国産「単6電池」がない闇

「単6電池」とは聞き慣れないかもしれない。
むかしから商店街にある、有名電器メーカーのチェーン店でもある街の電気屋さんのおばさん(もう、お婆さんか?)に聞いても、「そんなもの聞いたことがない」といわれるしろものだ。

パソコンへの入力方法といえば、キーボードとマウスが典型的だが、このところ「ペン入力」というものもでてきている。
「タブレット・コンピュータ」のさきがけになった、iPadの画期とは、「指」で画面に描画できたことと、それが「活字に変換」されたことによる。

安価な「タッチパネル」は、「抵抗膜方式」といわれ、これに圧力をかけると反応するから、100均でも入手可能な「ペン」がある。
しかし、より精密な入力をしようとすると、「静電容量式」のパネルが使われているので、「専用ペン」を用いる必要がある。

この「専用ペン」には、電力がないといけないのは、ペンで描くという人間の行為とは別に、ペンから出力することでパネルに情報を供給していることで「描ける」からである。
従来の、圧力だけが出力だったのとはぜんぜんちがう。

そこで、「専用ペン」を販売したいパソコン・メーカーは、乾電池式と充電式とをつくっている。
最新のiPadでも上位機種だけに対応する、充電式ペンがあって、これは本体上部にペンを内蔵磁石で固定するとそれだけで「充電」される仕組みになっている。

いざ、というときに「電池切れ」というトラブルが起きにくいから、「さすが」の配慮である。
ただし、充電式の弱点は、充電池の「寿命」にあって、だいたい3年がいいところになるから、充電池の交換ができないなら、ペンごと買い換える必要もでてくる。

しかも、このペンは、現在の販売価格が、約15000円もするので、3,4年で高級万年筆を買い換えるようなことになる。
別途契約すれば、約3000円で交換可能だ。しかし、交換のための期間は使えないから、悩みはつきない。

そこで、いつでも「補充在庫」があれば、かんたんに交換できる「乾電池式」の魅力があるのだ。

ところが、むかしからある「ペン型ライト」ではなくて「ペン」そのものだから、手に持ったときに違和感があったら元も子もない。
それで、ペンの経にあった乾電池がないとはなしにならない。
従来の「単4」でも「太い」という問題がある。

アメリカでは、乾電池の大きさをアルファベットでしめす。
単1:D、単2:C、単3:AA、単4:AAA
それで、「AAAA」という「A」が4つの電池もある。

ここで、日本国内には、レアな「単5」という電池があるのをご存じか?
単4より全長が短いが、経が太いのでずんぐりむっくりしていて、アメリカでは「N」と表記される。

では、「AAAA」はどうか?
じつは、日本国内規格に「AAAA」にあたるものが「ない」のだ。
アメリカにあって日本にない。
もちろん、国際規格も「ある」。LR8D425という。

まさかの「ガラパゴス化」ではないのか?
どうやら、メーカーが「需要がない」と見込んでいるらしい。
そんなわけで、国産乾電池の規格に「単6」はないけど、「単5」まであるから、便宜上「単6」といって「AAAA(LR8D425)」のことをさすのだ。

すると、国内規格が「ない」ことから、ふつうに「売っていない」になる。
だから、街の電気屋さんが、「?」になるのは正しいのである。

とはいっても、乾電池式のペンを使いつづけることができない。
新品購入時に付属してきた「一本」しかないからだ。
つまり、「輸入品」を購入するしかない、という選択肢に自動的に追いこまれるのである。

見たことも使った記憶もない、「単5」の「需要」がどうなのかしらないが、需要がないから規格もない、という論理はなんだか「変」なのである。
少なくとも、世界には需要がある。

すると、これは、「世界の工場をやめた」象徴ではないのか?

もちろん、「国産」では利益が出ないなら、それはそれで経営判断するのは企業の自由である。
けれども、「規格がない」から「国内販売していない」、というのは理解できない。

これと真逆の現象が、ガソリンや軽油にみられるのだ。
生活必需品として、この身近な燃料には、厳密な「規格」はあるが、商品毎に「開示」していない。
あるのは、「商品名」による「品質イメージ」だけである。

ガソリンスタンドで、これから給油するガソリンや軽油の「成分表」をみたことがない。
「食品表示」は当たり前なのに。

もちろん、余りだした原油は天然資源だから、くみ出されたときによって成分に変化があるにちがいない。
けれども、それを、精製してつくるのが「ガソリン」であり「軽油」という「商品」なのだ。

国が定めた基準をクリアしたものしか販売させていないから、「安心して」購入せよ。

排気ガスは、エンジン性能も重要だが、燃料性能がよほど関係するだろうに。

消費者優先がどうなっているのか?わからない「闇」がある。

正論の女王の正論

内科医の仲田洋美氏が立ち上がった。
「馬」と「鹿」を連発するから、最初は「毒舌の女王」だったけれど、もはや「正論の女王」といっていい。
彼女をしらない方は、ぜひユーチューブの『女王降臨ひろみちゃんねる』で検索して、初回から視聴してほしい。

新型コロナウイルスの医学的見地からの情報なら、このひとの解説をじっくり観ることが、「常識」なのではあるまいか?
地上波に登場している、「専門家」の主張を、論理的かつ専門的かつわかりやすく「粉砕」しているからである。

これは、「福島」のときの武田邦彦教授とおなじような登場のしかたである。
歴史は繰り返す。
相手が医師であっても容赦ないのは、「私見」ではなくて「事実」からの発言だからである。

ところが、マスコミ報道にでてくる「常連」になった「専門家」への指摘など「まだまだ」なのは、医学界の「闇」にまで深く切り込むからである。

第一に、日本国憲法から論がはじまる。
あるべき医師のすがたを、その第25条にもとめているのだ。条文は以下のとおり。

「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」

これを実現するための一角をなすのが「医師」である。

だから、医師会や医学会は、つねに憲法の精神に立ち戻って、自らの姿勢を正さなければならない、と主張している。

それは、ひろみ先生が医師としてスタートしたばかりのころの、二度までもの苦い経験(不届きな教授の所業を批判して、医局から閉め出されたこと)が、いったん医療の世界から遠ざけられて、法律の世界に身を投じたことが、たいへん影響しているのだともおもう。

そして、法律の世界とは基本、もっぱら起きたことに対する対処であることに気づき、これが「後ろ向き」に感じ、自分には向かないとして、再び医師の世界に戻ったというから、芯がとおっている。

「どうしても商法・会社法が合わなかった」といって、六法のうち五法を勉強したが、司法試験は断念したという。
ちなみに、六法は、憲法・刑法・民法・商法・刑事訴訟法・民事訴訟法のことをさす。

人間という動物は、ストレスの対処のために、「逃げ方」をかんがえて実行し、それで最初のストレスを忘れることをする。
自分を良い方向に向かわせる典型が、猛勉強であったり激しいスポーツ練習だったりする。

社会人だって、職場への不満や怒りが、エネルギーとなって「勉強してやる」と発憤することはある。
後からすると、そんな酷い職場やそんな職場を放置していた上司たちに、ひそかに感謝もするから、人生とはわからない。

「ブラック企業」は、いけないが、これをはね除けるエネルギーが湧いてこないのもいかがなものか?
学校で、ストレスとのつき合い方を教えてくれない。
教師も、それをコントロールする、教育委員会の役人も、きっとストレスがない環境に育っているから、わからないにちがいない。

わが国の教育界も、旅館やホテルなどとおなじで、「心理学」を深く学んでこれを「応用」し、「顧客」である生徒に対処しないのは、「しらない」では済まされない「怠慢」なのである。
この意味でも、教育「行政」という意味不明なものをつかさどる「文部科学省」という役所は、とっくに不要だし邪魔なのだ。

しかし、先生は上述した医局から閉め出されたとき、文科省の担当官が助けてくれて、専門医として復活を遂げたときには、泣いて喜んでくれたというから、あんがい文科省には優しい目をもっている。

さて、先生は、今回のパニックできまった「初診時のオンライン診療解禁」は、厚労省が認める前に、医師会が認めたことを批判している。
なぜなら、どんな病気なのかを診断する「初診」こそが重要で、これが医師の「腕」であるから、オンラインという方法でそれを満足させることができっこないからだとの主張なのだ。

たとえば、聴診器もあててくれなかった、という患者の声にも、先生はひるまない。
症状によっては会話やふつうの呼吸音だけで、聴診器をあてるまでもない「診断」はできるし、できない医者がいたらそれこそ問題だ。

だから、なにがなんでも聴診器をあてないことが問題とはならない。
むしろ、プロとして、「初診」の重要性が主張できない医師会の重鎮たちを批難するのは、かれらは大学教授とか大病院の院長とかという「重い肩書き」があるぶん、実際の診療現場から遠いのだ、と。

まさに、『逆さまのピラミッド』を読むべき上層のひとたちがたくさんいるのだ。
この本がアメリカででたのは80年代の終わりで、わが国では90年に日本語版がでた。

この本によって、アメリカで「サービス革命」が起きたといわれたが、日本では「起きなかった」。
おそらく当事者たちに「読書習慣」がそもそもないからではないかとうたがっている。

いま、ひろみ先生は、医師会に対して、医師がSNSで発信するときは、ホンモノの医師であることを表明する「倫理規定」をつくるように要請する準備をしていると明言している。
たいがいの組織は、自ら定めた「倫理規定」に反すると、「懲罰」という段階も用意されているから、なかなか「強力」な要請なのである。

混乱しているがゆえに、これまで以上に「倫理」が必要な社会になっている。

都市のバスは一律料金なのに

どういう加減かしらないが、距離だけで決まっている感じがしないのは、ちょっと郊外にいくと「あたる」ことがある、変動料金制のバスである。
なんだか乗った感じがしない距離なのに、割高感があるときがある。

わたしの住む横浜市には、まだ「市交通局」があって、市営バスと市営地下鉄が走っている。

路線バスで県下最長の走行距離をほこる、神奈川中央交通は、県ごとに認可が下りる『1940年体制』のまま80年も経過した「規制」のなかで奮闘している。

これは、各県に行けばかならずあるバス会社とおなじ構図で、地方銀行業界だってこれにならっている。
けれども、各県の行政にまかせるのではなく、国の出先が管轄するから、県庁よりも国の「合同庁舎」がにらみをきかせているのだ。

そんなわけで、横浜市の路線バスは、私鉄系と市営があって、バス運転手さんの給与にまつわる「ヒエラルキー」が、ピラミッド型に形成されているという。

バス事業単体ではどうにもこうにもいかなくて、とうとう小田急傘下になって、さらに子会社に分社化しているのが神奈川中央交通さんだ。
どうやら、バス運転手さんの給与水準がいちばん低いのではないか?といううわさがたえない。

それで、運転手さんたちの転職によるキャリアアップは、何回かの転職をつうじて、横浜市交通局の運転手さんになることだという。
はたして、横浜市議会議員でこれを議論するひともなく、「同一労働同一賃金」だけがむなしくひびく。

それよりも、どうして、横浜市営バスの路線が、路線ごとにでもオークションにかけられないのだろう?
戦後、庶民の公共交通を支えてきた「功績」は認めつつ、いつまでも「市営」である必要がどこまであるのか?

いまさらだが、さっさと民営化すべきである。

しかし、いまさら、なのは、ただ民営化すればよい、というかつての粗っぽい議論をしたいのではない。
どうして、かつての「民営化」が「粗っぽい」のか?といえば、「思想が薄っぺら」だったからである。

この「薄っぺら」さは、民営化すれば利用客が喜ぶことしかしない、ではなくて、「赤字が減る」だったのだ。
偉くても、企業経営をしらないひとたちが議論したのである。
ただし、旧制度からの脱却「だけ」でも大変だったのは、理解するけど。

わかりやすいのが「JR東」である。
この会社は、黒字である。
だが、鉄道会社として黒字になった、とかんがえてはいけないし、もちろん「民営化したから」黒字になったのでもない。

「鉄道法」の呪縛から解放されたから、黒字になったのだ。

鉄道法は、鉄道事業以外を認めなかった。
民間の鉄道会社は、鉄道事業以外の事業を別会社でやった。
この成功例が、関東では「東急」、関西では「阪急」である。
簡単にいえば、「国鉄」に東急や阪急のまねができなかったのである。

それが「JR」になってできたのは、「心機一転」したからである。

つまり、「気」の持ちようなのだ。
「バカな」というひとは、人間をしらない。
「人間は考える葦である。」という名言の名言たる理由を述べよ、といわれてなんとこたえるか?

キーワードは「考える」だ。
つまり、人間とは、考えたこと「しかしない」動物なのだ。
逆に、考えていないことは、やらないし、できないのである。

動物の場合、はたしてどこまで「考えた」結果の行動なのか?
むしろ「反応=本能ともいう」による「行動」と、「思考」による行動の区別がつかない。
だから、愛するわが家のペットの行動すら、よくわからないのである。

それで、ペットの心理をつかむプロがいて、うそみたいに問題行動を原因から解消してくれる。
ただし、飼い主がこれを理解しないままなら、元の木阿弥なのである。なぜか?問題行動の原因が飼い主の接し方がまずいからである。

しかし、「人間」はちがう。
かならず、思いついたり考えてみた結果でないと、そもそも「筋肉すら」動かないから行動にならない。

そんな人間が集まっているのが、なんであれ「組織」を形成するので、そこにいる人間の「気が変わる」と、とんでもない変化をすることができるのである。

運輸局の「気」が変わることを望んでも仕方がない。
かれらにとっては、「法」が変わらないとなにもできない。
しかし、「法」をかれらの都合とはちがう方向に変えられると困るので、なるべくそうならないように議員を養育するのである。

ずっと前、日本が貧しかったころ、市内のバスはとっても便利だった。
しかも、最大の路線距離があった市営バスでも、車掌さんにいえば車内で「乗り換え券」を発行してくれた。
これをもっていれば、市バス路線内なら乗り換え「自由」で、余計な料金はかからなかった。

車掌さんがいなくなっても、電子的な手法でバスに乗れるのに、乗り換えもできないで何度でも「初乗り一律運賃をとる」のは、「市内一律運賃」の看板とちがう。
豊かになったら、良心が抜けたのはどういうことか?

世の中を便利にする政治をやめて、不便になることしかしない。
「進歩」とは「不便」である。
これは、全体主義特有の「ダブルスピーク(二重語法)」のことだ。

民主主義をいいながら、ぜんぜん「民主」になっていないのは、「看板に偽りあり」の典型である。

こんなことを、バスに乗るたびにおもう。
「老人パス」だけが、「一律運賃」の最後の砦になっている。

去年のGWの話題を振り返った

歴史の「変わり目」にあたって、ひとはそれに「なかなか気づかない」といわれてきた。

「大災害」があればわかりやすいけれど、それは、「被災者」に限定されてしまう傾向がある。
「当事者」でないと「なかなか気づかない」ものなのだ。

今回の「新型コロナウイルス禍」は、おそらく「感染症」としては、小規模な被害でおわる可能性が高い。
なにしろ、毎年のインフルエンザに比較すれば、罹患者数も死亡者数も10000分の1程度であるからだ。

すると、明らかに「人為による被害」の方が、よほど深刻な悪影響を作りだしているということだ。
しかも、自然災害よりひどい「全国一律」だから、全国民が「被災者」になってしまった。

過去の歴史で、「人為による被害」として、悪影響の最たるものが「戦争」だった。
その理由はなんであれ、人間の「欲望」によっていた。
支配欲や征服欲、そこから派生する掠奪の「うまみ」もあったろう。

今回の「人為による被害」の発端はなんだろうか?
経済政策のちょんぼ(たとえば昨秋の消費増税)を誤魔化すため。
あるいは、自己顕示欲からの「指示出し」。
しかし、一般人には「生存欲」がもっとも強かった。

とにかく死にたくない長生きしたい。
たいした流行ではなくても、「治療法がない」ことが大問題なのだ。
この「生存欲」が、政府や為政者たちの「欲をあおって」、ますますこれをマスコミが利用した。

さまざまな「欲」のぶつかり合い、これこそが本質である。
ウィルスは、そのトリガーを引いたにすぎない。

かくも「生存欲」が優先する時代は、かつてあっただろうか?

われわれは、もう一度しっかり「歴史」を学ばないといけない。
そこに、生存欲よりも重要などんな「価値」があったのか?の確認である。
つまり、生きる意味であって、ひいては人生の意味である。

このまま、「ただ生きている」ことに価値があるとして、たとえ個人が突きつめなくても、そのベクトルに多数のエネルギーがくわわると、「一点追求」という方向と力がうまれる。

すると、映画『マトリックス』のリアル社会における人間たちが、ただカプセルに横たわって、このまま一生を終わるということが、むしろ「望ましいこと」になってしまうのだ。
それが、生体エネルギーを取りだす、「発電所」だったとしてもだ。

すなわち、「飼い殺しでもいい」、という価値観が、生存欲が最高の価値だとする発想と直結する。
「脳をだますプログラムでしかない」としっていても、「快楽」をもとめて仲間を裏切るシーンが用意されている周到さにも、ただ納得するのである。

はたして『マトリックス』はもはや「古い映画」になってしまったが、ここで紹介された「未来」とは、じつは「現在」のことではないのか?

ならばと、昨年のゴールデンウィークを取材した数々の映像を、たった1年後のいま、振り返ってながめれば、おそろしく「古い」と感じてしまう。
いつものGW同様に、だれもが連休をなんの不安もなしにたのしんでいる光景を、いま、どう評価できるのか?

鎌倉の海岸に、他県ナンバーの車がきても県営の駐車場を利用できないようにすると「決めた」県知事を止められない県議会。
これから派生して、「正義」の逆転がはじまったから、他県ナンバーの自動車を「あおる」地元民の運転手がでてくる。

いまどき、なんで他県からくるんだよ。けしからん。

ウィルスがどうやってひとに感染するのか?を「正しく」いわずに、それが、あたかも「空気感染」にまで拡大解釈されて、近くにいる他人を疑うように仕向けることが「正義」になったのである。

これぞ「アトム化」だ。
アトムとは、古代ギリシャの哲学者デモクリトスなどが提唱した「原子」のことで、これを後世の、ジャン・ジャック・ルソーが、「社会」に応用して、人びとがバラバラになって、物質的な「個」になることをいう。

彼は、地縁も血縁もなくなって、共同体もない社会を理想化したのだ。
「個」だけの人間で構成される社会である。
すると、そこに、あたらしい支配のための価値社会が誕生する。
それが、「唯物論」を基礎におく「共産主義社会」なのである。

わが国は、とっくに地縁も血縁も薄くなった。
江戸時代の各藩とて、幕府によって「国替え」がさかんにおこなわれ、大名の地縁を断つことに専念したのは、支配者層と被支配者の分断が、幕府に都合がよかったからである。

これに、「養子縁組」という方法で、「血縁」も重要視されないようにした。
紙に書いて、役所に届け出ることで、赤の他人が家族になれる。
血縁をつなぐ「結婚」と「養子」とは、決定的にことなるのだ。

そんなわけで、「共同体」としての「会社」が唯一のこった。
会社に愛着ができるのは、家庭の血縁が壊れたからである。
その家庭がある、地元共同体(町内会や自治会)活動に興味もないのは、とっくに地縁がないからだ。

「会社に行くな」というのは、ウィルス感染の「おそれ」に名を借りた「共同体破壊」の「人為」である。
これは、「リスク管理」ではなく、「アトム化」の推進なのである。

もう二度と、昨年までのゴールデンウィークのような光景がみられなくなる。

つぎに来るのは、誰かにいわれて、「行楽に行きましょう」という号令に従う「ひとの群れ」に変容するからなのである。

旅館業法を無視する主務官庁

宿泊事業者には、「事業免許」がひつようで、わが国にはその根拠法がふたつある。
圧倒的多数で、事実上これしかない状態になっているのは、旅館業法による許可である。申請窓口は、地元保健所。

圧倒的小数で、事実上もはや新規許可がおりないのは、風営法による許可である。窓口は、地元警察署。
風営法による許可を得ていたのは、むかしの「連れ込み旅館」であった。

老朽化による建て替えをすれば、旅館業法での許可申請しかできなくなっているので、「連れ込み旅館」のようであっても、法的にそうでない施設がふえていて、全部が旅館業法によるようになるのは「時間の問題」になっている。ようは、寄せられている。

むかし、教職員組合の全国研修会予約を受け付けた大手ホテルが、政治団体からの街宣車などがやってくることを理由に、一方的に予約契約を破棄して、事実上研修会の開催ができなかったことがある。
これが裁判になって、ホテルが負けた。

研修会場となる宴会場の予約契約解除よりも、参加者の宿泊予約が、ホテル側の一方的都合で破棄されたことが問題になったのである。
なぜなら、ホテル側が一方的都合で予約を「拒否」できる理由が、旅館業法に定められていて、これに「該当しなかった」からである。

第五条 営業者は、左の各号の一に該当する場合を除いては、宿泊を拒んではならない。
 一 宿泊しようとする者が伝染性の疾病にかかつていると明らかに認められるとき。
 二 宿泊しようとする者が賭博、その他の違法行為又は風紀を乱す行為をするおそれがあると認められるとき。
 三 宿泊施設に余裕がないときその他都道府県が条例で定める事由があるとき。

ということで、昨今の新型コロナウイルスに関して、「感染者」を旅館業法のうえで営業しているホテルなどに収容しようとして、国家行政サイドが、「客室の確保」をしているのは、どうかんがえればよいのか?

第六条 営業者は、宿泊者名簿を備え、これに宿泊者の氏名、住所、職業その他の事項を記載し、当該職員の要求があつたときは、これを提出しなければならない。
2 宿泊者は、営業者から請求があつたときは、前項に規定する事項を告げなければならない。

第十一条 左の各号の一に該当する者は、これを五千円以下の罰金に処する。
一 第五条又は第六条第一項の規定に違反した者

なお、命和元年6月15日より施行の改正によって、罰金の上限は「50万円」に引き上げられている。
ついでにいうと、政府の「e-Gov」によると、「最新」に更新されていない。

そんなわけで、罰則が強化されているものの、「軽症者」を「受け入れろ」というのは、自己矛盾もはなはだしい。
また、「宿泊者名簿」の義務とは、チェックイン時に本人に記入をさせる「レジストレーション・カード」のことで、もともとが「感染源」を探るためのものである。

つまり、どうして旅館業法の所管が「保健所」なのか?という理由が、まさに「伝染病」をおそれたからである。

たしかに、医療機関をパンクさせてはならないという社会の要請を無視するわけにはいかない。
けれども、宿泊施設は、そもそも「病院ではない」から、問題は従業員への二次感染を防止するための手段がなくてはいけないし、大型クルーズ船であったように、宿泊者どうしだって安全性を確保しなければならない。

これをさせずに、ただ「受け入れろ」というのは、宿泊業にかかわるひとたちに対する「差別」にならないか?

今回の「パンデミック」でわかったことは、政府や地方自治体が、そろって感染症対策についての事前マニュアルがなかったことを示したことである。

つまり、厚生労働省の旧厚生省が、なにもしていなかったから、中央集権体制のわが国では、地方自治体もなにもしない、ということになっている。

江戸時代の幕藩体制に劣るのだ。

もっとも多数の「感染者」(ほんとうは「患者数」が重要なのだが)がでている東京都をかんがえると、江戸時代なら北と南の両町奉行は切腹ものだし、藩にあっては、「不届き」としてお取り潰しの憂き目にあうだろう。

都知事や各自治体の責任者は、その責任の「軽さ」に感謝すべきである。

しかし、宿泊施設従業員への配慮のなさは、まったく別で、おそらく配慮しなかったのではなくて、「意識もしなかった」のだとおもわれる。

法律を主管する、主務官庁として、まったくなっちゃないどころではない。
すなわち、「誰のため」「何のため」ということすらなく、「場あたり」の「対処」しかないことを示したのだ。

わが国のトップ学歴の「官僚は優秀である」ということと、「法治国家」ということも、じつは「イリュージョン」だったとなれば、まさに、「このあと」をかんがえると、「なんらかの変革」の時期がやってくるのはまちがいない。

それが、いっとき、われわれの暮らしやすさがうしなわれようともだ。

生きていくのに「覚悟」がいることになった。

「えんがちょ」で感染予防する

「安全と安心」について前に書いた。
「安全」には、科学の知識が「必須」だが、「安心」には、科学は「無用」である。

今回の新型コロナウイルスも、基本的には「空気感染しない」のだが、ほとんど「えんがちょ」状態になっている。
それが、「他人との接触を8割減らすべき」という不可思議な表現から「自宅待機要請」になって、ひろく世間に誘発されている。

突然でてきた「諮問委員会」というのも、緊急事態宣言を出すか出さないかを事実上決めるひとたちなのだが、どういうふうに委員に就任したのか?とか、どうやって選んだのか?ということも、それから、どんなひとたちなのか?ということもよくわからない。

なので、きっと「えらいひとたち」にちがいない、という「安心」でしか、このひとたちが決めることに根拠はない。
それで、上述の「8割削減」ということも、突然でてきたが、「どうやって?」がアナウンスされないから、バカで正直な与党の幹事長が「できっこない」といってしまった。

きっとこれは、言い間違いで、「俺は聞いていないからわからない」といいたかったのだろうが、ふつうのひとより見栄っぱりなので、「わからない」がいえなくて「できっこない」になったのだろう。

つまり、「官邸」のほうが「党」よりも「優先順位」が高いことを示す、組織用語としての「聞いていない」がポロリとでたのだと解釈すれば、わかりやすい。
自民党は、「党」として、なにもしていないことが、これでよくわかるのだ。

一定の思想をもったひとたちが、発生源の国の「党」が絶対であることに憧れるのは、ある意味ただしい。

このことは、自民党という政党が、所属議員たちの集合体でしかなく、ふだんその議員たちは個別に活動しているけれど、なにかのおりに「党議拘束」という「強制力」で、孫悟空の頭の輪っかのごとく締め上げることをしているだけなのだ。

すると、世間で生活している「党員」の存在は、あってなきがごとくとなる。なるほど、個人の議員が議員個人の事務所で「党費」を負担するから、名前を書けば党員になれてしまうので、金銭的負担は必要ない。

だから、自民党員のおおくが、自分が党員登録されていることも気がつかないでいるかもしれないし、いつ「離党」したかもしらない。
それでいて、党員獲得ランキングのベスト10とワースト10を発表するというのは、目的合理的に合致しないが、おカネをつかったことだけはわかるから、なんだか江戸幕府の「小普請組」みたいなのだ。

これは、「えんがちょ」以下の意識下、つまり党員が無意識におかれていることになる。
でも、ぜんぜん問題にならないのは、行政官僚が「政策」を仕切っているからだ。

民主党政権が失敗の憂き目をみたのは、「政策立案」のための自前のシンクタンクをもたずに、自民党とおなじくこれを官僚にやらせたから、政治家がいっていることと政策が「分裂」して、なにがなんだかわからなくなったことが原因だろう。

つまり、政治家が世界標準の政治家らしく振る舞おうとしたが、まったく行政官僚に指導的立場をとることができなかった。
けれども、構造的にみれば、これは当たり前だ。
その当たり前の前提になる、シンクタンクを自前に持つ政党が相変わらず皆無だから、へんなことばかりが起きるのである。

「えんがちょ」がいつできたのか?は詳しくわかっていないが、かなり「古い」ことは確かだ。
あの独特の人差し指に中指をからませるのは、「印(いん)を結ぶ」意味があって、平治物語絵巻にひとびとが生首をみてこれをしている図がのこっている。

「不浄」つまり、「穢れ(けがれ)」を防禦するための「印」であって、高度成長期の子どもには、「バリアー!」と叫ぶあたらしい「えんがちょ」もあった。ただしこれは、「防禦」だけで、他人にえんがちょをうつす効果はない。

わが国の古代からの信仰の三大要素、「穢れ=禊ぎ(みそぎ)」、「言霊」、「怨霊」のなかの基本をなすのが「穢れ」である。とにかく「禊ぎ」をもって穢れを払わないと落ち着かない。
現代的な「清潔感」や「衛生」とはぜんぜんちがう、「安心」をもとめるのである。

それが、マスク着用の「義務化」になってでてきている。
一般に販売されている、医療用ではないマスクには、咳やクシャミの症状があるひとが、他人へ飛沫を飛ばさないための「配慮(エチケット)」としての価値と、花粉を防ぐという機能とがあるだけだ。
あえていえば、なにも症状がないひとが着用する効果として、じぶんの口を、汚染されたじぶんの手で触らない、というぐらいしかない。

飲食のときには、外さざるを得ないけど、もはや入手困難の貴重品になっているから、飲食後はふたたび着用するし、猛者はアゴにマスクを移動させて、そのまま食べていたりする。

これらは、まったく危険だが、だれも気にしないのは、「効果」に期待しているのではなくて、「バリアー!」とか「えんがちょ」になったからである。

マスク着用をしていないと、入店させないということは、じっさいにはとんでもない無謀なことだといえるが、「えんがちょ」なのであるから、もはや科学や理屈など通用しない。

つまり、21世紀にあっても、日本人は日本人であるということをあらためて確認できた。
世界に冠たる「宗教国家」なのである。

まさかの原油マイナス$40

なるほどね。

史上初のマイナス価格がついたのは、4月先物で、決済日は21日である。
商品先物には、株とちがって「決済日」がある。
そして、この日に、「現物」がやってくる。

通常なら、どこかのタンクに入れてもらって、これを「現物」で売ることになるのだが、自粛の影響で工場がとまったから、貯蔵タンクが一杯になってしまった。
それで、おカネを払って引き取ってもらうことになって、原油が「産廃」のような事態になった。

ついた値段がマイナス40ドルという、「前代未聞」である。
だれが引き取って、どうしているのか?の報道はない、けど。

来月5月の先物は、一応20ドルの値がついているけど、どうなるかはわからない。
ただし、現物のスポット取引もあるし、石油市場は世界中にあるので、われわれのガソリン代や電気代がすぐさま安くなるということにはなりそうもない。

マイナスをつけているのは、アメリカの「市場」ばかりである。

石油価格がおかしくなってきたのは、サウジアラビアとロシア、それに石油純輸出国になったアメリカの三つ巴が発端である。
アメリカが、石油純輸出国になったのは、シェール・オイルのおかげであるが、こちらは採掘にコストがかかる。
しかし、石油価格が60ドルをうわまっていれば、採算がとれるというから、「高価格」というトレンドで成り立つという弱点がある。

一方、ロシアは、石油と天然ガス「しか」これといった外貨獲得手段がなくなった。あとは、武器だ。
資本主義になれなかったツケである。
なので、ロシアの意図は、EUへのエネルギー支配という「切り札」を持ち続けることだが、それには適度な「高価格」が望ましい。

サウジアラビアの思惑は、石油王としての地位の維持と、それにともなう中東・アラブ圏の盟主の地位の安定化にほかならない。
宿敵、イスラエルとイランをにらんでいるものの、頼りはアメリカしかない。

しかし、これが揺らいだのは、アメリカが中東の石油を必要としなくなってしまったからだ。
そんなわけで、アメリカ軍まで引き上げるモードになって、とうとうアフガニスタンと和平を結ぶところまできた。

そうはさせじと、サウジが反対するロシアを振り払って、一国で「増産」したのは、石油価格を低下させて、アメリカのシェール・オイル事業を潰そうとしたのである。
けれども、あんまりの「損」がかさんで、やっぱりロシアと協議して「減産」をはじめた矢先だった。

世界ではやりだした病気のせいで、肝心の「需要」が激減してしまったのだ。
この減り方が、とんでもないレベルなのだ。

三者三様、どちらさまも、相手は「地下に眠る天然資源」である。
「減産」とか「増産」とかいって、コントロールしてきてはいるが、「停止」はない。
むしろ、地下から出てくる状態を「止める」ことができないのは、井戸のパイプが圧力にもたないからである。

すると、今度は、石油会社の体力勝負になることまちがいない。
経済でいう「体力」とは、そのまま「資本力」のことである。
資本力とは、「資金調達力」でもあるし、「信用力」のこという。

自己資本が足りなくなれば、株式を発行するか、他人から借りるしかない。
アメリカのシェール・オイル会社は、サウジが「増産」したときに、一社が破たんしている。

かれらのおもな資金調達方法は、高金利の社債である。
シェール・オイル事業は、市場価格が高値安定で成り立つという「リスク」が、債券価値を低下させるからだ。
あんまりの「高金利」だから、一般に「ジャンク債」ともいわれる。
したがって、すでに興亡の戦場は、石油市場から債券市場という「場」に移っている。

アメリカのFRBが、債券を直接購入する方法で、「金融緩和」したというニュースは、このことをいう。
しかし、世界の債券市場そのものが「巨大バブル」になっている。
その金額は、「リーマンショック」の比ではない。

石油という、「現物商品」が、金融商品になったのが「先物」である。
それが引き金になって、津波のように世界経済を襲うことになりかねない、重大な局面にあるといって過言ではない事態になった。

この「津波」のエネルギーは、世界で起きた「需要減」なのだ。

まさに、「本物」がやってくる直前に、海岸の水が、はるか沖まで引いていくようなことがはじまったのである。

「結果としての利益・利潤」をもとめずに、「目的としての利益・利潤」を追求する典型が、「先物」を含めた「デリバティブ」といわれる「金融関連商品」である。
もちろん、「株式」だって、デイトレーダーという「目的としての利益・利潤」を追いかけるひとたちもいる。

かつて、土光敏夫が倒産しかかった東芝の社長になったとき、彼は、自社株で報酬を受け取っていた。現金の支出をすこしでも減らし、自分の仕事の成果の責任をまっとうしようとしたからである。
引退したとき、大量の東芝株の価値は、とんでもない金額になっていた。

おなじ「株式を購入する」という「行為」なのに、「結果としての利益・利潤」を求めるのと、「目的としての利益・利潤」を求めるのとでは意味がちがうのである。

この、土光敏夫のようなひとを「キャピタリスト(本物の資本主義者)」というのである。

ここに、これからの「あたらしいかんがえ方」のヒントがある。

資本主義の先祖帰りは可能か?

前回の復習。
「資本主義の精神」から資本主義が生まれた。
資本主義が生まれて、社会のみんなが尊敬する金持ちたちが、社会のために「投資」して、それが「産業革命」になったのである。

俗説になっている、産業革命から資本主義が生まれたのではない。

このことの「順番」の理解は、「絶対」をともなうほどに重要だ。
あたかも、2+3×4=14となればよいが、20になったら「✕」がつくほどに明解で、そのひとの一生を決めるほど、ここを間違えてはいけない。「順番」の重要性は、ときに「絶対」がある。

ところが、資本主義が生まれたときは、「結果の利益・利潤」であったものが、勃興した産業革命を通じて、伝統的な「目的としての利益・利潤」を追求することに戻ってしまうひとたちがでてきた。

最初から、自分だけが儲けたい。
この精神は、「資本主義の精神」ではないことは、前回説明した。
しかし、人類史を占めてきた「目的としての利益・利潤」の追求は、人間の「性(さが)」でもある。

だから、本来は、「資本主義の精神」という新しい「発想」をもったひとたちが、こうした古い「性(さが)」に対して、抵抗しなければならないのだが、もうひとつ、「資本主義の精神」を支えるかんがえに「自由主義」がある。
もちろん、「自由主義」とは、「自由放任主義」ではないのだが、古い「性(さが)」のひとたちにはかんたんにつうじない。

こんな議論をしていたら、ずいぶん酷いことを平気でする「資本家」がたくさんでてきた。このひとたちは「資本主義の精神」を持っていないけど、「資本」だけはもっている。
それで、「資本家」はいけない、ということが転じて、「資本主義がいけない」になってしまった。

それが、「啓蒙主義」をつうじて宣伝されて、フランス革命からロシア革命にまでなったのだ。
けれども、70年でロシアも革命をやめた。
このとき、資本主義の勝利だと思い込んでいたのは、資本主義国家のアメリカ人だった。

そのアメリカでは、じつは資本主義が衰えていた。
なにも、わが国が経済を席巻していた「だけ」が問題ではなかった。
それは、「資本主義の精神」の劣化があったからである。

顕著にわかる事例はふたつある。
ひとつは、共産主義が崩壊したロシアに、アメリカ人の「コンサルタント」(ノーベル賞学者も多数)が、ロシアの資本主義化を手助けしようとしたのに、ぜんぜんできなかった、という事例。
これは、いまだにできていない。

もうひとつは、経営者が自社の富を独占して、高額報酬を得るかわりに、設備投資を怠り、わが国などとの競争に敗れた事例である。
たとえば、自動車なら、「アイアコッカ」とかが典型例だ。
おのれの経営力を自慢して、超高額報酬を得たが、その企業の命運も食い尽くしてしまった。

アメリカ人が、「資本主義の精神」を失念してしまっている。
これが、「事件」でなくてなにが「事件」か?
ソ連の崩壊をその10年前に「予言」していた、碩学、故小室直樹にいわせれば、「なっちゃいない」はなしだ。

 

この本の「シナリオ通り」に、あのソ連が「ほんとうに」崩壊した。
その後にでた、『ロシアの悲劇-資本主義は成立しない』は、じっさいにソ連が崩壊した、1991年12月よりも2ヶ月「早い」、同年10月に出版されて、「ほんとうに」この本の「シナリオ通り」、ロシアは「マフィア経済」の闇に落ちてしまって、いまだに「そのまま」である。

おそるべし、「資本主義の精神」なのである。

さて、ソ連が崩壊した1991年当時のアメリカ大統領は、パパ・ブッシュであったし、そのパパ・ブッシュが来日したときは、アメリカ自動車業界もやってきて、日本に文句をいうだけではなかったけど、宮沢喜一首相にして突っぱねたのが印象的であった。あまりのショックに、首相主催晩餐会で倒れたのが記憶に残る。

パパ・ブッシュは、レーガン大統領の副大統領だったから、共和党である。しかも、彼は、「主流派」の中心人物だった。
共和党主流派とは、グローバリズム推進派を指すけども、それゆえに資本主義の精神を「気にしない」ひとたちなのである。

党内で対抗するのが「保守派」であって、このひとたちには建国の伝統「茶会党」もふくまれるし、キリスト教長老派という、清教徒の流れがある。
すなわち、資本主義の精神を理解しているばかりか、「なくてはならない」とかんがえるひとたちだ。

ちなみに、キリスト教長老派で、熱心な信仰をしていることで有名な政治家に、台湾の李登輝(本名は岩里政男)元総統がいる。
日本名から中国式に強要されたのだから、本名は日本名という、「順番」がある。

現職の、ドナルド・トランプ大統領も、「保守派」なのだ。
彼がいう「財界のアメリカ回帰」とは、外国から戻ってこいという意味と、資本主義の精神を取り戻せ、という意味とがあるとおもわれる。

これは、たいへん重要なことをいっているのだと理解できるだろう。

「アメリカ・ファースト」とは、正統・資本主義回帰のことなのだ。
かつて「成立」したときの、「結果としての利益・利潤」を求める「正しき資本主義」である。
その精神を鼓舞する、近年にない大統領がトランプなのである。

すると、わが国の資本主義は、だいじょうぶなのか?
ひとつだけエピソードをいえば、一昨夜放送された、池井戸潤原作の『下町ロケット・総集編』(第三夜完結編)がちょうどいい。
5年前のドラマシリーズを三回にまとめたものの最終回だ。

この中で、阿部寛扮する主人公が、小泉孝太郎扮するNASA出身の宿敵に、決めセリフを吐くシーンで、「技術だけではダメだ」といって「資本主義の精神」をとうとうと語る場面がある。
原作を読んでいないからわからないが、原作にあるのか?それとも脚本のオリジナルか?

こんなところが、この作品の「人気の秘密」なら、日本の資本主義も捨てたもんじゃない、のである。

奇跡の資本主義

資本主義について何度か書いてきたが、これからはじまる「恐慌」的「大不況」の「心の準備」のために、念押ししておきたいので、しつこいけれど書いておく。
なお、長いので「連載形式」になるとおことわりする。

もう、わが国は、戦後世代のひとがほとんどになったので、戦後の「資本主義」が、「本来の」資本主義だと思い込んでいる。
その「戦後」のイメージも、とっくに「一面の焼け跡」や「闇市」ではなくて、「高度成長の昭和」になっている。

『三丁目の夕日』は、1974年9月から2013年4月まで、小学館の『ビッグコミックオリジナル』に長期連載されていた、西岸良平の人気作品だ。
2005年に公開され、2006年にかけてわが国映画賞を「総なめ」した、『ALWAYS 三丁目の夕日』の原作である。

これが、「昭和のイメージ」をいまに決定づけたといえるだろう。

しかし、わが国は、明治になって資本主義を導入し、「産業革命」をアジア地域で初めて成功させたという、「神話」がある。
これをもって「日本人の優秀性」をいうひとがたくさんいる。
このときの「日本人」とは、誰のことか?と問えば、だれもが「明治の日本人」というだろう。

これが、「神話」になる問題なのである。
そのときのことしか「見ない」で、「見えることだけ」で決めつけてしまう態度が、いまのコロナ・パニックをも産むからである。

また、現在の政府がかかげる、「第4次産業革命」という「倒錯」にいたる原因にもなるのだ。
内閣府の『経済財政白書・世界経済の潮流等』の「日本経済2016-2017」の第2章にある。

なにが「倒錯」しているのか?
まずは、順番である。
あろうことか、日本政府は、産業革命を、「18世紀末以降の水力や蒸気機関による工場の機械化である第1次産業革命」(前掲より抜粋)と書いているのだ。

前提に「十分条件」がない、「必要条件」だけの文になっている。
第一に、資本主義が成立したから、産業革命が起きたのだ。
このことが示す重大な「誤解」は、資本主義そのものに対する「誤解」も含まれている。

それは、資本主義の成立要件が、「資本と技術だけ」であるという「誤解」である。上の引用もこのことを明確に示している。
これを「作文」した、まさに、わが国官僚とそのブレーンが、「スターリン主義者」であることを告白したも同然なのである。

なぜなら、資本主義の成立要件が、「資本と技術だけ」であるということが、スターリンの「五ヵ年計画」の「根本思想」だったからで、この「思想」が彼の死後も継続し、ついには「ソ連崩壊」の原因となったからである。

カネと技術革新さえあれば、産業革命が起きる。
しかも、そのカネは「国家」が提供し、技術革新も「国家」が推進するのだと断言する。
まさに、スターリン主義のことをいう。

なんという「浅はか」であろう。
資本主義の成立要件で、絶対に欠かせないのは、「資本主義の精神」なのである。
この「精神」とは、「勤勉なる労働が、自己の魂の救済になる」という「信仰」に起因しているのだ。

そして、この「信仰」が、「結果としての利益・利潤」を「道徳」として社会が認めたことで、資本主義が成り立った。
「目的としての利益・利潤」ではないことが、人類史上の「画期」なのである。

人類史という長い目でふり返れば、「資本主義」は、18世紀という「時期」に、初めて、しかも一回だけ、まずは英国などのヨーロッパ地域で「成立」した。
つまり、古代から17世紀まで、人類は一度も「資本主義」を経験したことが「なかった」のである。

けれども、驚くなかれ、日本における資本主義の精神を言い出したのは、なんと、本家のヨーロッパよりもぜんぜん早い、天正9年(1579年)生まれの、鈴木正三である。
詳細は、山本七平『日本資本主義の精神』をご覧あれ。

鈴木正三のことは、わが国の資本主義をかんがえるときに、また語りたい。

世界史の興亡は、あまたの国や帝国が出現し、その栄耀栄華を極めながらも滅亡をくりかえす。
驚くほどの富と権力を手にしたひとたちのだれもが「目的としての利益・利潤」を「当然」としていたのだ。

だから、いまでいう「詐欺」や「掠奪」だって、ついこの前までは「ふつうのこと」だった。それで、「だますよりだまされる方が悪い」という変なことが格言にもなるのである。
「目的としての利益・利潤」のもうひとつの典型は、ギャンブルで賭けるひとである。ギャンブルの場で働くひとのことではない。

これが、たまたま、カソリック教会への不満が爆発し、その勢いで支持された「カルバニズム」という激烈な「信仰」から、コペルニクス的価値観の大転換が起きたのが「資本主義」である。

それが、「結果としての利益・利潤」の扱いだった。
形だけ教会に行って「免罪符というお札」を買えば救われるのではなくて、「本気で祈る」ことにこそ価値があると思い詰めた。

これには、ヨーロッパの人口を半減させた、「ペストの大流行」も影響しているのだ。
そして、本気で祈る清楚な生活と、他人が喜ぶ生真面目な製品づくりをしていたら、あろうことか「利益」が手元に残ったのである。つまり、意図しないのに「儲かってしまった」のだ。

他人のため、というかんがえ方が利潤をもたらす。
これは、いいことなのか?それともわるいことなのか?
一心不乱に祈りを捧げる行為とおなじように、一心不乱に労働したら利益を得るのは「いいことだ」になった。

そして、勤勉さにこそ価値があり、結果としての利益・利潤が、「勤勉さの証」になったのである。
だから、結果としての利益・利潤を蓄えた「金持ちが尊敬される」世の中になって、このひとたちが、社会のために「投資」した。

その投資対象が、だれもが腰を引くような最新技術でもあったから、それが産業革命になったのである。
つまり、単に資本と技術があっても、産業革命は起きないし、じっさいに17世紀までの人類社会に産業革命は起きていない。

おおもとを見失うと、「浅はか」が正面にでてきて、決して成功しない。
資本主義の精神に興味がない、わが政府の「計画」が、成功するわけがない、ということになる。

初期の資本主義とは、こういうものであったことを忘れてはいけない。

このことを力説したのが、ヤマト運輸の中興の祖、故小倉昌男の『経営学』である。
「サービスが先、利益は後」とは、「結果としての利益・利潤」にほかならないから、「正統・資本主義」の教科書でもある。

制度がつくるデータ

「インフルエンザ」の場合には、「注意報」と「警報」が用意されている。
全国約5000カ所の定点医療機関を受診した、1週間ごとの患者数(「感染者数」ではない)を把握する仕組み(制度)ができている。

これと過去の発生状況をもとに、基準値をもうけて、各保健所ごとに注意報や警報がだされるのである。
それで、マスコミ各社は、注意報や警報の報道にあたって、40万人基準をもうけている。

だいたい毎年のインフルエンザの罹患者数は、1000万人で、そのうちおよそ1万人以上が死亡している。
だから、40万人を超えたところが、注意報の発令タイミングになるのである。

ざっと、国民の10人にひとりが罹患する勘定になっている。

ちなみに、インフルエンザの時期には、「風邪」も流行する。
こちらも、毎年およそ1000万人が罹患するから、ほぼ同時期に、2000万人がなんらかの症状を訴えて生活しているのが、わが国の秋から冬にかけての状況だ。もちろん、「風邪」の主たる原因は「コロナウィルス」であるが、おおくが「土着型」といわれている。

PCR検査は、「コロナウィルス」を特定するが、その内訳をしめすことはできない。
なので、新型か土着型かの区別は不可能だから、本当に「陽性」であっても、「診断」は医師が症状を診て決めることになる。

これが、「感染者数」だけで判断してはいけない理由なのだ。

ところが、わが国のマスコミは、インフルエンザの注意報の基準である「週40万人」の「患者数」ではなく、「1日40人」の「感染者数」から報道を開始した。警報は「週100万人」の「患者数」で出る。
「1万倍」もさば読み、かつ、週と日と、患者数と感染者数を「混在」させているのは、どういう「報道基準」によるものか?

「未知のウィルス」だから、という言い訳をしても、数字の表現は「あんまり」である。
しかも、統計的に間違った「図」をもつかっている。
それは、ふたつある。

ひとつは、「数」をしめす「Y軸」の目盛りに「対数」をつかわないことだ。
「パンデミック」とは、ネズミ算どころか、指数関数的に広がる状況をいう。

ひとりから複数人が感染し、これらのひとがまた複数人ずつに感染させるからである。
だから、「Y軸」をこれにあわせないで、「ふつうの目盛り」にすると、より強烈な印象をあたえるグラフになってしまうのだ。

もうひとつは、「累計」をいってはいけないのがルールだが、平然とこれをしめすことだ。
インフルエンザの注意報も、週ごとの数字ではあるが、これを「累計」はしない。

なぜなら、「ふえるばかり」にみえるからである。
累計をだすなら、治癒した数もしめさなければならないが、ふつう、患者は治癒したと医療機関に報告しない。
だから、余計な情報だというばかりか、不安をあおるだけになるのである。

今回の病気が収束したあと、わが国のマスメディアは、総じて厳しい批判にさらされることになるのは「確実」である。
国民から、信頼されない、という自爆を連日やっているのは、いかにも「愚か」である。

そのマスメディアに便乗しているのが「政府」や「政治家」なのだから、始末がわるいのだ。

さらに、わが国の医療機関が、初動における反応が鈍かったのは、感染者の受け入れにおける消極さが目立った。
「医療機関が赤字になる」という、診療報酬制度こそが、ボトルネックとなったからだ。

高齢化によって、ずいぶんと「医療」が、花形産業になるような記事が踊ったことがあったが、これぞ「ちょうちん記事」ではなかったか?

わが国のタクシー業界が、実質「国営」状態なのは、「Uber」が許可されるかされないか以前に、「料金体系」と「クルマの台数」が、運輸局によって定められている「業界」だからである。
すきな料金体系を届け出ればよい、ということではなく、当該地域の料金体系を国が決めるのである。

おなじ状態が、医療で、診療報酬制度というものと、薬価とでがんじがらめなのである。

官僚主義がはびこるEUでも、各国議会の議決は無視される。
EU委員会という、役人集団が決定したものを全地域に命じるからである。

そんなわけで、イタリアやスペインで酷いことになったのは、医療予算の削減が「医療崩壊」をまねいたといわれているが、「新型コロナ」と診断書に記入すると、診療報酬が増額されるという、EU委員会の「対策」が効いたようである。

なので、入院患者のだれかれにも「記入する」ということで、「パンデミック」になってしまった。
まるで「まんが」なのである。
ほんとうのところはどうだったのか?は、もう誰にもわからない。

「診断書」に記載されているからで、どれがほんとうの「診断」なのか?は、もはや「神のみぞしる」ところとなったのだ。
さすが、ラテンの血である。

ドーバー海峡の向こう側では、首相が感染する事態となったが、英国人からしたら、離脱していてよかった、と胸をなで下ろしていることだろう。