理由なき反抗をする経営者たち

理由なき反抗と聞いて、映画『理由なき反抗』(ジェームズ・ディーン主演、1955年)を頭に浮かべたら、そのひとの年齢もみえてくる。

もちろん、青春映画の傑作として有名な作品で、アメリカ政府が1988年につくった、「国立フィルム登録簿(National Film Registry)」に、ちゃんと登録されている。

ちなみに、わが国には、国立映画アーカイブ(National Film Archive of Japan)があって、「主権回復」した昭和27年(1952年)に設置されている。
国立近代美術館の映画事業(フィルム・ライブラリー)に始まって、平成30年(2018年)に、独立行政法人国立美術館となっているから、なんとアメリカよりも古い。

なお、早逝したから実年齢が不詳になるジェームズ・ディーンは、1931年(昭和6年)の生まれで、これに近いのが、石原裕次郎(1934年)にあたる。

印象が強い作品への出演が、俳優人生にとって、幸なのか不幸なのか?という問題がつきまとう。
いわゆる、「一発屋」に終わってしまうことを指す。
成功体験が不幸をもたらすから、人間万事塞翁が馬なのである。

ために、観衆は映像世界の登場人物と、演じる俳優のキャラクターを「おなじ」と錯覚して、その作品世界が現実だと思いこむことがある。

これも一種の、刷りこみなのだ。

勧善懲悪の映画が量産されていたとき、例えば時代劇で、いつもの悪いやつが登場すれば、観客はその姿を観ただけで「あゝ」とすぐさま理解して、それが、期待へと変わる。
もちろん、作り手はこの現象を承知して、期待を裏切らない。

この「安心感」が、作品を支えていた。

あたかも、ビバルディの音楽が、「大量なる一つの作品」と評されるのにそっくりな、『水戸黄門』のように。
なんであれ、ワンパターンの構成が視聴者にとっての安心だから、毎週月曜夜8時には、観ないでおけない習慣となったのである。

その「変化球」が、『スター千一夜』とか、超長寿番組、『徹子の部屋』だ。
俳優の「素顔」という、本来みせてはならない、秘密のベールを剥ぐかのようなワクワクを提供している。

いまでは、「METライブビューイング」で、世界中の劇場に配信される、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場でのオペラ上演作品に各国の字幕をつけて上映しているものだけど、幕間のステージの向こう側での大道具さんたちの作業風景だけでなく、出演歌手やスタッフに前作の主演歌手がインタビューする企画が新鮮なのとおなじなのだ。

けれども、本当にそれが「素顔」なのか?と問えば、観客にはわからない。

ゆえに、秘密のベールは何枚にも重なっているものだとかんがえるの妥当なのである。
ただし、何気ない所作には、ついうっかり「育ち」が出てしまうので、見る目を持つひとが観ると、まさに一目瞭然となる。

すると、見る目を持つようになるには、どうしたらいいのか?となる。

結論は、自分の「育ち」に帰結する。
ただ経済的余裕がある家に生まれ育った、という意味ではなく、本人を取り巻く家族や周辺、たとえば友人たちも含めたひとびとから得る、経験も、育ちに影響するのはいうまでもない。

良家とは、奥が深いのだ。

ここに、出会いの妙があって、これを、むかしは「縁」と呼んで、「縁は異なもの味なもの」だと表現したのである。
つまり、自分ではコントロール不能の、「偶然」を大事にした。

それが、「袖すり合うも多生の縁」として、「多少」ではなく、「多生」と書くのは、「輪廻転生」のことである。
「次」も、畜生ではなく、どうやって人間として生まれ変わるのか?を手引きするのが、チベット仏教の有名な、日本では葬式のお経にあたる『死者の書』だ。

ここで重要なのは、コントロール不能をコントロールして、あくまでも人間に生まれ変わることをアドバイスすることの論理と信仰があることで、まるで、量子力学での最先端がここにある。

すなわち、「不滅」の概念の具体化だ。

デジタル社会とは、全てをアーカイブして、「不滅」にすることを意味している。
空気中の酸素によるフィルムなどの劣化を、メモリに書き込む作業は、一方で、その記録を取り出す規格が変わったら元の木阿弥になるリスクもある。

しかし、はかないものを永遠なものに変換する、ということは、一方で、「変化」や「違い」を認めない、という意味にもなると、養老孟司先生は指摘している。
ここに、人間だけの性がある。

人間以外の動物は、全部を自分とは別の、「異質」と認識しているからだ、と。

いわば、それが、生きのびるための本能なのだ。
しかし、人間は発達しすぎて、その本能を捨てる努力をして、理性を優先させ、さらに、「育ち」も気にとめなくなったのは、「フラット化;平等」が過剰になったからである。

そんなわけで、エリートのなんぞをすっかり失念した、「大衆」の中から経営者を選ばないといけない、日本型の採用・雇用制度は、エリート教育を受けた明治人たちがいなくなって、ついに、従業員への理由なき反抗をはじめた。

しかし、その本質にある理由とは、自己保身という、およそエリートにあってはならない低俗なのである。

だから、ときたま優れた経営者がいる会社は、もはや突然変異にひとしい。
これを若い、青春時代の学生が見極めることの困難が、「就活」になっていて、親さえもアドバイスできない不幸がある。

若者が、理由のある反抗をする時代になった。

「要素価格均等化定理」再考

前にも書いたけど、書き手のわたしに「埋もれた感」があるので、再考して更新としたい。

新年早々に書いた、2022年ノーベル物理学賞の驚愕が、これからどんどん一般に広がると、哲学や宗教までもが、「書き換えられる」ことになる必然がある。

しかしながら、「書き換えられたら困る」ひとたちが、既存の支配層だったり、超富裕層だったりするから、一般人に知られないように例によって例のごとく、「報道しない」、「報道させない」という手段を用いるのである。

報道しないのは、このひとたちが主要報道機関を所有しているからで、報道させないのは、このひとたちが主要スポンサーとして、広告出稿費をコントロールするぞと脅すからである。

この二つの手法で、ほぼ全世界の報道機関が、プロパガンダ機関への変換を余儀なくされた。

その上手の手から水が漏ることになったのは、「裏切り者」イーロン・マスク氏による、Twitterの「無検閲」だ。
なので、いま、みえないけどバーチャル言論空間の「出島」としての価値を唯一提供する媒体に、逆変貌したのである。

このために、Twitterでの爆発的な情報拡散があっても、主要メディアやその他のSNSが、一切無視することが、かえってあからさまになっている。
それでもグーグルの検索機能に依存すると、人生を間違えるけど、多くのひとが人生を間違えても気づかないほどに、飼い慣らされてしまった。

これを、「奴隷の幸せ」と書いた。

さてそれで、要素価格均等化定理である。
かんがえだした、ヘクシャーとオリーン両氏の名前をとって、「ヘクシャー・オリーンの定理」ともいう。

1977年のノーベル経済学賞だ。

この時期は、「近代経済学(近経)」と「マルクス経済学(マル経)」の論争が盛んで、情報統制されたソ連圏のプロパガンダが功を奏して、「ソ連脅威論」を背景に、あんがいとマル経が頑張っていた。

反体制派のサハロフ博士の活躍や、ソルジェニーツィンがノーベル文学賞(1970年)をとっても、マル経のひとたちは、これを無視できる精神構造があって、いまも健在なのである。
学問を装った政治が優先されていた。

それで、数学者あがりのポール・サミュエルソンが、「数理モデル」という新機軸で一世を風靡していたけれど、数理モデルでマル経を語ると破綻する(ミーゼスが1920年代に数学的証明をしている)のに、サミュエルソン自身が、「新古典派総合」なる、「実質マル経」を考案したのである。

そんなサミュエルソンの、『経済学』が、日本におけるマル経の看板学者で、各種「学会」を牛耳った政治家でもあった、都留重人が翻訳して、これを岩波書店が出して、「主流派一流大学」のスタンダード教科書にせしめた。

この教科書のベストセラーぶりは、初版が1948年で、最後の13版がでたのが1985年だったことでもわかる。
なお、日本語版の初版は、1966年で、原書第6版からである。
ちなみにわたしは、原著第9版の日本語新版(1981年:旧版は1974年)を所蔵している。

すると、学者として40年ほどを過ごすとすると、この教科書で学んだことの影響力がわかるというものだ。
つまり、世界が左傾化(グローバリズムに染まった)した原因のひとつに挙げていい。

だから、いまでも評価が高いのは、そうでないと人生の否定になるひとたちが多数になるからだ。

要素価格均等化定理を、ヘクシャーとオリーン、それにサミュエルソンの三人が追及して、ヘクシャー・オリーン・サミュエルソン・モデル(頭文字から、「HOSモデル」という)ができた。

それでもって、要素価格均等化定理が、世界でみごとに「効いている」のが、日本経済なのだ。

資本、土地、労働のそれぞれの「価格」が、貿易を通じて相手国と「均等化する=等しくなる」が、この定理だ。
資本とは、資金の移動に関わるコストだけでなく、調達コストのことだし、土地は、土地そのものの地価だけでなく、農産物の価格にも変換される。

わが国の賃金が30年間も横ばいか、あるいは減ったのに、わが国以外の世界では上がっていることの原因はなにか?がずっと議論になっていて、たいていが政府に依存して、日本政府(予算)だけが肥大化した。

それでもぜんぜん経済はよくならないばかりか、生活はどんどん厳しくなっていて、また政府になんとかしろと依存している。
しかし、ここまで依存させることに成功した政府は、「増税」を掲げてビクともしない。

要素価格均等化定理が「発動する」ことの前提に、「仕事のやり方がおなじなら」という「仮定」があることが、もっとも重要な条件だ。

これには、当然に企業努力もあるけれど、政府依存という他人まかせの努力が、「仕事のやり方を変えない」ことの最大要因になっていないか?
つまるところ、徹底的な現状維持の努力が、世界で唯一、「要素価格均等化定理」が効きまくっていることの原因なのである。

しかし、利権にむらがる政治家も、天下り先でおいしいおもいをしたい役人も、政府依存させることにこそ、旨味があるから、国民には甘言をいって、これをぜったいに手放さない。

そのために、都合のいい理屈が、「新古典派総合」という、社会主義・共産主義の経済理論なのである。

監獄の「15分都市」

「都市計画」をどうする?には、ヨーロッパが先進的だという常識がある。

街の中心には広場があって、そのまた中心に教会をおいた。
それで、その広場には「市」(たとえば、フランス語で「マルシェ:marché」、ドイツ語で「マルクト:Märkte」、英語で「マーケット:market」)が立って、拝礼に来たひとたちの「お買い物」の便とした。

この「ワンパターン」が、ヨーロッパの「旧市街」規格だったから、日本人にはいかにもキレイにみえるけど、当のヨーロッパ人たちには、どこに行っても見なれた金太郎飴のようでおもしろくない。

それで、バラバラで一見秩序がない日本の城下町が、ヨーロッパ人の「通たち」によろこばれることを、こんどは、日本人がしらない。
東京だって、巨大な城下町なのだ。

中世ヨーロッパという、「暗黒時代」の大事件は、なんといっても、波状的なペストの流行だった。
それでもって、全人口の3分の1が失われたから、めったに疫病が流行らなかった日本人には想像もつかない、街全体、村全体での「絶滅」がふつうにあった。

わずかに生き残ったひとたちが、フラフラとあてもなく歩いていくと、突如、誰もいない絶滅したばかりの村や街があらわれた。
なので、「居抜き」で気に入った家に住み始めて、「我が物」としても、とがめるひとすら誰もいなかった。

これが、ヨーロッパ全土で主に14世紀に何度も起きたのである。
そして宗教も無力となって、崩壊した道徳がヨーロッパ人の「しめしめ」と「嫉妬」になって、精神の根幹に定着した。

少数の生き残りでいた街や村の先住民のひとたちは、あらたにやって来たひとたちに襲われて、街や村の「記憶を消した」から、こうしたひとたちが、あたかも先住民であるように振る舞うために、どこかの前例を真似て、それをその街や村の「伝統」に据えることをして、これが「金太郎飴」の街づくり(都市計画)になったという「説」がある。

げにすさまじい、決してファンタジーではない、現実の「暗黒の世」なのである。

同時期、日本では鎌倉から室町時代のはじめにあたり、特にヨーロッパでの記録的ペスト大流行の時期(1347年~1353年)は、「南北朝時代」にあたる。
彼の地の大混乱に比べたら、なんともまったりとした時代ではある。

そんなわけで、ヨーロッパ人の頭には、「人口減少」と「都市計画」は、セットなのだ。

一応、「15分都市構想」は、フランス人の学者が提唱したことになっている。
日本だと、「コンパクト・シティー」といって、なんだかんだと、地方自治体で熱心な地域がある。

それで、山間の僻地に住んでいるひとたちが、みんな高齢化したのをいいことに、「通院の便」とか、公共施設、たとえば、電線や水道管の設置とメンテナンスの非効率を理由にして、街の中心部への強制移住をさせていて、これを拒む老人を「悪意のある老害」として扱っている。

ならば、どうしてこのひとたちが、何代もこの僻地に住まわっていたかを問えば、ときの「お上」に、開墾せよとかといわれたひとたちの末裔だったりするから、はなしがややこしくなるのである。

さすれば、当時は、さても「英雄的開墾事業者」として、ヨイショされたはずだから、まったくもって「南米移民」とおなじく、お上の本音は「棄民」だったのではないか?

それでもって、こんどは、「孤独死」を放置していたと世間体が悪くなるのをおそれただけで、強制することの自己都合(じつは無責任のアリバイ)が、あたかも正義になっているのである。

どこに住もうが勝手でしょ?という、ご老体の覚悟の方が、よほど神々しい。

さてそれで、閉幕した世界経済フォーラムでの「課題」に、「15分都市」があったことで、より一層、この構想の「悪意」を読みとらないといけなくなった。
とにかく、この団体は、その邪悪な本性を隠すこともない、人類の敵なのだ。

ついでに書けば、スイスの片田舎の「ダボス」は、会議開催期間(5日間)に、とんでもない経済効果を地元にもたらして、ただでさえ「がめつい」スイス人を、完全に懐柔している。

スキー場の保養地であるとはいえ、参加者を収容する宿泊施設が足らないから、一気に価格高騰がふつうになって、一軒のホテルを貸し切るのにも、数十億円レベルのおカネが落ちるし、個人宅すら間貸しの対象で、たった5日で、まともに働くことがバカバカしいほどのカネが入る。

これは、「原発村」を懐柔して、住民を腑抜けにしたやり方とおなじなのだ。

前に、田原総一郎の生涯で唯一の傑作、『原子力戦争』について書いた。

 

本来であれば、人類奴隷化を目論む、この会議(平家物語なら「鹿ヶ谷の陰謀」)の参加者を、一網打尽に捕縛するべきところが、スイス軍の務めというものではないのか?

しかし、ヨーロッパ人からの嫌われ者、スイス人にはそんな気概はとっくにない。

15分都市の構造的問題は、街の入口にあたる道路に設置されるべきとする、「自動検問」の悪意がある。

住民の電子デバイスやら、自動車などの移動手段に位置情報装置の設置を義務づけて、その行動を監視するのである。
そうやって、街からよそへ移動する自由を奪うことで、住民間の分断をはかるのが主目的だ。

これで、住民を完全コントロール下におけるからだ。

なんだか、『進撃の巨人』の「壁構造」なのである。
この街は、実質的な監獄で、移動できないひとびとを、何世代も閉じ込めたら、世界は15分都市だけしかないと、長老すら認識するようになる、というわけである。

マンガが現実になるマンガ世界。

生物学的「学習」をさせない

大学での授業のいくつかの場面を、いまでも鮮明に覚えている。
張り切っていろんな科目の履修届を出していたら、気がつけば3年で卒業単位を満たすことになって、慌てていくつかの試験を受けずにわざと落として、「無事」4年に進級した。

ある日、学務課に呼び出されて、「このままだと卒業しちゃう」といわれ、危うく就職浪人になるところを回避したのだった。
もちろん、一切の就職活動をしていなかったからで、自分の取得単位数ぐらい、自分で管理しろ、と学務課長に呆れられた。

そんな暢気な学生だったわたしでも、なんだか記憶に残った授業のひとつに、発達心理学があった。
まだ少し珍しかった、女性助教授が担当していて、毎回熱のこもった授業であった。

ここで気になったのは、「学習」ということの本質を教わったことである。

人間だけでなく、昆虫だって「学習」するし、コロナ・パンデミックにおいては、ウィルスでさえ、生存と繁栄のために変異するのも、ひとつの「学習」であろう。

いまは絶版して復刻もあるらしいが、小学生だったころ、学研の『科学』と『学習』を学校で斡旋していて、生徒の誰かの家が配本業務を引き受けて、それを毎月とりに行ったものだった。
担任の先生の「お薦め」は、『科学』で、各科目のドリルがついていた、『学習』は、先生のいう通り、わたしの親は購入対象にしなかった。

『科学』は、毎号の「付録」の方が厚みがあって、本誌を読むより付録にある模型などの組立に集中したものだった。

夕方の確か5時半頃からの、教育テレビ、『みんなの科学』(1965年から1980年まで)は、毎回とはいわないが、それなりにチェックしていて、一度だけ、自噴する噴水の模型の作り方がわからなくて、NHKに手紙を書いたら、丁寧に手書きの解説付き設計図を送りかえしてくれた。

建物はいまでもある、『神奈川県立青少年センター』の2階は、かつて、いまでいう科学館になっていて、さまざまな実験や、体験が無料で楽しめたし、最上階には一回50円のプラネタリウムもあったから、毎月通ったものだった。

アルバイトで小遣いを稼いで、渋谷の『五島プラネタリウム』を観に行ったら、50円どころか封切り映画並みだったので、以来、一度もいかずに閉館・解体された。

博物館巡り旅行として、名古屋に行ったときは、『名古屋市科学館』の最新プラネタリウムを観て、その進化に驚いたけど、「科学館」としての展示では、あんがいとかつての「青少年センター」とのちがいや進化を感じなかった。
むしろ、青少年センターの「レトロさ」が妙に懐かしく思い出された。

基礎や原理はおなじ、ということだろう。

これらは、総じて「実物なりを観る」体験を中心にしていてけれど、一部に「触る体験」とか、身体のバランスを計測する機械もあったから、何度行っても飽きなかった。
いわば、無料のゲームセンターのようなものだったのである。
その割には、いつもすいていて、順番待ちは滅多になかった。

狭いとか、近隣に匂いがいくとかで、当初「閉園」が決まっていた、「野毛山動物園」は、横浜市の中心部にある、都市型動物園として継続希望があいついで、いまでもある。
わたしが幼稚園児のころに、確か入園無料になって、ずっとしばらく、チケット売り場が残っていた。

象とシロクマはいなくなってしまったけれど、齧歯類のウサギやモルモット、それにハツカネズミを好きなだけ「触れる」コーナーができた。
これは、十分に珍しいことで、「視覚」と「聴覚」ばかりから、「触覚」を使わせるのは、なかなかに傑作のアイデアである。

母親が発する、「汚いから触っちゃダメ」が常識になってしまったのは、女子教育が廃れたからだろう。
「ジェンダー平等」という美辞麗句にある、「家庭破壊=文明破壊」の悪魔的設計がここにある。

いまどき、「良妻賢母」とか、「孟母三遷」とかと公衆の面前でいったら、どんな批判を喰らうかわからない。

それでいて、父の死よりも母の死が重いのは、人間の中にある、生物的であって高等な感情がそうさせる。
しかして、母の胎内では、子供はあくまでも「異物」なのではあるけれど。
それが「つわり」となって、身体の異変をしらせる生理になっている。

とはいえ、この世の全ての人間は、母から生まれるという自然があった。

それがまた、量子論によって、胎内で発生するどこかのタイミングで、宇宙から「意識」が入り込む、という仮説にまでたどり着いた。
さらに、出産で空気に触れても大丈夫なのは、しっかり免疫を保持しているからである。

そうやって、人間の子供は、五感をつかって、あるいは第六感まで駆使して成長する。
この感覚器官から繰り返し得る情報で、「学習」しているのである。
もちろん、この「学習」のなかに、「母語」もある。

音を聞いて理解するのは、驚くほど早いけど、これを自分から発音できないために、この過程の記憶を失ったおとなは、しつこいばかりに話しかけて、じつは本人に「定着」させている。

天井から吊されてグルグル廻る「メリー」を観ているわたしに、毎度「今日はご機嫌だ」とか、おとなが話しているのをなんだか記憶している。

この意味で、共感したのは、中勘助の小説『銀の匙』だった。
驚くほど他愛のない話が、延々と続くけど、それはメリーを観ながらおとなの会話を聞いている、わたしの目線とおなじなのである。

五感をつかって、学習させることを奨励するひとが少ないのは、無責任社会の証なのである。

犬とA.I.と人間と

人間の子供の数より、ペット(愛玩目的)の犬の方が多数になった我が国が、動物虐待先進国であるという不名誉な状態が続いている。

これは、なぜか決まっている法改正のための「期間」があって、2005年の改正で「5年ごと」と決めた。
だからかなぜか国会議員もこの決まりに従っていて、5年ごとに悔しい思いをしている人たちがいる。

必要とあらば、いつでも悪法を正すのが国会議員のはずなのに、「だって5年に一回の改正だもん」といって逃げるのである。

もちろん、「法改正の条文起案事務」を全面的に取り扱っているのが、担当する官僚だから、その官僚たちのスケジュールに、国会議員が依存していることの問題がここにもある、にすぎない。

わが国国会は、ぜんぜん立法機関ではなくて、たんなる「承認機関」になっている。
この縮小版が、民間の「株主総会」になって、みごとな形骸化をしているのである。

「法体系」を重視すれば、たとえ少しの改正であっても他の法律に影響しないかを調べて、関連法の全部を改正しないといけないと考えるのが日本の優秀な役人の習性になっている。

一方で、ヨーロッパの「法治」から発生したアメリカ合衆国では、新しくできた法が優先するという原則ができている。
これは現状に迅速に対応するメリットは大きいが、「法体系」としての整合性にはどうしても劣る。

それでもって、どっちなの?という解釈が自然に裁判依存の国になる元となっている。

だからむかしの日本人は、そんな様を野蛮だとして馬鹿にしていたものだった。
ただし、このアメリカのやり方は、必然的に「歴史」を意識しないといけない。
なので、突如、「埋没していた法律」が、現代に蘇って(忘れられていた法が発掘される)、その後の改正がないならば、それがそのまま適用される。

新しくて歴史がない国だ、といっても建国から250年弱。
一方、わが国は、軍事占領が終了(被征服は継続中だが)して、たかが71年しかない、あたらしい国なのに、都合によっては、2000年の歴史をいって自己満足している。

なので、「主権回復」から幾星霜、たかが20年もしない70年代までに、すっかりアメリカナイズされたものが、前世紀末からのもっと激しいグローバル化で、日本人もすっかり野蛮に劣化した。

いまさら三島由紀夫が見直されるのは、いまの若い世代に意味があることとはいえ、あのとき三島を嘲笑った人たちは今、後期高齢者という世代のことである。
この意味で、さいきん人気の成田悠輔氏が発言した、「高齢者の集団自決」が物議を醸すのは、三島からのブーメランなのだと思えば、説得力があるものだ。

三島は見るに耐えない日本の将来を見たくないと自決したが、その予言通りに見るに耐えない日本にしたのは、この世代、なのである。
故に、「敬老」の概念すら陳腐化する。
いわゆる、日本版の紅衛兵がこの世代なのだった。

いま、犬に散歩に連れて行ってもらっている高齢者がそれだ。
犬を犬として扱えない。
この精神の貧困(脆弱化)は、とにかく好きなように漫然として生きてきたゆえの姿だ。

それでもって、犬にまじめに幼児語で話しかける。

日本経済を高度成長に導いたのは、明治中期以降に生まれたひとたちで、不思議と大正世代ではない。
むしろ、大正世代こそ戦争に駆り出されて名誉の戦死を遂げたのである。
その大正世代を冷ややかに嗤ったのが、いまの後期高齢者たちだった。

つまり、明治の反骨(じつは「真理は自然科学にあって、社会科学にはない」という精神」)がつくった繁栄に、「ただ乗り」してきたのだ。

これをむかしは、「薩摩守」といっていた。
『平家物語』にある、「忠度(ただのり)の都落ち」でいう、平清盛の異母弟が薩摩守だったことの、雅な隠語を庶民がふつうにつかっていた。

その「(薩摩守)ただ乗り」の安易が、犬を犬として扱えない無惨な姿になっている。

なので、どんな小型犬でも扱いに辟易すると、すぐさま飼育放棄をする人が絶えない。
扱いに辟易するのは、犬のストレス=心理を理解しようともしないでいた結果に過ぎない。
けれども、可愛くなくなったならば、愛玩の目的を果たさないので、自分でなくて犬を処分するのである。

こうした人たちが選挙権を持っているので、5年に一回の法改正でもぜんぜん改善しない。
こんなことだけに、民主主義が機能して、ポピュリズムをつくっている。
一度でも飼育放棄したひとには、生体を飼育させてはならない。

先進国のアメリカでは、政治問題の上位に必ず、「中絶問題」が挙がる。

これが彼の国の大問題なのは、正規の夫婦間に生まれる子供よりも、非正規で生まれる子供の数が多いからだ。
つまるところ、「夫婦制度=婚姻」というものが崩壊しているばかりか、暴行による妊娠も無視できない。

それで、人権を強調する民主党は、中絶を認めてこれを女性の権利というけれど、中絶に失敗して誕生した子供を医師が処分することも認めようとしている。
共和党は、これを殺人だとして、法改正による医師への処分を提案した。
アメリカでは、人間が犬扱いされている。

さてそれで、A.I.である。

バーチャル世界だけでなく、ふつうにスマホを使っていても、A.I.がコントロールしていることに気づく。
思わず、機械の優秀性を褒めたくなるが、絶対に忘れてはならないのは、A.I.とはプログラムだということだ。

かならずそのプログラムを書いたのは、人間なのである。

犬を犬として認識できない後期高齢者たちの絶望とは、A.I.がプログラムだということすら気づかない(かんがえを及ぼさない)。
なので、それを書いた人間の存在もわからないから、ぜんぶ機械の進歩だと信じるのだ。

そうやって、個人情報を抜き取られても、5%の還元が「お得」ということに疑いも持たず、プログラムを書いた人間の支配下に喜んで与する。

犬の悲劇が、全人類の悲惨になるといわれても、残りの自分の人生では関係ないと思うのは、すでに孫やもっと後の自分の血統さえ知ったこっちゃない、という安易なのである。
だからか、さいきんでは犬すらも、血統を重視せず、「ミックス」といいだして、「雑種」をよろこんでいるのは、人間である自分の子孫を意識しないことのあらわれなのである。

これは、個人主義ではなく、ただの自己中で、今だけ、カネだけ、自分だけ、という堕落した価値観に感染したことの結果だ。

成田氏の言い方は直接的であったけど、もはや笑えない真実になっている。

ただ一つ、いまの後期高齢者たちを弁護すれば、戦後教育の犠牲者たちだという、これまた悲惨な事実なのである。
動物に育てられた人間は、動物になる。
人間は、人間に育てられないといけない。

すると、ちゃんとした人間にプログラミングをされた教育ロボットに育てられたら?と思うのは、やっぱり安易なのである。

なにをもって「ちゃんと」しているのか?の見分けがつかない時代になったからである。

「事件」を勝手に妄想する

19日に報じられた、著名な国際政治学者の三浦瑠麗女史の夫である、三浦清志氏が代表を務める投資会社「トライベイキャピタル」の本社と自宅が、東京地検特捜部に家宅捜査されたことが話題になっている。

詳細は、あんまり役に立たないといつも書いている報道機関の記事やらをご覧になれば、ゴシップ的に楽しめるとして、勝手ながら妄想を巡らしたので、超臆測のテキトーな思い込みをここでは書いておこうとおもう。

そもそも、捜査を仕切っている、東京地検特捜部とはなにか?といえば、占領(被征服)時に、アメリカの意向で組織された捜査機関であった。
アメリカ側の担当は、CIAである。

それまで、特別高等警察(いわゆる「特高」)と、陸軍には、憲兵隊があったけど、「民主化」という美辞麗句で、国家警察を廃止したし、「軍」も廃止させられる、人類史上初の命令がくだった。
もちろん、廃止命令を出したのは、GHQ(=アメリカ軍)だったけど、後から気づけば国家警察がなにもないことの「不便」となったのである。

「特高」の総元締めは、内務省警保局保安課だったから、内務省が「キング・オブ・役所」という理由もよくわかる。
なにせ、「課」レベルで、国家警察を管理していたのだ。

なお、正力松太郎が特高の大幹部だったことはしられていることだ。

そんなわけで、東京地検特捜部が動く、ということの意味には、いまでも背後にあるはずの、CIAを意識しないといけないのではないか?から妄想したのである。
この意味で、あたかも「正義の砦」のごとく描かれる、「検事ものドラマ」も、プロパガンダである。

日本を独立させない決意は、いまもアメリカの「国是」だからである。

ところが、これを破ったのが、トランプ氏だった。
戦後の大統領でただひとり、このひとが「日本独立=ジャパン・ファースト」を、勝手に「盟友」とした、安倍氏に勧めている。

安倍首相は、ヒラリー・クリントンの勝利を確信し(外務省の妄想)て、アメリカ国内法を破って、大統領選挙期間中にヒラリー氏だけに直接面談までした、トランプ氏にとっては「ゲスなやつ」のはずなのに、だ。

後に、トランプ氏が政権移行前に指名した、「次期」国家安全保障問題担当大統領補佐官だった、マイケル・フリン元陸軍中将が、着任前にロシア大使と「外交」をしたとして、大騒ぎになった(結局辞任させられた)のに、ヒラリー氏には「おとがめなし」だった。

これはさておき、トランプ氏が自らいう、「アメリカ・ファースト」とは、正統なる個人主義の結論なのだ。

個人主義は、個人ファーストであっても、決して自己中心主義ではない。
これを、日本のマスコミは「自己中」だと宣伝するから、悪質なのである。
個人ファーストであるとは、他人の「個」も尊重する、「紳士・淑女」をさす。
この国家版、アメリカ・ファーストとは、それぞれの他国へも、紳士的に自国ファーストを認めるということだ。

トランプ氏が、自己中のアメリカ中心主義(一国覇権主義=「米帝」ともいう)の、いわゆる東海岸の「エスタブリッシュメント=民主党=RINO=軍産複合体」から、徹底的に嫌われて排除の目にあうのは、他国の自主独立、なかんづく日本の自主独立を促して、国是を破るからだ。

つまり、トランプ氏は、アメリカ人にとってではなくて、戦後に奴隷化された日本人にとって、理想的で、一種ありえないほど、つまり、「奇跡的」な、奴隷解放のチャンスをもたらしてくれたのに、肝心の日本人の大多数が、プロパガンダによって、彼を憎むようにコントロールされている、「あほちゃうねん?」状態になっている。

そのトランプ叩きが、トランプ政権内部でも行われていたことが、「Twitter File」や、いろんな裁判、とくに「ロシア疑惑」という、もはや民主党がしかけたでっち上げに関する裁判で、宣誓供述をもって明らかになってきた。

これをやらかしていた、「DS:ディープステート:闇の政府」の一部がその姿を現した。
それが、司法省(内部にFBIがある)と、国家情報を司る機関(CIAや、NSA:National Security Agency、など)だ。

そのアメリカで、いま起きている、不可思議が、バイデン氏の機密文書問題で、ほとんど身内からのリークが原因なのである。
つまり、アメリカでは、「バイデン降ろし」がはじまっている。

それで、日本でもバイデン一家の悪辣さが、これからどんどん報道されることだろうし、ようやく息子のPC問題が話題になってきた。
ただし、今度は「バイデン叩き」というプロパガンダがはじまるのである。

端的にかつ、日本的にいえば、民主党が分裂したのだ。

しかして、司法省本部とFBIやら、CIAとかのトップ官僚は、全員、オバマ時代に大量採用(1000人以上)された「超高級官僚:SES」なのである。
このひとたちは、日本との貿易摩擦時代、つまりカーター政権がつくった、日本の官僚制をもっと強力にした、終身制の超高級官僚でアメリカ連邦政府中枢を牛耳っている。

なので、トランプ氏もいまでは正式に、「敵認定」しているのである。

予算を司る、アメリカ下院議会を支配することに成功した、共和党は、トランプ派が多数でもあるので、すでに司法省やらへの厳しい「報復」をしているはずだ。
つまりこうした圧力から、SESはどうやって逃れようとするのか?という事態になったのである。

なぜなら、古今東西、官僚は個人の責任を徹底回避する、という習性があるからだ。
これは、なにも現役だけのことではなくて、身に染みついた習性なので一生消えない。
たとえば、高橋洋一氏の言動に、これを垣間見ることができる。

そんなこんなの、「余波」が、太平洋を渡っているうちに、「大津波」になった可能性がある。

すでに、本命のターゲットとして「大物政治家」の名前が噂されているけれど、「これだけか?」という期待もなきにしもあらず。

「大疑獄事件」になるかもしれないので、ついでに「小物」や「雑魚」も処分の対象になってもらいたいものだ。

かつて、「ロッキード事件」なる、アメリカ発の妙な事件で、田中角栄が逮捕・起訴・有罪判決にされたけど、よくよく、今回と似た構図なのである。
ただ、田中角栄はなにをもってアメリカから嫌われたのか?あるいは、そのアメリカとは誰のことか?を吟味しないといけない。

さてそれで、ロッキード事件は、アメリカ上院チャーチ委員会(正式には「上院外交委員会の多国籍企業小委員会」という)が暴いた(1976年2月)けれど、チャーチ氏はその前年の75年には、ウォーターゲート事件を受けて、「諜報活動に関する政府活動調査特別委員会」を率いていた。

なんと、今年、あの議長選びでさんざんもめた連邦下院が、ささっと、「FBI・CIA調査特別委員会」という、後者の75年チャーチ委員会とおなじのを、48年ぶりに設置したのである。

つまるところ、SESたちの「逃げ足の速さ」が、東京地検特捜部を動かしている、と妄想すれば、それはなにも、太陽光発電汚職とかのチンケではなくて、もしや、「偽薬」コロナ・ワクチン購入の贈収賄にまでも拡大する、一大汚職・薬害事件にだってなるやもしれぬ。

欧米の科学者たちの一部は、公然とこの薬品を、「兵器」だと認定しだしている。

自分たちさえ逃れ切れれば、SDGsやWHOすら関係ないと言ってのけるひとたちが、いる、という「架空」の前提ではあるけれど、恐るべき「責任回避」が大疑獄を暴いて、とかげの尻尾切りをしているのである、と妄想した。

デフォルトしそうなアメリカ政府

「オオカミ少年の物語」を思い出させるのが、忘れた頃にやってくる、アメリカ政府のデフォルト問題である。

19日、イエレン財務長官が、政府債務が「目一杯になった」と発表して、まずは軍人年金などの支払い停止を決めた。
ウクライナ支援どころではなくなったのだ。

わが国の「政府財政」とちがって、アメリカは議会制民主主義の国だから、行政府が勝手に財政拡大策を実施することは、法的にできない、という、これまた、わが国とはちがって「法治国家」なのである。

そんなはずはない、わが国こそが戦後になってからの民主主義の実践における、世界に誇る議会制民主主義国で、ずっとむかしから法治国家だった、といいたいひとたちがたくさんいるのは承知している。

残念ながら、それはみな、戦後のプロパガンダによる、刷りこみ、つまりは、一方的に思いこまされているだけのことである。
いわゆる、情報鎖国に国民を置くことで、世界のことを「しっているつもり」にした、イリュージョン世界に住まわされている。

そのために、国民には「必修」といいながら、ぜったいに修得できないように設計したのが、「英語」という科目であった。
おそろしく意味のないことに時間をかけて、ぜったいに英語を理解させない努力が功を奏したし、たまたま、できるひとを特別扱いにして、できない大多数と切り離すのである。

さらに、自国の歴史も教えないことで、外国の歴史も理解できないようにした。
だから、通訳レベルの話者が、しれっと外国情報の窓口として「解説」するから、受け手の国民はどんな薄っぺらさでも満足できたのである。

この意味で、ぜんぶがぜんぶを肯定できない当たり前を横に置いても、戦前の高等教育におけるレベルは現代の比ではなく、ゆえに、対象人数も少なくて済んだ。
この最後にあたるひとたちが世を去ったのが、だいたい昭和の終わり頃だったために、その後の世代になってからの衰退は、そのまま「所期の計画どおり」となっている。

なので、この期に及んでなお、戦後教育を強化する方針のままでいることは、すなわち、亡国を目指すという、やっぱり「所期の目的達成」に向けて邁進している健気さに、アメリカ民主党幹部は満足におもっているはずである。

アメリカ合衆国は、政府債務に議会が上限を「法」として定めるものだから、これを超えることが、行政府(大統領が管轄)にはできない仕組みになっている。
まず、わが国の国会と政府の双方にない概念だけど、どうせ自民党が国会で過半数を維持しているから、いまさらにどうでもいいことではある。

アメリカでは、予算決定権限が下院ほどない上院(100議席)も、下院を通過した予算案の承認には60票の賛成票がいる。
なので、民主党の大統領(行政府の長)にあって、下院を野党の共和党に奪われたことは、政府債務の上限変更に反対される危険が高まっているし、上院の有利も、60票となると厳しいのである。

さらに、年初からどうしたことか潮目が変わってきて、バイデン政権に見切りをつけたのが民主党の方にみえるから、過去にこれまで何度もあったこの件で、与野党が最後に妥協するはずの楽観論が、妙な緊張に包まれている。

すると、民主党はどういうシナリオを2年前の大統領選挙時から描いていたのか?ということになる。

党内予備選で優勢だった、党員でないバーニー・サンダース上院議員を強引に「選挙から辞退」させて、あれよという間に他の候補より劣勢だったバイデン氏を党代表候補者に選んだのだ。

この点で、民主党は、党内選挙でも不正をかます。

不肖の息子、ハンター氏のパソコン問題が発覚したのも、大統領選挙投票日直前のことで、これを一部の新聞がすっぱ抜いても、メインストリームやSNSは、一斉に「検閲」して、徹底的に隠す努力をした。

しかし、もう限界を超えて、バイデン一家の大スキャンダルが、前代未聞の「国家反逆罪」の適用になりかねない様相になってきたのである。

この罪状は戦後日本の法体系では、「刑法81条外患誘致罪」しかないけど、刑罰は死刑のみだ。

なので一概に比較できない。
アメリカにおいて「国家反逆罪」の管轄は、刑法犯としてではなく「軍事法廷(いわゆる「軍法会議」)」にあって、連邦最高裁判所までの体系ではないし、検察官も弁護士も、当然に裁判官も、ぜんぶが軍の法務職が担当する。

歴史・伝統的に、どこまでもあくどいのが、民主党の支配者たちだ。
アメリカの政党には、「党首」がいない特徴がある。
民主、共和、の両党共に、「幹部たち」が治めている。

それで、いまの民主党の大幹部は、オバマ家であり、クリントン家だ。

このひとたちは、大統領職にあって、個人資産を増大させたから、いまの共和党の下院は「捜査」すると明言している。
つまるところ、バイデン一家を巨大な「国家反逆罪」の生け贄にして、逃げ切ろうという「動機」は十分にあるとみてよい。

ついでに国家財政まで破綻させた、という罪もきせれば、完璧なのである。

しかしながら、それがどんな厄災を世界にもたらして、まさかの「ドル暴落」ともなれば、連鎖倒産ならぬ、「世界連鎖デフォルト」になりかねない。
オバマやクリントン家は、それでも逃げ切りのために仕掛けるのか?

とくに、アメリカ国債をたんまり購入しているわが国(1兆2300億ドル)や中国(9700億ドル)も、まさかの紙クズになったなら、なかよく地獄行きである。

ただし、中国はすでにあからさまな「売り」をはじめているけど、どこまでも「ポチ(じつは「家畜」)」の日本は、まさか追加で無理やり購入させられる?

それがまたダボス会議が、「世界恐慌」をやるのだといっているから正直なのだ。
なるほど、自民党政権が忠実なのは、アメリカではなく「こっち」だった。

それはもう『すばらしい新世界』そのもののはじまりとなる。
いまのうちに、読んでおくべし。

なお、作者のオルダス・ハクスリー氏にインタビューした、「ABC」の貴重な動画が、ユーチューブに「Eden Media」さんが日本語字幕付きであげてくれている。
タイトルは、『全体主義への予言 』で、放送は1958年、約25分にわたってその「慧眼」があますことなく語られている。

インタビューアーは、2020年に、トランプ・バイデンのテレビ討論会の司会をやった、クリス・ウォラス氏(フォックス・ニュース司会者)の父、マイク・ウォラス氏である。

ときのABCの、いまでは懐かしいほどの、「まともさ」が目立つけど、まさか司会者も38年後の1996年に、ディズニーに買収されて、極左メディアに変貌するとは、想像もつかなかったことだろうし、ハクスリー氏が語ったことが、見事に的中していることも「まさか」の敏感すぎる大袈裟であったにちがいない。

世界経済フォーラムは、この『すばらしい新世界』を、最終モデルにしているのではないか?とわかるし、読後に、「そんなに悪くない世界」という、驚きの感想を動画でいうひとまでいる驚きがある。

反理性主義とかなんとか

人間には理性があるから、理性をもってことにあたればいい、という話がドンドン拡大したら、地球温暖化も理性のなかに入り込んで、科学が追い出された。

それで、先進国の英国は、風力発電にシフトして、これぞクリーン・エネルギーだと自慢しようとしたら、風が止んでエネルギー危機になった。

対岸のオランダは、むかしから風車が名物で「粉を挽いていた」けど、やっぱり発電につかったら、周辺の住民が風切り音の低周波で体調不良になった。

人間の健康よりも地球があってこそなので、最初は無視していたけれど、とうとう洋上にまで展開して設置した。
その海域は立ち入り禁止にして、漁業も釣りも禁じられた。

まことに、欧米人のおつむの傾きは極端なのである。

そんなわけで、こないだ「大光明」だと書いた、量子論の続きである。

ふつうに西洋が相手なら、「知的伝統」というものを追いかけると、古代ギリシャ哲学の「原子」にまでさかのぼることになる。
けれども、アラビアを抜いて「科学」を求めざるをえなくなった、ヨーロッパ人たちは、デカルトの登場で知的絶壁を経験する。

いわゆる、「機械論」という話になって、デカルトによる「物質」と「精神」の完全分離こそ、のちの「唯物論」につながる革命思想の根源なのである。

しかして、それが、「量子もつれ」の実験による確認で、「機械論」が根本から廃棄される事態となった。

つまり、唯物論の完全否定が量子物理学から結論づけられる、「反革命」的大事件となったのである。

ところが、ノーベル物理学賞に興味すら示さない「大衆」が多数になったので、この反革命の大事件にぜんぜん気づいていない。
むしろ、「物質」と「精神」の統合が、量子論から発生することの確実を、「宗教的で気持ち悪い」という評価になっている。

これぞ、テレビ脳、なのだ。

だれが実行犯なのか?ということも、詳しい検証もないままに、「なんとなく」あのひと、になっていて、起訴されたら99.6%が有罪判決がくだされるわが国刑事裁判にあって、とうとう起訴されてしまった。

だから、もう決まったも同然で、背景にある悪い教団こそが、「憎き敵」という刷りこみが完成している。
そこに、個々人が「明日は我が身」という想像力を奪われたことの重大事すらない。

この恐るべき、伝統的プロパガンダで、先手を打たれたがために、量子論による反革命が霞んでしまった。
はたして、ノーベル物理学賞を予想しての先回りだったのか?たんなる偶然なのかはもうわからない。

わかっているのは、「大衆社会」の、どうにもならない怠惰な態度だけだ。

量子論から派生する、「パラレル・ワールド」という現実も、そんなものは完全無視して、無事にことしもダボス会議は終了したようだ。
しかし、この世界経済フォーラムという存在が、すでにパラレル・ワールドを形成していて、支配者と被支配者との二分世界をつくっている。

それでもって、世界経済フォーラムは、ちゃんとなにを討議して、なにを決めたかも発表している。
にもかかわらず、被支配者の「大衆」は、そんな発表にも、ぜんぜん興味がないのである。

もちろん、テレビはこの発表を、きっちり放送せずに、あたかも「美辞麗句」をもってニュースにするのは、支配者が所有する媒体だからというわかりやすさまである。

それでも、大衆は、面白ければいいし、面白くなければ観ないだけでなく、ネット・ゲームに興じて、支配者にまたチャリンと課金されている。

こんな状況を見ていると、だんだんとこちらが「虚無」になるから、始末が悪い。

個人へのみえない追い込み猟を仕掛けられているのだとおもうのだけど、どこかで一線を越えると、常軌を逸した精神になるのかもしれないとおもっている自分がいる。

いやむしろ、大衆が向こうの世界に行きすぎて、こちらとの相対距離が離れたら、それだけで常軌を逸したと評価されるのがオチなのである。

それにしても、こんなことをあれこれかんがえているひとが、他にあんまり見あたらないのはどういうことか?

それとも、わたしが発見能力に乏しいのか?
あるいは、量子論からの哲学を、まだ誰もかんがえついていないのか?いや、そんなはずはない。

それに、「電子工学」はあっても、「量子工学」をきかない。

おそらく、量子コンピューターとかと、あんがいと個別の研究が先行していることで、「工学」のいうかたまりになっていないのかもしれない。
すると、「量子哲学」が生まれるのは、もっと先なのか?

量子論は、既存の学問体系(大系)を破壊する。
アインシュタインの相対論を乗り越えてしまったことの衝撃が、これから十分に大きな破壊力をもつこと確実だから、楽しみなのである。

その意味で、既存の宗教(学)も、吹っ飛ぶのである。

ただし、仏陀が描いた世界が、なんだか近しい気がする。
「色即是空、空即是色」が、あたかも量子的で重い意味をもっているからだ。

葬式仏教に甘んじてきた、わが国仏教界は、これにどう答えるのか?
わたしは、「理性」で答えてはならないとかんがえている。
なぜなら、宗教は、「信仰」が重要だからである。

とはいえ、今年のダボス会議に主宰者のシュワブ氏が、「病欠」して、子飼いのニュージーランド首相が辞任を表明したこととか、おなじく子飼いのマクロンのフランスで年金改革反対を掲げながら、じつは「反マクロン」大デモが発生していることが、目に見える「光明」になっている。

「ポスト資本主義」とは資本主義である

資本主義の成立が、どんな「条件」だったのか?
じつは、いまだに「わかっていない」不思議なのだと前にも書いた。
資本主義ではなかった人類社会は、どうやって資本主義になったのか?
この肝心なことが、うそみたいだが「わからない」のだ。

ただし、「人類史上」で、「1回だけ」資本主義の発生が起きたことは、「間違いない」から今の人類社会がある、ことになっている。

しかしながら、資本主義にならない社会もいまだにあるし、明治期の日本がアジアで唯一、資本主義社会になったのも、まことに不思議なことなのである。

それで、資本主義が爛熟した社会では、「ポスト・資本主義」が言われて久しい。
また、「ポスト・資本主義」をいうひとたちの特徴に、「資本主義を憎む」という信条が見てとれる。

一般に、「資本主義を批判」して、「否定」したのは、共産主義を発明したひとたちだった。
もちろんこのひとたちにとって、共産主義社会は理想社会なのである。
これを、「ユートピア」(「この世にない社会」という意味の造語から)ともいう。

しかし、「ユートピア」の言いだしっぺ、トマス・モアの小説『ユートピア』は、ぜんぜん「理想社会」なんてことはなくて、暗黒の地下に住むしかないひとたちと、明るい地上に住む人たちの「おぞましい」社会を描いている。

だからよくいう、「ディストピア小説」が、『ユートピア』なので、話が面倒になるのである。
ほんとうは、「ユートピア小説」といいたいけれど、「この世にありそう」という逆の意味なら、「ディストピア」の意味がある。

それでできたのが、「ディストピア小説」というジャンルである。

  

ジャンルとしていえば、最初の作品が、『すばらしい新世界』(1932年)だ。
ここに登場する、「ソーマ」という飲料は、戦後日本文学の金字塔と三島由紀夫が絶賛した、『家畜人ヤプー』(1956年)でも採用されている。

どちらも、いまでは、「古典」だ。
なお、『家畜人ヤプー』には、巨匠、石ノ森章太郎が描いたマンガが復刻されている。

次が、いわずとしれた作品で、本ブログでも何度も書いた、『1984年』(1949年)である。
そして、エヴゲーニイ・ザミャーチンの『われら』(1920年、1988年)がある。

『われら』は、『すばらしい新世界』より10年以上早くに書かれた作品だけど、ディストピアが現実化した「本場」のソ連で、焚書にされた経緯があるため、世界で存在がわかったのが、ゴルバチョフによるペレストロイカでの「デビュー」となったのである。

このジャンルには、もっとたくさんの作品群があるけれど、共通しているのは、「未来社会」であることと、「全体主義」によって極度に弾圧される人類の悲惨なのである。

だから、これらの作品に共通する価値観は、自由、である。

人間は、失ったものの価値は認識できるが、いつでもどこでもふつうにあると、その価値を認識することが甘くなる。
宇宙や水中での空気とか、砂漠での水とか。

何度も書くが、「自由」の重要な価値、でいう、「自由」とは、好き勝手な意味での自由ではなく、欧米人には「信教の自由」が初めにある。
神を信じることが、ふつうにできたことが、だんだんと、神を信じることが為政者から許されるようになった歴史があって、とうとう禁止されたからだ。

ここから、「だれにも命令されない自由」とか、「自分で決める自由」がうまれた。
なので、自己中で好き勝手が「自由」の正しい意味ではない。

この感覚が、古来、神を信じることがふつうのままである日本人にはわかりにくい。
むしろ、武将たちでさえ、「南無八幡大菩薩」とか、いざというときに「神・仏」という「なんでもあり」に無節操にも頼ったのが、日本人なのだ。

それがどうしたことか、明治初期に、「廃仏毀釈」なる激烈をやった。
おもに、神社の神官たちがやったとある。

もっとも日本的なひとたちが、もっとも欧米人的な行動をしたといえるけど、「打ち壊し」は、むかしの日本人たちの得意技なのである。
大正時代の「米騒動」もおなじで、われわれの3~4代前の日本人は、荒っぽいのである。

そんなわけで、ほんとうは「わからない」けど、「わかったことにした」のが、マックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムと資本主義の精神』による、資本主義成立の条件の発見、である。

けれども、わたしにはこの主張より、『マックス・ヴェーバーの犯罪―『倫理』論文における資料操作の詐術と「知的誠実性」の崩壊』(羽入辰郎、2002年)の方がより刺激的であった。

著者によれば、まったく信用ならないことになって、世界の名著の落とし所がないことに驚くばかりか、資本主義の成立そのものが怪しいことになっている。

つまるところ、巷間いわれている「資本主義」は、じつは存在していない。

なので、われわれが信じて疑わない、「資本主義」なる幻想の次にやってくるのは、マルクスの催眠術にかかったかのような、共産主義・全体主義ではなくて、あくまでも、「自由主義経済社会」なのである。

これを、資本主義というとややこしい。
しかしながら、ふつうは、「自由主義経済社会」のことを資本主義という。

いま、世界で「自由主義経済」を「統制」しようとしていることこそ、「反動」なのである。

目先の損得勘定はさいごに損をする

むかしからいわれてきた言葉が、本当の意味を発揮するのが現代の「情報化社会」なのである。
それは、ひとつの情報が「拡散」される、スピードと広さや深さが、「口コミ時代」とは、格段にちがう「別世界」だからだ。

しかも、「近代人=経済人」だという定義が、あやしくなってきたのも最新の分析で、ちょっと前までの、「合理的」な人間なんて存在しないことは、もう、マーケティングの常識にもなっている。

そもそもが、「経済人(経済的人間)」とは、『ロビンソン・クルーソー』を典型としたものだ。
この作家がつくった架空の人物は、絶海の孤島での暮らしに、「貸借対照表」を用いて、合理的でムダのない行動をもって生きのびようとする。

わたしは、このエピソードで彼の行動に感心するのは、「貸借対照表」を書くことではなくて、忘れないように、あるいは、後から確かめることができるように、「書くこと」をちゃんとやったことにあるとおもっている。

企業再生の現場にいて、企業再生(倒産)に至ってしまった経営者たちを観察すると、おおくが、書かないで記憶に頼っていることを発見したし、書いたとしても、それは自分のためではなくて、だれかに指示をあたえるためという、目的のちがいをみつけたからである。

しかして、ロビンソン・クルーソーは、島から救出された後、さまざまな事業を成功させる。
そのなかに、当時の英国人たちが「常識」としていた、「阿片貿易」もあって、やっぱり作家はこの人物を大成功させる物語を書いた。

ゆえに、わたしは、経済学者がいう、経済人としての、『ロビンソン・クルーソー』を「必読書」ということに、おおいなる疑問を抱いている。
詰まるところ、どうしてもこの架空の人物を、「経済人=近代人」としたいとする、経済学者がほんとうに経済をしっているのか?とおもうからだ。

もちろん、経済学者がいる「業界」では、学部1年生の必読書としている優秀校はいまでもあるかとおもうのは、その「業界内」での常識とされているからで、この意味で、あんがいと「惰性=慣性の法則」がはたらいているとかんがえる。

「まとも」に、阿片貿易とそれがもたらす厄災をかんがえたら、これを正統な経済行為と呼んでいいのか?という、「倫理」の問題を無視することの「必読書」であると位置付けるならば、相当にトンチンカンだと思わざるをえないからである。

あえて、英国をほんの少し擁護すれば、アヘン戦争を議会で議決するにあたって、過半数のわずか数票差だったことと、反対派が敗北した後に出した、「後世の赤っ恥になる」という声明の健全性だけはあったとつけ加えるべきものだとはおもう。

まぁ、英国にも「良心」はあったのだけれど、アヘン戦争を敢行した歴史的事実が変わるものではない。

また、重大な決議をする場合は、アメリカ連邦上院議会にある、単純過半数という方法ではなく、60%にあたる「賛成60票」がないといけないことがあるという工夫も、英国議会は採用しなかった。

もちろん、わが国も、「憲法発議と参議院否決の再可決以外」はぜんぶ単純過半数だ。
いまの自民党は、「絶対安定多数」(全常任委員会で委員を過半数確保したから委員長を独占する)になっているけど、2/3ではない。

そんなわけで、予言通り、「後世の赤っ恥になった」のであるけれど、それで奪った「香港」の返還にあたって、これを中共政権に返した、という、これまた「後世の赤っ恥になる」ことを、サッチャーをしてやらかしたのを「律儀」と呼んでいいものか?

話を整理すると、ロビンソン・クルーソーが典型的な経済人だというのは、狭い意味ではそうだけど、広い意味ではぜんぜん「資本主義的経済人ではない」ということだ。

ならばなにかといえば、「前資本的経済人」なのであって、これは人類史における、中世までの大金持ちとなんらかわらない価値観なのである。
するとまた、強い倫理や道徳社会にしか登場できない、「資本主義」は、英国で成立したのか?という大問題にたどり着くのである。

もしも、英国において資本主義は成立なんてぜんぜんしていないのに、ただ現象としての「産業革命」をもって、これを、かっこつけて「資本主義」と呼んでいるだけになるし、「共産主義から勝手に演繹した」つまり、共産主義を説明するだけのために、つくりだした架空の概念が、「資本主義」ではないのか?

これを、わが国の歴史にふってみれば、だれも江戸時代が資本主義社会だと認識していないだろうに、なぜかいまでも、江戸時代の「経済感覚の格言」に意味があってしかも「深い」ことをどうするのか?になる。

たとえば、「安物買いの銭失い」とか。

それでもむかしの方が、「損が限定的」だったのは、安物を好んで買う人「だけ」が損をしたからだった。
いまは、QRコードとかで電子決済をすると、数パーセントの割引になる、という方法での「安物買い」になっている。

しかし、この方法が普及すると、決済方法のシステム提供者に支配される、という「超恐怖社会」に近づくことを、まったく警戒していないから、警戒している「他人」も、最後には「社会制度」として巻きこまれてしまうのである。

たかが数パーセントの割引になる、とはいえ、どうして安くなるのか?をかんがえないで、まるで「写真を撮られると魂が盗られる」とした、原始人を嗤うがごとくのひとたちが多数になっているけれど、こと電子決済の恐ろしさは、この真逆なのである。

たかが自分の個人データなんて、大したことはない、のは、個別にみたらその通りかもしれないが、スマホにあるぜんぶの個人データが抜き取られていて、それが「ビッグデータ」になった途端に、威力を発揮する。

システム管理者に「気に入らない」と指定されたら最後、決済不能にされたら、それはほんとうに「死」を意味することになる。
自分の口座に入金しないばかりか、「現金が廃止」されたら引き出すこともできないし、なにもかも消費することができないのだ。

目先の損得勘定はさいごに損をするのだが、だれもこんな重大なことをいわないのが、もう「はじまっている」証拠なのかもしれない。