アメリカ国家予算と連邦下院議長解任?

「年度」というかんがえは、基本的に、任意なので、1年間であればいつからでもいい。

わが国は、国も民間企業も、だいたい、4月1日から翌年3月31日としている。
もちろん、民間企業にはすきに決めることができるから、これ以外だって問題はない。
アメリカの企業の場合には、あんがいとカレンダー通り(1月1日から12月31日)もふつうにある。

ついでに、ドラッカーは、「期間損益」というものを、その著書、『すでに起こった未来』(ダイヤモンド社、1994年)で否定していた。

企業活動は基本的に、永続するもの(「ゴーイング・コンサーン」という)だから、1年単位で期間を切ることに何の意味もなく、かえって、「決算」なんてどうにでも表記できるから、こんなものを信じてはいけないと説いた。

国家予算は、民間企業の期間損益よりもややこしい。

おおくのひとは、税収をもって民間企業の売上とみなす悪い癖がある。
学校教育における、重大なウソのひとつである。

国家は、税収で賄ってはいない。
むしろ、税収で賄っているなら、それは、おどろくほど古風な国である。

じつは、国家にはさまざまな収益機会がある。
まずは、手数料収入だ。
それにいろんな財団やら法人を設立して、収益を得ている。

たとえば、道路公団とか、乳製品とかのご禁制に相当する物品輸入における関税やら、手数料は、これら関係財団を通じて、上納される仕組みがあるが、見返りに役人が下ってその一部を報酬としてさらっていく。

大規模なのは、国債発行による、紙の現金化だ。
これには日銀とかの中央銀行が、国家のATMの役割をしている。

しかし、現代の現金とは、単なる数字のデータのことである。
個人だって、通帳には数字が印字されているだけで、残高分の現生をみたことがあるひとはいない。
住宅ローンが通って、いったん数千万円が通帳に書き込まれても、それは数字だけなのだ。

銀行口座から現金を引き出すならまだしも、送金とか振込とかは、ぜんぶ数字が動くだけで終わる。

そんなわけで、国の「出納」は、民間企業よりもややこしいのである。
それで、「証紙」やらを購入させて、手数料収入としたから、どんな行政サービスがいくらの収入になっているのか?をみるには、また面倒が発生する。

「証紙」の収入と、申請用紙に貼られた数を一致させないといけないけど、こんなことを誰がやっているのか?
つまり、売上げ管理をするものも、仕組みもないのである。

そんなわけで、どの国も適当なのが近代国家というものだ。

その代表格のアメリカ合衆国は、予算年度を10月1日から翌年9月30日としている。
とりあげず、議会は「45日間のつなぎ予算」を通して、国家行政が停止するのは1回は回避した。
しかし、この短い期間で、予算案ぜんぶが議会を通過するのか?といえば、かなり厳しい。

アメリカの予算案は、わが国の適当な一括案とはちがって、何本にも別れているのだ。

とくに次年度の柱は、
・歳出削減案
・ウクライナ支援
・国境警備 となっている。

なかでも巨額なのは、ウクライナ支援だが、これには共和党トランプ派だけでなく、民主党にも消極派が多数いる。

実質的に、アメリカらからの支援が止まれば、ウクライナは和平をするしか選択肢がなくなる。
つまり、「平和」に貢献する予算となる。
これを阻止したい勢力とは、戦争屋なのである。

だから、戦争屋をあぶり出す予算案となっている。

しかし、45日間で決められないかもしれないのは、共和党トランプ派が、グズグズしているマッカーシー米下院議長の解任を、並行して発議する可能性があるからだ。

今年はじめ、あたらしくなったアメリカ連邦下院議会は、議長選びで紛糾したのはニュースになった。

もちろん、アメリカもわが国のマスコミも、アメリカ民主党のプロパガンダ機関なので、これを共和党の「党内抗争」としてだけの方向から描いていた。

一面だけをいえば、正しいが、全体を報じないという意味で、プロパガンダである。

マッカーシー氏は、いわゆるRINO(Republican In Name Only:戦争屋)なので、トランプ派からしたら、議長になるべきひとではない、という基本認識があったのである。
それで、「条件闘争」になって、さまざまな条件を呑んだ協定に署名させて、やっとこさ議長に就任できたのである。

マッカーシー氏がそこまでしたのは、「お飾り」とみなされるわが国の議長とちがって、絶大なる権限を付与され、なおかつ、大統領・副大統領につぐ、アメリカのナンバースリーになるからである。
この権限を超えてまでしっかり悪用行使した、前任者の民主党ナンシー・ペロシ氏は、その「悪名」を議長職に残した意味で、歴史的な人物だった。

就任から10カ月が経過して、ぜんぜん協定を守っていない、という怒りが、トランプ派からの解任要求になっているのである。
そのまた証拠が、この予算案への甘い対応(バイデン政権のいうがまま)だ、ということなのである。

そんなわけで、戦争を止めさせたいトランプ派と、戦争でもっと儲けたいという派との攻防なのであるが、マスコミは、戦争でもっと儲けたいに与して、利益を得たいとかんがえている。

現場のウクライナのひとびとの悲惨なんて、関係ないのである。

ただし、予算が尽きれば、アメリカという巨大ロボットの活動が停止する。
プーチン氏にとってもそうだが、「これでいいのだ」という覚悟が、こんどはトランプ派とのチキンレースになったのである。

道徳的に立派な目標は失敗する

わが国の戦前における大陸進出がそうだったように、あるいは、戦後なら、アメリカが行ってきた二極(米ソ)代理戦争だったベトナム戦争のように、あるいは、ソ連なき後の一極覇権下におけるイラク戦争など、その失敗を挙げるのに枚挙にいとまはない。

むかしなら、「米帝反対」と叫んでいたサヨクの視線があったろうに、いまは、グローバル全体主義のなせる業だとわかった。
そうしたら、共産党までがウクライナ支援に賛成するという、「逆神の大ヒント」があるのに、だれも気にしなくなったのは、みんなでグローバル全体主義に染まっているからである。

だから、いろんな「もの」や「こと」がなぜ失敗するのか?をかんがえると、その答えは簡単で、世界の価値観が全体主義に統一されてきているからである。

その実験場で、平時にしていま最悪の状態にあるのが、英国で、次がわが国だ。
英国のばあいは、北海油田を棄てて「風力発電依存」をして、自分から経済を破壊したし、わが国の場合は、ワクチンなる毒薬をもって、政府が国民を殺傷している。

厚労省が、HPにあげたわかりにくい数値は、「詳しくは自治体にきいとくれ」という、かつての「駅前留学」の宣伝文句のようにして、全体を隠す全体主義をやっている。

かつては、欧米とわが国の価値観もぜんぜん違うものだった。
これを、敗戦によって完全に「標準化」を謀る再構築をされてしまったのが、いまのわが国の姿なのである。

もちろん、善意を装った悪意であって、戦勝国たちは自ら突きつきた、「ポツダム宣言」を、勝手に拡大解釈とねじ曲げをやって、「国際法なんてない」ことことがわかるほどの、古代ローマ張りの「征服者」として振る舞ったのである。

それが、ダグラス・マッカーサーという特異な性格の人物をシーザーと同格に据えた、文民統制の文民側(アメリカ民主党)の意図なのである。

まっ先に180度の転換を強いたのが、わが国の教育制度だったのは、「あたらしい日本人」を生産するためで、いわゆる受験エリートたちは、新「体制派」にならざるを得なかった。
自ら、この体制の申し子だからである。

その矛盾が、「全共闘」になって、いっそうの撹拌をやったのだった。

しかし、誤解されては困るのは、戦後の「体制派」とは、なにも当局の与党だけを指すのではなくて、既存政党や既存組織すべてに籍をおく人たちぜんぶをさすことにあるのだ。

たとえば、もっともアウトローに分類されるはずの、志位和夫日本共産党委員長だって、ちゃんと「東京大学卒」という意味の体制派なのであるし、祖父は志位正人陸軍中将という「体制」そのもののひとだった。

いいたいのは、共産党云々ではなくて、「公党」としてあれば、「体制派」に含まれる、ということである。
ようは、当事者の意志とは関係なく、体制にまるごと呑み込まれるようにできているのである。

すると、人間の頭でかんがえる、「理想社会とはどんな社会なのか?」も、体制からの発想という意味になって、最初から矮小化するものだといえる。

西尾幹二渾身のシリーズ、『GHQ焚書図書開封』(全12巻)は、戦前の、「大日本帝国」における体制の中で書かれたものが、戦後のGHQによる、征服を受けて、体制転換した我が国には向かないとして、「焚書(没収・発禁)」された図書の記録である。

つまり、いまの体制からしたら、間違いなく「反体制」の図書類なのである。
これらになにが書いてあったのか?は、「公平・公正・中立」をいうなら、嫌でも目を通しておかないといけないのである。

卑近な例になるが、いつの間にか、「エロ本」の定義が変わって、「ヘアー解禁」なる変事がふつうになったのは、ただの「時代の流れ」だけが理由なのか?

あるいは、「チャタレイ事件」(昭和26年)では、『チャタレイ夫人の恋人』を翻訳した伊藤整と出版元の社長に、「わいせつ物頒布罪」が問われ、最高裁判所は上告を棄却して、東京高裁の有罪が確定したのだったが、1996年(平成8年)に、「なし崩し」で完訳本が新潮社から出版されている。

最高裁の決定はどうなったのか?
どうして、新潮社にはおとがめがないのか?これも、「時代の流れ」だけが理由なのか?

いまの「AV」と比べたら、わが国初のハードコアだった、武智鉄二監督作『白日夢』は、谷崎文学を映像化した、まったくの「文芸映画」にちがいない。

どうしてこうなったのか?は、GHQが設定した、当初の「体制」が、もともと無理と邪悪だったために、「革新」と「反動」の揺れもどしで、地震でいう「液状化現象」が、社会で起きた結果といまだ進行中の、目視できる姿なのである。

要は、「3S政策」の仕上げに入ったのではなかったか?

別の例をいえば、フィリピン・プレートに乗っている、「伊豆島」が、本州とぶつかって、「伊豆半島」になったけど、いまだに本州を圧していて、それでできた南アルプスが、地球最大の隆起(4mm/年間)をしているのと等しい。

ちなみに、インド島がユーラシア大陸に衝突してできたヒマラヤの隆起は、2mm/年間だから、数億年後には、南アルプスがヒマラヤを超える高さになるのは、確実なのである。

そんなわけで、最初の設定を間違えると、たとえそれが数ミリとか、角度でいえば数秒もなくとも、長い時間のうちに、どんどん離れていくのは、なにも物理現象だけでなく、人間のつくる社会もおなじなのである。

だから、まともな理想論とか、むかしからの道徳をかざすと、GHQが勝手に設定した「原点と方向性」との違いとなって、たいがいが失敗の憂き目を見るのである。

ところが、それならGHQが設定したオリジナルを忠実に実行すれば成功するにちがいない、とはならないのは、わが国の歴史から民族性からなにからなにまで、無視して設定したのがこの「オリジナル」だから、これも成功しようがない。

なんのことはない、わが国は、八方塞がりなのである。

それなら、初めから、を設定し直す必要があるという結論になるのは、子供でもわかる。
でもできないのは、それ自体がもう、「反体制」の話になる必然があるからだ。

だから、八方塞がりなのである。

すると、この八方塞がりを国民の常識にすることからはじめて、ようやく「体制の殻を破る」話ができる状態になるのである。
残念ながら、相当に「痛い目」にあわないと、八方塞がりだとも感じないから、困ったものなのである。

先日書いた、全米自動車労組のストライキに、トランプ氏が労組幹部と会合を持つと発表したら、その会合の直前にバイデン氏が慌ててデトロイトにやってきて、「このストライキへの全面的な支持」を表明するやいなや、ワシントンにとんぼ返りした。

トランプ氏の方は、演説会を用意していて、労組のひとたちが多数参加し、「バイデン批判」に拍手喝采を浴びせていた。

自分の政権がやった四年間の業績を改めて自画自賛すると、聴衆は「そうだった!」と思い出したのである。
この意味で、バイデン政権とは、もしや「消える前のろうそくの輝き」なのかもしれないし、「悪政」による「痛み」を国民が知り、目覚めるチャンスだったのだともいえる。

すると、このバイデン政権にベッタリの自公政権の輝きの意味も見えてきた。

大臣になったら「勉強します」

毎度のことながら、新内閣が発足したり、内閣改造人事があったりすると、新任の大臣が記者会見することになっている。

このところ部数の解約が著しい新聞社は、組織的な命令で、全員に同じ質問をぶつける、という「恒例行事」を、内輪で楽しんでいるようだけど、それが部数解約の歯止めにも何にもならない不思議があって、質問させられる係にされた記者のロボットのような対応が、とにかく印象に残るようになっている。

このひともきっと、「一流大学」を卒業したいわゆるエリートなのだと、自他ともに認めているのだろうから、それが上からの業務命令に従う、サラリーマンの悲哀なのだといえばそのとおりだ。
しかし、こんな「晴れ舞台」で、実家では親や親戚が、記者の方に注目して観ているかと想うと、なんだか胸が痛むのである。

そんな異様な雰囲気の会見場で、「初入閣」という議員ほど、あたかも「謙虚さ」をアッピールしたいのか?どういうわけだか、「これから勉強します」というひとが絶えない。

似たようなことでは、新人が当選して、いきなり自治体の首長にでもなると、「行政手腕が問われる」とかなんとか、マスコミの上から目線が炸裂するものだ。

大臣は下から目線で、自治体だとマスコミが上から目線で書き立てるこうした、両極端なコントラストが、国民の脳に刷り込まれて、もう誰も反応しなくなった。

それならば、民間企業で新任課長が、「これから勉強します」と部下にいったらどうなるのか?
別段、これが課長ではなくて、部長でも社長でもおなじだ。

組織に、どうして、「管理職」が必要なのか?を問えば、「管理職とは何者か?」という問題を先に解かなければならない。

日本企業は、ふつう、新卒で採用されて、右も左もわからない新人たちが一斉にスタートラインを切って、あたかも「出世競争」がはじまると思い込んでいる。
目指すは、会社幹部で、できれば役員(取締役)への昇格=出世なのであろう。

大企業ほど、学歴社会だという思い込みもあるが、大学卒でなければはなから出世競争に参加もできない、とかんがえるのは浅はかの極みである。
実力が認められれば、高卒だろうが中卒だろうが、あるいは大学院卒だってかまわない。

ちなみに、国家公務員やらだと、これが逆転して、「高卒(大学中退)」で、つまり、大学在学中に「国家総合職」に受かって入省したら、先輩を数年抜いての上司になる。
院までいって、総合職に受かりました、では、学部の後輩にも年次で抜かれたことになるのである。

民間でむしろ、学歴だけで人材活用の判断をする企業体なら、将来不安となるのは今どきの企業間競争時代ならではなのである。
だから、『四季報』でも眺めてみて、取締役に高卒の文字を見つけると、本人の力量と会社の力量の両方をあれこれかんがえさせられるものだ。

しかして、そのような場合のおおくは、「専門職」としての評価なのであろう。

もう20年以上前になるけれど、香港の高級ホテルの人事制度を調べに行ったことがある。
とある企業では、サービス専門職のトップや料理人のトップは、「取締役待遇」としての処遇だった。
実際の取締役ではないから、法的責任はないけれど、「同格」としての報酬が用意されていた。

専門職をまっとうするための知恵だとの説明に、感動すら覚えたものだ。

不得意な財務やら法律論の知識は、専門職の最高峰を維持するには不要だからである。
むしろ、そんなことではなくて、後進の育成こそが企業体存続のための重要職務として指定されていたのである。

昭和の敗戦まで、家族主義がふつうにとられていた日本企業は、「企業一家」であった。
そこにいわゆる「ヤクザ=任侠映画」の素地がある。
まさに、「義理と人情」が、美しい道徳であった。

これが、無機的なアメリカ・スタイルになったのは、いまの日本経済の光と影の、影ばかりの原因だろう。
「アメリカかぶれ」の悪弊がみてとれる。

しかし、アメリカ・スタイルにだって少しはいいところもある。

それが、組織運営におけるセオリーの「MTP」だ。
これは、体系的でなおかつ、心理学の応用がふんだんになされている。

管理職とは、MTPを基準としたら、あんがいと職人技=専門職的なのである。
つまり、組織管理の専門職という意味でだ。

日本企業の場合、社内事情に通じた入社年次からの頃合いをみて、管理職にさせるので、管理職になってから管理職の教育をする企業もある。

これを、入社時から徹底させる企業と比べたら、競争にならないのは誰にでもわかるけど、やらない企業が多数あって、「わが社の人材はイマイチ」とかと嘆く幹部がいるのは、もうそれ自体が、「患部」である。

選挙に当選することだけが仕事になった、国会議員という世襲体制で、大臣になってから勉強しますが通るのは、世襲だからだし、これで問題ないのは、「党の専門部会」が、大臣に命令するからだ。
しかし、これを批判する立場の、「記者」が、管理職とは何かを知らないで社内昇格して管理職をやっている。

国民は、こんな阿呆に付き合えないと、そっぽを向くばかりだ。
新聞やテレビは観ないに越したことはないものの、国会議員はそうはいかない。

とにかく選挙にいかない国民が多数いることで、世襲ができてシャッポに据えともなんとかなるのである。

「国会議員世襲禁止法」とかを立案できるひとがいなくとも、まずは世襲議員以外に投票することからはじめないと、なにもはじまらないゆえんだ。

裁判所が「立法」する法治国家だってさ

27日、水俣病被害者救済法(特措法)に基づく救済を受けられなかった128人が、国や熊本県、原因企業チッソに損害賠償を求めた訴訟の判決が大阪地裁であった。

この裁判の勝ち負けではなくて、ちょっと引っかかるのが釈然としないので書いておく。

なんだか、裁判長はどんなひとかを書きたてるなど、過去にはあまりみなかった記事があるようだけど、それはそれで結構なことである。

裁判結果で特集しないで、着任・任官したら書いて欲しいとはおもう。

ただ、宗主国アメリカで起きている、「司法の武器化」とは事情がことなる。
アメリカの場合、検察官と裁判官の任官制度に、「選挙」がある。

それで、たとえば、「ソロス・チルドレン」なる、多額の選挙資金をもらったその筋の活動家が、地方検事になったり、州地裁の裁判官になったりして、特定思想のもとに偏向した起訴と判決をだすので「武器化」といわれている。

さらに、民主党・バイデン政権の司法長官も、バリバリの活動家だから、国家の連邦検察官までもが、「武器化」に加担している。
もちろん、こうした法をもっての武力を行使する先は、もっぱら共和党トランプ派である。

だから、裁判でも有利なのは、反トランプをかかげるひとたちになって、見えないアメリカの分断を推進しているのである。

「同盟国」と呼ぶけど、実質植民地のわが国の場合は、フランスがいまでもアフリカでやっているほどのあからさまともちがう、巧妙な仕掛けでもって支配されている。

それは、「独立ごっこ」で、あたかも日本が独立国として、自分で決めている、という風情を醸し出すように、国家機構が設計されているのであった。

その大本に、「日本国憲法」がある。

わたしのように、昭和30年代の生まれには、小学校の高学年で、文部省『あたらしい憲法のはなし』なる、副読本が配布されて、旧憲法をしらない小学生に「上書き」しようとした洗脳があった。
いまは、青空文庫化されて、電子ブックで無料で読める。

なので、日本国民の総意ではないけれど、いちおう日本人の、伊藤博文が、横浜市金沢区野島に建てた、「旧伊藤博文金沢別邸」で大日本帝国憲法を起草したことになっているので、アメリカ人達が数人でよってたかって書いた「日本国憲法」よりは、日本の憲法だったといえる。

もちろん、伊藤やら山県有朋やらの「元勲」たちが、一等地のすきな場所に多数の「別邸」(といえども邸宅)を建てることができたのは、「特別会計」からの実質国家資金の横領だった。
このひとたちは、いまの官僚に通じる、国家のものは自分のものという感覚の「元勲」なのである。

なお、旧伊藤博文金沢別邸の悪名高き制度でしられる、「指定管理者」は、公益財団法人横浜市緑の協会という邪悪な市職員の天下り組織で、伊藤邸の説明から、「大日本帝国憲法起草の地」の説明をしていない「わざと」がある。

なんだか、この「緑の協会」と、東京の「緑のおばさん」がダブって見えるのは、気のせいか?
まぁ、なんだかしらないが、電車の二等車を「グリーン車」というのも、あやしいけれど。

そんなわけで、大日本帝国憲法を国民になかったことにしたい、という意図がチラチラするけど、これはこれで、「歴史を忘れさせる」ための、立派な全体主義的洗脳行為である。

けれども、自公政権は、とっくに宗主国アメリカ民主党の全体主義を推進しているので、とにかく民主党・トルーマン政権がGHQに命じてできた、日本国憲法を絶対的な、「不磨の大典」としないといけないのである。

このためだけに、日本社会党という便利な存在があった。

そして、そのための司法部門の行政機構が、最高裁判所事務総局だ。

わが国のすべての裁判官の、「人事」を司る「局」だけど、責任者は「事務官」と、「最高裁判所事務総局規則(昭和22年12月1日最高裁判所規則第10号)」で決められている。

最高裁の判事や判事を代表する、長官が人事をやっているのではないし、この規則を決めたのが、占領中の昭和22年だということに気づけば、わが国の意向で決めた規則ではないこともわかるのである。

けれども、これを続けているのは、ずっと植民地だからである。

そうやってみたら、本稿冒頭の判決は、とうとう裁判所が「立法」までしてしまっての「救済」なのである。

残念ながら、敗訴した国やら県とは、「行政機構」のことである。

しかしながら、こうした判決がでても、およそ「自分事」としてかんがえもしない、「立法府:国会」の機能停止が、三権分立を「わざと」破壊している。

つまるところ、水俣病の認定にかかわるエリア指定を、国会が「法改正」をもって拡大させれば、こんな裁判すら必要ない。

つまり、原告には踏んだり蹴ったりの話(裁判費用と時間のムダ)で、国民として他人事ではないのは、生活のあらゆる面で、起こりうる「被害」に対しての無責任が、選挙を通じて選んだはずの議員たちによって白昼正々堂々とおこなわれているからである。

なので、『あたらしい憲法のはなし』を読まされて感じた、子供ながらの違和感が、こんな形で出てきたことに、いまさらながら釈然としないのである。

そのときの、先生のドヤ顔が、「君たちこれはウソだよ」といっていたのかもしれない。

ポーランドの領土拡大願望

歴史上、三度も亡国したポーランドは、甘いショパンの音楽とあいまって、大国の割には弱っちいイメージがあるけれど、その実は、やっぱり、ヨーロッパ人らしくあんがいと凶暴な素顔がある。

そうでないと、群雄割拠するヨーロッパでは、大国として生存できないからである。

池田理代子の、『天の涯まで』は、全3巻と短いが、そんなポーランドの気概がきっちり表現された、名作だとおもう。

  

とにかく、「列強」という国々によって、つまり、プロイセン(ドイツ)、オーストリア=ハンガリー二重帝国(神聖ローマ帝国)、それとロシア(ソ連)にやられまくったので、ポーランド人は、心情的にこれらの国々が大嫌いなのである。

とくに、ドイツとロシアが嫌いだ。

おなじソ連衛星国の境遇で、「ハンガリー動乱(1956年)」のときも、ポーランド人がどこか他人事だったのは、神聖ローマ帝国以来の恨みがあるからだった。

このあたりは、「観念的」で、はまり込む、日本人インテリともちがう。

江戸期には、「漢籍かぶれ」から、大陸に完全敬服する学者が多数いたのも、「ソ連かぶれ」で、どんなに悲惨が伝わってきても動じない、向坂逸郎のようなひとが崇められるのも日本なのである。

当然、戦後の多数を形成する常識人達は、「アメリカ(民主党)かぶれ」しているのであるけれど、自覚がない、という歴史的共通が、あぁ本性が変わらぬ人間なのだ、とも思わせるのである。

人類史を構築してきた、パワー・ポリティクスによれば、「力の空白地帯(「真空地帯」ともいう)」には、かならずやなんらかの「(国家的)パワー」が入り込むものだ。
あるいは、周辺よりも弱いエリアをみつけたら、そこにも水が流れ込むように浸入する。

これが、「自然」のエネルギーの流れと似た、人間のパワーバランスの作り方なのである。

さらに、数千年前からとかの古くからひとが棲みついたような場所なら、血筋も含めての興味が涌くのは、収穫物よりも強い衝動をもたらす。

おそらく、ドイツから続いて原生林が広がっていたポーランドも、ワーグナーの大作、『ニーベルングの指環』の、3日目、『ジークフリート』にあるような森の中の暮らしがあったはずだ。

これが、ポーランドとバルト三国(とくにリトアニア)が見つめる「西ウクライナ」への視線なのである。
なぜなら、16世紀から17世紀のヨーロッパで最も大きく、最も人口の多い国のひとつであったのが、「ポーランド・リトアニア共和国」だったからである。

正式には、「ポーランド王国およびリトアニア大公国」、という。

この両国の結びつきは、1573年の「ワルシャワ連盟協約」を根拠とする。
それで、いま、ポーランドとリトアニアは、この「ワルシャワ連盟」の21世紀版を構築しようとしているのである。

もちろん、この域内に、「西ウクライナ」も含まれるのである。
仮想の、「ワルシャワ連盟共和国」だ。

ただし、この両国を分断して、ロシアの飛び地、カリーニングラードがバルト海に面してある。

ポーランドは、第一次大戦が終わって、独立を回復するやいなや、「西ウクライナ」に進軍して、この地域をポーランド領とした。
それが、第二次大戦で、ドイツとソ連によって分割されて、三度目の亡国をすると、西ウクライナは、ドイツ領になって終戦を迎えている。

スターリンは、東ドイツまでの版図を得たので、ポーランドに西ウクライナを付けて、社会主義ポーランドとはせずに、西ウクライナと縁が薄いロシア語圏の東ウクライナを合併させて、これを、「ウクライナ」とした。

それで、国としたのではなくて、「ロシア共和国」に取り込んで「(共産党)直轄」としたのである。

スターリンという、いまなら脳に障がいがあったのではと疑いたく特異な人間は、まさに悪魔さながらの発想で、「分断をもって統治・支配する」という方法が大好きだった。

時間はさかのぼって、ポーランドが西ウクライナを獲った後、いまのウクライナのその他の地域では、おそらく共産党が仕掛けた、「ホロドモール(大飢饉)」(1932~34年)が起きて、阿鼻叫喚の地獄と化す。

穀倉地帯のはずの、ウクライナでの悲惨だ。

これが、反ソ・反共の恨みにならない方がおかしいけれど、そこに、ポーランドを奪ったドイツが支配した西ウクライナから、ナチス親衛隊がやって来るのである。
そうして、ソ連からウクライナ独立をいう軍隊と、反ソ・反共のナチスが組んでしまったのだった。

もちろん、敗退前の元気さで進軍してくるときに、親衛隊がこの地域のユダヤ人らになにをやったのか?は、当地の一般人を弾圧したどころの話ではない。
なにしろ西ウクライナは、ポーランド領だったのである。

ヒトラーのモスクワ攻めは、ナポレオンが原生林を切り開いてつくった、「ナポレオン街道(いまは一般国道)」のルートと、西ウクライナから北上するルートの二つで、後者のルートで活躍したといわれているのが、ウクライナの「コサック兵」だった。

なぜにコサック兵が、赤軍とともにドイツ軍と戦ったのか?に関しても、暗い話があるにちがいない。

一応念のため、スターリンは、ドイツのモスクワ攻めを「大祖国戦争」と呼んでいたのは、なかなかのプロパガンダであった。

そんなわけで、ポーランドが急速にゼレンスキー政権と険悪になってきた背景に、西ウクライナの最併合があるのだという話になっている。
しかし、こんな手のひら返しは、かえって不審を招く。

なにか、一般人には目に見えない、変なことが画策されているのかもしれない。

それが、ポーランドとリトアニアによる、カリーニングラード奪還戦だとしたら、これに、イスラエルがタイミングを計ってイランを爆撃したら?まさかの第三次世界大戦になる。

そんなばかな?

大成功しているバイデン政権の中東外交

世界秩序を破壊する。
これがアメリカ民主党・バイデン政権(「オバマ3期目」ともいう)の政策目標だ。

ならば、「目的はなにか?」を問い詰めたら、世界経済フォーラムがいう、全体主義による独裁と一般人類の奴隷化である。

もちろん、アメリカ人もずっと欺されつづけて、レーガン大統領への敬愛は近代ナンバーワンの状態だけど、その後の政権全部をみたら、トランプ氏の4年間以外は、「世界秩序の破壊」という一貫性が途絶えたことはない。

何度もそもそも論をいえば、アメリカ民主党は、スターリンとの政争に敗れた、トロツキーがアメリカに亡命してから、見事に乗っ取りに成功したので、戦争をしてでも「(アメリカ型)民主主義」を輸出したいという表面の下には、「革命の輸出」という本音が隠されている。

スターリンがやったロシア国民やその衛星国に対する、非人間的な仕打ちが、ヒトラーと並んで悪の権化になっているけど、しょせん「全体主義者」のなかでの政争だから、トロツキーの危なさも推して知るべしなのである。

このところ、ウクライナのハシゴを外す指示が、どこからか出ているようで、徹底的な支援を支持してきた大手マスコミが、得意の手のひら返しを開始している。

この「さぞなかったようにする」のも、伝統的なプロパガンダの練られた手法をもってすれば、なんとかなるとかんがえているようだけど、世の中はデジタル・タトゥーの時代になって、だれでも簡単に検証ができるようになったのである。

そんなわけで、ゼレンスキー氏の与党が、ナチスである、というこれまでのタブーを、西側メディアがとうとう「解禁」した。

これまでは、ユダヤ人であるゼレンスキー氏が、ユダヤ人を絶滅させようとしたナチスのはずがない、という弁護論が主流であったけど、彼を大統領の地位に引き立てた、ウクライナの大富豪、コロモイスキー氏も、ユダヤ人なのに正真正銘のナチスで、ゼレンスキー氏との内紛によって、ウクライナ国籍が剥奪され、なんと二重国籍で残った一方の、いまはイスラエル国籍のひとになっているのである。

イスラエルは、このナチスの人物をどうするのか?

ゼレンスキー氏もそうだが、自分の立場に都合があえば、ナチスにも反ナチスにも加担する、元俳優ゆえの演技力があるだけの、単なる「風見鶏政治家」なのである。

そのイスラエルは、宿敵イランの核開発(ウラン濃縮)が、いよいよ佳境にあるために、イランの核開発施設の空爆を狙っているはずで、それがまた、ウクライナ後の中東戦争を予想させている。

これが、石油価格の高騰をよぶのは当然だけど、ペルシャ湾が航行不能ともなれば、石油が来ない、という世界の死活問題となるし、わが国の破滅になりかねない。

あとは、ロシア産原油に頼るのか?

これも前に書いた、アメリカ軍の二方面展開が、オバマ時代に完全不可能になるほどの、兵員削減で、わが国周辺の危機となるからである。

現実に、沖縄の米軍(海兵隊)は、とっくにグアム島に退去していて、最新鋭戦闘機も、アラスカに引いてしまった。
辺野古への移転工事で、なにが移転するのか?という問題になっている。

この点で、売国とされる沖縄県知事は、その発信の方向をまちがえている。
米軍のこのあからさまな、撤退で困るのは、「保守」と呼ばれる情弱ばかりになっていないか?といいたいが、日本国民全員が、国家安全保障における危機に晒されていても気づかない情弱にされた。

こうした事態を、「バイデン政権の中東外交大失敗」とかというひとがいるけれど、目的合理性からしたら、大成功しているのである。

なにしろ、世界全体主義の達成で、全ての国を「国連」やらの国際機構が支配するという、これぞ世界史の終わり、なのだからである。

日系三世のフランシス・フクヤマの呆れるほどの歴史的な駄作、『歴史の終わり』とは意味がちがう、リアルな「終わり=永遠の全体主義支配」なのである。
なお、このひとは、博士課程の指導教授、サミュエル・ハンチントンからなにを学んだのか?もわからない、支離滅裂ぶりを晒して、師匠の名をも汚したのだった。

情弱な日本人ビジネス保守たちは、日系人だから、という理由だけで、内容を読まずに礼賛する癖がある。

 

 

そんなわけで、ウクライナへの追加支援に、なんと腹黒い欧・米(EUとアメリカ)から「連帯保証」を求められて、あろうことか、岸田首相は、これにわが国一国だけでサインして、その気前のよさに拍手喝采を浴びて嬉しそうにしているから、ほとんど知能を疑うレベルである。

どこまでも、アメリカ民主党の奴隷でいたい。
これが、わが国の、グランドストラテジー(国是)なのである。

2000年の歴史ある日本が、その独立を失ったのは、1945年のことだと、やっと80年あまりが経過して、一般人にもみえてきた。

アメリカのわざと破壊している中東外交をみれば、こんどは、「お前らは奴隷だ」というご主人様の怒声でもって、なんだ奴隷だったのか?と他人事にしかおもえない日本人が、本物の奴隷としての売買の対象になるはずなのである。

バイデン一家の犯罪が、アメリカ連邦下院で次々に暴かれているうちに、「人身売買ビジネス」だってあることをおもえば、これもまた、日本人にとっての悲惨なリアルなのである。

元ナチス親衛隊員への拍手喝采

世の中がここまで狂うのか?と目を疑う出来事が、カナダで起きた。

詳細は、『ニキータ伝』さんが教えてくれている。
以下、これを参考に書いておく。

国連総会やら、ワシントンD.C.を訪問していた、ゼレンスキー大統領は、21日深夜、カナダに到着した。
アメリカでの日程も不可思議なのは、バイデン氏との会談をするためにワシントンD.C.を訪問したことになっているが、バイデン氏もニューヨークの国連本部にいたのである。

どちらにせよ、人気に陰りがみえてきている両政権なので、なんだかなぁ感があるけれど、バイデン氏には「弾劾調査」が、ゼレンスキー氏には、「援助疲れ」があるし、この両人にはそれぞれに「カネに汚い」という、習性がみてとれる共通がある。

日本円にしたら、兆円単位の援助金(現金)と、それにならう軍事物資(物品)のどちらもが、本当に、ウクライナ国家がちゃんと受けとっているのか?という、日本人からしたら当たり前のことが、いまや「誰にもわからない」状態になっている。

領収証も、物品受け取り検品証もないのである。

途上国でよくある、「着服」とか「横流し」が、おおいに疑われる。
物騒なのは、「兵器」がどこに横流しされているのか?ということで、ひそかに世界を不安定にさせているのである。

もしや、贈る側も「わざと」ではないかと疑うのは、アフガニスタンに米軍が放置した、時価で数兆円を超える武器・弾薬の行方と同様だからである。

数週間前には、ゼレンスキー氏の義母名義で、エジプトの紅海にある高級リゾート邸宅が購入されたことが、ニュースになった。

30年以上のむかし、森繁久彌さんたちが旗振りした、「ソマリアへ毛布を送ろう」という運動があって、船がエジプトの港に着いたら、一枚の毛布もなかったことが事件になったことがある。

「船荷証券」だけがあったのだった。

そんなわけで、「戦後」になったら、これら援助金と援助物資の「ゆくえ」について、国際調査があるかもしれないけれど、「なくなったものは発見できない」ということになって、お茶を濁すか、失脚した?ゼレンスキー氏のせいにするのかはしらない。

さてそれで、カナダは、邪悪の権化、世界経済フォーラムの主宰者クラウス・シュワブ氏の選んだ、「世界若手指導者」のひとりが、ピエール・トルドー元首相の息子、現職のジャスティン・トルドー首相なのである。

ちなみに、この「世界若手指導者」に日本人で、栄えある指名を受けているのが、河野太郎氏だ。
平塚市と茅ヶ崎市の有権者のほとんどが、この全体主義者の恐ろしさをしらないのだろう。

もちろん、カナダの全体主義は、トルドー政権によってどんどん進展し、いまやアメリカ民主党・バイデン政権の「憧れ」にもなっている。

しかして、そのカナダの歴史も、移民の歴史である。

ウクライナ移民の歴史は、はじめ、まだオーストリー=ハンガリー二重帝国時代からの移民(主に西ウクライナから)で、第二波は第一次大戦(帝国の崩壊)後、第三波が第二次大戦後のソ連支配を避けた移民たちだ。

カナダを構成する民族では第5位。
世界では、ウクライナ、ロシア、の次にカナダとなるウクライナ人の規模で、ウクライナ本国への郷愁は、いまや3世、4世の心のなかの話になっている。

今回の戦争が、第四波となって、18万5千人以上のウクライナ避難民を受け入れている。
とにかく親ウクライナ、反ロシアを貫いているのがカナダ・トルドー政権なのである。
これに、世界経済フォーラムの匂いがプンプンするのは、わたしだけか?

トルドー氏が、ウクライナ支援に大盤振る舞いするものだから、なんと、カナダの国家公務員たち約10万人が大規模デモを実施するという、「事件」がおきた。
外国支援のカネがあったら、高インフレのいま、まず給料を増やせ!というわけである。

そんなお国の事情があることをふまえて、このトルドー政権がゼレンスキー氏歓迎としてやったのが、カナダ連邦議会での演説、というお膳立てだった。

ところが、ここに、御年98才のご老体が招待された。
なんと、この人物は、元第14ナチス親衛隊義勇師団「ガリシア」の生存者で、第三波カナダ移民のひとりだった。

ソ連からの逃亡者は、自由主義のひとたちだけなく、同じ穴のムジナゆえに憎悪の対象になった全体主義者も隠れていた。

この師団がなにをやったのか?については、上の『ニキータ伝』さんが伝えているが、ここでは、「筆舌に尽くしがたい」ので、割愛する。

第二次大戦では、当時ドイツ領で、ナチス本部がベルリンから疎開していた西ウクライナを指すとおもわれるが、なぜか省略されて、「ウクライナ独立を求めてソ連と戦った退役軍人」と紹介されると、トルドー氏からゼレンスキー氏、カナダ国会議員たちが一斉にスタンディング・オーベーションでの万雷の拍手となったのである。

そして、カナダ連邦下院議長のアンソニー・ロタ氏は、「ウクライナ系カナダ人の英雄」として、「その功績に感謝」の意を表した。
ちなみに、カナダの上院は貴族院で選挙はない。

この模様が世界に報じられて、「ナチス礼賛だ!」と大騒ぎになっている。

ご老体本人は、まさか生きているうちに、こんな名誉がやってくるのか?とどこまで思ったかはしらないが、満足げな笑顔で応じていたのである。

「カシュマール!」ロシア語で、「悪夢」という意味だというが、このカナダの暴挙に、当然ながら世界のユダヤ人が反発しているが、総選挙間近の隣国、ポーランド政権は、カナダとウクライナに大反発して「謝罪」を要求している。

この波は、今後日増しに高まるだろう。

それでもって、ロタ議長は、「誰が招待されたのか全く分からなかった」と発言し、ヘンテコな謝罪をしたのだった。
なお、ロタ氏は、「全部が自分の責任」として、議長をサッサと辞任したけれど、トルドー首相はどこかへ雲隠れしている。

しかして、世界はなにが正しいのかを喪失したというよりも、全体主義の狂気に晒されているのである。

それはまた、どこまでが事実で、どこまでが作家の創作か区別がつかないと訳者がいう、『オデッサ・ファイル』の事実が明らかになったともいえる。

都合がいいニュースが観たい

人間は感情の動物なので、自分に都合がよかったり、気分がよくなる情報に触れたくなるのも、人情、なのである。

逆に、自分に都合がわるかったり、気分が落ち込む情報は避けたいから、知らないふりをするものだ。

このところ、ゆえあって、横浜市立中央図書館通いをしている。
横浜市には、すべての行政区にも市立図書館があるが、中央図書館の個別勉強机の充実が、なんといっても魅力なのである。

また、図書の貸し出しは、ネット予約ができて、市内主要駅にある、「行政サービス・センター」での受け渡しも行われているから、地元行政区の図書館窓口に行かなくてもいい。
返却も同様に、どの区の図書館でももちろん、市内にある行政サービス・センターならどこでもいいから、すこぶる便利なのである。

わたしが、横浜市に住んでいる理由で最大のポイントが、この図書館サービスの充実なのである。

毎日いると、わかるのは、新聞閲覧コーナーにいるひとたちが熱心に読んでいる姿が、プロ野球やらの結果次第であるとわかるからである。
ご贔屓が、「勝った記事」を何紙も読んで気持ちよくなりたいのである。

日本を代表した建築家、村野藤吾設計の文化財、旧横浜市役所(1959(昭和34)年9月に竣工)が、星野リゾートさんの手によって、「旅館」にならんと改修工事が行われている。

それでもって、高層建築の新庁舎を馬車道側に建てたけど、コンセプトが、タコ足状態で関内地区の民間ビルを借りていた、部局をぜんぶ収用して、家賃を節約しようという、阿呆の発想が貫かれたのだった。

阿呆というのは、公共部門そのものである、自治体は、国の機関とおなじで、「完全消費者」だからである。
それなら、市役所なんてムダに建築せずに、民間から永遠に賃借した方が、市の公金を地元に活かした使い方になるのである。

大家が地元民というだけでなく、働く職員が、毎日終業後に一般国民に戻ったらいくはずの、飲食店だって、わずか数㎞先とはいえ、無慈悲にも客を失うはめにあうのだ。

もちろん、昭和34の新築時にあったはずの、「面積要件」が、数倍どころではないことになったのは、「行政の肥大化」という法則による。
つまり、昭和34年当時に想定していなかった「業務」が、どんどん増えただけで、「本庁」だから、「行政区の区役所」とちがって、直接に人口増加は関係ない。

むしろ、人口増加で増えた税収をいいことに、いらなくても「必要」という例の論理で、業務やら事業を増やすことが役人の仕事になったのである。
これから減る人口に対して、どうするのか?という時代になっているのに、どうするのか?をかんがえる者がいなくて、SDGs対応とか老人施設を増やすムダをかんがえている。

利権に目がくらんだ市議会議員たちは、こんなこともわからないふりをするのである。

霞ヶ関から永田町にかけてある、国家中枢の建物群は、ぜんぶが「火災保険」に加入していない。
天変地異があろうが、空襲があろうが、必要だから新築するのは、その原資が税金だからである。
ゆえに、火災保険料がムダになる、と発想している。

この官尊民卑の勘違いは、どんな事情からこの国で消滅するのか?
いまは想像もできないけれど、なにが起きるかはわからない。

「異変」という形で伝わってきたのは、アメリカにおける各種世論調査で、トランプ氏の支持がバイデン氏を凌いでいる、という、トランプ派には気持ちいい話となっていて、そうではない側は、この調査をやって発表したマスコミが、「外れ値かも」と自分たちの調査を否定しているおかしさに現れている。

「空気を読む」のは、あたかも日本人だけの得意技かと思っていたら、いま開催中の「国連総会」では、各国代表団が見事に態度に表して、わが岸田首相の演説はまばらで、さぞやゼレンスキー大統領の人気は凄まじいのだろうとみたら、岸田氏と似たり寄ったりの閑散だった。

それをまた、ウクライナの国営テレビが、満員の総会だと映像加工して放送したら、なんとゼレンスキー氏の姿が会議場にあった!のである。
自分が登壇して演説しているはずが、それを本人が議場席で聴いているの図になった。

これは、ウクライナで「政変」が起きているのでは?と連想させる。
「偶然」ではなくて、「わざと」だと思われるからである。

また、英国諜報部を語る人物は、ゼレンスキー氏が国連から帰国した折、大統領辞任を発表する可能性に言及している。
もはや、ロシアとの和平の時期だということに、アメリカ側も、EU側も合意して、ゼレンスキー氏のハシゴをはずしたといっている。

これまた、どういうわけかといえば、西側各国の「ロシア制裁」というウソが、これから冬にかけてバレるおそれがあるからだ。

アメリカも含めて、ロシアに感謝しているはずなのは、ロシア産のガスも石油も、供給が止まっていないからで、当初あった「SWIFT」(西側の銀行決済ステム)からのロシア排除とは、ロシアのぜんぶの銀行が排除されものではなかった「ウソ」だったことでわかる。

さらに、ストに突入した、全米自動車労組は、旧執行部経験者が仲介して、現役執行部と同席での共同会見をやると決めた。
なんの会見を仲介したかといえば、「トランプ氏との会談」なのである。

もしやこの会談は、アメリカの労働組合にとって、歴史的となるやもしれない。

なにせ、アメリカの労働組合は、伝統的に民主党(日本なら社会党)支持と決まっていたのに、まさかの共和党トランプ派と手を結ぶ可能性が出てきたからである。

じっさいに、旧執行部経験者は、バイデン民主党に失望したと発言していて、現役執行部もこれに同調しているのである。

さては、これも「都合のいいニュース」かもしれないから、今後の動きを注視したいものである。

古典「ホーソン実験」をしらない罪

「ホーソン実験」について、少し触れたので、改めて書いてみようとおもう。

もう100年前の1924年から32年にかけて、アメリカのウエスタンエレクトリック社の「ホーソン工場」で、行われた、「生産性向上」に関する実験のことをいう。
1929年の「大恐慌」発生時期をまたいでいることに注目したい。

なお、念のため、「生産性」とは、「産出(output)÷ 投入(input)」の式で表せるもので、何となく文学的なものではない。
また、一口に、「生産性」といったら、ふつうそれは、「付加価値生産性」あるいは、「労働生産性」の略語である。

一般に、「経済活動」とは、付加価値を増やすことができなくては成立しない。
付加価値には、利益も、人件費も含まれるからだ。
それで、「付加価値÷労働者数」が労働生産性になって、「付加価値÷総労働時間」を、人時生産性というのである。

だから、自社の付加価値を増やすことの意味がわかっている経営者は、人件費を減らして利益を増やしたようにみせても、付加価値「自体」はなにも変わらないことをしっている。

むしろ、従業員の生活を含めて、いかに人件費を増額できるか?をかんがえるものだ。

それがまた、少子化時代の企業経営にとって、採用確保や中途退社防止に有利となるひとつの条件だと心得ていることの証となって、学生や従業員から選ばれる企業になる、という意味に直結する。

人件費をとにかく減らしたいとかんがえる企業経営のもとに、自らすすんで就業したいとかんがえる者がいかほどいるかを思えば、話は簡単なのである。

ところが、こんな簡単な話に、偏差値エリートの経営者達が気がつかない。

どこか、あるいは、権威あるひとが書いた本でも読んで、それを丸暗記しただけにちがいない。
または、学生時代に成績でかなわなかった同輩が、高級官僚にでもなっていて、同窓会かなんかのおりに、人件費が高いとぼやいたら「下げる努力がたりない」とでもいわれたのを鵜呑みにしたのか?

役人という生き物には、はなから「付加価値生産性」という概念がない。

だから、民間の指定管理者に公共施設の管理をまかせても、役人側に「コストパフォーマンス」の概念がないので、なにがなんだかわからなくなるのだと書いた。

その結果、指定管理者がくる前の業務をやっていた役人が、クビにはできないから配置転換するだけで、役所内の「人余り」をつくり、民間の「人手不足」になるのであった。

ホーソン実験をやった歴史背景に、当時のアメリカは慢性的な「人手不足」であったことがある。

それに、民主主義が広がって、ひとびとの「権利意識」も拡大し、さまざまな「権利の法制化」があったし、もうこの時期から、「資本と経営の分離」が盛んで、株主と労働者の保護が求められていたのである。

この実験で、「経済人」という概念が否定されて、「人間は感情ある動物だ」という当たり前が確認され、それが「新しい労務管理の手法」となったのである。

逆に、まだ100年前のわが国は、農村からの労働力供給に余裕があったので、慢性的「人余り」であったから、労務管理については、「温情主義」を前提とした、「封建的家長が仕切る家族主義」が企業には根深かった。

欧米の価値観をそのまま鵜呑みにすれば、「新しい労務管理の手法」へと移行したアメリカの「先進性」にため息がでるけれど、「温情主義」を真っ向否定できるのか?という問題がある。

それよりも、かんがえるべきは、この上に乗っていた、「封建的家長が仕切る家族主義」が、それなりに厄介であることだ。
家長たる経営者が優秀だと、とくだん問題ないが、そのひとの後継者が凡庸だと問題になるのは、「絶対王政」や「独裁(たいていが「一代限り)」のように不安定だということである。

あたかも、『銭の花』における、大阪商人の権化、「糸商の旦さん」のごとく。
そして、作家は、「大阪商人の唯一の武器である信用という暖簾への尊重が、死してもなお、残っている」と書いた。

「死してもなお」を残すために、加代は、後継者たる義娘、志津江に子供時分から女将教育し、中高生となったら社会常識へと切り替えて幅をもたせ、とうとう、ハワイのリゾートホテルへ研修に出すのである。

ちなみに、作家は、リゾートの温泉旅館・観光ホテルと、街中の旅館・ビジネスホテルをちゃんと「需要:利用目的」で区別した記述をして、しっかり読者を教育している。

これが、大阪商人をよくしる作家が表現した、個人経営としての理想といえるのである。
とはいえ、「暖簾」に象徴されるのは、「ブランド」であると解すれば、規模の大小を問わない。

しかして、ホーソン実験は?となれば、そんなものは、わが国の伝統社会では当たり前のことだった。
人間を使うことが競争だった、戦国大名で、天下取りを争うような人物たちは、経験値から人間の本性とは感情なのだということをしっていたし、そうでなければ「下剋上」されてしまうのである。

しかも、戦が絶えない時代に、次の戦で命を落とす可能性は、戦国武士にとっては常識の日常だった。

ゆえに、あのひとのためなら死んでもいい、という感情の高ぶりなくして、戦国大名はやってられない。
もしも、ホーソン実験をしらない日本人経営者がいたら、それは、歴史をしらない人物という評価になるのである。

組織のトップたる経営者が歴史をしらない人物だというなら、それは「罪」である。
いま、日本企業の悲惨は、株主(過半が外国資本)も歴史をしらない人物たちになっているからだ。

残念ながら、一般人の個人株主ではなくて、機関投資家やらの大株主のことである。
多数を占める株式による企業の意思決定に関与して、なにを経営者にさせたいのか?

将来価値の増大ではなくて、支配を楽しむのは、根深く深刻な「罪」なのである。

花登筺の『銭の花』をつまみ読み

原作は、花登 筺(はなと こばこ)『銭の花』(静岡新聞夕刊に連載)だったけど、主たるテレビ視聴者が関東だったために、番組名は、『細うで繁盛記』になった。

ドラマは、製作:よみうりテレビ、放送:日本テレビ系列、第一期:1970年1月8日から翌71年4月1日まで、第二期:1972年1月6日~翌73年3月29日である。

関東では、「銭(ぜに)」といういい方が馴染まない、という判断があったからのタイトル変更だという。

群馬の山奥出身の祖父は、「おカネ」とはいわずに、「おあし」といっていた。
なんで「おカネ」のことを「おあし」っていうの?と聞いたら、「足がついたようになくなるからだ」と返事があって、へぇと納得したのを覚えている。

当時、10円玉を一枚もらえば、好きなものがなんでも買えたのだったけど、手に握りしめて駄菓子屋へ行くので、小銭入れさえもつ必要がなく、そのまま駄菓子屋のお婆さんに渡してすぐになくなってしまうものだった。

自分の足が、「おあし」そのものだったのである。

関西弁は、テレビの演芸番組でしか耳にしなかった。
小6のとき、別のクラスに大阪から転校してきた男子が、本物の関西弁であったのが珍しかった。
もちろん、彼の関西弁が、さらに細かく何弁だったのかはしらなかった。

ロクに話したこともなく、そのまま別々の中学校に入学したので、以来、お目にかかったことはない薄い縁になっている。

そんなわけで、まだリアルで関西弁を耳にするのが珍しかった時代に、このドラマは夜8時の寝る時間を超えている9時半からだったのに家族で毎週観ていて、主人公「加代」(役は新珠三千代)の差配に感心していたのである。

いま思い出すと、よくできたドラマであった。

脚本は、原作とおなじ花登筺。
白眉は、「配役」の仕事にあったかと思う。
役柄設定にドンピシャな役者たちが、演出を支えたのが遠い記憶ながらにもわかる作品である。

半世紀前の小説だし、きっと図書館にはあるだろう、と思ったら、あまりの貸し出し人気だったのか?3,5、6、7巻しかなく、1,2,4巻は欠如している。
ちなみに、神奈川県立図書館には、全巻所蔵となっているが、全巻貸し出し不可となっていた。

そこで、5から最後の7までを、つまみ読みしてみた。

舞台は、戦中からはじまって、場所は、被災した加代が嫁いだ伊豆熱川(東伊豆町)の温泉街である。
小説中、熱川に電車を通す話が具体化されて出てくるのは、昭和30年前のことになっていて、本物の電車が開業した、昭和36年のことも書いてあるが、それは、最終第七巻でのエピソードとなっている。

伊豆半島の先端は、相変わらずの交通網(「伊豆縦貫道」はブツブツ状態)なので、横浜からだとなかなか「遠い」(時間距離で渋滞に巻きこまれる)イメージがつきまとう。
それで、どうしても避けたくて、御殿場の山側に目がいくのである。

しかし、改めて、東伊豆町立図書館の蔵書に本作があるのなら、何日か滞在して、「全巻読破」も悪くないと思った。

ドラマの記憶が多少あるので、文章を読んでいても映像的にイメージできるのが、わたしにとって楽な読書にしている。

大阪船場のバリバリの「あきんど(商人)」で、加代の恩人、「糸商」の旦さんは、大友柳太朗だった。
加代の師匠でもあったのが、祖母ゆうで、浪花千栄子が演じていた。

このひとたちの集団が、「大阪経済界」だったのだから、なぜに大阪経済圏の衰退となったのか?は、個人的に興味の中心になるのである。
本作中にも随所にみられる、「あきんどの発想法」は、いわゆる東京の「経済人のもの」とはことなる。

「あきんどの発想法」は、ずっと「人情」と「数式」でできていて、「経済人」のドライさとはちがって、「ウェット」なのだ。

しかし、「経済人」という、『ロビンソン・クルーソー』ゆずりの発想は、1924年から32年にかけて実施された、「ホーソン実験」で、否定されてしまっている。
「損得だけ」の経済人ではなく、人間は感情の動物だという、「あきんどの発想法」の当たり前が証明されたのである。

これが、いまだに世界経済の「誤解」のもとになっている。
現代の、「儲け主義」や「拝金主義」が「資本主義」だと信じる(あえて「マネー資本主義」とも表現する理由)、経済人を肯定している発想からのものだからである。

この意味で、加代の成功譚である本作が示す「あきんどの発想法」は、あんがいと「ホーソン実験」を根拠とした「正統」なものなのである。

それと、加代は、「旅館方式」の限界から、「ホテル形式」へと転換させるエピソードが、やはり最終巻に登場する。

戦後の日本人の発想法が、悪い意味でアメリカナイズされたことの限界、という意味だ。
なので、東京を中心とした、「ホーソン実験」を無視した、「経済人」がはびこるのである

すると、この小説は、温泉旅館とホテル(温泉ホテル・観光ホテル)の、一種の「経営読本」なのであるが、当事者たちは「定本」として意識しているのだろうか?との疑問がおきる。

東伊豆町立図書館で借りられる、本作シリーズの状態が、ひとつの回答になるのではないか?

ちょっと熱川に行って確かめてみたくなった。