政党が、議員のなかから「首班」を選んでつくるのが「内閣」としている。
これを、弁護士でもあり、民主党政権で官房長官をやった、いまの野党党首が知らないはずはない。

しかし、彼らは、「行政官」である「検察官」の人事に、行政当局の、会社にすればいわば「取締役会」にあたる内閣の介入を「無法」だと強烈に批判したのである。
そして、検察官の人事は検察官に任せろと主張した。

検察官の人事に、ときの政権が介入すれば、政権の不法行為を取り締まることができない、と。
しかし、民主主義のルールでは、政権の不法行為を取り締まるのは、検察ではなくて、国会である。そのために、衆参両院という二院制なのだ。

この意味で、一院制ではあぶない。
参議院不要論があるけど、そうではなく、上院としての参議院の権限を強化する必要があるし、もっといえば、選挙方法を変える必要もある。
衆議院のコピーだから、不要論が出てくるのだ。

野党が弱小だから、国会で取り締まれない、ということの論理は、小数の国民しか自分たち野党に投票しないから、でしかない。
つまり、「国民がバカだ」といっているに等しく、どうして国民が支持しないのか?というマーケティングすらしない独りよがりを貫いている。

予算を全部国から得ている学術会議という組織が、組織内部で決めた人事に内閣が口を出すなという論理は、上述の検察官人事と同じなのである。

これは、共産党が決めた人事に政府が口を出すなという論理そのものだ。
わが国が、一党独裁の政治体制ならば、「通る」話しではあるけれど、いまは一党独裁どころか、官僚独裁で政権党は官僚のいいなりだから困るのだ。

つまり、一党独裁への愛が強すぎて、もうすでに一党独裁になっている、という「白日夢」を見ているひとたちが、自分からそれを「告白」しているのが、「学問の自由を守れ」という、人事とは関係のない議論のすり替えをしているにすぎない。

哀れな精神病理がここにある。