量り売りの復活

量り売りの「格安」の焼酎がある.全国4,000カ所で販売しているというから,利用者もおおいだろう.
焼酎は大きく三種類,甲類と乙類,混和に分類できる.例によって,この分類も「酒税法」による.
甲類は「連続式蒸留法」という工業的な方式で,伝統製法の「単式蒸留法」が乙類になる.混和は,文字どおり甲類と乙類のブレンドである.それぞれに特徴があるが,「安い」のは甲類と混和で,「本格焼酎」である乙類は有名銘柄になると高級ウイスキー同様の値段がつく.
ここでいう「格安」とは,乙類なのに,という意味だ.

原材料が麦なら麦焼酎,芋なら芋焼酎なのはあたりまえだが,それぞれを保管する容器にこだわると味がかわる.この「格安」焼酎は,麦はオーク樽に,芋は焼き物の瓶にはいっている.だから,麦はほのかに木の色がついて黄色く,樽の香りがする.芋は,陶器のもつ遠赤外線効果なのだろうか,たいへんマイルドである.つまり,おもった以上に高品質なのだ.

メーカーのHPをみたら,「格安」の理由は,この樽と瓶だった.ふつうに販売されているように,一本ずつボトルに詰める必要がないからラベルの印刷も手間もかからない.それで「格安」になるという.そして,消費者は専用ボトルを初回に購入する必要があるが,そう高価なものではない.逆にいえば,余分なコストを,品質に投じることができる.

旅館の飲み物提供のかたち

たいがいの不振の宿は,夕食でお客にいかに酒類を飲ませるかで汲汲としている.土地や料理との相性を無視して,それ飲め,とばかりに注文をとりにくる.こうした宿ほど,メニューにある銘柄にも工夫がない.仕入れの酒屋が売りたい銘柄だから、都会のよくある居酒屋とかわらない.
そうかとおもうと,県外の有名銘柄・高級酒ばかりが目立つところもある.さも,この県には「なにもない」と言いたいようだが,そうではあるまい.残念ながら,いろんな理由で従業員教育ができないので,くわしいお客に質問されたら面倒だからだ.そうやって,くわしいお客をリピートさせないことをする.

ある宿で,お酒が大好き,というパートさんがいた.そこで,社長に相談して,このパートさんを口説いて,利き酒士の資格を取得してもらった.もちろん,時給アップも条件だ.それで,仕入れの品定めもやってもらうと,みるみるうちに夕食のレベルがあがった.調理場が反応して,酒に負けない料理を工夫したからだ.
意図しない,うれしい「化学反応」がおきることがある.しばらくすると,他のパートさんもうずうずしだす.好きな分野で責任をもったら,以前とはくらべものにならないほど楽しそうに仕事をするパートさんの変化に,周辺が刺激をうけるからだ.

この宿は,パートさんの指導によって,食事処の目立つ場所に県内酒蔵のとっておきをならべた.県外では,よほどでなければ入手困難という品ぞろえである.当初,この品ぞろえにかかわる投資に腰が引けたのは社長だった.売れなくて「酢」になったらどうする?というわけだ.

「乾杯用のおすすめ」とか,「○○にピッタリ」とかいう手書きのポップも用意して,迎えた初日は,大盛況だった.
ここにしかない,の達成である.

今後は,樽や瓶が並んだ中から選ぶという「楽しさ」が,商品になるかも知れない.

職人の出前

だれでも「出前」をとった経験はあるが,「デリバリー」になったら有料になった.さいきんでは,デリバリー・ピザの店に出向いて購入すると,「もう一枚『無料』」になるから,配達にするとピザ一枚分が有料ということがわかった.かんがえてみれば,お客が店に出向いて食事サービスをうけるのと,自宅に料理を運んでもらうのと,料金が「同じ」というのは変だ.

とはいえ,出前をむかしからしていたお店が,急に有料にしようとしても,なかなかお客様の理解が得られない,として躊躇するのもわかる.それで,お客がお店にそんな負担をさせていたら,こんどは人手不足で「出前ができない」ことになった.

もう少しすると,出前は追加料金がかかるサービスにかわるだろう.そうでなければ,自分からお店に出向くしかなくなるはずだ.これは,新聞にも,牛乳にもいえる.すると,デリバリー・サービス会社として,ヤクルトがみんな配達してくれる時代がくるかもしれない.

まるでちがう職人の出前

モノのデリバリー・サービスが「出前」だが,これがひっくり返ってヒトのデリバリー・サービスがある.寿司や蕎麦などの職人を自宅によんで,自宅にて作ってもらうサービスである.「無店舗」という業態だ.ちゃんとした店舗を用意する必要がないから,運搬のための自動車と運べる道具類を用意すればよい.おそろしく小資本で開業できるメリットがある.

モノのデリバリーなら,お客は「運ぶだけ」とかんがえがちであるから,「無料」ということに疑問がなかった.しかし,専門の技術をもつヒトが来るとなると,移動時間も有料だとかんがえる余地がある.だから、交通費という請求科目もたちやすい.

ちゃんとした職人でも,家庭によってことなるキッチンをつかっての本格料理提供にはノウハウが必要になる.盛り付けも,できればその家の食器をつかいたい.事前の情報交換にもノウハウがいるだろう.

利用客の立場からは,一度よい印象をもつと,かなりの確率でリピートするという.事前の情報交換も楽になるから,というのが建前で,本音はいろんなひとにキッチンに入って欲しくない,という心理だという.だから,ジャンル別に専門家がいる.

気になる料金だが,高級店並み,が相場だ.飲み物は自宅の冷蔵庫からだし,アルコールがはいれば,タクシー代も運転代行代もかからない.だから,トータルでは「かなりお得」なのだ.

その職人は何者か?

「職人の出前」では,現在のところ,案外ベテランばかりである.ちゃんとした料理人になるには時間がかかるからだ.

しかし,今後はおそらくちがった様相になるだろう.いま,調理師学校では,即効で「一人前」にするためのカリキュラム開発が急速に進んでいる.ラーメンと寿司に関しては,「速成」を強みとした専門学校が盛況で,仕入れやマネジメントまで,後方支援のアフターサービスもついている.

有名調理師学校は,提携先にパリのレストランや有名料理人の店があり,ここに留学させて修行するプログラムもある.もちろん語学教育にも力がはいる.そのコンセプトは「実用」である.「二十代で『星』を獲得する」のは,もはや夢や幻ではなく現実の世界なのだ.

すると,将来,「無店舗ミシュラン」という分野が生まれるかも知れない.

和食は大丈夫か?

2013年に「ユネスコ無形文化遺産」にえらばれて「和食」は,あたかも世界に飛び出したようだが,現実はどうだろう?和食界の重鎮は,「このままでは文字どおり『遺産』になってしまう」と危機感をあらわにしている.「伝統」がいつのまにか「因習」になってしまう例は,世の中にあふれている.

「速成」が正しい価値観ではないにせよ,それでも「速成」できないとあきらめるなら,時間を惜しむ日本人の若者は,和食界を敬遠して西洋料理の「速成」により魅力を感じるかも知れない.

つまり,料理界はすでに「速成」という競争に突入している.これが人材確保のキーワードになるだろう.さて,日本旅館はこれにどう向き合うのだろうか?

自分たちの料理人を,食のアドバイザーとして帯同して旅をする時代がくるかもしれない.

たまごかけごはん

地方の宿にいくと,「こんな田舎だからなにもない」というのが,どうやら全国共通の感覚らしい.しかも,かなり「本気」なのだ.

列島改造論に冒されている

日本経済の高度成長は,1973年の第一次石油ショックでおわったという「定説」があるが,かつて経済企画庁の『文豪』といわれ,いま日銀の政策委員である原田泰氏はその著書で,月次統計データをつかって否定している.第四次中東戦争がきっかけで発せられたのが,アラブ産油国の「石油戦略」である.この戦争は1973年10月のできごとだ.じっさい,わが国経済だけでなく世界に大激震をあたえたが,その「効果」は翌年,1974年の1月になって統計データにも顕著になる.ところが,原田氏は,日本経済は1973年の「6月」に中折れしているとデータで示した.

そして,これは,田中角栄内閣の「地方バラマキ」による不経済が原因と分析している.原田氏は,もし中東戦争が起きなかったら,田中内閣の明確な経済政策の失敗が糾弾されていたろう,と主張している.明治の文明開化からはじまる富国強兵のための工業化は,地方の農村が人材供給源だった.戦後も同様で,「集団就職」のそれは「金の卵」ともてはやされた.

井沢八郎の『あゝ上野駅』が発売されたのは1964年,ステレオ版が1976年にでている.

田中角栄は,幹事長を辞任した後,1968年に党の都市政策調査会長として「都市政策大綱」を,佐藤派から分離独立した1972年に『日本列島改造論』を発表している.

地方からやってきた金の卵たちが産み出した「カネ」を,「なにもない」地方へ還元して,せめて地方の県庁所在地は「東京のように」しよう,という発想だ.これは「票」になる.だから,いまも,批判のおおい公共事業のかわりに「ふるさと納税」で継続している.

「ない」のではなく「ある」を探す

これは,(なにもない)「地方はかわいそうだ」という感情をよんだ.まるでアメリカ人のアイルランドへの郷愁のようだ.

その地方に「ある」もの,といえば,「自然」だというのも,全国共通のようだ.かつて国鉄時代に,「ディスカバー・ジャパン」と銘打って,さまざまな「旅」がもてはやされた.「『愛国』発『幸福』行き切符」が大ブームになったのは,1973年だ.

それが,JRになったら,ピカピカのガラス張りコンクリートの駅が増殖した.日本建築学会は,いまだに「ポスト・モダン」追求がとまらないらしい.地方の駅前で,記念写真を撮る気が失せてひさしい.京都駅の「無残」も典型例だろう.その京都で,フォー・シーズンズ・ホテルが採用した「竹垣」は,伝統的技術の結晶でもある.外国資本が,日本の伝統を守ってくれた.ここは絶好の撮影スポットだ.

整備された田んぼや畑をみて,「自然がいっぱい」というセリフを発する旅番組のナンセンスはさておき,なぜか放置された「耕作放棄地」を「自然がいっぱい」とはいわない.完全に人力によって設計・管理されている「日本庭園」が,「自然」だとおもうのが日本人なのだ.

だから,棚田や千枚田をみると,たまらなく美しいと感じる.その「労力」を想像するだに感動し,ときには涙をながす.

たまごかけごはんが象徴するモノ

どのように育てられた鶏が産んだのか?どのように育てられた米なのか?どのように育てられた醤油なのか?

たまごかけごはんには,その土地のストーリーがつまっている.だから,わたしは,地方の「なにもない」という宿を指導するときは,朝食にたまごかけごはんをすすめている.

たまごかけごはんには,当然,なまたまごが必要だ.それで,案外,「保健所からの指導で当館では生卵の提供はしておりません」と,張り紙する宿泊施設はおおい.まちの牛丼チェーンにはかならず生卵の提供があるから,じぶんたちは生卵の管理ができません,と言っているにひとしい.管理ができていない状態だから,保健所から指導されているのに,その理由すらわからない,ということだ.

すると,ほかの食材の管理もおざなりのはずだ,とみることができる.これも,たまごかけごはんをすすめる理由になっている.

ひとの先行指標は学校

景気判断には「先行指標」と「遅行指標」がつかわれる.ずいぶんまえから有名な「先行指標」は,「エチレンの生産高」だ.石油からつくられるエチレンは,すべてのプラスチック類の原料である.現代生活にプラスチックは欠かせない.その原料の生産高がふえるのは,なにも勝手に工場がつくっているからではなく,「発注」があるからだ.最終製品の工場に部品在庫がなくなれば,当然に部品メーカーに発注する.その部品メーカーの在庫がなくなれば,さらにその先のメーカーに発注する,という連鎖で,最終的な発注はエチレン工場になる.「売れる」という「予測」があるから「発注」するのだから,エチレンの増産は,その後すべてのプラスチック類が増産になることを示し,それらが「売れる」を前提としているから景気の「先行指標」となる.「売れない」が前提になれば,エチレンの発注が減るから生産も減る.

「遅行指標」というのは,景気の上昇や下降がおきているときの念押しをする指標である.これには,「ホテルの宴会需要」がつかわれる.景気がよくなって自社の利益がかなりいい感じになると,ホテルで宴会をしたくなる.逆に,景気の潮目が変わると,先に予約したホテルの宴会をキャンセルしたくなる.だから,いつでもホテルの「実績」は景気の反応として遅れてやってくる,それで景気の状態の念押しができるのだ.もっといえば,ホテルの宴会ビジネスの本質は,経済の「フロー」によってきまるということだ.

20歳を基準にかんがえる

高校卒業生と大学卒業生の中間にあたる20歳を目安にすれば,人材に関してだいたいの傾向がつかめる.

ひとの先行指標として,もっとも早いのは,「出生数」である.わが国の出生数は,昨年「初めて」100万人を下回った98万1千人だった.だから,いまから19年後,今年1歳になった子たちは全員が20歳になる.つまり,19年後ぐらいの就職者の上限が決まるという意味での先行指標である.

これを,小学校,中学校,高校,大学と順にすればよい.小学校5年生が10歳なので,10年後に20歳になる.中学3年生なら5年後に20歳.高校2年生で3年後.大学1年なら,ほとんどジャストである.

人数だけではないが

すでに「少子化」しているから,「化」をとってもさしつかえないのではないかとおもう.まずは,地元就労圏内の学校における,上述の人数がどうなっているのか?を調べることからはじめたい.おそらく,全国どのエリアでも,おどろくほど数がいないことがわかるだろう.そう,まずは「おどろく」ことが重要なのだ.正しい現状認識が,すべての「企画」や「計画」の出発点になるからだ.

この「数字」は,子どもの数である.将来の労働力の「供給量」がわかる.すると,事業者側の「需要」はどうなのか?どのくらい「足らない」のかという問題になる.

誰にもコントロールできない「経済原則」がある.それは,「『需要』と『供給』によって価格が決まる」という原則だ.旺盛な需要に対して供給が極端にすくなければ,その「商品価格」は確実に「上昇」する.

労働者の「労働」も「商品」である.ふつう,労働の「質」によって「価格」がかわる.高学歴=高収入に見えたのも,労働の「質」が評価されていたからだ.しかし,圧倒的に供給量がなくなれば,まずは「数の確保」が優先される.そのうえで,「質」が問われるようになるだろうから,どちらにしても「賃金」は上昇することになる.

大学が倒産するという「先行指標」の陰で

このところ「大学」の話題が豊富だ.文科省の許認可権限の大きさが問題にならず,政治家との関係の方が重視されている.それでも,倒産する大学はこんご増加するのは確実である.

まだおおくの「親」が気づいていないが,高学歴=高収入という単純式の時代はおわった.「職人」という高収入の道があるのだ.これには,プログラマーも含まれるだろう.

2012年から,中学校の技術家庭科で,「プログラムによる計測・制御」が必修になっているし,数学において「統計」が全面実施されているのをご存じだろうか?その1年前,2011年から,小学校の算数で「統計」が教育されている.また,高校では2013年から「統計」教育がはじまった.わが国で,「統計」を教えるのは,なんと30年ぶりなのだ.

だから,先生もしらない.これで生徒たちは大丈夫なのか?とおもうが,この子たちはそろそろ20歳の「お年頃」になる.

プログラミングと統計をかじった人材が,あなたの会社にも入社してくる.

旅館の売店

「買いたい物がない」,といわれて世の中から退場を余儀なくされたのは,かつての流通革命の王者ダイエーだった.まったく買いたい物がない状態でも,なぜかいまでも存在しているのが,旅館の売店である.

商品の半分は委託販売品

デパートの衰退は,インターネットの発達によるEC(eコマース:ネット通販)の普及が原因といわれている.たしかに,これは決定打になるだろう.デパート(百貨店)というのは,中央集権的な商売だった.物がない時代,デパートという物理的なビル内の床に用意した数々の商品が,「よいもの」のほとんどすべてだった.だから,バイヤーの目利きがデパートのみえない商品だった.

豊かになるというのは,物がふえてくる,ということだから,床面積という物理的制約があるデパートには商品があふれかえるようになる.フォローしきれないものは,専門店にあった.しかし,物はそれでも増えつづけるから,コンピュータがない時代,手書きの伝票での商品管理は限界に達したのではないか.そこで,かんがえついたのが,「床面積を売る」という方法だった.

消費者には,デパートの店員か,床面積を買った側の店員かの区別がつかない.これで当面は,デパートはデパートでいることができた.

デパート全盛時代の旅館は,大型化して,お客をいかに自家から外にださないか,という囲い込み作戦が主流だった.その遺産が「売店」である.

もちろん,いまでも,旅館経営者は流通業が主体ではないとおもっている.サービス業とか接客業と定義しているにちがいない.だから,売店は,その延長での営業だという認識だし,どこにでも売っている商品揃えも,囲い込み作戦がベースだから,なんの疑問もないだろう.駅前の土産物屋にもあるけれど,どうせ買うならどうぞ当館でご購入くださいということだ.

ところが,物がない時代からの変化はデパートとおなじにやってきた.品揃えはふえるばかりだが,商品管理手法が古典的なままなので,「日持ちする物」が主体となる.そうやっているうちに,「リスクは避けるモノ」という刷りこみがはいって,リスクのある直接仕入れを避け,委託販売品が半分をこえた.

商品管理をしなくてよいという甘え

委託販売品とは,富山の置き薬のようなもので,売れた分だけ手数料を得られるしくみだ.定期的にやってくる「会社のひと」が,商品数をチェックして,手数料の計算までしてくれる.そして,売れた分を補充してくれるのだ.つまり,在庫管理と売上管理をしてくれるから,旅館側がやることは「店番」になる.

しかし,よくかんがえると,自社で直接仕入れの商品もある.こちらは,売り上げ管理も在庫管理も自分でやらなければならない.それで,売店の係(たいていはフロント係が兼務する)は,商品の「半分」である直接仕入れ分だけをチェックしている.つまり,委託販売品は「丸投げ」なのだ.おどろいたことに,委託販売品は「万引き」されても,自社には関係ない,という認識の旅館があったことだ.

委託販売の手数料計算は,まず「売上高」を確定する.なにが何個いくらで売れた,という計算だ.それから掛け率をかけて算出する.「売れた分」とは,商品の定数からなくなった分のことである.富山の置き薬とおなじだ.だから、万引きされた分も売れた分になる.ある旅館はここだけを注視して,関係ないと豪語した.万引きされようが,手数料がはいってくることだけが頭にある.しかし,いったん売上高の金額を引き渡さなくてならない.万引きされた分の売上高は,旅館が負担しているのだ.そこから,手数料がもらえるから,被害がすこしだけ減っただけだ.こんなことにも気がつかないのは,かなりの強欲発想だ.お客様の顔が一万円札にみえる精神病理だろう.

POSも導入していない

なんのことはない.売店で販売している商品管理は,全品,ちゃんと管理しなければならない.あたりまえのはなしなのだ.しかし,上述のような旅館は意外とおおく存在する.こうした宿ほど,売店の会計はフロントだったり,売店内でも「レジスター」のままだったりする.

直接仕入れと委託品を分けてレジスターを打つこともしないなら,どんぶり勘定のどんぶりにも失礼だ.ザルでもない.ザルの輪っかである.すくっているつもり,ほとんど宴会芸状態だ.

POS(販売時点管理)ができるレジスターを「POSレジ」という.日本では,40年ほどの歴史がある.最大貢献は,コンビニであることは誰でもしっている.あえていえば,コンビニの歴史はPOSレジの歴史なのだ.この誰でもしっているPOSレジを,いまだに導入しない旅館の売店は,それを観ただけで(経営の)「程度」がわかってしまう.

こんな旅館ほど,人手不足にさいなまれている.本業ではないと認識している程度の売店事業で,手作業による在庫管理をするしかなく,手作業による売り上げ管理をしているのだ.いったい,この手作業をするひとは,何時間かけているのか?そのひとの年収から換算すると,気絶しそうになるだろう.人件費が問題なのではない.ムダな仕事にかける「時間数」が,かくれた人手不足の原因である.

補助金に目がくらんではいけない

政府は,今年度の大型補正予算を組んでおり,そのなかに「ものづくり補助金」として1000億円を計上するという.「ものづくり補助金」とは,『ものづくり・商業・サービス経営力向上支援事業』というのがただしいので,なにも製造業だけが対象ではない.

本末転倒の闇

「補助金ビジネス」という商売がある.国(政府)や地方自治体という名の(地方政府:外国ではこちらがふつうのいい方)は,みごとに「縦割り組織」になっているし,縄張りからはずれる「組織間の連携」ということは,役人のタブーである.だから,となりの部署がどんな「補助金」を扱っているかは,その部署に訊かなければわからない.そこで,全役所の縦系と横系を網羅した「情報力」をもって,クライアントである企業の補助金受け取り額を増額させるというものだ.そして,成功報酬として,その幾分かを手数料として受け取る.もちろん,対象補助金からの直接受け取りではない.

このビジネスで有名なひとと,はなしをしたことがある.かれはいたってまじめな紳士で,だからこそ「情報」を「力」に変えることができたのだろう.そのひとが言うには,なにが困るかといえば,とにかく補助金をほしがる経営者がいる,ということだった.「とにかく」である.

自社事業とかかわりが薄い内容でも,「とにかく」いかにして受け取ることができるか?に興味があって,「とにかく」金額が大きいモノを好む傾向があるという.しかし,補助金にはたいてい「報告」とかいう紐がついていて,ながければ数年間,その「効果」を役所の当該窓口にレポートしなければならない.そこで,このビジネスには,「報告書作成」というサービスも付随する.ところが,無理して受け取った場合,書きようがなくて困る,というのだった.

無理して受け取るのは,意外にもさほど困難なことではないことがある.それは,役人の絶体基準「予算消化」という甘い罠である.これは,いま,商工中金の不正融資問題として顕在化した.本来の貸付先としては好ましくない企業にも,「不正に貸し付けた」のは,まさに「予算消化」のためだったことがあきらかになった.

もちろん,報告書が「書けない」ことは,はじめから予想できるから,このひとは,「お断り」する事例になるという.そのこころは,そんな補助金は,企業経営に資さないから,というまっとうな理由もふくまれている.

中毒化の事例

「補助金」を受け取るからある投資が安くすむ,とかんがえるのはふつうだろう.しかし,本当だろうか?かんがえる順番によって,こたえが変わることがある.それは,算数のつぎの式のようなものだ.

1+2×3=7 おなじ式のなかに掛算や割算がある場合

(1+2)×3=9 おなじ式の中に「( )」がある場合

例1:たとえば,旅館のロビー照明を変えたいとかんがえたとき.そもそも,「変えたい」理由があるはずだ.器具が古くさくなったとか,薄暗いとか,あるいは玄関の改修計画とデザインの統一性をもたせたいとかして「くつろぎの空間」にしたいとしよう.すると,どういった方法が,もっとも「変えたい」とかんがえたことのこたえとして合理的かが決定基準になる.

例2:ところが,なにもかんがえていなかったけど,「旅館のパブリック・スペースにおけるLED照明化にあたっての補助金」というものがあって,いまならほとんど「先着順」状態で受け取れる,という情報を入手したとしよう.すると,さっそく取引先の電気屋さんに連絡して,「見積書」を依頼するだろう.でてきた「見積書」の金額が,補助金の限度額に比べて余裕があるとわかれば,廊下部分の「見積書」を追加するだろう.こうして,「安く」高価なLED照明が設置できて,電気使用量も削減できたから,本当に万々歳!となるのだろうか?

例1の場合,全面的なLED照明の導入が「最善の解決策」になるのか?という問題がある.時期にもよるが,少し前なら,LED照明の「光」の質(波長)が,ひとの目には優しくなかった.紫外線寄りの冷たくするどい光が,LED照明の特徴だったから,ロビー照明としては「くつろぎの空間」をつくりにくいという難点があった.だから,一部スポット的にLED照明を導入したとしても,それは全体デザインとしての必然であって,補助金目的ではないことは十分ありえることになる.すると,補助金受け取りの手続きと,その後の「効果」をレポートする必要は,かなり薄くなってしまう.

例2の場合,「照明だけ」を交換することになるから,つけてみてやたらと明るいことに気がつく.そして,さまざまな汚れや老朽化箇所がめだつようになって,どうしようかと困ることがある.さらに,お客様には「まぶしい光」(白内障患者には不快な光)なので,落ち着かず,ロビーから人影がなくなることもある.廊下も不自然に明るくなるので,床の汚れまでも浮き上がって見えてしまう.すると,あろうことかロビーからではなく,その旅館の利用客が減ってしまうこともあるのだ.

かんがえる順番をまちがえると,とんでもないことになる事例だ.

さらに,補助金を優先させると,投資のタイミングがずれることもある.やりたい投資に補助金がつかないなら,先延ばしにして,補助金がつくまで待ってしまうのだ.こうして,経営資源としてお金ではけっして入手できない「時間」という意味の,適正な時期,を失うこともある.

ダイヤモンドならぬ,補助金に目がくらんでしまっては,取り返しのつかなくなることもある.くれぐれも,ご注意を.

面倒な「割り勘」のレジ

サービスが気持ちよくて,とてもおいしい食事をだいなしにするのが,「割り勘」のレジである.全額を平均したほんとうの「割り勘」ならまだしも,バラバラの注文にたいして個別に支払うとなると,「面倒」さもひとしおだろう.

レジ横の「個別会計お断り」という張り紙

たまにみかける「危険信号」である.この張り紙をみたら,リピーターになってはいけない.逆に,個別会計がらくにできるレジを導入している店がある.こんなシステムにお金をかけても,直接は売上につながらないからムダだとかんがえる店主がいる.しかし,そうではないのは,自分が客になればわかる.店の最後の印象がまるでちがうから,「気が利いている」と評価される投資はムダではない.

だいたい,平日の日中なら,ビジネス街でなければ主要顧客は主婦か老人である.どちらもグループ行動であることが特徴だ.そして,もちろんお会計は個別払いに決まっている.

アルバイトやパートさんを主戦力にする飲食店のばあい,レジでのもたつきは釣り銭間違いも誘発するから,らくにできるレジが店にも得である.最近のお客はおおらかさに欠けるから,相手がアルバイトやパートとわかっても容赦ない.

「一括でレジ打ちしました」といわれても

「個別にレジ打ちますか?それとも一括で?」ときかれても,客にとってはどうでもよい.それで,だれかが「一括でいいよ」というと,とたんに「個別会計」に金切り声でパニックるかかりのひとがいた.総勢8人だが,注文したメニューは3種類で,6人が同じメニュー,残りの2人がそれぞれ別のメニューだった.金額では2種類.1000円のメニューが7人,750円が1人だ.くわえて,この店は内税だというから,なにがパニックの原因か,支払う立場からはわからない.要領のわるいひとはいるものだが,このかかりがパートさんだとしたら,やはりわるいのは経営者だ.

どんな「研修」「訓練」をしているのか?

スムースな会計は,あたりまえのサービスだ.客はどんなにひどい食事でも,たいがい最後はちゃんと支払う意思をもっている.来店時の案内からはじまるサービスの流れで,どんなにおいしい料理を提供しても,最後の支払でつまずくと,店全体のイメージがいちじるしく傷つく.個人客がメインの客層なら,個別会計はあたりまえの要望になる.

お金をあつかうレジは,簡単な仕事ではないし,「事故」という危険もともなう.だから,レジのあつかいについては訓練がいる.そこで,想定される場面設定での接客研修は重要な業務である.釣り銭元金の管理など,内向きの研修も必要だ.また,レジによってはさまざまなデータを収集する機能もあるが,これらの機能が機能するためには,操作が必要だ.売り上げ高だけでなく,経営情報が拾えるのはたいへん重要なことなのは誰にでもわかる.

ほしい経営情報がなにかを理解しているか?

自分の店の経営にとって,どんな情報が役立つのか?なにが必要でなにが余計なのか?をつきつめてかんがえる経営者はすくない.なぜなら,事業で「成功」している経営者がすくないからだ.

ぜひとも,自分の店のレジからわかる情報を確認してほしい.そして,想定客の要求にらくに応じられることとは何か?をかんがえてほしい.

罪な「水戸黄門」

18世紀中旬の宝暦年間の実録小説『水戸黄門仁徳録』を起源として,その約百年後の幕末に『水戸黄門漫遊記』ができたというから,おおざっぱに300年ほども日本人に親しまれていることになる.

だから,「水戸黄門」と,さらに古い「忠臣蔵」の世界観は,かなり根深く日本人のアイデンティティーに影響をあたえているはずである.

しかし,これらの作品は,「講談」や「芝居」であって,現実からはずいぶんかけはなれたはなしになっている.作りばなしと現実が同じになってしまうというのが,国民という集団(以前なら「民族」という)規模でおきているとすると,これは「冗談」ではすまない.

悪代官と悪家老しかでてこない

しょせん「勧善懲悪」なのだから,いちいちほじくらなくてもいいではないか.とおもいつつも,悪代官がいても,悪いのは将軍家ではない.悪い家老がいても,悪いのは殿様ではない.という構造が気になるのだ.つまり,体制批判はあってはならない,という約束が,物語の背景である江戸時代の価値感をこえて,現代に倒錯して伝染しているなら,これはこれで「事件」だからだ.

まして,「水戸黄門」を江戸時代の価値感にとどめたら,幕閣でもない御三家の元藩主が,封建時代の真っ盛りにとある藩の内情を勝手に探って,その家臣らを手討ちにするという設定は,まったくありえないファンタジーである.

ところが,この「ファンタジー」が,おそるべき視聴率をたたきだして,世界最長のテレビドラマになった.これは,ファンタジーを圧倒的な国民が支持した証拠である.

世界に誇るわが国の「サブカルチャー」を,どういうわけか勘違いした役所がまたぞろお節介を焼いて,「クールジャパン戦略」なるもので大赤字を計上してしているが,アニメやコスプレ,人気アーティストの活躍のキーワード「ジャパニーズ・ファンタジー」のタネは,「水戸黄門」と「忠臣蔵」ではないか.

「押し込め」こそがお家のため

「忠臣蔵」では,史実としても物語のきっかけをつくった張本人がお殿様だが,討ち入りまでのドラマでは陰がうすい.「水戸黄門」では,登場するお殿様は,おなじく陰がうすいとはいえ,たいがい「暗愚」ということになっている.だから家老一味に実権を簒奪されているのだが,これに気づかず優雅にくらしている.これはこれで,体のいい「押し込め」である.

大名家の「藩主押し込め」は,かなり一般的だったようだ.ひどくなると,強制的に隠居させられて,座敷牢に押し込められたというから,本人の人生は悲惨のきわみである.ようは,「家」がつづけばよいのだ.もしもの疑いをご公儀から受けたらば,最悪はお取り潰しである.そうすれば,家臣一同もそろって失業=浪人の身におちる.太平の世に,戦闘集団である武士をあらたに採用する他家はないから,その恐怖は現代の企業倒産の比ではあるまい.

企業存続だけに汲々とする経営者と家臣団

江戸時代の大名家とおなじく,お家の存続=企業の存続,となると,その従業員である家臣団は,社長である殿様の意向を無視しだす.現場業務に精通しているという自負が,素人社長の介入をゆるさないからだ.これは,代々続く個人事業的企業でも,明治以来の名門大企業でも,似たようなことがおこる.

現代日本企業では,「社長押し込め」がおきている.

企業組織をどのように統治するのか?ということは,案外日本企業の苦手とする分野になった.バブル経済期の絶頂をさかいに,近年は「日本的経済システム」におおきな疑問が生まれてしまった.バブル絶頂前までは,「企業一家」としての「浪花節」が社内で通用していた.だから,理不尽なことも,社員感情のコントロールでうまく「ガス抜き」ができた.社内旅行や社員運動会などの各種行事が,それに色を添えたのだ.

「水戸黄門」の放送が終了したのは2011年.昨今,とんと浪花節は通用しなくなった.今年は,「忘年会がある会社はブラック」という話題まで出現した.

組織運営には,心理学がかかせない.急激に変化する人心を把握する心理学とは,企業哲学である.中国で,「稲盛ブーム」がいっこうに冷めない.京セラの稲盛哲学が,体制をこえて指示される理由を,日本人があらためてかんがえるのも来年につながる準備になるだろう.

甘えのNHK受信料問題

今年2017年の師走を「飾る」ニュースは,6日の最高裁判決であった.いわゆるNHK受信料にまつわる「初の憲法判断」に注目があつまった.賛否うずまくなかで,ちゃんとした報道をしたのはどこだったか?当のNHKは翌日7日に,会長が妙なコメントをして,なっちゃいない感を全国にくまなく放送した.まるで「完全勝訴」のような振る舞いだったからだ.さらに,民放各社の報道もこれに追随した.業界で談合でもしているのだろうか?

判決文「主文」は以下のとおりだ.「本件各上告を棄却する.各上告費用は各上告人の負担とする.」

裁判費用が「折半」なのに,原告のNHKが「勝訴」というのは変だ.たしかに,「放送法は契約を義務づけている」のだからNHKの主張どおりにみえるのだが,「消費者側拒絶時の契約締結の要件」という判例ができたことが真の注目要素だ.この「要件」によれば,NHKが受像施設が存在するとして,B-CASカード等の証拠を用意して,裁判をおこさなくてはならず,しかも,口頭弁論終結時にもテレビ受像機が設置されていなければならない.これらの「証明」をどうやってNHKがやるのか?といえば,不可能であろう.つまり、かぎりなく敗訴に近い判断ではないか?最高裁は,とても面倒な「判断」をした.

問題はやっぱり国会である

日本の最高裁判所は,めったなことでは判断すらしない.国会に委ねるという態度だ.つまり,「国会依存」.三権分立とはどういうことだったのか?もういちど中学校の教科書を確認したい.

その国会が,立法府という本分をわすれて,選挙を経てもスキャンダルを追及している.まことになさけない状況にある.しかし,これも国民の意思だ.

欲張りな国民の甘えがNHK問題の根幹である

民放は見たいがNHKは見たくない,というからいけない.テレビを観なければいいのだ.そもそも,テレビ受像機があるから,放送法での受信料が発生するのだから,テレビを廃棄すればよいだけだ.それをしたくないと,欲張って甘えるからいけない.

かつては国民がテレビを買うと,国家経済は潤った.世界のテレビ市場はわが国製品が席巻したからだ.ところが,「純粋に日本製」のテレビなど,もうほとんど存在しない.パナソニックも,シャープも,テレビ事業で屋台骨がかたむいた.組み立てたのが日本国内という意味の日本製になった.そういえば,iPhoneやiPodがどこ製なのか,気にするひともいなくなった.

工業製品の受像機だけが問題ではない.4Kだ8Kだといって「画像の美しさ」をうたうのは,カラーテレビが世にでた頃とおなじ発想による宣伝手法だ.映像技術がどんなに進んでも,残念ながら,もはやテレビで観なければならない番組はほとんどない.震災クラスの災害も、全国放送がカバーできる情報では荒すぎて役にたたない.民放ふくめ,同じような情報を垂れ流すばかりだから,被災者や関係者にとっての重要情報は地元ラジオの方がよほど便利だ.まして,インターネットの存在感は,3.11で発揮された.「東京オリンピックをカラーテレビで観よう!」というキャンペーンをまたやるのだろう.56年前とおなじ手法に,乗るひとは何人いるのだろうか?そちらに興味がわく.

わが家では,テレビで,ニュースも天気予報も観なくなったが,じつはなにも困らない.おかげで,いわゆる「偏向報道」の被害もない.新聞もあれば,ネット配信のニュースもあるし,雑誌記事もある.好きな番組はオンデマンド契約をしている.テレビ放送を観るより,YouTubeの方がよほどためになる.

テレビを観るのは,情報リテラシーがないひとになった.「情報弱者」が指摘されてずいぶんたつ.NHK受信料は,情報弱者からの強制取り立てだ.だから,テレビを観ようとすると貧乏になる.こうして,テレビは,格差社会の推進をする機関となった.

旅館にテレビは必要か?

入浴して夕食をすますと,やることがないから自室に引きこもる.間がもたないからテレビを観る.それに飽きたら就寝する.お客様にこんな滞在をふつうにさせている旅館という商売に,だれも疑問をもたなかった.「非日常」だのと言っても,お客の滞在パターンは,日常そのものだ.

「経費削減」に血まなこをあげて,必要経費まで削減し,客数をうしなった旅館とて,テレビを客室から撤去しなかった.撤去すればNHK受信料という経費が削減できるのに,である.

テレビがなくてもWi-Fi環境があって,モニターにスピーカーセット,それにアマゾン・プライム・ビデオか,グーグル・キャスト端末を借りられるほうがよほど気が利いている.蔵を改装したとある高級旅館では,大型モニターに5.1chスピーカーセット,これにiPodホルダーが設置されていた.ド迫力の音量と音質で,映画と自分の端末にある音楽を堪能できた.

もはや高額所得者と若者はテレビを観ない.非日常をもとめてやってくるこれらの人々がターゲット顧客なら,発想をかえて受信料を削減すれば,宿は二重に得するはなしにかわる.

「労組」という安全弁

「宿命のライバル」がいるひとは幸せである.ライバルと認める存在が,自身に適度な緊張をあたえてくれる.それで,自分の成長が促進されるからだ.だから,突然,ライバルが目のまえから消えてしまうと,自分のいくべき方向がわからなくなって,混乱し,低迷してしまうことがよくある.そういう意味で,ライバルは互いに鏡のような存在である.「よきライバルこそよき友」といわれるのは,このようなことからだ.それは,また,よきライバルをもったことがあるひとにしかわからない.

経営者の役割をだれがチェックするのか?

企業活動のなかでかんがえると,経営者の鏡になるのは従業員である.よき経営者が経営する企業には,よき従業員があつまってくる.ところが,よき従業員たちだったものが,悪しき経営者のもとでは不良化することがあるからだ.あたりまえだが,従業員も経営者も,ひと,である.だから,会社をはなれて家に帰れば,それぞれが一介の家庭人になる.

しょせんは「仮のすがた」なのだ.

とすれば,世の中は演劇でできている.だれしもが「仮のすがた」をよそおって生きている.たまたま割り振られた役柄を演じていることになる.ここで,ちょっとした意志をもって,もっといい役回りがほしい,として自分から行動したひとは,それなりの役が回ってくるが,ハッピーエンドになるか悲劇的な結末になるかは,「運命」が左右することもある.

「運命」を「神の御業」とかんがえるひとと,「運命」は「コントロールするもの」とかんがえるひと,いや,「運命」には「だまって流される」のをよしとするひとと,演じてによってシナリオがことなるのが,実際の演劇とのちがいだ.しかも,これらのかんがえが,同じ演じての人生のなかで,コロコロとかわる可能性もある.だから,すべてのひとは,すさまじく無限大の選択可能性のなかから,シナリオを絞って生きている.

たまたま割り振られた役柄として,経営者の役をこなすひとには,だれが演出するのか?といえば,ふつうは「株主」とこたえたいところだが,「ものを言う株主」が注目されるわが国では,「ものを言わない株主」のほうがふつうだ.事業に失敗して「再生」モードになった企業のばあいが,スポンサーという他人に演出をゆだねることになる.

ところが,このスポンサー役を公務員が引き受けることがある.「支援」という大義名分をもって,政府が介入するのだ.もっとわからないのは,カネを出さないのに口だけ出すばあいだ.「監督官庁」というものがいる.不祥事をおこした企業のトップが,役所にいって頭をさげる.国民の目からみれば,「監督不行き届き」で罰せられるべきは「監督官庁」のほうである.しかし,「監督官庁」の役人が怒ったような顔で,おまえらのおかげで仕事がふえた,どうしてくれるのだ!という気分を演じている.仕事をしている振りを演じてきたから,それが「振り」だったとバレることに怒っているのだ.笑止,である.

労働組合という役割

べつに不祥事だけではないが,ふだんから経営をチェックできるのは企業内にあっては,「労働組合」だけだ.ところが,残念なことに「労働組合」が特定の政治活動に没頭しすぎたために,労働者からも忌み嫌われるようになって,組織率は低下するばかりである.労働者も会社をはなれて家に帰れば,それぞれが一介の家庭人になることをわすれてしまった.

それで,おおくの企業内に「コンプライアンス室」ができたのだ,と疑っている.もちろん,表向きの経緯はちがう.しかし,監査役が役に立たないのを承知で,「コンプライアンス室」をつくるのは,まさに屋上屋を架すことではないか.ほんらいは,労働組合に期待できる機能だ.「コンプライアンス室」ができた企業は,それなりの規模か法的なしばりがある金融系の会社だ.一般にいう大企業のばあいは,伝統的に労働組合があって,さらに「コンプライアンス室」もあるだろう.すると,組織内のよからぬ情報は,労働組合ではなく「コンプライアンス室」にむかう流れになるから,さらに労働組合の位置づけがあまくなるはずだ.

経営者と労働者は,それぞれ目的がちがう.しかし,資本論やらに脳ミソをおかされたままだと,そのちがいの本質がみえなくなる.とくに,日本の経営者は,エリートとして資本論の教育をしらずにうけてきた歴史があるから,勘違いの度合いは格段にちがう.すなわち,「経営者=資本家」という勘違いだ.だから,社員から経営者に「昇格」したとたんに,「俺の会社」になってしまう.歴代の「先輩たち」もそうしてきたから,本人にはなんの疑問もないだろう.草葉の陰でマルクスが笑っている.

「所有」と「占有」の区別がつかないのは,近代社会の成人としてかなり深刻な精神病理である.他人から借りた本を返さない文化も,この病理からなる.他人の所有物を借りてきて占有すると,いつの間にか自分のものになってしまうから,返却しなくても気にとめない.つまり,占有状態がつづくと所有に変化するのだ.これは,貞永式目(御成敗式目)にある土地占有が所有に変化する期間を20年と定めた文化である.じっさい,21世紀のわが国の民法でも,これは変更されていない.

経営者は,企業に「利益をもたらす」ための諸策を立案・実行する役割がある.一方,労働者は,自分の「労働力」を売ることで,その対価である賃金を得る役割がある.たんなる宗教書である資本論を無視すれば,経営者と労働者は,労働力の売買という点において対等である.

だから、賃金交渉こそが労働組合の本分だ.その「賃金」の源泉は「付加価値の創造」にある.なんとなれば,付加価値に人件費は含まれるからだ.すると,経営者の利益を出すという目標と,労働者の正当な対価としての賃金の受け取りとは,「付加価値」という一点でかさなるのだ.要するに,おなじ船に乗っているということだ.そして,それは同床異夢でもないことに注意したい.

経営者が上述の勘違いをあらため,労働組合が特定の政治活動から本分に回帰すると,双方にとっての「安全弁」になる.これこそが,生産性向上のための基盤である.付加価値を人数で割ったモノが生産性だからだ.「働き方改革」とは「働かせ方改革」でもある.

経営者と労働者は宿命のライバルであって,ほんらい「敵」ではない

旅館には労使協議会があっていい

「労使」といっても団体交渉でもなく,労働組合を相手にするものではない.経営者と従業員代表(過半数を代表する)による協議である.労働組合ではないので,争議権はないが,時間外労働に関する「36協定」などの労使協定を結ぶことができる.この仕組みを広義の経営参加の場にすることも一案である.