多様性欠如の左翼は必ず分裂する

言葉の定義が重要なのは、定義が曖昧なままの議論では、複雑になればなるほど、細部に至れば至るほど、何の話をしているかがわからなくなるからである。

本稿でいう「左翼」とは、社会主義・共産主義・全体主義を標榜するひとたちを一括りにしたもので、反対語にあたる「右翼」とは、自由主義者のことである。
これはハイエクの定義だ。
なぜなら、自由主義者で全体主義を求めることは、論理矛盾であるからである。

なので、面倒なのが「保守」という括りになるのである。

たとえば、左翼にあって保守するとは、「極左」のことを指すし、右翼にあって保守するといえばそれは何のことか?かなり曖昧になるのである。
それで、伝統的とか歴史的な「もの」や「こと」を保守するのが、保守主義ということになっている。

この曖昧さゆえに、前述のハイエクは、自らを「保守主義」者ではないことを表明して、あんがいと当時は物議を醸したものだが、やがて忘れられた感があるのは、世の中が「左傾化」したからだ。

仕方なくこうした三つの括りをもって、わが国の現状政治を眺めると、「日本保守党」なる諸派が、江東区の衆議院議員補欠選挙に出ていることで話題になっている。
この政党の名前をもって、そのまま「保守」という括りに入るのか?というと、わたしには決めつけることができない。

何を保守するのかを明確に定義していないからで、ただの「第二自民党」に見えるから、おそらく「左翼」に分類していいのではないか?といった匂いがするのである。
党首は、作家の百田尚樹氏と、名古屋市長の河村たかし氏のふたりで代表になっているけど、百田氏というベストセラー作家が言葉を定義しないことに、単純に違和感を覚えるのである。

政権与党の自民党と公明党、それにどうしたことか共産党も候補者を立てておらず、都知事の会派「都民ファースト」もどんな括りなのか不明なままで、どういうわけかこの副代表が「無所属」で出馬している。

ちなみに、野党の国民民主がこの無所属候補を推薦しているのだが、国民民主党という政党の立ち位置も、わたしには不明なままなのである。

そんなわけで、明らかに左翼の立憲民主党と、グローバル全体主義に明確に反対している「参政党」が唯一の右翼=自由主義を標榜していて、この二項対立だけがわかりやすいのである。

わが国には、国政政党としてこのほか、「れいわ新選組」という新左翼(共産党以外の左翼)のいわゆる中核派と、日本維新の会、N国党なる、括りの定義が困難な政党が存在している。

日本維新の会の本拠地、大阪における実態を見ると、やっぱり「左翼」に位置づけられるのであるし、N国党はワンイシューとはいえ、議員活動と党の存在がとっくに分裂していて、その分かりにくさは表現のしようがない。

こうしてみると、参政党以外はぜんぶ同類となるので、多党化しているようで案外と選択肢が少ないのである。

アメリカでは、民主党が分裂して、バイデン支持の本部と、ケネディ支持の傍流とに分かれたが、さらに極左の学生たちが、「反ユダヤ・親ハマス」を掲げて、まるでわが国の70年代を彷彿とさせる学内ピケ行動をして、なかでもコロンビア大学はとうとうロックアウトによるリモート授業になってしまった。

まさかのあり得ない「反ユダヤ」の主張に、驚いたのは民主党鉄板支持層で、ゆっくりとだが確実に、トランプ氏支持への転換が始まっているのである。
なお、こうした学生への支援団体(金銭と物資の両面)も、マトリョーシカ人形構造をとっていて、最上位団体の富豪オーナーが「反ユダヤのユダヤ人」だとわかっている。

あたかも、「反日の日本人」とおなじ構造があるのである。

そんな中、自民党の副総裁(No.2)たる、麻生太郎元首相がトランプ・タワーを訪問した。

さも、次期総理は自分だという下心満載で、「返り咲く」という共通語の意気投合をしたかのようだが、麻生内閣の次が「みぞうゆう」の政権交代で、あの民主党・鳩山由紀夫内閣となったことを、国民は忘れていない。

自民党の総裁(「首相」になれなかった総裁もいる)がこないだ国賓で訪米し、トランプ氏には目もくれなかったことの失敬に、こんどは麻生氏がバイデン氏に会わないことで当てつけたのは、岸田総裁流のバランス外交にちがいない。

あくまでも、「党」総裁は岸田氏で、麻生氏は副総裁なのだから、世界の目は、麻生氏の単独行動だとはかんがえないけど、逆神のマスコミは国民を騙すために、麻生氏の勝手な行動だと報じて、あろうことか内閣という党からしたら下部組織のしかもトンチンカンでしられる外務大臣にコメントを求めて、政府として関与しない、といわせたのである。

これをやるなら、岸田総裁に直接きくべきだし、政府を代表するなら官房長官インタビューが最適なのに、これをわざとしないで、外務大臣ごときに政府の代表意見を求めるという茶番をやたっし、シラッと応じた外務大臣は官房長官からの叱責も受けないのは、党も内閣も、組織としてメチャクチャだということをわざわざ世界にしらしめたのである。

それで、なるほどGDPでインドに抜かれたのか!と合点がいく一般人が、世界の常識となるのである。

こんな日本の対応に、お下劣なバイデン政権は、「下品だ」と評しているから、それなりの嫌がらせ効果になったのだろうが、日本総督のエマニュエル駐日大使がどんなお仕置きを自民党や麻生氏にするのかも、今後の注目なのである。

なんにせよ、自分だけが理論的に正しい、と決め込む神経だけは共有している左翼のひとたちは、懲りずに今日も分裂を繰り返すのである。

すると、組織マネジメントに取り返しのない失敗をした参政党・神谷氏の独り左翼行動で失った人材と信頼が、まことに残念至極のことになったのである。

吉野敏明氏、武田邦彦氏、赤尾由美女史の方々には、松田氏と共に神谷一派の組織マネジメントからの一掃ができなかった「小さなこと」こそ、将来のわが国の痛恨となってしまった。

いいひとたちは、ここ一番で「鬼神」になれなかったのである。

それでも、幸福実現党を離党(「幸福の科学」の信仰はやめていない)した、及川幸久氏や、元TBS記者の山口敬之氏が、参政党を一択で支持表明するのは、酸いも甘いも噛み分けて、「自由主義」を護ることを最優先させているのだと信じたい。

「柿渋染め」をやってみた

こないだ書いた「柿渋染の最終購入」で、オマケとしてプレゼントされた「柿渋原液(100㎖)」を使って、染め用のリネン生地ストールをまずは染めてみることにした。

YouTubeで染め方の解説を観たら、えらく簡単そうで、感心するほどの「お手軽感」に、いよいよその気になったし、春の陽気の中でどうやら貴重な晴天になったからである。

ネット通販という便利さの恩恵は、過去の人生経験から購入履歴どころか、購入しようというかんがえさえ及ばぬものも、検索すればいくつもでてきて、こんどはどこのショップを選べばいいのかを迷うのである。

せっかく原液を頂いたのに、染めるためのコレといった生地がない。

これからの「夏」をかんがえると、汗拭きを兼ねたストールがいいのではないか?と思いついたのである。
なにせ、柿渋タンニンの自然界最強殺菌力が、細菌の生存をゆるさないのでそのまま消臭にもなるからだ。

しかし、製品としてのストールではなく、染めるだけの工程を残したストールをどこで入手できるのか?すらしらなかった。

あるのだろうか?とおもって検索したら、でるはでるは、世の中には、こんなにも未染色の「半製品」があるとはとおもったが、染め物のプロもどこかで仕入れているにちがいないので、ものはためし、なのである。

そうやって、あっさりと簡単に注文できて、いつものように難なく届いたのである。

原液の使用には、かならず4倍から5倍あるいはそれ以上(7倍や8倍)の希釈を推奨する、ということなので、いただいた100㎖の半分、50㎖を料理用ビーカーにとってから洗面器に入れ、おなじビーカーで計った200㎖の水を洗面器にいれてかき混ぜた。

これで、5倍希釈をしたことになる。

原液はいがいと粘性が薄く、さっと水になじんだのはYouTubeで観た粘性があるタイプのとはちがかった。
泡立て器でよくかき混ぜる必要もなかったのである。

ちなみに、柿渋は漆とかとちがって、かぶれの原因になる物質は含まれていない。
元は渋柿とはいえ、果物なのだから当然といえば当然だ。
だから、わたしは素手で扱ったが、気になるひとは手袋を使うことも自由である。

ストールはいったん洗面所で軽く水洗いしてから、適度な湿り気のまま洗面器に入れた。
乾いた状態よりも、湿った状態の方が毛細管現象を促すので、染めムラも防げるという。
二枚ともしっかり浸して、そのまま約10分放置して、あとは絞って干すだけである。

柿渋特有の匂いがある、ということであったが、この「特選」原液は、さほど匂わず、とくに気にならないから、近所迷惑になるかもしれない懸念は杞憂であった。

素材がリネン(麻)なので、好天下だとすぐに乾く。

しかしここで重要なのは、「柿渋染め」の柿渋液とは、厳密には「染料」ではないことだ。

たしかに、柿渋液の色に染まるように見えるのだが、繊維に高分子(一万数千の分子量がある)の柿渋タンニンがコーテキングされて、さらに空気中の酸素と日光の赤外線によって乾燥させることで化学変化を起こすので、乾いて「完成」というのは、人間の手をかける意味での終わりで、色がつくのはここからじんわりと1年以上(ときには2年)かかって完成される。

だから、独特の匂い抜きも、上でいう化学変化によるために、陰干しが推奨され、ゆっくりと「赤外線」にあてることが匂いを「抜く」ための手間となるのである。

それで、これからの季節なら約1カ月(冬だともう少々長く)干し続け、最後に水洗いして乾けば「完成」となる。
なお、酸化を止めるのにつかう「焙煎剤」として、アルカリ性の「ソーダ灰」を用いることもあるようだが、とくに「必要」というものではないと原液販売の女将さんから聞いた。

使いつづけて、色落ちが気になりだしたなら再度染めることを繰り返せばいい、とのこと。

柿渋タンニンが線維をコーティングするので、繊維自体の強度も増して、タンニンの抗酸化効果で抗菌・無臭効果が続くのである。
それゆえに、残った液でちょうど洗濯していた「奈良蚊帳台ふきん」も染めてみたら、一滴も残さずに使い切れた。

別にある「生渋」という、色づきは薄いがフルーティーな香りがするという原液を注文して、到着したら、夏用の木綿の下着をやってみようとおもうのである。

先の女将さんは、そんなネット注文をした直後にわざわざ電話をいただいて、同時に注文した「特選」と「生渋」とでは、「生渋」の発色が弱いことの注意喚起の案内だった。

なんともご丁寧な対応に、こちらが恐縮したが、ついでにいろいろと質問できたのもありがたかった。

そういえば、柿渋タンニンの抗酸化作用の主役、ポリフェノールは、赤ワインの10倍以上あるそうなので、むかしから「薬として飲用」もしていたらしい。

人間の体内の活性酸素による「錆び」も中和してくれるというから、ますます興味深いのである。

雨なので昼呑みにでかけた

「昼呑み」は不謹慎なので基本的にしないのだが、鬱陶しい雨の日に家にこもるのも鬱陶しいと、思い切って昼呑みに出かけよう!と決心をした。

問題は、行き先エリアの選定である。

候補になるのは、湘南方面なら、藤沢・江の島とか、鎌倉市と横浜市が接する大船。
これ以上遠方となると、帰りが面倒である。
横浜中心部なら、だんぜん野毛であろうけど、ここは図書館通いの身からすると日常のエリアになって新味がない。

はて?どうするかが、鬱陶しい家の中での問題となった。

そこで登場したのが、横浜の北にある「ミニ川崎」としての鶴見だ。
横浜という場所は、安政6年に開港場にならなかったらただの「寒村」で、いきなり膨張したために、なんだか明治期のわが国の発展と並行して発展した感があるのは、ハマっ子だけの勘違いなのかもしれない。

しかし、「大江戸」時代から、地方出身者をおおいに吸収した伝統で、工場労働者を集めて「大東京」になったけど、一方で上野に到着した北関東や東北からの家出人たちは、東京の危険性を本能的に感じとって、また、捜索による発見を避けるため、さらに、荒っぽいイメージの川崎も通過して、ついに横浜に流れ込んだのである。

その玄関にあたるのが、鶴見なのである。

ちなみに、横浜市に「区制」がひかれたのは、昭和2年10月1日のことで、5区からスタートした。
そこに、鶴見区もあるのは、この区民の自慢にちがいない。

「神奈川県」の元になった東海道でも有数の巨大駅、「神奈川宿」からはじまる「神奈川区」と並んで鶴見区は、これまで一度も分区されることなくオリジナルのままの区域となっているからである。

なお、横浜は、ずっと「神奈川奉行」の管轄下にあって、奉行所が神奈川宿から移転して、いまの紅葉坂の上、神奈川県立青少年センター、神奈川県立音楽堂、神奈川県立図書館がある土地から、かつての港を見下ろしてのである。

残念ながら、現在は未来がみえない「みなとみらい」の開発によるビル群で、海すら見ることができなくなった。
ついでに、この奉行所の隣が、「掃部(かもん)山公園」で、陸蒸気と呼ばれた新橋ー横浜間の鉄道建設でやってきた外国人技師たちの官舎があって、その後、井伊掃部頭家の所有となってとうとう公園になった。

さて、鶴見である。

この土地は、永平寺とならぶ曹洞宗の大本山、総持寺が明治44年(1911年)に石川県から移転してきて、大正3年(1914年)には、すぐ近くに「花月園(かげつえん)」が開園した。
なんと、パリ郊外の「フォンテンブロー」をまねた大遊園地であったのだ。

さぞや総持寺の修行僧には、我慢の修行になったことだろうと推察するが、なんでこんな遊園地ができたのか?は、臨海部の工業化による大発展があったからである。

欧州における「観光客の誕生」には、産業革命による「労働者(階級)の誕生」がなくてはならない条件になっている。
それが、鶴見で現実化したのである。

なので、横浜中心部の港湾労働者とはひと味違うのが、鶴見であって、JR鶴見線なる臨海工場地帯専用の通勤電車がいまでも走っている土地柄なので、ちょっと一杯、として途中下車するひとたちがたくさんいたことは、この街の繁華街を形成している原動力のはずなのである。

京浜東北線を使うなら、総持寺がある西口、京浜急行を使うなら東口という使い分けになるのは、鶴見駅構内の貨物線のために、東西連絡通路が長いためだし、JRと京急線とは駅前ロータリーで分断されていて、「乗換駅」とはなっていないためだ。

そんなわけで、せっかく鶴見まで来た(とはいえ、横浜駅から10分ほど)から、西口と東口の「昼呑み」を覗くことにした。

「野毛」の猥雑さとはちょっとちがう雰囲気が、ビギナーの感じるところではあるけれど、それは若者たちの喧噪がない、おとなの世界だからなのだろう。
東口は、ロータリーを川崎側に折れるエリアが、どうやらそれで、京急側の旧東海道や、鶴見川の川向こうにある、沖縄・ブラジルエリアとはまた趣を異にしている。

非日常を味わったが、なかなかの低料金でしっかりした内容なのも、おすすめ、である。

これなら、電車賃をかける価値がある、と確信したのであった。

亡命ウクライナ人を救うプーチン

昨年9月29日の「ロシア通信社ノーボスチ」が伝えた記事が、いまごろになって出てきている。

内容は、ウクライナから外国に逃れたひとが、「徴兵」を事実上拒否することに通じる、外国におけるウクライナ領事館(大使館などの公館)でのパスポート更新をしないで放置しても、そのような期限切れパスポートを持ったウクライナ人のロシアへの入国を許可する、というものである。

実際に、ウクライナで今月発効した「新・動員法」では、徴兵年齢の引き下げだけでなく、徴兵を拒否した場合の(現行犯)逮捕権を、警察官その他の官憲に付与するもので、また、外国に滞在中の徴兵適齢者には、事実上の帰国命令を発したのである。

よって、外国滞在中の徴兵適齢ウクライナ人は、パスポートの更新手続きをしに領事館を訪ねたら、直ちに身柄を拘束されて強制的に帰国処分となるから、誰も公館に寄り付かなくなってしまったのである。

こうした強権的な政策の実行には、ゼレンスキー氏の大統領「任期」が、来月19日に満了となり、戦時戒厳令下での大統領選挙をやらなかったために、この日以降の「大統領不在」が憲法上は確定してしまっていることも関連する。

貪欲な戦争屋たちは、「ウクライナ人は最後のひとりまで戦え」と、自らは安全地帯から鼓舞して、驚くことにまじめな日本人の多くもこの論調に「正義」を感じている。

明文化された憲法があろうがなかろうが、それを護る気もない為政者がいて、護らせる国民の気概もなくなると、どうにでもなる、ということがこれでわかるのだが、超鈍感な日本人は絶望的にわからないのである。

まったく、先の戦争を反省しない不真面目(自虐史観)な態度の結果が、お粗末なプロパガンダを信じるという愚かさを露呈していることに、あろうことかぜんぜん気づいてもいない。

個人的な話になるが、半世紀前からの付き合いがある、中学時代の同級生たちでさえ、これらの仲間になっていて、飲み会でさえもわたしの口を封じようとするのである。

そこまでにしておきな、と。

奇妙なことに、「怒り出す」のは、もしや更年期かアルツハイマーの初期かと疑いつつも、しつこくいうのがわたしの性分なので、まさかウクライナが戦闘でも有利にあると信じているのか?と念をおすと、ロシアが勝っている証拠がない、とまでいうから、完全に「NHK脳」に侵されていると確認して黙ることにしている。

べつだん老いた同級生たち相手にいまさらマウントをとっても意味がないからだが、あとから一部のひとたちがそっと同意をつげてくれるのも同級生のよしみなのかもしれない。

大河ドラマなら『おんな太閤記』以来、ずっと観ておらず、朝の連続ドラマを最後に観たのはどの作品だったかも思い出せなくなりつつあるが、たいがいのヒロインたちが戦前生まれのひとだったので、作中の関係者が「赤紙」によって召集される場面なら紙のクズほどもたくさんあった。

それが、どんなに理不尽なことかを強調するのがNHKによる後出しジャンケンの掟で、本当のリアルな放送では「兵隊さん」とその家族をどんなにか「名誉」だと煽ったことか。
その煽りにそのまま乗って、反対者を「非国民」と非難したのは、「マスク警察」出現の精神構造とどこもかわっていない。

だから、『おしん』では、亭主の竜三が軍の協力者だったことに責任をとって自害させる話にしたのは、作者、橋田壽賀子の女目線による厳しい「反省」があったからだろう。

実際の日本人は、いまの河野太郎のように見苦しい責任逃れをして、本当に逃げ切っていたし、公職追放になったひとより、敗戦利得者の方が今に続いて上級国民化しているのである。

腐ったアメリカは、民主党だけでなく共和党RINOの連中も束になって、ウクライナ支援予算を通過させ、ウクライナ人のミンチ化・根絶やしに加担して、こんな理不尽を許すまじとするトランプ派は敗北してしまった。

ときをおかず、民主党はトランプ氏が暗殺されることを促す、大統領職にあった人物の身辺警護を解く法案も提出した。

対してイランのイスラエルへの反撃は、サウジをはじめ湾岸産油国が領内(領土と領海)からの米軍の軍事行動を禁止する声明に支えられて、大量のドローンによる飽和攻撃に時間差の巡航ミサイル(弾頭なし)で、これ見よがしの外交的大成功をおさめ、アメリカの中東におけるプレゼンスが消滅したも同然の大勝利をイランにもたらした。

16日のUAEの大水害は、狂ったアメリカが気候兵器を作動させたのか?と疑いたくなるタイミングで起きたけど、この復興支援の方が、よほどわが国の石油確保に有益だ。

カネによる新しい独裁的恐怖政治が、アメリカひいては西側で、はじまっているのを尻目に、世界は流動的になっている。
ましてや、西側から経済制裁を受けて疲弊しているはずのロシア経済は、IMFも隠せない活況にある。

この理由はかんたんで、ロシアが「自由経済圏」だからである。

もしや、トランプ氏がロシアに亡命する日が来るのではないか?

それで、亡命アメリカ政府とアメリカ民主党(実質共産党)政府の攻防が、日本に飛び火するかもしれないという、新しいシナリオができた気がする。

もちろん、日本政府は邪悪な民主党の支店だから、いよいよロシアと対峙するが、それが「同盟国中国」と思わずいった岸田氏の頭の中にある「地図」だとすれば、もはやこれまで、なのかもしれない。

そんなわけで、日本人は最後のひとりまでロシアと闘え、と次にいわれ出して、その気になったらもう、ウクライナと同じ運命がまっている。

この話に、台湾と韓国がでてこないのは、特殊出生率でわかる「滅亡」が、放っておいてもそうなるからで、わざわざカネと人員をかけてちょっかいを出すまでもないからである。

東アジアの状況は、日清・日露戦争前の状況にいよいよソックリな様相を示しているが、敵の進化に対して、日本やアメリカが思い切り退化している。
それに、果たしてロシアは敵なのか?という大問題が出現しているのである。

ひとりあたりGDPの凋落

わが国がアジア最貧国になる可能性について言及するのは、心配事が絶えないからだけでなく、政府がわざとそうしているのではないか?と疑うからである。

もちろん、一部の論者がいう、「アルゼンチン化」までとはいえないのは、過去の外国投資のおかげで、貿易赤字国になっても、経常赤字にはなっていないからである。
資本移転等収支と金融収支とで、黒字になっているからで、かつての「金満」のおかげで食いつなぐ国に変化したのである。

団塊の世代が、後期高齢者になってきて、わが国が「貿易赤字国になった」ことをどうおもうのか?をかんがえると、「にわかに信じられない」ということになるはずだ。
この世代が現役だったころのわが国は、貿易黒字で苦しんだことになっているからである。

しかし、苦しんだのは政府・役人で、国民はそのおかげをもって、贅沢な暮らしを謳歌できたのである。
「内外価格差」がなければ、もっと謳歌できたとおもうが、「内外価格差」で暮らすひとがたくさんいたから、プラス・マイナスはどうなのか?統計学者に聞いてみたい。

ここで、経済学者でなくて統計学者というのは、経済学者には立場とかなにやらと多大なバイアスがかかるから、まともに聞くとわからなくなるおそれがあるからである。
それで、数字しかみない、統計学者が推奨できるのである。

さて、ひとりあたりGDPがどんどん減っている、ともいえるし、新興国の数字が伸びているともいえるので、両方の効果から、わが国の数字が落ち込んで、とうとう韓国に抜かれたとニュースになっている。

また、このブログで、観光がらみの変な盛り上がりを指摘しているのは、「サービス収支」が赤字だということも論拠にしている。

訪日外国人が使うお金はかならず円に換金するから、「外貨獲得」そのものだけど、この収支に含まれる、「知的財産権」での巨大な支払が、「赤字」になるほど大きいことぐらいはしっていていい。

かんたんにいえば、「ネット利用料=デジタルサービス料」のことである。

でも、昨年には台湾にも抜かれたので、かつての「宗主国」としてというよりも、70年代とかにいっていた、「ふつうの国になりたい」願望が叶ったともいえる。

このブログでは、前に、「アナログ・トランフォーメーション」というタイトルで書いたのだが、まさに、後期高齢者たちが活躍した時代は、コンピュータの「コの字」もなかったのである。

つまり、わが国経済は、「デジタル・トランフォーメーション」をやったら、衰退してしまった、という状態になっているのである。

それはただの偶然で、各国もデジタル・トランフォーメーションをやっているから、単純に競争に負けている、という意見もあるにちがいないし、そもそも製造業が円高によって海外移転したので、国内での産業空洞化が発生したのが原因だ、という意見もあるにちがいない。

これについては、わが国得意の「垂直分業」を進出先でにも持ち込んだことがあって、外国のように「水平分業」への転換ができなかったことも要因として大きいのだが、それはまた何故か?をかんがえるには、たとえば、文化勲章をもらった中根千枝の古典、『タテ社会の人間関係』(1967年)を参考にすることができる。

ところが、昨今の円安(100円⇒150円の5割も円安)なのに、製造業がぜんぜん国内回帰せず、あんがいと外国企業が日本に工場進出するという過去にない現象となっている。

この原因に、「消費税」の存在があるという意見もある。

消費税を負担するのは消費者だというウソに、消費者(国民)が完膚なまでに騙されているからだが、消費税の本質は「第二法人税」であることをしっている大企業は、これをうまく利用して、きっちり「還付」をうけている。

つまるところ、なんだかしらないが消費税分の値上げに文句をいわない、消費者が一方的に損をしてその分が貧乏になって消費を減らしているのである。
さらにまた、政府は、「社会保障費負担のため」なるウソをこいて労働組合を騙した。
消費税収を社会保障費負担の補填になんか回していない。

西暦2000年以来、わが国は人口減少国になったし、この三年ほどは、どんな理由か「しらない」が、年間死亡者数が激増し例年からの増加予想(高齢化との比率)分から思い切り乖離して、昨年は20万人以上(この三年ほどだけの累計では40万人以上)も「超過死亡」となっている。

いわば人口減少にブーストがかかっているのに、ひとりあたりGDPが減るとは、人口減少よりも速いスピードでGDPが外国よりも伸びない、というしか解釈のしようがないのである。

もちろん、台湾も特殊出生率ではわが国より深刻で、韓国にいたっては世界最小の「0.72(2月28日、韓国統計庁発表)」で、同時に発表した2023年第4四半期(10~12月)の数字は「0.65」という驚異的=絶望的となって、いまや国民がいなくなるのが確実の状態になっている。

すると、どんどん減る人口で、経済規模を維持するだけでも、ひとりあたりGDPは高くなる。

そこで問題になるのは、どうやったら経済規模を維持できるのか?という「アナログ問題」になるのである。
つまり、効率的な「働かせ方」が、上手いか下手かがこの問題解決の分岐点となっていて、個人が奮闘する効率的な「働き方」の問題とは意味が異なることがわかる。

すると、台湾や韓国は、わが国よりもずっと上手に、「働かせている」のである。

その実現には、「マネジメント力」が必須で、とくに「経営者」と「(中間)管理職」をあわせた、「マネジメント層」による、上手な働かせ方ができないと、できっこない、ということになるのは当然だ。

要は、わが国のマネジメント層によるマネジメント力が弱っているのではないか?という仮説がここに誕生する。
なぜなら、台湾と韓国こそ、むかしの日本的なやり方が「遺産」として残っているからである。

この視点からながめれば、日本人がマネジメントについて学ぶチャンスは、部活だけでなく、学校(クラス運営や校内の委員会活動も)や地域でのクラブ活動などを通じて子供時分からふんだんにあるので、はるかに外国よりも有利なはずだったのである。

しかし、残念ながら「経験」はしても、これを「体系」として学ぶチャンスはないし、教師もこれに気づかず、もちろん文科省の役人も、マネジメント力育成の重大さをしらないばかりか、教育審議会委員も教育委員会の役人も同様なのである。

気づいたのは、「制服組」の現実からの目線だった。

これは、「箱」があっても「活用できない」こと、すなわち、マネジメント力の欠如が、国家レベルで軽視あるいは無視されていることの、わかりやすい事例ばかりがあるというわが国の問題の本質的なことなのである。

さて、マネジメント力がないとどうなるか?は、簡単で、たちまち「烏合の衆」と化す。

ために、個人の尊重が変に社会常識化してしまっていることで、さらに意見調整が難航する必定となり、リーダーシップとは命令だと勘違いした声の大きい人物が独裁をはじめて、憤懣やるせない集団が完成する。

これで「一丸となって」ということができるはずがないのである。

そうやって、「パワハラ」とかの各種ハラスメントに対応する「ムダ(な時間と解決の手間)」があちこちにできれば、当然ながらひとりあたりのGDPが下がるのだ。

さては、新入社員たちがはやくも離職している現象も、マネジメント力の欠如を見抜かれたゆえだとすれば、見棄てられたのは企業組織の方なのであった。

「関西・大阪」という別世界

もはや「歴史家」と呼んでいい、有名予備校超人気講師の茂木誠氏は、自己紹介で「縄文人の茂木誠です」といっている。

この島国の考古学や遺伝子学からわかってきた「歴史」を分母にしてとらえれば、万年単位であった、縄文時代の長さは、その後の歴史が一瞬にみえるほどになるからだし、日本人のDNAには縄文人からの遺伝子がかならず含まれているからである。

わたしが気になる「細部」は、縄文文化なのか?縄文文明なのか?という、文化・文明の呼び方である。

これは、シュペングラーのいう文化が劣化すると文明になり、やがて滅ぶ、というパターンにあてはめれば、縄文時代も「縄文文化時代」から「縄文文明時代」へと移って、やがて滅んで弥生文化が席巻し、その弥生文化が劣化して弥生文明となり、やがて大和政権によって滅亡したといえるのではないか?とかんがえるからである。

すると、縄文文化時代と縄文文明時代の境目は、どこにあるのか?が気になるのである。

わたしが子供だったときは、あっさりと縄文時代から弥生時代になって、とくに米の栽培は南方や朝鮮半島から伝来したと習った。
しかし、これらの地域から発掘される田んぼの遺跡やそこから出てくる米の遺伝子を調べると、いまや「米栽培は日本由来」という説が有力になってきている。

さらに、あいかわらずどう調べても、「日本語のルーツ」がわからないのを、茂木氏は「日本語族でいいじゃないか」といっている。
かならず外部から渡来したはずだと、かんがえることがナンセンスなのではないか?と。

もちろん、縄文人が弥生人に征服されたこともないのは、戦闘の痕跡が遺骨にも遺跡のどこにもないから(対人実戦用の武具すら発見されていない)で、さまざまな移民がやってきて徐々に混じって変化したとしかかんがえられない。

それで、オリジナルの縄文人がだんだんと東北以北にだけ残るようになったのを、大和政権が「蝦夷(えみし)」と呼んで、これを坂上田村麻呂に征伐させる「征服」話がようやく出てくるのである。

面倒なのは、「蝦夷(えみし)」と、北海道のことを「蝦夷(えぞ)」といったのとが、おなじ漢字を用いたために、アイヌの定義をねじ曲げてしまう「政治」が行われてしまったのだった。

これを、隠れ極左で横浜に選挙区がある、菅義偉氏が、「アイヌ新法」という国民分断化を法制化するという暴挙をおこなったのだが、岸田政権の暴挙がすさまじくて忘れ去られようとしている。

そんなわけで、万年単位の縄文時代を分母にしたら、大和王朝が奈良から京都にあった時間がざっと2000年だけとなる。
京都から東京へ移ったけれど、「朝廷」はいまだに続いているという見方もあるし、明治憲法が日本国憲法になったときに「滅亡した」という見方もある。

わが国の政府要人が外国へ行くときと帰国したときには、いまも皇居(朝廷)で「記帳」する習慣が政府にはあって、帰国して国民にメッセージを発表するのを、「帰朝報告」というのも、「朝廷に帰ってきて報告する」という意味なのである。

徳川政権の政治の中心は江戸で、経済の中心は大阪という分業体制を、秀吉の大阪集中からわけたのは、豊臣方への牽制策が優先された結果であったろうけど、あんがいとうまくいったのは、付随的結果だったともいえる。

これはたとえば、前橋(厩橋:うまやばし)藩と高崎藩があった群馬県の、政治は前橋、経済は高崎になっているのとは経緯がことなるものの、いまも群馬県の楕円的な状態が残るのは、「県」の無理やりがあるからで、このまた典型が青森県(元の津軽藩と南部藩でいまでも言葉が通じない)だ。

そんなわけだから、大阪の文化における関東方の違和感(当然にこの逆もある)は、、たった150年ほどで平準化されるようなものではない。

たとえば、大阪人はいわゆる「標準語:共通語」で話す(発音する)ことができない。

文部科学省の「全国平準化」の成果も、こんなもん、なのである。
もちろん、言語は「かんがえるときにつかう」ものだから、東京的発想と大阪的発想が異なるのも、言語がちがうことの結果にすぎない。

エスカレーターの左・右どちらに立つのか?も、東京は左、大阪は右で、アジア各国の右へならっているのが大阪、というよりも大阪方式をアジア各国がまねたのだ。
京都は、京都駅なら左の東京型がおおいけど、これぞ「おのぼりさん」が多数だからで、ちょっと郊外では大阪型になる。

そんななか、関東方でも、若者たちはSNSで大阪弁を積極的につかっているので、浸透力は文科省とは真逆になっている。

その「軽さ」(無責任な感じ)が好まれているという。
大阪弁で語尾につける「しらんけど」が、その代表だ。
ずっと「しらんけど」が、大阪弁だったのか?調べてみたくなるのは、「商都」として、「しらんけど」では取引ができないからだ。

もしや、大阪経済の衰退は、「しらんけど」が日常言葉になったのが原因ではないかと疑うのである。
だから、いまの若者が、「軽さ」ゆえに多用する大阪弁が、さらなる日本衰退の原因とならないかと心配するのである。

東京の戦後すぐの映画にある言葉といまのあまりのちがいはよく指摘されるけれど、大阪の同時代といまはどうちがうのだろうか?
むかしの「上方演芸」における、こねくり漫才の言葉が、あるいは、ミヤコ蝶々の話し方がわたしでも懐かしくおもえるのだが、現地ではいかがであろうか?

なお、さいきんになって、標準語:共通語に開国前の横浜村(じつは「本牧」あたり)の漁民言葉だった、「じゃん」が含まれているのは、横浜人のわたしからしても違和感があって、大阪人が語尾に「じゃん」があるのを気持ち悪がるのは、妙に共感・納得できるものである。

東京生まれで東京育ちの谷崎潤一郎が、大阪に移住してすっかり馴染んだのは、これもまた大阪人が自慢してもいいはなしだが、わたしは谷崎の「陰鬱」こそが大阪人の本性ではないかと疑っているのである。

還暦をとうにすぎたわたしは、とうとう関西・大阪を理解できない別世界のままで過ごすのだろうとおもう昨今なのである。

一人一日2.5リットルのコーラに溺れる街

動画のタイトルは、『コーラを飲むとしても水は飲まない?糖尿病高発生率のお国柄』とか、『世界で最もコカコーラ中毒で人が亡くなる街の闇の実態が恐ろしすぎた』であるから、ぜひご覧いただきたい。

舞台は、メキシコの小さな街だが、世にも奇妙な光景が繰り広げられているのは、動画で報告されている通りだ。

ひとびとが尊敬し、地元の宗教的な権威者でもある「シャーマン」も、宗教儀式にコーラを用いて、「糖尿病撲滅の祈り(まじない)」を真顔でやっている。

シャーマン曰く、「この街のひとびとが糖尿病を患うのは、コーラを常飲しているからでは亡く、家庭内や社会の人間関係のもつれが精神的な負担となって発病する」と明言している。

冗談をいっているのではなく、本人も信じて疑わないのだ。

しかし、この街にも近代教育を受けた医師もいて、これらの医師たちは、当然にコーラの多飲が糖尿病の原因であることはしっている。
けれども、ほんとうのことをいっても、ひとびとは聴く耳をもっていないので、発言を控えているという。

その理由は、とくだんの産業がないこの街に、コーラの工場ができて雇用を創出しているばかりか、コーラの工場が清涼なる飲料水の水源を独占しているからで、水道の水は飲用に適さず、しかも、コーラより高価であるという事情による。

ちなみに、メキシコ合衆国第55代大統領だった、ビセンテ・フォックス・ケサーダ氏(任期は2000年~2006年)は、なんと元コカ・コーラ社の大幹部であった人物なのである。

わたしは、まじないをするシャーマンの姿をみて、『続・猿の惑星』(1970年)の、遺伝子異常となった人類(ミュータント)たちが「コバルト爆弾」を教会の祭壇において一斉に祈る姿をおもいだした。

また、ひとびとが「正しい知識を拒否する態度」をとることについては、コロナ禍における国がいうワクチン接種の安全性に疑いのない状態や、疑う者を排斥したことも思い出されるのである。

18日、「新型コロナワクチンで国を集団訴訟」という報道が一斉になされたのは、わが国では「初」の集団訴訟であるからだし、その前の3月と今月の二号連続で、月刊『文芸春秋』が被害についての記事を大手マスメディアとしては「初めて」掲載したのだった。

けれども、アメリカ民主党への支持を社としても表明してはばからない、たとえば、「アルファベット」は、傘下の「Google」や「YouTube」における、ワクチンへのネガティブな情報を「誤情報」と断定して、「表示させない(BANする)」という内部規約を盾にして、あいかわらずの情報統制を正々堂々と実行しているのである。

これができるのは、アメリカ国内法の「通信品法230条」があってのことだが、あの民主党政権で総務大臣だった、原口一博衆議院議員すら「不思議」といわせる、この法がそのままわが国でも適用されてしまっていることなのである。

もちろん、原口氏は法的根拠となる国会質問などを通じて、本件を発信しているが、絶対多数の与党はもちろん、自身の属するだけでなく野党全体も、妙な「無関心」の態度を続けているので、政府役人の答弁も的外れが許されている状態にある。

これは、大臣やら地方なら「首長:知事や市長など」の、答弁拒否がなんだかトレンドになっていて、議会軽視もここまでくると、なし崩しの「独裁」がしらないうちにはじまっていることがわかるのである。

冒頭に紹介した動画では、あたかもコカ・コーラ社によるむき出しの利益追求が問題の原因にみえるけど、その背景には、驚くほどいまのわが国との類似がみえてくる。

また、ここで注意したいのは、動画中もあっさりと、メキシコのコーラが「おいしい」と評価されていることである。
これは、いわゆる人工甘味料ではなくて、ちゃんと砂糖をつかっている、ということが理由なのである。

世にいう、「ダイエット・コーラ」とは、飲むひとに対してではなくて、コーラ自体のダイエットという意味だ。

しかして、『砂糖の歴史』をみれば、じつは「麻薬」とおなじに、脳への快楽物質を誘引するために、習慣性・中毒性があるのが、「砂糖」なのであった。
だからといって、人工甘味料が、砂糖より安全性が高い、と断言することもできない。

「食欲」すら、誰かにコントロールされている可能性があることは、本来ならば「生きる力」として、小学校や中学校といった義務教育で教えておくべきことだろうが、これを「しない」、「させない」のも、誰かにコントロールされているからである。

新しい時代の経営は公共を無視する

前回の、「奇書」の続きである。

1961年に発行された、防衛研修所の『MTPを中心とした経営管理の技術』では、「新しい時代の経営」の第一条件に、「社会公共の福祉に貢献する」が挙げられている。

ここで、古い時代の経営にこの概念がなかったのか?と、ツッコミをいれて疑念を呈したくなるのだが、この疑念に対する説明は本書には一切ない。
まぁ、そうでなければ全部で22ページというボリュームをおおきく超えてしまうだろう。

批判が絶えない、「古典派経済学」では、その言い出しっぺの「神の手」で有名な、アダム・スミスが、『国富論』と並ぶ『道徳感情論』で、経済と道徳をちゃんと関連づけて書いている。

もちろん、アダム・スミスは、イギリス人なので、彼のいう「道徳」とは、英国国教会のキリスト教的道徳がベースの当然があるし、そもそも、「社会公共の福祉」なる概念そのものが、キリスト教からの発想である。

日本人は、理屈をこねくり返すことなく、「お互い様」という常識で身分社会(とはいえ、「職業別」の身分)を暮らしてきた。

経済活動における自由主義を、なんでもありの「自由放任主義」として決めつけたのは、アダム・スミス本人ではなく、後世におけるその批判者たちが勝手につくった屁理屈である。
なぜなら、アダム・スミスは、「道徳」による「制約」を基礎とした「自由主義(経済)」をいっていたからで、なにも制約がない勝手気ままを想定してはいないのである。

ここに、中世社会との断崖絶壁があった。

絶対王権の自由気ままをベースにした「重商主義」が、なんでもありの「東インド会社」を擁護したけど、一方で、国民自身は王権の制限に走った。
ロンドンの紳士は、インドでは暴君、という皮肉も、勝てば官軍で完全無視されたのである。

いまでは、資本主義が嫌いな社会主義・全体主義が好きな者によって、とうとう「強欲資本主義」とまでいわれているが、より強欲なのはこれらの者たちで、その強欲さを自己制御すべくあたかも「道徳らしいこと」を説いているのである。

それが、「持続可能」やら「SDGs」やらの、おどろくほど中身のない全体主義スローガンの欺瞞である。

欲しいものがいるから供給するだけだ、という理屈では、アヘンをつくって売っても、なんら罪深さを感じない、大英帝国の強欲さを強調するだけだし、西太后が仕切った清朝末期の政治もとんでもなかったけれど、アヘン戦争で英国に立ち向かったのは立派なことだった。

英国議会では、9票差での戦争遂行決議だったが、懲りない野蛮な英国人は、この反省から単純多数決のルールを変えて、戦争開始には、たとえば3分の2以上の賛成を要する、とかとしてはいない。

結局、現代イギリス人は自国の、アダム・スミスやエドマンド・バークをちゃんと読んでいるのか?と問いたくなるけど、読んでなんかいない、という貴族たちの回答が怖くて質問すらできないのかもしれない。

「正義は勝つ!」という、予定調和説を信じるように子供時分から「ヒーローもの」で擦り込まれている日本人は、正義の清国がアヘン戦争でズダボロになっただけでなく、獲物のぶんどり合戦にわが国も加わった「時代の常識」について、無反省で批判している。

だからまったくおなじ状態の英国で、おどろくほどの衰退がいまやとうとう「凋落」となっていて、われわれ日本の先を行くから、ウオッチすべきだと書いているのである。

その野蛮なイギリスから新大陸に逃れたひとたちが、せっかくつくった国なのに、やっぱり野蛮なひとたちが多数移民して、もっとも凶暴で野蛮なグローバル全体主義者たちに乗っ取られているのが、現代のアメリカとなっている。

このひとたちは、アメリカン・ドリームで手にした巨万の富を、いく世代の後世にも引き継ぐために、既得権益化することに躍起になっている。
あたかも「永遠のローマ」を追及するがごとくであるが、そのローマがいかにして滅んだか?を真剣にかんがえてなんかいない。

地球環境の変化を原因にすれば、寒冷化によるゲルマン人の南下という、生活空間の確保のための命がけが、帝国軍を打ち負かした、ということだから、プーチン氏がいう、「寒い国なのでもしも温暖化しているというのなら、わが国は歓迎する」といったことの背景に、ローマが遠くに見えてくるのはわたしだけではあるまい。

この意味で、このひとたちの行動規範はじつに永遠なるものに対する「保守」なのである。

しかしそこにあるのは、自家の既存資産とそれを生み出す利益の源泉を、誰にも渡さないで子孫に相続するという決心だけなので、「社会公共の福祉に貢献する」という概念そのものが存在しない。

そうやって、兆円単位の使いきれない資産(資金)をもって、政治家を買収し、手駒にすることが、もっとも効率がいいことに気がついたのである。

これで、資産家と政治家とだけの間で、ウィンウィンの関係ができた。

これにあやかろうとして、餌に食いついているのが大手マスメディアという構図ができたのであるが、あんがいと多数の庶民がバカばかりではないので、複雑な「大衆の反逆」が世界中で発生しているのである。

しかし、社会公共の福祉に貢献しないことで儲けることが、「あたらしい資本主義」となり、こともあろうに日本の首相がこれを推進すると宣言して憚らないまでにわが国も堕落した。

要は詐欺と略奪と冒険という、中世の山賊の倫理が、まかり通ろうとしているが、織田信長が登場して秩序を回復したごとく、そうは問屋がおろさないのが、政治力学というものなのである。

これは、この奇書における第二、「お客の利益を第 1とする」ことに明確に関連している。

なにせ、自分の利益を優先させることにおける、社会公共の福祉に貢献しないことの原因だからだし、そんな無価値をあたかも価値があると勘違いさせられて購入することの。一般人の資産の減少が、いまや「掠奪」とおなじになっているからである。

それが、ネット社会における、「無料」や「5%還元」と称して個人情報を盗みまくることの正当化だし、「有料」ならば、一生涯の料金負担から免れない、完全に第二の「租税」となっていることでわかるのである。

もちろん、民間企業の事業にみせて、じつは監督官庁の役人の天下りを基本とした癒着が世界的な仕組みとなっているから、行政の存在理由が「国民福祉のため」から完全乖離しても、民主主義だと言い張れるのである。

それでもって、あたかもいっときは、社会公共の福祉に貢献しない者が優位に富を得るだろうけど、これが蔓延したら、秩序の崩壊により、その「富」自体の価値もなくなって元の木阿弥になるのが、人類史の道理というものである。

これを、アダム・スミスは「神の手」といったのだ。

だからこうした者たちは、必ず滅亡する予定調和説となるのだが、困ったことに、一般人を巻き込むのである。

われわれ一般人は、早くからこうした不道徳な者たちから逃れないといけない。
そのために、まずは選挙に行って、手先となった政治家を当選させないことがはじめの一歩なのである。

「防衛研修所」発行の奇書

いまは、防衛「研究所」に改称(1985年)された、1952年に設立された保安庁の「保安研修所」が前身で、その後にできた自衛隊における尉官以上の教育・訓練を目的としたのが「防衛研修所」である。

この機関が発行した、『MTPを中心にした経営管理の技術』(1961年)を、国会図書館で昨年秋にみつけたけれど、自衛隊幹部に対しての教育に、中身がどんなだかと興味がわいたのである。

すぐさま国会図書館を訪ねて、唖然としたのは、「電子化」のためになんと半年も閲覧不能であったことだ。
しかして、時の流れは早く、このたび電子化された資料を自宅のパソコンから遠隔でコピーを送ってもらえたのである。

ただし、コピーは紙の郵送物として送られてくる。
なんでも、「著作権」が優先されるのは、前に書いた通りである。

しかしながら、本書には「奥付」がなかったし、そもそも、国家予算で運営される機構で製作されたものだから、これに著作権を付与する発想がおかしいのである。

腐っても鯛の、アメリカ合衆国は、軍も含む政府機関が一般向けに発行する情報に、はなから著作権を付与していない。
アメリカ国民全員のための「情報提供サービス」であって、料金はすでに税金として徴収済み、という理由になっている。

どうかしているわが国は、自民党政権のズボラから、国家機関が平然と「著作権」を設定しているのである。
これに、異論をいう国会議員が野党にもいない体たらくで、せめて共産党ぐらいは異議申し立てをしてもいいのに、とおもうのである。

そんなわけで、さっそく中身を読んでみた。
たった22ページの小冊子である。

表紙にいきなり「目次」があるので、本文もいきなりで、よくある「はしがき」も「後書も」ない。

表紙にある目次は、次のとおりである。

1 新時代の経営
2 管理者の能力
3 管理する技能
4 作業指導の技能
5 作業方法改善の技能
6 人間関係をよく保つ技能
7 結び

そもそもタイトルにある「MTP(Management Training Program )」は、戦後アメリカ軍がもたらした管理職訓練のためのメソッドなので、尉官以上の幹部自衛官にこれを訓練することに違和感はない。

しかし、目次からは見えない、「軍事」が、この本にはどこにもなくて、冒頭から「企業は、」ではじまっているのである。

幹部自衛官を育成するといえば、防衛大学校がすぐに浮かぶが、その下の中堅幹部を育成するための学校は、一般大学卒を集める「幹部学校」として別にある。

いまネットでさまざまに的確な軍事的解説をしている、元陸自「陸将補」だった方は、京都大学のご出身なので、おそらく防大ではなくてこちらの幹部学校のご卒業なのだろう。

「陸将」「海将」「空将」クラスを横目に、なるほどの実力差が歴然なのは、素人にもよくわかる。
なお、東大御出身なら、キャリア官僚として「内局勤務」を選ぶだろうから、なかなか征服組の悲哀を味わうこともないのだとおもわれる。

それに、旧軍が「幼年学校」という場所で、超エリート養成を子供時分から行なっていて、「大将」になるには、幼年学校卒からの一貫教育でないと無理だった。

軍人も、「軍事官僚」なのである。
幹部学校卒なら、普通は「1佐」どまりが、「陸将補(外国なら「少将」)」にまでなったのは、さすがに実力を無視できなかったのだろうけど、「陸将(外国なら「大将・中将」)」にはさせないのが、官僚機構としての秩序重視が見てとれる人事である。

何があっても、「例外」はつくらないのが、有職故実がすべての官僚ゆえだが、「令外の官」たる、「中納言」をつくった奈良のむかしのひとが偲ばれる。

そんなわけで、わが国の防衛大学校は、まだ独立前の昭和27年に「保安大学校」ができて、独立後の昭和29年に「防衛大学校」となっている。
つまり、本書は、防大が設立間もない時期の「読本」となっていたものだ。

ちなみに、知人を介して防大図書館にもあたってもらったが、やっぱり蔵書はなかった。

そこで、本文にある、「企業」を、「隊」とか「組織」に読み替えると、実に汎用性が高い「読本」になるのである。

読みようによっては、時代背景から「任官拒否」や教育内容への批判を想定していたのかもしれないし、中途やらで退官して民間に再就職する際の「再教育」のための「読本」だったのかもしれないけれど、いまのわが国において、このような「幹部教育」はふつうの学校生活でもほとんど実施されていないので、妙に貴重に見えるのである。

もはや、文字通りの「奇書」に相違ないのだが、たった22ページでよくも手短にエッセンスをまとめたものだと感心もするのである。

JRの全体主義

鉄道が先進的技術だったころ、開発独裁の国家として、「鉄道省」を設立したのは、画期的通信システムの「電信」と「万国郵便制度」のための「逓信省」の設立と発想はおなじだったのだろう。

それで、文明社会がかならずおこなう「科学」の導入が、人的機構(組織)をも細分化するのは、科学の本質が「細分化」にほかならないからである。

そうやって、日本交通公社も細分化されて、研究法人としての組織と、旅行エージェントしての組織に細分化した。

それで、あたかも国鉄の営業部隊がJTBのように見えたけど、国鉄が細分化されて「JR各社」になって、JR各社がそれぞれ旅行会社を持つようになったら、今度はJTBが存在意義を失うことになったのである。

なんだか知らないが、むかしのエリート学生がこぞって入社したがった企業が、定年間近になって経営の存在価値が問われることに次々となっているのは、エリート学生の成れの果てともいえるおそろしさを改めて感じざるを得ない。

この人たちは、いったい何を組織内で学んで成長してきたのか?と問えば、あんまり努力せずに過去の惰性で仕事をしているふりをしていたら、とうとう仕事をするとは何か?も忘れてしまったようである。

こんな光景が見えているのに、まだ、むかしながらのエリート学生を欲しがる企業とは、いったい何をかんがえているのか?と問えば、そんなむかしながらの自称エリートが幹部だったりするが、漢字がまちがっていてきっと、「患部」と書くのだろう。

なので、かつての鉄道省が運輸省と国鉄に細分化されて、運輸省が国土交通省に再編されたが、国鉄はJRに再度細分化されて、清算事業団とその他の事業各社になったのである。

ここで、重要なことは、「解雇者がいない」ことなので、細分化のたびに全体は肥大していることなのである。

組織が無駄に肥大化すると、時間をもて余すひとたちが多数生まれる。

これは、あたかも自然現象のようであるが、じつは人為である。
人間は暇だと、ろくなことをかんがえないのだが、厄介なのは、多忙な現場の人材は不足して、閑職にある中間以上の管理職(「マネジメント職」のこと)が、中でもかなりの高級幹部(患部)がとくに肥大化する。

なぜかといえば、細分化によって「必要」と(人為的に)見積もられた数の幹部候補生を確保するという「採用活動」が行われるからである。

しかし、こうした見積もりが甘いのは民間企業も同じで、それをむかしは「窓際族」と呼んでいた。
このいい方とその立場は、比較的低位の管理職だったので、実害が少ない分悲哀に満ちていたものだ。

しかし、細分化の恒常化が、低位の管理職だけでは賄いきれなくなって、とうとう幹部全体が「閑職」となるのである。

こんな組織は、「有職故実」による管理が行われるのだが、たまに、余計なお世話をしだす閑職が「鶴の一声」を演じることがある。

たとえば、北陸新幹線ができたら、関西(大阪起点)から福井・金沢に行くのがやたら不便になったことがそれである(もちろん逆もしかり)。
敦賀までは在来線特急で、ここで強制的に新幹線に乗り換えさせられるのだ。

一度座席に座ったら、目的地までずっとそのままでいい、という旅ができなくなった。

そうやって、新幹線の乗車率を高める、という数字が出来上がるのは、監督官庁の国土交通省の閑職にも役立つので、乗客の不便を無視してよい。

この意味で、アリバイ路線が、伊豆半島に向かう「在来線特急」の存在で、東京から伊豆急下田までの途中にある新幹線駅もある熱海での強制乗換なく、乗客はいったん乗ったら目的地まで行ける路線としているのである。

つまり、人口で多数の関東人には、関西人の不便がわからないような「配慮」がされている、といえるのである。

まったくの全体主義が、北陸路線で完璧に観察できるようになっている。