「政治」の日銀金融政策

むかし、経済企画庁の「文豪」とあだ名されていた、原田泰(ゆたか)氏が、2015年3月に日本銀行政策委員会審議委員になって、20年に5年の任期を終えて「引退」され、日銀の内部事情について「曝露」した。

レッテルを貼れば、岩田規久男日銀副総裁とともに、「リフレ派」である。
なお、岩田規久男氏は、元学習院大学経済学部長もつとめた学者である。

個人的感想を吐露すれば、このお二人の著作のファンであったから、日銀の「公職」に就くことに違和感があったのは確か、である。
縛りができて、「舌鋒の鋭さ」が失われるのが残念な「予感」がした。

予感はその通りになったけど、きっと「なにかある」という感じがあったのは、「御殿女中」という変わらぬイメージが日銀エリートにあるからだ。

「文豪」の原田氏には著作がたくさんある。
まずは、この一冊、を紹介すれば以下の『なぜ日本経済はうまくいかないのか』(新潮選書、2011年)という、日銀にいく前の主張がある。

また、岩田規久男先生には、むかし、『ゼミナール ミクロ経済学入門』(日本経済新聞出版、1993年)からお世話になっている読者のひとりである。

もう一つの「違和感」は、どうして「日銀なのか?」ということだった。
「本丸」は、財務省にほかならないので、「三の丸」いや、その辺の「砦」でしかないのが日銀だからだ。

しかし、攻める相手が財務省ならば、攻める側としての戦力が、二人ではぜんぜん足りない。
「総力」を挙げてが必須になるけど、どこに「総力」があるのかといえば、研究予算が欲しい「学会」は財務省側なので話にならない。

それに、任命する自民党の方だって、そんな「仕掛け」はできないから、最初から「しない」という選択を総理にさせることになる。
とにかく、国税庁(「国税査察」とは「捜査権」)を外局に持つ、財務省とは「不滅の牙城」なのだ。

その鬱憤が、岩田氏退任(2018年3月)のあとに即座にでたのが、ラジオ番組での「放談」となった。
それは、黒田総裁による、消費税増税への援護発言だったという。

これには三つの意味がある。
・日銀の政府からの独立についての自己放棄になりかねないこと
・実際の消費増税がインフレ目標を潰したこと
・総裁に逆らえない組織風土があること(やっぱり御殿女中)

もちろん、前提として、黒田氏が財務省(政府)出身の「あちら側」だということも含意している。
選んだのは、総理である。

それで、遅ればせながら、原田氏も退任してからの追随だといえる。
しかし、原田氏の曝露は、「副総裁」よりもずっと具体的なのだ。
・原田氏就任当初の日銀は、その政策決定に経済学の知識は不要だった
・政策決定に関与する、日銀職員は5000人のなかの数えるほど
・その数名が、経済学の応用方法を知らない「学部学生」並み

コンビの一方だった、岩田氏の言い分を改めて、「総裁次第」ということが、日銀の政策を決定する、とも明言したのである。

では、なにをもって政策決定を小数の内部スタッフたちが企画し、これを提案、そして委員会で決定させていたのか?ということになる。

まず、委員会の委員は全員発言をするのだけれど、「持論」を述べる「だけ」で、「議論したことにする」という茶番がある、と。
しかも、多くの持論は、「学説を伴わない」から、じっさいは「世間話し」と同類なのである。

ここが、「重要」で、スタッフたちのもとには、毎日のように「業界」からの要望や苦情がやってきて、これらの最大公約数を「原案」にする、という「作業」が、政策決定スタッフの主たる任務だという。
だから、委員の世間話しも、そのなかに入れることができる。

ちなみに、業界とは、日銀は中央銀行なのでまずは「銀行業界」、それから「証券業界」ということになっている。
銀行は、低金利のせいで、本業(預金を貸し出す)でぜんぜん利益があがらないビジネス・モデルになったし、低金利なので、証券会社には都合がいい。

ようは、これらの業界が満足するだろうことが、「政策」となっている「だけ」だという実態の暴露なのだ。
つまり、「政治」をやっている。

まったくため息しかでないけれども、国民として「そもそも」をかんがえておくことも重要だ。
それは、日銀の金融政策で、「できること」と、「できないこと」の区別である。

金融政策で「できること」は、「金利」と「貨幣供給量」の操作しかない。

「金利」の上げ下げの効果は言わずもがな。
「貨幣供給量」は、金利だけでなく、政府が発行する国債の日銀引き受けとかであって、市中に流通しているおカネを、日銀が吸い上げたり吐き出したりすることで調製するのである。

この媒介を、手先である市中銀行やらの金融機関がやっている。
その中核となるのが、「日本銀行金融ネットワークシステム」だ。

なお、政府が発行する国債の多くは、貸出先がない銀行がたくさん買ったので、日銀はこれを買い上げて、その銀行の日銀口座の残高を増やして、これを、「金融緩和」と言ったのである。

「ふつうなら」豊富な資金ができた銀行は、これを貸出の原資にするはずだけど、元から貸出先がないから買った国債だったので、国債なら金利が付くのに、金利がつかない「日銀当座預金」が増えても困るのである。
そんなわけで、市中におカネが増えないから、インフレにもならない。

原因は、民間企業が投資をしない、民間人が起業をしない、ことにある。

既存企業が投資をしないのは、投資をしてもそれに見合う「リターン」が得られないと「予測」しているからである。
このリターンとは、借りた金利以上の「率」という意味だ。

民間人が起業しないのは、設立原資を得る手段が乏しくて、手続きに「不動産担保」を差し出さないと「いけない」と、「金融庁」が銀行に命じているからである。

学校を出たばかりの若者が、担保に差し出す不動産を持っているはずがない。
本来は、「設立趣意書」をもって、資本の募集ができるのが「資本市場」のある、「資本主義社会」なのだ。

もし、◯◯年に、設立されたばかりのアマゾンとかグーグルの「株式」を、1000円ばかり買っていたら、今頃は「億単位」になっている、といって「投資勧誘」があるのは、アメリカに「資本市場」がある、という意味で、この例の投資家は1000円が「0円になるリスク」も買ったのである。

つまるところ、わが国には、「資本市場がない」という、凄まじいことになっている。

【緊急】聖と邪の決戦開始

本稿の当初タイトルは前回の「続き」として、「国外に逃げたひとたち」だった。
しかし、「ニュース速報」があったので、急遽【緊急】として投稿することにした。

ウクライナから国外に「逃げる」なら、どこに?ということがまずあっていい。

陸路なら、一緒に攻めてきたベラルーシはないから、真西にポーランド、その南は反時計回りに、スロバキア、ハンガリー、ルーマニア、そしてモルドバだ。
黒海に出たら、ルーマニア、ブルガリアの海岸があって、それから南はトルコでボスポラス海峡を抜けたらギリシャがある。

これらの国で、NATOに非加盟なのは、ベラルーシとモルドバ「だけ」である。
なお、空港はロシアがさっさと抑えたので、空路を使えたのは「侵攻前」に逃げた場合に限られる。

さすれば、心当たりがあるひとが逃げる「タイミング」はいつか?となれば、やっぱり「侵攻前」がふつうだろう。
財産の移動手続きがあるからだ。
つまり、金融封鎖の「前」である。

すると、プーチンが「時間稼ぎ」してあげた、ということにもなる。
まだ、「ウクライナ危機」という時間帯のことだ。
つまり、自分たちからすすんで「国外追放」を選ばせた、という意味になる。

これは一体どういうことか?

トランプ氏が画策した、「ワシントンの沼の水を抜く」という作業と、おなじパターンではないか?
これで、トランプ氏は大統領職を追われたのだった。
つまり、最大最強の「敵」は、「ディープステート:DS」なのである。

DSの実態は、国際金融資本とも、歴史的大富豪の数家族とも、軍産複合体とも、高級官僚機構とも、果ては世界経済フォーラムともいわれていて、「七変化」するからわかりにくい。
けれども、「既得権益にまみれた支配者たち」とすれば、共通なのだ。

そして、もう一つの共通が「グローバリズム」という思想である。
ここで、元祖グローバリズムの共産主義・全体主義と結合する。

共産主義・全体主義をぜったいに認めない「新自由主義」を、グローバリズムだといって非難するのも、このひとたちのひとつの「自己紹介」のパターンなのだ。
そうやって「自由陣営」の分断を画策して、効果と成果をあげている。

わが国の「保守:一般的には反共をいう」ひとたちが、一斉に、しかも、「親共:たとえば特定野党」と見解が「一致する」という事態になったのも、保守をいうひとたちが、なにを保守するのか?という根本を見失わせるための、新自由主義「批判」の浸透工作が成功している証拠となっている。

すなわち、ミイラ取りがミイラになるほどに、わが国の保守たちの「劣化」があからさまになってしまったのである。

DSは、深く潜行しているから「ディープ」なのだけど、前にも書いた「世界経済フォーラム:通称ダボス会議」が、そのフロントとして、ちょっとだけ本音を披露して様子をうかがうという役目をしている。

もちろん、「国連」も彼らの傘下におさまっているから、世界共産化を推進する「私有財産の否定」になる、「所有しない」をスマート化させた「シェアリング経済」を主張して、それをあたかも「新しい」と誤解させている。

これが、「SDGs」の正体だし、コロナを政治利用して、政府の強権発動を正当化させるばかりか、最弱の飲食業や人的接客業を崩壊に追い込み、人民の奴隷化を推進するに容赦しなくなった。
カナダや、オーストラリアのどちらも「自由党」がやっている、自由の剥奪がそれだ。

ソ連の崩壊が、ロシアの資本主義化のソフトランディングに「ならなかった」のにも、DSが絡んでいる。
その最大の草刈場が、ウクライナであった。

ソビエト連邦は、鉄のカーテンの内側で、はっきりした「水平分業」をやっていた。
いまも、旧東側の諸国に「後遺症」があるのは、このためだ。

たとえば、ハンガリーに「スズキ」が工場を建てて、小型車「スイフト」をつくって、それが「国民車」としてハンガリー人の人気を博したのは、もともとハンガリーがソ連の小型自動車生産拠点としての「特区」だったからで、東独以外の他国では小型車をつくらせなかった。

ウクライナは、元キエフ大公国だったから、ロシア人には「京都を含む畿内」のような地域なので、もっと「特別」で、穀倉地帯というだけでなく、最新科学技術での開発拠点「特区」だったのである。
中距離弾道ミサイル配備拠点だったとか、チェルノブイリ原発も、その痕跡だ。

ソ連から分離独立するときに、ウクライナの「国富」を、「捕獲」しにやってきたのがDSだったのである。
これをまだ大統領になる前のプーチンは、元KGBの職員としてみていたし、なにもできなかったのである。

さてそれで、国際金融資本で、国際決済銀行を事実上「所有」しているのもDSだ。
ロシアへの金融制裁として、国際決済の停止を画策(SWIFTからの排除)するのは、まさにガマの魔神が「正体をあらわす瞬間」を一般人が目の当たりにする事態となった。

つまりは、DSも総力を挙げての「決戦」となったのである。

それは、ドイツをはじめ、ヨーロッパがエネルギー危機になる「犠牲」を覚悟したからだ。
決済されない商品を供給するバカはいない。

先ほど「速報」で配信された、本当に決済停止をするなら、第三次世界大戦がはじまったことになる。

臆病者は逃げたからもう安心

日本が大好きというロシア人やウクライナ人、あるいはベラルーシ人の日本語ユーチューバーがたくさんいる。
たいがいが女性で、それぞれが「お仲間」なので、互いの「チャンネル」にゲスト出演して、美女たちの流暢な日本語会話を楽しめる。

慣れればどうということはなくなるけれど、圧倒的「外人顔」のひとたちが、日本語だけで日常を語る「映像」は、さいしょのうちはやや違和感があった。

なるほど、これが米英の「ネイティブさんたち」が体験している、国際言語の様子なのかとわかるのである。
彼女たちが日本語を話すようになるきっかけの多くが「アニメ」だったというから、おそるべしなのである。

その一方で、日本に長く住んでいて、日本語だけの生活をしていると、街や電車で外国人を見ると「あっガイジンだ」と思うようだ。
それでなぜか逃げたくなるというのは、外国語で話しかけられるのが、「怖くなる」からだと真顔で「あるある」と盛り上がるのである。

これを、「英語ネイティブ」のゲストも一緒に盛り上がるから、日本語の「魔力」と本人も気づくようである。
ボディーランゲージでは、電話でお辞儀とか、人前を通るときの「片手チョップ」を母国でやって、不思議がられると盛り上がるのであるけれど、ちょっぴり自慢なのは、母国人に日本での滞在経験を想起させるからだともいう。

めったに「政治的な話題」はしないけど、ロシアのウクライナへの侵攻は他人事ではない。
それで、あるウクライナ人ユーチューバーが、なかなかつながらなくなった家族への電話での会話を披露していた。

ようやくつながった相手は「お父さん」だった。

「卑怯な臆病者たちは外国へ逃げたからもう安心だ」、「街は普段通りでなにも心配することはない」という。
あんまり「心配するな」というから、情報がない日本にいる本人は逆に心配になると話していた。

とっくに壊れてしまったアメリカのメディアは、役に立たないホワイトハウスの発表やらで騒ぐことしかしないで、これを、「ソース」にしている日本のメディアも同様である。

本27日のゴールデンタイムに放送予定という、池◯彰氏の「緊急特番」では、どんな「デマ情報」が流されるのか?
脳が壊されるので観ないように決めているけど、「怖いモノみたさ」はある。

さてそれで、「アラブ」と「スラブ」はカタカナ表記だと「酷似」していて、「ア」と「ス」のちがいしかない。
しかし、元来「アラブ」はむかしの「国名」で、「スラブ=スラヴ」のこちらは「言語」を指す区別があった。

地域でかんがえれば、アラブの北にトルコを挟んでスラブが住んでいるから、「近い」といえば、日本ほど遠くない。

そんなわけで、中東のテレビ局といえば、ドバイを本拠とする「アルジャジーラ」がある。
「アル」は定冠詞、英語でいえば「The」。
「ジャジーラ」は、「島」のアラビア語なので、「The 島」という名称の放送局だ。

こちらはウクライナの様子を、「平常」と報じた。

社会インフラ(電気、ガス、水道)は機能していて、公共の交通機関(電車、バス)も平常運転されている。
ただし、学校は休校で、それなりのひとたちが「外国へ脱出した」という。

なので、「お父さん」の話があっている。

しかしながら、気になるのは、ウクライナ大統領が直接テレビで呼びかけた、「ロシアと戦う意思のある市民には、武器を配布する」と呼びかけたことの「重大さ」なのである。

このひとは、汚職ばかりが続いてうんざりした国民が、それならば、として選んだ、人気「コメディアン」だった。
日本的には、お茶の間に明るい笑いを届けたのだから、政治も明るくしてくれるだろう、と。

言ってみれば、大阪府知事に横山ノック氏が選ばれたようなものだ。
もっといえば、東京都知事に青島幸男氏がなったのとおなじだ。
それで、明るくスッキリしたとはいえずに、混迷は深まったのだから、洋の東西は問わない「法則」があるようだ。

政府が市民に武器を与えることの重大さは、国際法の「戦闘」に関する取り決め、つまり、「戦争のルール」に反するばかりか、それが、「捕虜を保護する」ための取り決め(ジュネーブ4条約)にも違反することだ。

戦争をいまだに「正規軍同士の戦い」と想定しているのは、「軍服」と「階級章」の「着用」という、見た目で「敵と味方」を区別するようにしているからで、もしも捕虜になったら階級章で「扱いが変わる」のである。

では、市民が軍服を着用しないで武装していたらどうなるか?

「無差別攻撃」を正当化させるのである。
しかも、「投降」という意味もないから、捕虜としても扱われることもないのは、敵方は捕虜とみなす必要もない、という口実を法的に与えることになる。

つまり、市民に「死ね」という意味が、この元コメディアン大統領の発言の意味になる。

日本人には、ありもしない、南京事件の「悲劇」が、「虐殺」だというのも、軍服を着用しない市民によるゲリラ戦だった、という「トンデモ」まで主張するのが、「あった」という側だ、ということをかんがえればわかるだろう。

それにしても、「なかなか困難」とはいえ、ウクライナの個人に、携帯電話がつながる、というのも、事件、ではなかろうか?
それこそ、「平常」の証拠になるからである。

さて、外国に逃げた「それなりのひとたち」とは誰なのか?
これが、「この戦争の原因」を示唆することにもなるのだが、話が長くなるのでここまでにする。

集団的安全保障の有意がしれた

寄らば大樹の陰ならぬ、「みんなで」という「集団主義」が日本人のなかには根強くあるのに、こと「防衛」とか「軍事」になると、からっきしトンチンカンになるのが、「アメリカのお陰」ということすら忘れた「平和ボケ」と言われて久しい。

トランプ氏の当選を予測することもできなった「恥」ばかりか、トランプ氏とは何者か?すら、事前把握ができない体たらく(外務省とマスコミ)なので、就任後にどんな政権を目指すのかも「場あたり」になった。

彼は、在任中に、わが国の「独立」を認めるばかりか、それを「促した」戦後最初のアメリカ大統領だったのに、当事者のわが国がこれを「する」勇気に欠けた、へなちょこの「骨なし」になっていた。
そして、「属国状態継続」の安逸を求めたのが、「タカ派」の安倍政権だったのである。

ヨーロッパ(NATO)と、バイデン政権のアメリカが、「制裁」を口にしてもプーチン・ロシアが止まらない理由は、話の本筋もなにもが、「ウクライナに非」があるからである。

大統領権限がとっくに「形骸化」してしまったウクライナを治めているのは、官僚群と軍であって、これらが2014年の「ミンスク合意」(ウクライナ、ロシア連邦、ドネツク人民共和国、ルガンスク人民共和国が調印した、ドンバス地域における戦闘「ドンバス戦争」停止の合意)を、ぜんぜん守らないで攻撃を続行していたのだ。

マスコミが作り出す、コロナと同じで、あたかも「ウクライナは被害者」という構図にしているけれども、被害者はロシア系住民が多数の、ドネツク人民共和国、ルガンスク人民共和国の方なのだ。
それに、このような「文書」に「国名」を載せたのだから、事実上、ウクライナも「承認」していたも同然である。

しかも、この合意書には、OSCE(欧州安全保障協力機構)も「調印」している。
だから、いまさらヨーロッパがなにを言うか?というプーチン・ロシアの主張には「筋」が通っているのである。

これが、ヨーロッパの「制裁」を骨なしにする表面上の理由だ。
それと、戦争を望むひとたちが背中を押しているバイデン政権が、ムニャムニャと画策しているけれども、アメリカ国内でバレバレなので、ムニャムニャのままなのである。

ヨーロッパが腰砕けのもう一つの理由は、エネルギー資源をロシアに依存する、という状況をせっせとつくってきた、「変な努力」があって、いまだにこれを変えないという「変」があるからだ。

特にEUを支えるドイツが急先鋒で、にっちもさっちもいかなくなった。
改めて追跡すれば、「東西ドイツの再統一」という時点に戻れる。
あたかも西ドイツが東ドイツを吸収した、と思いこまされてきたけれど、「選挙」による政治志向では、この「真逆」だったのである。

つまり、社会主義の優等生、東ドイツの有権者たちがその「左の常識」をもって、「地球温暖化」にはまりこんだので、こうなってしまった、といえる。
こうして、ドイツは自分からすすんで、ロシアの資源に依存するようにしたのである。

この「思い込みの強さ」が、ドイツ人の「危険性」となる、習性なのだ。

また、バイデン氏は就任当日に、シェールオイルの開発を中止させて、純輸出国だったものを、再び中東からの輸入国にした。
それでもって、アフガニスタンで「ああいうこと」に「した」のも、世界を不安定化させることでの「戦争を望むひとたち」へのサービスなのだった。

かつての常識が変わっているのが、ソ連からロシアになって、世界最大の産油国がサウジアラビアからロシアになっていることである。
だから、ドイツとアメリカのお陰で、「オイルマネー」がじゃんじゃん入ってきて、「大儲け」しているのがプーチンのロシアなのだ。

アメリカの「伝家の宝刀」は、「ドル取り引き停止処分」だったけど、これが、いまのロシア相手に「できない」理由が、資源国の強みなのである。

NATOに加盟したい、というアナウンスをしたことが、ロシア人に危機感を高めるようにさせたから、ここでもウクライナ側のミスリードがある。
NATOは、集団的安全保障で「結束」しているから、未加盟のウクライナを助ける「義理はない」ということも、プーチンの「読み」にはあるだろう。

しかして、ロシア人もウクライナ人も、どちらも「スラブ系」ということで、やっぱり「内輪もめ」なのである。

ここから判明してわが国の教訓とすることは、二国間の日米同盟だけでは心許ないから、集団的安全保障の「結束」が有効だということである。
かつて、ドイツのメルケル首相訪日の際、日本のNATO加盟を奨められて「丁重に断った」のも、「タカ派」の安倍首相であった。

話は変わって、半世紀前の70年代、田中角栄による「バラマキ」で市中にはたっぷり「おカネ」が溢れていて、そこに石油ショックがやってきたら「狂乱物価」になった歴史がある。

状況は、現在と大変にているどころかもっと悪い。
収入が減り続けているなかでの「物価上昇」とは、「生活苦」を意味する。

ヨーロッパは既に電気とガス代を合わせた「家計」エネルギー費が、一般家庭で月額10万円を超えるに至って、「生活苦」が進行している。

第二次大戦は、エネルギー資源争奪戦だったことを思い返せば、まずい歯車が回り出している。

開催国の日本は変われたのか

いまさらだけど、オリンピックの話である。

東と北の「京」で連続開催された、国際大運動会とは、ヨーロッパ貴族たちの「お慰み」としての、「サーカス」という本質があからさまになった。

日本人には馴染みのない、ギリシャ・ローマ史を根本に置く、ヨーロッパ文明は、「パンとサーカス」を政治利用する発明をしたのがはじまりだ。

ここでいう「パン」とは、食糧のことで、のちに「生活保障=福祉」に変貌していく。
「サーカス」とは、社会の「上から」による娯楽の提供のことである。

つまり、為政者は、国民に、生活保障と娯楽を与えさえすれば、為政者=政府に従う「愚民」を大量につくりだすことができて、最後には政府の好き放題にされてしまうことを「警告」した「詩」を元にするのであった。
この警告をしたのは、ローマ帝国になってからの風刺詩人デキムス・ユニウス・ユウェナリスだ。

ほぼ2000年も前の「警告」が、現代にも通じるところが怖い。

人間の営みの本質が変わらないことを意味するけれど、「人類学」でも「おなじ結論」になっている。

たとえば、アフリカで半裸の原始的な生活をしていた部族を数十年後に訪問して、すっかりスーツを着て携帯端末を駆使していても、「部族社会」になんらの変化もないことがわかっている。

だから、賢い為政者は、伝統的な習慣や風俗といった「習俗」を人為的には「いじらない」ということを意識するのである。
なぜなら、たいがいのことがひとびとからの「反発」となって、社会秩序がかえって乱れることになるからである。

さてそれで、国際大運動会という「娯楽」が、テレビ視聴率の凋落という結果になって、「今後」に不安材料を残したという。
不安を感じたのは、主催する「貴族たち」の方なので、庶民にはどうでもいい話にみえる。

しかしながら、テレビが娯楽の提供媒体となった20世紀の後半以来、非支配者たちが、テレビを娯楽の媒体として「認めなくなった」という、大変化が確認できたのである。
これはまさしく、電波が「上から」降ってくるのと同様に、為政者にはきわめて都合の悪い事態なのである。

究極の「上からの娯楽」である、世界大運動会にしてこのありさま。
新聞がダメになったのは、「即時性」はないけれど、「記録性」があったメリットが、ネットによって完全破壊されたことによる。
だから、「即時性」のテレビにとって唯一の有意が、「生中継」になったのである。

その生中継と、究極の娯楽としての大運動会がセットになるから、主催者の貴族たちに、莫大な放映権の収益があったのだ。
これが、「危機に瀕する」事態となった。

わが国では、おなじパターンが、「大相撲」と「紅白歌合戦」というコンテンツで、どちらもNHKが独占している。
公共放送として、まさに「上から」の娯楽の提供こそが、愚民化のための「使命」なのである。

しかし、愚民化「される」側が受信料を徴収「される」ので、「される」の二重使用が、ようやく「被害の倍増」だということに愚民をして気づき始めてしまったのである。

すなわち、愚民化の目的達成は、「道半ば」ということが判明した。

そこで、どうしても愚民化を達成したい政府は、NHKをして二つの対策をもって、しつこく推進することを画策している。
・受信料の値下げ(ただし、欲深いNHKが抵抗するのでわずかな額)
・ネット課金(放送とネットの「融合」らしい)

とりあえず、現状は、絵に描いたような「アメとムチ」である。

そんなわけで、覚醒した元愚民たちは、放送電波を受信しない、「ドンキTV」を買い込んだら、別の会社も参入した。
将来、ネット課金をするかしないかが、政治日程にあがるはずである。

さてそれで、「パン」の方はといえば、農林水産業を直撃するはず、と前に書いた通りになった。
全世界から集合する「サーカス団員」たちが食べるものには、栄養と薬物への「配慮」は欠かせないから、「安全性の国際基準の遵守」が要求されるからである。

野蛮で邪悪なひとたちが「いる」という、日本国内事情とはぜんぜんちがう実態の方を「基準」にするのが、国際の「国際たるゆえん」なのだ。
だから、「いなかのおばぁちゃんが精魂込めてつくったから安全でおいしい」は、野蛮で邪悪なひとたちの基準としては通じない。

それゆえに、「サーカス団員の収容所」での食事提供は、「原材料」が国際基準を満たさないといけない、という当然となるのである。
したがって、この事業を「受託した」ら、どんな会社であってもおなじに対応しないと「いけない」のは、基準を満たすことが「義務」だからである。

そんなわけで、国産品よりも輸入食材のシェアが高くなるはず、と予想して、やっぱりその通りになったのである。

それは、たとえば農林水産省やら厚生労働省が「安全」といっても、相手側の「サーカス団員を管理する」それぞれの国や競技団体が、納得しなければ意味がないからである。

つまるところ、日本政府にあるのは、提供者の論理だけで、消費者の論理=都合を考慮しない、という態度が見え見えになったのである。

国際大運動会が終わって、このことを「反省」している節がないので、日本人はこれからも、提供者の論理だけでつくられたものを食べ続けることになっていて、わずかな「基準合格品」だけが、輸出されるのであろう。

それが輸出先で、「さすが日本製」という評価になったら、日本政府はこれ見よがしの「自慢」をするにちがいない。
これを、「テレビ」が報じるのである。

「真の」ロシア疑惑とウクライナ

トランプ氏とプーチン氏が、「馬が合う」関係だったのは、「取り引き(ディール)」についての感覚が一致していたからだろう。
これは、トランプ氏がアメリカ人の「ビジネスマン」であることと、プーチン氏が「柔道家」であることの共通から生まれたとかんがえる。

日本人には、「合気道」がある。
この武道は、公益財団法人合気会が示しているように、「現代武道」であって、創始者の植芝盛平が1926年に、「合気の道」と呼称したことをはじまりとしている。

しかし、突然できたのではなくて、これまでの「伝統武道」を修得したことを基礎としていることに意義がある。
「逆手」を主にする柔道に対して、「順手」の合気道は、柔道よりもずっと相手の力を利用して、その相手があたかも「勝手に」自分の力で飛ばされてしまうのである。

この「演武」が、あまりにも見事なので、知らずに見る者は「わざと」自分から投げ飛ばされているようにしか感じないから、「インチキだ」と信じるのである。
ところが、実際に自分が相手になると、あれよ?と気がつけば投げ飛ばされている。

これがいま、ヨーロッパで大はやりしている。
しかして、植芝盛平氏には、京都府綾部の発祥である、「大本教」が精神的支柱にあることも、忘れてはならないことなのである。

さて、ビジネスには、「駆け引き」がつきもので、柔道でも相手の袖をとることの「駆け引き」がつきものである。
「できる」相手同士なら、組んだ「だけ」で相手の実力がわかるのも、ビジネスの現場だって同じなのだ。

それが、トランプ氏とプーチン氏の互いをみるに尊重しあうという態度にもなるというものだ。
これが、史上最高得票で当選したという、バイデン氏には「ない」のである。

2016年の大統領選挙で、当選が確実視されていた、ヒラリー・クリントン女史が、まさかの敗北を喫したのは、いまさらに「得票数」ではなくて、各州選挙人の「獲得数」の差であった。

この「票読み」と、「獲得選挙人数の予測」に完璧に失敗するという、「歴史的敗北」をしたのが、わが国「外務官僚」であったけど、誰ひとり責任をとった役人はいなかったし、自民党も責任追及をしなかった。
最低でも、アメリカ駐在大使ぐらいは更迭しないといけないはずだ。

「宣戦布告」の電報を知らずにパーティーに興じて、「Don’t forget Pearl Harbor」を合言葉に、民主党ルーズベルト政権が飛び上がってよろこんで、日米戦争=ヨーロッパ戦線に「参戦」する手助けができたことに匹敵する「惨事」となるところだった。

さらに、外務省のエリートに、正義感もないので、国務長官だったヒラリー女史の「メール問題」すら無視できたのである。
役人に日和ってなお、左派のヒラリー女史を応援したいわがマスコミは、この問題の「汚濁」を伝えない。

法治国家の「法」として、国家機密の保持のためにも、アメリカの高給公務員は、政府が定めた端末を使うことが義務づけられている。
これは、大統領といえども遵守する義務がある。
だから、初当選したオバマ氏の私用で使っていた「ブラックベリー」の継続使用が問題になって、政府は特別機種をつくって与えたのである。

そこまでしても、国家機密を守るのである。

いまはなき「ブラックベリー」は、カナダのこれもいまはなき「リサーチ・イン・モーション社」が販売していた携帯端末であったけど、独自の「セキュリティ・ネットワーク」を構築していて、その通信の「安全性」には定評があったから、一世を風靡していた。

ヒラリー女史は、そうではなくて、「個人サーバー」を介する方法での通信を、なんと国務長官の「任期中ずっと」使いつづけていた。
完全なる「違法行為」であって、問題発覚後、自宅にあったサーバーを「ハンマーで叩き壊した」のであるから、限りなく「黒」に近い。

だから、その通信の痕跡を、分析する「捜査」が続いている。
そしてそれが、国務長官という「地位」を利用して、日本円で「兆円単位の収賄汚職」をしていたという、「疑惑」になってきている。

しかして、この問題を隠すために、選挙中から「仕組んだ」のが、トランプ氏による「ロシア疑惑」というでっち上げ事件だ。
ところが、最近になって、トランプ氏が大統領に就任した後も、「盗聴」を続けていた証拠がでてきて、これを、「特別検察官」が発表した。

ニクソン大統領が「辞任」に追い込まれた、「ウォーターゲート事件」をはるかに上回る、現職大統領への「盗聴」とは超弩級の事件だ。
日本になくて世界中にある「法律」で、「国家反逆罪」が適用されておかしくない「犯罪」なのである。

なお、反逆罪がある国は、どちらさまも「死刑」が用意されているのも「常識」だ。

これで、ヒラリー女史の政治生命が尽きたことはもう決定的であるけれど、アメリカの大手マスコミは報じていないから、わが国のマスコミも報じない。
それに、本人もどこかに引きこもって出てこない。

さてそれで、プーチン氏は、ロシア国会の議決にしたがって、ウクライナの一部を「独立国家として承認」し、軍を動かす議決も出た。
停戦を決めた「ミンスク合意」を無視しつづけて、今回の当該地域に対する「内戦」をやめなかったウクライナ軍を非難している。

実態は、ロシアの言い分が「正しい」のだ。

手も足も出ないバイデン氏の醜態が、アフガン撤退の失敗と一体になって、中間選挙での敗退がみえはじめた。

もう、台湾危機しか残された道(戦争勃発による現職有利)はないのか。
しかしながら、頼みの北京最高首脳がオリンピック中に引きこもって、重要会議をやっていた「らしく」、大運動会終了後に訪独した外務大臣のウクライナ危機についての言動は、「常識的」に変わっていた。

どうやら、ウクライナと台湾の二正面作戦をアメリカにやらせる意思が萎えてしまったようなのである。
こうなると、バイデン民主党は、自業自得とはいえ、「絶体絶命」をどうするのか?になる。

プーチン大統領の「国家承認」と「平和維持軍の派兵」を受けて、トランプ氏は、「原油価格の高騰がロシアを大儲けさせて経済的余裕をつくりだしたのだから、それをわざとやったバイデンの責任だ」と非難して、「呼吸」を合わせている。

プーチン氏とトランプ氏の両人は、もしや、ここにきてようやく、「秘密の協議」をしているのかもしれない。

ところで、欧米の雑音は横にして、「当事者」のウクライナ大統領は、ロシアに「話し合い」を呼びかけている。
実は、ウクライナ政府内の「統治の機能不全」(大統領と政府官僚と軍)が、この危機の原因なのである。

それで、日本の外務大臣はこの直前、ロシアとの経済協力案件で、キャンセルせずに先方の担当大臣と会談していた。
明らかに大臣の意思であり、長く外務大臣をやっていた現総理の意思だろう。

この意味は、たとえレームダック化が確実の、民主党バイデン政権が相手とはいえ、日米同盟の「終わり」を告げただけでなく、「西側からの離脱」の意思表示である。

集団的安全保障からの「離脱」になるから、プーチン氏よりも、よほど「勇猛果敢」なのは、岸田内閣なのであった。
G7で、わが国は「孤立のみち」を選んだ、歴史的転換点だ。

しかしてこれは、合気道的な行動なのか?
説明はないし、質問する記者もいない。

国富を流失させる政府

一般的に「自虐史観」というと、「戦争をやった日本は悪い国だった」という「確固たる前提」に基づいた「史観」ということになっている。

それで、「戦争を放棄して経済に特化する」という、いわゆる「吉田ドクトリン」が、決め手のひとつとなって、戦後の経済成長を遂げる原因政策の「大黒柱」だということにもなっている。

つまり、以上が「戦後レジーム」の本質的「構造」である。
そもそも「レジーム」とは、政治形態、政治構造とか政治体制を意味することばだ。

いまさら安倍晋三氏が訴えた、「戦後レジームからの脱却」についてうんぬんかんぬんすることに意味はないだろうけど、「これをどうしたかったのか?」がわからなかったし、「どうにもしなかった」という結果は出ている。

なにせ、8年も首相をやっての「成果」として、「なかった」のだから。

むしろ、「アベノミクス」という、社会主義経済政策を「やった」ことは間違いないので、マッカーサーGHQの「ポチ」だった、吉田茂とそれに続く池田勇人の「資本主義経済」を、戦後レジームとして、これを否定した、という意味なら、祖父の岸信介の本性である「社会主義国」にする、ということでの「達成」はできた、という評価ができる。

地元山口県の元になる、萩藩・毛利家の「3本の矢」の逸話をもってきたのは、シナリオライターの手腕であるけど、特に三本目の政策が「なかった」と批判されていたのは、そうではなくて、はなから「偽装」だと思えば、より説得力がある、社会主義政策なのだ。

すると、山口県が「保守王国」というのも、まったくの「偽装」で、とっくに「党綱領」で「進歩主義=社会主義」を高らかにうたう「自民党」を、そもそも「保守政党」だと認識すること自体が、「大ボケ」なのである。

藩庁があった「萩市」を選挙区とする、「林芳正外務大臣」の親中ぶりをみても、引退した「河村建夫元官房長官」の親韓ぶりをみても、「売国」というキーワードで語ることができる。
これに、安倍晋三氏は、もっと本質的な「売国」である、わが国の社会主義化に心血をそそいだのだった。

残念ながら、誇り高い「萩人」たちは、日本近代をつくった人材を輩出した「保守の誇り」に目がくらんで、その本質をつかむことができない。
「形式的保守」に自己満足していることが、全国民にはわずらわしいのである。

これを知っている、マスコミは、安倍氏を「タカ派」とすることで、レッテルを「逆張り」して「偽装」し、有権者を欺しているから、詐欺集団化している。
もちろん、安倍氏にも「都合がいい」からこれを否定しない。

要は、「グル」なのである。

戦後経済成長の「奇跡」については、前にも「ラッキー」だと書いた。
まさに、「3本の矢」で、
・安い石油
・冷戦構造
・朝鮮動乱 を指す。

自分で選択した「政策」による「奇跡の加速」もなにもない、ということに変わりはないけど、「敗戦」による「妙な利益」をこれに加えていいのが、「植民地を失ったこと」なのだ。
これが、「4本目の矢」ならぬ、「弓」を意味する。

邪悪な欧米人の、奴隷化で収奪するだけの植民地とはちがって、形式的には植民地だけど中身は、「同化」という、欧米人には「美辞麗句」にしか聞こえないことを、本気でやったのが、日本文明が残っていた時代の日本人の発想なのだった。

「五族協和(日本人・漢人・朝鮮人・満洲人・蒙古人)」を最初にいったのは「辛亥革命」だったけど、これを本気で「政策」にしたのは日本で、「人種差別撤廃」を国際連盟に提案して、欧米人を「驚愕」させただけでなく、これがかえって列強諸国が日本を貶める「国際協調」になったのである。

しかして、これら欧米列強が常識とする、植民地から「利益」を得ることの「真逆」が、わが国では国民負担になっていた。
つまり、あり得ない「赤字」が、わが国の「植民地経営」だったのである。

収奪されているのは、宗主国の国民であった。
すなわち、領土内でも対等な(内国)貿易ではなく、政府による投資(予算)が、一方的に植民地へと流れて、その見返りの「収支」では、敗戦まで「一度」も黒字になったことがなかった。

おどろくべき「お荷物」を、日本本土の国民は負担させられたけど、それが日本人の使命だとして、文句をいう国民がいなかったからできた、ともいえる。
しかし、「国富」を奪っていたのは、日本政府だったことにかわりはない。

だから、わが「国民」にとって、GHQが植民地を奪ったのは、GHQの思惑(欧米人の常識)とは逆に、「手かせ足かせ(絆し:ほだし)」になっていたものからの、「解放」だったのである。

それに、敗戦で貧困化したわが国の予算は、極小化されたので、これが政府の民間への介入を不能にした。
このことが、「自由経済」の元となったという本質的皮肉がある。

それで、植民地負担のなさの効果と奇跡の「3本の矢」で発展したら、政府の体制も整って、政府の介入が「組織的」に可能となると、日本経済の成長も止まったのである。

これを、「完成」させたのが、田中角栄内閣であった。
それから幾星霜、アベノミクスが磨きをかけて、いよいよ社会主義経済体制ができあがったところにコロナがやってきた。

環境問題にかこつけた、内燃機関をやめさせる自動車産業への「破壊工作」が、政府をして熱心なのは、日本人を貧乏にして、奴隷化するという、マルクス・レーニン主義のシナリオ通りだ。

800万人の職を政府が奪う。

かつては、植民地の人々の「役に立った」政府による国富「流出」だったけど、投資先たる植民地とは、「日本領土」そのものだったから、「列島改造論」が小さく見える「地方分配」ではあった。

いまは、誰が得をするのかわからない国富の「流失」を画策しているのが、自民党とそのスタッフである官僚がつくる日本政府なのである。

「OSCE」はどうなっている

欧州安全保障協力機構(OSCE:Organization for Security and Co-operation in Europe)は、加盟国が57ヵ国もある、世界最大の「地域安全保障機構」だ。
1972年に発足し、本部はウィーンにある。

名前に「欧州」がついているからといって、「欧州に限らない」のは、NATO同様で、「北米(アメリカ、カナダ)」はもとより「中央アジア諸国」も加盟している。

つまり、「集合」でいうと、「OSCE」∋「NATO」となっている。

なお、わが国を含めて、「協力国」となっているのは、中東、アジア、アフリカ、オセアニアにもある。
また、わが国は事実上、「準加盟国」的に扱われていて、恒常的に常設理事会、安全保障協力フォーラムなどに参加できるのだ。

ただし、NATOが純粋に「軍事機構」であるのに対して、OSCEの目的には、民主主義体制の構築・強化、基本的人権の保障と保護、武力行使の抑止における加盟各国の協力と相互尊重があるので、「緩い」といえば緩い。

これには、1990年の「パリ憲章」の合意がある。
OSCE加盟国が、「ヨーロッパにおける冷戦体制の終結宣言」をして、「民主主義の促進と人権問題解決の確認」などに合意したのである。

だから、ロシアもウクライナ(1992年加盟)も、OSCEに加盟していて、かつ「パリ憲章」にも調印している。

戦争を望むひとたちが焚きつけて、先日はウクライナの大統領がアメリカに対して「迷惑だ」と発言したのに、まだアメリカのバイデン氏は「ロシアの侵攻がある」と言って、ウクライナの経済的混乱に拍車をかけている。

ところで、元海将の伊藤俊幸氏は、「兵站」というキーワードから、ロシア軍の侵攻は「あり得ない」との見解を述べている。
「演習」をしているのは、10万の兵力で「しか」いない。

これが、「侵攻」して弾薬を撃ちつくしても、周辺のどこにも、「補給部隊」の存在が確認できていないのだ。

戦闘要員としてのフロントに10万ならば、弾薬だけでも補給にはトラックが数百台必要だし、食料からなにからとなれば、補給部隊には20万人が必要になるのは、断続的かつ安定的な補給が必須だからである。
もちろん、補給部隊を護衛する部隊もいる。

これらの部隊の姿が、今どきの精緻な衛星からも、見つからない。
補給なき軍隊がどんなことになるのかは、ナポレオンもドイツ軍もモスクワを目前に敗退した理由になったし、秀吉が強かったのも、補給のプロ、弟秀頼の「お陰」だった。

それに、「将兵の心理」という角度からは、「大義名分の有無」ということを重視して、「政治目的との合理性」に鑑みば、やっぱり「あり得ない」という分析を示した。

すると、バイデン氏の「煽り」は、軍産複合体である「同じ穴のムジナ」のブッシュ息子大統領令がやった、「大量破壊兵器がある(はず)」という、(結果的にも)見込み違いの「イラク戦争」と同じパターンなのだと気づく。

敵は内にあり、という「原則」に照らすと、プーチン大統領を追いつめているのは、ロシア議会(下院)の決議だ。
ウクライナのロシア人地域の「独立」を、大統領に要請する議決をしてしまった。

これはこれで、クリミア半島を「併合した」ときと同じパターンだけれども、このときには実際に「独立戦争」的な「内戦状態」であったから、平和時のいまとは条件がちがう。
それに、クリミア半島を併合してからの、「ミンスク合意」に、現状のままなら完全に「違反」する。

ところで、OSCEにロシアが加盟したのは、1973年なのだ。
このときは、「ソ連」であった。
そして、いわゆる「東側衛星国」は、一国も加盟していない。
ついでに、「永世中立国」の、スイスとオーストリアが加盟している。

それから2年後の1975年、OSCEの「最終合意文書」である、「ヘルシンキ宣言」には、なんと、鎖国しているアルバニアを除いて、全欧州各国(東側衛星国も)、ちゃんと署名しているのである。
アメリカとカナダも、だ。

それでもって、2014年の「クリミア危機」でも、このヘルシンキ宣言の適用問題が議論されている。
すると、今回は?

実は、ロシアというかロシア人は、ソ連時代もだけど、「いったん決まったこと」については、妙に「律儀な頑固者」という性格がある。
だから、決める前にはなかなか「首を振らない」で「拒否し続ける」というのも、嫌われる原因だ。

対する、アングロ・サクソンの英米は、「いったん決まったこと」をあっさりと自己都合で一方的に「廃棄」することに躊躇しない、という特性があって、しかも武力で押し通すのだ。

典型的アングロ・サクソンのアメリカ民主党が、ロシアを信用しない理由がこれだ。
自分たちが「裏切り」を何とも思わないから相手もそうにちがいないという、「思い込み」があるのだろう。

なんだか、そんな民族の性格比べが「ウクライナ危機」になっている。

もしやロシアもNATOに加盟したいかも、と前に書いたけど、OSCEにその「本音」があると見える。
ところが、2012年に思わぬ国がOSCEに「申請」して加盟していた。

それが、「モンゴル」なのである。
あれれ、現代世界の人類の敵の「蓋」になる最前線ではないか。

しかもモンゴル人(内モンゴルを含む)は、漢人が大嫌いで、日本が一番好き、二番がヨーロッパというお国なのである。
さすがは、あと一歩でヨーロッパを征服したにちがいない、チンギスハンの遺伝子か。

もしや、モンゴルがアジアで真っ先に、NATOに加盟するやもしれぬ。

教育委員のリコール選挙

なんでも選挙をすることが「いいこと」なのか、「悪いこと」なのか、あんがいと難しい問題である。

たとえば、身近な「行政」の、市町村でかんがえると、役所の「下請け機関」になっているのが、町内会や自治会である。
この組織の執行部をどうやって決めるのか?といえば、形式的には立候補制である。

しかし、たいがい「やり手」がいないので、むかしの「隣組」の流れからなる、10軒単位ほどの「班」から順繰りに「班長」になったひとたちが集まって、「役員」を形成することになっている。
それで、「くじ引き」をして役職を決めることもある。

ところが、「高齢化」で、10年に1回のはずの「班長」のなり手が、「若手」になって3~4年で順番がきている。
「80歳を超えたから、勘弁してくれ」といわれたら、「そうですね」になってしまって、50代からがしぶしぶなるのである。

一方で、「なりたがる」という現象もあって、特定の「政党支持者」だったり、「宗派」のひとだったりするのだ。
それで、町内会や自治会で「宣伝」や「布教」をやって、おおいに迷惑がられることもある。

けれども、「なり手」がいないから、面倒でも我慢する、というストレスが発生するのである。

コロナ前に、別の町内のひとたちとの定期的な懇親会があって、そこでの雑談で「市議会が機能していない」という問題について話題になったことがある。

横浜市は、人口がざっと370万人で、行政区は18区、市議会は87人の議員からなる。
小学生のとき「分区」があって、10区から14区になったけど、さらに分区されたのは、「田舎」の人口が激増したからである。

わたしが生まれた昭和36年の人口は、130万人強で、14区になった昭和44年は、210万人強となっていた。
なお、市中心部の人口減少(まん中が空洞の「ドーナツ化」と呼んだ)は、30年代の終わりからすでにはじまっていた。

人口と議員数については、むかし朝日新聞が人口当たりの議員数を「機械的」に全国一律基準で増やすのが「民主主義だ」と主張していた記事を覚えている。

朝日の主張だから「逆神」なので、そんなはずはない、が正解にちがいない。
それに、地方議会は全国一律「一院制」ということが固定化されて、それが、「常識」になってもいる。

そんなわけで、「各区内の町内会や自治会」の会長を、議員としたらどうか?と言ったのは、「上院議員」というイメージだったけど、だれからも賛同されなかった。
そんなことをしたら、「その筋」のひとたちがこぞって「会長」になってしまう「危険」がある、というのである。

さらに、町内会の「規約」を変えて、「終身制」にされたらどうする?と心配するのだけれども、どうやって規約を改定するのかの手続きも変えないとできない。
むしろ、「危険」だから、緊張感があっていい、と言ったら、そんな「生活」は嫌だ、という。

でも、現状の「下請け機関」の困った実態はどうやったら改善できるのか?
既存の地元議員たちは、こんな懇親会にかならず顔を出すけれど、確かに「まとも」な見識を聞いたことがなく、むしろ役人の原案に「賛成する」のが、「議員たる者の常識」らしい。

だから、「どっちもどっち」なのである。

そんなわけで、わたしは「呆れた」けど、みなさんから「呆れられた」ので、雑談はこれでやめて後は諸氏のお話を聞いているふりをしていた。
「下請け」が嫌なのは、楽して暮らしたいのにそれができないから、という一点での「ぼやき」に過ぎない与太話だったのである。

さて、民主党のアメリカがわが国に導入した「教育委員制度」というのも、かんがえてみれば日本人はみごとに「換骨奪胎」して、教育委員会という行政組織はあるけど、とうとう「教育委員長」をなくして、役人がなる事務局長たる「教育長」がトップになった。

市民から選ばれるだけでも面倒なのに、なりたくもない「長」にされたりしたら、楽な生活ができないので、お役人様に任せるという、江戸時代の伝統がいまに生きる。
これはこれで、「合理的」であったのは、こないだまでの世代には厳しい「職業倫理」があったからである。

そんななか、民主党の牙城のひとつ、カリフォルニア州で、鉄壁を誇る民主党支配のサンフランシスコ市教育委員7人のうち、「長」を含む3人が、7割以上が「賛成」という圧倒的多数で「リコール」された。

なお、残りの4人がリコールされなかったのは、就任後の期間が短く、リコール対象にすることができない事情だけだという。
ならばどんな「新人」が選ばれるのかも、今後の興味になるのである。

なんでも「公職」なら、選挙をするのがアメリカの仕組みなので、住民は「楽ができない」という面倒を「ふつう」にしている。
こんな仕組みにしたのは、「民度の低さ」からであるけれど、水の流れのごとく、「高いところから低いところへ」と、わが国もなってしまっている。

前にも書いた、バージニア州知事選のように、「教育問題」がいまのアメリカのキーワードになっているのは、民主党の極左が推進する「批判的人種理論」への市民の反発という「常識」に、振り子が大きく振れているからだ。

これを、「目覚め」というならば、残念ながらわが国の方は、「深い眠り」という「安穏」にずっと浸っていたいという願望が優っている。
もしや、「意識不明」なのかもしれないけれど。

アメリカ人が優れているのではなくて、わが国民が「やばい」のである。

大分県臼杵市議の孤独な戦い

市議会における、「マスク着用の申し合わせ」はあったけど、一人で反発して、「鼻だし」から「マスク未着用」という段階的「抗議」をしている議員がいる。

「鼻だし」状態のときでも、議会本会議はもとより委員会でも、発言を議長及び委員長に拒否されて、とうとう昨年に市を相手取って民事提訴に至った。

地元テレビ局やその他でも、この「ニュース」を扱っていて、ネットでは「辞任せよ」とのコメントが圧倒的多数に見える。

「ニュース」としての扱いは、慎重かつ巧妙に、いわゆる「提訴されない防御」をしながら、視聴者には「憎悪」を促す、まさにジョージ・オーウェルの『1984年』(1949年)にある「真理省」の役割を果たしている。

この意味で、わが国が「まとも」な民主国家を次世代にも伝える、という「保守思想」があれば、全入となって授業料も無料化しようという事実上の「義務教育」状態になった高等学校における、「公民、現代社会、倫理、政治・経済」のどれか、あるいは、「現代国語」で、『1984年』は必修の課題図書に指定しないといけない。

つまり、『1984年』を知らない日本国民は「いない」という状態にすることが明るい未来をつくるのである。

なお、近年では、生徒に日和って「選択科目」になってしまっている「理系」のうち、せめて「生物」ならば、副読本として、オルダス・ハクスリーの『すばらしい新世界:Brave New World』(1932年)を課題図書にするとなおよい。

   

とはいえ、残念ながら『Brave New World』のドラマ作品は、シーズン1で打ち切られたので、続きは原作を「読む」しかない。
また、ドラマ作品のビデオは英語版であるから、日本語で視聴するなら「配信」しているのを観るしかないことになっている。

ついでに、この作品で重要な道具立てになっている、精神安定飲料「ソーマ」については、わが国戦後近代文学の金字塔と三島由紀夫が評した、『家畜人ヤプー』にも「おなじもの」が登場する。
ながく「絶版」となっていた、巨匠、石ノ森章太郎による「劇画版」も2010年に復刻(全4巻)されている。

ただし、この作品自体が「成人向け」なので、まだ高校生には刺戟が強すぎるし、その「エログロ」具合は、ノーマルな成人にもかなりのものであるから、目にするには覚悟がいる。

『1984年』や『すばらしい新世界』とは、わが国が国として、ぜんぜん民主主義国家を目指していないし、マスコミがいう「民主主義」とは、共産党の「民主集中制」の「民主」を言っているにすぎないことに気づくための「教科書」なのである。

『1984年』での、「ダブルスタンダード」に基づく、「ニュースピーク」という、国民の論理的な思考を封じる「語法」の解説なのだ。

また、『すばらしい新世界』での、家族の解体が遺伝子操作によるところまで進行するという話は、かつての「優生主義」の究極で、次世代の「母」になる女子生徒には必須の事前知識を与えるから、「家庭科」における副読本にするのもよい。

すると、「フェミ」がいうことの本質が、じつは「女性の敵」だという逆転になっていることにも気づくであろう。
ここを、「突いて」からかっているのが、前に書いたネットで人気の「ちくわ【あるある】」の瞬間芸なのである。

よって、これらの図書や映画は、わが国の「主流をなすひとたち」から推奨されるわけもなく、むしろ、これらを「知らない」国民にすることに、「使命感」すらあるはずである。

個人的経験だが、とある現役東大生(政治学専攻)が、4年生になっても、上記作品の存在すら「知らなかった」のに驚いたことがある。
しばらくしてから、メールで「読破して驚いた」という「お礼」のメッセージをもらった。

まじめな学生ゆえの反応なので、かえって本当に東大の政治学専攻課程で、ジョージ・オーウェルもオルダス・ハクスリーも、さらにいえば、ディストピア小説の「はじめ」にあたる、トマス・モア『ユートピア』も教えていないのかと疑った。

いや、東大生は、教師がいうまでもなく「読んでいるはず」という「前提」があるにちがいない。
しかしそれは、極めて「不親切」であって、やっぱり「知らない」ままの「エリート」を量産したいのではないかと確信するのである。

そんなわけで、大分県臼杵市の若林純一市議は、「知っている」側の「小数派」だから、想像以上の「孤独な戦い」をしているにちがいない。

札幌市議会での「議長選出」を巡る「ピエロ」がいたけれど、若林市議の場合は、はるかに政治哲学的本質を衝いている。

人間を支配するのは「恐怖」である。
これに気づいて実行したのが、ヒトラー、スターリン、毛沢東、それにカンボジアのクメールルージュだった。

選挙で選ばれた議員たちが集団で、「マスクをしない」というだけでの言論封殺をすることの重大性に気づいていないことの恐怖。
それを支持する、ネットコメントを書き込むひとたちの、全体主義への「無防備」と、それが全体主義であることの無自覚という恐怖。

その「条件」になっている、マスクがウイルス感染を予防するという「科学」の適当な解釈に至った恐怖、あるいは、「エセ科学」を信じる野蛮の恐怖。

もちろん、日本が戦争に打って出るように仕向けられた、米英による資源締付けの恐怖だってあるし、バイデン氏が一方的に煽る「戦争への恐怖」は、いまやっていることだ。

これらに通じる「戦い」だということに、気づかない「自覚なき可哀想な奴隷たち」が、若林市議を非難するひとたちなのである。

どんな「判決」がでるのかに、興味が涌くことの意味は、すでにある、「司法」への疑いからのことである。

地方裁判所の裁判官を言うのではない。
最高裁判所で、国民審査の対象にもならない、「事務総局」がやっている全国裁判所の裁判官「人事」における、統制の恐怖なのである。

事務と組織が互いに「進化」して、これに通信の進化が掛けあわさってできてきたのが、「効率的な統制」であった。
その事務と組織をとりまとめる者の、(役人の)匿名性が、顔出し名さらしの政治家を無力にしてしまう。

若林市議の「まとも」が日本人の「まとも」にならないことが意味するのは、残念ながら「全体主義の完成」なのである。

台湾海峡危機が、どんな恐怖をもって日本人を野蛮にさせるかも、これから起きることである。
国防の必要と野蛮は別なのである。