カナダの政変

親子二代でカナダの首相になった、トルドー政権が崩壊の危機にめんしている。

それが、与党「自由党」の破滅的な支持率低下と、野党「保守党」の圧倒的な復活になっていきている。

詳しくは、「カナダ人ニュース」さんが伝えてくれているから、是非チェックして欲しい。
今回は、州議会選挙における「異変」のことで、当然ながら中央政界にも波及する。

国会は、一院制か?二院制か?のどちらがいいのかがよく議論になっている。

歴史ある伝統国であれば、二院制が望ましいのは、ストックとフローの関係から、歴史的ストックの代表たる「上院」と、その時代・時代のフローを反映する「下院」とが用意されていて、相互に牽制してバランスをとることが望ましいからである。

明治憲法下のわが国は、こうしたことを意識して、「貴族院」と「衆議院」があった。
しかしながら、もっと上の概念に、「政府」と「軍」の分立があって、これを天皇によってジョイントさせる設計だったから、股裂きの結果の滅亡となったのである。

GHQによる「戦後の民主主義」で、擬似的な二院制(「貴族院」を「参議院」と言い換えた)を維持したけれど、参議院の存在価値の意味不明をそのまま延長させて「参議院不要論」となるのは、何のための二院制かをわすれた「ビバ!一院制」の極論なのである。

では一院制の問題点は何か?を問えば、選挙による圧倒的勝利が議会の暴走を阻止できない絶望を呼び込むリスクがあるからだ。
なので、政権交代が当然となり、両極に揺れる政治の不安定さは国民生活を直撃するので、より激烈な選挙が繰り返されてしまい、結論的に国民が分断されることにある。

参議院は無力だが、衆・参の「ねじれ国会(野党が参議院を多数支配する)」が政権与党による政権運営に慎重さを促した事実は、もっと評価されていいのである。

この点で、アメリカ合衆国の二院制は、建国の父たちの叡智(別に穿った目でいえば、「人間不信」や徹底的な「性悪説」)による設計が生きている。
それでも、もっと邪悪な民主党によって、三権分立の根底が揺らぐまでになってしまった。

ヨーロッパの保守回帰(マスコミは「極右」という)や、南米アルゼンチンやエルサルバドルでの成果をうけて、北米ではこのトレンドがアメリカを越えてカナダで起きている。
もちろん、アメリカでトランプと連邦上・下両院における共和党の躍進がどうなるのか?は世界が注目するところであるし、属国の日本人には直接的な影響が出るはずだ。

その前哨戦が、隣国カナダで起きそうなのである。

カナダの総選挙は来年に予定されているなかでの、与党内におけるトルドー退陣要求だ。
理由は、国会補欠選挙における負け方の悲惨なのである。

トルドー率いる自由党が盤石な選挙区で、歴史的な敗退を繰り返していて、この段階で来年の選挙不出馬を宣言する閣僚が絶えないありさまとなっている。
ぜったいに再選されない、という自身の選挙区における分析での結論なのだ。

すると、地球儀をみわたせば世界のトレンドはもうハッキリしていて、かんたんにいえば「右傾化:ナショナリズム回帰」にほかならない。

この定義における日本での「右派」で、法で政党要件をみたすのは、「参政党」だけしかない。
議員がいない「諸派」では、「日本第一党」、「日本改革党」、「新党くにもり」、「日本保守党」といったところがこれにあたる。

なお、「日本保守党」はふたつあって、先にできたのが自衛隊のパイロットだった石濱哲信氏を代表とするそれで、今回の総選挙でも二名の公認候補者をだしている。
もうひとつが、百田尚樹氏と河村たかし氏を共同代表におく組織で、典型的な「第二自民党」の似非保守である。

4月の東京15区衆議院補選で、ここから初出馬した飯山陽氏と内部で揉めているのは、「似非保守」にはなから気づかなかった飯山氏にも責がある。
「極左」の高市早苗氏を「保守」と呼ぶ、定義のおかしなひとがたくさんいるのと似ている。

吉田茂と岸信介の流れをくむ、自民党は、結党時から「似非保守」だという大問題があることがまだわからないのかまったく不思議なのだ。
この意味で、安倍晋三氏もまったく「保守」ではない。
その証拠が、富の分配を政府がやる社会主義計画経済を目指した「アベノミクス」なのに。

さて、「ナショナリズム」というと、さまざまな「訳語」があって、あんがいと定義にこまる主義主張である。
たとえば、民族主義・国家主義・国民主義・国粋主義などと訳されているが、それぞれにニュアンスがことなっている。

40年程前のむかし、エジプトに暮らしていたころ、生まれて初めて「祖国・日本」という感覚を意識したのを覚えている。
その原因は、あまりにもちがうエジプト人=アラブ人の国民性から発する生活習慣とおもわれる。

それで、郷に入れば郷に従うのとおり、エジプトを基準にかんがえたり、やっぱり日本を基準にしたりの「揺れ」が、事あるごとに交互にでてくる自分に気がつくのである。
たいがいの海外駐在経験者は、日本への国粋主義(郷愁的な憧れ)になるものだといわれていたのをおもいだす。

任期があるならまだしも、無期限に彼の国やらどこかの外国に暮らすとなると、これがもっと強烈になるのは、日系南米移民の心情からも容易に理解できる。
日本人であることを意識のなかに自分から強く据えておかないと、自分が何者だか分からなくなって、それが外国生活において致命的な心の傷となる恐怖が無意識の「不安」となってあらわれるからだ。

だが、「日本人である」ことを教えない、昨今の教育改革の成果で、健全なナショナリズム=自己のアイデンティティが、成立しないようにされていないか?

それが象徴が、「国軍の有無」にある。

世界で国軍のない稀有な大国が、日本であり、隣国の中国だ。
日本には軍そのものがなく、中国には党の軍だけがある。

20日の日曜日、カナダのブリティッシュ・コロンビア州における選挙が、来年のカナダ総選挙を占うと注目されているが、その翌週のわが国総選挙へどれほどのインパクトがあるのか?にあまり期待できないのは、日本人の劣化による。

カナダで保守党が勝った?だからなんなんだ?と、もしもこの情報をしったとしても、なにもその影響を想像できない日本人の残念なふつうが観察されるのだろう。

これを、「国際化」という噴飯があるけれど、だからといって「島国根性」でもない。
ただの無関心・感覚麻痺なのである。

もの笑いのタネになるだろう「環境」

人間の個体が集まってできている「社会」は、なんとなく存在しているようでそうではなく、なにかの意思をもっているかのように見えるのは、前に書いた『こっくりさん』のような、力学がはたらくからである。

つまり、個々人のなんとなくある意識(「潜在」であろうが「顕在」であろうが)が、社会の雰囲気を創り出して、それを嗅ぎ取ったリーダーたちが乗じることで権力をえて、得た権力を行使するから、さいしょの「なんとなく」が具現化されるのである。

これの尖鋭化が、ポピュリズムだ。

だからある特定の思想をもったひとたちは、おカネをもっているひとたちと組んで、その「なんとなく」を醸成するように、プロパガンダに努めて、薄くともかまわないなんとなくをつくりだす。

それで満願成就したかになって、これをむかしは「天下をとった」ようにいったものだが、ちゃんと歴史上にも「三日天下」があるように、うわついたなんとなくだけでは心許ないのが人間社会の「浮世」というものだ。

だから、民主主義は大衆社会になればなるほど、ポピュリズムに堕ちることになっている。

リーダーすらも、大衆から選ばれるからで、大衆から賢人を得るのはたいへん困難になる。
なぜなら、愚を好む大衆は賢人を異物として認識し、嫉妬をもって憎むからである。

そんなわけで、大衆社会が発達して、高度大衆社会になると、大衆のなかの愚かさの自重が無限大になって、恒星でいう「超新星爆発」のような破局をおこすのである。

たかが会社でも、あるいは盤石な大企業でも、トップや経営層の一新による、「世代交代」が原因で、まさに浮世での不沈はあるものだ。

たとえば、コンビニの巨人にして勇者、「セブンイレブン」の経営がおかしくなっている。

「老害」として、創業からの大功労者、鈴木敏文氏が辞めるに至った経緯をよくみれば見えてくるというものだ。

もちろん、フランチャージーとフランチャイズの軋轢は前からあった。
だが、肝心の利用客に対する商品づくりという点で、鈴木氏には哲学があった。
その哲学を、切り捨てたのが新経営陣だったとかんがえられる。

いまや、ひとり負けの状態になったのは、あらゆる商売に通じる「事例」として参考になる。

これ以上にドラスティックなのは、環境ファシズムにまで発展した「虹色主義」の崩壊が予想できるようになってきたことである。

それもこれも、人々が正気を取り戻しつつあるからで、今度は「なんとなく」ではなくて、かなり意識的な点がこれまでとおおきくちがっている。

ヨーロッパを「世界」と呼んだ100年前までともちがって、いま「世界」といえば、地球上のこと、をイメージするように慣らされた。

それもこれも、「環境ファシズム=グローバリズム」が浸透したおかげであるけど、意図せざる結果として、別にいえば、ブーメンランとなって重くなった自重のごとく、しかも大衆からの反撃が激しいのである。

もしや、カリフォルニア州、ニューヨーク州、イリノイ州といった、虹色主義の本部とも言える牙城すら陥落するのではないか?

人々の意思が、これらを推進した勢力に対しての「怒り」に変換されているからである。

すると、行き場を失った虹色主義のひとたちは、わが国に理想郷を求めてやってくるかもしれない。

よろこんで迎え入れようという、自・公民と立憲民主、それに維新やらは、どこまで議席を減らすのか?なのだが、自己犠牲の石破自民は、一人負けをもって、なんとかこれらの仲間たちを助けようとしているのである。

これを健気という気もしない。

外からの要求に屈し続けるの愚

日本で総選挙中の17日、石破内閣・中谷防衛相はブリュッセルを訪問していた。

そこで、NATOのルッテ事務総長と会談し、自衛隊の車両を追加でウクライナに送ることを約束したと、Xで「スプートニク日本」が伝えている。

ルッテ氏とは、オランダの首相だったひとだが、阿呆なエセ科学による農業衰退政策で起きた「農民一揆」で政権を追われたあっち側の人物だ。
EU委員会といい、NATOといい、まことに官僚が支配する国際機構の典型で、およそ民主主義とはほど遠いのである。

西側メディアの腐敗を横目に、ロシア側の目線からの情報を提供してくれる「スプートニクの日本語版」は、東京にスタッフをおいている。

わたしがこの情報源を重宝しているのは、「複眼」のためなのである。

誰のためのEU(ヨーロッパ連合)で、誰のためのNATOなのか?を改めて問わないといけない時代になったことに唖然とするのは、ヨーロッパに住んでいるひとたちの方であろうけれど、まさに日本の高利貸しのCMをもじって「そこに民主主義はあるんか?」を問いたいのである。

何度も書くが、EU機構には、「EU委員会」と「EU議会」とがあって、あたかもEU議会が立法府のようにみえるけど、まったくそんな建て付けになっていない。
驚くことに、官僚で構成されるEU委員会を仕切る、EU委員長こそが事実上の独裁的権限を握っているのである。

それが、ウルズラ・フォン・デア・ライエン(Ursula von der Leyen)だ。

「フォン」がつくから、ドイツ貴族の出自であることがわかるこの女性政治家は、メルケル首相のお気に入りとして頭角を現したが、人間、邪悪な心を剥き出しにすると、「顔」にあらわるので、いま、『赤ずきんちゃん』の魔女のような顔つきになったこの人物がなにをかんがえているか?を容易に察することができるようになってきた。

その例が、半年だけの持ち回り順序でEU議長国になったここ1番のチャンスをおおいに活用した、ハンガリーのオルバン首相とのウクライナに関する激論であった。

ハンガリーには、1956年10月23日に起きた「ハンガリー動乱」という歴史があるけど、その前、わが国にとっては「枢軸国」としての同盟関係にあった国である。
ハプスブルク家と二重帝国だったヨーロッパの名門国が、二度の大戦によって「ソ連圏」になった悲劇のひとつがこの「動乱」であった。

ソ連の体制を憎みつつも、ロシア人をよくしっているのが、ハンガリアンなのだ。
その血をもって、いま、EU委員会委員長のソ連化を憎むのは説得力がある。

そのEU委員会委員長の配下に、NATOとECB(ヨーロッパ中央銀行)があって、軍事と経済を仕切っている。

だがこれらはみんな表向きのことで、裏向きにはスイスのダボスにある「世界経済フォーラム」があり、その上位に「ビルダーバーグ倶楽部」が君臨している。

自民党は、すっかりこれらの「裏向き」によって屈し続ける便利な存在になったのである。

なぜなら、自民党の本社、アメリカ民主党が、これらの配下にあるからだ。
それでもって、民主党はカマラ・ハリスの敗北に焦っていて、自民党に選挙中にもかかわら滑り込みによるウクライナ支援をさせたのだろう。

しかして、中谷氏の選挙区は「高知1区」だが、対抗馬は立民だけという二択が強要されている。
どちらも「増税」を掲げる似たもの同士だから、高知のひとに実質選択肢は用意されていない。

まことに、小選挙区制とは悪辣な制度を導入したものだ。

この選挙制度こそ、日本を衰退させる「永久機関:エンジン」の心臓部なのである。

トランプ圧勝は希望的観測か?

前に「3月14日の大予言」としてレーガン大統領のことを書いたが、各種調査のなかでも「かたい」と評判の分析会社が、トランプの「地滑り的大勝利」を予測して、支持者からは希望的観測であろうがなかろうが、喜ばれているのは事実である。

それに、極秘のはずの民主党内調査結果が、何者かにリークされて、カマラ・ハリスの「勝率0%」に震え出しているという。

ただし、このことの事実関係が不明なので、なんともいえない。
なお、この手の「内部調査」は、共和党も実施しているから、特別なイベントではない。

もちろん、日本の自民党も、あの巨大広告代理店にさまざまな調査を依頼しているし、そのまま宣伝のためのコンテンツ制作もしているのは、巨額の「政党助成金」があってこその余裕だろう。

このところ驚いたのは、公明党の宣伝が、「ラップ」であることで、その意図は若者をターゲットにしていることだけは理解できるが、まったく共観しない・できない老いた自分がいることに気がついた。

アメリカでは、有名ミュージシャンが政治発言するのはふつうなために、それが本業の人気に影響するというベクトルが働くので、なかなかに勇気がいることだ。

けれども、アメリカの芸能界は、「マネジメント」が強固な体制となっているので、ミュージシャン本人が本気で支持しているとは限らない。

マネジメントの意向に従っているだけの演技なのかもしれない。

それにしても、アメリカの有名ラッパー「ディディ」すなわち、ショーン・コムズ氏の逮捕が大騒ぎになっているのに、公明党がこれを無視するかのように流しているCMは、なんなのか?

ずっと「噂」レベルの、児童が絡む人身売買の闇が、一部だが明らかになりつつあるのも、「オクトーバー・サプライズ」なのだろうか?

欧米で、とかく下半身の問題が派手なのは、やっぱり「肉食の文化」を彷彿とさせるのである。

これには、家畜とともに暮らすしかなかった、地理と気候が強く影響している。
「財産」を家畜の頭数で表現するのは、後進地域ではなくとも、いまだにリアルそのものなのだ。

しかして、絶対的な民主党の土地柄と信じられてきたカリフォルニア州は、過去30年間、共和党候補が見向きもしなったけれど、ここに登場したトランプ氏の集会には、なんと10万人が押し寄せた。

じつは、カリフォルニア州は、かつて共和党の牙城だったが、レーガン氏が移民の選挙権を認めて以来、圧倒的な民主党の州になったのである。

それで、民主党はカリフォルニアで好き勝手やってきたら、とうとう「いい加減にしろ!」になってしまった。
この映像が、全米に配信されるやいなや、ドミノ的・オセロ的な「どんでん返し」がトレンドになっている。

トランプ氏がひとこと発するたびに、熱狂的な声援(たとえば「USAコールの連呼」)で止めるのは、むしろ嫌がらせにも聞こえなくもないほどなのである。

どうやらニューヨークでも同様の現象が起きている。

一方で、まったく不人気のバイデン政権の実績から逃れたいというご都合のカマラ・ハリス陣営=首都ワシントンD.C.の住民たちは、バイデン政権の政策を全面的に支持するといった本人の言動に固まってしまった。

トドメは、16日に初出演したFOXニュースのインタビュー番組に出たことで、たった25分ほどの時間で自身の選挙スタッフからの「タオル」がはいって、自爆的TKOされて終わったのである。

質問者は反トランプでしられるキャスターだから安心したのかもしれないが、このひとの特徴は、淡々と聞きたいことを聞く、というスタンスであることを忘れたようだ。
あまりの意味不明な返答に、質問者だけでなく、視聴者も唖然とした。

この放送直後、CNNが自局のコメンテーターを集めて、FOXニュースのこのインタビューに対するコメント番組を流した。

それが、カマラ・ハリスは、「もうダメだ」だったのである。

これが、地滑りの一方の滑り方なのである。

日本国内「反トランプ派」の自己防衛論

アメリカの(左翼)大手メディアが、民主党カマラ・ハリスの敗北を意識しだして、アリバイづくり的な自己防衛からの、「カマラ・ハリス批判」を展開しだして注目されている。

かんたんにいえば、逃げ出した、のである。

しかし、地球はおおきく広いからか?わが国の(左翼)大手メディアは、周回遅れ以上のボケがまわっていて、徹底的にトランプ恐怖症を視聴者や読者に擦り込む努力をやめていない。

国家安全保障よりもカネを優先順位トップに置くのも、過去からの常套手段で、トランプが公約に掲げる、関税率の大幅上昇をもって輸出が主軸の経済界を脅迫している。
それでも、トランプがいう、「各国ファースト」で、自国の安全保障は自国でやれ!という常識に過剰反応している。

日本の防衛をになう、アメリカ軍への麻薬中毒的依存がやめられないのだ。

だから、「アメリカ国民が負担して、同盟各国の防衛を担っているのだから、各国は応分の経済負担をせよ!」には、防衛費負担が重くなることは日本経済の重荷だと従来通りの主張するのである。

つまり、日本の「(米軍駐留費に対する)おもいやり予算が増える」というさももっともらしい理由で、反トランプを主張する最大の根拠になっている。

かつてあった、「防衛費=GDP1%以内」という数字的根拠不明の神学論争からしての結論からすると、「とんでもない負担の強要」にうつるようである。

けれども、この議論が「ヤバイ」のは、「日米安全保障条約」と、「日米地位協定」についての、「あいまいな当然」を基礎としている点であるし、そもそも講和条約によって主権を回復することの交換条件が、これらふたつの約束ごとであったのは、戦後の世界秩序(=米ソ冷戦)を前提としていたことにある。

極東の、「日米」と、ヨーロッパの、「NATO」がこれの具体的なかたちなのであった。

しかして、もう30年以上も前になる、90年代におきた「ソ連崩壊」で、戦後秩序の前提条件が変わってしまい、その結果として、アメリカは92年に、グランドストラテジーを書き換えて、議会承認までやっている。

ときは、いわゆる軍産複合体による父ブッシュ政権であった。

ここから、アメリカは「一極支配の永久化」を国是として、おなじ穴のムジナ、民主党クリントン政権に引き継がれて、政権政党に関係なくオバマまで一貫してやってきたのである。

これに突如異議を唱えたのがトランプで、それが「多極化の容認=各国ファースト」のスローガンだった。
直接アメリカ国民に「アメリカ・ファースト」を呼びかけているのは、同盟各国には、自国ファーストの手本をみせているのである。

日本でさっそくこれをパクったのが、最初に都知事選にでたときの小池百合子だった。

圧勝の勢いから、自身の与党、『都民ファーストの会』までつくったのを、「ファストフード」中毒で脳が冒された日本人は、もうすっかり「自国ファースト」の意味すら忘れたが、それはさいしょから理解なんかしないファッションでしかなかったからである。

その小池は、なんと初代防衛大臣だったのだ。

彼女がはたしてどこまで日米安全保障条約を理解していたのか?いまだに不明だけれど、国家の防衛はアメリカにやらせておけばいい、という「吉田ドクトリン」なる上から目線の(差別)発想で、あの竹下登をして「おもいやり予算」なるへんちくりん用語をおもいつかせたのだろう。

しかし、その吉田茂のコードネームは、「Pochi」だった。
これぞ敗戦=占領=被征服の実体で、上から目線の言い分は国内向けに限られた当然がある。

一般的に、外国に自国の防衛を依存するのは、「属国」か「保護領」といった、その外国が好き放題できる「植民地」しか想像できないのが欧米人の歴史なので、あたかもわが国が独立国家であるというかんがえは、彼らの常識からすれば「冗談」にすぎない。

なので、「おもいやり予算」といういい方をアメリカが許すのは、奴隷や家畜がなにを言おうが気にしない、飼い主の判断なのである。

つまり、反トランプ派の主張とは、飼い主様である民主党やらに都合のよい主張であって、なんだか知能を疑いたくなるのである。

それにこれをいうひとたちは、総じて「アメリカの核の傘に守られている」という、飼い主が屋根付きの家畜小屋をつくってくれたことを歓ぶのだが、吹けば飛ぶような屋根を、飼い主様の堅牢なお屋敷とおなじだと信じているのである。

いまの世界には、超小型原爆がある。

一方、核分裂の制御を要する、原子炉だって、三菱電機が直径1m、長さ2mのトラックで輸送できる「マイクロ炉:超小型原子炉」を開発済みなのだ。
爆発させるだけ、なら、人間が持ち運べる大きさと重量のもの(ポータブル原爆)はもうできているらしいけど、秘密なので披露しないしまだ実戦で使わないだけなのだ。

これを「戦術核」とひとくくりでいうが、もうちょっと分けていうべきだろう。

それに、ウクライナでの戦闘を観察すれば、わたしのような素人でも、アメリカ軍やNATOの既存(ハイテク)兵器体系が、ドローンを主とする現代戦においてぜんぜん使い物にならないことを実証している。

西側各国の「軍監」たちは、現場をどのように分析しているのだろう?

アメリカがテロ対策としてロケット弾を防御するためにイスラエルに配備した「アイアンドーム」は、イランが発射した弾道弾の飽和攻撃にまったく対処できなかったのを、あたかも花火大会のようにみせてくれた衝撃は世界を震撼させたのだ。

この「震撼」が、まともな国の、まともな防衛責任者の反応だ。

しかし、わが日本人は、お笑い番組に脳をこわされて、自分事として想像するにもおよばない阿呆集団としての家畜化が完成している。
どうして、北海道のひとや、九州・沖縄のひとは黙っているのか?不思議でならないが、おそらく「声」をなかったかのようにしているからだろう。

でも、わが国を好きにしたい邪心を抱くなら、適当な大都市の郊外あたりをねらって、正確に弾頭なしでも数発を撃ち込めば、すぐさま白旗をあげるしかない。

この意味で、在日米軍や在韓米軍は、とっくに人質になっている。

だから、ひそかに縮小させて、沖縄には今年から海兵隊はいなくなるし、F35も配備されていない(なんとアラスカで待機している)で、しらないうちに「張り子の虎」になっている。
それを隠すための、辺野古移転騒動、となっているのではないか?

それもこれも、ケインズの有効需要のはなしで、なんだかしらないがなにか建設すれば経済はまわる、というものだ。

わが国を代表する「経済紙」は、その経済音痴ぶりで有名になっている。

なにもこの新聞だけでなく、全国紙の全紙がまったく読む価値のない、ただの「新聞紙」をべらぼうな価格で売っている詐欺商売だとしれている。

しかしながら、新聞にはむかしから「縮版版」という、タトゥーがある。

哀れにも、アリバイづくりもできずに虚報をたれながして、後世の読者層になるいまの子供世代から「噴飯物」といわれることも、覚悟できない愚か者たちの証拠が毎日印刷されているのが、どうにも愚かしいのである。

課長決裁の重みを議論する有識者

14日、長野県長野市で、「児童公園からの子供の声がうるさい」との周辺住民からの苦情を受けて、課長がこの公園の「廃止決裁」をしたら本当に廃止になった件について、市の有識者たちが議論したとニュースになっている。

なんでも、上司の部長やそのまた上司の市長への「報告」が遅れたことと、一部の住民からの苦情だけで「廃止」にしていいのか?という問題を議論したのだという。

つまり、ふたつの問題がある、ということだ。

・課長の決裁権限
・公園廃止の事前ルール

少なくとも、戦後の約80年間、わが国では、「つくること」と「維持すること」をやってきたが、「やめること・廃止すること」についての方法論(条例の制定)は、事前に準備されていない落ち度がある。

この問題は、事前に廃止のルールがないのに、行政職にある課長職の職務権限だけで、あたかも廃止という決定がされたという順番での「問題」なのだ。

すると、根元にあるのは、「(新たに)つくること」にかかわる条例に「廃止」が想定されていない、という一点に尽きることがわかる。

これはもう「行政職」の問題ではなくて、「立法を職務」とする、市議会の落ち度となるのは、民間感覚でいえば常識だろう。
ちゃんとした民間企業では、「撤退条件の事前設定」といい、新規事業や新商品販売をはじめる前に、「撤退もセット」で決めることとするのである。

なお、撤退条件には、「機械的に判断するための単純ルール」が用意されているのも重要なポイントなのである。
だれがどう読んでも、おなじ撤退判断ができるように準備するからだ。

そうでないと、撤退の決断が遅れ、損失が膨らむリスクが増大するからだし、将来のある時点で、「はじめる」と決めた社長や取締役の任期を超えてしまう判断にも寄与できるという責任論からでも重要なのだ。

だから当初に設定した撤退基準に該当する状況なのに、それでも撤退しない、という判断をするのは、その時点での経営判断となる。
これも、自動的にだれ(たとえば「株主」)にでもわかるようにする(記録される)ことも内包する仕組みなのである。

このことは、兵の命にかかわる軍事における作戦の評価でもおなじだ。
なので、現場指揮官と作戦参謀それぞれの評価になって、必ず記録され、歴史の判断にまかされることも想定しているのである。

こうしたあたりまえの視点が、今回の「有識者」に欠如しているようにみえる。
まったくウクライナ軍の作戦(戦況)評価がメチャクチャなのとそっくりなのだ。

それに、この話題をニュースにした者たちにも、ぜんぜんないのは、いったいどういうことなのか?

つまり、行政権が絶対だという前提条件でだけ議論しているのだ。
まったく、「民主主義」を理解していない。

だから、一部の住人から「だけ」の苦情で廃止を決めていいのか?というトンチンカンな後付け話になって、あたかも事前に権限がないはずの(たかが)課長が決裁し、上司への報告が遅れたことが問題だということにしかならないのである。

一部の住民「だけ」の意見だったから問題だというなら、議会はどうなのか?が必要になるのは当然ではないか。
しかし、議論の範囲が「市の行政」に限定されているから、二元政治の一方の議会に言及できなかったのだ、とせめてもの解説はあっていい。

この解説がないので、おそらく能天気極まりない市議会とその構成員たる市会議員たちは、当該選挙区以外のほとんどが他人事でいるにちがいないのである。

この想像力の欠如、このルールづくり(条例制定)への無関心は、病的なのだ。

長野県(=「信州」)といえば、かつての貧しさから、教育に力点をおいて発展してきた地域として、全国に名を轟かせたものであったが、いまはその貧困が「政治的貧困」にまで堕ちた。

それもこれも、国から副知事やら局長級やら部長級の役人を「出向」で受け入れてきたための堕落だろうし、おそらく国会のプロパー職員を受け入れたことがないのだとかんがえられるのだ。

無論、わが国の国会職員は、「特別職国家公務員」だとされていることさえも、日本国民のほとんがしらないで生きている。
一般職と特別職のちがいすらわからないのではないか?

すると、実務として行政職が頼りにしているはずの、市の顧問弁護士はどういう法的アドバイスをしたのか?という疑問もでてくるし、「それは議会で議論すべき問題」とならなかった事情も気になる。

まったく、どいつもこいつもなっちゃないのである。

わが国は、戦前・戦中にまだあったはずの民主主義を、根底から失った、永遠の敗戦国なのである。

「訃報」も信用できないのか?

たまたまだとおもうが、国を離れたふたりの「訃報」がネット上で話題を呼んでいる。

ひとりは、声優の大山のぶ代さんで、もうひとりは、ペルーの元大統領だったアルベルト・フジモリ氏である。

あれ?
このふたり、ずいぶん前に訃報を見聞きしたような?

おなじ「記憶」のあるひたちが、ネット界隈で「?」をコメントしているが、そうでない「反論」もある。
その根拠が、「Chat GPT」とか「ウィッキ」とかという、不正確も甚だしい情報源ばかりを信じるものばかりなので、余計に怪しいのである。

それで、いくいつかみつくろって別のA.I.に質問すると、大山さんは2016年に亡くなっているとかと出てくるし、フジモリ氏も弔い合戦で娘のケイコ氏が大統領選挙にでたのではなかったのか?
だから、感覚的には、こんな時間経過の「感じ」がしっくりすると書き込むひとが多数いる。

「マンデラエフェクト」か?

これは、ネット上の「スラング」といわれ、多数のひとがおなじ勘違いの記憶をもっていることをいい、ひいては量子論と結びつけて説明する者もいる。
いわゆる、「パラレルワールド」のことである。

人間の記憶は、脳がコントロールしている。

その脳とは、生体の量子コンピュータではないか?と唱えたのは、あのニュートンの席にすわっているペンローズ博士である。
だれもが、「思い込み」を経験するが、これは脳が勝手に記憶をつくることから生じることだというのもわかっている。

すると、不特定多数のひとが、ほぼ同時におなじ勘違いをする現象はどうして起きるのか?

おそらく、信じるものが自分だけになっていることが根本原因なのではないか?
とくに、マスコミを信じない、ネット上の検索エンジンを信じない。

これらは、編集されているからである。

マスコミは原始的な方法、すなわち人間の組織のうちで、権限がある者によって編集され、それがその組織内だけでひとり歩きをはじめるものだが、検索エンジンは、人間が意図して書いたプログラムによって編集されているというちがいはあるけど、けっきょくはどちらも人間がしっかり意図的に関与しているという共通がある。

つまり、こうした人為にたいする疑念を、脳がなんとかしようとして物語を書き出すが、そのネタがまたどこかにある共通の記憶を原材料としているのだろう。

すると、おかしいのは、A.I.の回答だ。

ところが、無料で提供されている各種A.I.をためしてみたらわかるが、あんがいとこれらはウソをつく。
勝手に物語をつくりだす、のである。

これはこれで、当然だ。

なにしろ、人間の脳を科学して設計されたのがA.I.だからだ。
すると、A.I.は、大山のぶ代さんの訃報の記録を、なにをもって書きだしたのか?という、あたらしい疑問がわいてくる。

最新の科学によれば、この世の中のすべてはホログラムのような幻想だというし、時間も存在しないならしい。
それがまた、こうした先端科学の研究者を、仏教の信徒にさせるのだ。

開祖、ゴータマ・シッタールタは、キリスト教のイエスとちがって、遺骨が発見されたことから実在の人物であり、誕生がキリストを起点とする紀元前5から6世紀というから、紀元(後)1世紀に書かれた最初の『新訳聖書』よりも、最大で700年早い。

その「宇宙論」が、最新科学と合致することが研究者を引き込むという。

すると、このうつろいゆく世界は、やはり幻なので、「物故する」ことも幻のなかにふくまれて、いつだっておなじなのだという無常そのものなのだ。

『レ・ミゼラブル』とは、「ああ無情」と訳された。
その無情ではなくて、常に存在のない「無常」である。

『ドラえもん』といえば大山さんの声がインプットされているが、最期に「無常」までセットされたのは、ふたりの藤子不二雄と大山さんのおかげだった。

合掌。

専業主婦の生産性

新聞記事をどんなに集めて読み込んでも、歴史にならない、といったのは名著『明治大正史 世相編』における「自序」で告白した柳田國男であった。
なお、残念なことに、全6巻から「世相編」以外の他の5巻は、国会図書館で閲覧するしかない。

朝日新聞には、是非復刻してしてもらいたい。

さて朝日新聞の重鎮でもあった柳田が、新聞の限界を語ったのは、新聞が書かない、もっといえばフォローしきれないおおくのことの積み重ねが「歴史になる」からである。

似たようなはなしに、「統計」がある。

データとして集め加工したものが統計量となって世間に発表されるけど、そもそもデータとして扱われないおおくのことは、統計としてわかりようがないからである。

それにまた、統計に見せかけたゴミが大量に生産されていて、その背後に「ごみデータ」の使用が山のようにあるから始末がおえなくなるのである。
統計の基本として、ごみデータからはゴミしかでてこない、がある。

これにくわえて、「因果律」の誤用もあるから、現代人は正しい統計知識を持たないと、すぐさま騙されてしまう危険にあふれている。
「因果応報」の「因果」のことで、原因と結果の短縮語であるけど、結果から単純に原因をいいあてることはできない。

たとえば、有名な誤用として、文科省のポスターにどういうわけかいつまで経っても訂正もなければ詫びもない以下がある。
それは、「成績優秀な子供は朝ごはんを食べている、ということに基づいて、朝ごはんを食べれば成績が良くなる」と明記したものである。

よく読めば、前段の「成績優秀な子供は朝ごはんを食べている」と、後段の「朝ごはんを食べれば成績が良くなる」に、因果関係はぜんぜんないことに気づくだろう。

これが、文科省のお役人様の数学的リテラシーのレベルの低さを表しているのだが、もう笑って済まされるはなしを超えていて、彼らは「朝ごはん」に予算をつけるに至っているのだ。

国家はどこまで個人の生活に介入するのか?をかんがえた場合、共産化が止まらない、といえる。

それで、「専業主婦」という職業には、(経済的)価値創造の尺度が与えられていないので、データの取りようもなから、統計に出てこない。

これをまた、むかしの経済企画庁があった内閣府や、総務省統計局、あるいは経済産業省、最新ではこども家庭庁のお役人様は、データがない、ことからの因果律の誤用をして、「専業主婦の労働には経済価値がない」という暴論を吐いて平然としている。

ならば、「家政婦」さんの価値創造をどう見るのか?と問われると、話題を換えて逃げるが一番となる。
こうして、何もわかっていないことだけが質問者にはわかるのであるが、カマラ・ハリス同様に、問われた本人には自分が理解不能だということも理解できないのである。

もちろん、一口に「専業主婦」といっても、申し訳ないがピンキリの幅があるはずだ。

優秀な専業主婦は、「家事」における専門家としてのあらゆる情報収集と、活用の実践を心がけていて、たとえば「食生活」における、「医食同源」の発想から、家族の栄養だけでなく健康に関しても気を遣っている。

すると、ピンとキリの差は、時間経過とともに、家族の健康が失われ医療費が嵩むようになるのと、その逆のことが起きて、驚くほどの「経済格差」を生む原因となる可能性が高いばかりか、外で働くことでの稼ぎよりも、ずっと大きな価値の差になり得るのだ。

それがわたしがいいたい「家政学」の重要さなのである。

また、自動車ローンの契約でも必須である、「金利計算の知識」は、いま学校の「家庭科」で扱っていると書いた。

上の例でも示した、トンチンカンな文科省は、高校生に必須だといって「金融リテラシー」なる授業をやっているが、なんのことはない、証券会社の営業マン氏が講師になって登壇し、投資商品を紹介をしているにすぎない。

賢い主婦とは、国家管理の栄養士でもなに士でもなく、自分の家族のために的確な情報を受け止めて応用できるひとを指すのだ。

すると、そんな素地をどこで磨くのか?が問題になってくるのは、『産学連携と科学の堕落』にあるように、国家管理の大学(研究予算の配分を国がやる)では役に立たないからである。
つまり、「士業」としての勉強ではない、もっと応用範囲が広大な「主婦」としての基礎から学ぶべき場所が、この世に皆無だということがわかるのである。

「奥」の一切を取り仕切って、この分野では主人さえも口出しできない「奥様」を養成するにはどうしたらいいのか?

「女子教育」の重要性はここにあったはずが、子育ても含めてまったくのお門違いとなったので、家族が衰退し、ひいては国家も衰退がとまらないのである。

これらを政策として、わざと国が推進するのは、家庭=家族の破壊が共産化=全体主義への近道だからである。

そんなわけで、家庭から主婦をなくして、外部社会で働かせるための税制やらを用意して、ダブルインカムでも贅沢な暮らしができないように、夫婦が揃って働かないと生活できない賃金体系をつくったのである。

これに阿呆な経団連を代表する民間経営者たちが、目先の人件費コストのダウンによろこんだら、少ない賃金による消費が減ってあたかもデフレになってしまった。

そこで懲りずに国家依存して、アベノミクスなる社会主義(福祉分配)経済政策を「保守」と呼んで、国民乞食化の長期低迷を固定化したのだった。

すると、日本経済の処方箋はなにか?を問えば、ミーゼス、ハイエク等のオーストリア(ウィーン)学派の主張しか選択肢がないことに気づくのである。

トランプがこれをふたたび実施する。

疲労がポンと取れるヒロポン

こないだの末尾で紹介した、「青空文庫」にある『安吾巷談1 麻薬・自殺・宗教 』についてのはなしの続きだ。

まお、「青空文庫」とは、時間の経過で消滅した著作権のない作品を集めている、無料の電子版文庫のことで、ボランティアが入力から校正、制作にあたっている文化活動のおかげで得られる恩恵をさす。

さて、昭和を代表する「無頼派」作家で有名な坂口安吾の代表作は、『堕落論』であった。

しかし、彼が「無頼派」と呼ばれるのは、ハッキリと忖度も遠慮もなく書いたことで、世相・風俗についても同じだったからだろう。
それでも人間関係が壊れなかったのは、本人の個性も含めていろんな事情があったからだとわかる。
ゆえに著作権が切れた長い時間とともに、「資料性」をましている。

ときに、ふつうの人間は生活上で当たり前のことをわざわざ書き残すことはない。

たとえば、「トイレ」での用足しは、生活上の当然だから、どんなふうにするか?とか、どんな構造の設備をつくるのか?とか、古代遺跡ならまだしも、対象が中途半端なむかしだとよくわからないブラックボックスになるのである。

奈良・平城京のお屋敷跡から大量に出てきたのは、先のとがった竹のヘラだった。

痛くなかったのか?が話題になったもので、洋式になったばかりか「温水洗浄便座」が普及したいまでは、肛門括約筋が弛んでお漏らししてしまう高齢者が大量生産されている「真逆」がある。

本稿のテーマにした、『ヒロポン』は、かつて一般人に広く愛用された「常備薬」ともいえる覚醒剤のことである。
なんだか犯罪臭がするのは、だれでもしっている「覚醒剤取締法」があるからだが、この法律が施行されたのは、まだ占領中の昭和26年(1951年)7月30日のことなのだ。

つまり、敗戦からざっと6年間は、「合法」であった。

疲れが取れるから、重労働の社会人は当然として、勉強に励む学生にも集中力を上げるために常用された。
あたかも、いまでいう「健康ドリンク」のようなものだった。

むかしのCMで、「一本いっとく?」とか、「ファイト!一発!」というキャッチフレーズは、意味深なのである。

けれども、これが習慣化すれば、中毒となってえらいめにあう。
そのために、使用回数とか使用量がふえての悪循環となり、とうとう精神病院での入院生活がやってくる。

むかしの映画やドラマに、精神病院を舞台とした作品がおおかったのは、それだけ一般人に身近だったからか?

くわえて安吾は「睡眠薬の常用」についても書いている。

なんのために睡眠薬をつかうのか?
眠るためではなく、少量の酒で酔うためであった。
なにしろ、「メチル」を呑んで失明するひとや命をおとすひとがたえなかった、酒が貴重な配給品の時代だったからである。

しかも、この錠剤を、酒のつまみにするという乱暴な飲み方があったという。

ヒロポンは静脈注射が常習者の使用法だったが、皮下注射の液体と経口の錠剤もあった。
それとおなじに、とくにウィスキーとの相性がよかったという。
強いアルコールが、なんだかしらぬが「中毒防止」になると信じられていたようで医師も推奨したとある。

ならば焼酎、といかないのは、当時の焼酎がこれまた劣悪の代名詞だったからである。

焼酎が市民権を得たのは、はるか後世の80年代で、突如『いいちこ』が出現して、想像をこえる驚きのうまさにあっという間にカネのない学生や若者世代に普及したからである。
だが、戦後の「カストリ」をしる中高年のおとな世代は、よほどの酷い目にあったのか、用心深く「焼酎ブーム」を容易に信用しなかった。

子供だったわたしの周りのおとなは、だいたいが昭和一ケタよりも前の生まれのひとたちばかりで、これらのひとたちは総じて「薬好き」だった。
酒好きだった父親は、もっぱらウィスキー派だったが、安吾のこの作品を読んでもしや?と思いあたった。

物心がついてきたわたしのしるかぎり、海軍の幼年兵から少なくともまだ30代(の若さ)だった父は、『アリナミン』を常用していたし、風邪気味だといえば子供のわたしにも『アリナミン』を飲めばいいのだといって1錠くれたものだった。

あの黄色い糖衣錠が、溶けてそのまま出てくるかとおもうほどわたしの尿は黄色くなった。

このところ、別に「アヘン」の解説『満州アヘン帝国』を読んで、ヒロポンとアヘンの「薬効」の共通点があることに気がついた。

それが、性行為における持続力だ。

もちろんウソか真か、しらないけれど、安吾も錠剤をアテにウィスキーを飲んで、そんな行為ができるものか?と書いている。

だが、戦後日本の夜の世界(米兵もふくむ)で、ヒロポンが流行ったことは、妙にうなずけるのであるし、畠山清行著『キヤノン機関』にある、大陸馬賊に交じって諜報をやっていた中島辰次郎氏の告白にある女首領とのことは、ウィスキーなしのアヘンの効果だとおもえばリアルなのである。

別の『巷談5湯の町エレジー』の文章で、伊豆半島は伊東までとその先とで文化がかわると書いている。
それが当時はやった心中事件とかの後始末を例にするから、迫力というか凄みがあるのだ。

この作品での安吾の書き出しは、
「伊豆の伊東にヒロポン屋というものが存在している。」
だ。

坂口安吾は、伊東で暮らしていたからはなしを盛っているのではない。
ただこの話の真偽を確認しに、伊東の図書館を訪ねたくはなった。

戦争で銃後の内地にいても、空襲やらでえらいめにあうのはふつうだったから、亡骸を目にするのが日常だったことが、いまからすると異様にかんじる。
とはいえ、わが家から徒歩圏の東海道、保土ケ谷宿と戸塚宿の間には、「投げ込み塚」がのこっていて、行き倒れになったひとをここに投げ込んだと説明にあるほどのものだった。

そうやってかんがえると、講和条約の前年に「取締法」ができたのは、日本からの引上げを前提にして、好き放題をやったことの隠滅を意図したのではないか?と疑いたくなるのである。

その好き放題の悪習の名残が、ウィスキーだし、『アリナミン』だった、と。

さすれば、むかしどこにでもあったけど、子供にもなんだか場末感がある『トリスバー』の怪しげな薄暗い灯りとはなんだったのか?

はは~ん、なのである。
それに、むかしは子供を居酒屋とかの呑み屋につれだすおとながいなかったのも、はは~ん、なのだ。

ましてや、わたしが育った横浜は、世界一を誇る港町=世界一荒っぽい街、だった。

いまどきなら、子供連れをありがたる居酒屋チェーンを敬遠する自分がいるけど、どうやら敬遠した当時のおとなの意味がぜんぜんちがう。
男も女も荒っぽかったむかしの自己防衛が、子供連れで呑み屋にはいかないことだったにちがいない。

青江三奈がハスキーボイスで唄った、『伊勢佐木町ブルース』の伊勢佐木町が、昼も夜も横浜の中心街で、まだ横浜駅西口全体が場末だったころ、夜9時台といういまなら宵のうちの時間でも酔っ払いはたくさんいて、親子連れでもふつうに話しかけられたものだった。

当時の東急・東横線は、夜9時をすぎると急行がなくなって、全線、各駅停車になったのだ。

それにしても、いまも「薬好き」な国民性は、世界的に珍奇な薬にも抵抗がないことでわかるのである。

はたしてこれが、「科学万能信仰」からだけのものなのか?

柳田國男で温故知新

この世には「名著」だけでいったいどれほどの書籍があって、それを読破するにはどれほどの時間を要するものか?

昭和5年から翌年にかけて朝日新聞が発刊した『明治大正史』の第四巻が、柳田國男が担当した『世相編』であり、いま、『明治大正史』として復刻発刊されている名著のひとつである。

ために、本書は、朝日新聞版、定本版、東洋文庫版、中央公論社版、講談社学術文庫版、角川ソフィア文庫新編版といった各版が存在している。

柳田が「自序」として書いたなかに、「じつは自分は現代生活の横断面、すなわち毎日われわれの眼前にでては消える事実のみによって、立派に歴史は書けるものだと思っている」とある。
ただし、このあとに、「失敗した」とも残している。

けれども、柳田は失敗なぞしていない。

いまから94年前に書かれた、それ以前の生活の断面は、むしろ貴重な記録として燦然と輝くのである。
しかも、著者は、わが国民俗学の祖なのだ。

柳田自身も、当時の「朝日新聞社」の重鎮であった。
21世紀のいま、倒産の危機にあるとはだれが想像したであろうか?

よって、本書は、まさに当時の一般人向け教養講座のひとつとして書かれているから、まちがいなく読みやすい。
現在のところ版の最後=最新にあたる、「角川ソフィア文庫新編版」では、現代人にわかりやすいよう細い注が大量に配されている。

94年前の日本語の単語が、もうわからないことへの配慮なのであるが、やり過ぎ感があるのは、さらに100年後を見据えているからなのだろう。

欧米の知識人は、一般にいま起きていることの根には、最低でも200年は遡らないとわからないことを常識としている。
「舶来信仰者」からしたら残念ながら、わが国の文化的発展は、欧米の比ではないほどの高度さだったかから、現代日本での出来事の根は200年辿れば済むような簡単さではない。

幕末・明治以来、ふつう、欧米の方が進んでいるものだと決めつけて、戦後はアメリカ一辺倒になったのは、まったく筋がとおらない暴論である。
それは、すこしばかり早かった産業革命の産物としての目線でしかないからである。

文化が衰退すると文明となって、やがてこのサイクルの文明も滅び、あたらしい文化が生まれ、それがまた衰退して文明となることを何度も繰り返しているのが人類だ。

逆に、古くから文化先進国だったわが国では、なかなか文明に堕落するまでの衰退がないので、国民のキャッチアップ速度と津々浦々まで文化が浸透し影響の広まる速度の方が、はるかに欧米よりも高度なので、織豊時代の宣教師や幕末・明治の外国人からしたら、「異常」なまでに見えたのである。

しかし、実質的に世界帝国だった英国の傘下に組み込まれた、明治・大正の時代とは、過去の習慣・風習を急速に捨てる「欧米化=文明化の堕落」で成り立っていたから、(伝統)文化とのトレードオフの関係があった。

おそらく、その捨て方のバッサリ感も、あたかも「ちょんまげ断髪」のごとくで、戦後の高度成長どころではなかったのではないか?

ヨーロッパでいえば、いまだに王侯貴族たちの身分制があることだけを捉えても、わが国の変化は尋常ではないことがわかる。
これはもう、「良い悪い」という問題ではない、別次元で起きたことの事実だ。

当然だが、この書でいう「現代人」とは、昭和5年当時の読者諸氏を指している。
しかし、その浅さは、21世紀まで時代を下るごとに薄さをましていることがわかる。
それは、けっして「研ぎ澄まされた」という意味ではなく、浅はかになる文明化なのだ。

柳田國男の生まれは、明治8年(1875年)で、昭和37年(1962年)に逝去したから、戦後の高度成長を見据えてもいた。

これは別のたとえでいえば、「明治女」を書き残しておきたかった、と執筆動機を語った、橋田壽賀子がいる。

その代表作『おしん』の主人公、谷村しんは、明治34年(1901年)生まれの設定としていたのは、1925年(大正14年)生まれの橋田からみて、自身の母世代のイメージからであると書いている。

還暦を過ぎたわたしからみれば、昭和5年は母の生まれた年であって、明治36年生まれの祖母の話が記憶から呼び覚まされるおもいがする、どこかに懐かしさが湧いてくる本なのだ。

確かに、こんなひとたちがいた。

しかし、やがて、『おしん』さえも、過去と分断された戦後の日本人には、自分とは関係のない「資料」になってしまうのではないか?

さて本書の記述法として、柳田は一切の固有名詞を意識的に排除したことが、一般論として効果をあげている。

いまのひとたちは、「未来志向」という名分で、過去を顧みないのは、進歩主義=社会主義にすっかり洗脳されてしまったからだ。
しかし、『おしん』の前半、すなわち「貧乏物語」へと徐々に戻っていく現実の衰退を通じて、いつしか実感になったときが「復活のとき」になるのか?

温故知新、すら死語になりつつあるいま、読んでおくべく一冊であろう。