「デマ」との闘い

世紀のデマ。

これが、「コロナ禍」の真相である。
しかし、おおくのひとが聞く耳を持たなくなっている。
デマであろうがなかろうが、「安心」を最優先させる思想が、日本人の心を支配するからである。

一方、5月にボチボチはじまってはいたが、今月1日から大規模化したドイツ・ベルリンで発生した「反コロナ対策デモ」が止まらない。
一昨日の29日には、3万8000人が参加し、そのうち暴徒化した300人が逮捕されたとBBCが伝えている。

暴徒と化すのは感心できないけれど、政府による「規制に反発する」という態度は、「自由の侵害」という基準からすれば当然である。
かつての「同盟国」ドイツ人は、どのような思想で戦後を生きてきたのかがわかるデモでもあるのだ。

すると、反対に、日本人はどのような思想で戦後を生きてきたのか?
「自由と民主主義」という用語が、なんだかむなしかったのは、「空っぽだった」からだと確認できることになった。
むしろ、いま、日本人は自由と民主主義を「無視する」ことを、あたらしい日常といっていないか?

政府の失敗をいろいろ指摘しているひとたちはたくさんいる。たとえば、国境封鎖が遅れたとか。
けれども、第一に、政府は失敗するものだという「前提」がある。このことを忘れて、コロナ対策だけを間違えているというのは間違いである。
いつものことの「一部」にすぎないのである。

一連のコロナ対策で、このブログで指摘している政府の失敗は、緊急事態宣言を出して、終息宣言を出したら「元に戻る」とかんがえたことだ。
すなわち、法律の定めによって、巨大な権限を首相=政府から、各都道府県知事に「委譲」したのが緊急事態宣言だったけど、終息宣言をしてもその権限が元に戻る「ことはない」ことを予測できなかったことにある。

これは、地方の反乱なのである。反乱の予測ができない中央の傲慢さ。
いわば、廃藩置県以来の、中央集権国家における地方政府たる都道府県が、「藩」に戻るという現象を起こしてしまったのだ。
このことの重要さがいわれていない。

たとえば、中央政界を仕切るのは、圧倒的多数の与党である。
本人がこの与党の党員であったり、与党が支持・支援して当選した知事たちが、天領のお代官さまでいるのでもなく、ちゃっかり政府に対抗している。
その筆頭が都知事であるけど、だれもこれをとがめない。

その原因は、自由と民主主義を前提とする「法治の建て付け」が、もともと空虚だったからである。
さらに、わが国最大の政権与党が、「近代政党ではない」という大欠陥を露呈していても、国民がこの欠陥にぜんぜん気づかない。

さらにこれを気づかせないように、このタイミングで辞任表明した首相は、この一点だけで、歴代最高の総理大臣であるのは確かである。
政権与党の最大の欠陥を身体を張って、とにかく隠蔽することに成功させた功績は、与党にとっては100年に一人の逸材であったといえるからである。

ただし、このほかは、長期政権だったということ以外、ほとんど功績がないという特徴がある。それは、後継者がいないということでもわかる。
トップの責任には、後継者づくりがあるからだ。
わが国を長期衰退させたのを、功績と評価する外国はあるだろうけど。

都道府県知事は、内閣総理大臣と「ちがって」、住民による直接選挙で選ばれるから、「おらがお国の大将=藩主」になりえる。
これを、中央政府による、さまざまな「規制」と「制約」によってつなぎとめていたのもを、緊急事態宣言で中央政府が自らこの糸を断ち切ってしまったのだ。求心力ではなくて、遠心力となったから、物理法則である。

西洋風にいえば、「パンドラの箱」を政府が自分で開けたのだ。
パンドラの箱とは、全知全能のゼウスがパンドラに、あらゆる災いを封じ込めて人間界に持たせてよこした小箱のことで、これを開けたために不幸が飛びだしたが、急いで蓋をしたため希望だけが残ったという話だ。

ギリシャ神話ならすぐさま閉じて「希望が残った」けれど、日本政府はなにもしないから、とうとう希望も失せた。
知事たちの反乱に、政府は為す術をもたなかったのではなくて、上述の「建て付け」が狂って、締めようにも締まらなくなったということだろう。

すなわち、自由と民主主義でもないのに、それを装って「法治国家」だと言い張ってはいたものの、とうとう戦後のバラックづくりの建物が、ちょいと一本木材を抜いてみたら、音をたてて崩壊してしまったようなものである。

さらに、まちがったリスク管理もある。
いつの間にか日本人は、「リスクは避けるもの」がこうじて「リスクは絶対に回避するもの」になった。この「回避」には、「逃避」という意味もある。
だから、徹底的にリスクを嫌う。

しかし、リスクあっての「利益」であるから、リスクはあくまで「コントロール」すべきものなのである。
コントロール(制御)するのは人間だから、ひとが主体になってリスクに立ち向かう、というイメージになる。

リスクに立ち向かうことができなくなったのは、バブル崩壊による「ショック」(精神病理)による。
これは、「心的外傷後ストレス障害」であるので、30年前に罹患した病気が治癒しないばかりか悪化しているのである。

さらに、75年前の敗戦・占領というショックからも立ち直っていないから、日本人の心の傷による病は、年輪のように重なっている。

以上のように、一見複雑そうにみえるけど、あんがい解きほぐしてみれば、めちゃくちゃ複雑でもない。

コロナ禍とは、こうした日本人がつくる「社会が生みだした心の病」なのである。
だから、感染症の専門家が正しい情報を提供しても通用しないし、政府の専門家会議のトップが「収束に向かっている」と発言しても、知事という医学の素人が平気で否定できて、そんな知事たちの支持率が高いのである。

こうしてみれば、精神医学か社会心理学の専門家による「教導」が必要なのだけど、それがまたデマだと目も当てられない。
ならば、原点に立ち返って、「自由と民主主義」の本質を確認するという態度が、どうしても必要なのである。

ドイツでのデモが、それを教えてくれているのだ。
ただし、この報道にも「極右」という用語が埋め込まれているから、報道を装った誘導に注意したい。

コロナ「崩壊」のシナリオ

なんだかわからない8月の「夏休み」も終わって、来週には9月になる。
いつもの年なら、『誰もいない海』(1967年)の歌詞の通り、黄昏の秋がはじまるだけなのだが、「働きてが誰もいない」状態になりそうな、嫌な予感だけが迫ってきている。

いまさらだけど、わが国経済はとっくに「内需型」に変換されている。
かつての「輸出依存型」ではないので、「貿易黒字」が溜まりすぎてアメリカから叱られることもなくなった。そのかわり、「貿易赤字」というはめになっている。

産業構造が、「サービス化」して、鉱工業従事者の3倍以上がサービス産業に就労している。その割合は、就労者の7割にもおよぶ。
ここから、金融とIT系という「稼ぎ頭」を除くと、ざっと6割のひとが「人的サービス業」に従事している。

昨年19年度の就労人口は、5660万人(役員除く)なので、念のため役員も入れれば、大まかに6000万人が「働くひと」の総数なのである。
すると、6000万人×6割=3600万人が人的サービス業にいる。

人的サービス業とは、旅行・交通・宿泊・飲食・理美容・医療・小売・流通といった、接客をともなう業態をさす。

3月にはじまった雇用調整助成金のコロナ対策は、半年間を前提としていたから、9月で期限がやってくる。
これを「伸ばす」動きはあるが、「永久」ということはあり得ないので、いつかは終わりがくる。

すると、いきなり「倒産」にはならなくても、「雇用調整」=「解雇」が大量に始まると予想できるのだ。

もし、半分なら1800万人、その半分で900万人が失業するかもしれない。
一気にこれだけの数は、大袈裟ではなくて「雇用の崩壊」を意味するのである。

まさに「未曾有」の状態で、あり得ないほどの「社会秩序の崩壊」にもなりかねない。
失業保険があっても、就職先がみつかるはずもない。
それが、利用者激減のコロナ禍によるからである。

職を失っても、あらたに別の職に就くことができれば、とりあえずなんとかなる。
しかし、いるはずの利用者が「いなくなった」のがコロナ禍なのだから、あらたに職がみつけることは困難だろう。

すると、日本人が戦後連綿として作り上げ来た、社会システムとしての「中間層」に巨大な穴があくことになるのである。

「観光客」とは、人類史でみれば、産業革命による労働者のことを指す。
その労働者が、職を失ってしまえば「観光客」もいなくなる。
「Go TO」どころではないのである。
しかし、だからといって「観光業」だけにショックがくるということでもない。

「産業連関」という「つながり」をかんがえれば、すべての産業に影響するのは、予想される失業者数が「巨大」だからである。
自動車も住宅も、購入層がいなくなればどうなるのか?
金融機関は、パニック的な「貸し剥がし」をする可能性が高い。

9月から2ヶ月後の今年の11月には、世界史的投票が世界の二箇所で行われる。
第一は、アメリカ合衆国大統領選挙で、第二は、スイスの国民投票である。
スイスの国民投票は、年に数回行われるので、これ自体は珍しくもない。

ただ、11月に予定されているのは、世界にとって極めて重要な選択なのだ。
それは、「人権蹂躙する国に、スイス企業はつき合うか否か?」を問う国民投票だからである。

もし、この投票結果で、「スイス企業はつき合ってはいけない」となったとき、スイス企業であるスイス銀行は、わが国の隣の大国支配者たちの「口座を閉鎖」するかもしれないのだ。
その額は、「1200兆円」ともいわれている。ゼロは二個でまちがいない。

そんなわけで、わが国の外では、大きなことが決められる時期が重なっている。
しかし、わが国の中で、コロナ禍を収束させる動きがないなら、つまり、これまでの延長でしかないなら、自己崩壊をはじめる運命が迫ってきているのである。

マスコミは、国民への「洗脳」をどう解くのか?

ありもしない「病」を、政府だって地方政府だって、どう始末をつけるのか?が問われているのに、病があるという前提に立つのは、「ワクチン」という利権のためか?

いまこそ、人的産業に従事するひとたちは、職をかけて戦わないと、黙って職を失う崖っぷちにいるのだ。
「貸し剥がし」がはじまれば、役員だって失業する。
会社がなくなるからである。

冒頭の数字に役員も含めたのはこのためだ。

つまり、「産業」がなくなる可能性がある。
だから、「未曾有」なのである。

こうした事態に、官僚支配の政府は無力である。
「未曾有」な事態に、官僚は対処できない。
それが「官僚」だからである。

いよいよ、自分でかんがえて行動することが求められている。
これは、「訓練」ではない。

「締付け」しか効かない金融政策

「異次元の金融緩和」という、「異次元」な発言をしてから何年経とうが、わが国の経済は成長しないし、デフレだって止まらない。
インフレ目標「2%」は、絶望的に達成見込みがたっていない。

マネジメントの鉄則「科学的アプローチ」という基本にあてて、第二段階の「事実をつかむ」と最終第六段階の「確かめる」からすれば、異次元の金融緩和は「効かない」ということになる。

このことは、アベノミクスが実行されてすぐの、かなり前から野口悠紀雄氏が指摘している。
当時の政府経済顧問をつとめた、浜田宏一イェール大学名誉教授の提唱だったことも暗に批判していた。

その浜田氏もとうとう「変節」の発言をしたけれど、いったん決まった「政策方針」は滅多なことで「変更されない」のが、わが国の官僚体制だから、鳴り物入りで日銀総裁になった黒田財務官は、2年でデフレ退治するといってはみたが、史上最長政権とおなじ時間をかけても達成できていない。

むかしなら、これだけの時間をかけずとも、日銀批判がかまびすしいことになりそうなものだけど、いまだにこれだけの時間をかけても日銀批判がメジャーにならないのはなぜなのだろう?

もしかしたら、恐ろしい「経済オンチ」ばかりが政権周辺にいて、それが国会に及んでいるし、マスコミにも浸透しているからではないのか?

アメリカ人は、あんまり優秀ではない、といってなんだかバカにする傾向がわが国にはあるけれど、当たっているときと外れているときとがある。
アメリカという国の複雑さは、万華鏡のようなもので、ちょっと角度をかえるとぜんぜんちがう模様になることを意識しないといけない。

『サイエンス』という有名雑誌を発行しているのは、「アメリカ科学振興協会」で、この協会が1989年に発表した『すべてのアメリカ人のための科学』という文書がある。
ちゃんと日本語版もあってPDFをダウンロードできるから、「日本人のため」と読み替えるといいだろう。

世界の文明圏で、学生を「文系」と「理系」にわけることをしているのは、わが国しかないし、それで学生の就職募集もやっている。
テクノロジーを基礎として文明生活をしているのだから、日本的にいえば「文理」を教育の基本方針にするのが「ふつう」なのである。

このわが国「だけ」ということで、わが国が目を見張る成功しているのなら文句はないし、ならば世界がこれを真似るはずである。
しかし、そんな真似をする国や地域もないのは、この30年間で経済成長しないどころか衰退しているのが、わが国「だけ」だからである。

すると、冷静にかんがえれば、世界はわが国のやり方を、「反面教師」としているにちがいない、ということしか浮かばない。
だから、テレビの「日本スゴイだろ」という自画自賛番組は、世界からの視線を国民に気づかせないためのプロパガンダであるといえる。

さて、金融緩和政策について、上述の野口氏は「糸で押すようなもの」と表現していた。
対して、金融締付けは、「糸で引っぱるもの」というから、わかりやすい。

アメリカの態度が一変した原因をつくったのは、ウィルスをばらまいたというだけでなく、「国内」といっている異民族の区域での凄まじい人権弾圧とか、香港でのことだから、「おいおい、なにしてるんだ」という立場がでてきて、それが「敵の特定」ということになった。

こうしたいきさつを時系列化すれば、議会と現政権は、科学的アプローチという基本を守っているのである。
さすれば、日本人なら、80年前にわが国がやられた方法と、どこがどうちがうのか?をかんがえることが必要になる。

状況と価値観のちがい、ということが大きな変数になっていることに注目すると、わが国は「同盟国だから」アメリカを支持するしかないとかんがんえる以前に、なにがどうなってこうなったかということに注視すべきだろう。
原因があって結果となる。これが「因果関係」というものだ。

しかし、なんだかわが国の財界は、「果因」という逆文字の熟語を発明したらしい。
これは、「埋没原価(費用)」の間違った判断がされている、ということがあってのことだろう。

大きな投資をした国があって、そこから「撤退」するには、過去の投資を「棄てる」覚悟が求められて、その覚悟ができない経営者ばかりがわが国の企業だということなのだ。
しかし、経営者だけが問題ではなく、株主が理解できないかもしれない、という不安こそ、経営者のこうした判断を助長しているとかんがえるべきだろう。

さて、アメリカ人は科学的に、議会で法律を制定し、これを政権が実行する。
人権弾圧に関わった個人と家族の資産を凍結するならまだしも、こうした人々を顧客に持つ金融機関にも制裁をすると決めたのだ。

その方法は、「ドル決済の禁止」である。

彼の国の金融機関のおおどころのほとんどが、この「締付け」の対象となる。
つまり、わが国企業も事業における「決済」ができなくなるのに、どうして新規投資をしようとするのか?

これこそが、株主が注目すべきことだろう。

温泉を殺す公共の温泉

温泉宿の温泉しらず。

よくいわれる皮肉である。
だけれども、図星でもあるから耳が痛い向きもいるだろう。
耳が痛いのは、図星をいわれたストレスがそうさせる。
だから、気がつかないひとには何もストレスを与えない。

これは、天然資源でもある「自慢の温泉」なのに、泉質もなにも研究しないで放置している状態をいう。
この温泉の特徴はなんですか?と質問されて、「美人の湯です」と答えるなら、どうして美人の湯なのかの根拠ぐらい識っておけといいたくなることがある。

ちゃんとした温泉ならば、更衣室あたりに必ず、「温泉成分表」やら「加水」や「加温」の有無を表示している。
けれども、温泉成分表の見方とか、それがどんな意味なのかを説明した掲示がひとつもないのも特徴になっている。

じっさいに、主人や女将あるいは、「湯守」がどこまで自家の温泉についての知識があるのか?

「湯守」の代表的な仕事は、温度管理である。
天然温泉なら、こまめに温度管理をしないと、「熱くて入れない」とか「ぬるくて入れない」といったクレームになる。
小さな宿なら、バルブの開け閉め具合でこれを調整する。

バルブのわずかな動きで温度がかわるから、専門家としての「湯守」が仕事として成立するのである。
客の到着時間にあわせて、ぴったりの温度にするには、経験だけでなく統計データの処理ということも業務のうちにある。緻密なノートが彼らの「宝」なのだ。

いまの風呂の温度、いまの源泉の温度、いまの気温と予報、露天なら風速や風向き、そしてあわせたい時刻までの時間があって、いわゆる「多変量解析」をする。
それでもって、はじめてバルブをさわるのだ。あとは、「勘」である。

温浴施設となると、機械がこれをやってくれる。
しかし、どんな温度設定にするのかは、あんがい経営方針で決めるのである。
「ぬるい」と客が浴槽に滞留して、新規入浴客があぶれてしまう。

すると、客一人の動きを「粒」に見立てれば、「流体力学」のモデルのようなイメージなって、もっともスムーズなコントロールができる。
けれども、あんまり温度調節だけに依存すると、常連客が嫌がるから、全体の流れを読むことが重要なのである。

「民営の強み」はここにある。

だが、この国はソ連型の社会主義国なので、「官営」の温泉施設がたくさんある。
官営の特徴は、利益をださない工夫を「建前」に、儲けたいという「本音」を「隠す」ことにある。

むかしは、「民業圧迫」といって、さまざまな業界が「抵抗」した。
その大本が、経団連だったのだけれど、すっかりソ連型の「補助金欲しさ」に目がくらんで、「乞食の総本山」に転落した。
そんなわけで、商工会議所とか青年会議所とか、さまざまな業界団体も、みんなで乞食になる努力をしたのである。

利益をだしていないから、民業圧迫ではない、という言い分は、施設従業員(=役人が支配人とかをしている)の給料が高額だからである。でも、施設管理者となるひとたちの委託料をケチるから、赤字にならないようにしている。

それでも赤字になるのは、施設に魅力がないからである。

建設費には異様なおカネをかけられるのは、その自治体の上位団体から補助金がでるからで、「もらわないと損をする」という、やっぱり「乞食の発想」をするからである。
立派な建物=稼げる施設、にはならない。

むしろ、建設費をたいそうかける分、ランニングコストも跳ね上がるようにできている。
だから、建物とうってちがって、内部の貧困がかえって目立つのである。
それで、仕方がないから、役所がつくった意味不明のポスターをあちこちの壁に貼って、高価な内装も台無しにしてしまう。

このセンスの無さは、あんがい「景観」を台無しにする感覚と同じだから、できるだけこの手の施設は使わない努力をしている。
しかし、最近は出自を明かさない、広義の「偽装」が行われていて、公共の温泉とは気づかせない施設がある。それで、うっかり利用してしまうのだ。

もちろん、入口周りで気づくのだが、はるばるやって来た勢いで、そのまま入館券を購入すれば、まことに役所の窓口と同じなのである。

温泉好きにとって、最悪なのが「循環式」である。

浴室などにある「この温泉の特徴とその説明」によれば、日量600立米を超える豊富な湧出量を自慢しているはずなのに、湯船から湯が溢れていないなら循環式である。
そっと湯の匂いを嗅げば、塩素臭がする。

「事故防止」が最優先なのだ。

なので、浴室の清掃もおろそかになる。
消毒しているから、安心だ。

有限の天然資源である温泉をこんな扱いにしておきながら、必ずどこかに「サステイナブル」をうたったポスターを館内にみつけることができる。
こうした分裂症状を、ぜんぜん分裂と思わないのは、ほんものの病気である。

全国の自治体に、直営の天然温泉施設は作らせても運営させてもならない。
ゆえに、いまある施設は、早急に民間払い下げを実施させ、入札候補者がいないなら閉鎖すべきである。

同じ地域にある民営の温泉施設では、「あそこは汚いし湯もよくないから行かない」と、常連さんが湯船の中で問わず語りに話してくれた。

正解である。

絶望的な温泉宿の破産

2年も前に「絶望的な温泉宿」というタイトルで書いた宿が、こないだ破産したというニュースがあった。
まるで、コロナ禍の被害のような書き方ではあったけど、ぜんぜんちがう。

振りかえれば、2年も営業していたのが凄みとも思えるのである。

倒産や破産など、残念な事態が発生するのは、やっぱり経営に失敗しているのである。
このごく一般的な状況からの破綻は、いつでも起こり得るので、コロナ禍にあっても発生している。その意味で、本当のコロナ禍が原因の経営破綻は、これからの秋口から発生するとかんがえられる。

つまり、この秋前の破綻とは、一般的な経営の失敗によることが原因になっているとかんがえられる。
ただし、早く見切りをつけた場合の「店じまい」はまた別の判断によるものだから、これを「破綻」とはいわない。

「秋口から」という理由は、雇用調整助成金の期限があるからだ。
コロナ発生の春から始まった制度で、半年間が当初の助成期間だったから、「秋」が問題になるのである。
いきなり破綻せずとも、雇用の終了すなわち「解雇」が大量に発生することが予想できる。

わが国でほとんど不可能な正規雇用のひとの「解雇」ではあるけれど、事業継続が困難となったことが「解雇事由」となれば話は別である。
これを「会社都合」という。

逆にいえば本人が犯罪を犯した以外、事業継続が困難でないなら、解雇はできないと考えるのが妥当である。
すると、従業員側は、自社の経営情報を普段から知っていないと、ある日突然、解雇されることがあるということになる。

この意味で、経営者の経営情報開示義務は、株主だけでは済まないのだが、わが国ではあんがい重要視されていない。
個人経営の株式会社の場合、株主総会でさえも「書類だけ」というのがふつうである。

公認会計士による会計監査を経るのではなくて、税理士がつくる決算をもとに、税理士がそのまま「総会議事録」を書いて、それに株主が押印すれば便宜的に総会をやったことになる。

こうした会社の場合、決算書すら本当の株主だって見ていないかもしれないのだから、ましてや従業員に開示するという手間をかけることはまずないといえる。
それに、「36協定」ですら締結していないのが「ふつう」だから、従業員から経営情報の開示要求をすることもないのは、「従業員代表」も選出していないからである。

このように考えると、この国の労働問題は、その実態として「労務問題」にもならないレベルなのである。
そうすると、労働組合が存在するということは、こうした企業で働くひとたちにとっては、まったく想像も及ばない「別次元」のことになるのである。

想像も及ばないから、自分たちで労働組合を設立しようとかんがえることもない。なので行動もしない。
もちろん、会社側=経営者は、自社に労働組合が設立されることを「よしとしない」という常識がある。

これには、思想的に怪しい労働組合がたくさんあって、「活動家」が事業の妨害行為をするかもしれいと畏れるからである。
こうして、まったく「労働三法」どころか、「労働基準法」による「保護」すら得ることがないでいても、痛いとも痒いともおもわないひとたちがたくさんいるのである。

労務問題であれば、社会保険労務士という「士業」があるけれど、雇い主はほとんどの場合、経営者になる。
ならば例えば、「社会保険士」と「労務士」とに分けて、経営者は社会保険士を、労働者は労務士を雇う方法をかんがえてはいかがか。

あるいは、労働基準監督官の定年退官者を労務士として登録し、労働者保護のための活動をさせるべきであろう。
当面の目標は、すべての事業所に「36協定」を締結させることである。

つまり、働くひとへの2大義務を課すことが重要なのだ。
・経営情報の開示
・36協定

これは、上述のように経営者には「痛い」と思われるだろうけど、倒産させないための「保険」でもあるのだ。
なんとなれば、従業員の働きの「質」こそが、その企業のパフォーマンスを決定するからである。

経営との一体感を持つための、「最低限」がこの2大義務であろう。

だから、法制化すべきである。
法は、最低限のルールであるからだ。
これに、「任意」として加えれば、働きの「質の向上」すなわち、目的合理的な労働による「付加価値の向上」のことになる。

優良企業は、自然と「付加価値の向上」に常に取り組んでいる。
仕事内容の分析を通じて、改善を怠らないのはこのためだ。
残念な企業は、こうした努力をいっさいしない。
「やり方」をしらないだけでなく、「動機」すらないのである。

だからこれが、倒産の理由なのだ。
2大義務を課すと、従業員側からチェックが入るけれども、それが経営者の「動機」になったり、従業員からの付加価値の向上「提案」になったりする可能性がある。

資金を提供する金融機関だって、2大義務の項目がなければ融資できないとなれば、審査も簡単になってスピードアップする。

融資が受けられないかもしれないなら、経営者は「やるしかない」だろう。

病気になったら麦を食え

新聞記者のことを、「聞屋(ぶんや)」といって、あんまり感心しない職業人のイメージを庶民がもっていた時代は、いまよりもずっと健全だった。
「新聞屋」から「新」を略したところも、なかなかの意味深である。
ようは、人づてに聞いてきたことを文章にしてこれを「売る」から、「売文」稼業のことをいった。

これじゃあ格好が悪いので、テレビが『事件記者』という宣伝ドラマをつくって、「鉄は国家なり」とか「造船大国」の時代の、就職先にあぶれた学生を新聞社が胸を張って募集するきっかけにした。

なんだか高級な仕事にしたいから、記者になるとハイヤーで移動するのは、いまでもやっている。
社内で既得権化して、タクシーを使えともいえず、ましてや地下鉄をや。
新聞社の経営が傾いても、既得権はそのままに、他者(社)の既得権を批判するから、やっぱり「聞屋」なのである。

「貧乏人は麦を食え」

この「傑作」ともいえる新聞見出しの作文は、ときの大蔵大臣、のちの総理大臣となった池田勇人の発言を、みごとに切り取って造語した、まったく褒めてはいけないものが、独り歩きして有名なフレーズになって残っている。
池田はこんなことを言ってはいない。

このときの発言では、むしろ、自由主義経済を原則に経済発展させたいという文脈(まさに「新自由主義」の主張)こそが重要なのに、ぜんぜん伝わらない「罪」があるけど、だれもこれを「罰」っしないことが問題なのだ。
今日までの戦後政治家で、池田しか経済発展の基本を理解した者はいない。

ただし、池田の「所得倍増計画」は、総じて「ケインズ主義」となってしまって、本来のハイエク的思想が溶解してしまった。
これが、平成不況を通じていまのコロナ禍経済政策にもなっている。
まさに、わが国はケインズに殺されようとしているのである。

ケインズの経済政策は、国家が投資して経済をけん引する仕組みだから、じつは「社会主義に含まれる」のだ。
ケインズ自身、「不況時だけに使え」といった理論なのだけれども、いったんやったら止まらないのが役所の行動原理なのである。

さて、「麦」と言っても小麦ではなく「大麦」である。
スーパーの米コーナーに行けば、「もち麦」とか、「押麦」を売っている。レンジでチンすれば、すぐに食べられるパック入りの商品にも、「もち麦」や「大麦」を打ち出した商品が売れていて、ときに欠品すら見かける。

健康ブームといわれて何年経つか忘れたけれど、もはや「ブーム」ではなくて「生活常識」のひとつになった。
放送大学の科目にある「食と健康」のテキストには、冒頭、「野菜を食べたら健康にいい」という程度の知識を大学で学ぶのではない」とあって、そもそも「消化」とは何かから授業がはじまる。

いわれてみればその通りで、人間(生物)の体は、化学工場であるから、食材の栄養を分子レベルで吸収している。なので、分子をつくる原子の構造から授業はスタートする。
中学校の理科や高校の化学でやることを、放送大学は丁寧に復習することからやるのだ。

いまはふつうに「高校」というけれど、本来は「高等学校」だから「高等」なのである。けれども、「高等」なことがふつうになったので、なんだか大したことはないように思うのも人間だ。

だからといって、社会が高等になるものでもないのは、コロナ禍のマスク着用義務や自粛警察がそれを表している。
このひとたちはよほど、高等学校の化学など理系の科目をサボったか、教師の教え方が下手であったことの犠牲者なのだろうと思える。

ぜんぜん科学的でないし、むしろ科学を無視してただ情緒的に行動するからである。
たとえば、量り売りの酒類を扱うスーパーの店員は、ボトルにさした漏斗を浮かせて空気抜きをしないから、ゴボゴボこぼれて苦慮してしまう、とか。

外食や旅館の利用が激減して、経営者の悩みは尽きないけれど、資金が尽きたらおしまいである。
ならば、これまで以上に目的地として選ばれるかは、これまで以上に死活問題なのである。

上述のように、スーパーで売り切れ・欠品続出の「麦」とはなにか?
経験的にあるいは検診結果で、健康にいいことが「はっきりわかった」ひとたちがたくさんいる、ということである。
なのに、街の食堂や宿でこれを「提供しない」のは何故か?

江戸時代までの日本人で、糖尿病を発症するのは為政者しかいなかった。
平安時代の全盛期、藤原道長の病状も記録にある。
けれども、いわゆる一般人たちは、麦入りの米なら「上等」、半々なら「中等」、それ以上麦なら「下等」、米なしで他の雑穀混合なら「等外」という等級づけで、何等がいちばん多かったのか?

白米100%ということはほとんどないからこれは、上等の上をいく等外である。
人口の8割がいた、農家は「下等」かその下の「等外」が常識だった。
米を作っても、作り手はこれを自家消費したりはしない。残すのは、来年の種籾だけがふつうであった。

池田の発言は、1950年12月7日の参議院予算委員会でのもので、日本人が歴史上はじめて皆で米を食べ出して、米価が高騰していた時代背景がある。

「麦食」に先祖帰りすると、わたしたちのDNAが良き反応をするようになっている。

詫びない宿の残念

滅多にないけど、たまに「当たり」があるクジとおなじで、「まいった感」たっぷりの宿に遭遇することがある。
結論を先にいえば、二度と利用しないという決心をすることになるので、改善のためになる文句すらいわずに退散するのが一番いい。ただ、このブログの読者には、「事例研究」として情報提供したい。

山梨県のとある市にある宿である。
この街には来春に、初めてとなる大手ビジネスホテル・チェーンの開業が報道されていて、実際に建設途中の建物を見ることができる。
なぜにこの街に進出するのかをかんがえれば、宿泊施設の空白地帯だからであろう。

かくいうわたしも、この街にこれまで宿泊したことがなかったのは、数少ない施設のため、ほとんど予約がとれないからである。
いってみれば、競争がない状態ともいえる。
これまで通過を余儀なくされたひとたちの需要を見込んだから進出をきめたはずである。

しかして、決定前には現地調査というのを必ずおこなうのが大手である。大きな投資を伴うから、取締役会だけでなく株主にも妥当性の説明義務がある。
果たして、この宿も調査対象になったはずである。そして、まちがいなく「敵にあらず」という結論を出したのは、実際に進出を決めたからである。

蛇足ながら、「調査」とは、実際に企画担当者が利用することをいう。規定のチェックシートもあるはずだ。
それには、建物・施設・設備といったハード面と、人的サービスについてのソフト面とがあって、内部評価するのである。

全国に400店舗以上を運営する大手にあっては、いつもながらの「調査」であるから、かなりお役所的で機械的な調査になっている可能性が高い。
なぜなら、そうでないと一定の基準による評価ができないからである。
だから、この場合の機械的というのは、目的合理的な「いい意味」である。

それで、当該の家族経営による宿に話をもどすと、おそらく大手の進出について、こちら側も「脅威」に感じていないはずである。それは、街の中心にあるという「立地」の有利に変わりはないからであるけれど、悲劇的な「鈍感」さも理由に挙げることができる。

今回、不可能が可能になって予約できたのは、コロナのおかげでもある。
旅行日程上、この地の滞在がポイントになったのでダメ元覚悟で予約の電話をした。
「電話」なのは、いまどきHP上で予約ができないし、ネットの旅行代理店とも契約していない。部屋数が6室しかないためであろう。

トラブル自体は単純で、夫婦での旅なのに、チェックインを終えて部屋に入ればシングル・ルームだった、ということである。
ベッドだけでなく、スリッパからタオルまで「シングル」なので、早速にフロントに電話した。この対応が、「クジに当たった」のである。

ご予約時にシングルと確かにおっしゃいました。

と、フロントの女性は啖呵を切ったが、予約の電話は初老の男性とおぼしきひとだった。なぜに、ここまでいい切れる自信があるのか?理解に苦しむ。それにチェックインでは、夫婦で荷物を持っていたでしょうと伝えると、想像を超えた返答がきた。

お一人様は帰られるのかと思った、と。

しかし、これでは寝むことができないので困ると伝えたら、エキストラベッドを入れるので待ってくれという。
いつまで経っても来ないので、再びフロントに電話すると、同じ女性が忙しいので行けないからもう少し待っていてという。

しかも、素泊まりなので夕食に部屋を出る「はず」だから、そんなに急ぐこともないでしょう?と。
いいえ、当方は部屋から出る予定はない。
地元の「名物」を買い込んで、部屋飲み、をしようという魂胆だからだ。

結局、チェックインしてから1時間後にベットを運んできた。
準備ができたら、帰りがけ、ようやく「お待たせしました」とは口にしたものの、同時に、追加料金がかかるという。ここは、狐の宿か?

しかも、孫の小学低学年とおもう女の子が爺じと一緒にやってきて、「まだなの?早く行こうよ」といっている。爺じはこちらに笑顔で「すみません」といったから、こいつが予約電話の犯人だと確信した。
奇しくも親子三代がやってきたわけだ。

呆れてものがいえないけれど、これは関東人の典型で、関西人なら黙っていないだろう。

室内のライティングテーブルには、山梨県知事の顔写真入りご挨拶文があった。
「感染すな」といいたいのか、「ようこそ」といいたいのかが不明な不思議な文面である。さすがは元財務官僚。お役所言葉が上手である。

どういういきさつでこんなものが部屋にあるのかしらないけれど、どうして県知事のメッセージを読まねばならぬのか?こういう「介入」を許すから、客が優先という発想も失われるのだろう。

なんだかこのひとたちの未来が暗くて気の毒になった。

そっちの技術の日産か?

神奈川県の県央にある厚木市と伊勢原市の境界に、日産テクニカルセンターがある。東名高速道路を東京から下って、厚木インターを通過し、新しくできた伊勢原ジャンクションの手前右手の山側にそびえる白い巨塔群がそれだ。すぐ近くには、先進技術開発センターもある。

わが国の自動車産業の歴史をいまさら語ってもせんないけれど、トヨタが豊田市にあるのか、トヨタがあるから豊田市なのかはいわないものの、「地元密着」の企業であることに変わりはなく、社業の拡大がそのまま「県」を超えて中京圏の経済を支えている。

対する日産は、プリンス自動車との合併「など」、あんがい通産省などに主導権を握られてきたからか、神奈川県に主な事業所があるのに神奈川県民があんまり「地元」を意識していない不思議がある。つい最近まで、本社が銀座にあって、横浜市がやっとこさ誘致して横浜駅の横に移転はしたけど。

ずいぶん前に物故した父が現役だったころ、いよいよ自家用車を購入するにあたって、神奈川県民なんだから日産車を買おう、と突然のようにいい出した。「インターネット」という言葉すらない時代だから、いろいろパンフレットを取り寄せてくわしく検討した結果、愛知県の自動車を買うことになったのは、とき既にして「欲しいクルマがない」というがっかりからの無力感が漂う中での決断だった。

「技術の日産」は、「人とクルマの未来をつくる」会社の相手ではなかったのだ。

自動車(メカ)にくわしいことを自負していた父は、パンフレットの写真よりもスペック表をみて比較検討をしていたから、それだけならば日産車に遜色はないどころか、トヨタ車を凌駕した。ところが、総合評価となると、スペックだけでは決められない。ようはファミリーカーとしての用途を考え出したら「完成度」がちがうのである。

このことを、消費者は知っている。

ゴーン氏が再建の旗手として呼ばれたときに、日産役員に「クルマ好き」が一人もいないといきなりボヤいてみせたのが印象的である。自身、テストコースに赴き、楽しそうに試験車両に乗り込んで運転してみせる場面は、「まさか」というほどリアルな「クルマ好き」ぶりだった。

自分が「こんなクルマに乗りたい」ではなくて、ただ「こんなクルマなら売れるだろう」になっている会社なら、それはやっぱり売れないのだと訴えていた。そんなゴーン氏に裏切られたとしても、ゴーン氏の「真実」はここにある。それが、たとえ「虚偽」であってもだ。

結局のところ、コマーシャルに「技術の日産」が復活して、やっぱり売れないクルマの量産メーカーに戻ってしまった。ゴーン氏がいないからではなくて、彼が指摘した「哲学の欠如」についての反省と、ないならつくる気概の欠如が元に戻らせたのだとしか考えられない。とかく、エリートを自称するひとたちは、愚かしい発想と行動をする。

これは、自分で考えることを実行するのがエリートなのに、他人が考えたことと混同してしまうことに原因がある。つまり、他人が敷設してくれたレールの上を走っているだけのものを、あたかもぜんぶ自分の功績だと思い込むから、はたとレールが途切れたとたんに転覆してしまうのだ。それなのに、転覆するまで気づかないで「自分は偉いのだ」と思っているひとたちがあんがいたくさんいることを示している。

『半沢直樹』の世界は、リアルではないけれど、このことを強調して描いている。

その原作者、池井戸潤氏の自動車会社を扱った小説『空飛ぶタイヤ』も、既にいくつもの映像作品化がされている。この作品は、三菱自動車の大型トラックの脱輪事故をきっかけにしたもので、「リコール隠し」という企業犯罪の顛末も描いたことで「社会派小説」と呼ばれている。

企業犯罪の「根」というものには、「企業文化=社風」がある。

そんな会社と日産が提携したのは、どんな意図があったのか?検査不正との兼ね合いもあるかもしれない。けれども、「三菱」というブランドの魅力もあったに違いない。ただ、わたしには、上述した「哲学の欠如」という社風の一致、すなわち、社運を左右する両社のエリート同士の悪い意味での気脈が通じたからではあるまいか?と疑わせるのである。

小田急「伊勢原駅」には、橋上駅の階段途中に伊勢原市観光協会の売店があって、ここには人気の名物「柿の種」が販売されている。「米菓のあられ」が柿の種の格好をしているからのネーミングになったのだけれど、あの大きさの「あられ」で、ぜんぜん柿の種とちがう形態でも「柿の種」と呼ぶことがある。

それが、「新型 カキノタネ」と銘打った、日産自動車の名車たちを型抜きした「カキノタネ」なのである。果たしてこの技術的根拠は、日産のデザイナーが23種類のカキノタネのフォルムとパッケージを担当しただけでなく、型抜きのための金型も、日産総合研究所の技術者が最新技術を駆使て作った、とある。まさに、日産テクニカルセンターの底力があっての「カキノタネ」なのである。

その見事な金型が、このカキノタネのパンフレットに堂々と載っている。

なるほどの「技術の日産」なのである。

「カタルシス」のカタルシス

「カタルシス」とは、例によって古代ギリシャの大天才、アリストテレスが『詩論』のなかの『悲劇論』で説明した、「浄化」のことである。
ギリシャ悲劇を観た観客には、心に怖れと憐れみの感情を呼び起こすことで「精神を浄化する効果」があると書いている。

ちなみに、『詩論』にあったはずの『喜劇論』は残されていない。
でも、きっとアリストテレスはこう書いた「はず」と伝承されているのが、「笑いにこそ真実がある」である。
有名な、「赤信号みんなで渡れば怖くない」を思いだせば、アリストテレスの偉大さがわかるというものだ。

この書いた「はず」だというエピソードを、思い切り膨らませたのが、イタリア、ボローニャ大学の「記号論」の世界的権威、ウンベルト・エーコ教授が書いた世界のベストセラー小説が『薔薇の名前』(1990年、東京創元社)であった。

ちなみに、この小説には、教授の専門分野「記号論」が折り込まれている。
ガイドブックとして、やや安易のきらいはあるし、番組を観る必要もないけれど一読すると理解が深まるので下はお勧めである。

劇を観て「スッキリ」したい。
確かに観劇の「事前期待値」としてありうるものだ。
ならば、作り手は、どこで観客にスッキリして「もらう」のかを計算して作品作りに励むことになる。

これがそれなりの料金をとる商業演劇の「商業」たるゆえんであるから、商業が蔓延した現代にあっては、観客がよろこぶ「スッキリ」ばかりになる。
そんなわけで、「勧善懲悪」という形式が生まれるのだ。

前に、『水戸黄門』について書いた。
さらに、TBS → 毎日新聞 → 反日 → プロパガンダ、と妄想を膨らませれば、国民へのファンタジーの刷りこみで、いまの「偽パンデミック」という効果がでたともいえよう。

劇などをテレビで視聴するのが悪いといっているのではない。
作り手の意図を読みとることが大切だといいたいのである。

そこで、視聴者離れが深刻というテレビ界にあって、救世主的な視聴率を稼いでいるのが、『半沢直樹』である。
このドラマには、「カタルシス」があるという「評」がある。
悪玉がいじめ抜いたはずの善玉に、最後は「土下座」する。

なんだかわからないけど、いまどき「土下座」とは。
「勧善懲悪」といえば「時代劇」が一世を風靡したものだが、画像の解像度が細かくなってしまい、セットの大道具がぜんぜん本物にみえないし、アップで写る俳優の顔に、カツラの境界が気になってしかたない。

だからなのかしらないけれど、現代劇での「勧善懲悪」にシフトした。
もっとも、プロレスにおいての「勧善懲悪」は、プロレスの歴史そのものだから、現代劇での「勧善懲悪」は、大本にプロレスがあるのかもしれない。
この意味でも、時代劇の陰はうすい。

泰明期のプロレスは、なんといっても「戦後」という時代背景がないと語れない。
文字どおりの「死闘」の相手だったアメリカ人=白人のレスラーが、とにかく「反則」を繰り返す。その手口は、噛みついて血だらけになったり、隠し持った武器をつかってやっぱり日本人レスラーを血だらけにした。

ここまでされても、最後は日本人レスラーの正々堂々とした「技」が効いて、相手が「ギブアップ」する。
まさに、敗戦の意趣返しとしての「カタルシス」があった。
すなわち、日本社会の「ガス抜き」であった。

しかし、血縁でつながる「梨園」からの出演者を、主たる「悪役」に配置した『半沢直樹』は、現代劇を歌舞伎という時代劇の最高峰で彩っている。
香川照之(九代目市川中車)と、四代目市川猿之助は従兄弟同士でしられるから、その背景にある家系というドラマも、観るひとの頭にはインプットされている。

半沢直樹はいないけど、半沢と敵対する奴はたくさん実在する、とはかつての同僚でいまでいうメガバンク出身者たちの複数の「証言」である。

このドラマのカタルシスには、土下座の他にもう一つ、事件後の部下への、みごとな「スピーチ」がある。
まさに、精神が浄化されるのだ。

すると、もっとおそるべき「第3のカタルシス」が隠されていることにも気づかされるのだ。
それは、この劇中、主人公の半沢以外、誰も「マネジメント」のセオリーをしらないで偉くなったり、中堅社員でいることだ。

しかしながら、上の「証言」から推察するに、このことが「劇中」すなわちおとぎ話の中の設定なのではなく、現実の大手金融機関やその他の企業にもいえるということである。
これぞ、おそるべきことだ。

「マネジメント」をしらずにマネジメントしている。ゆえに、ハラスメントが絶えない。

すなわち、『半沢直樹』とは、背景に実世界(実話)がある。

さらなる驚きは、2350年前のアリストテレスの言葉が、現代にもそのまま通じるということである。
すると、『半沢直樹』とは、「悲劇」に分類すべき「劇」なのである。

まさに、カタルシス。

予算が余ったから金券配布

偽ウィルスによる作られた病気の恐怖から、社会が過剰反応してどんどん異様な世界に変容している。

国内のこの原因には、「無責任」があると書いた。その「無責任」を推進して社会破壊を目論んでいるのが無責任なマスコミである。

誰も自分の店舗から「感染者」を出したくない。しかし、この「感染者」とは、PCR検査という極めてセンシティブで、かつ、時間の経過とともに「感度アップ」させてさらなる「陽性者を量産する」ように仕組まれているものに、まさに「機械的」に依存して、とうとう医師の診断よりも「信頼できる」という異常になっている。

これが、「無症患者」という変な患者も量産しているのである。PCR陽性が、そのまま感染者と判断されて、症状がなければ自動的に「無症患者」にしてしまい、二週間も隔離されるのだ。しかも、PCR陽性者の数ばかりを報道して、それから何人が発症し、何人が重篤化したのかをいわない。

これを煽り、あるいは「煽動」といわずになんというのか。破防法が適用されない理由を知りたい。

ひとはふつう症状があって医療機関に出向く。我慢強いひとは、よほどの症状でないと診察を受けないこともある。それでも、治ってしまえばそれでいいのである。医師という専門職は、症状を訴える患者の話を聞いて、いろいろな可能性の中から病気を特定するし、「念のため」検査をして可能性の確率的適合性を確認するのである。

そのために、医学生は他の学部以上に猛勉強させられる。診断=治療方針確立のため、人類が発見してきた「病気」を確率的適合性という膨大な情報からの抽出をできるようにしないと、一人前の医師としての「診断」ができないからである。それで、オックスフォード大学の研究で、AIが普及しても、医師は生き残る職業になっている。

だから、診断して病気を特定するのは専門職として医師の仕事で最も重要な「初期判断業務」なのである。これを、PCR検査の結果が優先されるという異常が、日常になってしまった。このことを「医療崩壊」というのだと書いた。

つまり、論理的に「無症患者」という者はあり得ない。けれども、「保菌者」としての可能性がほんの少しでもあるから、「無症患者」という概念が広がって、とうとう医師会すら「異常」といえずに、「診断」という最重要業務とその責任を放棄した。「医療崩壊」を医師会がとっくに認めた社会に我々は住んでいるのだ。

これは、プロっフェッショナルが愚民社会に負けたことを意味する。もう、心の底から根拠があろうがなかろうが、誰もが新型ウィルスの存在を「信じて」しまった。すなわち、「宗教化」したのである。

そんなわけで、われわれの社会が、ウィルス禍を克服するには、現代の「宗教改革」が必要なのだけれども、日本人は無宗教だと、これも宣伝されてきた無謀を「信じて」いるので、宗教がどんなものかを日本人は知らない。にもかかわらず、世界最強の「日本教」という宗教の信者なのである。

つまり、おそろしく不真面目でありながら、「信じる」ことを疑わない信者たちなのである。

自治体というおよそ宗教とは別世界でいなければならないひとたちも、日本教の信者であることに変わりはないので、その行動様式も「信者」としての類型に含まれる。精霊流しや花火大会がいかほどの宗教性を持つものであっても、「観光資源」という「思い込み」をするだけで、立派な予算がつく。

いったんついた予算は、必ず消化しなければならないのは日本の役所の役所たるゆえんだから、それが国家予算であれ地方予算であれ、役人の義務感は予算消化こそが正義に変容する。「Go Toキャンペーン」が止まらないのは、この理由しかない。大きなイベントを計画していた自治体にとっての「Go To」とは、中止したイベント予算をどうやって使い切るかになっている。

それで、自治体内限定の商品券という「金券」を、宿泊した宿を通じて配布するアイデアを考えついたのは、神奈川県県央の中核都市である厚木市だ。夫婦で2泊したら、10000円分の金券をもらった。翌日から有効とのことなので、宿泊料金に5000円を充てることができた。

厚木市民にはなんだか申し訳ない気分だけど、きっと市民が同意しているとも限らないから、まぁいいかと、やっぱり無責任が伝染するのである。