「偽善」の人材こそが財産だ

わが国で経営者になるひとが「うそつき」か「偽善者」ばかりになったのは、平気で「こころにもないことをいう」からではなくて、できもしないし、やりもしないことを口にして、いい子になろうとするからである。

じぶんはわるくない、いい子なのだ。
この心理が、そのときだけの「でまかせ」を、本気だとじぶんに信じ込ませてしまうから、始末が悪いのである。
だから、「うそつき」とか「偽善者」よばわりされると、おどろくほどの抵抗を示し、かならず反論にならない反論を感情的になってするのである。
そして、絶対に反省をしないのは、いい子であるからだ。

経営トップの最大の仕事は、次期トップの人選であった。
ところが、けっきょくは「好き嫌い」になって、「情」に流される。
そんなことを数代にわたってしていたら、そだちのよさげないい子ばかりが選ばれて、とうとう企業価値が減りだした。

人材こそが財産だ、とか、人材の材の字は「財」である、とか、うまいことはいうけれど、新入社員採用の面接もしたことがなく、管理職昇格の社内研修に顔も出さないでいられるのは、いったいどんな神経なのか?

じぶんはえらいのだ。

この「特別感」、「選民」としての「満足感」が、無邪気なほどに、本人を堕落せしめるのである。
けれども、本人以外にも「犯人」がいたりするのは、「大企業」における「秘書群」でる。
「スケジュール管理」という名目において、「分単位」の管理をつくり出す。
こうして、本人の意志とは関係なく、本人の時間を奪うのである。

しばらくすると、本人は意思のない「ロボット」になる。
「激務」のようにみえる「スケジュール」の強制によって、秘書群のいいなりに「こなす」だけで精いっぱいになるからである。
そして、取り巻きたちに、つねに「ヨイショされ続ける」、という環境において、もはや「さからえない」という心理をつくり出す一方で、前述の「特別感」に浸らせれば、さほどの時間をようせずに「堕落」に成功するのである。

これが、社内官僚としてのエリート集団が、一丸となっておこなう「骨抜き」手法である。

まるで「マンガ」のようなストーリーだが、これを可能とする「素地」がある。
それが、先代トップたちによる「後継指名」である。
わが国の歴史で、すばらしく安定した時代とは、その名の通り「平安時代」であった。
このときにこぞっておこなわれたのが「院政」だ。

どういうわけか、実力社長といわれたひとたちが、こぞって「無能」を後継者に指名して、じぶんは「院政」をねらう。
株主総会をクリアすれば可能なのは、自身の任期延長なのに、これをしない。
あたかも「長期政権ではない」という素振りの方が重要らしい。
ようは、株主総会の決議を「なめている」のである。

もちろん、いちばんなめられているのは「無能」なのに社長になった本人である。
けれども、「無能」だから、断ることもできないで、社長のイスにおさまるのである。

そんなわけで、被害者の筆頭は従業員一同である。
院政を敷いて、自己満足にひたる「老害」を隠すのが無能の誉れ高い社長なのに、この体制を支えなければならない。
「血縁」をもってトップにすえた、幕藩体制のほうがよほどあきらめがつくというものだ。
ましてや、当時の風習に「藩主押し込め」までがあった。

これは、「無能」の藩主を、城内の奥深くに「押し込め」て、つまり、座敷牢などに「幽閉」して、知らんぷりをする制度である。
おおくの「元藩主」は、発狂なりして壮絶なる生涯となるものの、一般庶民には知る由もない。
いわば、家老以下の部下によるクーデターだが、あんがい一般的だったから、わが国の資本主義より救いがある。

部下の方が上司より優秀だという事実は、人材こそが財産という美談を暗く染める。
これをまた無能がいうのではあるが、まったくの事実だから、いわれた側の従業員はうれしくもない。
「当然」だからだ。

しかし、ゆっくりとしかも確実に、組織は「壊死」をはじめている。
糖尿病のように、末端神経からやられるので、無能の能がこれに気づくこともない。

残念だが、治療法もないのである。

こうして、優秀な従業員から退社する。
「泥船」だと気づくからである。
けれども、無能をコントロールしていることに満足している階層は、自分たちが沈み行く「泥船」のコントロールをしているのだと気づかない。

もし、いまどき、人材こそが財産だと社内に公言するだけのトップがいたら、すぐさまうたがっていい。
それで、なお、従業員の具体的な教育に経費削減をして、縮小するのなら、もう確信していい。

わかりやすい「踏み絵」になっているのだ。

退職願を書いておくもよし、転職先を先に探すもよし。

横浜中華街で新型ウィルスに感染?

こんなはなしが「ニュース」になって、電波にのるのはいかがなものか?

「デマ」と「真実」の区別もつかいないひとたちがいるのは、あまりにも「お気軽な生活」をしているからだろう。
発言したひとも、局として放送を許可したしたひとも、「放送法」に抵触しないのは「なにを言っても自由」だからか?

ひとから「いい子」でいたいのは、じぶんが常にただしいからではなくて、「ひとに同調する」ことで達成できることを覚えただけの「芸」のない「芸」からうまれる。

なにかと話題になる「放送法」の「ザル状態」も、「放送コード」にある、言ってはいけないこと以外なら言っていい、という安易な解釈で運用されれば、放送ぜんぶが「安易」に染まる。

「中国人がたくさんいる横浜中華街が感染の危険が高い場所だ。」

発生源の地域からの入国制限をすることをせず、漫然と国境(入国管理)を開いていたら、感染者がポツポツとみつかりだした。
そのひとが、ご当地からの旅行者なのか日本人帰国者なのかを放送せずに、ただ「現地」からやってきたひとが感染していたというだけだ。どんな「制限」が、放送局にあるのだろう?

日本人の帰国者といったって、現地駐在のひとだったのか、短期の観光旅行客だったのかも報道ではわからない。

それで、ただ「中国」や「中国人」という、おそろしくおおきな範囲のキーワードだけで、「危険」をしらせるとは、無責任ではなく「デマゴーグ」だというべきだし、ヘイトである。

たしかに、「中華街」なのだから、中国人はたくさんいる。
でも、横浜に居住している、ということを第一にすれば、どうして「感染源」になるものか?

このひとたちの「関係者」が、現地からやってくる可能性が高いから、というのなら、それは入国管理の問題にもどるだけで、本人たちの問題でもない。むしろ、何国人であろうが感染された側からすれば、勘弁してくれよでも済まないのは命にかかわるからである。

粗っぽいことをやるのが、あちらの政府で、それを指示する独裁党はもっと粗っぽい。
わが国政府の繊細さにくらべての一般的な印象だけれど、さいきんのわが国政府のテキトーさは、責任放棄という意味の荒っぽさだから、あちらとの差は「五十歩百歩」でしかない。

1000万人の居住者がいる「市」を、いきなり「閉鎖」したり、こんどは春節の民族大移動の時期にもかかわらず、「出国禁止」にしたり、なかなかの「荒っぽさ」が報じられている。
いっぽう、わが国は、特になにもしない、という「荒っぽさ」だ。

飛行機をだして、現地から邦人を連れ戻すのはいいけれど、「検疫」はどうするのか?そのまま「隔離」され、経過観察される手順の説明をしているのか?
いつもどおり、飛行機だって自衛隊機ではなくて民間機をチャーターするという「無責任」をシラッとやるようだ。

WHOに加盟が許されていない、台湾は、総統みずから素早い行動をしていて、双方の移動(現地へ向かうことも、戻ることも)をすぐさま禁止して、団体ツアーの受け入れも拒否を表明している。
まさに、緊急事態・危機管理対応の教科書のような行動だ。

感染源の国が、「出国禁止」処置にした理由は、台湾が打った初期の手にたいしての「後手」になったともかんがえられる。

わが国官邸には、おどろくほどの「電子機材」をととのえた、危機管理用のコントロール・ルームがあるが、例によって、これらの機材に電源が入っているかもあやしい、「無能」ぶりである。
もしや、危機とは「国内専用」だったのか?

すると、わが国政府は、国内での感染が広がる、ということにならないと行動しない、ということになる。
つまり、感染者や死者がでるのを「待っている」という愚劣を、まじめにやっていることになるではないか。

これは、粗っぽいをこえて、狂気ですらある。

なんでこうなるのか?

「思考の順番」がちがうからである。
小学校の算数を、「算数」といって「数学」といわないのは、「算数」が計算方法の習得にかぎられるからである。

中学にはいってからの「数学」は、どうしてそうなるのか?が重心になるのだが、なぜか数学の先生は、一年生のさいしょの授業でこれをいわない。

それで、延々と「証明問題」をやるから、生徒にはたんなる「苦痛」となるのだ。
数学嫌いを大量生産するのが目的か?とうたがう理由である。

算数で、足し算と引き算、掛け算と割り算をならって、それから、おなじ式に足し算と掛け算が混じったときの計算の「順番」をならう。
このとき「( )」のつかいかたもおそわって、ただしい「答え」の出し方を訓練される。

けれども、おとなになって、
2+3×4=?
を計算してもらうと、ただしい「14」ではなくて、「20」とこたえるひとのほうがおおかったりする。

おなじ式に足し算と掛け算が混じっていたら、掛け算を先にしてから足し算をしなといけない。
3×4=12 のつぎに2を足して、14とするのだ。
2+3=5 これに4を掛けて20としてはいけない。

どうやら、一般のおとなとおなじで、選ばれたはずの政治家たちも、優秀なはずの高級官僚たちも、20を正解とする、「順番どおり」やってきたらその都度都度に、神経反応のような思考をしているのではないかとおもえてならない。

ちゃんと「(2+3)×4」で対応しているような、明確な優先順位をしめす論理で説明できる、台湾の総統のような対処をせよ。

こまった、ではすまされない異常が、日常化している。

どんなひとが「怠け者」なのか?

働かないで暮らすひとは、「怠け者」だというけれど、働かないで暮らせるひとってどんなひとなんだろう?

日本人の将来不安をつくっているのは、「公的年金」を主管する日本国政府が、「公的年金」だけでは暮らせませんよ、と断言できない「言論空間」があることである。

せっかく「2000万円ひつようだ」と正直にいったのに、なにを「怒っている」のだろうか?

わが国の「年金」制度は、戦時中にできた。
さいしょは「積立金」だったけど、戦後の大インフレで「積立金」がすっ飛んで、仕方ないので「賦課方式」に変更した。
用語として「掛け金」がのこったが、「税金と一緒」の意味になっている。

「税金」を政府があつめて、これを「公共の利益」のためにつかう。
民間企業では担当しきれない分野である、という定義が先にある。
それで、事業利益がでない「社会インフラ」にこそ資本投資する政府の役割がある。

だから、いったん定義した「分野」から、政府がはみだしておカネをつかうことを、みとめないのが「本筋」なのだが、「公平な分配」という「魔語」におびき出されて、他人からあつめた税金を、すきなようにつかいたい衝動にかられるのも「政府」の性である。

政府にはふたつの機能がある。
「集金マシン」としての機能は、税務署や地方税事務所がになう。
これをどうつかうかは「国会」や「議会」の役割だったはずだけど、一般会計だけでも機能不全になって、特別会計は役人の自由になった。

そんなわけで、公的年金とは、年金会計という「特別会計」にあるから、けっきょく「掛け金」なんて存在しない。
ところが、「賦課方式」とは、あつめた資金をその年の受給者に支給しちゃうので、現役世代がおおくて引退した高齢者がすくないときしか成立しない。

つまり、どんどん子どもが生まれる、人口拡大が前提になっている。
けれども、半世紀以上まえから、わが国の人口予測は「少子」を読んでいたので、この時点で将来「成り立たない」ことをしっていた。
それでも、しらんぷりできたのは、政治家の都合と役人の都合、それに国民の都合があわさったからである。

まるで「真珠湾攻撃」とそっくりなのである。

国民の都合とは、「掛け金」をかけていなくて、それで、戦禍にも生きのこった明治生まれの世代から支給されたからである。
このひとたちの「現役時代」、年金制度そのものがなかったから、掛け金をかけることもなかった。

ただでもらえる。

この刷りこみが、つづく大正・昭和世代にできたのは、サラリーマンの「掛け金」が、本人と雇用主である企業との「折半」だから、本人には「やたら安い」ようにみえたのである。
企業がいう「人件費」には、健康保険もいれた、社会保障費の負担分がふくまれている。

だから、「人件費が高い」という社長のボヤきには、社会保障費負担がデカイ、というボヤきもはいっている。
「脱サラ」して、個人事業主になれば、ぜんぶが「自己負担」になるから、「痛い」ほどよくわかる。

日本政府は「気前がいい」。
「気前がいい」ことをいう政治家が、とにかく人気を集めた。

しかし、なにごとも、きれいなバラにトゲがあるごとく、そうは問屋が卸さない。

だんだん政府におカネがなくなって、財政が赤字になってしまう。
そこで1981年に登場したのが「目刺しの土光さん」だった。
第二次臨時行政調査会のコンセプトは「増税なき財政再建」。
しかも、当時の鈴木善幸首相は、82年に「財政非常事態宣言」まで発表している。

が、焼け石に水。
徒労であった。

国民を「政府依存」にさせることは、政治家と官僚には、都合がいいのである。
政治家には権力を、官僚には公私混同の快楽が保障される。

じつは、日本人はとてつもなく強欲な怠け者なのだ。

会社ではのんびりテキトーになにかしていれば確実に給料がもらえ、将来も自己負担50%で年金生活が優雅にできると信じてきた。
こんなことを「信じられた」のは、強欲な怠け者の証拠なのだ。
それで、ない袖は振れぬと政府がいったら「怒り」だした。
どこまでも、強欲な怠け者なのだ。

じぶんの年金をじぶんで積み立てる。
政府が介入しようが、企業が負担しようが、原資はじぶんの「稼ぎ」である。

「日本版」という「枕詞」がつくと、とたんにニセモノになる典型に、「日本版401K」があった。
こんなインチキな制度をよくもつくったものだが、年金をぜんぶこのような「積立」に転換すればよかった。

そうすれば、年金をあつめる、運用する、くばる、ことを仕事にする役人がいらない。
いっとき、失業がふえるけど、気にしない。
優秀な役人には、民間がだまってみていない。

ただし、働かないで生活できる方法まであるのがわが国のやさしさだ。
じぶんの資産ではなく、他人のおカネで生活した方が、最低賃金で働くよりもみいりがいいようになっている。

まことに「税金」が安くなることは、ありえないのである。

「だいじょうぶだぁ」のWHO

感染症の世界的流行を「パンデミック」という。

「風邪」だとおもっていたら、どんどん重篤になって、ひとびとが死んでしまう。
人間への流行が確認されているのは、1900年の「スペイン風邪」をはじまりとするようだ。

「確認」には、ヒトの抗体やヒトからウィルスが分離されたことを「証拠」としなければならないからだが、「あやしい記録」としては、紀元前5世紀のヒポクラテスによる記録が、もしやの最古である。

いまや「インフルエンザ」は、「感染症」ということが常識になったから、成人が罹患すれば、ほぼ一週間は自宅療養が「強制される」。
いわば、出社に及ばず、という状態になる。

「インフルの菌をばらまく律儀者」

記憶にあるサラリーマン川柳だけれど、作者と作年がでてこない。

宿泊業界での事件は、2002年から翌03年にかけて、東南アジアで流行した「SARS(重症急性呼吸器症候群)」だった。
彼の地の富裕層が、大挙して医療機関のレベルが高いと信じられているわが国へ「避難」してきて、都心の高級ホテルは対応に追われたものだった。

感染を心配する職場は、おもにフロントと客室清掃係であった。
そのため、感染症の専門家による対策方法の講義を依頼し、必要備品の手配をした記憶がある。

肝心のお客様たちは、長い滞在中にゴルフ三昧であったりと、それはもう「優雅」なホテルライフを楽しんでいた。

旅館業法における「宿帳(レジストレーション・カード)」の記載義務が、このときばかりは安心・安全の綱にみえたのは、そもそもの「衛生遡及」をするためという、目的性の合致にある。

しかし、ホテル館内におけるかずかずの「接触」で、遡及を担保することはできない。
まったく「ムダ」とはしりつつ、ロビーを歩くひとや従業員入口に、「体温」を測定する特殊カメラを設置して、空港の検疫所らしきことまでしたものだ。

マスクについては、知り合いの医師の推奨による手配で、手術用「N95」基準の「排気弁付き」を個人購入し、これをもって「通勤用」としていた。
まったく「風の谷のナウシカ」状態になったから、よそ様には異様にみえたはずである。

ただし、N95基準以上のマスクでは、弁付きでないと排気困難になるのである。
排気のときの空気音は、「ダース・ベイダー」そのものだった。

あいかわらず、インフルエンザは流行していて、予防接種は毎年かかさずうけている。
それでか、ここ数年は一度しか感染していないが、吸気薬ができてうそみたいに速く症状はなくなるからたすかる。

しかし、この時期に発生した「新型肺炎」の対応は、いったいどうなっているのか?

そもそも新型とはいえ、「SARS」と同様の「コロナウィルス」が原因というから、用語からして「新型SARS」ではないのはなぜか?

WHOの発表も、なんだか「政治臭」がして「変」である。

世界の「公衆衛生」を保持するのが役割だし、そのためのリスク回避を優先させれば、「緊急事態」のはずなのは、東京「都」に匹敵する人口の武漢「市」を「閉鎖」したという中国当局の決断からして当然ではないのか?

二日も連続して、おなじ案件で記者会見する、WHOのえらいひとたちの顔が、まじめ一色だけに、往年の大ギャグ番組の「オチ」を想像して笑ってしまうのである。

「だいじょうぶだぁ」

わが国、厚生労働省の対応も、妙に「他人事」で、国会では例によって、今国会の流行である「カジノ疑惑」ばかりが感染しているようで、国民を代表する議員たちが国民の健康をぜんぜん気遣っていない。
いや、ギャンブル依存症という病気だけは気遣っているというのだろう。

そんな状態でも、この役所は「健康日本21」という、2000年にできた「国民運動」にいまだ熱心である。
メタボ対策やら、禁煙やらと、活動メニューはたくさんあるけど、ぜんぶが「禁止」を旨としているところが「いい子の日本」らしい。

なんでもかんでも「増税」やらなんやらと「コスト負担」を国民に強いることばかりで、「健康」すらも国民に強いるのだから、戦時中の批判なんかできっこない。

むかしは国民の健康が「国力」を意味した。
労働が壮健な肉体を必要としたし、「壮丁」という「兵隊」の健康こそが軍事力の強さをしめしたからである。
律令国家の「租庸調」の「庸」のことだ。

いまは、健康が社会保障負担を「軽減」するときめつけている。
負担するのは政府のことだから、政府のために健康でいろ、となって、むかしとぜんぜんかわっていない。
にもかかわらず、ちょっとまえなら「高度医療分野」だったものも、健康保険適用にして、政府は政府の負担をじぶんでふやしている。

やっぱり「だいじょうぶだぁ」といっているのだ。

もう、国民は笑っていられない。

WHOすら、ブラックジョークの対象になってしまった。

5Gになっても電子政府は実現しない

回線の高速化について、首都圏では各家庭への配線接続が物理的にほぼ「完了」している。
なので、インターネットの接続契約をすれば、光回線をつかえるというインフラはできた。

もちろん、インターネットの接続契約をしないひとには関係ない。

ここで、おおきな勘違いをするのが、いまどきインターネットの接続契約を「しないひとがいる」ことを無視して、あたかも「100%の普及率」だと思い込むことである。
契約するかしないかは、本人の自由であるという前提が忘却される。

地方にいくと、高速回線の物理的普及ができていないから「問題」だということで、なんとか「100%」にしたいが、設備工事のためのおカネがないから、首都圏の利用者から「負担金を徴収」しようということになった。

どうしてこうなるのか?

これとはべつに、NHKのネット接続が「合法化」された。
ならば、この組織がため込んだ巨額の資金をなぜつかわないのか?つかわせないのか?
利用者が受信設備をもっている「だけ」で、受信料をとるのだから、つかえる環境インフラに投資すべきはNHKしかない。

地方で、スマホをもっていて、インターネットとの接続ができない地域に住んでいたとしても、この放送局は「料金徴収」をするはずだ。
受信機にあたるスマホをもっている、からである。

けれども、台湾のひとびとは無料でNHKの国内放送を視聴している。もっと質の悪い国際放送ではないのが幸いだが。
沖縄のための放送が、台湾でも受信できるからである。
電波という物理現象を、国境という人為的「壁」で止めることができない。

ぜひ、NHKの台北支局は、台湾全土から視聴料を徴収する活動をしてほしいものだが、できっこない。
その「できっこない」を、日本国内でずっとやっている。

こんなバカげたことが平然とおこなわれるのは、政治との癒着による、行政府の役人が、ほんらいもってはいけない「裁量権」をもっているからである。
立法府がつくった法律を、粛々と実施するのが、「行政府」のやくわりだが、行政府がもとめるルールを立法府が追認しているだけだ。

つまり、行政府は、じぶんでかんがえたり、きまっていないことを勝手にやってはいけないという「原則」が、三権分立の世界共通なのである。
この「原則」が、まったく機能しないのがわが国である。

この意味で、日本国憲法は、とっくに「改憲」されていて、三権分立は、絵にかいた餅になっている。
護憲派がこれを指摘しないのも、理由をきいてみたい。

わたしが住んでいる横浜市は、政令指定都市だ。
神奈川県とどこがどう違うのか?学校ではおそわらない。
いつも批判ばかりしているが、わたしにとって、横浜市に住むおおきなメリット、図書館サービスの充実「だけ」はすばらしい。

蔵書も、地方自治体として日本一レベルだけれども、貸出と返却に「自由」があることだ。
図書館のHPから貸出予約ができて、受け取りは最寄り駅の図書コーナーも指定できるし、返却も、図書をあつかう窓口なら、市内どこでもいい。

こうしたサービスをやろうとおもえばできるのだから、どうして他もできないのか?とおもうが、その理由が「裁量権」なのだ。
図書館サービスで、裁量権がはいる余地はすくない。

なんのためにできたのかよくわからないものに、「マイナンバー・カード」がある。
もっとも、これも世界の常識とは逆で、世界には「戸籍制度」がないための「身分証明書」があった。

マイナンバー・カードを発行したら、「戸籍」をやめればいいものを、どちらも「まじめ」にメンテするから、なんだか「ムダ」を感じる。

マイナンバー・カードには二つのタイプがある。
ふつうのものと、これに電子証明書を付加したもので、見た目におおきなちがいはない。

マイナンバー・カード自体には更新期限があって、ふつうのものは、発行から10年、電子証明書は5年だ。
そんなわけで、なにが便利だかわからないが、せっかくなので電子証明書の機能もつけてみた。

けっきょく、電子証明書の期限がきて更新の案内がやってきた。
一度もこの機能をつかったことがないから、どうでもよかったが、やっぱりせっかくなので更新することにした。

案内書にある日時を「予約」しないといけないとある。
電話でも市のHPからもできるが、この「予約」とは、区役所の窓口に本人が「出頭せよ」という予約なのだ。
電子証明書の更新が、電子的にできない。

それに、本人確認として運転免許証の提示をもとめられたから、マイナンバー・カードとはなんなのか?
ものの五分ほどで、役所のパソコンを経由して電子的に更新ができた。

それから三週間したら、電子証明書の期限がきたので更新せよとの案内が、さいしょの案内とは別の書式でとどいた。
きもちわるいので、役所に連絡したら、「ダブリ」だという。
ますます、どういう仕組みなのか?が想像できない。

物理的な回線が、どんなに大容量・高速化しようが、人間側のシステムが「裁量」による「穴だらけ」なのでどうにもならず、ただ経費だけがふえている。

これを維持するのにカジノしかないといいだしたから、末期症状の絶望なのだ。
5Gになろうが6Gになろうが、電子政府は実現しないこと確実である。

アメリカ教育省は廃止になるか?

国民の「教育」は、国家百年の計というほどの「重要事項」だ。
だからといって、「政府」が教育をおこなう主体でよいのか?という議論があるのは、「自由競争」が教育分野でももっとも効果があがるとかんがえられるからである。

スイスには「連邦政府」の「省」として、教育省がない、と書いた。
アメリカ合衆国も「連邦」なのだが、こちらには教育省がある。
けれども、この役所ができたのは1979年、ジミー・カーター政権のときであった。

まだ40年の歴史しかないのは、日本人には「意外」である。
さぞやむかしから、というのは、まったくのまちがいなのだ。
カーター政権は、民主党政権であったから、わが国でいえば「社会党」的だというのも、勘違いである。

民主党だから左派政権であったことはまちがいないが、わが国の政党との「尺度」で比較したら自民党がこれにあたるとも書いた。
くりかえすが、わが国には共和党にあたる政党が存在しない。

現職の大統領が再選を目指した選挙で敗れたのは、経済の不調や、テヘランのアメリカ大使館が占拠されて、この救出作戦に失敗したこともあったが、教育省の設立という大不評も見逃せない。

「独立心」がモットーのアメリカ人には、「州」が国家なのであって、「連邦政府」はなるべく介入しないことをのぞんでいる。
もちろん、「州」のちがいには、「宗教」のちがいが前提にあるので、連邦として一律の教育制度を実施することは、介入のほかなにものでもないのである。

なぜなら、宗教によって理想の教育もちがうからである。

共和党のなかにあって、おおきく二派がせめぎあっている。
ひとつは「主流派」で、こちらはグローバリズムを推進する立場だ。
ブッシュ親子が代表格である。
もうひとつが「保守派」で、こちらは反グローバリズム。
現職がこれである。

ちなみに、左派には、国際共産主義運動があるように、グローバリズムが不可欠である。
なので、わが日本国政府は、グローバリズムを徹底的に推進する、という立場である。

レーガン・中曽根時代のように、「ロン・ヤス」という関係をもう一度みせたくて、「ドナルド・シンゾウ」をやたら演出したがるけれど、じつは「水と油」である。

現職大統領が再選すれば、来年からの四年間は、わが政府にとっては厳しい展開になるはずだ。
けれども、わが国民にとって厳しいとはかぎらない。
どちらが日本国民のためになるのか?まったく倒錯した時代になったものだ。

「教育省廃止」をいつ「公約」として発表するのかわからないが、わがマスコミが狼狽することまちがいないから、なんだか「ワクワク」する。

おそらく、アメリカの凋落がはじまる、とかテキトーなことを書いて、全国一律を維持するわが文部科学省のすばらしさを「ヨイショ」するのだろう。
これは、なにもマスコミだけでなく「学会」もおなじで、これみよがしに文科省にこびて予算の増額を狙うにちがいない。

スイスやアメリカには「州」があるけど、わが国には「藩」があった。
江戸幕府は、一種の「連邦政府」であった。
基本的な「御定」は全国一律だが、こまかいことは各藩の自由だった。

もちろん、身分制もあったから、学校制度を一律にすることがかなわないので、武士以外は「手習い」をもって教育とした。
そんなわけで、おのおの勝手に「塾」を経営していて、「評判」こそが業績を左右するのは、完全に自由競争が成立していたのだ。

電話もインターネットもない時代に、「評判」だけで全国から弟子があつまったのはどいうことかをかんがえれば、中央官庁が仕切る意味など最初から「イリュージョン」にすぎないのである。

はたして、教育省廃止とは、合理的なことではあるが、労働省との合併も腹案にあるようである。
つまり、「職業教育」の強力な実施である。

トランプ政権は、オバマ政権がすすめた福祉政策をことごとく「ちゃぶ台返し」して、低所得者向けに行われていた「食料費補助対策:フードスタンプ」を、ただ配付する方式から、健康に問題ないなら「働く」ことを条件として、受給者数を激減させた。

この経験から、低所得者層における「就業確保」には、「職業教育」が不可欠としているのである。
つまり、ただあたえることによる「貧困の固定」をやめて、「貧困からの脱出」を援助する方策にしたのだ。

いちいち合理的である。

外国人が経営者や管理者としてやってきて、成功にみちびく例はいくらでもある。
ゴーン氏も、経営再建ということにかんしては使命をはたした。

わが国は、トランプ氏が大統領から引退したあかつきには、彼のスタッフごとむかえて、そのまま首相と首相官邸をまかせることはできないものか?

世界の潮流の真逆をいくわが国政府は、「孤高」どころか「滑稽」になりはてている。

ぶったまげの全世代型社会保障

まだ1月なのに、今年2020年が歴史にのこる年になりそうだ。
オリンピックは、やっぱり「衰退の象徴」になるのか?

「福祉元年」を宣言したのは1973年、田中角栄内閣であった。
すなわち、わが国は「正式に」、これによって「社会主義国」になると表明したのである。
あれからほぼ半世紀が経った。

こんどは、安倍内閣が20日、通常国会冒頭の首相施政方針演説で、「共産主義国家」になると宣言した。
「全世代型社会保障」とは、共産主義の実践にほかならない。
とうとう、行きつくところまでいった感がある。

わが国政府は、「自滅」を宣言してしまった。

もう、政治の基準がなんだかわからなくなったから、共産党も大御大・不破氏を中央委員に再登板させることになったのだろう。
自民・公明党政権が、とうとう「宿敵」共産党のお株を奪ったのだから、それはもう「パニック」だろう。

これに、「第4次産業革命」を「国家がやる」というはなしまで演説にくわわっているから、もうどうにもとまらない。

日本政府は「発狂」した。

安倍政権は、わが国「(左翼)政界」のぜんぶを呑み込んで、事実上の「翼賛政治」に変容させようとしている。
これは、世界史上初の「無血革命」だし、実務をともなう「共産党宣言」にほかならない。

わたしの人生で、最大級の「ぶったまげ」の政治ニュースである。
2020年の施政方針演説は、後世、滅亡の一里塚、として歴史的価値をもつはずだが、それは後世の歴史家が、日本人を「愚かな国民」としてレッテルを貼る、最大の理由になろう。

すでにわが国の経済は、「国家依存」がはなはだしい。
昨年暮れに政府が発表した、2018年の名目GDPは、4兆9564億ドルだった。
1$=110円とおおめになるように計算すれば、545兆2040億円となる。

国家予算と地方予算の規模は、一般会計だけでなく特別会計もくわえなければならないが、国家・地方ともに「不明」ということになる。
特別会計にある、元公団や財団が、さらに傘下におさめる株式会社が子会社どころか、ひ孫会社、やしゃご会社ほどまであるからだ。

猪瀬直樹氏が都知事になるまえの評論家だったとき、道路公団の民営化委員になって、財務内容が「さっぱりわからない」とテレビで、わからない理由をわかりやすく解説していたことをおもいだす。
なるほど、わからなかった。

それで、すったもんだしながら「民営化」されたが、中途半端な感じがするのは、やっぱり「わからない」ままだからである。
これが、道路公団「だけ」の問題だった。
NHKもなにもかも、ぜんぶおなじ構造のままになっている。

株式会社については、いろいろと命令して、なにかと「情報公開」にうるさいが、国民資産で運営している組織のほうは、さっぱりわからないようになっている。
旧ソ連、東欧のひとたちには「なつかしさ」があるはずだ。

そんなわけで、けっきょく、わが国の「公的部門」がどのくらいの規模なのか?いまだにさっぱりわからない。
国民がわからないだけでなく、財務省の役人すらわからないのは、全部を統括する役所がないからだし、そもそもわかるようにさせる「法」もないからである。

だから、「ざっと」としか推測できない。
それで、でてくるのが「350兆円ぐらいでは?」なのだ。

これは、GDP比で「64%」ほどになる。

なんと、わが国は民間のボリュームが36%しかない。
みごとな社会主義が、もう達成されている。
それを、もっと政府が頑張って推進しますと、総理が演説したのだから、目指すのは「共産主義国家」しかない。

元全共闘のひとたちを中心にした、お年寄りたちが「安倍やめろ」という運動をしているが、安倍政権は、このひとたちの「理想社会」をつくろうとしているのになぜなのだろう?

それに、「保守」を自称するひとたちが、極左政権なのに「安倍支持」なのもなぜなのだろう?
日の丸に敬礼する姿だけしかみないからなのか?

それは、日本国民が「卑しくなった」からである。
正確には、卑しくなるように仕向けられたのだ。

「どっちが得か?」という命題が、いつのまにか「国からもらうおカネ」の「もらい方」になってしまった。
年金しかり、ふるさと納税しかり、はたまた生活保護しかりである。

こうして、エサをまかれた国民は、不労所得のごとく、国や自治体から「もらえるものをもらわなければ損になる」と擦り込まれたのである。

「一億総乞食化」が達成できた。

「もっともらえます」「もっと差し上げます」ということが、選挙で当選する条件にもなった。
だから、年金けずります、とはぜったいにいえなくなって、だれだって当選したいから、こころある候補者もだまっているだけになるのだ。「発言しない議員」はこうして生産される。

このように、全候補者が「社会主義を容認する」メカニズムがはたらくので、政権与党は絶対的議席数だけがほしいから、「もっと」を強調するだけでよい。
その挙げ句が、共産党の主張まで呑み込んだのである。

わが国は、社会が安定しながら滅亡するモードにはいった。

もうだれにも止められない。
民主党政権を、よりスマートに、より過激化したのが安倍政権である。
さて、どうしたものか?

これから、「エクソダス(大量の国外脱出)」が本格化するだろう。
衰退が加速化する「元年」となりそうである。

経理を強化しても儲からない?

企業活動とは投資活動のことである。

「ひとがうごく」とかけば「働く」になる。
従業員がいるだけで、人件費がかかるから、うごくかうごかないかはじっさいに関係ない。
その典型が事務仕事で、日がな一日机の前に座ったまま、なにかしているようでじつはゲームをして暇つぶしもできる。

有能な経営者は、付加価値の生産に注視するから、従業員がうごきまわろうが座ったままであろうが、その形態はどうでもいい。
残念な経営者は、付加価値の生産がピンとこないから、なんでもいいから忙しそうな従業員をみているだけで安心し、暇そうなら怒りだす。

むかしの喜劇役者で、「あーいそがしい、あーいそがしい」といいながら、舞台を走りまわるだけでなにもしないことを演じるキャラクターで受けていたひとがいて、観客が何度みても笑ったのは、身近にそんな人物がかならずいたからである。

だから、残念な経営者のもとに、忙しがるだけの従業員がたくさんいるのは、経営者がそうなるように育てているからであって、そんな人物たちをわざわざ選んで採用したわけではない。
こんなことにも気がつかないから、かならず「うちの従業員は忙しがるがなんにもしない」と他人にボヤけるのである。

なので、こんな残念な経営者は、経理も不正がなければよいという価値感だから、「経理が利益を生む」とは夢にも考えない。

経理部と財務部がある企業がある。
ふつうは経理部だけだろうが、おおきな会社になると財務部があることがある。

経理部は、月次決算や税務などの報告書をつくったり、金銭出納の窓口になるから、会社のおカネをあつかう部署だ。
これに、会社の資産管理もくわわって、その気になると見た目よりもいそがしい部署になる。

小さい会社だと、従業員の給与計算も経理が担当する。
退職金も給与あつかいになっているから、数人でも退職者があると、おおきなおカネがうごくことになる。

そんな経理は、むかしなら算盤、ちょっと前なら電卓があって、計算用紙に定規で表をつくって、計算結果を手書きしていたものだ。
これが、コンピューター会計を看板にする税理士からの要請で、会社の数字もデジタル化の時代になって、いまなら税理事務所にデータ転送ですませているだろう。

ものをあつかう会社なら、伝票が紙だった時代はおわって、バーコードからユビキタスの時代になってきた。
発注管理も、納品も、在庫管理も、どこもデジタル化がすすんでいる。

外部的には「経理」と「財務」のちがいは、どうでもいいが、内部的にはおおきくちがう。
「経理」を「制度会計」、「財務」を「管理会計」とすれば、重要なのは「財務」のほうになる。

おおくの企業は「制度会計」しかしないので、経営のための数値情報がないがしろになっているのだが、これに気づかない。
経営のための情報は、「管理会計」の分野である。
株主のためにある決算書をみて経営する、という企業は、じつは経営なんかしていない。できっこない。

ならば、なにをしているのか?
会社を「運営」しているだけなのだ。
だから、だれにだってできる。
なぜなら、部下たちが「勝手に」支えてくれるからである。

これを、とち狂って、じぶんが経営者だから会社の経営をしていると勘違いし、トップダウンで「命じ」てみたら、うまくいくときとそうでないときがある。

なぜなら、部下たちが「判断」して、やるかやらないかをきめているからだ。
経営者は、なぜやらぬのかさえも理解できない。
それで、自社の社員のことを外にいってボヤくのである。

まったく犬と飼い主の関係そのものである。
うちの犬は「バカ犬だ」という飼い主が、犬への教育方法をしらないばかりか、犬という動物の習性すらしらない。
しかも、擬人化までして、とうとう「飼い犬に手を噛まれる」ことになってしまうのだ。

会社の経営には、実態把握が必須だが、制度会計ではこれが「甘い」。
なので、わかっている経営者は、制度会計の報告だけで満足しないのだ。

デジタルの時代だから、手書きや手入力だったむかしにくらべて、ずいぶん自動化されてきている。
この「投資」をしないから、いつまでたっても「運営」しかできない。

デフレの時代に行き詰まる企業のパターンは、これである。

自社は制度会計しかしていないのではないか?
という疑問を、経営者がもたなくては、はなしがすすまない。
部下がおしえてくれることではない。

じつは、管理会計を強化すれば、会社は儲かるようになる。

だから、いまどきなら、どんなコンピューター・システム(ソフト)を採用するかで、企業基盤の強弱がきまってしまうのだ。
これを選定する「目」を、経営者が学ばないといけない。
制度会計を受け持つ、顧問税理士の「意見」は、まず役に立たないとしるべきだ。

でも、勉強する時間がないと思し召すなら、業績がよくて採用している企業の実態を調べるという手がある。

プログラミングが小学校の必修に

「産業優先国家」の面目躍如である。
もちろん、経済力をもつことを優先させないと生きていけない「もたざる国」に住んでいるから、「産業」をどうするのか?は重要なポイントになることを否定はしない。

しかし、これは、「政府」の仕事か?

企業にとって、新卒だけでなく中途採用にあたっても、義務教育以上の「卒業者」を基本としている。
これだって、ある程度のバラツキはあるけれど、本人能力としての水準はだいたいの見当はつくものだ。

この国の「統制経済」を実現させているおおきな要素に、「教育制度」があることは否定できない。
「人材」を育成するのが「教育」だから、画一的な産業の時代には画一的な教育が「向いていた」。

これが、わが国発展の原動力「だった」ことは否定しない。

しかし、産業自体が細分化されてきたから、教育が過去の成功体験をひきずっていると、産業界にダメージをあたえることになる。
つまり、ほんとうの「ニーズ」と合致しない。
これが、わが国の「教育問題」の本質なのだ。

それで、さまざまな「教育改革」がこころみられてはきたが、江戸時代の「改革」のように、成功したためしがない。
「体制」という「枠」のなかでの「改革」しかしないからだが、現代の「体制」とは、「全国一律」を「善」として、これを「文部科学省」という中央官庁が「なにからなにまできめる」、ことである。

前にも書いたが、教育も社会主義化しているのである。

企業活動において、ライバルを意識するのはだれでもできるが、あんがい「ベンチマーク」をただしく設定して、これを継続的にウオッチすることをしない。
それで、じぶんを見失って迷走することはよくある。

わが国も、なぜか「アメリカ合衆国の経済」を意識していて、なぜか「ライバル」としている。
戦後はだれも思ってもいなかった「アメリカに追いつけ追い越せ」という、あとからできた「スローガン」を、低成長時代になって擦り込まれたからだろう。

これに、意味も根拠も不明の「贖罪意識」から、さんざんお手伝いして育てた中国にあっさり抜かれて、あからさまに「バカにされる」にいたって、ライバルどころか「崩壊願望」をもつ体たらくに陥った。

それもこれも、「ベンチマーク」の設定ができていないからである。

では、わが国のベンチマークになりうる国はどこか?と問えば、山国だけど「資源のなさ」にもかかわらず、世界トップの「生産性」を達成している「スイス」がまっさきにあげられる。
ただし、相手はわが国のはるか先をいく「先進国」であって、「ライバル」ではない。あくまでも「ベンチマーク」である。

スイス連邦政府は、七つの「省」がある(七つしかない)が、この中に「教育(省)」はない。
その下の州政府に「教育部」がある。
州議会の議員とはべつの「参事選挙」によって七人(五人や九人の州もある)を選出し、これら参事が合議制の執行部「参事会」を構成しながら、各参事が行政各部の部長も兼務するしくみだ。

なので、州の役所に常勤公務員として勤務するひとの最高位は「課長」である。
休職して選挙に当選すれば、議員や参事になれる。
なお、参事は連邦国民議会(下院)議員を兼務することができる。

州議会議員も参事も、どちらも任期は4年である。
ユニークなのは、州知事と副知事は、この参事たちが一年毎に「輪番」でやるから、州知事選挙はないし、州知事が二年連続することもない。

つまり、各州という地方が独自に教育行政をするのであるが、だからといってわが国の文科省が地方にあるだけとはちがって、市町村単位の「教育課」が実質的な教育行政をおこなっている。
この「課」の運営さえも、住民が参加するので、行政が教育制度を勝手にきめることはできない。

ついでだが、「観光立国」のスイスの地方行政に、「観光課」がない、ということもベンチマークになる。

すなわち、行政を「肥大化させない」という「かんがえ方」が、住民の生活をよくするための「基本中の基本」だということだ。
わが国の発想と真逆だからこそ「ベンチマーク」になる。

長野県はむかしから「教育県」を自称していたが、「自主」のはずだったものが国家に横取りされて、全国一律が強制されたら、やっぱりどこの県ともおなじなった。

せっかく、旧安曇村(合併して松本市)がグリンデルワルト村と姉妹提携しているのだから、教育「特区」にでもなって、グリンデルワルト村とおなじ方式で教育したら、数年で成果をだすのではないか?

この四月の新年度からはじまる小学校の「プログラミング」は、6年生が対象で、来年度からは中学の「技術」でもはじまる。
それから、高校にも移行するのだろうが、おそらく大学入試には「関係ない」課目となって、いつものように中途半端におわると予想できる。

理系の大学で「分数」が「補講」の対象になっている現状からすれば、文部科学省のやる「学校教育」は、とっくに破たんしている。

文系の大学生は、分数どころか、とうとう「引き算」もできないし、「ふつうの電卓」のつかいかたもしらないで生活している。
しかし、文系だから補講もしてくれない。
企業が採用して、はじめて気づくが、上司もできるだけしらんぷりするのは、「パワハラ」だといわれたくないからである。

「プログラミング」は、これらの実態から目をそらすための方法でしかない。
役人によれば、目的は「論理力の強化」だそうである。

学校でのテストの結果とは、教師の力量を示すものという論理もなく、最終的に「指導要領」の出来の悪さだという論理もないから、文科省の役人の「成果」が、評価の対象外にあるのはずるい、という論理もない。

すくなくても、親やおとな世代が論理力をうしなっているから、こうした「改革」に、文句もいえないのだとしか言葉がみつからないのは、産業界もおなじか?

「石油確保」の意味がかわった

さてさて、従来の延長線でものごとをかんがえたら、アメリカが引きだした中東に、穴埋めでわが国自衛隊が派遣されることになった。
総理が現地を訪問して、「理解を求める」という儀式をしたのは「国内向け」で、先様が拒否する理由はない。

むしろ、じぶんからけっして「撃てない」わが艦が、大丈夫なのか?と心配されたのではないか?
そうした事前情報は、エリートを自称する外務省のキャリア外交官が、これ見よがしに世界の非常識をご説明したはずである。

だったら、なにしに来るかと?おとなは追求せずに握手するだけだ。
あちらの常識からすれば、なにをいっているのかわからない説明に、眠くなったのではなかろうか?

さては、アメリカ合衆国が軍を引きだした理由は、国内で大深度削屈による石油の入手が可能になったからである。
二度の石油ショック以来、石油の枯渇が心配されたが、武田邦彦教授によれば、だんだん石油の正体がわかってきた。

「地球史」という宇宙規模の歴史をひもとけば、生命の誕生がなければいまのわれわれも存在しない。
さいしょの生命が進化して、いまの時代になっている。
この間、動植物ぜんぶにわたる、幾世代もの「死がい」が土にもどって、地下深く地層のなかに埋まったのが、石油であり石炭だ。

それで、地表から数千メートル下の地殻のなかに、石油層の「本体」が埋まっていることが判明した。
従来の浅い場所にある「油田」は、「本体」から浮き上がってきた分の「溜まり」にすぎないのだ。

すなわち、埋蔵量は「数千年分」あるという。

だから、人類はずっと石油を燃やせばいいともいえるが、たぶん、あと数百年もすれば、原子力にかわる画期的エネルギー源を発見するにちがいないから、そんなに心配しなくてよい。
ただし、石油は燃やすだけが能ではなく、プラスチックの原料だから、材料としての利用はずっと後世までつづくとおもわれる。

一方で、チェルノブイリと福島の後始末には、もっと時間がひつようなのは確実だ。
これらの後始末ための技術開発に要する、最も楽観的な予想での数百年と、画期的エネルギー源の技術がどんなふうにつながるのかも、いまは想像できない。

悲観的な予想は、千年単位であるから、もしや石油が「本体」も枯渇する時代になってようやく後始末ができるかもしれない。
平安時代の人びとが、千年後のいまを予想できなかったように、われわれも、これから千年後は予想できない。

そんなわけで、時間をいまにもどすと、南北アメリカ大陸とヨーロッパ大陸、それに豪州の地下の様子は、すでに「調査済み」なので、これをもっての石油「本体」をいっている。
アジア大陸とアフリカが「未調査」なので、おそらくもっとある。

ところが、「本体」は、ぜんぶが「大深度」にあるから、どうやって掘りあてるのか?がすべてなのだ。

ここに、パラダイム・シフトが発生した。

「掘る技術」が、石油権益をしめすことになった。
油田地帯が国内にあることの意味が、おそろしく小さくなってきたのだ。

はたして、「シェールオイル」という「本体」にいきついたアメリカは、世界で唯一の「掘る技術」を独占している。
「大深度」を掘るとは、地中圧力とのたたかいである。
水中においてもたいへんだから、想像を絶する力がはたらく。

先端の「歯」の強度と、でてくる「土」をどうやって地上にもどすのか?そして、それをささえる「管」のつくりかたは、一朝にしてできる技ではない。
これを、アメリカ人は「自動化」させて掘っている。

わが国が外国に依存している石油の割合は、日米戦争まえの当時で「9割」がアメリカだった。
このときの「アメリカ」とは、「石油メジャー」(国際石油資本)のことをさす。

いわゆる、「セブン・シスターズ」とかつていわれていた、世界の石油を独占していた企業群をいう。
いまは、エクソン・モービル、シェブロン、ロイヤル・ダッチ・シェル、ブリティッシュ・ペトロリアム、の4社をいう。

「米・英・蘭」とのたたかいになったのは、ロイヤル・ダッチ・シェル、ブリティッシュ・ペトロリアムが「英・蘭」そのものであったからで、これにインドとインドネシアという植民地が地図にはあった。

いま、中東依存が「9割」なのも、実質「石油メジャー」から購入していることに変化がない。
アラビア石油がわが国「自主開発油田」の代表だったが、2000年にサウジアラビアの採掘権を失って、開発から撤退している。

さては、わが国の「掘る技術」はどうなっているのか?
「日米」による石油採掘技術の「独占」が、産油国や石油メジャーを超える可能性もある。

すなわち、掘ってほしい、といういろんな国からのオーダーにこたえるのだが、これを「米・英・蘭」はゆるすのか?
もはや、わが国の外交官は「理科系」でないと務まらないのではないか?ということも、「パラダイム・シフト」ならではだ。

「観光立国」は幻想の「甘言」にすぎない。
ものづくりだけではない、「科学技術立国」こそが、将来のあかるい未来をつくるのである。